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ぽかぽか春庭「戦争ーロバート・キャパ展 in 写真美術館」

2025-04-27 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250427
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩写真の春(3)戦争ーロバート・キャパ展 in 写真美術館

 ロバート・キャパとその恋人ゲルダ・タローの写真展は、展示のお知らせが目に入れば見に行くようにしてきました。もともとキャパというのは、ロバートとゲルダの共同ペンネームだったのです。

 写真美術館入口アプローチの壁を飾る写真のひとつはキャパの「ノルマンディ上陸作戦」。この写真は見るたび、すごいなあと思う歴史的な一枚です。ゲルダがスペイン内戦取材中の事故によってなくなったあと、アンドレ・フリーマンは単独のロバート・キャパになりました。



 東京都写真美術館の口上
 20世紀が生んだ偉大な写真家のひとり、ロバート・キャパ。「カメラの詩人」と言われ、またすぐれた「時代の証言者」でもあります。その写真の背景には苦闘するヒューマニストの眼があります。戦争の苦しみをとらえるとき、そこにキャパの人間としてのやさしさ,ユーモアがあります。キャパは人間を取り捲く状況を少しでもよいものにしようという強い信念と情熱をもって状況に身を投じましたが、それだけでなく写真のもつ衝撃力を見分ける確かな眼を持ち合わせていました。  
 1930年代ヨーロッパの政治的混乱、スペイン内戦でドイツ・イタリアのファシスト政権に支援されたフランコ将軍の反乱軍によって次第に圧倒されて敗北する共和国政府軍、日本軍による中国の漢口爆撃、第二次世界大戦で連合軍の対ドイツ反攻作戦の始まる北アフリカから、イタリア戦線、ノルマンディー上陸作戦などの戦闘現場に立会い、命がけの取材写真は眼に見える確かな記録として報道されました。それらの多くは時空を越えて、後世の人びとにも訴えかける強いメッセージとなっています。  
 本展は、東京富士美術館が所蔵するキャパの約1000点のコレクション・プリントから、“戦争”に焦点を当てた作品約140点を厳選して展示します。
 昨今のロシアとウクライナ、パレスチナやレバノンとイスラエル等の地域における紛争、 シリアのアサド政権崩壊による影響など、世界の現状は、残念ながらキャパの願った「人間を取り捲く状況を少しでもよいものにしよう」という思いとはほど遠いものです。それ故に戦後80年のいま、あらためてキャパの写真証言を見直すことの意義があります。
ロバート・キャパ(1913 - 1954)
 1913年ハンガリーのブダペスト⽣まれたロバート・キャパ(本名アンドレ・フリードマン)。報道写真家として1930年代から死去までの20年余に世界各地の戦場を駆け巡り、臨場感あふれる作品を数多く残しました。とくにスペイン内戦での《崩れ落ちる兵⼠》や、ノルマンディー上陸作戦に同⾏して撮影した《D デー》は報道写真の歴史に残る傑作です。1947年にはアンリ・カルティエ゠ブレッソンやデヴィッド・シーモアらとともに国際写真家集団「マグナム・フォト」を結成しました。1954年に来⽇し、東京や奈良、⼤阪など訪れた後、第⼀次インドシナ戦争を取材に向かい、撮影中に地雷に触れ、40 年の⽣涯を閉じました。

 展示室で最初に目に入るのは、「スペイン内乱で撃たれ崩れ落ちる兵士」。キャパの名を世に知らしめた一枚です。さまざまな方向からの研究により、この一枚のシャッターを押したのはゲルダ・タローという説がほぼ確定しています。キャパがふたりの共同ペンネームであった時代の一枚。このあと、ゲルダは自軍の戦車にひかれるとい事故にあいます。



 肖像、時代を切り取る光景など幅広い被写体に目を向けたキャパですが、今回の展覧会ではキャパがとらえた「戦争」。最後はインドシナで地雷に触れてなくなったキャパにとって、戦争は「第一番にこの私が撮るべき対象」だったに違いない。

キャパの戦争記録

 写真は見ごたえのあるものでした。あちこちのキャパ写真展に展示されるスペイン内戦で倒れる兵士の写真とかノルマンジー上陸作戦の海の中の写真のほか、キャパがとらえた人々と戦火の記録。難民や戦時下の子供や老人の姿。

 3月19日に観覧した後、4月16日に2度目のキャパ展。2度目もじっくりゆっくり見ることができました。
 


 キャパは40歳というまだまだこれからという年齢で「地雷を踏んでさようなら」になりました。残念なことこの上ないですが、戦争写真家としては幸運な人です。なぜなら、スペイン内乱における共和国側での撮影、第2次世界戦での連合国側での撮影。どちらも「戦後戦争責任」を負わない側の写真家だった。

 以下はキャパとは関係のない、写真美術館への個人的要望。

 戦争責任を糾弾されるのは、どの戦争でも「負けた側」です。ヒットラーや近衛文麿は自殺しましたが、日本のA級戦犯7人が死刑。日本のBC級戦犯は1000人近くが死刑。現代の法に照らせば、いわば緊急避難となると思うのに、上官の命令に従った行為が裁かれるのであれば、私も貝になる一人。
 逃げ回って天寿まっとうしたナチス幹部もいたし、2024年99歳の元ナチス事務員が有罪判決を受けた例も。タイピストとしてユダヤ人収容所で1万人強の殺害に関与したという判決です

 一方、勝った側は、どんな非人道的行為も責任など問われない。勝つためには正義です。日本が敗戦受諾をする直前だと知りながら、「ソ連との原爆開発競争に勝つため」に、広島長崎に原爆投下にGoの署名した大統領は今でも「終戦を早めて自国の兵士死傷を減らした英雄」と、勝利側国民は思い込んだままです。

 日本でも、うまく立ち回った人々は戦争責任を逃れました。旧満州国の責任者(国務院高官)であり満州の戦争に責任があったのに、戦後日本国首相になった人物もいるのですから、戦争責任に目くじらたてることなく、目をつむって「うまく立ち回る人たち」に迎合したほうが上手な生き方かもしれません。

 写真報道と戦争責任について。
 戦後、画家の戦争責任が問題にされたとき、画壇はトップの藤田嗣治(フジタの父は陸軍軍医総監。兄嫁は陸軍大将児玉源太郎 の娘)に全責任を負わせることで一件落着とし、他の「戦意高揚絵画」を描き続けた他の画家たちは免責となりました。
 このことについての春庭の言及は、以下のURLに。
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/d99f1b09a82231a9e24e4f0188c496b4
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/ffce97b4de7a5a6a4fc174753d67a0e0

 戦争画はGHQによって接収され「無期限貸与」という形で東京都近代美術館に所蔵されています。定期的に作品を替えながら、藤田嗣治小磯良平向井潤吉らの戦争画が展示されています。
 しかしながら、2万点以上の作品を所蔵し、その中には戦中報道写真も含まれているのではないかと、私的に推察しているにもかかわらず、開館後30年の中で一度も「戦中報道写真」展を開かなかった写真美術館の「方針」について問いたいのです。

 「戦中写真」と報道写真の戦争責任については、2025年までにデジタルアーカイブを完成させるという「毎日戦中写真」。白山眞理『〈報道写真〉と戦争』。IZU PHOTO  MUSEUMで2015年に開催された「戦争と平和 伝えたかった日本」展、などがあります。
 伊豆写真ミュージアムでは開催できた「戦争と平和」を問う展示が可能であったのに、東京写真美術館で「戦争報道写真」を展示することがなかったのはなぜでしょうか。

 戦中報道写真を発表した名取洋之助、木村伊兵衛、土門拳らは、戦後しばしの沈黙期間を経てまもなく戦争報道写真をなかったことにして、めざましい活躍をはじめました。この3人以外にも戦中写真家はいるものの、この大御所の名はそれぞれが、新人写真家に与えられる木村伊兵衛賞をはじめ名取洋之助賞、土門拳賞などのカンムリ写真家となり、戦後活躍している写真家でこの3つの賞のどれかを得ていない写真家はごく少ない。

 軍の要請のもとに戦意高揚のための絵画を描いた画家たちは、洋画壇トップの藤田嗣治ひとりに責任を負わせることで戦争協力を「なかったこと」にしましたが、報道写真家はどれほど軍の意向に沿う写真を撮ったとしても、それは「事実の報道」であったゆえに、報道写真家の戦争責任の詳細を検証する論議は、はじまったばかりです。

 白山眞理「〈 報道写真〉と戦争」2015など、報道写真家の戦争責任に言及する論も出てきましたが、東京写真美術館で戦争報道の検証や論議が深まったという話は伝わってきません。
 写真の著作権は、発表後50年です。法的には1975年以前に発表した写真はすでに著作権が消滅しています。
 1974年没の木村1990年没の土門拳の著作権は写真以外の文筆などの保護期間が70年間に伸びたためにまだ切れていませんが、名取洋之介は1962没なので、2012年に著作権は消滅しています。

 一般にまだ公開ができなくても、学芸員は所蔵写真をみること研究することは可能でしょう。せめて著作権消滅している名取洋之助について、写真は抜きにして研究だけでも写真美術館のレジュメに発表してもいいんじゃないかな。写真美術館の「戦争責任」無視の方針は、写真のミーハーファンとして納得がいきません。
 75歳。第3水曜日の無料の日にしか観覧しない婆ですが、生きているうちに「戦争写真報道と戦争責任-名取洋之助を中心に」という展覧会を見たい。

