春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2013年4月目次」

2013-04-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/04/30
ぽかぽか春庭 2013年4月目次

04/02 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>のんびり春休み2013春(1)オペラ「君と見る夢」
04/03 のんびり春休み2013春(2)水織ゆみコンサート2013春
04/04 のんびり春休み2013春(3)けんちく体操やってみた
04/06 のんびり春休み2013春(4)桜散歩私の好きな桜景色
04/06 のんびり春休み2013春(5)はじめの一歩スタートのさくら咲く
04/09 のんびり春休み2013春(6)東京楽友協会第94回コンサート

04/10 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>花供養(1)花めぐり花供養
04/11 花供養(2)姉と舅一周忌のころ
04/13 花供養(3)よしこちゃんの事故

04/14 ぽかぽか春庭@アート散歩>山本作兵衛炭坑記録画(1)東博シンポジウム山本作兵衛
04/16 山本作兵衛炭坑記録画(2)世界記憶遺産、山本作兵衛作品閲覧
04/17 山本作兵衛炭坑記録画(3)東京タワーの山本作兵衛展

04/18 ぽかぽか春庭感激観劇日記>演じられた母たち(1)劇団匂組公演「あかつき」
04/19 演じられた母たち(2)あかつき・おかねとあんた
04/21 演じられた母たち(3)「あかつき」の原作『永遠なる序章』
04/23 演じられた母たち(4)あかつきは来るのか
04/24 演じられた母たち(5)コーカサスの白墨の輪by東京ノーヴィレパートリーシアター
04/25 演じられた母たち(6)コーカサスの白墨の輪グルシェは母か否か
04/27 演じられた母たち(7)鼬のおかじ

0428 春庭ブックスタンド>2013年1月~4月の読書メモ
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ぽかぽか春庭「2013年1月~4月の読書メモ」

2013-04-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
マリーローラーサン

2013/04/28
ぽかぽか春庭ブックスタンド>2013年1月~4月の読書メモ(1)

 2013年1月~4月の読書メモ。
 例によって、何をいつ読んだか忘れていて、本の山の中から、「これは今年になってから読んだ気がする」と思えたのは、以下の通り。

 他の人の読書記録を見ると、児童書を中心に読んでいる人、旅行記を中心に読んでいる人、それぞれの好みがあって、とても参考になり、ああ、こういう本をいつか読んでみたいと思うのですが、私の読書は系統だってもいなくて、てんでんばらばらでそのときそのときに目移りした本を読み散らしています。それもこれも100円で手に入った本を読んでいくので、その時々でテーマがバラバラなのです。あえて、広くテーマをいえば、日本語言語文化、社会文化となりますが、これをいえば何でもアリです。

@は図書館本 ¥は定価で買った本 ・は、ほとんどBookoffの定価半額本&100円本。

<日本語・日本語言語文化関連>
@湯沢質幸『古代日本人と外国語』
@蛇蔵&海野凪子『日本人の知らない日本語3』2012メディアファクトリー

<評論・エッセイ、その他>
・辺見庸『いまここに在ることの恥』2006 毎日新聞社
¥田中忠三郎『物には心がある』2011 アミューズエディテュメント
・佐野洋子『がんばりません』2010 新潮文庫
・佐野洋子『覚えていない』2009 新潮文庫
・司馬遼太郎『歴史の世界から』2004 中公文庫
・司馬遼太郎『長安から北京へ』1996 中公文庫
・司馬遼太郎『中国・蜀と雲南のみち街道をゆく〈20〉』1987 朝日文庫
・司馬遼太郎『「明治」という国家 上』2008NHKブックス
・司馬遼太郎・陳舜臣『対談 中国を考える』1983 文春文庫
・松本侑子『アメリカ・カナダ物語紀行』2009 幻冬舎文庫
・田村仁『アンコール遺跡の光』2002 小学館文庫
・米原万里『ロシアは今日も荒れ模様』2001 講談社文庫
・高松宮喜久子『菊と葵のものがたり』2002 中公文庫
・関川夏央『昭和時代回想』2002 集英社文庫
・高山宏『近代文化史入門 超英文学講義 』2007 講談社学術文庫
@荒俣宏『イギリス魔界紀行』2003 NHK出版
@ジル・ネレ『バルデュス 猫たちの王』2006 タッシェンジャパン
・ハーバート・ピックス『昭和天皇上』2002 講談社

<小説・戯曲・ノンフィクション>
・村上春樹『1Q84 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』2009,2010 新潮社 
・黒田夏子『abさんご』2013 文藝春秋3月号
・田辺聖子『姥ざかり花の旅笠』2004 集英社文庫
・杉本苑子『雪中松梅図』1985 集英社文庫
・松井今朝子『幕末あどれさん』2007 PHP文庫
¥常見藤代『女ノマド、一人沙漠に生きる』2012集英社新書

 『1Q84』は、ブックオフで半額になってから買い、それからしばらく寝かせておいて、やっと読みました。ベストセラー本は、売れる前に読むか、すたれてから読むかで、売れている最中に読むのは気恥ずかしい。年末に『アフターダーク』を読んで、正月に『1Q84』と連続で読んだので、なんだかストーリーがごちゃまぜになって記憶されている。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も、読むのはいつになることだろう。

 米原万里のエッセイなんかも、百円本になってから読むので、評判になっている最中は読めない。マンガの『日本人の知らない日本語3』もようやく読んだ。講師室の同僚達は1も2も、いち早く読んで「日本語教師にとっては知っていることばかりだけれど、こうしてマンガにすると売れるのねぇ」という感想を聞いてきた。日本語学習者の誤用とか、「日本でびっくりしたこと、初めて見たもの」とか、毎期毎期必ずひとりはいる定番の発言や行動なんだけれど、これをだれが読んでもおもしろく笑える本にしたのは、蛇蔵のお手柄だと思います。

 石牟礼道子などと並んで、私が「印税を払わず読むのは申し訳ない」と思える数少ない作家のひとりである辺見庸。『いまここに在ることの恥』は、すみません、古本屋で100円で買いました。私もぎりぎり節約、、、、、家賃払えとUR都市機構が手紙よこして、期日に遅れた分には滞納利子をつけて払えという。辺見さんに印税払うべき分が、家賃の利息になってしまいました。次回は、新刊単行本で買いますから、今回はお許しください。

 久しぶりに雑誌を定価で買った『文藝春秋3月号』。いつも1、2冊入っているはずの文庫本が入っていなくて、何でもいいから読むもんと思って駅のキオスクの棚を見ても、読みたいような文庫がない。「文藝春秋」は芥川賞全文掲載っていう号で、そのうち、単行本が古本屋に出回ったら読もうと思っていた『abさんご』を読むことになってしまいました。芥川賞が話題になってベストセラーになれば、単行本売れて、1年後には古本屋に出回るのに、こんなに早く読むことになるなんて。いや、自分に合っている本なら定価で買っても文句は言わないけれど、合わない本だったので。

 常見藤子『女ノマド一人沙漠に生きる』は、フォトジャーナリストの「ホームステイ」記録。片倉もと子らの「女性によるイスラム社会」の記録、たとえば『イスラム社会の日常生活』などに比べるとややツッコミが足りず物足りない部分があります。表面上仲良くしていても、実は女同士のあいだに、嫉妬や反感が渦巻いている描写など、そうそう、それがホントよね。妻が4人いても、4人平等に扱われるから妻同士に嫉妬などないと言われていても、現実は違うよねと、同感できる部分もありました。
 文章リポートとして足りない部分は、本来写真で表現する人なのだろうけれど、この新書には写真はそう多くは掲載されていません。それで物足りない感がのこったのだと思います。

 高松宮喜久子『菊と葵のものがたり』は、高松宮妃の妹、榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』を読んだときに、「自伝を書くと結局は自慢話になってしまう階級の人(by佐野洋子の評)」の思い出話だと思ったので、皇室自慢話など読んでもなあ、と思ったのだけれど、『高松宮日記』の裏話でも書かれているのかと買って置いた百円本。
 東御苑お花見散歩のついでに三の丸尚蔵館で「旧高松宮家と伝来の品々」という展覧会を見たので、そうそうと思い出して読みました。

 「秩父宮に松平容保の孫を配し、高松宮に徳川慶喜の孫を配したのは、朝敵賊軍の末裔たち、まつろわぬ者どもをまつろわせるための婚姻だったのだなあ」と、あらためて感じたこと。新島八重も秩父宮妃に容保の孫の勢津子姫が決定したとき「これで会津の名誉が回復した」と感じたと語ったそう。征服者が被征服側から妃を選ぶという「まつろわぬ者」対策は、太古から変わっていないのね。

 ハーバート・ピックス『昭和天皇上』
 戦後の象徴天皇制度のもとでは「無力で実権なき平和主義者だった昭和天皇」というイメージが全国津々浦々に行き渡ったが、実際は強いリーダーシップを発揮して日本を戦争に導く役割を果たしてきた、という説を出してピュリツアー賞をとった。
 10年たった今では、反ピックス説も出そろった。私は出版後に評判になっていたころは特別読みたいとも思わなかったのだけれど、100円本になっていたので、まあころあいかと思って読んでみたら面白かった。

 種々の反論も含めて、これから検証していくべき人の伝記。昭和天皇にかかわった人がつぎつぎ鬼籍に入っていく今、側近の日記などがさらなる資料として世に公になることを望みます。周囲の大反対を押し切って、ひとつの記録として「高松宮日記」を公にした喜久子妃は、それだけでも評価できる。

 地震後の耐震化で休館していた国立文書館がリニューアルオープンして「近代国家成立時の記録」が展示されていたので、花見がてら見て来ました。晩年の明治天皇の御名御璽のサインの文字が極端に右肩下がりの「睦仁」なっていたのが気になりました。なぜあんなにも仁の「二」が右下がりになったのだろう。晩年の病気のせい?こういうのも、筆跡鑑定と身体状態がわかる人が見れば、わかるのだろうけど。糖尿病悪化の尿毒症で、満59歳での崩御。ワォ、今の私より若くしてみまかったのだわん。その明治天皇を「お手本」として生きた昭和天皇。

