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春庭@アート散歩

2010/04/29

2010-04-29 12:59:00 | 日記
2010/04/29
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ヴォーリズを訪ねて2011年7月

2010-04-27 08:18:00 | 日記
2011/07/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物さんぽ(1)ヴォーリズを訪ねて

  6月20日、武蔵境駅前にある日本獣医生命科学大学のヴォーリズ館を見ました。
 ヴォーリズは、私にとっては「近江兄弟社のメンソレータム(現在の商品名はメンターム)」の人です。子どもの頃、擦り傷でも湿疹でもこのメンタムを塗り込められました。ほんとにこれが効いたのかどうかわかりませんが、ツーンとくるメンソールの香りで効いた気になって、擦り傷の痛みもおさまるのでした。むろん、子どもの頃は近江兄弟社を創立したのがヴォーリスというアメリカ人だということなどまったく知りませんでしたが。
 
 ウィリアム・メレル・ヴォーリズは1880年生まれ。キリスト教伝道者、建築家。一柳満喜子(幕末、最後の播磨小野藩主・一柳末徳の娘)と結婚後、一柳米来留と改名、帰化しました。1964年に84歳で死去。
 ヴォーリズは正規の建築教育を受けていませんが、1908(明治41)年12月、建築設計監督事務所を開き、アマチュア建築家として活動を始めました。その建築は、本拠地近江八幡のほか、日本各地に残っています。東京にあるヴォーリス作品は多くはありませんが、教会や学校関係の建物が多い。

 その中で、ヴォーリス作品と伝えられている日本獣医生命科学大学のヴォーリズ館を見学できました。まず、守衛さんに身分証明書を見せ、受付へ。ここで見学意図を聞かれて教務課へ回された。教務課で名刺を出し、もっともらしい見学意図を述べ、案内の係の人が来るのをしばし待つ。係の女性に案内されて、ヴォーリズ館へ。

 もっともらしい見学意図とは。
 「私は、留学生教育を担当しており、日本から外国へ留学した人、海外へ出て仕事をした人、また海外から日本へやってきて仕事をした人や留学生の事跡を、教え子の留学生や日本語教師志望の日本人学生に紹介しています。ヴォーリズについても紹介したいので、ヴォーリズの設計した建物を見学させていただきたい」
 「日本事情」という授業の中で国際交流史も扱ってきたのですが、ヴォーリズを直接授業で扱ったことはありませんでした。でも、これからはヴォーリズも「国際交流史」のトピックにできると思っての「見学意図」でした。

 めんどうな手続きでしたが、きちんと案内してもらってよかったです。というのは、ヴォーリズ建築写真を掲載しているウェブサイトのいくつかは、大学正面から写真をとって掲載しています。日本獣医生命科学大学の正面入り口にある本館は、旧麻布区役所の建物を移築したものです。ヴォーリス建築事務所が移転移築の指揮をとったということですが、ヴォーリスの作品ではなく、東京市営繕課の設計です。しかし、中に入って「めんどうな手続き」をおこたったために、目立つ本館を「ヴォーリズの作品」として、間違った情報のまま、写真UPしているのです。無論、本館を旧麻布区役所として紹介しているサイトもあります。
 本館は「ヴォーリズ作品ではない」と認識して写真UPしているサイトのひとつ。
http://blogs.yahoo.co.jp/julywind727/33212603.html

 ウェブサイトの論述や写真をそのまま信用すべきではない、きちんと責任を持って発行されている辞書辞典類、参考書を参照して必ず自分で確認しなさい、と日頃学生に言っています。実際、不確実なウェブ情報を見分ける目を持つには、自分自身の目でしっかりした情報を持っていることが必要です。
 旧麻布区役所の建物をヴォーリズ作品と思い込んでしまわなくてよかった。

 ヴォーリズ館は、現在「学生クラブ活動の部室」として使用されているという係員の説明でした。内部は老朽化が進んでいました。国際基督教大学の学生寮のいくつかはヴォーリス設計事務所の作品でしたが、老朽化のため現在は立て替えが進んでいます。日本獣医生命科学大学のヴォーリズ館も、このまま老朽化が進むと、取り壊しになってしまうのかもしれません。建物自体は、何度か改築があったのかもしれません。あまり「これがヴォーリズ!」という感じはしなかったですが、見学できてよかった。見学者がたまに訪問していれば、大学側も「これは、老朽化したといっても、簡単に取り壊ししたらいけない貴重な建物かも」という認識を持ってくれるかもしれません。

 入り口には「ヴォーリズ館」というプレートが掲示されています。その隣の建物が生協食堂だったので、昼ご飯を食べたあとでしたが、きんぴらごぼう、茄子の煮浸しなどの和食小鉢をいくつか選んで、食べました。出講先以外の他大学学生食堂で食べるのは、興味津々です。周りの学生を観察しながらの食事。獣医の卵たち、女子学生が多かったです。佐々木倫子の『動物のお医者さん』人気がまだ続いているのか。
 ヴォーリズ館の中の「クラブ活動室」は、学生の部室らしく雑然としていましたが、この館ですごした日々を胸に、立派な動物のお医者さんになってほしいと思います。

<つづく>
01:38 コメント(0) ページのトップへ
2011年07月24日


ぽかぽか春庭「ヴォーリズのチャペル」
2011/07/24
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物さんぽ2011/06(2)ヴォーリズのチャペル