 写真美術館へのリバイバル上映希望。
 笹本恒子とむのたけじの対談を記録した「笑う101歳×2」を2017年に写真美術館の1階ホールで観覧し、感銘を受けました。
 笹本は、女性報道写真家第一号として戦争報道に携わったことをきちんと総括し、二度と戦争に関わらない世の中にするために発言を続けています。
 笹本は1940(昭和15)年4月に)財団法人・写真協会 (内閣情報部による国策機関)に勤務。写真週報の編集なども担当したのち、わずか1年後、1941年には結婚と発病(脚気)により退職。戦後、離婚の後写真家として復帰。50歳で写真家を引退。しかし、約20年間の沈黙を破り、1985年に71歳で写真復活。103歳の発言集「どこを向いても年下ばかり」
 2022年に107歳で大往生。すごい人です。

 昔の不同意性的関係事件とか、戦争責任とか、お前の人生にどうかかわっているんだ、という非難が巻き起こることも承知の上、ただ、責任を感じるべきことに目をつぶったままの人がうまく立ち回れるとか、レイプを訴えたほうが
非難を受けるとかいうのが、すごく気分悪い。過去の事実について黙っていたほうが上手に生きられるのだとしても、政治家の友人が学校設立するにあたって便宜をはかったことを不問のまますごすのが許されるなら、そういう世の中は私にとっては息をしやすい世ではない。

 写真美術館の展示、毎回有意義に観覧しています。東京都立の美術館として、東京都美術館庭園美術館現代美術館とともに、都民の税金を有意義に使ってほしいです。もう一度おうかがいします。なぜ貴館は戦争報道写真展をしないのでしょうか。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「不易流行 in 写真美術館」

2025-04-26 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250427
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩写真の春(2)総合開館30周年記念不易流行展 in 写真美術館

 4月16日、第3水曜日65歳以上無料観覧は、写真美術館へ。
 ロバー・キャパ展と「カスババ展」は3月第3水曜日にも見ています。はじめて見る「30周年不易流行展」をメインにして、まず3階へ。

東京写真美術館の口上
 東京都写真美術館の総合開館30周年を記念するTOPコレクション展を開催します。
 本展は、学芸員5名の共同企画によるオムニバス形式です。多角的な視点から当館コレクションを選りすぐり、写真と映像の魅力をご紹介します。
本展のタイトル「不易流行」は、江戸初期の俳人・松尾芭蕉(1644–1694)が俳句の心構えについて述べた言葉に由来します。「不易を知らざれば基立ち難く、流行知らざれば風新たにならず[現代語訳:変わらないものを知らなくては基本が成立せず、流行を知らなくては新しい風は起こらない]」という言葉は、現代の私たちも芸術に対する姿勢として心に刻 んでおくべきものです。この「不易流行」の心を大切に、本展は過去の芸術表現を深く理解し、その魅力を今に伝えていくとともに、現在の表現や時代の潮流にもしっかりと目を向けようとするものです。19世紀から20世紀、現代までを取り上げる5つのテーマで当館コレクションを読み解きます。

 1室から5室の部屋ごとにひとりの学芸員が企画をたて、編集展示を担当しています。5人の学芸員のうち4人が女性。おう、そういう時代なんじゃな。
 1室から5室まで順番に見て歩くことは、今回もしませんでした。人が少ない箇所をぬって歩き、ベンチで足を休めたりしながら、展示を行ったり来たりしました。

第1室「 写された女性たち 初期写真を中心に」(企画:佐藤真実子)
 写真黎明期。それまでの肖像画に代って貴族ブルジョアこぞって写真機の前にたちました。何度か黎明期の写真展が開催されるたびに目にした作品もあるし、皇后ウージェニーの肖像、はじめて見ました。ウージェニー皇后の肖像画は多数描かれており、それぞれ貴顕肖像画の約束通り実際より美形に描かれています。しかし、写真の肖像にいちばん近く描かれていたのは、文久遣欧使節(1862)漢方医高嶋祐啓が描いたウジェニー・ド・モンティジョ 。高島は遣欧使節の一介の付き添い医師にすぎませんから、実際に謁見を賜ったとは思えません。写真館を通じて手に入れたウージェニー肖像をもとに描いたのではないかと想像しました。各種肖像画のなかでいちばん本人らしくえがかれているんじゃないかと思います。
アンドレ=アドルフ・ウジェーヌ・ディスデリ「ナポレオン三世皇后ウジェーヌ」1858 鶏卵紙手彩色。   高嶋祐啓「佛郎西皇后」(本展の展示ではない  

 幕末に生まれた出たばかりの写真機の前で緊張し不動の姿勢で写された人々。サムライの肖像はかなりの数残されています。今回は、女性像が展示でされています。お抱えの写真師を自宅の写場に呼んで撮影された華族夫人や令嬢の像もあるし、少しばかりのモデル料をもらい、写真師のつけるポーズでじっと立ち続けた芸者や茶屋娘、子守まで。フリーチェ・ベアトや下岡蓮杖が撮影した幕末明治初期の人々の表情。

下岡蓮杖「梅の枝を生ける女性」1863-1875


フェリーチェ・ベアト「日本の女性と赤ん坊」「傘をさす日本人女性」1863-1877

フェリーチェ・ベアト「お茶くみ」1863-1877


黒川翠山「傘をさす女性と菊花」撮影年不詳


第2室 寄り添う(企画:大﨑千野) 
 「寄り添う」をテーマに、大塚千野、片山真理、塩崎由美子、石内都、4作家の作品を紹介します。痛みや悩みとともに生きていくために、作家がどのように自身や周囲の人々に心を寄せて作品を制作したのか、4名の作家たちの作品を通して、寄り添うことの多様なあり方について考えます。

 幼いころの自分自身の隣に現在の自分の姿を合成した「過去に寄りそう」大野千野。亡くなった母親や被爆者の遺品を撮り続け、「残したもの」に寄りそう石内都。足を失った体が、義足に寄り添って生きる姿を写す片山真理。それぞれに寄りそう姿は異なるけれど、今を生きる4人の女性写真家をまとめた大崎千野学芸員の「痛みや悩みとともに生きていくために」という編集方針。

第2室の展示

片山真理「小さなハイヒールを履く私」「子供の足の私」

 片山の写真は、この2点だけ。最初にキャプションを読まずに歩きまわる私には、この写真に写されているのが義足であることはわかりませんでした。
 片山が先天的疾患により9歳のとき両足を切断したこと、左手はやはり先天的に指が2本の手であること。
 埼玉県生まれ群馬県太田市育ち。群馬女子大美学専攻から東京藝大先端美術専攻大学院へ進学。彼女の存在や作品に「アート」を見出し、「ファッションモデル」「アーティスト」として育てた恩師3人。現在の片山は、夫とともにひとり娘を育てながら、セルフポートレートを中心にアート活動を続けています。

 いじめを受けた子供時代。ひとりぼっちで過ごした中学校。一人で生きるために商業高校で会計士の資格をとって地道に就職したいと思ったけれど、身体障碍者1級手帳を持っていると履歴書に書くと、書類審査で落とされたからアーティスト目指すほかなかった。アートで賞をとっても「普通の体になれたら」という呪縛が続いた。娘が二本指の手を「いちばん好き」と言ってくれたことからようやく呪縛が解けたと、片山は述べています。陽毬ちゃん、すくすく育ってね。

第4室 写真から聞こえる音(企画:山﨑香穂)
 「音」を意識させる作品を展示します。写真に捉えられた空間には、たしかに存在していたにもかかわらず、写真として切り取られることでこぼれ落ちた情報である「音」。この「音」を意識しながら写真を見ることは、そこにあったはずの「音」という現象を捉えなおす契機となるでしょう。

 先日、現代美術館で「坂本龍一の音楽から現代美術を生み出す」というコンセプトのアート展を観覧しましたが、現代アートに弱いHALはピンときませんでした。同じく、写真を見て、「そこに聞こえてくる音」を聴くというのもピンとこなかった。大竹省二が撮影した「カラヤン」を見ても、カラヤンの音は聞こえてきませんでした。音楽にもアートにも鈍いから。ただ、写真としていいなと思ったのは、岡上淑子「廃墟の旋律」。荒涼とした大地に長い髪の女性が不思議な楽器を膝に置き、岩の上の楽譜を見つめています。音を聞いているらしいのは白ネズミ一匹。女性のスカート近くにいるのは妖精かしら。

岡上淑子「廃墟の旋律」1951


 東京都庭園美術館では2019年3月から4月にわたり開催された個展「フォトコラージュ—岡上淑子 沈黙の奇蹟」を見たときには、この作品は展示されていなかったと思うので、今回1作でも岡上の初期作品をみることができてよかった。

 植田正治、杉本博司らの作品、これまで見た作品に比べて驚きはなく、そうとう遠くなってきた私の老人耳に音は聞こえてきませんでした。 

第3室 移動の時代(企画:室井萌々)
 陸、空、そして宇宙へと人類の活動範囲が劇的に広がっていった「移動の時代」に焦点を当てます。つながりと分断、両方の側面を持つ「移動の時代」を捉えたまなざしは、歴史を鮮やかに描き出し、当時の人々の思いを鮮明に伝えます。

 ムロイモモさんは、1年間のインターンを経て2024年4月から正式に学芸員就任。学芸員として手掛ける最初のキュレーションだと思います。「移動」という着眼点から集められた流浪の民や移民。宇宙への移動まで多様な写真が並んでいました。