 さて、「退位なさいませ」だの国内公務もせずにオランダ行きはけしからぬだの、かまびすしい昨今、皇室ウォッチングも忙しい。本日オランダへ向けてご出発とか。リラックスしてすごせるといいですね。

 私の頭は一年中リラックスです。そりゃこんな私でも、悩みはありますよ。金がないとか、カネがないとか、かねがないとか、、、、。まあ、せいぜい古本屋の100円本でも買って読めば、悩み事大いなるこのご時世でも、ささやかな楽しみを見いだして生きて行けるというもんです。

橘曙覧の歌三首
たのしみは珍しき書(ふみ)人にかり始め一ひらひろげたる時
たのしみはそぞろ読みゆく書の中(うち)に我とひとしき人をみし時
たのしみは銭なくなりてわびをるに人の来たりて銭くれし時


私にもください。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「鼬のおかじ」

2013-04-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/04/27
ぽかぽか春庭感激観劇日記>演じられた母たち(6)鼬のおかじ

 2012年に友人K子さんが出演した劇『鼬-いたち-』が再演されることになり、小劇場がひしめく下北沢のなかでも、客席26席というミニミニ劇場で上演されています。東京ノーヴィーレパートリーシアター、4月23日~28日。

 4月25日7時の回を見ました。
再演の「鼬」は舞台装置も初演とは少し変わり、初演とは役者が変わった役もありましたが、K子さんは、初演に引き続き、老いた母おかじの役です。

 おかじは、東北地方のさびれた宿場町の、おちぶれた旧家のおっかあです。かっては、参勤交代で江戸への往復に、ご家老様の定宿だったというのに、今や「だるま屋」は、借金返済ができず、家屋敷を手放す寸前です。古畳までもが引きはがされ、襖しょうじに至るまで、貸し主たちに運び去られようとしています。
 おかじの息子万三郎は、「南洋で一旗揚げ、家を立て直す資金を稼いでくる」と言って家を出たきり、3年も音沙汰なし。娘のおしまは、ろくでなしの亭主とくっついで家出のあげく、亭主はやくざの出入りで牢屋入り。実家に帰ってきたおしまは、朝から酒をくらって隣近所に迷惑をかけてくるありさま。

 さびれた村もお盆には笛や太鼓の音が響き、人々はつかのま活気づいています。そんな中、おかじの死んだ亭主の妹、おとりが盆の線香立てにもどってきます。宿場の飯炊き女郎をして家の面汚しとされ、実家には10年も顔出しをしてこなかった。それが、どういうわけか帰ってきて、昔と同じように、ことごとく小姑のおかじと対立してしまいます。金ぴかの着物を着込んだおとりは、どうやら立ち行かなくなった実家を自分の手に入れようと画策しているようす。

 そこへ、万三郎が南洋から帰ってきます。家の借金のカタをつけるために帰省したと思ったのに、万三郎が持っているお金は、人絹工場を成功させたおとりが万三郎に貸したものでした。おかじには「おとりから借りた金」であることを秘密にしてほしい万三郎。おとりは、秘密を守ると見せかけて、家屋敷をそっくり自分のものにしてしまう腹です。

 おかじは自分の育ててきた鶏を大切にしてきました。たちの悪い鼬が鶏を狙っているのを、おかじはやっと追い払います。おかじにとって、おとりも「家を狙うどろぼう鼬」に見えます。
 村人たちは、借金のカタに押さえる物件をめぐって腹を探り合います。鼬を追い払うことができたおかじも、むすめむすこの行く末の始末はできません。
 万三郎が成功者になどなっていないことを知ったおかじは、鶏小屋を守ろうとしつつ息絶えます。

 1934年に初演された真船豊の代表作。登場人物ひとりひとりがくっきりと造型されていて、人間模様の織り上げが、精緻な図柄となって浮かび上がっていました。

 前回K子さんに会ったとき、役作りのため、文鳥を育てていることを語っていました。「鼬」の母おかじの心が少しでもわかるよう、小鳥を手の上にのせて息子の呼び名「まんず(万三郎の略)」と呼んでかわいがっている、と、おかじの役作りに入れ込んでいたK子さん。

 K子さん、再演の「おかじ」、とてもよかったです。公務員を定年退職してから取り組んできた演劇活動、これからもよい作品と巡り会って、芝居をみせてもらいたいです。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「グルシェは母か否か・コーカサスの白墨の輪」

2013-04-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/04/25
ぽかぽか春庭感激観劇日記>演じられた母たち(5)グルシェは母か否か・コーカサスの白墨の輪

 東京ノーヴイ・レパートリーシアターの「コーカサスの白墨の輪」演出は。
 舞台上手に物語の語り部がいます。男の語り部が鉦や太鼓を打ち鳴らしながらストーリーを展開させていき、あとひとりの女の語り部は、人形が演じるミハイルの声も担当していました。もうひとりの女語り部は三味線を弾く。この演出は、この物語が観客の目によって判断される「叙事的演劇」である、という効果を出す、という試みだと思います。

 恋人のシモンはグルシェが気高い母性愛の持ち主であることを理解し、ともにミハイルを育てていこうと力強くグルシェに語りかけて物語は終わります。
 そのあとは、出演者総出のフィナーレで、グルジアンダンスを全員で踊ります。K子さんは、「あなた、ダンス好きだからいっしょに踊りたくなったでしょ」と、笑っていました。楽しいダンスでしたが、私は、「わぁお、今回も出演者の数のほうが観客の数より多いかしら」と、そればかり気になってしまいました。

 下北沢にある劇団ノーヴイ・レパートリーシアターの定席は、客席26というマイクロ劇場なので、フィナーレに役者が並ぶと、観客数とたいして変わらず、スタッフをいれたら、これで、モトがとれるのかしらと心配になるくらい。シアターXの席数、最大にすると300まで広げられるところを、椅子にシートかぶせて100くらいになっていました。そこに50くらいは客がいたかしら。出演者は25人くらい。うん、観客の方が多かったわ。よかった!

 気はやさしいが、分別はあまり持ち合わせていなかったグルシェという娘が、血のつながりもなく、育て上げる義理もない赤ん坊を拾って育てるうち、貧困、飢え、周囲のさげすみ、ついには愛のない結婚を選択せざるを得ないという事態にも陥ってしまう。恋人を裏切る苦しみみも味わいながらも、母としての成長を遂げていく。
 未婚のまま子を育てているゆえ、兄嫁らのさげすみの視線も受けたグルシェ。食べるにも事欠いたグルシェ。グルシェは自らの闘いのなか、母となっていくのです。

 最後は、シモンと、「血のつながりはなくても愛に満ちた家族」を成就させるグルシェ。自分自身の力によって、周囲の圧力に立ち向かい、自分自身で正義を勝ち取っていくグルシェ、という人間像をくっきりと描き出した、という点で、ノーヴイ・レパートリーシアターの演出、役者はとてもよかったと思います。

 女手一つで、喰うや食わずで子を育てていく苦しさつらさ、しかし、それゆえの母としての誇りやよろこび、それをここにいる観客のなかのだれより味わってきたと自負できる私には、グルシェが最後に我が子を手放さずにすんだ裁判結果は、大岡裁判を知っていてもなお、ああ、よかった、と思えて、ラストダンスシーンの祝祭気分は盛り上がりました。

 ブレヒトによって描かれる女性が「無償の愛をささげる母性」「性を昇華して戦う聖少女ジャンヌダルク」「男に無限の愛を感じさせる聖なる娼婦」の3パターンしかなく、母が従来の母性神話から一歩も出ていかないことの不満、というのは、近年のブレヒト批判の常道なのだそうですが、ジェンダー理論による演劇批判というのもひとめぐりした感のある昨今、ブレヒトも違う目で見てもいいんじゃないかしら。

 東京ノーヴィの劇のなかで、グルシェは成長します。裁判の過程で、ミハイルといっしょにすごした時間が自分にとっての幸福であったことを、グルシェは自覚しています。彼女は、たよる男もいないなか、自分自身で自分の幸福を築き上げた。この幸福を「従来のジェンダー役割を一歩も出ていない」などと批判されてしまうと、「子とすごした時間が私の幸福」という考えから一歩も出ないですごしている私など、ほんとショーモナイ母親だということになってしまうので、ここは単純なブレヒト批判のほうこそ、蹴っ飛ばしておきましょう。

 母親が、「我が子とすごした時間こそ我が人生の幸福」と言って、何が悪い、ふん。
 いや、誰からも悪いっていわれていないですけど。

 「コーカサスの白墨の輪」で、グルシェが裁判で思いの丈を述べます。
 アツダクはグルシェに「お前が母と名乗ることをあきらめて、領主夫人に渡せば、あの子は莫大な遺産を受け継いで、幸福になれるのだ、おまえはミハイルの幸福を望まないのか。貧乏な母と共にいて幸福だと言えるのか」とつきつけます。
 そのときのグルシェの台詞。「いくらお金持ちになっても、真の愛情のない人生は不幸である」と、グルシェは訴えます。

あの子が金の靴をはいたら、その靴であたしたちをふんでゆくでしょう。
悪いことをするようになり、あたしたちをあざ笑うようになるでしょう。
石の心臓をだいて毎日をくらす、そんな不幸な一生をあの子はおくるのよ。
自分が飢えることはおそれても、光を恐れることを忘れるでしょう。
あの子が金の靴をはいたら・・・


 何の考えも持っていなかった台所女中のグルシェは、子育ての間にしっかりとした人生観幸福観を心に育てていました。どんな大金持ちであっても、真にミハイルを愛する人がいない中にいたら、ミハイルは幸福にはなれない。人生の真の幸福をはっきり悟った母に成長していました。
 そして、巨大な権力を持つ領主夫人に、徒手空拳で立ち向かったのです。グルシェの武器は、育てた愛し子への愛情のみ。