 7月18日、祝日なのに出講日。明け方に女子サッカー中継を見ての出勤でしたから、仕事を終えるとちょっとお疲れ気味。仕事帰りの寄り道も、手近な場所にしました。
 寄り道さんぽは、国際基督教大学(ICU)キャンパス。ときどきバスでこの大学の裏門を通りすぎるのですが、バスを途中下車して中に入ったことはありませんでした。

 大学というところ、近所に住んでいる人にとっては、よい散歩コースにもなる場所ですが、通りすがりの者にとっては、用もないのに入りづらい場所です。ICUキャンパスにも、そこら中に「大学に用のない者の立ち入りは、ただちに警察に通報します」という立て看板が立てられています。裏門から入って、キャンパスの林の中を歩くにも「私のごとき、とてもキリスト教信者には見えない怪しげな面構えの者が歩いていると、通報されちゃうかも」と、ちょっとどきどきです。

 ICUは、都内の大学のなかでも、学生の「在学満足度」がトップクラスの大学のひとつです。大学のキャンパス環境、授業内容、大学食堂などへの総合的な満足度を学生アンケートによってランク付けする調査で、例年「満足度の高い大学」。授業内容など内部のことはわかりませんが、外見からいって、キャンパス環境という面での満足度トップは頷けます。都内の公園と比較して、広さから見ても有数の「大学演習林」がキャンパスに接続して広がっています。

 演習林は立ち入り禁止ですが、演習林のほかにも広い林があり、林の中に職員住宅が点在し、キャンパス内に学生寮が何棟も立っています。大学は都心にあっても、寮は遠い郊外にあるというところも多いのに比べて、この環境でキャンパス内の寮なら、進学させる親御さんには安心な環境に思えるでしょう。
 真新しい寮の名前は、オークハウスOak house樫寮、ギンコウハウスGinkgo house銀杏寮、ゼルカヴァハウスZelkova house「樫寮」と名付けられていました。オークは知っていたけれど、銀杏と樫を英語でなんと言うのか、始めて知りました。

 裏門から林を抜けて、食堂が目に入ったので、ランチタイムにしました。学食もとてもきれいで、18日は祝日ですから、一般学生はおらず、食事をしていたのは、寮生活をしている留学生が多かったです。白身魚フリッターセット(スープ、ごはん、サラダつき)、茄子のフライ、煮物小鉢の3品とって780円でした。
 
 キャンパス案内地図を持って来なかったので、お目当てのシーベリー礼拝堂を探して、広いキャンパスをほぼ一周しました。付属高校のほうまで行ってぐるりと周り、結局元の大学食堂へ戻りました。シーベリー礼拝堂が見あたらなかった理由は、シートがかぶせられていて、見えなかったからです。改装中でした。

 建物紹介のブログの中には、ICUディッフェンドルファー記念館を「ヴォーリズ設計」として写真を出し、「ヴォーリズらしさが感じられない」という評を載せたサイトもあります。大学の施設案内に書いてあるとおり、ディッフェンドルファー記念館西棟は、2000年に完成したヴォーリズ建築事務所設計、大成建設施工の施設です。W.Mヴォーリズは1964年に亡くなっているのですから、2000年完成の建物をヴォーリズ自身が設計できるはずありません。ヴォーリズ設計事務所の後継者たちは、ヴォーリズ精神を受け継いではいるでしょうが、2000年の建物が1880年生まれのヴォーリズ自身の設計とは異なった趣になっているのは当然でしょう。

 ヴォーリズが生きている頃に完成したのは、大学創立貢献者の名を冠したシーベリー礼拝堂です。1959年完成(設計=ヴォーリズ建築事務所/施工=大成建設)。こちらの礼拝堂も、ヴォーリズ事務所設計といっても、ヴォーリズが直接設計に関わったのかどうかは不明です。

 チャペル全体にシートが掛けられていて見ることができなかったので、またの日に再訪することにしました。私はよくよく、ついていないらしい。前に、明治学院大学礼拝堂(東京都港区、1916年ヴォーリズ設計 )を見に行ったときも、チャペルは改装中だったのです。このときは、ヘボン式ローマ字のヘボンさんを訪ねて行ったのであって、ヴォーリズが見られなくてもそうがっかりはしなかったのですが。
 次回は、明治学院チャペル。


<つづく>
07:52 コメント(0) ページのトップへ
2011年07月26日


ぽかぽか春庭「明治学院礼拝堂(白金チャペル)」
2011/07/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物さんぽ(3)明治学院礼拝堂(白金チャペル)

 (承前)というわけで、20日水曜日、台風の雨がときおり激しく降る中、に明治学院大学(明学)を再訪しました。夫の姉の母校です。2000年に50歳で亡くなってしまった義姉も、若い日にはこの礼拝堂を見ながら通学していたことでしょう。
 「英語を学ぶことに意欲を持つおっとりした娘」だったであろう義姉に、ぴったりの学校だったろうと思います。同じ頃に学生時代をおくったはずなのに、学園紛争真っ盛りの中、ろくすっぽ通学しなかった私と比べると、義姉のキャンパスライフはかなり違った色合いだったのではないかと想像します。

