春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「フレッシュたちの花見」

2025-04-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250406
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(1)フレッシュたちの花見

 春の花。つぎつぎに咲き誇る季節を楽しみます。
 駅前の河津桜(3月18日)


 我が家の椿(4月2日)咲きすぎ!

 4月に入ると、あちこち新入学の話題が花咲きます。桜の開花宣言が出てから雨の日が続いたりして、なかなか花見に出かけることができないでいました。4月2日も雨模様。お昼頃、雨が上がったかなと見えたので、病院での定期健診に出かけました。

 結果は、数値横ばい。ただし、悪玉コルステロールが急激に数値が悪くなっているので、何を食べたかくわしく聞かれました。お饅頭もチョコレートも遠慮なく食べている私。この悪玉コルステロールは、脂肪やら糖質やら、いろいろなものですぐに数値が悪くなるというので、正直に「まるごとバナナ」というバナナを生クリームとスポンジでくるんだおやつやチョコレート、どらやきなどを食べてきたことを白状すると、「控えてください」と女医さんから叱られました。はい、脂肪糖分、明日から控えます。


 花見だんごも控えるべき中、花の中歩いて通り過ぎました。
 花見散歩は病院近くの大学キャンパス。4月2日は入学式でした。


 11時から学部、14時から大学院の入学式、と看板が出ています。学部生新入生は入学式を終え、親といっしょの記念写真をとりまくっています。2025年度入学式と書かれた立て看板がキャンパスのあちこちに立てかけられており、長い列を作って撮影順番待ちをしています。ディズニーランド方式というか、列の次の順番の人がすぐ前の人たちを撮影する、という方式で写真を取り合っているようすがほほえましい。中国人学生がかなりの数を占めているのではないかとみえましたが、中国人の親世代にこの「次の順番の人がシャッターを押してあげる」という日本式の文化になじめるか、と老婆心。そもそも「列を作って並ぶ」という日本方式さえ、まだ社会に浸透していない地域から来た人たち、このカメラやスマホを次の人に渡して、シャッターを押してもらう、という「新文化」をどのように感じたでしょうか、聞いてみたかったけれど、中国語で質問する能力もないので、見てただけ。


 私も、財布の入ったバッグをベンチにおいたまま、周りの桜を撮影していましたが、バッグを持っていかれるなどという心配をせずに撮影していました。世界では、こんな不用心なことは通用しないと心得たうえですが、ほんとになんていう国かと思います。「手元から離したものは捨てたもの」とみなされて、たとえ5秒手から離しただけでも、ささっと持ち逃げされる、あるいは肩掛けかばんやポケットの財布も、盗まれる状態にしてある品物は、「みんなのもの」という治安の国も多い中、ベンチにおいたリュクサックは撮影を終えて戻って、ちゃんとベンチに残っていました。大学のキャンパス内だから、街中のように監視カメラがあちこちにあるわけじゃないですが、キャンパス内なら安心、という神話がまだ残されています。(実際には、置き引き注意の張り紙が病院の壁にもありましたが。


 成田空港で、鞄を落として中身を床にぶちまけてしまったら、回り中の人がみんなで拾い集めてくれて、なにひとつなくなっていなかった、という体験動画がyoutubeにUPされていたのを見ました。これから先、日本の治安もどうなるかは予測できませんが、のんびり安心気分で花見ができるような地域であるよう、願わずにはいられません。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ふぞろいな版画たち in 国際版画美術館」

2025-04-05 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250405
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩版画の春(7) in 町田市立国際版画美術館

 町田市立国際版画美術館で、ついでに見た「ふぞろいの版画たち」。テーマは「西洋版画のステート」。版画は、ステート(版画の段階や状態)によって、少しずつ見栄えがことなります。
 これは「版画の初刷り二摺、三摺どうちがう」というところに焦点を合わせたものまた、版画作者による「連作」として、色違いのシリーズ、改変などのバージョンが存在します。
 今回は、このステート違いの版画を並べて見る展示です。

町田市立国際版画美術館の口上
 ひとつの版からたくさんの同じ絵を生みだすことができる版画は、書物の挿絵のような何枚もの連続した画面の中に活動の場を見いだしてきました。一連の絵によって様々な物語を紡ぎ、また複製されることでその内容を広め伝えてきたといえます。
 一方で、同じテーマに基づいて制作された「シリーズ(連作)」も、版画家によってまったく異なる姿を見せます。くわえて同じ版から生まれた版画も、経年による版の劣化や、作者自身による版や刷りの改変といった「ステート(刷りの段階や状態)」の違いによって、異なった表情を見せます。さらに現代の版画家たちが、様々な「ステート」そのものを「シリーズ」として発表していることも特筆すべきでしょう。
 本展で紹介する作品は、ひとつの版から生まれ、連作の中で活躍してきた版画だからこそ、持ちえた魅力をたたえているといえるのです。同じに見えたり、似ていたりするけれども、どこかふぞろいな版画たちの魅力的な群像劇をお楽しみください。

 ひとつの版から何枚をすり出すか。たとえば、1975年の横尾忠則「聖シャンバラ」は75点が刷られたことがわかっています。
 数多く刷れば、刻線が薄れてきます。版画にはバージョン違いの作品もあります。同じ原画でも、色違いやボカシ具合の違いなど、バリエーションがさまざまにできる別作品となります。

 刷りと後の刷りが並んでいる作品の場合、私の印象では、やはり初刷りのほうが生き生きしているように感じました。

アルブレヒト・デューラー「ヨハネと七つの燭台」1498


パブロ・ピカソ「ダヴィデとバテシバ」1947リトグラフ 50部プリントされたうち第1ステート           第2~第9ステートのうち
 

 このピカソの版画では、第1ステートから第9まで、それぞれがかなり異なり、同じ原画とは思えません。別バージョン連作という趣でした。

 「ふぞろい」とは。
 現代の印刷では、何万部でも同じ刷り具合のものができますが、版画には初刷りからステート違いでカスレ具合とか、線の太さとか、さまざまなバージョンになります。そんなステートの違いまで楽しめるようになれば版画鑑賞達人なのでしょうが、私にはとてもとても。初刷りのほうが線がはっきりしている、くらいのことしかわかりませんでした。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(昭和期~現代)」

2025-04-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250403
ぽかぽか春庭アート散歩2025アート散歩版画の春(5)日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(昭和期~現代)

 「日本版画の1200年」のつづきです。
 1923(大正12)年の関東大震災から東京復興計画が立ち上がり、社会を変えていきました。都内の小学校は倒壊した木造校舎のあとに地震に備えたコンクリート造りの「復興小学校」が建設され、都心のビルも耐震を取り入れた構造をとりいれました。

 1920年代から版画界には、版画雑誌によって新しいアートを追求しようとする若者が集いました。創作版画誌『白と黒』や『版藝術』には、中国の版画家 も作品を寄せました。

 中国は古代から木版画が制作されてきましたが、蘇州版画など民衆版画が生まれ、日本にも影響を与えました。しかし西洋印刷術が普及すると蘇州版画も衰え、外国版画の影響を受けた木版画が出てきました。

ビアズリー「アーサー王の死」 1893,1894
 

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「脱穀する人」1922 


 魯迅は西洋版画について学び、版画の民衆浸透をはかりました。社会の改革には民衆への啓蒙が必要であり、そのために版画は重要だと考えました。
 ケーテ・コルビッツの版画の紹介もその仕事のひとつ。ケーテ・コルビッツは、保健医師と結婚したのち貧民街に移り住み労働者をはじめ、生涯弱者に寄りそう画材画題で版画を制作しました。

魯迅編集の「ケ―テ・コルビッツ版画選集」1936復刻1981                                  

 古くからあった中国の木版技術は,清代の蘇州版画に代表されるすぐれた民衆芸術を生みましたが,西洋印刷術の普及とともに衰微し,代わって近代に外国版画の影響を受けた新しい木版画芸術が生まれました。魯迅が中心となり、ヨーロッパの版画の画集を出版し,版画の講習会を開くなどして木刻運動を推進。日中戦争中,作家は奥地農村に移住し、農民や労働者に寄り添った画材・画風を確立しました。おもな作家に,力群,古元,李樺,汪刃鋒などがいます。私は、彼ら中国木刻画の作品をはじめてみました。

汪刃鋒「農民の印象1930年代後半~1940年代前半」木版
                頼少麒「民族の呼ぶ声」1936現代版画15集
  

劉崙「前面に障害物あり」1936現代版画15集 胡其藻「悲哀」同
  
 
 日本に留学していた魯迅の帰国後、中国版画界は新興版画運動を起こします。芸術は一部金持ちのものではなく、人民とともに社会を変えていくためのものであるという理念のもとに作品を生み出し、日本との交流も生まれました。しかし、1937年以後、日中戦争が泥沼化し、交流も途絶えます。

町田市立国際版画美術館解説
 創作版画運動が盛り上がると、1920年代から日本各地で版画家のグループが結成され、版画誌が隆盛します。日本留学中にこの動きを知った魯迅は、中国の創作版画ともいえる「新興版画」を提唱しました。版画家・編集者の料治熊太が主宰した創作版画誌『白と黒』や『版藝術』には、中国・広州の若者が1934年に結成した「現代創作版画研究会(現代版画会)」に作品を寄せ、日中版画交流の舞台になりました。しかし1937年に日中が本格的な戦争状態に突入すると、中国の作家は抗日や政治的主題を描く木刻運動に身を投じ、両国の版画交流は途絶えざるをえませんでした。