 アツダクは、ミハイルを白墨の輪の中央に立たせ、両手をグルシェと領主夫人に引かせます。痛い痛い、おかあちゃん、手が痛いよう、と泣き叫ぶ幼いミハイルの手を離してしまうのは、真に子を思う母の心。
 「人間らしく生きることは危険だ!それでも生きる事を恐れるな」という演出意図どおりに、グルシェは、ほんとうに人間らしい母のこころを表すことを恐れず、我が子を失ってしまう取り決めの行動をとりました。
 
 アツダクは、この裁判のあと、いずれへともなく姿を消したと、語り部はうたいます。この演劇が日本で好まれるのも、日本人は大岡裁判が大好きだし、母モノが好きだからですけれど、母は強しされどその手はやさし、という見応えのある劇として、これはこれで大団円。

 たった一人で、権力者の領主夫人に立ち向かったグルシェの行動を、観客たちは果たして我が身のことして受け止めたのでしょうか。ブレヒトの異化作用によって観客になんらかの価値観の反転をもたらしたのなら、観客たちは「大切なものを守るためなら、巨大な権力にたった一人で立ち向かう勇気」をグルシェに見いだして、明日からの「巨大な力」との闘いに立ち向かう力を得たことでしょう。

 もし、「長いものには巻かれろ、お上のいうことには従え」「政府が原発が必要だというなら、存続させよう」「沖縄に基地を置くことが国の安全というなら、そうなんだろう」と巻かれたまま「我が身だけの安全安心」を考える生活を続けるなら、たぶん、この演劇を見たことは「ひとときの安逸」を楽しんだだけの「劇的演劇」だったということになるでしょう。ブレヒトの理論ならそうなります。
 私は、グルシェの闘いを見た観客は、大切なものの真の幸福のために、「もの言うこと」を恐れない行動があることに、共感してフィナーレの拍手を送ったと信じます。

 わたし?巻かれないですとも。
 そして、ナリだけ大きくなってもパラサイトを続けている私の「大切なタコ」たちのために、老いた母、明日も食い扶持稼ぎに働き続けます。ナンダカナァ烏賊作用?


<つづく>
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ぽかぽか春庭「コーカサスの白墨の輪」

2013-04-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/04/24
ぽかぽか春庭感激観劇日記>演じられた母たち(5)コーカサスの白墨の輪by東京ノーヴィレパートリーシアター

 演劇史上、ブレヒトは、従来の「劇的演劇」として批判した人として知られます。「劇的演劇」とは、アリストテレスの演劇理論を祖とする総合的・伝統的・従来的ヨーロッパ演劇、すなわち演劇によって観客にカタルシスを感じさせ感情を昇華させる劇をいいます。
 ブレヒトにとって、従来の「劇的演劇」は、「酒でも飲んで、ウマいものでも食べて、一時つらい現実から目を背ける」ような性質のものでした。

 ブレヒトがめざしたのは、「叙事的演劇」です。役者は舞台上で出来事を説明(デモンストレーション)し、観客はものごとを異なる角度から捉えることによって現実に対して批判的な思考をし、世の本質を悟る。

 ブレヒトの演劇理論上、有名な用語は「異化効果」。いつも見慣れたものに対する新しい見方・考え方を観客に提示するというもの。観客を情緒的に舞台に巻き込んでしまうことを意図せず、できごとを現実と区別された「叙事」として扱います。物語的に特定の強調を施して再現する叙事演劇。観客に舞台から批判的な距離をとらせ、内容について熟考し,認識するきっかけを与えることが、叙事的演劇の目的だとされています。
 
 ブレヒト((Bertolt Brecht, 1898 - 1956)の演劇作品の中でも、「コーカサスの白墨の輪」は、ナチの手を逃れたブレヒト亡命中の作品として、重要な演目です。
 2005年に串田和美演出、松たか子主演で演じられたとき、見に行きたいなあと思っていたけれど、結局見る機会はありませんでした。(チケット高いし招待券なんぞもらえないし)演劇通によれば、このときの串田和美演出は劇的演劇だったとか。すなわち、美人女優によって「美食」を観客に食わせるもので、、、。

 まあ、ふつうは美酒美食を味わいに劇場へ行く人がほとんどだものね。歌舞伎見たり宝塚見て、人生観変えたという人、私は知らない。
 演劇見に行くのは、現実に対する見方を変えて、世を変え自分自身を変えるため、と思って劇場へ行く人も、いないことはないだろうけど。

 「コーカサスの白墨の輪」のストーリーは、もともとは中国の名裁判の話です。西にも伝わり、東に伝われば「大岡裁判」として有名な物語になる。
 実の母と育ての母が子をとりあい、大岡奉行は双方に子の右手と左手をひっぱりあわせる。子を欲しいという強い気持ちで子を引き寄せたほうが勝ちと言って競わせておきながら、実は、、、、というおなじみのお話なのですが。

 3月23日土曜日に、両国で友人K子さんとランチしてから、シアターX(カイ)で、15:00開演の『コーカサスの白墨の輪』を見ました。シアターXの「低料金ですぐれた演劇を見る」というシリーズの演目です。東京ノーヴイ・レパートリーシアターのシニアワークショップから発展した第2スタジオに所属しているK子さんが招待してくれたのです。

 劇団東京ノーヴイ・レパートリーシアターは、昨年2012年12月に、この『コーカサスの白墨の輪』を上演し、好評を博しました。
http://www.theaterx.jp/12/121212-121216t.php
 キャッチコピーは、「人間らしく生きることは危険だ!それでも生きる事を恐れるな!」
 「戦争の絶えないコーカサスを舞台に、誇り高くも無邪気な人々が大胆に生き抜く寓話劇。ヒットラーの政権下、亡命をよぎなくされた詩人・作家ブレヒトの痛烈な風刺が今を映し出す

 あらすじ
 復活祭の日曜の夜、反乱がおきました。領主夫人付きの兵士シモンも出征しなければなりません。台所女中のグルシェは、婚約者シモンの無事を祈って見送りました。都でシモンの帰りを待ち、無事帰還の後に晴れて結婚する固い約束が心の支えです。しかし、反乱はおさまらず、領主は殺されてしまいます。領主夫人はとっとと乳飲み子ミハイルを置いて逃げてしまいました。我が身の安全が第一。

 シモンとの約束ゆえ都に留まろうとしたグルシェの前に、置き去りにされた赤ん坊が泣いていました。ほっておけば、領主の子として反乱軍に殺されるは必至。どうしていたいけな赤ん坊を置き去りになどできようか。

 グルシェは、ミハイルを育てるために命を削って苦労を続けます。ミルクを買おうにも売ってもくれず、子を引き取ってくれる人もないまま、命からがら兄の家にたどり着く。
 兄は、子を抱いて帰郷した妹に驚愕し、世間体のために策を思いつきます。結婚前に子を抱えた、という不名誉を隠蔽する「立派な結婚」を。
 今にも死にそうな男がいるので、金でその男の母親を買収して結婚させてしまおうという妙案。ヨメも持たせずに息子を死なせてしまうという母親の嘆きも解消され、グルシェはすぐにも未亡人になって、「未婚の母」の汚名は負わなくて済む。

 しかし、戦争が終わると男はピンピン元気になる。重い病とは兵役逃れのための仮病でした。グルシェは帰ってきたシモンに真相を言えないまま、つらい別れをしのぶ。これもかわいいミハイルのため。しかし、ある日突然ミハイルは兵士に連れ去られてしまいます。

 戦争終結で領地に戻った領主夫人は、領主の相続者となった我が子を探させたのです。2歳になっているはずの我が子を探し出して、領主の財産を引き出さなければならないのです。相続権を持つ唯一の跡取り、ミハイル。
 領主夫人は、ミハイルがグルシェの元にいることを突き止めました。「我が子を取り戻すのは、産みの母として当然のこと」と夫人は息巻きます。

 そのころ、都の裁判官となっていたのは、アツダクというろくでなし。このろくでなしが、いかにして裁判官の地位を手に入れたかが、第2部のものがたり。

第2部の「アツダクはいかにして裁判官となったか」のシーン。縛られているのがアツダク。

 アツダクは、トリックスターのような存在です。いっときカーニバルの王として祭り上げられ権力を持つが、そのあとは、人知れず姿を隠す。

 第3部の裁判場面。グルシェ対領主夫人。夫人は弁護人も雇い、「産みの母のもとに戻すことこそ、ミハイルの幸福」と、論陣を張ります。アツダクは夫人側に多額の賄賂を要求します。
 一方のグルシェはシモンに励まされても、「この子はわたしの子です」と涙ながらに言うのみ。アツダクに要求されても、お金なんか持ち合わせていません。
 
 アツダクは「双方の言い分、どちらが真の母親か、判断つきかねる」といいます。「ついては、ここに白墨で輪を描いて、ミハイルをその中に立たせよう。双方から手をひいて、自分の側に引き寄せることができたほうが、真の母親。どうしても自分のものにしたいという強い気持ちを持った方が勝ち」
 結果はだれもが知っているとおり、、、、

<つづく>
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ぽかぽか春庭「あかつきは来るのか」

2013-04-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/23
ぽかぽか春庭感激感激日記>演じられた母たち(4)あかつきは来るのか

 ラスト、デモのシーンで、登場人物がやや力なく歌いながら、狭い舞台の中をぐるぐると歩きまわる。1970年代後半にそうであったように、力を失い、しょぼしょぼと歌われるようになり、皮肉をこめて歌われるようになったインターナショナルを思い出させるようなインターナショナルの歌われ方でありました。

 椎名麟三が原作を書いた1948(昭和23)年には、インターナショナルは、えらく元気よく歌われていただろうと想像します。「あかつきは来ぬ」と歌っていれば、ほんとうに夜が明けて暁がおとずれると、皆が顔を輝かして歌っただろうと思います。

 原作と演出の違いのなか、あとひとつ、役者の肉体で演じる以上、仕方ないのかなと思えることがありました。原作で、安太は戦傷によって「義足」になったとあり、安太は寝るときは義足をはずして、片足になるのです。安太は毎夜ふとんの中で失われた肉体を意識する。欠落を抱えて眠りにつく。