 雨が降ったり止んだりの中、目黒駅から庭園美術館へ。「ロシア皇帝の愛したガラス展」を見たあと、白金台の八方園の脇の道を桜田通り方面へ向かって降りて行きました。
 早稲田の大隈講堂とか東大の安田講堂など、大学を紹介するときに一目でその大学だとわかる「ランドマーク」になる建物がそれぞれの大学にありますが、明学を象徴する建物は、正門を入ってすぐのところにある、この「明治学院礼拝堂(白金チャペル)」です。

 チャペルの2階からは、賛美歌のオルガン伴奏を練習する音が聞こえてきました。ドアをそっと開けてみると、「部外者立ち入り禁止」の札と、階段にはロープ。日曜日のミサのときは、内部には入れても写真を撮ったりはできないでしょうし、オープンキャンパスの日は、礼拝堂が見学できるかどうかわからない。何度かの改築改装を経て、現在は卒業生の結婚式などにも使われているそうです。
 前回来たときは、宣教師館だったインブリー館(現在は同窓会事務局が使用している)の内部を見ることができたのですが、今回は「閉鎖中」でした。

 白金チャペルは、1915年(大正4)11月30日に定礎。翌1916年(大正5)3月落成。延べ床面積は589平方メートル。建築様式は英国式、設計はヴォーリス建築設計事務所。百年後の「オープンキャンパス」で、見学者にとって「大学の顔」として印象の残る、美しい建物です。「ヴォーリズさん、いい仕事残しましたね」ってな感じ。

ヴォーリズの建物紹介サイト
http://gipsymania.exblog.jp/4574496/

 よそ様の大学に行ったとき、必ずすること。学生食堂で一食。
 明学は、1,2年生は横浜キャンパスで学び、3,4年生だけ白金キャンパスで学べる方式だからかもしれないけれど、学内、もう試験もあらかた終了したのか、学生はそんなに多くない。明学の学食は夏休み仕様に入ったらしく、メニューが少ない感じ。寮がキャンパス内にあって、学食で食べる学生が大勢いるICU学食のメニュー充実していたのに比べると、選択肢に迷うことなく、山菜おろし蕎麦350円と小鉢の鮹オクラ和え物100円をチョイス。「学食比較研究」は、私の「B級食べ歩き」のテーマのひとつです。

 大学大学院教育を合計で17年間受けてきて、卒業した三つの大学、私立2校と国立1校に加え、講師として出講してきた大学は、私立4校、国立3校。1970年から2011年まで40年間に通ったキャンパスは、合計10校になります。通学通勤したキャンパスの多さだけを言うなら、「最もたくさんのキャンパスの中を歩いた女」になるんじゃないかしら。キャンパス評論家、なんちゃって。

 そのキャンパス比較論でいうなら、今のところ、国際基督教大学ICUが「フィトンチッド散歩には一番」という結論。「広いキャンパスを3000人ほどの少人数学生の学費で維持するために、施設維持費がめちゃくちゃ高い」と言われているので、学費払っている学生さんの勉学のじゃまにならぬよう、散歩いたしませう。

 建築散歩に適切な大学は、東大本郷キャンパス。早稲田大学、慶応大学など。都内の大学建物探訪のためには、以下のサイトが参考になります。

http://maskweb.jp/c_education.html
http://maskweb.jp/c_education-u.html
http://maskweb.jp/c_education-s.html
http://maskweb.jp/c_education-c.html
http://maskweb.jp/c_education-c2.html
http://maskweb.jp/c_education-h.html

 ICUの中を歩いたとき「学外者は警察に通報します」なんていう立て看板を見て、「用もないのに歩いていると通報されちゃうかも」と心配しましたが、ほんとうは、そんな心配しないで、学外者も堂々とキャンパス散歩を楽しんだらいいんです。国立大学はもちろん、私立大学にも、我々の税金から多額の補助金が使われているのです。
 犬の散歩お断り、というのはわかりますし、授業中の教室のわきを声高におしゃべりしながら歩いたりするのは論外として、学生のじゃまにならないように歩くのなら、「私はこの大学のために税金を使わせてやっている」と、大きな顔で歩き、散歩を楽しみましょう。

<おわり>
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春庭夏の読書メモ

2010-04-24 23:14:00 | 読書・本・ログ
2011/08/01
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年8月>読書メモ2011前半

 今年1月、博士論文提出が終わって、やっと気分が開放されました。論文書いている間だって、「自由気ままに読み散らす読書」が禁止されていたわけではないのですが、論文と無関係の気晴らし読書は、ほんとうに数少ない冊数になっていました。小説を読み出すとラストまで一気に読み終わってしまいたくなるので、禁止。電車内読書はいつでも本を閉じられる、エッセイの文庫本だったり、『図書』『波』などの出版案内系の冊子に限りました。

 2月、ようやく論文と無関係の本を楽しみだしたら、3月の震災。本棚が倒れ、部屋に山積みになった本の片付けに1ヶ月かかり、読書の気分ではなく、4月は授業が延期されて時間ができたはずなのに、気が滅入って無気力状態。5月からはむちゃくちゃタイトな授業日程。
 7月末、授業も終わりに近づき、国立は夏休みに入り、私立も8月上旬で終了、ようやく夏休みです。