 魯迅が指導した中国の木刻画、中国新興版画と交流しました。中国との交流が困難になっても、「版画は、農民」・労働者の姿を描き、働く側に寄りそう、という版画界の姿勢は変わりませんでした。
 日本では料治熊太が「白と黒」「版芸術」を創刊し、日本の版画芸術の進展をはかりました。

料治熊太編集の「版芸術」「白と黒」が昭和初期の版画を牽引しました。


 今回、はじめて中国の木刻画の作品を見て、合点がいったところがあります。日中戦争以後、戦下の社会で、日本画家洋画家の中から従軍画家の派遣が行われ、数多くの戦争画が描かれたのに、版画家の戦争画が現在見ることが少ないのはなぜか、という私の素朴な疑問。
 織田一磨や戸張孤雁の版画は、先日近代美術館で見ました。そして「日本画洋画とも戦時下には従軍画家となって戦地へ赴いたり、国内にあっても戦意鼓舞の絵を描いたのに、版画で戦争画を見ないのはなぜか」という素朴な疑問を感じました。

 むろん、版画界にも戦時下の体制はできていました。紙や版画材料は統制下にあり、時局に非協力的な画家は紙も絵の具も手に入れることもがずかしい。しかし、木版画の場合、板も墨も工夫すれば配給によらずとも手に入れられる。自分で作れるからです。1943年には大政翼賛会の一翼として、版画界の統制団体である「日本版画奉公会」が設立されました。会長は恩地孝四郎。本会に属して何らかの国家への奉仕をすることが求められ、オリジナルとしては相撲力士などの版画が刷られましたが、日本画家の肉筆作品を版画化して売り上げを「奉仕」するなどの活動がせいぜいでした。

 邸宅の床の間、茶室、豪邸の壁を飾る洋画。金持ちの家を飾るために描かれてきた日本画洋画です。「戦意鼓舞の絵」と求められれば、アッツ島玉砕もノモンハンも描く。しかし、昭和のはじめから労働者を描き農民を描いてきた版画、また洋画に先駆けて抽象表現を模索してきた版画は、戦争賛美を表現するためには向いていなかった。
 昭和の版画界について知ると、日本画洋画を統率しようとはかった軍部も、版画の統制は難しいと感じたのではないかと思います。

 現代版画は百花繚乱。さまざまな表現が国の内外に開かれています。

浜田知明「初年兵哀歌(歩哨)」1954 上野誠「男(ヒロシマ三部作)」1959             
  

靉嘔「レインボー北斎ポジションA」1970スクリーンプリント            
          横尾忠則「聖シャンバラ火其地」1974シルクスクリーン
   

 1200年の歴史がある日本版画。仏像スタンプからはじまって、横尾忠則の聖シャンバラへ。
 「シャンバラ」とは、地球内部の空洞に存在するとされる理想世界アガルタ王国の首都の名称であり、そこには高度な科学文明と精神社会が存在するとされ、過去には東西の多くの科学者や権力者、探検家がアガルタを捜し求めてきました。横尾はシャンバラ発表当時、「シャンバラの神意と一体化するための瞑想のようなもの」と述べています。仏像スタンプに祈りを込めた仏画からシャンバラまで、像を彫リそれを紙などに写すのは人の祈りの心が反映されているのかもしれません。私がはじめて見た中国木刻画に感じたのも、祈りの心でした。縛られても止まない叫びも静かに心の中に抱え込むのも、祈り。

李樺「吠えろ中国」1935現代版画13集
                   上野誠「ヒロシマ三部作 女」1959
  

招瑞娟(1924-2020)「求む」1960木版

 絵画や版画に何を求めるのか、何を感じたくて私は絵や版画を見るのか。見なくても時間は過ぎていくし、人生は進んでいくのですが、見たいと感じるのも私の属性。あしたも見にいくだろうと思います。(無料美術館へ) 
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本版画の1200年 in 町田市国際版画美術館(その2明治・大正期)」

2025-04-01 00:00:01 | エッセイ、コラム


2020401
ぽかぽかぽかアート散歩>2025アート散歩版画の春(4)日本版画の1200年 in 町田市国際版画美術館(その2明治・大正期)

 町田市立国際版画美術館の観覧つづき。明治以後の日本の版画の歴史をたどりました。

 国際版画美術館の近代版画解説
 明治期の小林清親による「光線画」は、西洋画をヒントに夕日や灯火といった繊細な光の微妙なうつろいを描き、変わりゆく新都会東京に生きる人々を郷愁へと誘いました。
 明治30年代、「自画・自刻・自摺」を理想としてかかげた「創作版画」が登場します。本章で取り上げる戸張孤雁や織田一磨などは、創作版画家の中でも特に浮世絵の伝統を重んじて制作をおこないました。この一方、大正期初めに浮世絵版画の出版体制を継承する「新版画」が渡邊庄三郎によって創始されます。両者は西洋美術に刺激を受け、浮世絵版画を超克する近代日本版画となるのでした。

 明治初期の版画は、浮世絵木版の伝統に西洋画技法をのせて「文明開化」の世を新聞雑誌によって大衆にひろめていきました。役者や美女の姿を写す版画も、江戸の浮世絵とは異なる表現になっているように思います。

 小林清親「東京銀座街日報社」1876(明治6)横大判錦絵


石井柏亭「よし町(東京十二景)」1910(明治43)木版 
                 竹久夢二「治平衛」1914(大正4)木版
    

戸張孤雁「玉乗り」1914(大正13)木版1924出版             
 

織田一磨「愛宕山(東京風景)」1916(大正5)リトグラフ
            織田一磨「十二階(東京風景)」1916リトグラフ
   

橋口五葉「髪を梳ける女」1920(大正9)木版
            小早川清「瞳(近代時世粧)」1930(昭和5)木版
   

萬鉄五郎「ねて居る人」1923(大正12) 恩地孝四郎「母と子」1917(大正6)
  

 山村耕花「踊り 上海ニューカールトン所見」1924(大正13)木版
  

 山村耕花の上海ニューカールトンは、あちこちの展示で何度か見た覚えがありますが、浮世絵の流れからたどると、ほんとうにポップで新しい表現が出てきたのだなあと感じます。モボモガの踊る靴音が聞こえてくるような。
 川瀬巴水などの、浮世絵の流れのなかに新しい表現を盛り込んだ作品も表現されました。

川瀬巴水「霧之朝(四谷見附)」1932(昭和7)



 昭和に入ると、新しい版画運動が起きてきます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2025年3月目次」

2025-03-30 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250330
ぽかぽか春庭2025年3月目次

0301 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記春よこい(1)毎日芸術賞授賞式 in 椿山荘
0303 2025二十五条日記春よこい(2)霧の中 in 椿山荘
0304 2025二十五条日記春よ来い(3)パソコンスマホシルバー講習会

0306 ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(1)ブラックジャック展 in そごう美術館
0308 2025アート散歩あるいて探す春隣(2)動物の文様 in 文化服飾博物館
0309 2025アート散歩あるいて探す春隣(3)紙の上のスタイル画 in アクセサリーミュージアム
0311 2025アート散歩あるいて探す春隣(4)Curation fare Tokyo展 in 九段ハウス
0313 2025アート散歩あるいて探す春隣(5)ファンタジーの力展 in 龍子記念館
0315 2025アート散歩あるいて探す春隣(6)メキシコへのまなざし展 in 埼玉県立近代美術館

0316 ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩お茶室は遠い(1)茶道具取り合わせ展 in 五島美術館
0318 2025アート散歩お茶室は遠い(2)細川家の日本陶磁―河井寬次郎と茶道具コレクション in 永青文庫
0320 2025アート散歩お茶室は遠い(3)花器のある風景 in 泉屋博古館

0322 ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩テンペラ画(1)復元模写テンペラ画受胎告知 in 目黒区美術館
0323 2025アート散歩テンペラ画(2)美しきシモネッタ

0325 ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩版画の春(1)南桂子展 in ミュゼ浜口陽三
0327 2505アート散歩版画の春(2)版画 in 東京近代美術館
0329 2025アート散歩版画の春(3)日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(古代~江戸期)

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ぽかぽか春庭「日本版画の1200年 in 町田市立版画美術館」

2025-03-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


ぽかぽかぽかアート散歩>2025アート散歩版画の春(3)日本版画の1200年 in 町田市国際版画美術館(その1古代から江戸まで)

 3月第4水曜日は、町田市立国際版画美術館の65歳以上高齢者無料観覧日ですから、「日本版画の1200年」観覧に出かけました。JR町田駅前から、シルバーディに運航するシャトルバスが発着しています。路線バスで行くと、一番近いバス停からも延々歩かなければならず、一度で凝りました。地図上では、一般の人ならバス停から10分以内に美術館に着くというのですが、私の足では15~20分くらい歩いた記憶があります。
 
町田市国際版画美術館の口上
 町田市立国際版画美術館(東京都町田市原町田4-28-1)は、2025年3月20日(木・祝)から6月15日(日)まで「日本の版画1200年―受けとめ、交わり、生まれ出る」展を開催します。本展では、日本現存最古の印刷物である無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)から、仏教版画、絵手本や画譜、浮世絵、創作版画、新版画、戦後版画、現代版画へと連なる約240点を当館収蔵品から厳選して紹介。私たちが「伝統」、そして「芸術」として考える版画はどのように生まれ、どこへ向かうのでしょうか。この春、「日本の版画」1200年の旅に出かけませんか。
 16世紀から、イエズス会士はキリスト教布教のために中国へ渡り、西洋の文物を伝えます。《康熙帝御製耕織図》では西洋画から学んだ透視図法が用いられる一方、《蘇州景 新造萬年橋》には西洋画を消化した独自の遠近表現が見られます。同じ頃、に大陸では画譜出版文化が隆盛を迎えていました。日本では舶来の画譜を基にした独自の版本が次々に制作されました。本章では狩野派や南蘋派の画譜も紹介します。。