 舞台では、義足を履くことに無理があったのか、役者は、片方の足に現代の骨折治療用の装着具をはめていました。足を固定するフレームのつなぎの部分は金属で固定されている、ギプスのような装着具です。舞台小道具の記号化にとって、この差は大きい。義足が「欠落」であるのに対して、骨折用装着具は、「固定化=拘束」であるのです。欠落と拘束は、正反対のものであるのです。

 欠落は「そこにない」ものだから。安太が死ぬまぎわに魂の自由を得ることができたのは、欠落ゆえだろうと思います。「拘束ゆえ」ではない。
 役者にとってはつらい動作になるでしょうが、片方の足をうしろに折り曲げて、ズボンの中にかくし、膝の下に義足を結わえておく演出の方がよかったように思います。

 大森匂子がこの戯曲を完成したのは、つかこうへい、野田秀樹、太田省吾らが彗星の如く現れて縦横無尽に舞台を盛り上げていた時期らしい(公演パンフレットによると)
 その頃書き上げていた戯曲を、30~40年後に上演した、その情熱はすごい。しかし、現代において1948年に感じられた「あかつきはきぬ」を演じるのは、むずかしいことだったのだと感じます。

 骨折装着具への違和感と、インターナショナルのしょぼさ、このふたつがこの演劇において印象に残ったほかは、役者たちは熱演だったと思うし、大森匂子の台詞は、よく練られていたと思います。

 この「あかつき」は、「母おかねの物語」と思いました。
 おかねが食ってくってすべてを食い尽くす勢いで母となることを選択する物語、と、母モノ大好きのわたしは見ていました。

 演劇を見る楽しみ、いろんな楽しみ方があっていいと思うのだけれど、私流の楽しみ方、これはこれでいいんじゃない?

 演じられた母たちの物語、次回は「コーカサスの白墨の輪」

<つづく>
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ぽかぽか春庭「『あかつき』の原作『永遠なる序章』」

2013-04-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/21
ぽかぽか春庭感激観劇日記>演じられた母たち(3)「あかつき」の原作『永遠なる序章』

 原作を知らずに見た「あかつき」でしたが、結局、椎名麟三の『永遠なる序章』を読んでみました。(「日本文学全集56椎名麟三集」1970)

 大森匂子の戯曲のうち、「おかねが安太の子を身ごもった」という部分は原作にはないエピソードでした。原作『永遠なる序章』ではなく、『永遠なる序章より』とあるのだし、小説とそれを翻案した戯曲は別物と考えれば、原作にないエピソードを付け加えるのも許されることなのかもしれないけれど、この差は大きい。

 すなわち、椎名麟三は、デモの隊列のわきに安太をころりと死なせたのだけれど、大森匂子は、安太の子がおかねの腹に宿ったということにせずにはいられなかった、ということ。大森匂子にとっては、安太の生涯は安太の血が受け継がれることで昇華するってことなのだと思います。う~ん、このへんは、私の感覚とは異なる。私、血の継承ということにはこだわらないので。命は、私の命として完結する。私の遺伝子が未来永劫続くかどうかなんてことは、私の生涯の完結に関わらないと思うので。

 椎名麟三は1973年に61歳で死んだので、まだ著作権は切れていない。著作権がまだ残る作品に対して、このようなエピソードを付け加えることの是非についてはわからないのだけれど、作品の印象が大きく変わったことは確かだと思います。

 もうひとつ、外食券食堂は、原作に特に屋号は出ていなくて、この店の名を「あかつき」という屋号にしたのは戯曲のオリジナルだ、ということ。原作の最後のほうに出てくる、デモ隊の歌うインターナショナルの歌、「立て!飢えたるものよ、今ぞ日は近し。さめよ、我がはらからあかつきは来ぬ」から取られています。

 春庭のテーマ曲は「食べ放題インターナショナル」であることは、ことあるごとにテーマ曲を持ち出すので、今さら気がひけるのですが、かって、この歌にあるように「あかつきは来ぬ」のフレーズを歌うたびにほんとうに暁が近づいてくるような気がした時代があった、ということを、覚えている世代としては、大森匂子が「あかつき」という名を外食券食堂の屋号にしたのは、どういう意味を持たせたかったのか、わかる気もするし、「あかつきは来ぬ」は「あかつきはきぬ」と歌っていたけれど、実際は「あかつきはこぬ」だったのか、という気もする。(古典文法おさらい。「くる」の已然形に「ぬ」がくれば完了強調で、未然形+「ぬ」なら否定形ですね)

 受け取り方は、それぞれになるでしょう。「あかつきは来ると信じたのに、実際はこなかった」と思う人もいるだろう。
 このささやかな「あかつき」食堂にも未来を信じる気持ちがあります。実の娘に亭主を寝取られて駆け落ちされ、一人取り残されたというおかみさんにも、あかつきはくる。亭主と実の娘にかけおちされた女の乳をもみながら、「生きている」と安太が語りかけることの意味を「あかつき」という屋号に込めたのだろうと思います。

 最後のシーン。おかねが腹の子のために盛大に飯を食っているシーンに、現代人が登場して、人々はぼそぼそとカップラーメンや栄養ゼリーをすする、その「食べること」と「再生産=子を生み命をつなげること」が、なんだかとてもしょぼいことのように劇のシーンからは受け取れたのです。「食べること」が生の讃歌、生の謳歌には見えず、「日々の暮らしのしょぼい中で、生きて行くしかない」という食べ方に見えたので。

 大森匂子が「安太の生と死」をそのようにしょぼいものとして描きたかったのなら、この演出は成功しているのだと言える。しかし、「安太の子がおかねに宿る」ことを命の継承として寿ぐものであるなら、あまりにしょぼいインターナショナルでありました。

 あとになってK子さんの話をきくと、千秋楽にはみな元気を取り戻して、ほんとうにあかつきが来そうなインターナショナルになっていた、ということなので、お芝居というのは、ほんとうに見る日ごとに印象が変わる生き物だと思います。
 また、ラストシーンで登場人物がものを食うシーンは、演出家の意向であって、大森匂子は最後までこの「もの食うシーン」に抵抗していたとか。なるほど。

 若い頃書いた戯曲を、60代になって完成させ上演を果たした大森匂子さんにも感嘆するし、若い頃朗読劇の裏方手伝いをしていたK子さんが、定年退職後に演劇塾に通い、女優としてデビューしたことにも目を見張る。みな、がんばっているなあ。
 たぶん、私たちの世代にとって、あかつきは今なのです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「あかつき・おかねとあんた」

2013-04-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/19
ぽかぽか春庭感激観劇日記>演じられた母たち(2)あかつき・おかねとあんた

 主人公・砂川安太(すながわあんた)は、貧しく悲惨な生い立ちの青年。戦争では足を負傷して義足の身となり、復員後は胸を患い、鉄道会社の工場勤めも思うにまかせない。ついには肺だけでなく、心臓まで病に冒され、余命幾ばくもない、というところから舞台がはじまります。
 以下、物語の核心部を含む紹介です

・砂川安太:戦後社会に何の希望も見いだせずに生きる気力を失っていたが、余命がわずかであることがわかって以後は、生の輝きを感じるようになった。
・おかね:安太の下宿のおばさん。安太より14歳年上の40代。父親の異なる子ども二人を育てている。安太の工場の「便所掃除婦」をして暮らしている。
・竹内銀次郎:安太が従軍していたときの軍医。現在は生きる気力を失っているニヒリスト。
・竹内登美子:銀次郎の妹。兄を懸命に支えるが、兄によってむごい運命に落とされる。
・山本秀夫:画家だが、よくわからない活動もしている。お金は持っている。
・外食券食堂「あかつき」のおかみ
・外食券食堂「あかつき」のおやじ

 舞台は、アトリエの真ん中に2畳間くらいのスペースがあり、そこが安太の下宿でもあり、装置の入れ替えで外食券食堂「あかつき」にもなります。舞台の両側に客席が並んでいます。

 貧困の中での生い立ちで身よりもない安太は、復員後の殺伐とした社会と、戦争による負傷で義足となった不自由さを抱える暮らし。病院で胸の病の診察を受けて帰り、胸ばかりか心臓も悪くなっており、もはや余命幾ばくもない、という診断を受けています。

 しかし、余命少ないことがわかった安太は、これまでの無気力なニヒリズムからにわかに脱して、生の輝きを感じられたという気になる。
 そんな安太を、下宿先のおかねは、なにくれと世話をやこうとします。父親の違う子らを育てて、女としては何の華もない人生を送ってきたおかねにとって、安太の世話は、生活の中の唯一の彩りとも言えます。

 工場勤めの安太の昼飯は、弁当を持って行くか、外食券食堂「あかつき」ですませる。安くておいしい食事を作っているのは、「とよ」を連れ子にして食堂のおやじに連れ添っているおかみさん。
 安太に会いに、若い女性が登場する。安太の戦傷を治療した若い軍医竹内銀次郎の妹、登美子。美しくて清純な登美子はひたすら兄に尽くしているが、銀次郎は敗戦後の心の闇から抜け出せずに安太以上に虚無の心を抱えて彷徨っています。
 安太の知り合いは、この銀次郎のほか、画家というふれこみの山本秀夫もいる。安太は山本と議論をしたり自分では買えない本を借りたりしています。

 安太は、いつの間にやら親切に面倒を見てくれる下宿のおかねと同衾する仲になっており、おかねは一回り以上年上の醜女である自分を安太の相手にはふさわしくない、だまされているのではないかと感じながらも、生きる喜びを見いだします。安太が女性として心引かれているのは登美子であり、安太が登美子の借金返済のために金策をしたりするのに嫉妬しながらも、安太を失いたくないとこの関係にしがみつこうとします。安太は、おかねとは「性欲を掃き捨てるだけ」だと思っています。