菱田雄介「北朝鮮と韓国」

 「ピョンヤンの少女とソウルの少女」「北朝鮮兵士と韓国兵士」「北朝鮮の桜と韓国の桜」というように、ふたつ並べた被写体は同じようだと言えば同じよう、対照的といえば対照的。
 1996年に慶応大学経済学部を卒業した菱田は、在学中は旅サークルに所属し、2年生で北海道、3年生でヨーロッパを回り、4年生の時にシルクロード横断を行い、バスと電車を乗り継いで北京からイスタンブールまでを旅しました。これらの旅の中で旅の方法を身に着けた、と述べています。
 菱田のことば(三田評論2019)
 平壌に初めて降り立った日、空港から街へと続く車窓の景色を眺めながら、自分は時間旅行をしているのではないか? という気がした。農作業を終えて帰路につく農民、歌いながら集団で帰宅する子どもたち。金日成主席への忠誠心や軍国主義がもたらす光景は戦前の日本の延長線上にあるように見えたの だ。
 板門店を訪ねると、軍事境界線の向こうに韓国側からやってきた観光客の姿が見えた。ここからバスで1時間も走ればソウルだ。そこにはスタバもあればマックもある。同じ民族が全く別の価値観で国を作り上げていることへの強烈な「違和感」。
 この感覚をもとに、僕は「border | korea」というプロジェクトを始めた。北朝鮮でポートレートを撮り重ね、韓国でも同じような年齢、属性のポートレートを撮影し、併置して見せる。新生児から幼稚園児、学生、結婚式、軍隊、中年、高齢者、バス、地下鉄、水平線……被写体は多岐に及び、僕は8年間で北朝鮮に7回、韓国に10回ほど通って1冊の写真集を作り上げた。
 
 沢木耕太郎はラジオ番組で写真集を評した。「その最大の衝撃は、2枚の写真の相違性ではなく、同質性だった
 同じポーズ、同じ視線、同じ光線で撮られたふたりのポートレート。田舎のおばちゃんふたり。北朝鮮と韓国の似たようなおばちゃんの姿の肖像。北朝鮮のおばちゃんの後ろには、ちゃんと金日成と金正日の写真が飾られています。建国の父とその息子の写真を飾っていない部屋で撮影したなら、あとで不忠民とののしられ逮捕されるかもしれないことを「相違」ととりあげなければ、ふたりのおばちゃんの同質性が際立つ。私が「似てるっちゃ似てるし、違うっていえば違う」と感じた「違和感」について、沢木耕太郎は「同質性に衝撃」と表現したのだと思います。北朝鮮は「異質であろう」という目で見たら、咲く花はなんの違いもなく咲き続けている。

 私がはるか覗き見た北朝鮮は、30年前の延辺地区の 図們市。 図們川にかかる国境の橋の真ん中から北朝鮮側の人家や、ごくまれに通る人を眺めただけだった。中国側から見える村だけはこぎれいに建てられ、人々の服装も支給されたきれいなものだけれど、双眼鏡で覗けない場所になれば、がりがりの飢えた子供たちが目に入るはず、と聞かされた。菱田が撮影可能になった地域は、北朝鮮政府によって許可された場所に限られていたと思うけれど、菱田が撮影した2009-2017あたりの両国の「差」は、今どうなっているのだろうか。裏取りのない無責任な噂にすぎないけれど、 図們川の 中国側から双眼鏡でのぞけない地区にも、人の姿など見えないというのだが。空飛ぶ衛星スパイカメラからは、地上1mにいる人物の顔もはっきり見えるというので、米軍も政府も北朝鮮の民衆の現状はすべて把握済みだけれど、「自由経済と民主主義をおびやかす敵」の存在が必要な政治家もいる。果たして同質性か違和感か。子供が遊んでいる姿が映る映像があれば、見てみたい。スパイ映像でも。

 20世紀に撮影された写真の中で、広く人々の意識を変えた一枚を選ぶなら、まちがいなく「月から見た地球」がその1枚に選ばれると思います。宇宙に浮かぶ小さな青い星が我らのふるさとなのだ、と強烈に人の目をくぎ付けにしました。
 

 アメリカ西部へ移動する幌馬車、平原に残されたネイティブの部族。夢の国と信じるアメリカへ移動しようとする移民船。移民労働者たち。流浪するユダヤ民。復員してきた敗戦国兵士。  

 林忠彦「復員-品川駅」1946

 林忠彦の写真と言えば、銀座のバーで飲む太宰治のポートレート。それ以外に名前と写真が一致している作品はありませんでした。
 林は写真館の跡継ぎとして写真学校で学ぶも、卒業後の放蕩により勘当同然で上京。肺結核の既往歴により徴兵免除。23歳で日本報道写真協会の会員になり、在北京日本大使館の外郭団体として「華北弘報写真協会」を設立しました。日本の宣伝写真を撮影したのち1946年に復員。品川駅で撮影した「復員」は、くったくのない笑顔に満ちていて、「同じ復員仲間」を撮影したのではないかと想像します。復員兵の「生きて帰ってきた!」という心からの笑いが写されています。

 林忠彦が1946年に写真発表を再開したのに対して、戦中報道写真の大御所たちは、戦後沈黙し、ほとぼりがさめるまで写真発表をしませんでした。
 今回展示されていた林忠彦の「復員」は、「カストリ時代1946─56 」の中の一枚。以下の論述「戦争責任と日本の戦争報道写真家」は、次回「戦争-キャパ」展の報告において展開します。

 第5室 うつろい昭和から平成へ(企画:石田哲朗)
 東京都写真美術館が総合開館した1995年に着目し、昭和末期から平成初期の写真・映像表現とその時代背景に目を向けます。総合開館記念展「写真都市TOKYO」(1995年)を再現するとともに、当時の新世代作家たちの出世作を紹介。30年前の時代に思いを馳せます」」

 第5室で見たことあった写真は瀬戸正人、野口里佳などがいました。1995年の「新世代作家」が開館記念展に展示した作品をもとにインタビューに答えている映像を、3階エレベーター前エントランスホールで見ました。当時の新進写真家も、30年たてばベテランにも大御所にもなります。

 開館時すでに50代でベテランになっており、アラーキーとして今も最前線の写真家として評価されているひとりが荒木経惟(あらき のぶよし1940年~)写真集「冬の旅」1990は、死んでいく妻を撮影した作品で、死に顔写真などが賛否を呼びました。展示されていたのは、死の床の妻と手をつなぐ腕。失われる妻への哀惜の情が表れていると感じてしまうのは、この手の人が死ぬところだとわかっているからなのか。このつながれた手が、男により性暴力を受けた女性の手だとわかっていて見たら、同じ写真に感じることが違うのかしらと思いました。
 いまでは「セクハラパワハラ写真家」として評価さまざまになったアラーキーです。

 過去のセクハラパワハラ事件を訴えられている人物の作品をどう評価するか、という問題。HALは2001年以後の荒木作品につきとりあえず評価保留とします。
 日本のエンタメ業界への貢献を免罪符にしてジャニ某を評価しないのは、セクハラ対象が未成年だったことが大きい。アラーキーを訴えた舞踊家兼モデルのKaoRiさんは、2001年に荒木に出会ったとき「二十歳そこそそこの年齢であった」と述懐しています。「フランスと違ってモデルが契約書かわさないのは日本の習慣と思った」そうです。日本のアート界芸能界が契約書をきちんとかわさないまま仕事をしていく方式であり口約束で進行する業界だったのは、昭和が終わっても続いていた慣行。これは出版下請け業界も同じでした。タカ氏も長い間口約束だけで仕事を回していました。もらう分が反故にされたことは何度もあったが、支払いを反故にしたことはない、というのがタカ氏の自慢ですが、おかげで家族は食うや食わず。

 着衣モデルと聞かされてフランスでの撮影現場に行くと、突然脱げと言われ、逆らったら今後の仕事ができなくなると恐れてヌードモデルをつとめたこともある、とグラフィックモデル経験者の談話。アラーキーはKaoRiさんを称して「荒木のパートナーであり荒木写真のミューズである」と言っていたことは、囲りの人も周知。二十歳から16年という長期間、パートナーとして遇される間はがまんできたことも、撮影される女性がより若いモデルになっていくと16年間がむなしくなったことはわかります。が、その間に撮影された写真の運命は?
 どのような業種であれ、ようやく契約書同意書の存在が重視されるようになってきた世になって、+MeToo運動も深まって、これから先どうか被害者を出さないでほしい。

 死者の被害。「すべて買い取った側に所有権があるから、プライベートヌード写真も使用権利行使」というのは、肖像権の乱用。判例では「故人の場合、肖像権は人格権の一種なので死後は消滅するのが原則だが、裁判所は「遺族の敬愛追慕の情の保護」という形で、死者の人格権も間接的に幾分保護している。
 要は買わなきゃいいんです。ネットで売れると息巻いている人々を儲けさせたら日本の恥。とはいっても転売屋~は早くもネットで高値取引を始めているというから、「死者の尊厳を守れ」という訴えはどうなるでしょうか。

 さてさて、 開館30年記念展。肝心の写真への凝視よりも、「身体とアート」論やら戦争責任論やらセクハラやら、「写真見ながらよしなしごとを」という観覧となりました。

 不易流行とは、芭蕉が俳諧について「不易を知らざれば基立ち難く、流行知らざれば風新たにならず 現代語訳:変わらないものを知らなくては基本が成立せず、流行を知らなくては新しい風は起こらない」と述べたことに由来する。春庭はどうしても流行を知らずにすごし、新しい風に吹かれることは人より遅く、風吹かすこと皆無で75年生きてきました。新しい風は、きっとどこかに吹いているでしょうから、老婆は風に吹かれることあっても、襟巻マスクで風邪などひかぬよう。あのね、襟巻って今はマフラーって言うけど、私がこの冬首に巻いていたのは、娘が編んでくれた毛糸の襟巻です。



 次回「キャパ戦争」の観覧記録と「昭和の報道写真家戦争責任論」考察。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「愛しのマン・レイ展 in 富士美術館」

2025-04-24 00:00:01 | エッセイ、コラム


202504024
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩写真の春(1)「愛しのマン・レイ」展 in 富士美術館

