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ぽかぽか春庭「九段ハウス」

2025-04-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250419
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2025建物めぐり春(3)九段ハウス

 重要文化財の旧山口萬吉邸。内藤多仲が構造設計を担当した邸宅。1927年に竣工。現在は会員制によって利用されているため、一般見学者はなかなか見る機会がありません。昨年、「CURATION⇄FAIR」が開催され、チケットを買えば、アートフェアで売られている作品を買うのでも眺めるだけでも入館できたこと、気づかずに残念に思っていたら、アートフェアが好評だったらしく、2025年も開催されることになりました。ぐるっとパス利用専門の私には高いチケット2500円ですが、オンライン購入。苦手なパソコン申し込みをして、2月10日に念願の九段ハウスを訪問。

 九段ハウスの口上
 新潟県長岡市出身の財界人である5代目山口萬吉の私邸として1927年に建築されたkudan house。強固な耐震性と当時流行だったスパニッシュ建築様式が歴史的価値を持つと認められ、2018年には「登録有形文化財」として登録されました。
 関東大震災を経験した山口萬吉は、後に「耐震構造の父」と呼ばれる内藤多仲に感銘を受け、内藤の構造設計である壁式鉄筋コンクリート造を採用しました。1945年の東京大空襲で多くの木造建物が焼失しましたが、九段ハウスは災禍から逃れ、ほぼ建築当時のままの姿で今なお歴史を紡いでいます。
 また、アーチ、スパニッシュ瓦といった趣深い装いに加え、1階にはスクリーンポーチ、2階にベランダ、3階には屋上など、半屋外空間が多数存在し、四季を肌で感じることができます。

 東京大空襲では、山手線内外の多くの木造住宅が焼失しました。 東京空襲焼失地を記録した地図を見ると、東京の中央が真っ赤に塗られて焼失地を示し、皇居日比谷公園のほか、民間地で焼け残ったのは上野の西の谷中地域など、わずかな地域が残っているのがわかります。山口萬吉邸が残されたのはまさに奇跡的なことでした。
 旧山口萬吉邸は、九段ハウスとして東京の都心にある会員制スペースへと再生されました。建築当時の姿を残す貴重な住宅を見学できました。

門前
  

建物外観(南面)
 
建物西南面             建物外観(東面)
 
西側通用玄関             通用口ドア
  

正面玄関内部         エントランスホール
   

一階客間             一階客間のあかりと川端康成の書
  
1階ベランダ


二階への階段              階段上踊り場
    
階段からエントランスホールを見る
 
 室内(和室)             和室欄間
 
洋間                 廊下から外を見る
  
CURATION⇄FAIRのアート作品が飾られた洋室                 
 
3階テラスから見る3階屋根        3階テラス      
 
 3階テラス     3階テラスから見る屋根瓦
   

1階床下の地下室の明り取り    地下室へおりる外階段
   
地下上部の明り取りによって、地下も十分に自然光が入ります。 
             
 
地下ボイラー室のアート展示はビデオ作品 
  

 九段ハウス、3階テラスと地下室が他の洋館とひとあじ異なる空間でした。
 オリジナルは竣工1927年で、鉄筋コンクリートによるスパニッシュ様式の洋館です。内藤多仲、木子七郎、今井兼次という当時の日本を代表する3人の建築家による設計です。
 住宅として使われていたときの雰囲気を保ちつつ、水回りや耐震など改修は設備を中心としています。地下はギャラリーと茶室として再生させました。今回の見学では、地下から3階までアート作品が並び、趣のある空間を形作っていました。

 ひさしぶりの建物探索。旧い建物を修理したり復元したりする建築関係の人々に感謝しつつ、私は時空を旅して楽しむだけですが、せめてこの家の旧主山口萬吉をしのびながら、九段の坂を下り、九段駅へと向かいました。

 山口萬吉について。山口家は越後の素封家。初代萬吉は次男であったため商人となる。長岡で唐物屋を営んで財をなし、長岡随一の地主となって江戸へ進出。明治維新後は、百貨店を開いたり石油会社や銀行の設立発起人となったりして近代化の波に乗り、明治財界の有力者となりました。
 九段ハウスを建てたのは、五代目萬吉です。五代目萬吉は、明治30年生まれ。慶應義塾大学に入り、20歳のとき渡米留学。8年間の留学から帰国後、早稲田で建築を教えていた内藤多仲 と知り合い、内藤が考案した耐震構造理論に共感して早稲田の建築人に自宅設計を依頼しました。1923年の関東大震災後、1927年に建設された山口萬吉邸は、現在までしっかりした構造によって残されてきました。

 明治の財界人は、渋川市原美術館や三渓園やを残した原三渓、大倉集古館の大倉喜八郎、五島美術館の五島慶太など、財が有り余ると美術趣味を発揮しました。山口萬吉は美術館を建てることはしませんでしたが、内部装飾から家具調度まで自分の趣味を通した建物を残しました。

 九段ハウス、普段は会員制なのでなかなか入ることはかないませんが、今回のようにアートキュレーション施設として開かれるのを、また楽しみに待ちましょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「装飾をひもとく展 in 高島屋資料館」

2025-04-17 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250417
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩建物めぐり春(2)装飾をひもとく展 in 高島屋資料館

 日本橋高島屋の資料室で「建築写真展」をやっている、というのを、美術館の壁ポスターを見て気づいた娘が「母は建築が好きだから」と勧めてくれました。2月21日、ミュゼ浜口陽三で銅版画体験をしたあと、銀座日本橋を周遊するバスに乗って髙島屋へ。

 高島屋の建物は、日本橋三越や三井本館と並んで、このあたりの歴史的建造物です。高島屋も外観は何度となく眺めてきたし、イベントにでかけたおりなど内部も見てきました。
 前回、娘と連れ立ってきたのは羽生結弦写真展観覧のためで、写真展のあと高島屋新館ポケモンカフェで食事しました。食事の前、店内のポスターを見て、資料室で「まれびと」展をやっているのを知り、小さな資料室ですが、沖縄や奄美大島の「まれびと」の写真展をたのしみました。岡本太郎が撮影した写真などがあり狭い資料室ですが、見ごたえ十分でした。

 30分もかからないでひとめぐり見て歩けると思った通り、壁の設計図や古い建築写真はたしかに30分もかからないで見終りました。展示室内撮影禁止。昭和期から現代までに建てられた日本橋界隈の古いビルの装飾にポイントを当てた写真が並んでいます。
 展示の正式名称は、「高島屋史料館TOKYO 企画展・さらに 装飾をひもとく 日本橋の建築・再発見」

 高島屋資料館の口上
 今回の企画展は、「装飾をひもとく〜日本橋の建築・再発見」展(監修:五十嵐太郎, 2020年9月〜2021年2月開催)の続編として開催するものです。
 前回の「装飾をひもとく」展では、それがきっかけとなり、日本橋地域のタウン誌『月刊 日本橋』にて、五十嵐太郎氏による「日本橋の建築装飾」の連載が開始されました。この連載は、すでに4年目に突入し、45回を超える人気コンテンツとなってい
 ます。
 この度の展示では、この『月刊 日本橋』におけるこれまでの連載を参照しながら、前回対象とした地域(中央通り沿い)を、さらに広げてみたいと思います。例えば、今回は当館から徒歩約10分圏にある、渋沢栄一ゆかりの地で、新紙幣の発行で盛り上がる兜町エリアにも目を向け、山二証券(1936年)やKABUTO ONE(2021年)などの建築をご紹介します。また今回は、取り上げる建築が多岐にわたる点も特徴の一つです。いち早く近代化を遂げた日本橋は、日本銀行本店本館(1896年)や三井本館(1929年)などに代表されるように、古典主義の影響が強い街並みとして知られていますが、今回は、中世風の佇まいをもつ丸石ビルディング(1931年)や、厳格な古典主義とは異なる光世証券兜町ビル(1998年)、さらには、看板建築、ポストモダン、都市のレガシーを引き継いだリノベーション建築、そしてインテリアまで、幅広い建築装飾に注目いたします。