 外食券食堂のおかみは、おやじが連れ子である娘とよと駆け落ちしてしまったことで、自暴自棄となります。安太は、おかみにも「女である肉体」をもって生きていることを思い出させて、生きる気力を与えようとします。
 一方、登美子は自宅が火事にあい、狂乱のまま病院に入れられます。火をつけたのは兄の銀次郎で、兄は妹を陵辱した上、心中をはかったのです。

 安太は、町の人々とデモに出ることを決意します。心臓の病を抱えて歩き続ければ、体への負担が大きいことを知りながら。高らかにインターナショナルを歌いながら町を練り歩いた末、安太は息をひきとります。
 おかねは、安太の子を身ごもっていたことに気付き、「40すぎの恥かきっ子だって、かまうもんか」と出産を決意する。
 茶碗に盛られた飯をかっこみかっこみ、沢庵を噛みしだくうち、暗転。
 
 照明があたると、そこは現代と思われる衣裳を着て仮面をつけた人々が、めいめい勝手な食べ物を食べている。私の目の前には、カップヌードルをすする若い男(銀次郎)。その前には、栄養ゼリーをすすりながらパソコンを使う若い女性。(登美子役だった女優)仮面をつけているのは、誰でもあり誰でもなしの一般ピープルだってことを示しているのでしょう。

 その中、安太役だった俳優だけ仮面をつけていない。これは安太の子孫という暗示をしているのかもしれない、演出意図がよくわからなかったけれど。
 もうひとつ演出の趣向のなかで、昭和22年の場面のときは、役者全員靴を履かず素足だったのに、現代の場面では、みな靴を履いている、スニーカーだったりパンプスだったり。これは何を意図しての靴ありと靴なしだったのか、わからなかった。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「劇団匂組公演「あかつき」

2013-04-18 00:00:01 | エッセイ、コラム


2012/04/18
ぽかぽか春庭感激観劇日記>演じられた母たち(1)劇団匂組公演「あかつき」

 何年か前、友人のK子さんが演劇講座に通っていたとき、いっしょに勉強した仲間がいます。わこさんという方。わこさんは、若い頃演劇に関わり、その後結婚生活のために演劇活動は「冬眠」状態でウン十年。自由な時間がとれるようになって、演劇への情熱を復活させました。「自作の戯曲を上演したい」と、演劇を勉強しなおし、2010年に「劇団匂組」を結成、2011年に第1作を上演しました。

 第1作上演のとき、私は見に行けませんでした。わこさん第2作目の上演にあたって、K子さんは、「劇団匂組公演制作助手」という立場で公演の裏方を勤めました。そして、劇団匂組第2回公演、「あかつき」に招待してくれました。
 2012年11月19日、午後の公演を見てきました。
 劇団匂組第二回公演「あかつき」椎名麟三「永遠なる序章」より 作:大森匂子 演出:三浦剛

 私は椎名麟三の小説をひとつも読んだことがなく、『永遠なる序章』についても、あらすじすら知りませんでした。椎名の作品が、なにやら哲学的でむずかしい小説ということのみ聞きかじっていて、「そんなむずかしい小説の戯曲化で、ぜんぜん内容がわからなかったらどうしよう。ゆうべは夜11時に寝て、1時半に目がさめてしまって、そのあとぜんぜん寝られなかったので、きっと寝ちゃうな」と、心配でした。

 仕事帰りに、荻窪駅で降りてアトリエだるま座へ向かいました。私が見る回は夜7時からなので、まだ早いのですが、初めての場所へ行くとき必ず迷うので、ややこしそうな場所にある新しい演劇スポットを確かめておこうとしたのです。一度場所を確かめて、駅に戻り、駅前のカフェとか本屋でで時間をつぶして、招待を受けた7時からの公演を見ようと思いました。しかし、駅前からまっすぐな道を、ただまっすぐ行くだけの場所にあったので、迷わずに着いてしまいました。

 3時からの公演が始まるところでした。受付で3時からの公演を見てもいいかと聞いたらOKだったので、50席ほどのアトリエ劇場の一番前に座りました。制作助手のK子さんは、公演本番中は「会場案内係」です。

 配布されたパンフレットを見たら、演出家のことばとして、「今回の演出は、原作である椎名麟三の『永遠なる序章』を読まずに構築した」と書いてあったので、「あら、演出家も原作読んでないのなら、私が原作読まずに理解出来なかったらどうしようと心配することはなかった、と、胸をなで下ろしました。原作とは別物として演劇を見ればよろしいってことでしょう。

 「この作品は、あくまで大森匂子の「あかつき」であり、演じる俳優達も、観劇してくれる皆様も、平成24年の今に生きる現代人だ。我々が作り上げてきた昭和22年の群像劇を現代人である皆様と共有し、想像力の限りを尽くして、麟三が見た戦後を、そこでこそ見えてくる人間の光と闇を再発見して頂けたら最高だ
というのが、公演パンフレットにある演出家のことばです。

 パンフレットには、現代人にはわからないであろう戦後の語彙が解説されていました。「外食券食堂」「新宿の二幸」「PX」「省線電車」「夢の島遊園地」「船橋に湧きでた温泉」「麻布に志願」「キンカン」が解説されていました。
 戦後すぐの生まれである私も、戦後史のことばとして、闇市とか外食券食堂などのことばは知識として知っていましたが、ゴミの埋め立て地「夢の島」に遊園地設立計画があったとは知りませんでした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「東京タワーの山本作兵衛展」

2013-04-17 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/04/17
ぽかぽか春庭@アート散歩>山本作兵衛炭坑記録画(3)東京タワーの山本作兵衛展

 3月18日、東京タワーに行きました。展望台に上がるためではありません。1階の特設会場で「世界記憶遺産の炭坑絵師山本作兵衛展」が東京タワー開場55周年記念として開催されていたからです。読売新聞と東京タワーの共催です。
http://www.tokyotower.co.jp/55/index_05.html

 最初のコーナーは、10点の水彩画複製画。次に、59点の原画水彩画と山本作兵衛の遺品。炭坑の写真などから構成されていました。先に感想を言ってしまうと、山本作兵衛展としては、少々物足りなさ感がありました。東京国立博物館の講演会のとき見たときのほうが感激があったのは、会場に田川市からやってきた人々が絵の解説ボランティアをやっていたりして、熱気があったからかも知れません。

 ただ、東博ではとても混み合っていてゆっくり絵を見ることは出来なかったのに対して、月曜日の東京タワーは観光客も少ない日なので、一枚一枚、時間をとって見ることができてよかったです。

 出品目録も置いてない会場なのに、レプリカについても、写真撮影は禁止。
 招待券で入ったときは図録を買うけれど、今回は入館料1200円払ったので、図録は買いませんでした。田川市石炭・歴史博物館編集の絵はがき10枚セットを買いました。500円。

 作兵衛は1000枚の炭坑記録画を描きましたが、繰り返して何枚も同じ題材を描いたことがわかるよう、同じテーマの作品が並んでいるコーナーがあり、作兵衛の画業の一端を知るためによかった。炭坑共同風呂場の絵が5点同じ題材で並んでいました。写真の左右裏焼きのように、左右逆になっている絵もあり、作兵衛は記憶の中の炭坑の労働と人々の生活のようすを、何度も反芻するように描き出していたということがよくわかりました。男女混浴をだれも気にもとめずに入っていたのがわかります。

炭坑の共同浴場。絵はがきを写真にとってのUPなどで、色具合が原画とちょっとちがうけれど。


 ユネスコは、選定登録の条件として、世界記憶遺産になった絵などを広く公開することを求めています。
 田川市石炭・歴史博物館も、インターネットミュージアムとして作兵衛炭坑画を見られるサイトを設けてありますが、残念ながら、このサイトの絵は小さすぎて、文字が読めません。

 作兵衛は、はじめは文字記録だけしていました。しかし「孫やひ孫にとって、文字だけでは面白くなくて、自分の死後捨てられてしまうかもしれない。絵があればわかりやすくて、後代になっても見てもらえるだろう」ということで66歳から絵を描き出したのです。ですから、作兵衛としては、炭坑の絵と文字は一体となった記録であったはず。
 田川市が、文字も読み取れるような大きなネットミュージアムにしてくれることを希望します。せっかくの記憶遺産、広く大勢の人に見て欲しい。

 絵を描きながら、作兵衛は「自分の絵は記憶しているまま真実を描いているけれど、ひとつだけ、嘘がある。炭坑坑道の中は、暗くて絵に描いたように明るく見えることはない。でも、真っ暗の画面じゃわかりにくいから、人も石炭もはっきり見えるように描いている」と述べています。
 「後世の人に炭坑の真実を伝えたい」という作兵衛の心を感じとりながら、東京タワーの足下に並べられた絵を一枚一枚、心して見て行きました。


 作兵衛は明治から昭和までの炭坑を経験した人ですが、「昭和の記録は写真があるから」と、主に明治大正時代の炭坑の記憶を絵に残しました。

 東京タワーが建った1958年という年、まさに山本作兵衛が炭坑画の作画をはじめた年にあたります。日本の敗戦からの復興を象徴し、人々の希望を表すように空高く見上げる存在だった東京タワー。同じ頃、炭坑は衰退へと向かい、山は次々に閉山していきました。
 作兵衛は、1975年に筑豊炭田がすべて閉鎖となったのも見届け、1985年に92歳で亡くなりました。

 これから、絵の保存方法については、いろいろ手立てが施されることでしょう。画集やレプリカでいいから、たくさんの人に作兵衛の画業を知ってほしいです。

 展望台、上がるかどうかちょっと迷いましたが、18日は炭坑画だけにして、夕暮れのなか、タワーを見上げながら帰りました。




<おわり>
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ぽかぽか春庭「世界記憶遺産 山本作兵衛作品」

2013-04-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/04/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>山本作兵衛炭坑記録画(2)世界記憶遺産、山本作兵衛作品閲覧

 自費出版された作兵衛の炭坑記録画に注目した人のひとりが、田川市立図書館館長の永末十四雄でした。炭坑の記録としての資料的価値に気付き、永末は「炭坑資料を集める運動」への協力を求め、作兵衛は水彩画スケッチブックを23冊寄贈しました。1964(昭和39)年のことです。