 生誕135年を記念するマンレイ展。
 私がこれまで触れてきたマン・レイ作品は、写真が主なもので、私にはマン・レイ1890-1976)は写真家のひとりでした。これまで代表作としてなじんできたのは、女性の背中がバイオリンの形になぞらえてある写真。

 今回富士美術館の展覧会で、マンレイ前半生のダダイスト・シュルレアリスト画家としての絵やオブジェ立体作品を初めて見ました。

 展示方法は「完全編年体」で、上段パネルに年号と出来事。下段にその年代の作品や写真。
 最初の展示は、13歳のとき。ユダヤの伝統的な衣装に身を包み、すました少年の肖像。ユダヤ教バル・ミツバー(Bar Mitzvah)」と呼ばれる成人式の写真です。

 マン・レイは、エマニュエル・ラドニツキー EmmanueRadnitzky という出生名でペンシルベニア州に生まれました。両親ともユダヤ系移民。両親はウクライナとベラルーシからアメリカにやってきました。エマニュエル22歳のときユダヤ人っぽい姓を嫌って一家で「レイ」に改姓。名前もエンマニュエルを略したマンに変えました。

 私は、モンパルナスのキキらとの派手な恋愛は見聞きしていましたが、ニューヨークでの最初の結婚と離婚、生涯連れ添ったジュリエットとの結婚については今回の年代表記、写真など写真の解説文によって年代順に知りました。伝記を知ったことと作品を知ることは別仕立てだと思う人もいるでしょうが、だったら、今回のように詳しい年譜の表示は必要ないはず。キュレーターが詳しい年譜とともに作品を年代順に展示したのは、年齢や環境によっての作品の変化を表示したかったのだろうと思います。

 富士美術館の口上
 マン・レイ(1890-1976)は画家、写真家、オブジェ作家など、多彩な顔をもったマルチアーティストでした。そしてマン・レイは多様な考えをもつ友人達とも分け隔てなく親交を結んでしまう、陽気で憎めない人柄の持ち主でもありました。本展では、当館所蔵の作品と日本における無類のマン・レイ・コレクターまた研究家である石原輝雄氏所蔵の作品と膨大な周辺資料を中心に、マン・レイの足跡を追いつつ、彼の愛すべき人間性を探ります。 
マン・レイ(Man Ray1890-1976)
 アメリカの画家、写真家、造形作家。ダダ、シュルレアリスムの代表的作家。フィラデルフィアに生まれ、パリで没。マルセル・デュシャンらとニューヨーク・ダダのy, 1890年8月27日 - 1976 運動を起こした後、1921年パリに渡り、多くのシュルレアリスト(出会った当時はダダイストと呼んだ)と出会う。前衛写真の先駆者で、レイヨグラフやソラリゼーションの技法による実験的な作品を発表した。自由な発想、斬新な感覚、現代的な詩とユーモアをもって、絵画、版画、写真、彫刻、オブジェなど、ジャンルを超えた独創的な作品を残した。

 シュールレアリズムやダダイズムを体現するオブジェ作品もいろいろな展示があり、面白かったです。

マン・レイ「贈り物」1921(72年再プリント)


マン・レイ「ヴェールをかぶったキキ」1922(76年再プリント) 
 
マン・レイ「天文台の時刻に-恋人たち」1932-34/(70年再プリント)

マン・レイ「ヴァランティーヌ・ユゴーの肖像1933年
ミスター・ナイフとミス・フォーク》1944年 木、ネット、ナイフ、フォーク
 


 富士美術館は、八王子創価大学の広大な敷地の中にあり、展示スペースもとても広い。企画展示のほか、常設展もあり、じっくり見ていると時間がかかります。休憩スペースもゆったり休める広さで、給水機も完備。午後、人が少なくなった休憩スペースで一休みしました。私がゆったりできるのも、大先生が膨大な寄付金集める力をふるったからこそ。総資産10兆円超えとか。これからその資金を政治に回すより、絵画購入に回してくださいますように。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「千代田区の建物」

2025-04-22 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250422
ぽかぽか春アート散歩>2024建物散歩秋拾遺(1)千代田区の建物・学士会館とニコライ堂

 千代田区は東京の中心地ですから、歴史上の建物、近代建築の宝庫です。2024年10月の千代田区散歩で見学した建物のメモです。

 学士会館の学士とは、旧帝大の卒業生をいい、北大・東北大・東大・名大・京大・阪大・九大出身者からなる同窓会組織の集合地。現在は会員以外のレストランや宿泊利用ができますが、 HALには敷居が高くて、学士会館に入ったことがありませんでした。
 学士会館南面
 

 野球発祥の地の記念碑と学士会館

 学士会館は、高橋貞太郎とその師佐野利器が設計。1928年竣工当時のセセッション様式(ドイツ語圏のアールヌーヴォー)の影響を受けて、高橋がデザインしました。
 入り口
 
 エントランス内側        特徴のある柱のデザイン        
 
階段のデザイン
  

 学士会館、なかなか重厚な内装です。学士様すごい。不詳HALとて国立大学1校と私立大学2校、計3校の卒業証書コレクターにして、学士修士博士のお免状いただいた身であるのですから、次は臆せずレストランで食事をしてみたい、と思ったら2025年1月から休館。2026年から新築工事が始まり竣工時期は未定というので、よくよく縁のうすい学士会館です。

 ニコライ堂は何度も訪れていますが、屋根を上から見下ろしたいと思ってきました。周囲のビルをながめ、ベストポイントを探す。

 いつもと同じ教会敷地からの撮影。
 

高層ビルから見下ろすことができて、一般の人が立ち入れるところ、ありました。
ニコライ堂の屋根
 
 ネットチェックしたところ、このベストポイントに気づいて写真をとっている人、ひとり見かけました。
 ニコライ堂ファンが殺到しても困るので、ビル名は秘密です。足で探してください。
 
 神保町の矢口書店は、旧い建物を残して経営を続けている


 甘味処竹むらの向かい側のあんこう鍋老舗のいせ源の建物も、竹むらと同じく重要建造物です。


 万世橋の線路下レンガアーチは再開発されてきれいになりましたが、こちらは昔っぽい雰囲気で残されていました。

 江戸東京建物園の看板建築と同じような看板建築も千代田区に残っている。小諸蕎麦屋になっている看板建築。元は光風館という建物だったということですが、築年数などは調査行き届かず。
 

 学士会館のそば、旧博報堂本社ビルの復元ビルが見えます。一部分だけ保存復元したものです。2009年にとりこわされ、2015年に復元されました。学士会館も、旧館の一部は、この方式で表側は残される模様。
 

 ちゃんと建築を学んで探せば、千代田区にもまだまだたくさんの建物が残っていると思います。以上、2024年10月24日千代田区散歩の建物拾遺録でした。
 今回は明大博物館見学が主目的だったので、建物はあまり探し出せませんでしたが、またいつかゆっくり街歩きをしたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「大田区立龍子記念館」

2025-04-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250420
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩春の建物めぐり(5)大田区立龍子記念館

 大田区立龍子記念館。大森駅からバス。停留所「臼田坂下」から歩いて数分の住宅地の中にあります。もとは川端龍子(かわばたりゅうし1885-1966)の住宅兼アトリエで、龍子卒寿を記念してすまいに隣接して展示館を建て増しました。住宅は東京が空襲を受けた際に消失。消失を免れたアトリエ1932(昭和13)年だけでなく、戦後再建された住宅ともに今は大田区の施設になっています。名称は「大田区立龍子公園」というものですが、一般の公園と異なり自由に立ち入ることはできません。龍子記念館に集合し、係員の誘導で公園(旧龍子邸と庭)に入ることになっています。

 庭と住まいの見学は14時が最終なので、これまでの記念館観覧の折は庭の見学はできませんでしたが、2月27日木曜日に訪れたときは14時少し前に到着しました。エントランスロビーにすでに人が集まっています。待つほどに、14時には通常の案内グループの人数を超えてしまい、いつも案内を担当する木村拓哉副館長(イケメン)引率の前半グループと、「キムタクじゃないほう」の学芸員さんの案内の後半グループに分かれました。私は後半。

大田区の解説
 大田区立龍子公園は、龍子自らが設計した旧宅とアトリエを当時のまま保存しています。旧宅は戦後1948~54年、爆撃の難をのがれたアトリエは青龍社創立10周年となる1938年に建造されたもので、国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。また龍子公園内の「爆弾散華の池」は、終戦まぎわの空襲で壊滅した住宅部分を龍子が池として造成しました。

 空襲をかいぐぐった画室「御形荘」は、龍子が1929年に設立した日本画団体「青龍社」創立10周年となる1938年に建造されたもので、国の登録有形文化財(建造物)に登録されています。
 母屋は龍子自身の設計により、1948年に建てられました。

川端龍子旧居母屋          客間
            
 
母屋室内            庭園
 

画室                画室の軒は網代天井
  

 邸内のあちこちには、龍子が好んだ龍の意匠があしらわれており、「ほら、ここにも」と案内してくださったのに、私はのろのろと一番後ろから歩いていたので、私が着くともう一行は先に行っていて、どれが龍やら。
 龍子画伯は、悠々筆を運んでいたんだろうなあ、と母屋や画室を見学しました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「九段ハウス」

2025-04-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250419
ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2025建物めぐり春(3)九段ハウス

 重要文化財の旧山口萬吉邸。内藤多仲が構造設計を担当した邸宅。1927年に竣工。現在は会員制によって利用されているため、一般見学者はなかなか見る機会がありません。昨年、「CURATION⇄FAIR」が開催され、チケットを買えば、アートフェアで売られている作品を買うのでも眺めるだけでも入館できたこと、気づかずに残念に思っていたら、アートフェアが好評だったらしく、2025年も開催されることになりました。ぐるっとパス利用専門の私には高いチケット2500円ですが、オンライン購入。苦手なパソコン申し込みをして、2月10日に念願の九段ハウスを訪問。