 と、気づいてみると、自由気ままな読書をするはずだったこの半年、案外読めていなかったと感じたのは、小説が少なかったからかも知れない。読んだ本をメモしてみれば、半年で40冊。一ヶ月5~6冊程度で、冊数だけいえば、博論を書く前のころの読書ペースと同じくらいだ。
 読み散らかしたままなので、本のタイトルもメモしておかなかったら、何を読んだのかも忘れてしまいそう。本棚の奥のほうにつっこんだのは、もう忘れている。
 読んだ順ではなく、思い出すのに便利なようにまとめてメモ。

@は図書館本 ¥は定価で買った本 ・は、ほとんどBookoffの100円、200円本。

<日本語論日本文化論関連>
¥井上ひさし『日本語教室』2011
@今井邦彦『あいまいなのは日本語か英語か?』ひつじ書房2011

・片岡義男『日本語の外へ』角川文庫2003
・片岡義男『日本語で生きるとは』筑摩書房1999

・松岡正剛『日本流』朝日新聞社2000
¥松岡正剛『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』NHKブックス2006
¥松岡正剛『花鳥風月の科学』中公文庫2004

・宮本常一『アフリカとアジアを歩く』岩波現代文庫2001
・内田樹『日本辺境論』新潮新書2009

・リービ英雄『英語で読む万葉集』岩波新書2004
・石丸晶子『万葉の女たち男たち』朝日文庫1994
・板坂 耀子『江戸の紀行文』中央公論新社2011

・山口誓子監修『季寄せ草木花春下』朝日新聞社1981

<リービ英雄をまとめて>
@リービ英雄『最古の国境への旅』中央公論新社2000
@リービ英雄『日本語を書く部屋』岩波書店2001
@リービ英雄『我的中国』岩波書店2004
@リービ英雄『越境の声』岩波書店2007
@リービ英雄『延安』岩波書店2008
@リービ英雄『仮の水』講談社2008

<小説>
・杉本苑子『開花乗合馬車』文春文庫1985
・松井今朝子『銀座開花おもかげ草紙』新潮文庫2007
・松井今朝子『果ての花火 銀座開花おもかげ草紙2』新潮文庫2010

<エッセイ、その他>
・高橋源一郎『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』新潮文庫1989
・関川夏央『ただの人の人生』文春文庫1997
・岸本佐知子『気になる部分』白水社2000
・岸本佐知子『ねにもつタイプ』筑摩書房2007
・アーサー・ビナード『空からきた魚』英社文庫2008
・辺見じゅん『花子のくにの歳時記』角川春樹事務所1998

・永井政之『ふっと心がかるくなる禅の言葉』永岡書店コスモ文庫2006
・素朴な疑問探求会『明治・大正人の朝から晩まで』2008
¥日本博学倶楽部『科学の謎未解決ファイル』2008

・湯浅浩史『花おりおり2』朝日新聞社2001
・湯浅浩史『花おりおり4』朝日新聞社2003

<評論・研究書、その他>
@野田研一(編)『<風景>のアメリカ文化学』ミネルヴァ書房2011 
@管敬二郎・小池桂一『野生哲学』講談社現代新書2011
@合田正人『吉本隆明と柄谷行人 』PHP新書2011
@桑島秀樹『崇高の美学』講談社選書メチエ2008
@B・M・スタフォード『ヴィジュアルアナロジー』産業図書2006
@若桑みどり『薔薇のイコノロジー』青土社1984
@フェラーリ『美の女神イサドラ・ダンカン』音楽之友社1988
@市川雅『舞姫物語』白水社1990
@海野浩『モダンダンスの歴史』新書館1999
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イサドラダンカンダンス2011年8月

2010-04-17 14:10:00 | 映画演劇舞踊
2011/08/06
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(1)イサドラ・ダンカン

 夫は、「ウォーキングを続けてやるようになって、体重が減った。結婚以来今が一番体重が軽い」と、自慢しています。仕事先へ出かけるとき、飯田橋の事務所から、赤坂とか早稲田とか、30分~60分で往復できるところには、電車やタクシーに乗らず、歩くことにしたのだそうです。息子や娘にまで「10kgだか20kgだか減った」と自慢して、自分が履くようになった「見た目はビジネスシューズのようなウォーキングシューズ」を、娘と息子に買ってくれました。

 私は単純にウォーキングするのは苦手なので、4月から、花散歩、アート散歩、建物めぐりなど、公園や美術館博物館を歩いていますが、いっこうに体重が減りません。この半年間、甘い物やビールはずいぶん控えて、節制したつもりなのに、体重は3kg程度しか減りませんでした。たぶん、美術館巡りのあとは、食べ歩きがセットになっているせいでしょう。

 さらなる健康管理&減量をめざして、仕事が忙しくてお休みしていたダンス練習を、ようやく夏休みになったので再開しました。
 毎週金曜日の夜と水曜日の昼は、文化センターでジャズダンス練習。9月の発表会では、コパカバーナとペーパームーン、インザムードを踊ります。
 さらに、2回だけ、同僚が練習しているモダンダンス教室で、ビジター参加して練習しました。

 同僚のAさんは、穏やかな感じのお人柄で、留学生からも「やさしい先生」と、慕われている人です。私と同じ曜日に出講して同じクラスを担当してきましたが、お互いに趣味については話をかわしたことがありませんでした。話をするときはいつも担当クラスの授業方法や学生についてのことでした。
 彼女の趣味がダンス、ということをしばらく前に聞いてはいたのですが、プライベートなことは、自分から話し出さない限り、こちらから突っ込みをいれることはしない、というのが職場のルールだと思っていました。