 永末は、それまで墨絵で描かれてきた炭坑画に彩色することをすすめ、大型ケント紙と岩絵の具を提供しました。作兵衛は永末に応じ、1966(昭和41)年までに、260余枚を田川図書館に寄贈。作兵衛は74歳になっていました。

 1972(昭和42)年、九州の炭坑に深く関わってきた上野英信によってNHK教育テレビが特別番組「ある人生 -ボタ山よ」というタイトルで番組が作られました。
 それを目にした講談社が、『画文集 炭鉱に生きる』を出版するに至り、さらに永末十四雄・木村栄文・上野英信・田中直樹らが1973(昭和48)年に『山本作兵衛画文 筑豊炭坑繪巻』を刊行しました。

 そして、2011年。田川市所蔵584点(墨絵原画306点、水彩画278点)、山本家所蔵福岡県立大学保管の絵画4点、日記59点、原稿などが、まとめて世界記憶遺産として認定されました。

 以下のサイトで作兵衛作品を閲覧することができます。(ユネスコは記憶遺産選定後にインターネット公開することを求めています)
 前半は、昭和30年代に描いた墨絵、後半は昭和40年代に描いた彩色がですが、4秒に1枚。1分間に15枚出てくる自動再生で見て、田川市と福岡県立大学所蔵の750枚ほぼ全作を見るのに50分かかります。1時間とれるときに、ゆっくりごらんください。価値ある750枚です。
 http://www.y-sakubei.com/world/index.html

 作兵衛が描いた約1000枚の絵のうち、750枚が見られるので大いにけっこうなのですが、画面の拡大ができず、私の小さなパソコン画面では、文字まで読み取ることはむずかしい。作兵衛は,自分の作品について、炭坑についての説明と絵と一体となっているものとして描きました。文字が読める程度の大きさにしてくれたらありがたい。

 1970年代後半、作兵衛の絵が有名になると絵を欲しがる人が増え、作兵衛は気前よく作品を欲しいという人に贈呈してしまいました。作兵衛は1984(昭和59)年12月19日享年92歳で没するまで、1,000点以上の炭坑記録画を残しましたが、個人蔵となって秘匿された作品も多く、後半の作品は散逸してしまったものが多いとのことです。

 大型ケント紙に描かれた原画をレプリカでもいいから見たいと願ってきましたが、東博のシンポジウムで、4月から東京タワー1階特設会場で、「世界記憶遺産の炭坑絵師 山本作兵衛展」が開催されることを知りました。

 東京タワーの展示品は、記憶遺産登録後に奇跡的に発見された作品、個人所蔵の作品など、原画59点、また彼の遺品などを展示。i
 東京国立博物館の展示も複製画でしたから、原画がまとまった数で公開されるのは、東京では初めてのこと。田川市が所蔵しインターネットで公開されているのとは別の作品が多いだろうと思い、見ておくことにしました。

2013年3月16日(土)~5月6日(月)会期中無休
http://www.tokyotower.co.jp/55/index_05.html

 私は、3月17日に見てきました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「東博シンポジウム山本作兵衛」

2013-04-14 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/04/14
ぽかぽか春庭@アート散歩>山本作兵衛炭坑記録画(1)東博シンポジウム山本作兵衛

 2月9日に、東京国立博物館平成館講堂で、「山本作兵衛シンポジウム」がありました。
 応募葉書で申し込みをして、聴講することができました。主催は東博と田川市石炭歴史博物館です。

 2011年に、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が「世界記憶遺産」として登録されてから、コレクションの展示を心待ちにしていましたが、なかなか展覧会が開かれませんでした。
 今回のシンポジウムで、田川市博物館の方針で、作品保護保存を優先し、展覧会はあとまわしにした、ということがわかりました。町おこしなどに活用したかったでしょうに、賢明なことだったと思います。

 これは、東京練馬のいわさきちひろ美術館でも説明がなされていましたが、紙の保存に関わることです。コウゾやミツマタを原材料として伝統技法で作られた古代の紙は、千年たっても劣化が少ないのに対して、19世紀後半から20世紀にかけて普及した洋紙類はほとんどが酸性紙で、絵の具のノリのよい「画用紙」が安く大量に学校教育用から画家の使うスケッチブックまで使われました。

 酸性紙が50年から100年ほどでボロボロに劣化し崩れてしまう紙だったことがわかってきたのは、1970年代からで、日本で中性紙に切り替える動きが出てきたのは、ようやく1980年代以後のこと。すなわち、1850年から1980年ごろの間の紙は、早晩劣化しぼろぼろの粉のようになってしまう。

 いわさきちひろが使っていたスケッチブックも、山本作兵衛が1000枚の炭坑画を描いた画用紙も、酸性紙であり、日光などにさらされるとたちまち劣化してしまう。いわさきちひろ美術館に展示してあるのは、この問題を断った上で、ほとんどがコロタイプ印刷によるレプリカ(複製画)でした。
 東博平成館のロビーに展示されてた炭坑画も、ほとんどがレプリカでした。

 私は、精巧なコロタイプ印刷による水彩画複製画は、原画と同じように鑑賞できると感じています。版画が1枚目と2枚目がまったくの同一ではなくても、同じように鑑賞できるのと同様に、水彩画は複製であっても、一般の人が見るのには十分鑑賞にたえます。絵の具の盛り上がり、タッチなどが微妙になる油絵では複製画は原画の迫力に勝ることが難しいでしょうが、山本作兵衛の炭坑画にとって、「オリジナルの原画ではないから、作兵衛の絵の魅力が減じている」とは思いませんでした。複製であっても、これから積極的に人々に見てもらいたい作品です。
 
 世界記憶遺産は、ユネスコが「人類が長い間記憶して後世に伝える価値があるとされる書物などの記録物」を選定しているものです。
 日本で最初に記憶遺産として登録されたのは、田川市と九州大学が保存している炭坑画でした。2011年5月、日本最初の記録遺産として大きく報道されました。以来、作品の保護保存がはかられてきました。

 山本作兵衛。50年間炭鉱夫として働いた炭坑での労働の日々を、正確な絵と文章で再現しています。絵の専門的な訓練を受けていない人の手による、「プリミティブアート」のひとつと言えるのかもしれません。作兵衛の絵には、専門的な絵描きが絵のわざを駆使して描いたのとは異なる魅力が感じられました。
 作兵衛の絵には、実際に炭坑の中で生きた人にしか描けない、圧倒的なリアルかつあたたかい、人間の真実を見つめる目があります。すばらしい絵です。

 作兵衛は、1892(明治25)年に、福岡県で生まれました。小学校に入るとまもなく、作兵衛も7、8歳のころから兄とともに、炭車押しなどの構内作業に携わり、家計を助けながら小学校を卒業しました。

 初めて絵を描いたのは、弟の初節句に送られた加藤清正の兜人形写生したときのこと。貧しい一家に絵の題材になるものはほかになく、くり返しこの人形の絵を描き続けたそうです。尋常小学校を卒業したのち、絵を描く仕事がしたいとペンキ屋に奉公したこともありました。しかし、丁稚奉公は年期があけるまでは給金は無し。弟妹を抱えた一家の家計を助けるために1906(明治39)年、15歳のときから炭鉱夫として働き続け、1955(昭和30)年に田川市位登炭坑を閉山によって退職するまで50年間にわたって、15の炭坑を渡り歩く生活でした。作兵衛は63歳まで、ひたすら炭坑で働き続けたのです。
 50年にわたる炭坑の仕事。九州の炭坑も次々に閉山となっていきました。

 作兵衛の生活に絵筆が戻ったのは、1958(昭和33)年のこと。65歳の作兵衛は、1957年から、田川市弓削田の長尾鉱業所本事務所の夜警宿直員として再び働き出しました。
 夜間警備の仕事。巡回の合間、警備室でじっとしていると、マラッカ海峡の海戦で戦死した長男のことばかり思い出されて、つらい夜が続きました。1年もたったころ、気を紛らわす手すさびとして思いついたのが、炭坑時代を記録に残すことでした。



 作兵衛は自筆年譜にこう書いています。
 「ヤマは消え行く、筑豊524のボタ山は残る。やがて私も余白は少ない。孫たちにヤマの生活やヤマの作業や人情を書き残しておこうと思い立った。文章で書くのが手っ取り早いが、年数がたつと読みもせず掃除のときに捨てられるかもしれず、絵であればちょっと見ただけでわかるので絵に描いておくことにした。」

 東京国立博物館でのシンポジウムでは、作兵衛の業績を短くまとめたビデオが放映されましたが、その中に一冊のノートも写されていました。尋常小学校へ通うにも、炭坑の仕事をしながらの通学であった作兵衛が、炭坑の記録を書くために、漢和辞典を丸ごと筆写して漢字を覚えるためのノートでした。生真面目な筆跡で一字一字書き写しているノート、ほんとうに頭の下がる努力の跡でした。

 元々、人に見せるつもりはなく、自分の過ごしてきた炭坑の生活を孫に伝えるための記録でした。3年の間に、絵と文章を描きこんだスケッチブックが15冊にもなりまいた。

 昭和36(1961)年冬この炭坑記録画に目をとめたのが、長尾鉱業所会長の長尾達生です。2年後、300枚の炭坑記録画のうち140枚の抜粋が『明治・大正炭坑絵巻』として自費出版されました。墨で描かれた絵と文章による記録でした。自費出版であるし、衰退産業である炭坑の記録に目を向ける人も少なく、中央にはほとんど知られることがありませんでした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「よしこちゃんの事故」

2013-04-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/13
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>花供養(3)よしこちゃんの事故

 知り合いのよしこちゃんが亡くなりました。事故のニュースを聞いても、それが私の知っているヨシコちゃんのことだとはまったく気づかずにいました。それほど、「死」とは縁遠い、元気いっぱいの人でした。
 私は、フルネームはうろ覚えで、「よしこ」というダンサーネームを呼んでいただけでしたから、「舞浜、砂田芳子」というニュース報道を聞いても、ピンとこなかったのです。