 九段ハウスの口上
 新潟県長岡市出身の財界人である5代目山口萬吉の私邸として1927年に建築されたkudan house。強固な耐震性と当時流行だったスパニッシュ建築様式が歴史的価値を持つと認められ、2018年には「登録有形文化財」として登録されました。
 関東大震災を経験した山口萬吉は、後に「耐震構造の父」と呼ばれる内藤多仲に感銘を受け、内藤の構造設計である壁式鉄筋コンクリート造を採用しました。1945年の東京大空襲で多くの木造建物が焼失しましたが、九段ハウスは災禍から逃れ、ほぼ建築当時のままの姿で今なお歴史を紡いでいます。
 また、アーチ、スパニッシュ瓦といった趣深い装いに加え、1階にはスクリーンポーチ、2階にベランダ、3階には屋上など、半屋外空間が多数存在し、四季を肌で感じることができます。

 東京大空襲では、山手線内外の多くの木造住宅が焼失しました。 東京空襲焼失地を記録した地図を見ると、東京の中央が真っ赤に塗られて焼失地を示し、皇居日比谷公園のほか、民間地で焼け残ったのは上野の西の谷中地域など、わずかな地域が残っているのがわかります。山口萬吉邸が残されたのはまさに奇跡的なことでした。
 旧山口萬吉邸は、九段ハウスとして東京の都心にある会員制スペースへと再生されました。建築当時の姿を残す貴重な住宅を見学できました。

門前
  

建物外観(南面)
 
建物西南面             建物外観(東面)
 
西側通用玄関             通用口ドア
  

正面玄関内部         エントランスホール
   

一階客間             一階客間のあかりと川端康成の書
  
1階ベランダ


二階への階段              階段上踊り場
    
階段からエントランスホールを見る
 
 室内(和室)             和室欄間
 
洋間                 廊下から外を見る
  
CURATION⇄FAIRのアート作品が飾られた洋室                 
 
3階テラスから見る3階屋根        3階テラス      
 
 3階テラス     3階テラスから見る屋根瓦
   

1階床下の地下室の明り取り    地下室へおりる外階段
   
地下上部の明り取りによって、地下も十分に自然光が入ります。 
             
 
地下ボイラー室のアート展示はビデオ作品 
  

 九段ハウス、3階テラスと地下室が他の洋館とひとあじ異なる空間でした。
 オリジナルは竣工1927年で、鉄筋コンクリートによるスパニッシュ様式の洋館です。内藤多仲、木子七郎、今井兼次という当時の日本を代表する3人の建築家による設計です。
 住宅として使われていたときの雰囲気を保ちつつ、水回りや耐震など改修は設備を中心としています。地下はギャラリーと茶室として再生させました。今回の見学では、地下から3階までアート作品が並び、趣のある空間を形作っていました。

 ひさしぶりの建物探索。旧い建物を修理したり復元したりする建築関係の人々に感謝しつつ、私は時空を旅して楽しむだけですが、せめてこの家の旧主山口萬吉をしのびながら、九段の坂を下り、九段駅へと向かいました。

 山口萬吉について。山口家は越後の素封家。初代萬吉は次男であったため商人となる。長岡で唐物屋を営んで財をなし、長岡随一の地主となって江戸へ進出。明治維新後は、百貨店を開いたり石油会社や銀行の設立発起人となったりして近代化の波に乗り、明治財界の有力者となりました。
 九段ハウスを建てたのは、五代目萬吉です。五代目萬吉は、明治30年生まれ。慶應義塾大学に入り、20歳のとき渡米留学。8年間の留学から帰国後、早稲田で建築を教えていた内藤多仲 と知り合い、内藤が考案した耐震構造理論に共感して早稲田の建築人に自宅設計を依頼しました。1923年の関東大震災後、1927年に建設された山口萬吉邸は、現在までしっかりした構造によって残されてきました。

 明治の財界人は、渋川市原美術館や三渓園やを残した原三渓、大倉集古館の大倉喜八郎、五島美術館の五島慶太など、財が有り余ると美術趣味を発揮しました。山口萬吉は美術館を建てることはしませんでしたが、内部装飾から家具調度まで自分の趣味を通した建物を残しました。

 九段ハウス、普段は会員制なのでなかなか入ることはかないませんが、今回のようにアートキュレーション施設として開かれるのを、また楽しみに待ちましょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「装飾をひもとく展 in 高島屋資料館」

2025-04-17 00:00:01 | エッセイ、コラム


20250417
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩建物めぐり春(2)装飾をひもとく展 in 高島屋資料館

 日本橋高島屋の資料室で「建築写真展」をやっている、というのを、美術館の壁ポスターを見て気づいた娘が「母は建築が好きだから」と勧めてくれました。2月21日、ミュゼ浜口陽三で銅版画体験をしたあと、銀座日本橋を周遊するバスに乗って髙島屋へ。

 高島屋の建物は、日本橋三越や三井本館と並んで、このあたりの歴史的建造物です。高島屋も外観は何度となく眺めてきたし、イベントにでかけたおりなど内部も見てきました。
 前回、娘と連れ立ってきたのは羽生結弦写真展観覧のためで、写真展のあと高島屋新館ポケモンカフェで食事しました。食事の前、店内のポスターを見て、資料室で「まれびと」展をやっているのを知り、小さな資料室ですが、沖縄や奄美大島の「まれびと」の写真展をたのしみました。岡本太郎が撮影した写真などがあり狭い資料室ですが、見ごたえ十分でした。

 30分もかからないでひとめぐり見て歩けると思った通り、壁の設計図や古い建築写真はたしかに30分もかからないで見終りました。展示室内撮影禁止。昭和期から現代までに建てられた日本橋界隈の古いビルの装飾にポイントを当てた写真が並んでいます。
 展示の正式名称は、「高島屋史料館TOKYO 企画展・さらに 装飾をひもとく 日本橋の建築・再発見」

 高島屋資料館の口上
 今回の企画展は、「装飾をひもとく〜日本橋の建築・再発見」展(監修:五十嵐太郎, 2020年9月〜2021年2月開催)の続編として開催するものです。
 前回の「装飾をひもとく」展では、それがきっかけとなり、日本橋地域のタウン誌『月刊 日本橋』にて、五十嵐太郎氏による「日本橋の建築装飾」の連載が開始されました。この連載は、すでに4年目に突入し、45回を超える人気コンテンツとなってい
 ます。
 この度の展示では、この『月刊 日本橋』におけるこれまでの連載を参照しながら、前回対象とした地域(中央通り沿い)を、さらに広げてみたいと思います。例えば、今回は当館から徒歩約10分圏にある、渋沢栄一ゆかりの地で、新紙幣の発行で盛り上がる兜町エリアにも目を向け、山二証券(1936年)やKABUTO ONE(2021年)などの建築をご紹介します。また今回は、取り上げる建築が多岐にわたる点も特徴の一つです。いち早く近代化を遂げた日本橋は、日本銀行本店本館(1896年)や三井本館(1929年)などに代表されるように、古典主義の影響が強い街並みとして知られていますが、今回は、中世風の佇まいをもつ丸石ビルディング(1931年)や、厳格な古典主義とは異なる光世証券兜町ビル(1998年)、さらには、看板建築、ポストモダン、都市のレガシーを引き継いだリノベーション建築、そしてインテリアまで、幅広い建築装飾に注目いたします。

建築模型           建築写真(丸石ビル) 
     

 前回、ハンドアウトとして大変好評をいただいた「日本橋建築MAP」も、今回は「日本橋髙島屋S.C.装飾スタンプラリー」の要素を入れて、パワーアップする予定です。本展は、当館の展示会場を出てからが本番です。MAPを片手に、オリジナルの建築群をめぐってください。日本橋の街そのものが、拡張した展示会場として立ち現れることでしょう。
 日本橋髙島屋S.C.装飾スタンプラリー&日本橋の建築・再発見!マップ
 展示会場でしか手に入らない、タブロイド版ハンドアウトを配布します。本展監修の五十嵐太郎さんによる詳細なテキスト解説と、建築ネットマガジン「BUNGA NET」主催の宮沢洋さんによる愛らしい建築でできた、本展特製マップです。

 資料室内展示を見終わると、係の方から「店内建築めぐりのご案内をしています」と、スタンプラリーの用紙をもらいました。
 娘はスタンプラリーが好きなので、参加することに決定。8時の閉店時間まで1時間ほど。回り切れるか時間との勝負なので、駆け足ラリーです。

 高島屋本館は、1933年高橋貞太郎設計により地上8階地下2階の本格的鉄筋コンクリートで完成。2009年には、村野藤吾氏の増築部分含め、デパート建築で初の国指定重要文化財に選定されました。今回のスタンプラリーは、建築当初の装飾を見て歩き、そこに置かれているスタンプを押してくる、というラリーゲームです。

 娘と館内地図を見ながら、4F資料室に近い3Fから探索開始。ラリーマップFのスタンプは、エレベーター上部の装飾。普段エレベーターに乗るときは、停止階表示のボタンだけ見ていますから、エレベーターごとに異なっているという上部装飾に目を止めたこともありませんでした。Eのスタンプは「和風化したコリント式柱頭」

 スタンプは紙の用紙の番号順に、四隅を合わせてきれいに押せるようになっているのですが、不器用な私は、合わせ方が下手で図柄が少しずれます。それでも、屋上、6F、1Fと回って、高島屋館内のさまざまな装飾に目をとめ、写真を撮りA~Iのスタンプをゲットしていきました。