 2階の企画展示室。「日本版画の1200年」は、仏教文化が盛んになった天平時代から始まります。
 天平宝字八年、称徳女帝の命によりつくられた法隆寺百万塔、無垢浄光大陀羅尼経。陀羅尼は世界で最も古い印刷物のひとつです。(刊行年代が明確になっている世界最古の現存印刷物であって、年代が確実でないが、さらに古いとされる印刷仏典は韓国の仏国寺が所蔵)。

 『無垢浄光大陀羅尼経』 は、中国唯一人の女帝武則天が漢訳を命じ、日本へは天平7~9年に舶来。今、再視聴していて2度目も面白く見ている「武則天」で、武媚娘は権謀詐術の宮中を巧みに生き抜き女帝に上り詰めますが、権力維持にも必要だった仏教護持について、ドラマでは唐二代目皇帝の妃が仏像に祈っている姿は出てきますが、武才人と仏教のかかわりは薄い。
 日本でも、聖徳太子以来仏教の国家鎮守頼みは続き、聖武天皇は大仏を建立。聖武の娘である称徳天皇も権力維持に仏教を利用しました。称徳女帝は、日本史上、出家後僧体のまま天皇になった唯一の天皇です。仏典は称徳帝の権力の象徴でした。 
 今回、はじめて百万塔と陀羅尼経を見ました。


 木版で仏像を彫り、それをスタンプのように紙に多数押した「印仏」の現存する最古のものは、平安時代に見られます。(東博所蔵)

 毘沙門天立像印仏1162(応保2)


 平安後期から鎌倉室町期には、印仏のほか摺仏’(すりぼとけ・しゅうぶつ)が盛んにつくられました。板木を彫り、紙を当てて上からこすり像を印刷する。仏像の胎内に収めるための胎内仏です。版画のイメージとしては、印仏より摺仏のほうが現在まで伝わる版画のイメージに近い。

 墨の刻印の上から手彩色をほどこした「地天像-室町時代の与田寺版十二天像の一つ)墨摺手彩色。 

 遣隋使遣唐使の時代から幕府が海外貿易を独占した江戸期まで、中国からの版画は絶えず日本へもたらされてきました。ことに中国の清時代、蘇州版画の影響は大きいものでした。中国では春節を祝うための「年画」と呼ばれる一枚絵を飾る習俗があり、蘇州版画は西洋画の遠近法などをとりいれた新しい表現を発展させました。

 16世紀から、イエズス会士はキリスト教布教のために中国へ渡り、西洋の文物を伝えました。透視図法などを取入れ、中国独自の技法も加えて遠近を表現しました。また中国の万物百科図譜では西洋画から学んだ透視図法が用いられる一方、西洋画を消化した独自の遠近表現が見られます。中国の画譜出版文化が隆盛を迎え日本でも舶来の画譜を基にして和刻の版画が刷られ、さらに独自の版本が制作されました。

 王概(編)「芥子園画伝(和刻)」1753(宝暦3)
 
 
 日本独自の画譜 
 建部凌岱『海錯図』1775(安永4) よりアカエイの図。
  

 蘇州版画などの中国版画、またオランダからもたらされた洋画を見ることによって、日本の浮世絵やその他の絵画の技法が発達していきました。
 
 司馬江漢(1747-1818)は、、日本で初めて腐蝕銅版画を制作しました。蘭学者として世界地図や地動説などを説く刊行物で西洋の自然科学を紹介しました。清人画家宋紫岩に学んだ宋紫石(楠本幸八郎 )の洋画法や南蘋派(沈南蘋 の画法)を学ぶ。平賀源内『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)全6巻のうち第5巻「産物図会」の挿図を手がけ、『ヨンストン動物図譜』を模写し、和刻の図譜を普及させました。

 司馬江漢「不忍池」1784 銅版画手彩色


 葛飾北斎「諸国瀧廻り相州ろうべんの瀧」1833(天保4)
               歌川国芳「唐土二十四孝 大舜」1848-50
  

 浮世絵が百科楼蘭に開花した江戸後期、さまざまな浮世絵が版元蔦屋重三郎西村屋与八須原屋市兵衛などの版元によって刊行されていきました。

 幕末期から明治初期、大判錦絵で描かれたひとつは、彰義隊の姿。徳川幕府の末期に殉じた若者の肖像でした。人物は出版禁止をはばかり、すべて歴史上の人物に置き換えられています。駒木根八兵衛は、島原の乱に耶蘇の味方として参戦した砲術使い。正面を見据える人物像は、これまでの版画に描かれたことのない構図です。

月岡芳年「魁題百撰相 駒木根八兵衛」1868(慶応4)大判錦絵


 浮世絵が西洋の画家とりわけ印象派に大きな影響を与えたことはジャポニズムとしてよく知られていますが、

 東京近代美術館の戦争画を見て、「版画の戦中」はどうだったのかという疑問を持ちました。今回の版画の歴史を縦覧して、自分なりに納得できる理解がありました。明治期から昭和までの版画について、次回。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「版画を見る in 東京近代美術館」

2025-03-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250327
ぽかぽか春庭アート散歩>2505アート散歩版画の春(2)版画 in 東京近代美術館

 常設展の展示が年間を通じてほとんど変化がない他の美術館に比べ、所蔵点数の多い東京近代美術館は、季節ごとの企画展示のほかかなり大きな展示替えがあり、いつ常設展に出かけても新しい品に出会えます。
 3月22日、丸紅ギャラリーに出かけた日に、シモネッタ講演会が始まる前の時間に近代美術館をのぞきました。皇居に面した毎日新聞社の西側が近代美術館で、東側が丸紅ビル。常設展は65歳以上いつでも無料。

 今回、新収蔵品のうち、織田一麿の版画がまとまっていました。
織田一磨「感覚」1920 リトグラフ 「新宿ステイション」1930 リトグラフ
 
織田一磨「シネマ銀座」1929 リトグラフ 「銀ブラ」1929リトグラフ
 
織田一磨「人形売り少女」1929リトグラフ


 これまで未見の版画も多数展示されていました。駒井哲郎や恩地孝四郎はしっていましたが、清宮質文の版画は初めて。

清宮質文「葦」1958木版     「蝶」1963-64木版 
  
清宮質文「九月の海辺」1970木版   「深夜の蝋燭」1974木版
 
清宮質文「秋の夕日」1976木版    「夕日のとり」1985木版
 

 駒井哲郎「足場」1942銅板     「ゆがんだ室内」1970銅板
 
駒井哲郎「飛んでいる鳥と木の葉」1961銅板
 

恩地孝四郎「抒情あかるい時」1915 「サティ・小曲による抒情」1933木版   
恩地孝四郎「あるヴァイオリニストの印象 諏訪根自子像」1946


 美術界に詳しくなく、研究者の論考もわかっていない素人なので、近代美術史において、版画のほうが油絵などより先端的な表現を追っていたように見えるのはなぜだろうと思います。雑誌や新聞のイラストなどの仕事を請け負っていた版画のほうが、表現したいことを表現できたのか。ガッチガチの日本画洋画界では、大御所審査員らの意向を無視した前衛表現は公募展に入選しにくく、入選しないと売れる画家にはなれない、という仕組みががっちり出来上がっている。一方版画には自由な表現が存在しえた、っていうところなのかなあと思います。素人が考えても埒開かないが、らちもないことを考えてると楽しい。

 今回のコレクション展にも、米国から無期期限貸与されている戦争絵画が第5室に展示されていました。藤田嗣治宮本三郎小磯良平向井順吉らの特大画面の戦争画が並んでいます。日本画洋画の画家たちが日中戦争以後「戦意高揚」の絵を描くよう要請されてきたのに、版画家たちの戦争協力版画は見たことがありません。戦時の協力体制は「日本版画奉公会 」が知られており、原画、彫り師摺り師らが所属していました。日本版画奉公会所属の彫り師摺り師は、川合玉堂、鏑木清方、上村松園らの肉筆画を版画として複製し、戦艦献納のための版画を作成しました。

 戦時色が強まる中、日本版画奉公会が発足すると、恩地孝四郎は理事長に就任。報公会は、各地で慰問版画展を開催するほか、大東亜会議に参列した代表の肖像なども手掛けました。献納版画は国粋版画と呼ばれ、描かれた主題は幕末の志士や国技(相撲、剣術など)の勇ましい姿、各地の護国神社の姿などが選ばれました。たとえば、奥山儀八郎「古式三段構之図」には、力士が描かれています。

 彫師と摺師の手を 経た伝統木版による作品のほとんどは、空襲による消失のほか、敗戦とともに処分されたものが多く、残された作品が少ない。1点ものの絵画に「保存すべき」というが思いが寄せられたのに対して、版画には「アート作品として保存すべき」という意識が薄かったのかと思います。

 戦争協賛絵画がGHQ接収となったのち、近代美術館に貸与され、私たちの目にも触れるのに対して、版画は東京大空襲によって版木の多くが失なわれたことに加え、戦後の混乱期に多くが廃棄されたとされています。

 恩地らの版画は、戦前から抽象的版画表現であったため、戦意高揚にはむかなかったことが、幸いしたのか、戦後、恩地はGHQの覚えめでたく抽象表現の発展につくします。洋画界日本画界は、戦時協力の罪を藤田嗣治一身におわせ、他の画家たちは戦後社会を生きぬいた。一方恩地らは戦後版画を牽引し、国際社会へもはばたいていきます。