 知り合いといっても、親しくつきあっていたわけではありません。
 私たちのジャズダンスの先生は、水曜昼と木曜夜と金曜夜にジャズダンスグループの指導をしています。火曜日は個人レッスン。
 私が所属しているのは金曜夜のグループです。水曜昼のグループ、前はメンバーでしたが、今は夏休み春休みに参加するだけのゲスト会員です。
 そしてよしこちゃんが所属する木曜夜のグループの人とは、春と秋の発表会のときに見にいって応援する、打ち上げ会でお話しする、というだけの淡いおつきあいでした。

 よしこちゃんは、ダンス公演打ち上げ会のときなどに、モトクロスライダーであることとか、アドベンチャーレースに出場するとか、世界中への一人旅の話とか、「冒険女」の愉快なお話を聞かせてくれました。
 すごい人がいるなあと思い、尊敬のまなざしで見つめる、そんな程度の「知り合い」でした。

 よしこちゃんは、アドベンチャーレースという競技の女性選手で、2010年のマウンテンバイクオリエンテーションの日本代表選手にも選ばれたアスリートでした。ダンス仲間にとっては、踊っている姿が目に焼き付いていますが、アドベンチャーレースの知り合いにとっては、日本のアドベンチャーレースを牽引する有力女性選手でした。

 アドベンチャーレースは、オリエンテーリングを伴うトレッキング・マウンテンバイク・パドリング・ロープワークなどの種目にチームや個人で取り組み、スタートからゴールまで、夜間行動もある3日以上の超長距離レースです。カヌーもチーム種目に含まれます。

 ジャズダンスの先生にはとてもショックな事故だったのだと思います。2月22日の練習が終わったあと、28日の練習開始前、、2度にわたって、ヨシコちゃん事故のお話をされました。愛弟子の死去、先生の悲しみが伝わりました。

 事故のようすのニュース報道です。(<共同2013/2/17)
 16日朝、千葉県浦安市の境川から男女2人がカヌー2艇で東京湾にこぎ出したまま戻らず、17日午前、対岸にある千葉県市原市の海岸で遺体で見つかった。
 県警によると、2人は東京都足立区竹の塚2、会社員、芝田敏仁さん(47)と、千葉県浦安市舞浜2、アルバイト、砂田芳子さん(38)。
 2人ともライフジャケットを身に着けており、芝田さんは護岸から10メートル付近を漂流、砂田さんは消波ブロックに引っ掛かっていた。カヌー2艇は17日未明、千葉県袖ケ浦市の護岸付近で見つかった。1艇は真ん中で二つに大破していた。県警で死因を調べている。
 銚子地方気象台(千葉県銚子市)によると、16日は千葉県北西部に強風波浪注意報が出ていた。
 県警などによると、カヌーは浦安市カヌー協会の所有で、2人は会員だった。協会関係者が16日朝、2人が海にこぎ出すのを見ていた。同日夜、砂田さんの母親が「朝、娘がカヌーをしに出掛けたまま戻らない」と110番した。
 千葉県カヌー協会によると、砂田さんはカヌーの全国大会出場経験もあるという
。〔共同〕

 3月6日に、水曜日の練習後のランチ会で、よしこちゃん事故その後の話を聞きました。この事故の報道のあと、ネットには、事故バッシングが吹き荒れました。「カヌー練習中止の要請があったのに、こぎ出していったのは、自業自得」「荒れた海に出て行ったのは、死にたかったのだろう」などなど、よしこちゃんを知りもしない人たちが勝手なバッシングを続けました。

 よしこちゃんのお母さんは、80歳をすぎた高齢者。娘が先立ってしまったことだけでもショックなのに、無責任なバッシングが娘のブログやfacebookのコメント欄に押し寄せたということを知って、いっそうの絶望に落ち入り、悲しみから立ち上がれなくなっている、というのです。

 よしこちゃんを知っている人は、彼女が自分を律する自制心も持ち合わせ、十分な訓練も積んできた人であることを理解し、それでもこのような事故に遭ってしまったことを残念に思い、彼女を悼んでいます。

アドベンチャーレースチーム「Real Discovery」の見解
http://realdiscovery-geoquest.blogspot.jp/2013/02/blog-post.html

 ニュースの中の人を直接知らないのであるなら、報道のみを鵜呑みにして無責任な言動を書き散らすな、と言いたい。
 
 ニュースが流れたとき、さまざまな感想を持つのは、人の心の自由です。しかし、それを他者に公表するとき、大きな責任が生ずることも承知の上でネットUPしてほしい。ただ無責任な感想を垂れ流すのは、大本営発表を鵜呑みにして報道ともいえない報道を続けた新聞社と同じ。戦争に勝っていると発表されれば「皇国大勝利」と書き、原発絶対安全と発表されれば、「原発は安全」と書き続けた、ことばを文字にする資格のない人間のやること。

 なんの反論もできない人を批判するのは、弱い者イジメの典型です。このような批判しかできない人は、権力を持った人にたちしては、へつらい、権力にすり寄るような人なのだと推測する。そうでないと言いたいなら、力を持たぬ人へではなく、権力者を批判する文を書いてUPしなさい。
 
 私も、ブログに書くことと書いたことを中心にして仲間とことばを交わし合えることを喜びとしている者のひとりです。
 公人として世に出ているひとは、公人として活動する分野に関しては、あらゆる責任をとる決意をし、批判を受け止める覚悟をした人である、と私は解釈しています。根拠のある批判ならどんどんしてよろしい。たとえば、東電の社長が、公人として東電の事故の批判を受けるのは当然のことと考えます。

 しかし、私人である人について、直接の知り合いでもない人が書くときは、報道以上の事柄についてきちんと調べを尽くして感想を書くのは当然のことでしょう。直接知らない人について、一般報道のみを読んで書くのであるなら、無責任とのそしりを受けても仕方がない。

 中東の紛争地区で人質になった方が、処刑されてしまった事件がありました。あのときも「自己責任論」が無批判に垂れ流され、ご家族の心を傷つけました。
 ひとりの人の死は、周囲の多くの人の心に影響します。人の死を話題にしたいブログの書き手に、どうぞ、人の心を玩ばないで、人の死に対して厳粛に受け止めてほしいと願っています。
 このような願いが届く人々ではないのかも知れませんが、どうぞ、人を傷つけるような無責任な記述はしないでください、お願いします、としか、今の私には言えません。

 北極南極探検が盛んなころ、極地探検に出かけた探検家の多くが命を失いました。冒険家の植村直己は、マッキンリー世界初の厳冬期単独登頂後に行方不明となりました。彼らに「そんな危険な場所に出かけたのは、自己責任だから死んでも当然」と言い放てる人がいるでしょうか。彼らがやむにやまれぬ挑戦する魂を持ち、十分な準備をして出かけたことを、押しとどめることはできません。彼らは挑戦者なのです。

 よしこちゃんは、アドベンチャーレースの挑戦者として、カヌーの元国体選手として、レースの現地では当然ゆきあうであろう3mの高さの波を想定して、その訓練をしておかなければならないと判断した。決意して挑戦したのであったなら、私は、その挑戦を「制止の中、出て行ったのだから死んで当然」などと死者にむち打つことはできないと考える。挑戦して、結果的に敗れたしまったことを残念に思い、挑戦者の魂に手を合わせるのみ。
 
 2月の事故の日から2ヶ月ちかくがすぎました。遠くかなたの世界で冒険を続けていることでしょう。あなたの溌剌とした姿を、忘れないでいます。
 よしこちゃん、どうぞ安らかに。

花芥散り敷く水面の水の輪に漕ぎ出る命よ遙か目指して


<おわり>
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ぽかぽか春庭「姉と舅の一周忌のころ」

2013-04-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/04/11
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>花供養(2)姉と舅一周忌のころ

 今年は、冬がめちゃくちゃ寒かったのに、桜は存外に早くて、3月16日には東京に開花宣言が出ました。しか寒の戻りがあり、入学式まで桜が残っていて、今年の新入生は桜を背景に記念写真が撮れました。いつもより花の時期が長かったとはいえ、週末6日7日には春嵐が吹き、東京の桜は散り、ぼってりと色濃い八重桜のみ残りました。

 東京よりは1~2週間おそく桜の時期となるふるさと。10日11日の今頃、桜はのこっていましょうか。それとも桜吹雪だったでしょうか。今年は4月10日の姉の命日にも故郷の寺へ墓参りに行きませんでした。
 11年前、4月10日に54歳で亡くなった姉の忌日を桜吹雪忌と呼んで、遠く流れてくる桜の花びらが目に入れば、姉の魂が送ってよこした桜と思うことにしています。

 10年前にUPした日記。知恵の輪日記から「三色七味日記2003年3月下旬」を再録します。
 http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0303c7mi.htm
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2003/03/29 土 晴れ
日常茶飯事典>納骨

 1時から寺で納骨。墓石の文字を「眞」の一字にして、実家の墓は、両親と三人姉妹、四つの名字の家族共同墓となった。
 「○○家代々の墓」というこれまでの墓石では、他家に嫁に出た名字の異なる娘が墓に入ることができない、という寺からのお達しにより、墓石を新しくしたのだ。墓石代負担分三分の一で15万、本日分のお布施1万。でも、これで私がこの墓に入る権利確保。

 死んだ後などどうでもいいとはいえ、本人はよくても、遺族にとっては迷惑になる。骨を勝手に捨てることできないのだから、「散骨葬にせよ」とか、自分の意志をはっきり示しておかないと。

 自分はいつまでも死なない気でいた舅も、150歳まで生きるといっていたよりずっと早く82歳で逝くことになり、残された姑は墓をどうするか難儀した。
 舅の一族は「田舎の本家の墓に入れるのが筋」というし、姑は、遠い本家の墓より、近くに自分たち夫婦だけの墓が欲しい。遺族が悩まなくてもすむように、自分の一生と死後あと始末は決めて置くがよかろう。