建築模型           建築写真(丸石ビル) 
     

 前回、ハンドアウトとして大変好評をいただいた「日本橋建築MAP」も、今回は「日本橋髙島屋S.C.装飾スタンプラリー」の要素を入れて、パワーアップする予定です。本展は、当館の展示会場を出てからが本番です。MAPを片手に、オリジナルの建築群をめぐってください。日本橋の街そのものが、拡張した展示会場として立ち現れることでしょう。
 日本橋髙島屋S.C.装飾スタンプラリー&日本橋の建築・再発見!マップ
 展示会場でしか手に入らない、タブロイド版ハンドアウトを配布します。本展監修の五十嵐太郎さんによる詳細なテキスト解説と、建築ネットマガジン「BUNGA NET」主催の宮沢洋さんによる愛らしい建築でできた、本展特製マップです。

 資料室内展示を見終わると、係の方から「店内建築めぐりのご案内をしています」と、スタンプラリーの用紙をもらいました。
 娘はスタンプラリーが好きなので、参加することに決定。8時の閉店時間まで1時間ほど。回り切れるか時間との勝負なので、駆け足ラリーです。

 高島屋本館は、1933年高橋貞太郎設計により地上8階地下2階の本格的鉄筋コンクリートで完成。2009年には、村野藤吾氏の増築部分含め、デパート建築で初の国指定重要文化財に選定されました。今回のスタンプラリーは、建築当初の装飾を見て歩き、そこに置かれているスタンプを押してくる、というラリーゲームです。

 娘と館内地図を見ながら、4F資料室に近い3Fから探索開始。ラリーマップFのスタンプは、エレベーター上部の装飾。普段エレベーターに乗るときは、停止階表示のボタンだけ見ていますから、エレベーターごとに異なっているという上部装飾に目を止めたこともありませんでした。Eのスタンプは「和風化したコリント式柱頭」

 スタンプは紙の用紙の番号順に、四隅を合わせてきれいに押せるようになっているのですが、不器用な私は、合わせ方が下手で図柄が少しずれます。それでも、屋上、6F、1Fと回って、高島屋館内のさまざまな装飾に目をとめ、写真を撮りA~Iのスタンプをゲットしていきました。

A 旧正面玄関の中備
 

B風防室欄間
 

C風防室4柱雷紋


D 1階北側階段の装飾


E コリント式柱頭
 

 閉館時間まで時間が無くなったので、スタンプだけ押して写真とる間もない。
F 各階ごとに異なるエレベータドアまわりの装飾
G 6階絵s化レーター脇の筋交
H 新館6階渡り廊下から見る軒下
I 屋上エレベーター前織り上げ天井  
J 屋上噴水を囲む謎のペリカン
K 新館に継承された形の遺伝子

 

 閉館時間ぎりぎりに資料室へ駆け込み、スタンプラリーコンプリートのごほうび「高島屋近隣の建築マップ」をいただきました。

 思いがけず参加したラリーでしたので、屋上噴水の写真などは暗くなってしまい撮れなかったし、もうちょっと早く初めて2時間くらいかけるべきだったねと娘と言い合いながら、高島屋の食堂街へ。娘には、ミュゼ浜口陽三の銅版画体験も高島屋のスタンプラリーも、たのしい一日になりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「横浜洋館散歩111館イギリス館」

2025-04-15 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250415
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩建物めぐり春(1)横浜洋館散歩111館イギリス館

 娘と歩く横浜散歩。赤いくつバスで港の見える丘にあがり、洋館見物。
 前回娘と横浜散歩をしたのは、2021年。神奈川近代文学館で開催された佐藤さとる「『コロボックル物語』とともに」を見たときで、このときにイギリス館は行くことができましたが、山手111館は見学していませんでした。たぶん、近代文学館をゆっくり見ていて、午後5時洋館閉館時間をすぎてしまったため。
 今回は、山手111館とイギリス領事館の両館を見ることができました。横浜市は管理している洋館をすべて無料公開しています。

 大佛次郎記念館側から山手111号館に行ったので、裏手のローズカフェ側に着きました。カフェの方に111号館見学は、脇の階段のぼった表側入り口から入るように教わりました。丘の斜面にあるので、1階だと思ったローズカフェは、正面入り口から入ると階段を下りた下。


 裏手のローズカフェ側(画像借り物)  南西角。曇り空                  
  

 横浜市の口上山手111館
 山手111番館は、横浜市イギリス館の南側にあるスパニッシュスタイルの洋館です。 ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、港の見える丘公園のローズガーデンを見下ろす建物は、大正15(1926)年にアメリカ人ラフィン氏の住宅として建設されました。 設計者は、ベーリック・ホールと同じく、J.H.モーガンです。 玄関前の3連アーチが同じ意匠ですが、山手111番館は天井がなくパーゴラになっているため、異なる印象を与えます。 大正9(1920)年に来日したモーガンは、横浜を中心に数多くの作品を残していますが、山手111番館は彼の代表作の一つと言えます。 赤い瓦屋根に白壁の建物は、地階がコンクリート、地上が木造2階建ての寄棟造りです。 創建当時は、地階部分にガレージや使用人部屋、1階に吹き抜けのホール、厨房、食堂と居室、2階は海を見晴らす寝室と回廊、スリーピングポーチを配していました。
 横浜市は、平成8(1996)年に敷地を取得し、建物の寄贈を受けて保存、改修工事を行い、平成11(1999)年から一般公開しています。館内は昭和初期の洋館を体験できるよう家具などを配置し、設計者モーガンに関する展示等も行っています。現在、ローズガーデンから入る地階部分は、喫茶室として利用されています。

 正面正門側(画像借り物)              
  
門柱脇の番地プレートと郵便受け。百年前に海外からの手紙を受け取っていたのでしょう。   
  

 洋館の家具はかって輸出されたり洋館に納められたりした「横浜家具」。できる限り古家具を集めて修復しておいてあるそうです。展示用なので、椅子に座ることはできません。テーブルや暖炉の上に物を載せるのも不可。

  食堂
  

 2階の見学は、現在は事前申し込み制ガイド付き。今回は1階の見学だけ。
山手111館玄関ホール          玄関の鏡
   1階

 山手111館から大佛次郎記念館方面を見る。ローズカフェのソフトクリームディスプレイが見えています。


 山手111館見学のあと、イギリス館へ。
 イギリス館入口
 

 横浜市の口上イギリス館
 横浜市イギリス館は、昭和12(1937)年に、上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事公邸として、現在地に建てられました。鉄筋コンクリート2階建てで、広い敷地と建物規模をもち、東アジアにある領事公邸の中でも、上位に格付けられていました。
 主屋の1階の南側には、西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスは芝生の庭につながっています。2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓からは庭や港の眺望が楽しめます。地下にはワインセラーもあり、東側の付属屋は使用人の住居として使用されていました。玄関脇にはめ込まれた王冠入りの銘版(ジョージⅥ世の時代)や、正面脇の銅板(British Consular Residence)が、旧英国総領事公邸であった由緒を示しています。
 昭和44(1969)年に横浜市が取得し、1階のホールはコンサートに、2階の集会室は会議等に利用されています。また、平成14(2002)年からは、2階の展示室と復元された寝室を一般公開しています。