 日清日露の戦役では明治浮世絵を中心とする挿絵や版画が新聞挿絵の中心となり国民に戦争を知らせる媒体となったのと比べて、写真出現のあと、版画は「戦意高揚」のメディアに沿わなかった。画家たちが積極的に戦争協力に組み込まれていったのに、版画家たちの動きがにぶかったのはなぜか、知りたいです。

 今回の近美の常設展、ほかにもこれまでみていなかった作品が多数展示されていました。今回は丸紅ギャラリーの講演会の時間までの時間調整で訪れたので観覧時間が十分でなかったので、今回のコレクション展また来たいと思います。

<つつく>
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ぽかぽか春庭「南桂子展 in ミュゼ浜口陽三」

2025-03-25 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250325
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2025版画の春(1)南桂子展 in ミュゼ浜口陽三

 私は、ねたみひがみそねみやっかみで生きているため、非常に心が狭い。画家についても、幼少期から才能豊かで裕福な実家の金で美術学校に進学し留学後は悠々の画家生活。絵を売らなくてもよい経済の中、一生を優雅に暮らした、というような幸運な画家に点が辛い。日本の洋画家でいうと、黒田清輝の絵、黒田記念館で何度見ても、感激して涙ながすこともない。ああ、これが明治洋画壇の権力者の絵ね、という目で見てしまうひねくれ者。

 ラッキー度からいうと、浜口陽三も黒田の次くらいに幸運なアーティストのたぐいだ。ヤマサ醤油創業者の家に生まれ、実家の商売が千葉県銚子で順調に発展する過程で金に困ったことはない。戦時中、軍の仏語通訳として従軍したが、通訳だから前線で苦労したといこともない。
 メゾチント版画技法の復興者として高く評価され、作品を売らなくても生活できたから、版画作品は、吉祥寺美術館に寄贈され浜口陽三室に展示されているし、ヤマサに残された分は「ミュゼ浜口陽三」が年に何回か入れ替えをしながら展示している。

 家庭的にも幸福で、妻の南桂子も夫と伴走する版画家。南桂子は両親をあいついで幼いころに亡くして、親戚に育てられたが、大叔父は高峰譲吉、父は帝大卒、母はポン女出の歌人、という家系。大地主の財産を受け継いだ親戚の間に育ち、一度目の結婚で息子をなすが、34歳のときに息子をつれて上京(円満離婚の末なのか出奔なのかはわかりませんが)。

 戦後、版画を学び、浜口陽三のパリ滞在によりそい、パリで同居。のち正式に入籍。銅版画アクアチントで評価を得る。夫の死後4年たった2004年、93歳で死去。南桂子も生前から高い評価を受け、夫とともに歩んだ幸福なアーティストのひとり。

 どうも、私はカミーユ・クローデルとか、シュザンヌ・ヴァラドンとか、「苦労しましたね」 の中で作品を残した女性にこころひかれてしまう。
 南桂子の作品、女の子や小鳥をいいな、と思うし、南の版画の絵葉書30枚セットというのも買ったけれど、「不幸好き」な私には、「小さな版画でもいいから、ぜひ本物が欲しい」というところに心が動かない。

 私が心惹かれる女性画家のひとり。セラフィーヌ・ルイ。2016年にYOKOちゃんとアート散歩したときの東京都美術館ポンピドーセンター展 で、はじめてセラフィーヌ・ルイの絵を見て感激しました。正式な美術教育を受けていないアールブリュットの画家で、家政婦をしながら台所や野原にあるもので絵の具を作って絵を描き続け、後半生は精神を病んで精神病院ですごした女性画家です。細かいモチーフを画面いっぱいに埋める画風は、草間彌生に似ています。
 2008年制作の伝記映画『セラフィーヌの庭』もまだ見ておらず、DVDもないようですが、いつか見たい。 

ミュゼ浜口陽三の口上 
 近年、静かに人気が広がっている銅版画家・南桂子( 1 9 1 1-2 0 0 4 )の展覧会を開催します。
 南の作品の中には、見おとしてしまいそうな雲や舟や鳥が静かに佇んでいます。どの絵にも同じかたちは一つもなく、それぞれが作品世界をつくる大切な要素です。ひとつひとつの小さなモチーフが、満ち足りた空間で永遠に過ごしています。ぽつんと浮かぶ雲は、見知らぬ国を颯爽と旅するようにも、そこに留まりじっと何かを待っているようにも見えます。自由や孤独-雲の見え方は人によって違うかもしれません。
 どこまでも広がる澄んだ空に想像力をのせてご鑑賞ください。
  南作品は銅版画を中心に、リトグラフや油彩も交えて約50点、浜口陽三約10点の構成です。

 2月21日に、南桂子展を観覧した理由のひとつが、ワークショップ参加です。銅版画の簡単な作品制作を手ほどきしてくれるというので、手作り大好きな娘にすすめて参加申し込み。残りひとりの参加枠というので、娘が予約し、私は1時間のワークショップの間、のんびりすごしました。娘が東急ハンズの手作り講座に凝って毎月参加していた時期があって、そんな折は東急ハンズや隣の高島屋の中をぶらぶらしたのですが、久しぶりのぶらぶらタイム。

 南桂子の版画は、1階と地下1階に展示されています。私が持っている絵葉書30枚セットで親しんだ絵柄もあるし、初めて見た版画もありました。
 かわいらしい鳥や魚、女の子をモチーフにして、絵本挿絵にぴったりのメルヘンチック。女の子の大きな目が何も見ていない、見ようとしていないので、こちらが少し不安に思うときもあるけれど、夢を見ているのだと思うことにして会場を一巡。

 かわいい鳥や花が多い中、南桂子にしてはちょっと変わったモチーフがハシビロコウ。上野動物園西園に、24時間じっと立ったまま動かないハシビロコウがいますが、南はどこでこの鳥を目にしたのでしょうか。
「異国の鳥」


 花のある木

 
 銅版画講座の参加者は4人ひとくみ。小学生の女の子とお母さん。他のワークショップでの銅版画経験者という女性、そして娘。ものつくり大好きな娘は真剣に講師の説明を聞き、慎重に作業をつづけていました。最後の工程は、ハンドルをまわして紙に転写する作業。小さな紙に1時間精魂込めて銅板に色をつけた作品が完成してでてきました。
 小さな紙片ですが、自らの手で作り上げた参加者にとっては、大きな作品。むすめも、とても楽しそうに参加していたので、ワークショップのお知らせを見つけて娘にすすめた甲斐がありました。

 印刷機を回して作品を完成させる


 銀座日本橋を周行している無料地域バスがあることは、三井美術館や三越のイベントを見に来た時知っていましたが、乗ったことがありませんでした。ミュゼ浜口陽三の向かいのロイヤルホテル前に「ちいバス」停留所があると、娘がネットチェック。ちいバスで日本橋二丁目へ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「美しきシモネッタ」

2025-03-23 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250323
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩テンペラ画(2)美しきシモネッタ

 何度か丸紅ギャラリーを訪れていますが、このギャラリーの目玉所蔵品である「美しきシモネッタ」は、パネル表示で展示されているだけで、本物は見たことありませんでした。なにせ日本にあるボッティチェリの唯一の作品です。唯一無二の大切な作品ですから、大切に所蔵されていることはわかるのですが、たまには展示してほしいなあ、と思ってきました。2022年のギャラリーオープン記念展で一般公開されていますが、私は初めてです。

丸紅ギャラリーの口上  
 本展はは本展は、東京国立近代美術館で例年開催される「美術館の春まつり」と連携し、丸紅が所蔵する日本で唯一のサンドロ・ボッティチェリのテンペラ画《美しきシモネッタ》(以下、「本作品」)を特別公開するものです。モデルとなった夭折の美女シモネッタ・ヴェスプッチは、《プリマヴェーラ(春)》や《ヴィーナスの誕生》のモデルであったといわれ、「フィレンツェの春」あるいは「ルネサンスの春」の象徴的存在でもありました。
開催背景
 2025 年はボッティチェリの研究で世界的に知られる矢代幸雄氏の没後 50 周年にあたり、奈良県の大和文華館でもほぼ同時期に「特別展 没後 50 年 矢代幸雄と大和文華館-芸術を愛する喜び-」が開催されます。さらに 2025 年はシモネッタが登場する小説『春の戴冠』の著者である辻邦生氏の生誕100 年にもあたり、本展はそれらの記念年に呼応する形で開催するものでもあります。
展示内容
 本作品の公開は、丸紅ギャラリー開館以降、2022 年に開催した「開館記念展Ⅲ ボッティチェリ特別展《美しきシモネッタ》」以来 2 度目となります。前回に続き、本作品の来歴をたどるとともに、他のシモネッタの肖像画との比較、本作品の科学鑑定など、さまざまな角度から作品の魅力を紹介します。

ボッティチェリとシモネッタ
 「美しきシモネッタ」を描いたのは、サンドロ・ボッティチェリ。15世紀イタリア・ルネサンス期の盛期を代表する、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの先達となった画家です。ルネッサンス期を代表する大作「ヴィーナスの誕生」「プリマヴェーラ(春)」は世界中で知られています。

 シモネッタ・カッタネオ・ヴェスプッチ ( Simonetta Cattaneo Vespucci, 1453-1476)は裕福な商家に生まれ、15歳で、マルコ・ヴェスプッチ(探検家アメリゴ・ヴェスプッチの遠縁にあたる)と結婚しました 。フィレンツェ屈指のメディチ家のジュリア―ノが愛した美女としても知られましたが、肺結核のため24歳でなくなりました。
 ボッティチェリのほか、ピエロ・ディ・コジモらが肖像画を残しています。