 夫は「のたれ死にするけど、遺体を探さなくてもよい」→「散骨する」→「親のために墓を用意したんだから、自分の死後は、同じ墓に入る」と三遷した。
 死んだ後、納骨するところがあるという安心。こんな安心はものすごくくだらない、と夫は軽蔑するだろう。今を生きていればいいのだからと。
 夫のように、「自分の人生は自分だけのもの」で、自分ひとりの力で生きている気になれる人はそれでいいかもしれない。
 
 私の生命観。「私は、遺伝子リレーのバトンのひとつを持っている命のリレーランナー。私は、長い人類のつながりの中で生かされていて、過去現在未来のたくさんの力を借りて生きている」と思うから、過去とのつながりの確認場所、未来へつながる命の確信が欲しいのだ。

 子供のときは、「お坊さんの読経なんて退屈で、法事とはいっても故人をしのぶより、親戚一同の近況報告が話題の中心で、法事なんてくだらない」と思っていた。
 しかし、親と姉を亡くし、自分の年齢が母や姉の享年に近づいてきて、死はより身近になった。法事の席に親戚一同が集まって近況報告を交わし合うことも、今を生きる人の命のために必要なのだと分かってきた。

本日のつらみ:散骨するにも30万円かかると聞いて、夫、宗旨替え
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2003/03/30 日 晴れ 
日常茶飯事典>姉の1周忌

 12時半から、で柿実さん一周忌。墓の開眼供養と、一周忌法要。松伯母ほか、親戚一同。
 
 親戚近況。露子の次男、麻布から東大現役合格。これであと4年間は、駅叔父さんから「外孫、東大合格自慢」を聞かされる。
 駅叔父さんのたった一人の内孫、マホが、まもなく結婚。叔父は「内孫はひとりなのだから、入り婿をとるのでなければ結婚を許さない」と言っていたが、ついに折れたらしい。今時、入り婿だなんて。婿取りをして継がなければならないような、ご大層な家柄でもなし。
 駅叔父さんとしては、駅長だった自分のあとをついで、息子も駅長になったことが誇り。3代目の駅長になれるような婿がほしかったのだろう。

 法事の会席に、ひつじの婚約者ササニシキさんも加わった。ひつじは先週、大学卒業式を無事終えた。夏までアルバイトをして、夏頃入籍し、ササニシキさんのアパートへ。秋以降、小さな披露宴をするという。自分たち二人だけで、親の援助なしに披露宴も新居準備もするから、派手なことは何もしない、という。
 娘と息子は先に東京へ帰った。

本日のうらみ:1年たっても、54歳の柿実を死へ向かわせた、医者へのうらみは消えない
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2003/03/31 月 晴れ 
日常茶飯事典>児童遊園地

 姉の娘蜜柑は、シングルママで、4人の子持ち。でも、まだ20代、遊び好き。お出かけ好きは、他の20代と変わらない。
 独身気分でお出かけしたとき、子守をしてもらっていたバーバ、柿実さんはもういない。しかし、バーバいなくても、遊び好きは変わらない。スモモ叔母、いとこのエリエリレマとひつじに子守をたのんで、せっせと遊びに行く。

 この1年の蜜柑の課題であった1周忌法要を無事におえて、蜜柑は自分にごほうび。京都に遊びにいく、と言って出かける。私、スモモ、ひつじで蜜柑の子どもたち四人を子守り。じゅじゅ、あんず、ミューズ、龍頭。
 姉にとって、蜜柑が20代のシングルマザーで4人の子育てをやっていけるのか、ということが一番の心残りだったのだから、子守をするのも供養のうち。

 児童遊園地へ連れて行く。小さい子供向けの遊具しかないが、のりもの一回50円の安さ。4人とも十分に楽しんでいた。
 豊島園とか後楽園では身長制限があって乗れないものがあるし、身長が1メートルを超えているリュウズでも、こわがりで絶叫系などには乗れないので、東京なら荒川遊園地、田舎では、ここ児童遊園地がちょうどいい。
 リューズとミューズの年上組と、あんずジュジュ年下組に分かれると思いきや、こわがりのリューズとジュジュが組んで、安全な汽車ぽっぽなどに乗り、あんずとミューズが組んで、ミニコースターなどちょっと、スリルがある乗り物に挑戦。

 夕方、温泉へ行き、駅まで送ってもらって帰った。

本日のつらみ:チビどものエネルギーにふりまわされた1日、温泉に入っても子どもを追いかけ回すのに疲れた

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2013/04/11
 蜜柑は、シングルマザーとして10年間がんばってきました。今は介護施設の職員になって、毎日「疲れたつかれた」と、MIXIのタイムラインにつぶやいています。よくがんばっていると思います。
 3月の書き込みでは「明日は次女の高校入試なので、夕飯にトンカツを作った」と書いていました。

 この4月、次女のあんずは高校入学。長女のミューズは高校卒業して就職を決めました。蜜柑は進学を望んでいましたが、母子家庭を思ってミューズは4月からは社会人として働くのだそう。4月1日に、「初出勤」というタイムラインがありました。
 来年は、末っ子のじゅじゅが高校入試です。

 姉ちゃん、孫たちちゃんと育っていますよ。5月には蜜柑の妹も出産予定。5人目の孫ができますよ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「花めぐり花供養」

2013-04-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/04/10
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>花供養(1)花めぐり花供養

 古今東西、花は人々の心を沸き立たせるものであり、亡き人の御霊を鎮めるものでもありました。春に咲く花を、春に亡くなった人々のみたまにささげます。

団地の花、3月
れんぎょう

ぼけ、赤、ピンク




白もくれん


紫もくれん

雪柳

東御苑桃華堂前の山吹と桃4月


「散る桜」
1 あしひきの山の際(ま)照らす桜花 この春雨に散りゆかむかも(詠人不知・万葉集巻十)
2 龍田山見つつ越え来し桜花 散りか過ぎなむ我が帰るとに(大伴家持・万葉集巻二十)
3 桜花散りぬる風の名残には 水無き空に波ぞ立ちける(紀貫之) 
4 いつの間に散りはてぬらん桜花 おもかげにのみ色をみせつつ(凡河内躬恒)
5 ちりちらず きかまほしきをふるさとの 花見てかへる人もあはなむ(伊勢)
6 けふこずはあすは雪とぞふりなまし消えずはありとも花と見ましや(在原業平) 
7 ひさかたの光のどけき春の日に しず心なく花の散るらむ(紀友則)
8 花の色はうつりにけりないたづらに わがみよにふるながめせしまに(小野小町)
9 山桜あくまで色をみつるかな 花ちるべくも風ふかぬよに(平兼盛) 
10 花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものは我が身なりけり(藤原公経)
11 たれ見よとなお匂ふらん桜花 散るを惜しみし人もなき世に(赤染衛門)
12 またや見ん交野(かたの)の御野(みの)の桜がり 花の雪ちる春の曙(藤原俊成)
13 風にちる花のゆくへはしらねども をしむ心は身にとまりけり(西行)
14 きのふまでかをりし花に雨すぎて けさは嵐のたまゆらの色(藤原定家)
15 散り散らずおぼつかなきは春霞たなびく山の桜なりけり(祝部成仲)
16 春ふかみ花ちりかかる山の井はふるき清水にかはづなくなり(源実朝)
17 咲きちるはかはらぬ花の春をへてあはれと思ふことぞそひゆく(賀茂真淵)
18 おそざくら猶のこりける花もはや けふ(今日)ふる雨にちりやはてなむ(本居春庭)
19 かぐはしき桜の花の空に散る春のゆふべは暮れずもあらなむ(良寛)

20 梢ふく風もゆふべはのどかにてかぞふるばかりちるさくらかな(香川景樹)
21 きのふけふ降る春雨に散りなむとおもふもをしき花櫻かな(明治天皇)
21 ちる花に小雨ふる日の風ぬるしこの夕暮よ琴柱(ことぢ)はづさむ(山川登美子・恋衣)
23 桜の花ちりぢりにしも わかれ行く 遠きひとりと君もなりなむ(釈迢空・春のことぶれ)
24 みもごろに打ち見仰げばさくら花つめたく額(ぬか)に散り沁みにけり(岡本かの子・わが最終歌集)
25 花過ぎし桜ひと木の遠(おち)にして児湯(こゆ)のみ池の水照(みでり)かがよふ(木俣修・高志)
26 ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも(上田三四二)
27白じろと散りくる花を身に浴びて佇(た)ちお りわれは救はるるなし(岡野弘彦・海のまほろば)
28 夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん(馬場あき子・雪鬼華麗)
29 風ふけば幼なき吾子を玉ゆらに明るくへだつ桜ふぶきは(美智子妃1980歌会始)
30 健やかに共に老いたし夫(つま)とゆく サイクリング・ロードに桜花散る(今西文子1980歌会始)
31 桜吹雪くぐり来てあふ観音の黒き御衣(みけし)の裾ひるがへる(小野興二郎・紺の歳月)
32 さくら花ちる夢なれば単独の鹿あらはれて花びらを食む(小中英之・翼鏡)
33 桜ひと木ほむらだつまでぶぶく見ゆ 全き荒(すさ)びの為(な)す しづか見ゆ(成瀬有・流されスワン)
34水流にさくら零(ふ)る日よ 魚の見るさくらはいかに美しからん(小島ゆかり・水陽炎)
35 散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝をはなれる(俵万智・かぜのてのひら) 
36 乳ふさをろくでなしにもふふませて桜終はらす雨を見てゐる(辰巳泰子・紅い花)


隅田川べり
・散り果てて冷雨の宵の川縁(かわべり)に 一葉桜の細き枝揺れる(春庭2005)

大村益次郎像前で歌舞音曲をきく(かっぽれと阿波踊りを見ました)
・散りてこそ咲かめと散った若人よ二度と我が子を散らせはしません(春庭2013)

千鳥ヶ淵
・花筏散り敷くひとひらひとひらの命かがやく水面の白かも(春庭2013)

<つづく>
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