1階広間。ピアノが置かれ、コンサート会場にもなります。 階段踊り場の窓
  

2階寝室                サンルーム
 

ベランダ              食堂
  

イースター飾りの前で        入り口前
  

 イギリス館は、広間はコンサート、2階集会室などでイベントが開催され、利用しつつ保存をはかっています。娘は「修繕保存のために寄付をお願いします」と書かれた箱に、コインロッカーからもどってきた100円を入れました。
 修繕しながら歴史的建造物が大切にされ残されていくよう願いつつ、赤い靴バス停留所へ。もう少しすると港の見える丘はバラが盛りになってにぎわうでしょうが、4月10日は雨予報も出ていたため、観光客も混み混みではなく、ゆっくり洋館や庭を見学できました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「横浜散歩」

2025-04-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250413
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(5)横浜散歩

 懸賞生活を続けている娘、今回の当選は「横浜中華街ランチコース」。ランチが始まる時間ちょうどに、中華街駅に着きました。
 
 朝陽門を通る「赤いくつバス」
 

ランチ招待券が当たった状元楼

ランチコース
・前菜(干豆腐細切り炒め きくらげ 鶏味噌和え)・揚げ春巻き・茶碗蒸し入りふかひれスープ・エビチリ 
 
・二種の小籠包 ・上海風豚角煮 ・じゃこ炒飯
  

おいしくいただきました。     ・サンザシゼリー杏仁豆腐
   

 港の見える丘公園から望むベイブリッジ
 

 桜の咲き残る港の見える丘公園で洋館見学。


 帰り道は「赤いくつバス」に乗って路線バス220円の横浜観光。マリンタワーやクジラの背中、赤レンガ倉庫などの停留所では、ガイドの観光案内が流れます。
 車窓観光マリンタワー        ホテルニューグランド
 

 赤レンガ倉庫


 馬車道駅前でバスをおりると、目の前は、修理休館中の神奈川歴史博物館。旧富士銀行現東京藝大映像研究科。今は展示スペースとして活用中です。

 神奈川県立歴史博物館      東京藝大映像研究科       
  
 東京藝大映像研究科


 芸大の向かいのジョナサンで「ランチをおなかいっぱい食べたから、まだ全然おなかすいていないけれど、まあ食べられないこともない。食べて帰ろう」と、晩御飯を食べて帰りました。食べすぎだけど、ダイエットは明日から。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「王子の花見」

2025-04-12 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250410
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(4)王子の花見

 4月10日は、姉の命日にちなんで桜吹雪忌として姉をしのぶ日にしています。両親のは、忌日より誕生日をしのぶ日にしているのですが、姉の忌日はちょうど桜の時期ですから、花見ついでに思い出の日にしているのです。

 そんな桜吹き忌の日の前日。4月9日に昔のジャズダンス仲間の同窓会に参加。幹事はミサイルママ。みなの日程を調整して連絡をとってくれました。会場は中央図書館カフェ。パン屋がおいしいパンを販売していて、持ち込みも自由のカフェです。

 集まったのは2005年から19年まで14年間、いっしょに週1回のャズダンスの練習を楽しみに集まった仲間。集まった5人のうち、2人はお連れ合いの介護中。一人は長年の介護のあと見送って1年。ひとりは結婚してすぐに夫と死別。一人息子さんの子育ても卒業。そして私は、夫が「身体障碍者手帳」を持つ身になったのに、介護のカの字も背負わずに文句を言い続けている。40年間「外助の功」で働き続けたのだから、だれより功ありといばっている。

 水筒やら持ち込みのお菓子を並べたテーブルで、おしゃべりに花が咲きました。話題の最初は、クニ子さんのお連れ合いが入院中で、もう健康体には戻れないという経緯について。ミサイルママは電話連絡をとっていたということで、消息はときどき聞いていましたが、私はクニ子さんとは5年ほど会えていなかったのです。

 お連れ合いは、屋根の上のBSアンテナの具合が悪いので屋根に乗って直そうとしました。2階ベランダから脚立を立て上に登ろうとしてバランスを崩し、脚立ごとベランダに倒れたもよう。クニ子さんはご近所さんから、「おたくのベランダから足が出ているのが見えるけど」という連絡をもらって、お連れ合いの異変に気付き、すぐ救急車で病院へ行きました。結果は脳挫傷で、脳に欠損が残り今は車いす生活。昔のことは覚えているけれど、事故当時の前後の記憶はいっさいなくなっているということです。

 トモ子さんは認知症のお連れ合いを長年介護し、見送って1年ほどになります。クニ子さんは、退院後の生活を心配していたので、ケアマネージャーとの付き合い方、入所ホームの選び方について、くわしく体験を伝えていました。トモ子さんの場合、ホーム入所申し込みをし、施設見学の2日のちには申込書提出期限。他との比較をする余裕はなく、ケアマネージャーさんには「今申し込まないと、あとは400人待ちのところしかない」と言われて申し込みをしてしまった。でも、そこはお連れ合いには合わなかった。認知症の人への低刺激策のためか、窓はあれどカーテン締め切りの状態の部屋。外を見ていて外出したくなって出て行かれては困る、という配慮なのかもしれないけど、とトモ子さんは施設の処置を直接非難することはありませんでしたが、ひとこと文句を言ったら、認知症介護ができる精神病院への転院を言われ、そちらでいっそう症状が悪くなったお連れ合いをなくしました。「施設選びをあせったこと、亡くなったいまでも後悔が残る」とクニ子さんにアドバイスしていました。私も週3回腎臓透析を受ける夫の妻ですから、いまのところ介護とは無縁であっても、いつ同じよ うに施設を考える日がこないとも限らないから、心してうかがいました。(私のほうが残る前提)

歩くのが不自由になったジンさんと暮らしているミサイルママも、ふたりのこれからの日々について、思うところあり。コズさんは結婚後まもなくご主人をなくし、ひとりで働くことと一人息子さんを育ててきました。生活の張り合いとして今も続けている趣味はコーラス。長年のコーラス仲間はみな高齢となり、今の平均年齢は80代。コズさんが73歳で一番の若手。などなどのおしゃべり、最後は飼っているペット自慢になって、無料で持ち込み自由の図書館カフェでおしゃべりをつづけ、最後に風に花びらが舞う図書館前の桜の木で記念撮影。

 音無川の桜


 音無川にそって散り敷く桜をながめながら、駅までの道筋を歩きました。80歳になったトモ子さんも70代の仲間たちも、ジャスダンスの基礎があるためみなシャンと背筋が伸びて生き生きとした姿です。去年足指を骨折した私は、日ごろ階段では必ず手すりをにぎるし、歩くのものろのろにしていますが、この仲間たちを見ていると、私もよぼよぼしていられない、と思います。桜の道を歩ける幸せを思い、これからもしゃんとして生きていきます。

 花びら散り敷く公園で


<つづく>
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ぽかぽか春庭「上野の花見散歩」

2025-04-10 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250410
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(3)上野の花見散歩

 電車賃かけて出かけたからには、元をとって帰ろうといういつものせこい一日の過ごし方です。タカ氏は娘に「カーちゃんは、一日にふたつも美術館に行こうとするんだよ」と、ぼやいたとのこと。ふたつくらいは序の口です。けれど、4月8日は、ちょこっと盛りだくさんすぎました。
 午前中、10時から10時半まで上野公園を通り抜けて、名残の花見。10時半から12時半まで東京都美術館。13時から14時45分まで東京国立博物館でコレクション展。15時から15時半まで、科学博物館正面で開催されたストリートコンサート公演を楽しみ、16時から17時半まで西洋美術館。さすがに疲れました。

 上野公園の桜、去年枝が伐採措置尾を受けて、例年に比べ花の量がわびしい花見散歩でした。今年は自由が丘緑道と同じように少し回復してきましたが、花の下で写真を撮っているのはほとんどがインバウンド組でした。上野公園内でビニールシートを広げての飲食はできなくなったので、「新採用新人の最初の仕事は花見の場所取り。いい場所を確保できるかどうかで出世コースかどうかが決まる」なんて言われたのも今は昔。 

