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ぽかぽか春庭アーカイブ(て)寺山修司

2018-11-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181124
ぽかぽか春庭アーカイブ>(て)寺山修司

 2003年のアーカイブ。1977年までに読んだ本を思い出しながらの自分語りです。

at 2003 10/14 06:48 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.21(て)寺山修司『句集 花粉航海』
 寺山修司の『花粉航海』初版は1975年深夜叢書社刊だが、2000年に角川春樹事務所から文庫が出た。
 47年の短い生涯の間に演劇、映画、詩、俳句、全方位の活躍をした寺山であるが、もっとも早く始めた活動は、中学時代からの俳句であった。



花粉>十五歳抱かれて花粉撒き散らす
   自らを清めたる手に花粉の罰

母 >蜂の巣の千の暗室母の情事
   母とわが髪からみあう秋の櫛
   出奔す母の白髪を地平とし

蝸牛>家負うて家に墜ち来ぬ蝸牛
   眼の上を這う蝸牛敗北し

夏> 蟻走る患者の影を出てもなお
   わが夏帽どこまで転べども故郷
 そこに見え遠き世にある団扇かな


 そして、1983年5月に47歳の生を閉じた寺山の人生を象徴する、句集『花粉航海』冒頭の一句。

五月>
目つむりてゐても吾を統ぶ五月の鷹

 私が23歳のとき、母が死んだ。母亡きあと「母が残した俳句を句集にまとめて、三回忌法事に出版する」という目標がなかったら、私は母のあとを追っていただろう。
 散逸した母の句を、新聞雑誌の投稿俳句欄に入選した句などから拾って、一句一句寄せ集めていく作業を続けて、ようやく「たとえ55年の短い生涯であっても、母にとっては、母なりの充実した人生であったのだ」と思えるようになった。
 母の残した俳句のおかげで、母亡き後の人生を生きることができたのだ。

at 2003 10/14 06:48 編集 「芭蕉の忌」五十代の死と早世について
 春庭は名前を本居春庭に借り、このコラムのタイトルを芭蕉の紀行文『笈の小文』に借りている。大それたことである。
 309年前(1694年)10月12日は、芭蕉が亡くなった日(ただし、旧暦だから、新暦に直すと、季節は11月の初め)。


 芭蕉が『笈の小文』の旅に出たのは、44歳のころ。
 旅立ちの送別会での句

 「旅人と我が名呼ばれん初しぐれ」。
 この後も『更級紀行』『奥の細道』などの旅を続け、永遠の旅立ちとなったときは、51歳。
 辞世
旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る

 芭蕉というと、頭巾をかぶったおじいさんが、笈を背負い杖をついている旅姿を思い浮かべるが、旅を続けていた頃は、五十前だったのだ。
 人生五十年の時代には、五十代は老人であったが、現代は、「四十、五十は、鼻垂れ小僧」。私は、芭蕉の享年をすでにすぎてしまったが、まだまだ、ひよっこなのだ。

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2010/01/29

 冬のうた(ア行~マ行の頭韻遊びby春庭)
・老いの背に重さはおいおい増してきて笈の小文をしわぶきつつ負う
・きりきりと錬金術師は寒の日につららを明けの明星に刺す
・柵(しがらみ)のしがらむ岸に白々と霜を踏みつつ夜明けに向かう
・高らかな拍手に答えて真央は立つタチアナ・タラソワ体(たい)揺する前
・菜の花の沖なる波に鳴く鳰(にお)の濡れ羽に涙流して寝入る
・柞葉の(ははそはの)母の春待つ春庭は花満ちておらむ早よ来い春よ
・まっすぐに息子の眼(まなこ)は益荒男の真名古文書に真向かいて読む

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20181124
 雑駁な日々、俳句あそびからも遠ざかっていました。
 20100129の頭韻あそび、なかなかおもしろいと思います。
 以下、2018年11月のあそび。
・京の宿で紀要論文校正すかっての教え子が書きし日本語
・終わりな老いの日々に逢う今日もまた明ければ朝の老いの始まり
・楓ひと葉くるくると舞いここに来い桂離宮の月見の台に
・つぎつぎに小さき蝶の形して散りぬるを手にとまれ銀杏葉

<つづく>
コメント
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