 Aさんが、私とダンスの話をしたことないのもわかります。私の体型を目の前にしていれば、「まさか、この人がダンスを練習しているとは」と、誰でも思うでしょう。私なら『ヘア・スプレー』おばさん版が制作されたら、主役がとれます、、、、って、、主役のともだち役くらいなら。(『ヘア・スプレー』は、超ビック体型の女の子が、ダンスを通じて成長し、あれよあれよの活躍をする物語)
 パパイヤ鈴木は、最近30kgも痩せてしまって、ダンサーとしての魅力半減です。私が「女パパイヤスズキ」と名乗ることもできなくなってしまったではないかっっ。

 中学校国語教師を退職して演劇学舞踊学を学んでいたころ、舞踊評論家の市川雅に師事し、舞踊学会にも所属していました。市川先生の落合の家で開かれていた研究会に出入りして、市川先生が「あ、これは見にいく時間ないからあげる」と、招待券をくれるので、あらゆるジャンルの舞踊を見に行っていました。
 芸能人類学・演劇人類学の学者になりたいとか、舞踊評論家になりたいとか、夢みたいなこと思っていたのです。

 しかしながら、1979年から1980年にプリミティブダンス研究と称してケニアに滞在したものの、アフリカンダンスの練習も民族舞踊研究もどちらも中途半端なまま帰国して、ずるずるとできちゃった結婚してしまったので、舞踊研究はそれきりになってしまいました。(市川雅は1997年に死去。享年60歳)。

 3月の震災で本が落ちて部屋に山になったとき、「これは、いらない本は整理しろというお告げに違いない」と、日本語、日本語言語文化に関わらない本は捨てる、と大整理をしました。市川雅の『行為と肉体』も、イサドラ・ダンカン『わが生涯』も捨ててしまって、身体文化に関わる本とは縁が切れた気がしました。

 私にとってイサドラ・ダンカンは、伝説のダンサーであり、モダンダンスの創始者のひとりと言える人です。けれど、彼女の死とともにそのダンスの主流は途絶えたと思っていました。(市川先生はそうおっしゃっていた)。
 『裸足のイサドラ』(1968)を私が見たのは、1970年代の初めでした。(イサドラ・ダンカンを演じたヴァネッサ・レッドグローブは、カンヌ国際映画祭女優賞を受賞。監督はK・ライス(英))。
 映画原作となった二冊の本のうち、イサドラの回想録『わが生涯』は、読んだけれど、シーエル・ストークスSewell Stokesの『イサドラ/愛しき友の肖像』は未読。

 イサドラは多くのダンサーに影響を残し、現代のダンサーで彼女のダンススピリッツを受け継いでいない者は少ない。しかし、彼女のダンスメソッドをそのままに実践しているダンサーが今の日本にもいるとは、思ってもみませんでした。

<つづく>
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2011/08/16
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(10)フォーキンとイサドラ

「ギリシャの彫像=自然な身体」ではありません。「裸足」というのも、「自然」ではない。ギリシャ人は歩くときも踊るときもサンダルを履いていたのであって、「裸足」というのはギリシャ人にとっては「自然な在り方」ではなかったし、ギリシャ彫像風のポーズというのも「自然な身体」のありかたではない。
 「自然な身体=ギリシャ彫像」というイサドラの主張とは、イサドラが「堅苦しい衣装と靴を脱ぎ捨てるための方策」として選び取ったものです。

 イサドラがセンセーションを巻き起こしたのも、その「芸術的ダンス」が20年もたたないうちに観客に飽きられてしまったのも、理由はひとつ。彼女の「シンプルなステップ」の魅力は、彼女の身体に支えられて輝いていたからです。
 イサドラ・ダンスの本質は、は、19世紀、女性が狭い世界に押し込められていた時代に、自分の素の足をもって大地に立ち、「男性社会のシステム」の中に、「自然な感情のままの女性」を表出したことにありました。

 イサドラ・ダンカンのダンスを賛美した男性たちは、大いなる自然としての女性の存在、ことに母なる肉体としてのイサドラを賛美し、手に入れがたいゆえいっそう魅惑を放つ肉体としての女性美を欲望したのです。その男性の欲望に支えられた身体として、イサドラが存在するうち、そのダンスは輝き、欲望の対象からはずれたあとは、ダンスの輝きも失われました。

 イサドラのテクニックをクラシックバレエに取り入れたというミハイル・フォーキンは、以下のようにイサドラダンスを表しています。
 「ダンカンは、あらゆるプリミティブで、平易で、自然な動きーシンプルなステップ、走り、両足での回転、片足でのジャンプーが、あらゆる複雑なバレエのテクニックより、はるかにいいことを証明した。なぜなら、それらのテクニックのために、優雅さや表現性や美が犠牲にされているからだ。」ミハイル・フォーキン『回想』1961 海野弘『モダンダンスの歴史』p44

 フォーキンは、バレエ振り付け師、バレエ教師です。ディアギレフのバレエ・リュスのダンスを改革したあと、ディアギレフと決別し、1920年からはアメリカで活動し、現代のアメリカンパフォーミングアーツの創始者のひとりとなりました。
(「プリミティブ」という語の解釈が、ロシア生まれのフォーキンと私では異なっているのかも知れないけれど)、プリミティブ=原始的な、原始の、太古の、古風な、素朴な、と、フォーキンが感じたイサドラのダンスと、クラシックテクニックを、フォーキンは融合しました。フォーキン・バレエの流れは、現代のクラシックバレエにも蕩々と流れています。