 昨年までの花見見物客のマナーの悪さ。枝を折って手に持ったり髪に飾ったりしてポーズをとっている姿がSNSで拡散され、「日本では桜の枝を折ってはならない」「ゴミは必ずゴミ箱に入れるか自宅に持って帰るのが日本の習慣」ということがいきわたったのか、少なくとも私の目には「目に余る」という花見客は見当たりませんでした。

花の下で仲良く

 午後3時から科学博物館前で、東京春の音楽祭のイベントで「金管五重奏」の演奏がありました。「聴いてってくださ~い!無料で~す」と叫んでいるので、聞きました。

 吹奏楽、好きですが、ブラス・クインテットは初めてかも。ラデッキー行進曲、森のくまさんジャズテイスト、ジャズの名曲(私の知らない曲だったので、曲名聞いたけれど覚えられず)、アメイジンググレイスジャズ風。楽しい選曲でしたが、アメイジンググレイスはあまりブラスクインテットに合わないと感じました。たぶん、この曲は透き通る女声で、という刷り込みがあったためでしょう。無料のおかえしに精いっぱいの拍手を送りました。


 噴水の前に座って思い思いに一日を過ごす人を見ていると、平和のありがたさがぽかぽか四月の空気を広げます。

 春の一日。昼は気温が上がり上着を脱いで美術館博物館をめぐりましたが、夕方になると風も出てきました。散り始めの桜でしたが、上野で花見散歩ができてよかったです。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「緑道の花見」

2025-04-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250408
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(2)緑道の花見

 上野公園とか目黒川沿いとか、都内の花見名所は各地にありますが、娘と毎年の楽しみにしているのは、自由が丘緑道歩き。昨年2024年春は、桜の老化が進んだためか、枝の伐採具合がひどくて、例年のような見事な枝ぶりじゃなかったのが残念でした。1年たって、枝は伸びたかしらと案じながら緑道を歩く。
 自由が丘緑道は、九品仏川を暗渠化して造られた約1.6kmの道。1974年にできた緑道に植えられた桜も、もう樹齢50年をすぎ、ソメイヨシノは、樹齢60年ほどが寿命だというので、緑道桜並木ももう老齢です。
 昨年伐採されて丸坊主状態だった桜の枝も昨年よりは回復していて、行きかう人も「きれい!」と言ってスマホを向けています。私と娘もそこここでシャッターを押しましたが、一昨年までの遊歩道の両側に枝を広げていた見事な枝ぶりを思い出してしまうと「まだまだだけど、去年よりはまし」と言い合いました。

  
 桜の木、上部伐採がわかる枝ぶり 
 

 
 花見ランチは、自由が丘のカフェ。ソラマメと明太子パスタとピーチライチのジャスミンティーセット。娘はイチゴショートケーキつきにしましたが、私は「控え」ました。
   

<つづく>
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ぽかぽか春庭「フレッシュたちの花見」

2025-04-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250406
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(1)フレッシュたちの花見

 春の花。つぎつぎに咲き誇る季節を楽しみます。
 駅前の河津桜(3月18日)


 我が家の椿(4月2日)咲きすぎ!

 4月に入ると、あちこち新入学の話題が花咲きます。桜の開花宣言が出てから雨の日が続いたりして、なかなか花見に出かけることができないでいました。4月2日も雨模様。お昼頃、雨が上がったかなと見えたので、病院での定期健診に出かけました。

 結果は、数値横ばい。ただし、悪玉コルステロールが急激に数値が悪くなっているので、何を食べたかくわしく聞かれました。お饅頭もチョコレートも遠慮なく食べている私。この悪玉コルステロールは、脂肪やら糖質やら、いろいろなものですぐに数値が悪くなるというので、正直に「まるごとバナナ」というバナナを生クリームとスポンジでくるんだおやつやチョコレート、どらやきなどを食べてきたことを白状すると、「控えてください」と女医さんから叱られました。はい、脂肪糖分、明日から控えます。


 花見だんごも控えるべき中、花の中歩いて通り過ぎました。
 花見散歩は病院近くの大学キャンパス。4月2日は入学式でした。


 11時から学部、14時から大学院の入学式、と看板が出ています。学部生新入生は入学式を終え、親といっしょの記念写真をとりまくっています。2025年度入学式と書かれた立て看板がキャンパスのあちこちに立てかけられており、長い列を作って撮影順番待ちをしています。ディズニーランド方式というか、列の次の順番の人がすぐ前の人たちを撮影する、という方式で写真を取り合っているようすがほほえましい。中国人学生がかなりの数を占めているのではないかとみえましたが、中国人の親世代にこの「次の順番の人がシャッターを押してあげる」という日本式の文化になじめるか、と老婆心。そもそも「列を作って並ぶ」という日本方式さえ、まだ社会に浸透していない地域から来た人たち、このカメラやスマホを次の人に渡して、シャッターを押してもらう、という「新文化」をどのように感じたでしょうか、聞いてみたかったけれど、中国語で質問する能力もないので、見てただけ。


 私も、財布の入ったバッグをベンチにおいたまま、周りの桜を撮影していましたが、バッグを持っていかれるなどという心配をせずに撮影していました。世界では、こんな不用心なことは通用しないと心得たうえですが、ほんとになんていう国かと思います。「手元から離したものは捨てたもの」とみなされて、たとえ5秒手から離しただけでも、ささっと持ち逃げされる、あるいは肩掛けかばんやポケットの財布も、盗まれる状態にしてある品物は、「みんなのもの」という治安の国も多い中、ベンチにおいたリュクサックは撮影を終えて戻って、ちゃんとベンチに残っていました。大学のキャンパス内だから、街中のように監視カメラがあちこちにあるわけじゃないですが、キャンパス内なら安心、という神話がまだ残されています。(実際には、置き引き注意の張り紙が病院の壁にもありましたが。


 成田空港で、鞄を落として中身を床にぶちまけてしまったら、回り中の人がみんなで拾い集めてくれて、なにひとつなくなっていなかった、という体験動画がyoutubeにUPされていたのを見ました。これから先、日本の治安もどうなるかは予測できませんが、のんびり安心気分で花見ができるような地域であるよう、願わずにはいられません。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ふぞろいな版画たち in 国際版画美術館」

2025-04-05 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250405
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩版画の春(7) in 町田市立国際版画美術館

 町田市立国際版画美術館で、ついでに見た「ふぞろいの版画たち」。テーマは「西洋版画のステート」。版画は、ステート(版画の段階や状態)によって、少しずつ見栄えがことなります。
 これは「版画の初刷り二摺、三摺どうちがう」というところに焦点を合わせたものまた、版画作者による「連作」として、色違いのシリーズ、改変などのバージョンが存在します。
 今回は、このステート違いの版画を並べて見る展示です。

町田市立国際版画美術館の口上
 ひとつの版からたくさんの同じ絵を生みだすことができる版画は、書物の挿絵のような何枚もの連続した画面の中に活動の場を見いだしてきました。一連の絵によって様々な物語を紡ぎ、また複製されることでその内容を広め伝えてきたといえます。
 一方で、同じテーマに基づいて制作された「シリーズ(連作)」も、版画家によってまったく異なる姿を見せます。くわえて同じ版から生まれた版画も、経年による版の劣化や、作者自身による版や刷りの改変といった「ステート(刷りの段階や状態)」の違いによって、異なった表情を見せます。さらに現代の版画家たちが、様々な「ステート」そのものを「シリーズ」として発表していることも特筆すべきでしょう。
 本展で紹介する作品は、ひとつの版から生まれ、連作の中で活躍してきた版画だからこそ、持ちえた魅力をたたえているといえるのです。同じに見えたり、似ていたりするけれども、どこかふぞろいな版画たちの魅力的な群像劇をお楽しみください。