A 旧正面玄関の中備
 

B風防室欄間
 

C風防室4柱雷紋


D 1階北側階段の装飾


E コリント式柱頭
 

 閉館時間まで時間が無くなったので、スタンプだけ押して写真とる間もない。
F 各階ごとに異なるエレベータドアまわりの装飾
G エスカレーター脇の筋交
H 新館6階渡り廊下から見る軒下
I 屋上エレベーター前の織り上げ天井  
J 屋上噴水を囲む謎のペリカン
K 新館に継承された形の遺伝子

 

 閉館時間ぎりぎりに資料室へ駆け込み、スタンプラリーコンプリートのごほうび「高島屋近隣の建築マップ」をいただきました。

 思いがけず参加したラリーでしたので、屋上噴水の写真などは暗くなってしまい撮れなかったし、もうちょっと早く初めて2時間くらいかけるべきだったねと娘と言い合いながら、高島屋の食堂街へ。娘には、ミュゼ浜口陽三の銅版画体験も高島屋のスタンプラリーも、たのしい一日になりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「横浜洋館散歩111館イギリス館」

2025-04-15 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250415
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩建物めぐり春(1)横浜洋館散歩111館イギリス館

 娘と歩く横浜散歩。赤いくつバスで港の見える丘にあがり、洋館見物。
 前回娘と横浜散歩をしたのは、2021年。神奈川近代文学館で開催された佐藤さとる「『コロボックル物語』とともに」を見たときで、このときにイギリス館は行くことができましたが、山手111館は見学していませんでした。たぶん、近代文学館をゆっくり見ていて、午後5時洋館閉館時間をすぎてしまったため。
 今回は、山手111館とイギリス領事館の両館を見ることができました。横浜市は管理している洋館をすべて無料公開しています。

 大佛次郎記念館側から山手111号館に行ったので、裏手のローズカフェ側に着きました。カフェの方に111号館見学は、脇の階段のぼった表側入り口から入るように教わりました。丘の斜面にあるので、1階だと思ったローズカフェは、正面入り口から入ると階段を下りた下。


 裏手のローズカフェ側(画像借り物)  南西角。曇り空                  
  

 横浜市の口上山手111館
 山手111番館は、横浜市イギリス館の南側にあるスパニッシュスタイルの洋館です。 ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、港の見える丘公園のローズガーデンを見下ろす建物は、大正15(1926)年にアメリカ人ラフィン氏の住宅として建設されました。 設計者は、ベーリック・ホールと同じく、J.H.モーガンです。 玄関前の3連アーチが同じ意匠ですが、山手111番館は天井がなくパーゴラになっているため、異なる印象を与えます。 大正9(1920)年に来日したモーガンは、横浜を中心に数多くの作品を残していますが、山手111番館は彼の代表作の一つと言えます。 赤い瓦屋根に白壁の建物は、地階がコンクリート、地上が木造2階建ての寄棟造りです。 創建当時は、地階部分にガレージや使用人部屋、1階に吹き抜けのホール、厨房、食堂と居室、2階は海を見晴らす寝室と回廊、スリーピングポーチを配していました。
 横浜市は、平成8(1996)年に敷地を取得し、建物の寄贈を受けて保存、改修工事を行い、平成11(1999)年から一般公開しています。館内は昭和初期の洋館を体験できるよう家具などを配置し、設計者モーガンに関する展示等も行っています。現在、ローズガーデンから入る地階部分は、喫茶室として利用されています。

 正面正門側(画像借り物)              
  
門柱脇の番地プレートと郵便受け。百年前に海外からの手紙を受け取っていたのでしょう。   
  

 洋館の家具はかって輸出されたり洋館に納められたりした「横浜家具」。できる限り古家具を集めて修復しておいてあるそうです。展示用なので、椅子に座ることはできません。テーブルや暖炉の上に物を載せるのも不可。

  食堂
  

 2階の見学は、現在は事前申し込み制ガイド付き。今回は1階の見学だけ。
山手111館玄関ホール          玄関の鏡
   1階

 山手111館から大佛次郎記念館方面を見る。ローズカフェのソフトクリームディスプレイが見えています。


 山手111館見学のあと、イギリス館へ。
 イギリス館入口
 

 横浜市の口上イギリス館
 横浜市イギリス館は、昭和12(1937)年に、上海の大英工部総署の設計によって、英国総領事公邸として、現在地に建てられました。鉄筋コンクリート2階建てで、広い敷地と建物規模をもち、東アジアにある領事公邸の中でも、上位に格付けられていました。
 主屋の1階の南側には、西からサンポーチ、客間、食堂が並び、広々としたテラスは芝生の庭につながっています。2階には寝室や化粧室が配置され、広い窓からは庭や港の眺望が楽しめます。地下にはワインセラーもあり、東側の付属屋は使用人の住居として使用されていました。玄関脇にはめ込まれた王冠入りの銘版(ジョージⅥ世の時代)や、正面脇の銅板(British Consular Residence)が、旧英国総領事公邸であった由緒を示しています。
 昭和44(1969)年に横浜市が取得し、1階のホールはコンサートに、2階の集会室は会議等に利用されています。また、平成14(2002)年からは、2階の展示室と復元された寝室を一般公開しています。

1階広間。ピアノが置かれ、コンサート会場にもなります。 階段踊り場の窓
  

2階寝室                サンルーム
 

ベランダ              食堂
  

イースター飾りの前で        入り口前
  

 イギリス館は、広間はコンサート、2階集会室などでイベントが開催され、利用しつつ保存をはかっています。娘は「修繕保存のために寄付をお願いします」と書かれた箱に、コインロッカーからもどってきた100円を入れました。
 修繕しながら歴史的建造物が大切にされ残されていくよう願いつつ、赤い靴バス停留所へ。もう少しすると港の見える丘はバラが盛りになってにぎわうでしょうが、4月10日は雨予報も出ていたため、観光客も混み混みではなく、ゆっくり洋館や庭を見学できました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「横浜散歩」

2025-04-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250413
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(5)横浜散歩

 懸賞生活を続けている娘、今回の当選は「横浜中華街ランチコース」。ランチが始まる時間ちょうどに、中華街駅に着きました。
 
 朝陽門を通る「赤いくつバス」
 

ランチ招待券が当たった状元楼

ランチコース
・前菜(干豆腐細切り炒め きくらげ 鶏味噌和え)・揚げ春巻き・茶碗蒸し入りふかひれスープ・エビチリ 
 
・二種の小籠包 ・上海風豚角煮 ・じゃこ炒飯
  

おいしくいただきました。     ・サンザシゼリー杏仁豆腐
   

 港の見える丘公園から望むベイブリッジ
 

 桜の咲き残る港の見える丘公園で洋館見学。


 帰り道は「赤いくつバス」に乗って路線バス220円の横浜観光。マリンタワーやクジラの背中、赤レンガ倉庫などの停留所では、ガイドの観光案内が流れます。
 車窓観光マリンタワー        ホテルニューグランド
 

 赤レンガ倉庫


 馬車道駅前でバスをおりると、目の前は、修理休館中の神奈川歴史博物館。旧富士銀行現東京藝大映像研究科。今は展示スペースとして活用中です。

 神奈川県立歴史博物館      東京藝大映像研究科       
  
 東京藝大映像研究科


 芸大の向かいのジョナサンで「ランチをおなかいっぱい食べたから、まだ全然おなかすいていないけれど、まあ食べられないこともない。食べて帰ろう」と、晩御飯を食べて帰りました。食べすぎだけど、ダイエットは明日から。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「王子の花見」

2025-04-12 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250410
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(4)王子の花見

 4月10日は、姉の命日にちなんで桜吹雪忌として姉をしのぶ日にしています。両親のは、忌日より誕生日をしのぶ日にしているのですが、姉の忌日はちょうど桜の時期ですから、花見ついでに思い出の日にしているのです。

 そんな桜吹き忌の日の前日。4月9日に昔のジャズダンス仲間の同窓会に参加。幹事はミサイルママ。みなの日程を調整して連絡をとってくれました。会場は中央図書館カフェ。パン屋がおいしいパンを販売していて、持ち込みも自由のカフェです。

 集まったのは2005年から19年まで14年間、いっしょに週1回のャズダンスの練習を楽しみに集まった仲間。集まった5人のうち、2人はお連れ合いの介護中。一人は長年の介護のあと見送って1年。ひとりは結婚してすぐに夫と死別。一人息子さんの子育ても卒業。そして私は、夫が「身体障碍者手帳」を持つ身になったのに、介護のカの字も背負わずに文句を言い続けている。40年間「外助の功」で働き続けたのだから、だれより功ありといばっている。

 水筒やら持ち込みのお菓子を並べたテーブルで、おしゃべりに花が咲きました。話題の最初は、クニ子さんのお連れ合いが入院中で、もう健康体には戻れないという経緯について。ミサイルママは電話連絡をとっていたということで、消息はときどき聞いていましたが、私はクニ子さんとは5年ほど会えていなかったのです。

 お連れ合いは、屋根の上のBSアンテナの具合が悪いので屋根に乗って直そうとしました。2階ベランダから脚立を立て上に登ろうとしてバランスを崩し、脚立ごとベランダに倒れたもよう。クニ子さんはご近所さんから、「おたくのベランダから足が出ているのが見えるけど」という連絡をもらって、お連れ合いの異変に気付き、すぐ救急車で病院へ行きました。結果は脳挫傷で、脳に欠損が残り今は車いす生活。昔のことは覚えているけれど、事故当時の前後の記憶はいっさいなくなっているということです。