  展示会場には、ただ1点。

 
 14時から記念講演会を聴講。事前に申し込みをしてあり、前から3列目に着席。講演者は、丸紅ギャラリーの杉浦勉館長と比較文化学者である稲賀繁美氏。稲賀氏は矢代幸雄(1890-1975)についての研究書を2022年に上梓。2025年は矢代の没後50年。そして「春の戴冠」でシモネッタ・ヴェスプッチを登場させた小説を執筆した辻邦生生誕100年に当たる記念年にあたる、ということから今回の講演が開かれました。

 杉浦は、「春の戴冠」の文章を映し出して一部を朗読して、辻の表したフィレンツェを紹介。私は辻邦生が大好きで、彼の前半期の小説もエッセイもほとんどを読んできたのに、「春の戴冠」は文庫で4巻という長さに「仕事リタイア後にとっておく本」にしていました。小説はラストまで一気読みにするので、翌日に仕事に出なければならない長編は「とっとく本」でした。もうリタイアしたんですから、読みます。
 
  杉浦氏のお話は、矢代の留学時代や戦後の美術論についてくわしく、ボッティチェリ研究やシモネッタについての論考ではなく、矢代の比較美術論考の功績紹介が主な講演内容でした。ぼうっと見て回るだけの私なので、松浦屏風(婦女遊楽図)をサントリー美術館で見たはずですが、おう国宝じゃな、と思って見ただけ。杉浦氏は作者不詳の遊楽図について「私の勝手な想像ですが、描いた画家は、キリシタン禁制直前のキリシタン画家だと思います」など、独自の視点で解説され、興味深かったです。
 シモネッタの絵自体の話も知りたかったですけれど。

(パネル展示)シモネッタ肖像の比較  ボッティチェリが描いたシモネッタ別の絵
  

 講演後に受講者は入場無料になるギャラリー観覧。狭いギャラリーなので、前回前々回に観覧したときもひとまわりするとあっという間に出口でしたが、今回は、とにかく展示されている絵は「シモネッタ」ただ1点。あとは、さまざまなシモネッタをめぐる解説パネルでした。シモネッタが身に着けているネックレスのルビーや真珠エメラルドの話、科学調査による真贋鑑定のようす、他のシモネッタをモデルにした肖像画との比較などのパネルをひとつひとつ読んでいきましたが、16時には出口へ。

 値段で美術鑑賞するHAL、もし講演とセットでなく、入館料500円払って入場したなら、「1点だけの展示。コスパ、悪っ!」と思ったかもしれません。美しいものを見て心の保養ができたんだから、いいよねとつぶやきながら、皇居の石垣の美しさをめでながら大手町駅へ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「復元模写テンペラ画受胎告知 in 目黒区美術館」

2025-03-22 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250322
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩テンペラ画(1)復元模写テンペラ画受胎告知 in 目黒区美術館

 目黒区美術館は、ワークショップ開催が目玉事業のひとつです。そのひとつとしてテンペラ画修復の講座を開いてきました。講師としてイタリアでテンペラ画修復を研究した石原靖夫を招き、修復家を育成しました。今回の展示には、講座から巣立った修復家の模写作品も展示されていました。

 テンペラ画ときいて、え、天ぷら画と思った方、正解です。語源はいっしょ。戦国時代末期、南蛮文化として天ぷらが入ってきました。天ぷらはポルトガルの粉を混ぜ合わせてつけ、揚げた食べ物。コナもんです。テンペラは粉末顔料(液体もある)を、結合剤とまぜ合わせ練って作った絵の具。コナもんです。たとえば、ラピスラズリの石を細かく砕いて粉状にして、卵黄と混ぜあわせて青い絵の具をつくる。中世において、ラピスラズリは同量の金と同じ値段だったという貴重品。油絵具と異なり、数百年たっても退色が少なく、保存状態のよいテンペラ画は、鮮やかな色を保っています。教会の奥深くの祭壇画や天井画は、絵の具を傷める紫外線からも遠いのですが、ときに絵が痛めつけられることもある。近年の被害では1960年のフィレンツェ大洪水です。地域の教会も図書館も水につかり、大きな被害をうけました。

 絵画や羊皮紙写本の修復はイタリアのみならず、世界遺産にとっても大事な仕事です。ちなみに、羊皮紙という印刷媒体のほとんどは牛皮紙なんだって。羊皮より牛皮のほうが写字に向き、羊皮紙は表紙装丁に使われるくらいで、字を写し取るのは牛皮だったとは、知りませんでした。

 シエナ大聖堂の側祭壇画であった「受胎告知」を復元模写したのが、1970年にイタリア給費留学を果たした石原靖夫です。修復技術の研究ののち、試行錯誤を繰り返しながらこの受胎告知を6年の歳月をかけて復元模写しました。 
 
 今回観覧したのは、「中世の華・黄金テンペラ画 - 石原靖夫の復元模写
チェンニーノ・チェンニーニ『絵画術の書』を巡る旅 」という、石原靖夫の仕事の集大成です。2月23日に観覧。15時-18時の講演会を聴講。

撮影OKの復元模写されたテンペラ画祭壇(本物は、左右に聖人の絵がある三連祭壇画です)


 目黒区美術館の口上
 目黒区美術館では、これまで、画材や色材をテーマにした展覧会とワークショップを継続的に開催してきました。その一つ「色の博物誌」展は、通常の展覧会では紹介されることが少ない、絵画などの表現を構成する色材とその原料、エピソードなどを取り上げ、作品と組み合わせて構成した企画です。また、古典的な技法や絵具制作の再現などをワークショップで行い、人と色材のかかわりという新たな切り口を提示してきました。
 この度の展覧会では、1992年からの「色の博物誌」展とともに開催してきたワークショップ「古典技法への旅」から、“中世の華” とも表すべき黄金背景による「テンペラ画(卵黄テンペラ)」の技法を取り上げます。
 金箔を背景に、顔料を卵黄で練って描き上げていくこの技法では、金箔に見事な装飾技法が施され、その表現は工芸的な魅力にもあふれています。この黄金背景を伴うテンペラ画は、主にイタリア14世紀から15世紀前半に発展しました。
 石原靖夫(1943ー )は、1970年にイタリアに渡り、黄金テンペラの技法を学び、6年の歳月を、ゴシック期シエナ派の画家シモーネ・マルティーニ(1284頃ー1344)の代表作《受胎告知》(1333年、ウフィツィ美術館蔵)の技法研究に費やし、ローマ滞在中に復元模写を完成させました。1978年の帰国後、すぐに東京都美術館で展示と講座が組まれるなど注目を集めました。目黒区美術館では、1992年の「色の博物誌・青―永遠なる魅力」展において、この復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》を展示し、聖母マリアのマントに使われたラピスラズリの青について取り上げました。石原靖夫と目黒区美術館の関係はこの時から始まり、2019年3月までに専門家向けの内容でワークショップを7回開催し、テンペラ画という古典技法の普及に努めてきました。
 ジョット・ディ・ボンドーネ(1265頃ー1337)に代表される当時の工房で行われていた絵画技法が記された書物が、チェンニーノ・チェンニーニ著 "Il Libro dell' Arte" です。この翻訳版、『チェンニーノ・チェンニーニ 絵画術の書』(岩波書店 1991年)(以下、『絵画術の書』)は、目黒区美術館での石原靖夫によるワークショップで重要な教本となっています。チェンニーニの手稿は1400年頃に成立されたと伝わり、現存する3つの写本をもとに訳された本書は、イタリア美術史家の辻茂の技法史研究により長い年月をかけて日本語訳として完成されたもので、シモーネ・マルティーニの《受胎告知》を復元模写した画家 石原靖夫と、イタリア語に精通する美術史家 望月一史がその翻訳に加わりました。その後、石原はこの『絵画術の書』を、画家としてさらに読み込み、絵画制作にあたっての技法研究を深化させてき ました。
 本展では、石原が1970年代に制作した復元模写《シモーネ・マルティーニ〈受胎告知〉》とその制作に関する周辺資料、そして、その後の研究をもとに今回新たに制作した「制作工程」と、その手順を収録した動画を展示します。石原が行ってきた、絵画制作の基礎から金箔の置き方、刻印、彩色、緑土を用いる肌の描写などを、『絵画術の書』 が伝える技法に触れながら紹介し、日本の美術館では展示されることが少ない「テンペラ画」の技法と表現の魅力に迫ります。」
 石原 靖夫  ISHIHARA Yasuo略歴
 1943年、京都生まれ。東京藝術大学油画科を卒業後、1970年9月、イタリア政府給費生として渡伊。ローマ国立中央修復研究所(Instituto Centrale del Restauro)でジュリアーノ・バルディ教授に師事し、シエナ派の黄金テンペラを研究する。1972年からローマの国立古典絵画館(Gallerie Nazionali di Arte Antica)の客員として、シモーネ・マルティーニ作《受胎告知》(1333年) の復元研究模写を行う。1978年に帰国し、東京都美術館、日本イタリア京都会館で同作品を公開。現在は、テンペラ画の普及に努め、卵黄テンペラ技法によりイタリアの風景をテーマに、個展を中心に発表を続けている。

テンペラ画とは
 現在日本では、「テンペラ」は、主に卵黄で顔料を練った絵具で描く技法や絵画のことをさしています。テンペラ(tempera)は、ラテン語のtemperare(かき混ぜる)から派生したイタリア語で、絵画においては結合剤、または粉末の顔料を練り合わせる、という意味を持ち、18世紀頃までは卵以外にも、膠、アラビアゴム、カゼインなどで顔料を練った水性絵具の総称として用いられていました。テンペラ画はフレスコ(壁画)と同様に古くからあり、特に中世の写本やルネサンス期にかけての板絵祭壇画などに優れた作品が多く見られます。卵黄テンペラは乾きが速く、耐久性に富み、明るく鮮やかな色を発し、また油彩や膠とは異なる接着特性があります。それゆえ金箔と卵黄との組み合わせにより、多くの装飾技法が生み出されました。