 NHKBS舞台中継の録画で、フォーキン振り付けのバレエ『火の鳥』を見ました。2008年のサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場バレエ団の公演。(改作振り付けはリエパほか)
 ディアギレフのバレエ団、バレエリュスの活動は、天才ニジンスキーやフォーキンらの活躍に支えられていました。従来のバレエテクニックに、イサドラダンカンはじめ、多くの新しい振り付けや舞台美術を取り入れて総合芸術となったロシアバレエは、現代でも最先端のダンスとして多くの観客を魅了しています。2008年版の『火の鳥』も見応えがありました。

<つづく>
08:31 コメント(0) ページのトップへ
2011年08月17日


ぽかぽか春庭「教育舞踊」
2011/08/17
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(11)教育舞踊

 イサドラの身体性の魅力が薄れたあとのイサドラ・ダンスは、ロシアのダンススクールを継承したイルマ・ダンカンらの努力をもってしても、ダンス芸術の主流ではなくなっていきました。ダンス学校で、女子教育のひとつとしては重要な地位を占めてきたものの、舞台芸術の主流ではなくなったことは、否定できません。

 一方、クラシックバレエは、フォーキンのあとも、革新的な振り付けでバレエを一新するような振り付け師が続出し、モダンダンスの系統にも新しい感覚の舞踊芸術が広がっていきました。マーサ・グラハムMartha Graham、アルヴィン・エイリイA;vom Aileyら、さらにマース・カニングハムらのコンテンポラリーダンスなど、ダンスは進化発展を続けています。
 私は中学生のころ、テレビでポールテーラーのダンスを見て、ダンスが「おゆうぎ」ではなく、芸術であることを知りました。

 youtubeでダンカンダンスのレパートリー公演。さまざまな団体が「イサドラの振り付け」をもとに踊っているのを見て、私が感じたのは、「女性の身体訓練の一方法として、体育教育に最適ではあるけれど、舞台芸術としての魅力を持つには、希有のダンサーの身体が必要」というものでした。イサドラのダンスが、イサドラ自身が舞台に立ったとき以上の衝撃や芸術的感興を与えることはないだろう、というのが正直な感想でした。
メアリー佐野の公演を生で見たことがないので、メアリー先生の踊りに対しては、まだ何も言えません。あくまでもyoutubeで見たなかでの感想です。

 舞踊芸術とは何か、と問いはじめたら、ダンサーの数、振り付け師の数、批評家の数、興行師の数、観客の数だけ答えが存在し、ひとそれぞれに踊りを楽しめばいいのだ、ということに尽きてしまいます。

 私は、モダンダンスのレッスンから出発し、短い期間でしたがクラシックバレエも習い、現在は1984年以来ジャズダンスの練習を続けています。ずっと、みわこ先生の指導を受けてきて、いまだ下手の横好きです。みわこ先生は、フラメントやアイリッシュダンスなど世界各地の民族舞踊も、日本の盆踊りも取り入れてきて、私も、いろいろな踊りを練習しました。自分が踊るのも、見るのも好きです。

 タップダンスもアイリッシュダンスも、ワルツやタンゴやメレンゲも、地唄舞も仕舞も、田植え踊りもよさこいソーランも、とにかく踊りを見るのが好き。
 さまざまな踊りを見てきて思うことに、クラシックバレエテクニックを否定したイサドラダンカンメソッドは、舞台芸術という点から見れば、クラシックバレエの幅広い表現力に勝ることはできなかった、という結論です

 体育教育では、クラシックバレエテクニックより、イサドラダンカン・メソッドのほうが、はるかに適切な教育舞踊だと思います。自然な身体を、自然にのびのびと発達させるためにふさわしい身体訓練であり、教育舞踊として、イサドラの「自然な身体」による「自然な動き」の開発は、すぐれたものだったと言えます。

でも、それをそのまま舞台にのせたとき、イサドラの身体を持たないダンサーはイサドラのようには輝かず、19世紀女性への締め付けが解けた時代の観客の目には、イサドラが踊ったときのような、自由で解放感あふれる感興はわき起こらない。

 「1894年、イサドラ・ダンカンは、サンフランシスコ市の住所録で、ダンス教師となっている。1905年に彼女が書いた「イサドラ・ダンカンの経歴」によれば、十一歳の時から、身体文化とダンスの新しいシステムを教えている、とある。この新しいシステムというのは、デルサルト理論であったらしい。」 (*フランソワ・デルサルト1811~1871。身体訓練法の開発者)海野弘『モダンダンスの歴史』p20

 デルサルトは、女性の身体訓練法の開発者のひとり。アメリカにおいて健康維持ムーブメントが起きたとき、健全な身体を作りあげる体操のひとつとして、デルサルトの方法はアメリカで認知され、短い期間ではあったけれど、女性たちにブームを巻き起こしました。イサドラもその影響を受けていた可能性があります。
 イサドラがダンス学校の設立にこだわったのも、ダンサーの養成以上に「女性の身体教育」という面を重視したからです。身体教育のためにすぐれた方法であることをもってして、イサドラダンカン・ダンスメソッドは、大きな成果を世界に与えたと言ってよいのではないでしょうか。
 日本でも、女子教育が始まった最初期から、身体訓練の方法として舞踊は重要な項目でした。