 トモ子さんは認知症のお連れ合いを長年介護し、見送って1年ほどになります。クニ子さんは、退院後の生活を心配していたので、ケアマネージャーとの付き合い方、入所ホームの選び方について、くわしく体験を伝えていました。トモ子さんの場合、ホーム入所申し込みをし、施設見学の2日のちには申込書提出期限。他との比較をする余裕はなく、ケアマネージャーさんには「今申し込まないと、あとは400人待ちのところしかない」と言われて申し込みをしてしまった。でも、そこはお連れ合いには合わなかった。認知症の人への低刺激策のためか、窓はあれどカーテン締め切りの状態の部屋。外を見ていて外出したくなって出て行かれては困る、という配慮なのかもしれないけど、とトモ子さんは施設の処置を直接非難することはありませんでしたが、ひとこと文句を言ったら、認知症介護ができる精神病院への転院を言われ、そちらでいっそう症状が悪くなったお連れ合いをなくしました。「施設選びをあせったこと、亡くなったいまでも後悔が残る」とクニ子さんにアドバイスしていました。私も週3回腎臓透析を受ける夫の妻ですから、いまのところ介護とは無縁であっても、いつ同じよ うに施設を考える日がこないとも限らないから、心してうかがいました。(私のほうが残る前提)

歩くのが不自由になったジンさんと暮らしているミサイルママも、ふたりのこれからの日々について、思うところあり。コズさんは結婚後まもなくご主人をなくし、ひとりで働くことと一人息子さんを育ててきました。生活の張り合いとして今も続けている趣味はコーラス。長年のコーラス仲間はみな高齢となり、今の平均年齢は80代。コズさんが73歳で一番の若手。などなどのおしゃべり、最後は飼っているペット自慢になって、無料で持ち込み自由の図書館カフェでおしゃべりをつづけ、最後に風に花びらが舞う図書館前の桜の木で記念撮影。

 音無川の桜


 音無川にそって散り敷く桜をながめながら、駅までの道筋を歩きました。80歳になったトモ子さんも70代の仲間たちも、ジャスダンスの基礎があるためみなシャンと背筋が伸びて生き生きとした姿です。去年足指を骨折した私は、日ごろ階段では必ず手すりをにぎるし、歩くのものろのろにしていますが、この仲間たちを見ていると、私もよぼよぼしていられない、と思います。桜の道を歩ける幸せを思い、これからもしゃんとして生きていきます。

 花びら散り敷く公園で


<つづく>
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ぽかぽか春庭「上野の花見散歩」

2025-04-10 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250410
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(3)上野の花見散歩

 電車賃かけて出かけたからには、元をとって帰ろうといういつものせこい一日の過ごし方です。タカ氏は娘に「カーちゃんは、一日にふたつも美術館に行こうとするんだよ」と、ぼやいたとのこと。ふたつくらいは序の口です。けれど、4月8日は、ちょこっと盛りだくさんすぎました。
 午前中、10時から10時半まで上野公園を通り抜けて、名残の花見。10時半から12時半まで東京都美術館。13時から14時45分まで東京国立博物館でコレクション展。15時から15時半まで、科学博物館正面で開催されたストリートコンサート公演を楽しみ、16時から17時半まで西洋美術館。さすがに疲れました。

 上野公園の桜、去年枝が伐採措置尾を受けて、例年に比べ花の量がわびしい花見散歩でした。今年は自由が丘緑道と同じように少し回復してきましたが、花の下で写真を撮っているのはほとんどがインバウンド組でした。上野公園内でビニールシートを広げての飲食はできなくなったので、「新採用新人の最初の仕事は花見の場所取り。いい場所を確保できるかどうかで出世コースかどうかが決まる」なんて言われたのも今は昔。 

 昨年までの花見見物客のマナーの悪さ。枝を折って手に持ったり髪に飾ったりしてポーズをとっている姿がSNSで拡散され、「日本では桜の枝を折ってはならない」「ゴミは必ずゴミ箱に入れるか自宅に持って帰るのが日本の習慣」ということがいきわたったのか、少なくとも私の目には「目に余る」という花見客は見当たりませんでした。

花の下で仲良く

 午後3時から科学博物館前で、東京春の音楽祭のイベントで「金管五重奏」の演奏がありました。「聴いてってくださ~い!無料で~す」と叫んでいるので、聞きました。

 吹奏楽、好きですが、ブラス・クインテットは初めてかも。ラデッキー行進曲、森のくまさんジャズテイスト、ジャズの名曲(私の知らない曲だったので、曲名聞いたけれど覚えられず)、アメイジンググレイスジャズ風。楽しい選曲でしたが、アメイジンググレイスはあまりブラスクインテットに合わないと感じました。たぶん、この曲は透き通る女声で、という刷り込みがあったためでしょう。無料のおかえしに精いっぱいの拍手を送りました。


 噴水の前に座って思い思いに一日を過ごす人を見ていると、平和のありがたさがぽかぽか四月の空気を広げます。

 春の一日。昼は気温が上がり上着を脱いで美術館博物館をめぐりましたが、夕方になると風も出てきました。散り始めの桜でしたが、上野で花見散歩ができてよかったです。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「緑道の花見」

2025-04-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250408
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(2)緑道の花見

 上野公園とか目黒川沿いとか、都内の花見名所は各地にありますが、娘と毎年の楽しみにしているのは、自由が丘緑道歩き。昨年2024年春は、桜の老化が進んだためか、枝の伐採具合がひどくて、例年のような見事な枝ぶりじゃなかったのが残念でした。1年たって、枝は伸びたかしらと案じながら緑道を歩く。
 自由が丘緑道は、九品仏川を暗渠化して造られた約1.6kmの道。1974年にできた緑道に植えられた桜も、もう樹齢50年をすぎ、ソメイヨシノは、樹齢60年ほどが寿命だというので、緑道桜並木ももう老齢です。
 昨年伐採されて丸坊主状態だった桜の枝も昨年よりは回復していて、行きかう人も「きれい!」と言ってスマホを向けています。私と娘もそこここでシャッターを押しましたが、一昨年までの遊歩道の両側に枝を広げていた見事な枝ぶりを思い出してしまうと「まだまだだけど、去年よりはまし」と言い合いました。

  
 桜の木、上部伐採がわかる枝ぶり 
 

 
 花見ランチは、自由が丘のカフェ。ソラマメと明太子パスタとピーチライチのジャスミンティーセット。娘はイチゴショートケーキつきにしましたが、私は「控え」ました。
   

<つづく>
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ぽかぽか春庭「フレッシュたちの花見」

2025-04-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250406
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2025二十五条日記花見の春(1)フレッシュたちの花見

 春の花。つぎつぎに咲き誇る季節を楽しみます。
 駅前の河津桜(3月18日)


 我が家の椿(4月2日)咲きすぎ!

 4月に入ると、あちこち新入学の話題が花咲きます。桜の開花宣言が出てから雨の日が続いたりして、なかなか花見に出かけることができないでいました。4月2日も雨模様。お昼頃、雨が上がったかなと見えたので、病院での定期健診に出かけました。

 結果は、数値横ばい。ただし、悪玉コルステロールが急激に数値が悪くなっているので、何を食べたかくわしく聞かれました。お饅頭もチョコレートも遠慮なく食べている私。この悪玉コルステロールは、脂肪やら糖質やら、いろいろなものですぐに数値が悪くなるというので、正直に「まるごとバナナ」というバナナを生クリームとスポンジでくるんだおやつやチョコレート、どらやきなどを食べてきたことを白状すると、「控えてください」と女医さんから叱られました。はい、脂肪糖分、明日から控えます。


 花見だんごも控えるべき中、花の中歩いて通り過ぎました。
 花見散歩は病院近くの大学キャンパス。4月2日は入学式でした。


 11時から学部、14時から大学院の入学式、と看板が出ています。学部生新入生は入学式を終え、親といっしょの記念写真をとりまくっています。2025年度入学式と書かれた立て看板がキャンパスのあちこちに立てかけられており、長い列を作って撮影順番待ちをしています。ディズニーランド方式というか、列の次の順番の人がすぐ前の人たちを撮影する、という方式で写真を取り合っているようすがほほえましい。中国人学生がかなりの数を占めているのではないかとみえましたが、中国人の親世代にこの「次の順番の人がシャッターを押してあげる」という日本式の文化になじめるか、と老婆心。そもそも「列を作って並ぶ」という日本方式さえ、まだ社会に浸透していない地域から来た人たち、このカメラやスマホを次の人に渡して、シャッターを押してもらう、という「新文化」をどのように感じたでしょうか、聞いてみたかったけれど、中国語で質問する能力もないので、見てただけ。


 私も、財布の入ったバッグをベンチにおいたまま、周りの桜を撮影していましたが、バッグを持っていかれるなどという心配をせずに撮影していました。世界では、こんな不用心なことは通用しないと心得たうえですが、ほんとになんていう国かと思います。「手元から離したものは捨てたもの」とみなされて、たとえ5秒手から離しただけでも、ささっと持ち逃げされる、あるいは肩掛けかばんやポケットの財布も、盗まれる状態にしてある品物は、「みんなのもの」という治安の国も多い中、ベンチにおいたリュクサックは撮影を終えて戻って、ちゃんとベンチに残っていました。大学のキャンパス内だから、街中のように監視カメラがあちこちにあるわけじゃないですが、キャンパス内なら安心、という神話がまだ残されています。(実際には、置き引き注意の張り紙が病院の壁にもありましたが。


 成田空港で、鞄を落として中身を床にぶちまけてしまったら、回り中の人がみんなで拾い集めてくれて、なにひとつなくなっていなかった、という体験動画がyoutubeにUPされていたのを見ました。これから先、日本の治安もどうなるかは予測できませんが、のんびり安心気分で花見ができるような地域であるよう、願わずにはいられません。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ふぞろいな版画たち in 国際版画美術館」