 目黒区美術館に着いたのは12時40分。13時から配布予定の講演会入場整理券めあての列がすでに伸びていました。あわてて最後尾に。配布枚数50枚というけれど、はたして13時には係員が「すみません、50名定員に達しています」と、列に並ぼうとしていた人にお断りを入れていました。13時整理券配布開始と信じてやってきた人、お気の毒に。私は整理券もらう前に観覧を始めようと思って早めに来たので、整理券ゲット。

 1階のイントロダクション展示を見て、13時半から入場開始、14時から16時予定の講演会。前半は森田恒之(国立民族学博物館名誉教授)、後半石原靖夫(テンペラ修復家・画家) という構成のはずでしたが、森田先生、話し始めたら止まらず、何度も係員が「時間オーバー」というボードを示しているのに、止まらない。石原先生の話す時間が短縮されてしまったのは残念至極。私はどちらかと言えば、イタリアで6年を費やして「受胎告知」を修復したお話を聞きたかったのです。しかたないので、図録1600円、買いました。図録も森田先生執筆のページのほうが多かったけどね。いや、森田先生の解説執筆もすばらしかったんですけれど、お話は石原先生にもっと長くうかがいたかった。

 そのかわり、石原先生が、目黒美術館ワークショップ「テンペラ画修復家養成講座」に参加したお弟子さんをひきつれて、展示室の中で修業時代のノートや修復につかう道具類の展示を示して、修行時代の苦労について語っているのを、お弟子さんでもないのに、うしろにくっついて歩き、石原先生の謦咳に接する機会を得ました。

 石原さんは、1972年からローマの国立古典絵画館(Gallerie Nazionali di Arte Antica)の客員として、シモーネ・マルティーニ作《受胎告知》(1333年) の復元研究模写を行い、6年間を費やして完成。
 ひとりの画家の生涯の仕事として、受胎告知の復元模写にたずさわったこと、その技術を惜しみなく後世に伝えるべく、修復家の養成にあたったこと、すばらしい画家人生と思います。

 2階の真ん中の展示室には、石原画伯の作品も展示されていました。イタリアの古くからの街並みを遠景からとらえた写実的な絵です。手前の草原の表現がいいな、と思いました。
を見て、石原のイタリア市街遠景の手前の草原の表現がアンドリュー・ワイエスの「クリスティーナの世界」の手前の草っぱらに似ているなと感じました。ワイエスの画材、はたしてテンペラでした。そうか、この草一本一本の微妙な表現「テンペラ画ならでは」なのか、と表現の秘密の一端にふれた思い。
 石原の描くイタリア旧都の遠景、遠い日の石原の青春の研鑽の日々が画面に感じられる絵でした。

 ちなみに、ギャラリーオークションでは石原作品は5~10万円です。(真作保証付き!)日展などの新入選の絵でも、もうちょい高値がつきそうなものなのに。日本の絵画市場では、〇〇展入選特選無審査とかの箔がつかない作品の値段というのはその程度なのだとしりました。テンペラ画修復技術習得に没頭し、修復家弟子の育成に心くだき、生涯をすごした画家。展覧会に出品をつづけ、会派有力者の弟子になって展覧会入選を果たす、という画家出世コースを歩まなかった画家の作品がどのような評価を市場で付けられるのか、理解しました。
 複製画をどれほど上手に完成しても、画家としての評価は上がらない。コピー、複製と贋作と真作。

 昨今、高知県近代美術館のハインリヒ・カンペンドンクが描いたとされる絵「少女と白鳥」について、ウォルフガング・ベルトラッキの描いた偽物であると美術館自身が発表しました。購入価格は1800万。
 ベルトラッキは、35年間のあいだに約300枚の贋作を作り、約5000万ユーロ(約80億円)以上を稼いだと言われています。裁判で判明したのはそのうちの14枚だけでした。残りの200枚は、今も真作として各地の美術館や金持ちの家に所蔵されています。裁判を経てベルトラッキはたった懲役6年の刑。刑期を終えた今は、夫よりも先に刑期を終えた妻とともに百億円以上の資産を作っており、余生は悠々スイスの豪邸暮らし。しかもベルトラッキのオリジナル新作油絵がオークションに出品され、高値で売れているのだとか。

 私は、「受胎告知」の複製画を見て、「よくぞ立派な複製画を」と感服しましたが、石原の油絵については、ベルトラッキはこの絵のコピーは描かないだろう、と感じました。そう高くは売れないだろうから。ワイエスの贋作は、たぶん描いているだろうと思います。真贋鑑定してみたら、各地美術館のワイエスの何枚かはベルトラッキ作なのかも。

 贋作者ウォルフガング・ベルトリッキは、「むろん金も欲しかったが、私の描いた作品を見て、人々が喜んでいる姿をみるのがうれしかった」と述べています。いくら「真作」と信じた人々が喜んで贋作を見ていたとしても、人をだました罪は最後の審判で裁かれるだろうと思います。と、信じていたい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「花器のある風景 in 泉屋博古館」

2025-03-20 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250320
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩お茶室は遠い(3)花器のある風景 in 泉屋博古館

 2月28日、娘と待ち合わせて、泉屋博古館で「花器のある風景」展を観覧。 
 生けられた花や花器が描かれた絵が展示されていると思って出かけたのですが、展示室1から4まで、絵は数点。あとは山のような花器。一輪挿しも水盤も名器ぞろいの宝の山なのに、あいかわらず「これ、今買うならいくら?」という目しかなくて。

泉屋博古館の口上 
 日本における花器の歴史は、中国より寺院における荘厳の道具として伝来したのがはじまりとされます。室町時代には連歌や茶会、 生花など室内芸能がさかんになり、中国から輸入された唐物と称される書画、調度類や茶道具、文房具を座敷に並び立てる「座敷飾り」が発展します。床の間の飾りには、唐物の花生・香炉・香合・天目などが飾られました。  
 茶の湯の世界でも、清浄なる空間を演出するものとして、花器は重用されました。唐物の金属製の花器をもとに、日本でも中世以降、陶磁器や竹など様々な素材で花器が作られ、日本独自の美意識が誕生します。住友コレクションには、室町時代の茶人、松本珠報が所持したとされる《砂張舟形釣花入 銘松本船》、江戸時代の茶人、小堀遠州ゆかりの《古銅象耳花入 銘キネナリ》などの花器が伝世します。本展では、住友コレクションから花器と、花器が描かれた絵画を紹介します。
 同時開催として、 華道家・大郷理明氏よりご寄贈頂いた花器コレクションも紹介します。あわせてお楽しみください。

 第一室の正面にひときわ大きな花と花器の絵。「春花図」縦2m横2.5mくらいありました。日本画というと床の間に飾る縦長の構図がおおいですし、大作となると巻物。縦横大きい絵はあまり見たことがありません。しまうときは巻き取って箱に収納し、飾るときは上から下げているので、二間幅くらいの幅広の床か仏事の仏前荘厳のために描かれたのか。

 原在中(1750~1837)と原在明(1778?~1844)父子が、花が生けられた花器一対を描き、冷泉為泰(1736-1816 )と為章(1752-1822)父子がそれぞれに賛を描いた「春花図」。右が為泰、左が為章の賛です。
 富貴を表す牡丹の花を活けている花器は唐物で、在中は花器側面の模様を忠実に写しとっているとのこと。 

 次に目をひいたのは、「花卉文房花果図巻」。村田香谷(1831-1912 )の作。左右に長いので、途中で切ってUP.
左側

右側


 村田は江戸後期に生まれ。明治から大正まで関西南画界の重鎮として活躍しましたが、南画という様式の絵画がすたれてしまい、今ではその名を聞いて作品を思い浮かべる人のほうが少ないと思います。私も南画を見ること少なく、村田もはじめて見た名前でした。

 描かれているのは、文人たちが好み楽しんだものを集めた一巻。四季の花々や果物、文房四宝と呼ばれる筆・紙・硯・墨、さらに青銅器や陶磁器、太湖石などが描かれています。金魚鉢に泳ぐ金魚も文人が好んだものとわかりますが、赤い鉢の中に盛られた黄色い果物は何?その右のザクロ左のブドウはわかりますが、見識低い私には、黄色いのは何?その下のかぼちゃや栗、絵のうまさより味のうまさが気にかかる。

 見識低い私は、帰宅するとさっそく「今買うならいくら?」チェックを開始。ネットで「真作」「本物保証」などと書かれている村田香谷が一万円~八万円の値段であることを知りました。ネットの「真作」のほとんどは偽物であることを「なんでも鑑定団」見て知っていますから、買いません。というか、一万円あったら、絵よりも食べ物。最近高くて野菜も米も買えないので、かぼちゃのひとつも買います。近所のスーパー、キャベツ小さなひと玉450円。白菜四半分300円。昨年同季に比べ、コメは1.7倍、野菜は1.9倍の価格では、年金暮らしの老婆には、本物保証はどうでもいいから、生活保証をしてほしい。

 村田香谷、晩年は悠々の隠遁生活をおくり、傘寿の大往生。うう、四半分300円の白菜に手が出ずスーパーを出る75歳婆は、むなしくあすの夕餉を案ずるのみ。 

 ずらりと並ぶ花器の中、江戸期金工の面白い花器がありました。柴を運ぶ牛の花入れ。前足を曲げている姿、「ふう、荷物運んでつかれたよう」とぼやいているみたいな。
 横河九左衛門「柴銅牛型薄端」(大郷理明コレクション