 ひとつの版から何枚をすり出すか。たとえば、1975年の横尾忠則「聖シャンバラ」は75点が刷られたことがわかっています。
 数多く刷れば、刻線が薄れてきます。版画にはバージョン違いの作品もあります。同じ原画でも、色違いやボカシ具合の違いなど、バリエーションがさまざまにできる別作品となります。

 刷りと後の刷りが並んでいる作品の場合、私の印象では、やはり初刷りのほうが生き生きしているように感じました。

アルブレヒト・デューラー「ヨハネと七つの燭台」1498


パブロ・ピカソ「ダヴィデとバテシバ」1947リトグラフ 50部プリントされたうち第1ステート           第2~第9ステートのうち
 

 このピカソの版画では、第1ステートから第9まで、それぞれがかなり異なり、同じ原画とは思えません。別バージョン連作という趣でした。

 「ふぞろい」とは。
 現代の印刷では、何万部でも同じ刷り具合のものができますが、版画には初刷りからステート違いでカスレ具合とか、線の太さとか、さまざまなバージョンになります。そんなステートの違いまで楽しめるようになれば版画鑑賞達人なのでしょうが、私にはとてもとても。初刷りのほうが線がはっきりしている、くらいのことしかわかりませんでした。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(昭和期~現代)」

2025-04-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250403
ぽかぽか春庭アート散歩2025アート散歩版画の春(5)日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(昭和期~現代)

 「日本版画の1200年」のつづきです。
 1923(大正12)年の関東大震災から東京復興計画が立ち上がり、社会を変えていきました。都内の小学校は倒壊した木造校舎のあとに地震に備えたコンクリート造りの「復興小学校」が建設され、都心のビルも耐震を取り入れた構造をとりいれました。

 1920年代から版画界には、版画雑誌によって新しいアートを追求しようとする若者が集いました。創作版画誌『白と黒』や『版藝術』には、中国の版画家 も作品を寄せました。

 中国は古代から木版画が制作されてきましたが、蘇州版画など民衆版画が生まれ、日本にも影響を与えました。しかし西洋印刷術が普及すると蘇州版画も衰え、外国版画の影響を受けた木版画が出てきました。

ビアズリー「アーサー王の死」 1893,1894
 

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「脱穀する人」1922 


 魯迅は西洋版画について学び、版画の民衆浸透をはかりました。社会の改革には民衆への啓蒙が必要であり、そのために版画は重要だと考えました。
 ケーテ・コルビッツの版画の紹介もその仕事のひとつ。ケーテ・コルビッツは、保健医師と結婚したのち貧民街に移り住み労働者をはじめ、生涯弱者に寄りそう画材画題で版画を制作しました。

魯迅編集の「ケ―テ・コルビッツ版画選集」1936復刻1981                                  

 古くからあった中国の木版技術は,清代の蘇州版画に代表されるすぐれた民衆芸術を生みましたが,西洋印刷術の普及とともに衰微し,代わって近代に外国版画の影響を受けた新しい木版画芸術が生まれました。魯迅が中心となり、ヨーロッパの版画の画集を出版し,版画の講習会を開くなどして木刻運動を推進。日中戦争中,作家は奥地農村に移住し、農民や労働者に寄り添った画材・画風を確立しました。おもな作家に,力群,古元,李樺,汪刃鋒などがいます。私は、彼ら中国木刻画の作品をはじめてみました。

汪刃鋒「農民の印象1930年代後半~1940年代前半」木版
                頼少麒「民族の呼ぶ声」1936現代版画15集
  

劉崙「前面に障害物あり」1936現代版画15集 胡其藻「悲哀」同
  
 
 日本に留学していた魯迅の帰国後、中国版画界は新興版画運動を起こします。芸術は一部金持ちのものではなく、人民とともに社会を変えていくためのものであるという理念のもとに作品を生み出し、日本との交流も生まれました。しかし、1937年以後、日中戦争が泥沼化し、交流も途絶えます。

町田市立国際版画美術館解説
 創作版画運動が盛り上がると、1920年代から日本各地で版画家のグループが結成され、版画誌が隆盛します。日本留学中にこの動きを知った魯迅は、中国の創作版画ともいえる「新興版画」を提唱しました。版画家・編集者の料治熊太が主宰した創作版画誌『白と黒』や『版藝術』には、中国・広州の若者が1934年に結成した「現代創作版画研究会(現代版画会)」に作品を寄せ、日中版画交流の舞台になりました。しかし1937年に日中が本格的な戦争状態に突入すると、中国の作家は抗日や政治的主題を描く木刻運動に身を投じ、両国の版画交流は途絶えざるをえませんでした。

 魯迅が指導した中国の木刻画、中国新興版画と交流しました。中国との交流が困難になっても、「版画は、農民」・労働者の姿を描き、働く側に寄りそう、という版画界の姿勢は変わりませんでした。
 日本では料治熊太が「白と黒」「版芸術」を創刊し、日本の版画芸術の進展をはかりました。

料治熊太編集の「版芸術」「白と黒」が昭和初期の版画を牽引しました。


 今回、はじめて中国の木刻画の作品を見て、合点がいったところがあります。日中戦争以後、戦下の社会で、日本画家洋画家の中から従軍画家の派遣が行われ、数多くの戦争画が描かれたのに、版画家の戦争画が現在見ることが少ないのはなぜか、という私の素朴な疑問。
 織田一磨や戸張孤雁の版画は、先日近代美術館で見ました。そして「日本画洋画とも戦時下には従軍画家となって戦地へ赴いたり、国内にあっても戦意鼓舞の絵を描いたのに、版画で戦争画を見ないのはなぜか」という素朴な疑問を感じました。

 むろん、版画界にも戦時下の体制はできていました。紙や版画材料は統制下にあり、時局に非協力的な画家は紙も絵の具も手に入れることもがずかしい。しかし、木版画の場合、板も墨も工夫すれば配給によらずとも手に入れられる。自分で作れるからです。1943年には大政翼賛会の一翼として、版画界の統制団体である「日本版画奉公会」が設立されました。会長は恩地孝四郎。本会に属して何らかの国家への奉仕をすることが求められ、オリジナルとしては相撲力士などの版画が刷られましたが、日本画家の肉筆作品を版画化して売り上げを「奉仕」するなどの活動がせいぜいでした。

 邸宅の床の間、茶室、豪邸の壁を飾る洋画。金持ちの家を飾るために描かれてきた日本画洋画です。「戦意鼓舞の絵」と求められれば、アッツ島玉砕もノモンハンも描く。しかし、昭和のはじめから労働者を描き農民を描いてきた版画、また洋画に先駆けて抽象表現を模索してきた版画は、戦争賛美を表現するためには向いていなかった。
 昭和の版画界について知ると、日本画洋画を統率しようとはかった軍部も、版画の統制は難しいと感じたのではないかと思います。

 現代版画は百花繚乱。さまざまな表現が国の内外に開かれています。

浜田知明「初年兵哀歌(歩哨)」1954 上野誠「男(ヒロシマ三部作)」1959             
  

靉嘔「レインボー北斎ポジションA」1970スクリーンプリント            
          横尾忠則「聖シャンバラ火其地」1974シルクスクリーン
   

 1200年の歴史がある日本版画。仏像スタンプからはじまって、横尾忠則の聖シャンバラへ。
 「シャンバラ」とは、地球内部の空洞に存在するとされる理想世界アガルタ王国の首都の名称であり、そこには高度な科学文明と精神社会が存在するとされ、過去には東西の多くの科学者や権力者、探検家がアガルタを捜し求めてきました。横尾はシャンバラ発表当時、「シャンバラの神意と一体化するための瞑想のようなもの」と述べています。仏像スタンプに祈りを込めた仏画からシャンバラまで、像を彫リそれを紙などに写すのは人の祈りの心が反映されているのかもしれません。私がはじめて見た中国木刻画に感じたのも、祈りの心でした。縛られても止まない叫びも静かに心の中に抱え込むのも、祈り。