<つづく>
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2011年08月19日


ぽかぽか春庭「高校大学ダンス・コンクールin Kobe」
2011/08/19
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(12)高校大学ダンス・コンクールin Kobe

 一般の人にとって、舞踊教育は、幼稚園保育園の「おゆうぎ会」で練習をさせられたイメージ。そして、運動会で男子は組み体操を練習するのに対して、女子は全員でダンスを披露するという思い出が残る程度でしょうか。
 現在は、男女いっしょによさこいソーランを踊ったり、嵐の曲で踊ったりするのが流行り。学校教育におけるダンスはそんなところだろうと思います。

 私の在学した中学校は、女子舞踊教育が盛んでした。群馬県全体がそうだったのかもしれません。(40~50年も前のことなので、今もそうかは知りません)。中学校の女子体育授業のうち、創作舞踊を中心とするダンス教育がかなりの時間を割いて実施されていたように思います。高校時代も同じ。体育授業、週に3コマのうち、毎週1コマは「外たいいく」と呼ばれてグラウンドで陸上、テニスコートでテニス。1コマは「中たいいく」と呼ばれていて体育館でバスケットやバレーボール。そして、1コマは体育館でダンス、でした。

 私は、集団競技が苦手なので、球技はきらい、グラウンド体育は冬は寒くて夏は暑いのできらい。ダンス授業が一番楽しかった。ダンスの先生は、民族舞踊集団を主宰していたカオル先生でした。私はカオル先生が大好きで、八木節の踊りも創作ダンスもいっしょうけんめい練習しました。

 これらの教育ダンスの身体訓練は、今思うと、イサドラ・ダンカンのダンスメソッドとマーサグラハムのモダンダンスメソッドなどが混じっていたように思います。
 日本の女子教育には、その最初期から身体訓練の伝統がありました。教育舞踊の基礎にさまざまなメソッドがあるとして、その源流のひとつにイサドラダンカン・ダンスメソッドがある。留学していた人々が持ち帰った身体訓練法が日本で独特の発達をとげてきた経緯は、日本洋舞史、教育舞踊史にまとめられていると思いますが、割愛。

 今年も、8月7日~10日の日程で、全日本高校・大学ダンスフェスティバルが神戸で開催されました。全国の「ダンス高校生」「舞踊専攻大学生」「ダンスサークル学生」にとっては、最大の大会です。NHK、今年はBSチャンネルが2つになってしまって、この大会の放映があるかどうか、心配でしたが、2011年8月21日午後4時から、教育テレビで放送されます。
 第22回大会のようすは、昨年テレビで見ることができました。youtubeにもUPされています。全国で3800人もの高校生大学生が大会に参加したそうです。
http://www.youtube.com/watch?v=NPM33PU8O_U&feature=related

 中学生の舞踊でも、さまざまにある大会の優勝グループともなれば、たいへんレベルが高い。教育の一環としてのダンスとはいえ、その表現力の高さに驚きます。
 たとえば、
http://www.kk-video.co.jp/concours/chuko-dance2010/junior_1.html

 高校生大学生たちの踊りにかける情熱はすばらしく、別名「ダンス甲子園」の通り、野球やサッカーなどに汗を流す若者と同じように、ダンスに燃える若い人の姿を見るのは感動的です。

 さて、もし、私が市川雅のもとで舞踊学研究を続けていたとしたら、どんな研究をめざしていたでしょうか。民族舞踊研究から舞踊人類学、演劇人類学、比較舞踊学の方向へ進みたいと思ってケニアへでかけてダンスレッスンをして過ごしたのですが、、、、、挫折。

 たとえば、以下のような研究論文を読むと、ああ、こういうことをやりたかったのだなあと思います。
http://ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/95728/1/18804349_60_17.pdf

 筆者の秋葉尋子さんは、川上貞奴を万博で踊らせたプロデューサー役の女性ダンサー、ロイ・フラーについての研究も発表しています。
 明治時代の川上貞奴が、西欧社会での公演でブームを巻き起こしたことはよく知られてきたことですが、浮世絵などの絵画が印象派などへ与えた影響は広く研究されているのに比べ、西欧に紹介された日本舞踊がモダンダンスへ与えた影響についての研究は、一般社会での認知は得ていません。海野弘『モダンダンスの歴史』の中にも日本舞踊とモダンダンスの関係に言及されていますが、これからの舞踊学研究で、舞踊と社会文化の関係の究明が進んでいくだろうと思います。

<つづく>
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2011年08月20日


ぽかぽか春庭「ダンス・スピリチュアル」
2011/08/20
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(12)ダンス・スピリチュアル