 華道家・大郷理明氏より寄贈された現代鋳造花器や、江戸後期に出版された華道手本の本、見所がありました。

 エントランスホール以外の展示はすべて撮影禁止だったので、上記の画像は借り物です。美術館に所蔵権というものがあり、所蔵者には所蔵者の言い分があるでしょうけれど、著作権が切れていて、写真撮影による劣化の心配はない作品もすべて撮影禁止にするのは、「器が小さい」と感じてしまう心狭き観覧者。住友累代のお宝、大切ではありましょうが、ここはひとつ大きな器となってほしかった。と、お宝を値段で観覧するしか能のない極小うつわに言われても、住友お大尽には痛くもかゆくもないことを承知で言う。住友さん、器が小さい。つうか、三井も三菱も大倉も五島も、お金持ちたちの美術館のほとんどは「器がちいせえ」

<つづく>
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ぽかぽか春庭「細川家の日本陶磁展 in 永青文庫」

2025-03-18 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250318
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩お茶室は遠い(2)細川家の日本陶磁―河井寬次郎と茶道具コレクション in 永青文庫

 河井寛次郎の陶磁作品は、日本民芸館その他で見てきたので、是が非でも見ておかなくちゃということもなかったのですが、2月7日、椿山荘へでかけたついでに、永青文庫へ。

 永青文庫の口上
 熊本藩主であった細川家には、日本の陶磁作品が数多く伝えられています。特に、茶の湯を愛好した細川家では、茶壺・茶入・茶碗などの「茶陶」が残されました。熊本藩の御用窯であった八代焼(高田焼・平山焼)でも茶道具が多く作られています。八代焼は、素地と異なる色の陶土を埋め込む象嵌技法が特徴で、幕府の使者への進物などに重用されました。
 また、永青文庫の設立者である16代の細川護立(1883~1970)は、同時代の工芸作家との交流が深く、大正から昭和にかけて活躍した陶芸家・河井寬次郎(1890~1966)の支援も行いました。寬次郎は、初期に中国の古陶磁をもとにした作品で注目され、後に「民藝運動」の中心人物となり、作風が大きく変化しました。
 本展では、河井寬次郎の作品30点あまりによって作風の変遷をたどるほか、茶道具・八代焼に注目します。河井寬次郎や八代焼を紹介するのは約20年ぶりです。また特別展示として細川護熙・護光の作品を紹介します。この機会に細川家の日本陶磁コレクションの多彩な魅力をご覧ください。

1.河井寬次郎(1890〜1966)の作品を約20年ぶりに大公開。河井寬次郎(かわいかんじろう)は、明治23年(1890)島根県安来生まれ。東京高等工業学校窯業科を卒業したのち、京都市陶磁器試験場に入所し、膨大な数の釉薬の調合や焼成に没頭します。大正9年(1920)に京都五条坂の窯を譲り受け、「鐘溪窯(しょうけいよう)」と名付けました。
 寬次郎の作風は、以下の3期で大きく変化しています。
・初期(大正3~15年頃) 中国や朝鮮半島の古陶磁をモデルとする
・中期(昭和4~23年頃) 民藝運動に参画し、日常の器に「用の美」を見出す
・後期(昭和24~41年頃) 大胆な模様や色釉による造形
 寬次郎は、大正10年(1921)、東京の髙島屋呉服店で初の個展「第一回創作陶磁展観」を開催し、中国や朝鮮の陶磁を模範とした作品を発表しました。翌年刊行した『鐘溪窯第一輯』の序文で、陶磁研究者の奥田誠一(1883〜1955)は、「天才は彗星の如く突然現るるものである」と絶賛しています。細川護立は、第1回の個展に際して帝国ホテルで行われた披露の会に出席しており、寬次郎の作品を入手することで支援していたと考えられます。

2.細川家伝来の日本の茶道具を特集
細川家では、幽斎(藤孝、1534〜1610)、三斎(忠興、1563〜1645)などが茶の湯を愛好したため、多くの茶道具が残されました。特に三斎は、千利休の高弟として「利休七哲」の一人にも数えられています。細川家の茶道具には、「唐物」をはじめとする外国の茶道具も、日本で焼かれた「和物」も残されていることから、その比較を通じて日本陶磁の広がりをご覧いただきます。

3.八代焼を約20年ぶりに展示
八代焼(やつしろやき)は、熊本を代表する焼物です。江戸時代には熊本藩の御用窯となり、幕府の使者への進物などに重用されました。成形した素地が半乾きのうちに文様を刻み、そこに素地と異なる色の陶土を埋め込み、乾燥後に削ることでシャープな文様の輪郭を生み出す象嵌技法が有名です。

河井寬次郎「三彩車馭文煙草筒」1922(大正11)


河井寛次郎「紫紅鉢」1930〜31頃 


 利休の高弟だった細川家のご先祖以来、茶道具の名品を集め続けてきた大名家ですから、代々のお宝もあるし、永青文庫を設立した細川護立侯爵は民芸運動に加わってきた河井寛次郎らをサポートし、河合の作品も多数所蔵しています。
 永青文庫前理事長(元首相)細川護熙とその息子(現理事長)の陶芸作品も展示されていました。

 陶磁器のよしあしがまるでわからない春庭なので、河合の作品もただ「この形、いいね」「いい色に焼きあがっている」という程度しか感じることができないのが残念ですが、見るだけでもお茶の心を少しはつかめるかと、見てきました。見ただけではお茶の心はわからなかったみたい。いつものごとく、この河井寛次郎、買ったらいくらくらいかな、と思いながら見てまわりました。お茶には遠い。残念!

<つづく>
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ぽかぽか春庭「茶道具取り合わせ展 in 五島美術館」

2025-03-16 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250316
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩お茶室は遠い(1)茶道具取り合わせ展 in 五島美術館

 2月11日、休日の午後、いくかどうか迷っていた五島美術館に出かけました。迷っていたのは、茶道具展だったから。どうせ私の目では茶道具の逸品が展示されていたとしても、その美がどうすばらしいのかわからんちんだからです。長年茶道具も見て歩いたはずなのに、一向に目が養われない。やはりお茶を習ったことがないからでしょう。初めてお茶の稽古に出たおり、稽古おわりに「こんな足がしびれて立てないようなことを無理してならうことない」と思ったのが、目を養えなくなったゆえんです。最初の稽古が立礼であったら、もうちょっとお茶道具も見て楽しめるようになったのかも。

 そんな節穴の目でも、いいなあと思う器に出会うこともあります。古伊賀の水差し。

 古伊賀について五島美術館の解説
 桃山時代から江戸時代にかけて、今の三重県伊賀市で焼かれたやきもの「古伊賀」。花生や水指などの茶陶(茶道具)を中心に、茶の湯において愛好されていました。大きく歪んだ形と、碧緑色の「ビードロ釉」、赤く焼きあがった「火色」、灰色のゴツゴツした器肌の「焦げ」など、窯の中で偶然に生まれる景色が魅力です。

 古伊賀水指 「銘 破袋」
 裏側に大きく破れたあとが見えるので「破袋」という銘もうなずけます。雄大な破格の美。 

 茶の湯が日本的美意識の究極の姿だと言われればその通りだと思うのですが、やはりこの先も私には侘びさびの世界からは遠いように思われます。
 農家の庭先で、一家が摘んできたヨモギやドクダミをお茶の葉にして、古びた鉄瓶で沸かした湯をそそぎ、破れ茶碗で一服を味わう。そんな家族のお茶を美味しかろうと思ってしまうと、銘のある水差しや茶碗に重要文化財の書を飾った床の間でいただくのはさぞかし苦いお茶であろうと、飲む前から足がしびれる。

  久隅守景 「納涼図屏風」

 ひょうたん実る棚の下に、妻と子が仕事を終えた夫と寄り添い、夕方の涼を楽しむひととき。一碗の白湯か蓬茶でもあれば、割れ茶碗の一杯が至福の味わいになることでしょう。

 千家をはじめ、茶の湯によって日本の美意識を確立していった人々を尊敬していますが、私にはなんといっても、この夕涼み図の一家が理想です。一杯の茶をふるまってもらえるなら、利休の二畳台目よりも、久隅の夕涼み図一家とともに飲みたい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「メキシコへのまなざし展 in 埼玉県立近代美術館」

2025-03-15 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250316
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(8)メキシコへのまなざし展 in 埼玉県立近代美術館

 久しぶりのMOMAS埼玉県立近代美術館です。昔は北浦和まで自転車で来られるところに住んでいたし、都内に住むようになってからも、週一回は北浦和からバスで通うところで仕事をしたこともあって、そう遠くには感じていなかったのだけれど、今の住まいになってからは、「行けない距離じゃないけれど、出かけるのがおっくうなところ」になってしまいました。今の住まいから気軽に行ける美術館がたくさんあるので、よほど見たい企画展があるときしか訪問しない。