李樺「吠えろ中国」1935現代版画13集
                   上野誠「ヒロシマ三部作 女」1959
  

招瑞娟(1924-2020)「求む」1960木版

 絵画や版画に何を求めるのか、何を感じたくて私は絵や版画を見るのか。見なくても時間は過ぎていくし、人生は進んでいくのですが、見たいと感じるのも私の属性。あしたも見にいくだろうと思います。(無料美術館へ) 
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本版画の1200年 in 町田市国際版画美術館(その2明治・大正期)」

2025-04-01 00:00:01 | エッセイ、コラム


2020401
ぽかぽかぽかアート散歩>2025アート散歩版画の春(4)日本版画の1200年 in 町田市国際版画美術館(その2明治・大正期)

 町田市立国際版画美術館の観覧つづき。明治以後の日本の版画の歴史をたどりました。

 国際版画美術館の近代版画解説
 明治期の小林清親による「光線画」は、西洋画をヒントに夕日や灯火といった繊細な光の微妙なうつろいを描き、変わりゆく新都会東京に生きる人々を郷愁へと誘いました。
 明治30年代、「自画・自刻・自摺」を理想としてかかげた「創作版画」が登場します。本章で取り上げる戸張孤雁や織田一磨などは、創作版画家の中でも特に浮世絵の伝統を重んじて制作をおこないました。この一方、大正期初めに浮世絵版画の出版体制を継承する「新版画」が渡邊庄三郎によって創始されます。両者は西洋美術に刺激を受け、浮世絵版画を超克する近代日本版画となるのでした。

 明治初期の版画は、浮世絵木版の伝統に西洋画技法をのせて「文明開化」の世を新聞雑誌によって大衆にひろめていきました。役者や美女の姿を写す版画も、江戸の浮世絵とは異なる表現になっているように思います。

 小林清親「東京銀座街日報社」1876(明治6)横大判錦絵


石井柏亭「よし町(東京十二景)」1910(明治43)木版 
                 竹久夢二「治平衛」1914(大正4)木版
    

戸張孤雁「玉乗り」1914(大正13)木版1924出版             
 

織田一磨「愛宕山(東京風景)」1916(大正5)リトグラフ
            織田一磨「十二階(東京風景)」1916リトグラフ
   

橋口五葉「髪を梳ける女」1920(大正9)木版
            小早川清「瞳(近代時世粧)」1930(昭和5)木版
   

萬鉄五郎「ねて居る人」1923(大正12) 恩地孝四郎「母と子」1917(大正6)
  

 山村耕花「踊り 上海ニューカールトン所見」1924(大正13)木版
  

 山村耕花の上海ニューカールトンは、あちこちの展示で何度か見た覚えがありますが、浮世絵の流れからたどると、ほんとうにポップで新しい表現が出てきたのだなあと感じます。モボモガの踊る靴音が聞こえてくるような。
 川瀬巴水などの、浮世絵の流れのなかに新しい表現を盛り込んだ作品も表現されました。

川瀬巴水「霧之朝(四谷見附)」1932(昭和7)



 昭和に入ると、新しい版画運動が起きてきます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2025年3月目次」

2025-03-30 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250330
ぽかぽか春庭2025年3月目次

0301 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記春よこい(1)毎日芸術賞授賞式 in 椿山荘
0303 2025二十五条日記春よこい(2)霧の中 in 椿山荘
0304 2025二十五条日記春よ来い(3)パソコンスマホシルバー講習会

0306 ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩あるいて探す春隣(1)ブラックジャック展 in そごう美術館
0308 2025アート散歩あるいて探す春隣(2)動物の文様 in 文化服飾博物館
0309 2025アート散歩あるいて探す春隣(3)紙の上のスタイル画 in アクセサリーミュージアム
0311 2025アート散歩あるいて探す春隣(4)Curation fare Tokyo展 in 九段ハウス
0313 2025アート散歩あるいて探す春隣(5)ファンタジーの力展 in 龍子記念館
0315 2025アート散歩あるいて探す春隣(6)メキシコへのまなざし展 in 埼玉県立近代美術館

0316 ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩お茶室は遠い(1)茶道具取り合わせ展 in 五島美術館
0318 2025アート散歩お茶室は遠い(2)細川家の日本陶磁―河井寬次郎と茶道具コレクション in 永青文庫
0320 2025アート散歩お茶室は遠い(3)花器のある風景 in 泉屋博古館

0322 ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩テンペラ画(1)復元模写テンペラ画受胎告知 in 目黒区美術館
0323 2025アート散歩テンペラ画(2)美しきシモネッタ

0325 ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩版画の春(1)南桂子展 in ミュゼ浜口陽三
0327 2505アート散歩版画の春(2)版画 in 東京近代美術館
0329 2025アート散歩版画の春(3)日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(古代~江戸期)

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ぽかぽか春庭「日本版画の1200年 in 町田市立版画美術館」

2025-03-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


ぽかぽかぽかアート散歩>2025アート散歩版画の春(3)日本版画の1200年 in 町田市国際版画美術館(その1古代から江戸まで)

 3月第4水曜日は、町田市立国際版画美術館の65歳以上高齢者無料観覧日ですから、「日本版画の1200年」観覧に出かけました。JR町田駅前から、シルバーディに運航するシャトルバスが発着しています。路線バスで行くと、一番近いバス停からも延々歩かなければならず、一度で凝りました。地図上では、一般の人ならバス停から10分以内に美術館に着くというのですが、私の足では15~20分くらい歩いた記憶があります。
 
町田市国際版画美術館の口上
 町田市立国際版画美術館(東京都町田市原町田4-28-1)は、2025年3月20日(木・祝)から6月15日(日)まで「日本の版画1200年―受けとめ、交わり、生まれ出る」展を開催します。本展では、日本現存最古の印刷物である無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)から、仏教版画、絵手本や画譜、浮世絵、創作版画、新版画、戦後版画、現代版画へと連なる約240点を当館収蔵品から厳選して紹介。私たちが「伝統」、そして「芸術」として考える版画はどのように生まれ、どこへ向かうのでしょうか。この春、「日本の版画」1200年の旅に出かけませんか。
 16世紀から、イエズス会士はキリスト教布教のために中国へ渡り、西洋の文物を伝えます。《康熙帝御製耕織図》では西洋画から学んだ透視図法が用いられる一方、《蘇州景 新造萬年橋》には西洋画を消化した独自の遠近表現が見られます。同じ頃、に大陸では画譜出版文化が隆盛を迎えていました。日本では舶来の画譜を基にした独自の版本が次々に制作されました。本章では狩野派や南蘋派の画譜も紹介します。。

 2階の企画展示室。「日本版画の1200年」は、仏教文化が盛んになった天平時代から始まります。
 天平宝字八年、称徳女帝の命によりつくられた法隆寺百万塔、無垢浄光大陀羅尼経。陀羅尼は世界で最も古い印刷物のひとつです。(刊行年代が明確になっている世界最古の現存印刷物であって、年代が確実でないが、さらに古いとされる印刷仏典は韓国の仏国寺が所蔵)。