2025-04-05 00:00:01 | エッセイ、コラム

20250405
ぽかぽか春庭アート散歩>2025アート散歩版画の春(7) in 町田市立国際版画美術館

 町田市立国際版画美術館で、ついでに見た「ふぞろいの版画たち」。テーマは「西洋版画のステート」。版画は、ステート(版画の段階や状態)によって、少しずつ見栄えがことなります。
 これは「版画の初刷り二摺、三摺どうちがう」というところに焦点を合わせたものまた、版画作者による「連作」として、色違いのシリーズ、改変などのバージョンが存在します。
 今回は、このステート違いの版画を並べて見る展示です。

町田市立国際版画美術館の口上
 ひとつの版からたくさんの同じ絵を生みだすことができる版画は、書物の挿絵のような何枚もの連続した画面の中に活動の場を見いだしてきました。一連の絵によって様々な物語を紡ぎ、また複製されることでその内容を広め伝えてきたといえます。
 一方で、同じテーマに基づいて制作された「シリーズ(連作)」も、版画家によってまったく異なる姿を見せます。くわえて同じ版から生まれた版画も、経年による版の劣化や、作者自身による版や刷りの改変といった「ステート(刷りの段階や状態)」の違いによって、異なった表情を見せます。さらに現代の版画家たちが、様々な「ステート」そのものを「シリーズ」として発表していることも特筆すべきでしょう。
 本展で紹介する作品は、ひとつの版から生まれ、連作の中で活躍してきた版画だからこそ、持ちえた魅力をたたえているといえるのです。同じに見えたり、似ていたりするけれども、どこかふぞろいな版画たちの魅力的な群像劇をお楽しみください。

 ひとつの版から何枚をすり出すか。たとえば、1975年の横尾忠則「聖シャンバラ」は75点が刷られたことがわかっています。
 数多く刷れば、刻線が薄れてきます。版画にはバージョン違いの作品もあります。同じ原画でも、色違いやボカシ具合の違いなど、バリエーションがさまざまにできる別作品となります。

 刷りと後の刷りが並んでいる作品の場合、私の印象では、やはり初刷りのほうが生き生きしているように感じました。

アルブレヒト・デューラー「ヨハネと七つの燭台」1498


パブロ・ピカソ「ダヴィデとバテシバ」1947リトグラフ 50部プリントされたうち第1ステート           第2~第9ステートのうち
 

 このピカソの版画では、第1ステートから第9まで、それぞれがかなり異なり、同じ原画とは思えません。別バージョン連作という趣でした。

 「ふぞろい」とは。
 現代の印刷では、何万部でも同じ刷り具合のものができますが、版画には初刷りからステート違いでカスレ具合とか、線の太さとか、さまざまなバージョンになります。そんなステートの違いまで楽しめるようになれば版画鑑賞達人なのでしょうが、私にはとてもとても。初刷りのほうが線がはっきりしている、くらいのことしかわかりませんでした。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(昭和期~現代)」

2025-04-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250403
ぽかぽか春庭アート散歩2025アート散歩版画の春(5)日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(昭和期~現代)

 「日本版画の1200年」のつづきです。
 1923(大正12)年の関東大震災から東京復興計画が立ち上がり、社会を変えていきました。都内の小学校は倒壊した木造校舎のあとに地震に備えたコンクリート造りの「復興小学校」が建設され、都心のビルも耐震を取り入れた構造をとりいれました。

 1920年代から版画界には、版画雑誌によって新しいアートを追求しようとする若者が集いました。創作版画誌『白と黒』や『版藝術』には、中国の版画家 も作品を寄せました。

 中国は古代から木版画が制作されてきましたが、蘇州版画など民衆版画が生まれ、日本にも影響を与えました。しかし西洋印刷術が普及すると蘇州版画も衰え、外国版画の影響を受けた木版画が出てきました。

ビアズリー「アーサー王の死」 1893,1894
 

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「脱穀する人」1922 


 魯迅は西洋版画について学び、版画の民衆浸透をはかりました。社会の改革には民衆への啓蒙が必要であり、そのために版画は重要だと考えました。
 ケーテ・コルビッツの版画の紹介もその仕事のひとつ。ケーテ・コルビッツは、保健医師と結婚したのち貧民街に移り住み労働者をはじめ、生涯弱者に寄りそう画材画題で版画を制作しました。

魯迅編集の「ケ―テ・コルビッツ版画選集」1936復刻1981                                  

 古くからあった中国の木版技術は,清代の蘇州版画に代表されるすぐれた民衆芸術を生みましたが,西洋印刷術の普及とともに衰微し,代わって近代に外国版画の影響を受けた新しい木版画芸術が生まれました。魯迅が中心となり、ヨーロッパの版画の画集を出版し,版画の講習会を開くなどして木刻運動を推進。日中戦争中,作家は奥地農村に移住し、農民や労働者に寄り添った画材・画風を確立しました。おもな作家に,力群,古元,李樺,汪刃鋒などがいます。私は、彼ら中国木刻画の作品をはじめてみました。

汪刃鋒「農民の印象1930年代後半~1940年代前半」木版
                頼少麒「民族の呼ぶ声」1936現代版画15集
  

劉崙「前面に障害物あり」1936現代版画15集 胡其藻「悲哀」同
  
 
 日本に留学していた魯迅の帰国後、中国版画界は新興版画運動を起こします。芸術は一部金持ちのものではなく、人民とともに社会を変えていくためのものであるという理念のもとに作品を生み出し、日本との交流も生まれました。しかし、1937年以後、日中戦争が泥沼化し、交流も途絶えます。

町田市立国際版画美術館解説
 創作版画運動が盛り上がると、1920年代から日本各地で版画家のグループが結成され、版画誌が隆盛します。日本留学中にこの動きを知った魯迅は、中国の創作版画ともいえる「新興版画」を提唱しました。版画家・編集者の料治熊太が主宰した創作版画誌『白と黒』や『版藝術』には、中国・広州の若者が1934年に結成した「現代創作版画研究会(現代版画会)」に作品を寄せ、日中版画交流の舞台になりました。しかし1937年に日中が本格的な戦争状態に突入すると、中国の作家は抗日や政治的主題を描く木刻運動に身を投じ、両国の版画交流は途絶えざるをえませんでした。

 魯迅が指導した中国の木刻画、中国新興版画と交流しました。中国との交流が困難になっても、「版画は、農民」・労働者の姿を描き、働く側に寄りそう、という版画界の姿勢は変わりませんでした。
 日本では料治熊太が「白と黒」「版芸術」を創刊し、日本の版画芸術の進展をはかりました。

料治熊太編集の「版芸術」「白と黒」が昭和初期の版画を牽引しました。


 今回、はじめて中国の木刻画の作品を見て、合点がいったところがあります。日中戦争以後、戦下の社会で、日本画家洋画家の中から従軍画家の派遣が行われ、数多くの戦争画が描かれたのに、版画家の戦争画が現在見ることが少ないのはなぜか、という私の素朴な疑問。
 織田一磨や戸張孤雁の版画は、先日近代美術館で見ました。そして「日本画洋画とも戦時下には従軍画家となって戦地へ赴いたり、国内にあっても戦意鼓舞の絵を描いたのに、版画で戦争画を見ないのはなぜか」という素朴な疑問を感じました。

 むろん、版画界にも戦時下の体制はできていました。紙や版画材料は統制下にあり、時局に非協力的な画家は紙も絵の具も手に入れることもがずかしい。しかし、木版画の場合、板も墨も工夫すれば配給によらずとも手に入れられる。自分で作れるからです。1943年には大政翼賛会の一翼として、版画界の統制団体である「日本版画奉公会」が設立されました。会長は恩地孝四郎。本会に属して何らかの国家への奉仕をすることが求められ、オリジナルとしては相撲力士などの版画が刷られましたが、日本画家の肉筆作品を版画化して売り上げを「奉仕」するなどの活動がせいぜいでした。

 邸宅の床の間、茶室、豪邸の壁を飾る洋画。金持ちの家を飾るために描かれてきた日本画洋画です。「戦意鼓舞の絵」と求められれば、アッツ島玉砕もノモンハンも描く。しかし、昭和のはじめから労働者を描き農民を描いてきた版画、また洋画に先駆けて抽象表現を模索してきた版画は、戦争賛美を表現するためには向いていなかった。
 昭和の版画界について知ると、日本画洋画を統率しようとはかった軍部も、版画の統制は難しいと感じたのではないかと思います。

 現代版画は百花繚乱。さまざまな表現が国の内外に開かれています。

浜田知明「初年兵哀歌(歩哨)」1954 上野誠「男(ヒロシマ三部作)」1959             
  

靉嘔「レインボー北斎ポジションA」1970スクリーンプリント            
          横尾忠則「聖シャンバラ火其地」1974シルクスクリーン
   

 1200年の歴史がある日本版画。仏像スタンプからはじまって、横尾忠則の聖シャンバラへ。
 「シャンバラ」とは、地球内部の空洞に存在するとされる理想世界アガルタ王国の首都の名称であり、そこには高度な科学文明と精神社会が存在するとされ、過去には東西の多くの科学者や権力者、探検家がアガルタを捜し求めてきました。横尾はシャンバラ発表当時、「シャンバラの神意と一体化するための瞑想のようなもの」と述べています。仏像スタンプに祈りを込めた仏画からシャンバラまで、像を彫リそれを紙などに写すのは人の祈りの心が反映されているのかもしれません。私がはじめて見た中国木刻画に感じたのも、祈りの心でした。縛られても止まない叫びも静かに心の中に抱え込むのも、祈り。

李樺「吠えろ中国」1935現代版画13集
                   上野誠「ヒロシマ三部作 女」1959
  

招瑞娟(1924-2020)「求む」1960木版

 絵画や版画に何を求めるのか、何を感じたくて私は絵や版画を見るのか。見なくても時間は過ぎていくし、人生は進んでいくのですが、見たいと感じるのも私の属性。あしたも見にいくだろうと思います。(無料美術館へ) 
 
<つづく>
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