 今回のMOMASの企画「メキシコへのまなざし」展。
 フリーダ・カーロの伝記映画を見て、ディエゴ・リベラなどの名を知り、岡本太郎が描いた壁画がメキシコのホテル解体時に行方不明になったのが発見されて井の頭線渋谷駅コンコースに展示されたことなど、メキシコ美術について知っていることはわずかしかありませんでした。2023年7月にタカ氏といっしょに古代メキシコ展を観覧し、メキシコアート遺伝子の継承についても興味が残っていました。
 埼玉県立近代美術館の口上
 1950年代の日本では、メキシコ美術が展覧会や雑誌を通じて盛んに紹介され、多くの美術家がその鮮やかな色彩、古代文明や革命の歴史と結びついた力強い造形表現に魅了されました。とりわけ、1955年に東京国立博物館で開催された「メキシコ美術展」は、美術家たちがメキシコに目を向けるきっかけとなります。一方、埼玉県立近代美術館は1982年の開館以来、メキシコの近現代美術を収集し、メキシコ美術に焦点をあてた展覧会をたびたび開催してきました。こうした活動の背景には、埼玉県とメキシコ州との姉妹提携締結(1979年)に加えて、1955年の「メキシコ美術展」を訪れ、メキシコ美術への造詣を深めていった初代館長・本間正義の存在がありました。
 この展覧会では、1950年代にメキシコに惹かれた美術家の中から、福沢一郎、岡本太郎、利根山光人、芥川(間所)紗織、河原温の足跡をたどり、彼ら彼女らがメキシコをどのように捉えたのかを考えていきます。また当館のメキシコ美術コレクションとその形成の歩みを、学芸員としてメキシコ美術の普及に努めた本間正義の仕事とともに紹介します。作品や資料、開催された展覧会などを通じて、戦後日本がメキシコ美術に向けたまなざしを、様々な角度から検証する試みです。

 「メキシコへのまなざし」展のキャッチコピーは「あの頃、みんなメキシコに憧れた」です。利根川光人、岡本太郎など、メキシコを中心とする南米地域を訪れ、メキシコ美術に魅了された作品が展示されました。
 埼玉近代美術館開館時の初代館長を務めた本間正義(1916-2001)は、1962年、国立近代美術館員であったときと渡墨して以来、メキシコのアーティストと親交を深め、1985年に埼玉近代美術館の企画として「メキシコの美術」展を開催。
 MOMASのニュースレターを「ZOCALO(スペイン語で広場)」と名付けたのも本間だそう。 

 第1章メキシコ美術がやってきた。
 第2章美術家たちのメキシコ5人の足跡から
 第3章埼玉とメキシコ美術

第1章
 古代メキシコの遺跡に残る造形の力強さに加えて、近代メキシコでの「革命」の精神性は、それまで西欧へ顔を向けてきた日本のアーティストにとって、新しいまなざしの発見と感じられたと思います。

 のちにメキシコ芸術の泰斗となるディエゴ・リベラも、20世紀初頭にはヨーロッパ留学中で、キュビズムの影響を受けた絵を描いていました。1921年にメキシコに帰国し、新しい芸術運動をはじめたリベラの後の作品にもキュビズムの影響は残っていると、福沢一郎は評しているそうです。

ディエゴ・リベラ「スペイン風景トレド」1913



 第1章最初の展示。戦後日本美術界、1950年代にメキシコブームともいえる現象の源となった、メキシコアーティストの紹介です。
 最初のコーナーは、20世紀初頭の新聞や雑誌に載って人々を鼓舞したメキシコの版画作品がならんでいました。
 ホセ・グアダルーペ・ポサダが新聞や雑誌に載せた「エミリオ・サパタの死」は人間の姿で描かれています。マーロン・ブランドがサパタを演じた「革命児サパタ」、昔見たきりなので、アンソニー・クインしか覚えていなかった。脳内変換で、私はクインがサパタを演じたのだと思っていた。

 サパタの盟友、メキシコ革命で活躍し第33代メキシコ大統領になったF・マデラは、「骸骨フランシスコ・マデラ」として骸骨姿に描かれました。
 メキシコの「死者の日」に骸骨姿で死者がやってくる伝統は、「リメンバーミー(COCO)」で世界中の人が知るようになりました。私も、南米からの留学生に死者の日について聞いたときは、日本のお盆の魂迎えのようなものだと思い、COCOの画面に出てくるようなお祭りとは思っていなかったのです。

ホセ・グアダルーペ・ポサダ「骸骨フランシスコ・マデラ」1912


 メキシコの労働者運動は大きなうねりとなり、美術家たちは、「壁画運動」として、公共の建物、学校や役所の壁にテンペラ画を描く活動を続けました。
新聞や雑誌への版画の掲載も続いていきます。

 ホセ・クレメンテ・オロスコ「示威行動」1935


 北川民次(1894-1989)は1914年に渡米。1923年に渡墨。メキシコで美術学校在籍、児童美術学校教師などを経て以後1936年に妻子をともなって帰国するまで、メキシコ壁画運動などに共鳴しつつ制作と美術教育に携わりました。帰国後は日本の画壇主流とはことなる画風ゆえ「メキシコ派」と呼ばれました。児童美術に貢献することを望み絵本製作に携わりますが、戦争激化の影響で紙不足出版制限があり絵本出版も断念。妻の実家のある瀬戸市に疎開し、1943から1968年まで在住し、のちに東京在住期間もありましたが、91歳で没した地は瀬戸市でした。北川作品の多くは名古屋市美術館が所蔵。
 埼玉県立近代美術館は、今展に北川の版画を2点出展していますが、第2章で取り上げる5人の画家との影響関係などについては、特に述べていません。本間正義が収集対象にしていなかったゆえ所蔵品が少ないのかな、と推察。「眠るインディアン」は、画廊経営者からの寄贈作品です。

 北川民次「眠るインディアン」1961


 第2章は、戦後画壇にメキシコへの憧憬を重ねた岡本太郎、利根川光人、福沢一郎の作品がならんでいます。
 岡本太郎がメキシコを訪れたときに買い求めた民芸品、メキシコ各地で撮った写真も展示され、現在私たちが一目みて「これぞタロー」と思う色や構図が出てくるのはメキシコ訪問やシケイロスやリベロから受けた感性が大きかったのではないかと思います。
  
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ぽかぽか春庭「ファンタジーの力展 in 龍子記念館」

2025-03-13 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250313
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(6)ファンタジーの力展 in 龍子記念館

 大田区立龍子記念館。どの駅からも遠い住宅街の中にあり、よほど見たい展示か特別イベントがあるときじゃないと訪問しない美術館です。65歳以上無料。
 今回の展示は現代美術だからパスと思っていたのですが、現代美術館で見た高橋龍太郎のコレクションがとてもよかったので、高橋の収集の目を信じて出かけることにしました。作品の作者ではなく、コレクターに心を寄せて観覧を決めるのは、私にしては珍しいこと。

 2021年に高橋コレクションの現代美術と川端作品のコラボ展示は2021年に最初の企画があったのですが、私は高橋がどんなコレクターかも知らず、龍子記念館は遠いので、見にきませんでした。龍子記念館で高橋コレクションを展示するのは、高橋の精神科クリニックが1990年に蒲田駅の近くに開業して以来、大田区とのご縁ができたからです。

 2024年現代美術館での高橋のコレクション展「日本現代美術私観」がとても見ごたえあり、現代美術苦手の私にも高橋のコレクターセンスが心地よかった。高橋の選んだ現代美術がどんな風に日本画家川端龍子とコラボしているのかって、興味しんしん。今回の龍子記念館での、川端龍子作品と高橋コレクションの共通項は「ファンタジーの力」

 エントランス最初の龍子作品は、242.5×728という大きさに圧倒される。
「花摘雲」1940
 

 龍子が旧満州を旅した時の大地と空一杯の雲を描いたという。野の花を摘む天女の雲が浮かび、花は空へと運ばれる。龍子が中国戦線拡大に向かう世相の中で描いた連作「大陸策」の四が花摘雲です。大陸策のニ は、以前龍子記念館で見た「ジンギスカン」。ラクダの群れの中に鎧姿の源義経が座っている絵で、義経がジンギスカンに転生したという伝説を絵にしたもの。透明っぽい戦闘機に乗って香炉峰の上を飛ぶ絵「香炉峰」(大陸策三)も、義経転生ジンギスカンも、日本の大陸進出を夢見るファンタジーだけれど、大陸進出正当化という意義を含んだ「大陸策」ですが、それを取り払えば、花摘雲がいちばん毒なく現代の観客にも受け入れられる。

 第1章「旅立ち」には、「花摘雲」のほか、龍子の旅行鞄が展示されていました。第2章「そこにいるのは誰?」第3章「土と光」、風の物語。第4章「夢の領域」。
 コラボでいい組み合わせと思ったのは、第5章の「海の物語」の龍子「龍巻」と草間彌生の「海底」のコラボ。龍巻というのは、海面に立つ巨大なたつまきですが、龍子が描いたのは、龍巻の下にある海の中。イカもエイも海底に向かって下降中。海の上に立つ龍巻は、海の底にもトルネードが起こり、海中の生き物は渦巻に飲み込まれているのでしょう。草間彌生の「海底」は、車のホイールが並んでいる間を草間のおとくい、ペニス形がぎっしり埋め尽くしています。
 草間彌生「海底」「自転車と三輪車」   川端龍子「龍巻」 
 

 海の底の前に自転車と三輪車が置かれている理由はわかりませんでしたが、 勝手な解釈によると。海底で生じるエナジーが、地上に解き離れたとき、人は三輪車や自転車をこいで、自分の力で進んでいこうとする。てなことかな。

 高橋コレクションは現代美術館で見た「現代美術私観」が圧巻でしたが、今回のコラボ展示もなかなかの品ぞろえ。高橋は精神科クリニックを大田区蒲田に開業し長年診察を続けてきました。大田区とのご縁で、コレクションを大田区内の施設で公開することも多い。

 今回のコラボを企画実現したキュレーターは、木村拓哉!主任学芸員にして副館長。現代美術に合わせて龍子の作品を選出したセンス、すばらしい。展覧会を作り上げるのは、ひとりの力だけではないと思いますが、龍子記念館のキムタク、ありがとう。

<つづく>  
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