 『無垢浄光大陀羅尼経』 は、中国唯一人の女帝武則天が漢訳を命じ、日本へは天平7~9年に舶来。今、再視聴していて2度目も面白く見ている「武則天」で、武媚娘は権謀詐術の宮中を巧みに生き抜き女帝に上り詰めますが、権力維持にも必要だった仏教護持について、ドラマでは唐二代目皇帝の妃が仏像に祈っている姿は出てきますが、武才人と仏教のかかわりは薄い。
 日本でも、聖徳太子以来仏教の国家鎮守頼みは続き、聖武天皇は大仏を建立。聖武の娘である称徳天皇も権力維持に仏教を利用しました。称徳女帝は、日本史上、出家後僧体のまま天皇になった唯一の天皇です。仏典は称徳帝の権力の象徴でした。 
 今回、はじめて百万塔と陀羅尼経を見ました。


 木版で仏像を彫り、それをスタンプのように紙に多数押した「印仏」の現存する最古のものは、平安時代に見られます。(東博所蔵)

 毘沙門天立像印仏1162(応保2)


 平安後期から鎌倉室町期には、印仏のほか摺仏’(すりぼとけ・しゅうぶつ)が盛んにつくられました。板木を彫り、紙を当てて上からこすり像を印刷する。仏像の胎内に収めるための胎内仏です。版画のイメージとしては、印仏より摺仏のほうが現在まで伝わる版画のイメージに近い。

 墨の刻印の上から手彩色をほどこした「地天像-室町時代の与田寺版十二天像の一つ)墨摺手彩色。 

 遣隋使遣唐使の時代から幕府が海外貿易を独占した江戸期まで、中国からの版画は絶えず日本へもたらされてきました。ことに中国の清時代、蘇州版画の影響は大きいものでした。中国では春節を祝うための「年画」と呼ばれる一枚絵を飾る習俗があり、蘇州版画は西洋画の遠近法などをとりいれた新しい表現を発展させました。

 16世紀から、イエズス会士はキリスト教布教のために中国へ渡り、西洋の文物を伝えました。透視図法などを取入れ、中国独自の技法も加えて遠近を表現しました。また中国の万物百科図譜では西洋画から学んだ透視図法が用いられる一方、西洋画を消化した独自の遠近表現が見られます。中国の画譜出版文化が隆盛を迎え日本でも舶来の画譜を基にして和刻の版画が刷られ、さらに独自の版本が制作されました。

 王概(編)「芥子園画伝(和刻)」1753(宝暦3)
 
 
 日本独自の画譜 
 建部凌岱『海錯図』1775(安永4) よりアカエイの図。
  

 蘇州版画などの中国版画、またオランダからもたらされた洋画を見ることによって、日本の浮世絵やその他の絵画の技法が発達していきました。
 
 司馬江漢(1747-1818)は、、日本で初めて腐蝕銅版画を制作しました。蘭学者として世界地図や地動説などを説く刊行物で西洋の自然科学を紹介しました。清人画家宋紫岩に学んだ宋紫石(楠本幸八郎 )の洋画法や南蘋派(沈南蘋 の画法)を学ぶ。平賀源内『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)全6巻のうち第5巻「産物図会」の挿図を手がけ、『ヨンストン動物図譜』を模写し、和刻の図譜を普及させました。

 司馬江漢「不忍池」1784 銅版画手彩色


 葛飾北斎「諸国瀧廻り相州ろうべんの瀧」1833(天保4)
               歌川国芳「唐土二十四孝 大舜」1848-50
  

 浮世絵が百科楼蘭に開花した江戸後期、さまざまな浮世絵が版元蔦屋重三郎西村屋与八須原屋市兵衛などの版元によって刊行されていきました。

 幕末期から明治初期、大判錦絵で描かれたひとつは、彰義隊の姿。徳川幕府の末期に殉じた若者の肖像でした。人物は出版禁止をはばかり、すべて歴史上の人物に置き換えられています。駒木根八兵衛は、島原の乱に耶蘇の味方として参戦した砲術使い。正面を見据える人物像は、これまでの版画に描かれたことのない構図です。

月岡芳年「魁題百撰相 駒木根八兵衛」1868(慶応4)大判錦絵


 浮世絵が西洋の画家とりわけ印象派に大きな影響を与えたことはジャポニズムとしてよく知られていますが、

 東京近代美術館の戦争画を見て、「版画の戦中」はどうだったのかという疑問を持ちました。今回の版画の歴史を縦覧して、自分なりに納得できる理解がありました。明治期から昭和までの版画について、次回。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「版画を見る in 東京近代美術館」

2025-03-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250327
ぽかぽか春庭アート散歩>2505アート散歩版画の春(2)版画 in 東京近代美術館

 常設展の展示が年間を通じてほとんど変化がない他の美術館に比べ、所蔵点数の多い東京近代美術館は、季節ごとの企画展示のほかかなり大きな展示替えがあり、いつ常設展に出かけても新しい品に出会えます。
 3月22日、丸紅ギャラリーに出かけた日に、シモネッタ講演会が始まる前の時間に近代美術館をのぞきました。皇居に面した毎日新聞社の西側が近代美術館で、東側が丸紅ビル。常設展は65歳以上いつでも無料。

 今回、新収蔵品のうち、織田一麿の版画がまとまっていました。
織田一磨「感覚」1920 リトグラフ 「新宿ステイション」1930 リトグラフ
 
織田一磨「シネマ銀座」1929 リトグラフ 「銀ブラ」1929リトグラフ
 
織田一磨「人形売り少女」1929リトグラフ


 これまで未見の版画も多数展示されていました。駒井哲郎や恩地孝四郎はしっていましたが、清宮質文の版画は初めて。

清宮質文「葦」1958木版     「蝶」1963-64木版 
  
清宮質文「九月の海辺」1970木版   「深夜の蝋燭」1974木版
 
清宮質文「秋の夕日」1976木版    「夕日のとり」1985木版
 

 駒井哲郎「足場」1942銅板     「ゆがんだ室内」1970銅板
 
駒井哲郎「飛んでいる鳥と木の葉」1961銅板
 

恩地孝四郎「抒情あかるい時」1915 「サティ・小曲による抒情」1933木版   
恩地孝四郎「あるヴァイオリニストの印象 諏訪根自子像」1946


 美術界に詳しくなく、研究者の論考もわかっていない素人なので、近代美術史において、版画のほうが油絵などより先端的な表現を追っていたように見えるのはなぜだろうと思います。雑誌や新聞のイラストなどの仕事を請け負っていた版画のほうが、表現したいことを表現できたのか。ガッチガチの日本画洋画界では、大御所審査員らの意向を無視した前衛表現は公募展に入選しにくく、入選しないと売れる画家にはなれない、という仕組みががっちり出来上がっている。一方版画には自由な表現が存在しえた、っていうところなのかなあと思います。素人が考えても埒開かないが、らちもないことを考えてると楽しい。

 今回のコレクション展にも、米国から無期期限貸与されている戦争絵画が第5室に展示されていました。藤田嗣治宮本三郎小磯良平向井順吉らの特大画面の戦争画が並んでいます。日本画洋画の画家たちが日中戦争以後「戦意高揚」の絵を描くよう要請されてきたのに、版画家たちの戦争協力版画は見たことがありません。戦時の協力体制は「日本版画奉公会 」が知られており、原画、彫り師摺り師らが所属していました。日本版画奉公会所属の彫り師摺り師は、川合玉堂、鏑木清方、上村松園らの肉筆画を版画として複製し、戦艦献納のための版画を作成しました。

 戦時色が強まる中、日本版画奉公会が発足すると、恩地孝四郎は理事長に就任。報公会は、各地で慰問版画展を開催するほか、大東亜会議に参列した代表の肖像なども手掛けました。献納版画は国粋版画と呼ばれ、描かれた主題は幕末の志士や国技(相撲、剣術など)の勇ましい姿、各地の護国神社の姿などが選ばれました。たとえば、奥山儀八郎「古式三段構之図」には、力士が描かれています。

 彫師と摺師の手を 経た伝統木版による作品のほとんどは、空襲による消失のほか、敗戦とともに処分されたものが多く、残された作品が少ない。1点ものの絵画に「保存すべき」というが思いが寄せられたのに対して、版画には「アート作品として保存すべき」という意識が薄かったのかと思います。

 戦争協賛絵画がGHQ接収となったのち、近代美術館に貸与され、私たちの目にも触れるのに対して、版画は東京大空襲によって版木の多くが失なわれたことに加え、戦後の混乱期に多くが廃棄されたとされています。

 恩地らの版画は、戦前から抽象的版画表現であったため、戦意高揚にはむかなかったことが、幸いしたのか、戦後、恩地はGHQの覚えめでたく抽象表現の発展につくします。洋画界日本画界は、戦時協力の罪を藤田嗣治一身におわせ、他の画家たちは戦後社会を生きぬいた。一方恩地らは戦後版画を牽引し、国際社会へもはばたいていきます。

 日清日露の戦役では明治浮世絵を中心とする挿絵や版画が新聞挿絵の中心となり国民に戦争を知らせる媒体となったのと比べて、写真出現のあと、版画は「戦意高揚」のメディアに沿わなかった。画家たちが積極的に戦争協力に組み込まれていったのに、版画家たちの動きがにぶかったのはなぜか、知りたいです。

 今回の近美の常設展、ほかにもこれまでみていなかった作品が多数展示されていました。今回は丸紅ギャラリーの講演会の時間までの時間調整で訪れたので観覧時間が十分でなかったので、今回のコレクション展また来たいと思います。

<つつく>
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ぽかぽか春庭「南桂子展 in ミュゼ浜口陽三」

2025-03-25 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250325
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2025版画の春(1)南桂子展 in ミュゼ浜口陽三

 私は、ねたみひがみそねみやっかみで生きているため、非常に心が狭い。画家についても、幼少期から才能豊かで裕福な実家の金で美術学校に進学し留学後は悠々の画家生活。絵を売らなくてもよい経済の中、一生を優雅に暮らした、というような幸運な画家に点が辛い。日本の洋画家でいうと、黒田清輝の絵、黒田記念館で何度見ても、感激して涙ながすこともない。ああ、これが明治洋画壇の権力者の絵ね、という目で見てしまうひねくれ者。

 ラッキー度からいうと、浜口陽三も黒田の次くらいに幸運なアーティストのたぐいだ。ヤマサ醤油創業者の家に生まれ、実家の商売が千葉県銚子で順調に発展する過程で金に困ったことはない。戦時中、軍の仏語通訳として従軍したが、通訳だから前線で苦労したといこともない。
 メゾチント版画技法の復興者として高く評価され、作品を売らなくても生活できたから、版画作品は、吉祥寺美術館に寄贈され浜口陽三室に展示されているし、ヤマサに残された分は「ミュゼ浜口陽三」が年に何回か入れ替えをしながら展示している。

 家庭的にも幸福で、妻の南桂子も夫と伴走する版画家。南桂子は両親をあいついで幼いころに亡くして、親戚に育てられたが、大叔父は高峰譲吉、父は帝大卒、母はポン女出の歌人、という家系。大地主の財産を受け継いだ親戚の間に育ち、一度目の結婚で息子をなすが、34歳のときに息子をつれて上京(円満離婚の末なのか出奔なのかはわかりませんが)。

 戦後、版画を学び、浜口陽三のパリ滞在によりそい、パリで同居。のち正式に入籍。銅版画アクアチントで評価を得る。夫の死後4年たった2004年、93歳で死去。南桂子も生前から高い評価を受け、夫とともに歩んだ幸福なアーティストのひとり。

 どうも、私はカミーユ・クローデルとか、シュザンヌ・ヴァラドンとか、「苦労しましたね」 の中で作品を残した女性にこころひかれてしまう。
 南桂子の作品、女の子や小鳥をいいな、と思うし、南の版画の絵葉書30枚セットというのも買ったけれど、「不幸好き」な私には、「小さな版画でもいいから、ぜひ本物が欲しい」というところに心が動かない。

 私が心惹かれる女性画家のひとり。セラフィーヌ・ルイ。2016年にYOKOちゃんとアート散歩したときの東京都美術館ポンピドーセンター展 で、はじめてセラフィーヌ・ルイの絵を見て感激しました。正式な美術教育を受けていないアールブリュットの画家で、家政婦をしながら台所や野原にあるもので絵の具を作って絵を描き続け、後半生は精神を病んで精神病院ですごした女性画家です。細かいモチーフを画面いっぱいに埋める画風は、草間彌生に似ています。
 2008年制作の伝記映画『セラフィーヌの庭』もまだ見ておらず、DVDもないようですが、いつか見たい。 

ミュゼ浜口陽三の口上 
 近年、静かに人気が広がっている銅版画家・南桂子( 1 9 1 1-2 0 0 4 )の展覧会を開催します。
 南の作品の中には、見おとしてしまいそうな雲や舟や鳥が静かに佇んでいます。どの絵にも同じかたちは一つもなく、それぞれが作品世界をつくる大切な要素です。ひとつひとつの小さなモチーフが、満ち足りた空間で永遠に過ごしています。ぽつんと浮かぶ雲は、見知らぬ国を颯爽と旅するようにも、そこに留まりじっと何かを待っているようにも見えます。自由や孤独-雲の見え方は人によって違うかもしれません。
 どこまでも広がる澄んだ空に想像力をのせてご鑑賞ください。
  南作品は銅版画を中心に、リトグラフや油彩も交えて約50点、浜口陽三約10点の構成です。

 2月21日に、南桂子展を観覧した理由のひとつが、ワークショップ参加です。銅版画の簡単な作品制作を手ほどきしてくれるというので、手作り大好きな娘にすすめて参加申し込み。残りひとりの参加枠というので、娘が予約し、私は1時間のワークショップの間、のんびりすごしました。娘が東急ハンズの手作り講座に凝って毎月参加していた時期があって、そんな折は東急ハンズや隣の高島屋の中をぶらぶらしたのですが、久しぶりのぶらぶらタイム。

 南桂子の版画は、1階と地下1階に展示されています。私が持っている絵葉書30枚セットで親しんだ絵柄もあるし、初めて見た版画もありました。
 かわいらしい鳥や魚、女の子をモチーフにして、絵本挿絵にぴったりのメルヘンチック。女の子の大きな目が何も見ていない、見ようとしていないので、こちらが少し不安に思うときもあるけれど、夢を見ているのだと思うことにして会場を一巡。

 かわいい鳥や花が多い中、南桂子にしてはちょっと変わったモチーフがハシビロコウ。上野動物園西園に、24時間じっと立ったまま動かないハシビロコウがいますが、南はどこでこの鳥を目にしたのでしょうか。
「異国の鳥」


 花のある木

 
 銅版画講座の参加者は4人ひとくみ。小学生の女の子とお母さん。他のワークショップでの銅版画経験者という女性、そして娘。ものつくり大好きな娘は真剣に講師の説明を聞き、慎重に作業をつづけていました。最後の工程は、ハンドルをまわして紙に転写する作業。小さな紙に1時間精魂込めて銅板に色をつけた作品が完成してでてきました。
 小さな紙片ですが、自らの手で作り上げた参加者にとっては、大きな作品。むすめも、とても楽しそうに参加していたので、ワークショップのお知らせを見つけて娘にすすめた甲斐がありました。

 印刷機を回して作品を完成させる


 銀座日本橋を周行している無料地域バスがあることは、三井美術館や三越のイベントを見に来た時知っていましたが、乗ったことがありませんでした。ミュゼ浜口陽三の向かいのロイヤルホテル前に「ちいバス」停留所があると、娘がネットチェック。ちいバスで日本橋二丁目へ。

<つづく>
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