 旋回と跳躍は、神に近づき、神とまぐわい交信するためのテクニックです。トルコの旋回舞踊も、シベリアのシャーマン舞踊も、アメノウズメのエロチックダンスも、神との交信の形のひとつ。エロスとタナトスの神髄を含むのがダンス芸術です。
 舞台芸術としてのイサドラダンカン・ダンスはどうか。「健全で自然で、無理のない動き」の連続するイサドラダンカンメソッドでは、イサドラの身体ぬきで、ダンスが内包するエロスとタナトスの魅力を、多彩な表現として放つことがむずかしいと感じました。

 youtubeの中のイサドラダンサーは、みな、「とても優雅で、健全で、美しく、汚れなき身体」を誇っているのです。ミッションスクールの女子高校文化祭で、校長先生が「これなら父兄の前に出して恥ずかしくない」と太鼓判を押し得る踊りなのです。
 しかし、舞台芸術としての踊りに観客が求めるのは、「優雅で、健全で、美しく、汚れなき身体」だけではありません。女子高校の校長先生が「こんなものを文化祭の出し物にしたら、我が校の恥。教育方針が疑われてしまう」と、嘆く踊りもまた踊りの本質なのです。

 イサドラの時代、イサドラの踊りは、女子校校長先生の嘆きを招く「反社会的」なものだったかもしれません。しかし、現代の舞台でギリシャ風チュニックを着て足首をさらして素足で踊っても、衝撃はありません。
 20世紀初頭の観客がイサドラに熱狂したのも、彼女が次々と恋愛相手を変え、ふたりの「婚外子」を生んだという「女子高校の校長先生なら激怒」する私生活を持ち、美のテルシコプラとして男性にとってあこがれの人であったから。
 踊りに「優雅で、健全で、美しく、汚れなき身体」以外の要素を求めるなら、イサドラダンカンの踊りは、21世紀には「お稽古事」として以上の存在理由を持ちにくい。

 「私、スピリチュアルかんけーは苦手だ」というのは、精神、魂の問題を安易な癒しや救いに結びつけようとする宗教モドキに関してです。
 ダンカンダンスが21世紀に存在感を増すとしたら、その深い精神的な魅力によってでしょう。Aさんが最初に彼女が練習しているダンスについて述べた「スピリチュアル」な面が、ダンカンダンスの真髄と思えます。

 ダンカンダンスは「精神的な深さ」を表現する方向へ向かうのだろうと思いますが、もちろん、タップダンスだろうとブレイクダンスだろうと、名人の踊る姿には、どのダンサーでも精神的な深さが感じられるものです。NHKの「空海と密教美術」のなかで、ダンサー森山開次が曼荼羅をテーマに振り付けた踊りを見ました。動きにはインド舞踊を取り入れていますが、森山独自の振り付けで密教曼荼羅の精神をよく表現していたと感じました。

 私がこれまでに見て来た踊りのなかでも、地唄舞の武原はんの踊りやバレエのマイヤ・プリセツカヤに感じた「深い精神性」を、メアリー先生の踊りにも感じることができるのではないかと、その公演を見る前から期待しています。
武原はんの地唄舞「ゆき」
http://www.youtube.com/watch?v=Xhv2KhxFfog
プリセツカヤの『瀕死の白鳥』
http://www.youtube.com/watch?v=fWYYQN-6tJg

 メアリー先生がおっしゃる「大地のエナジーが足から伝わって身体に伸び、空中へ放たれていくように」は、とても私の裸足では表現できません。3時間ぶっ続けのレッスンを受けて、足の裏が痛くなったし。足の裏も鍛えねば。
 で、私はこれからも機会があれば、メアリー先生が日本で集中レッスンをするときにレッスンを受けたいと思っています。

 ジャズダンスもダンカンダンスも、さまざまな表現を取り入れて、自分の身体をコントロールしていけたらいいなあと、老後の健康管理に期待しています。肩こりに少しでも効くといいのですが、、、、、「っていうより、その体重、減らせ」というツッコミは、この際うけつけません。

 9月11日のダンス発表まで1ヶ月を切りました。まだ振り付けが覚えられない曲、美空ひばりの歌う『ペーパームーン』に振り付けたダンス。ペーパームーンとは、昔の映画や舞台の背景に吊しておく紙製の月のこと。オニール親子が主演した映画『ペーパームーン』は、詐欺師と彼の元恋人の娘が、互いに信じ合い本物の親子より深い絆を築いていくというストーリー。
 「紙で作った月だけど、信じればそれが本物になる」というような意味合いの言葉としてタイトルになっていました。

 私の踊りはひどい物だけれど、自分のイメージの中で「私は希有な肉体を持ったダンサーよ」と信じて踊れば、それが本物になる、、、、、、、ならないか。

<おわり>

2011年08月07日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパン」
2011/08/07
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(2)イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパン

 珍しくAさんとダンスレッスンの話をしていて、彼女が「私のダンスは、スピリチュアルなものです」というのを聞いて、「あ、私、スピリチュアルかんけーは、苦手」と、まず思いました。スピリチュアルと聞くと、たとえば、Xジャパンのトシがハマった新興宗教モドキ自己開発セミナーなどが思い浮かんでしまいます。心の浄化とか癒しとか、スピリチュアルと聞いただけでなんだかアヤシゲだと思ってしまうのは、私の偏見ですけれど。

 しかし、さらに話を聞くと、その「スピリチュアル」は、イサドラ・ダンカンだというのです。イサドラダンカン・メソッドのダンスレッスンと聞いて、にわかに興味がわき起こりました。

 7月30日と8月1日、Aさんの紹介を得て、イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパン(IDHSJ)というスタジオで、ダンカン・メソッドによるレッスンを受けることができました。IDHSJワークショップレッスンは、午後の部は2時~5時、夜の部は6:30~9:30の3時間。
 いつもやっているジャズダンスレッスンは、1回が90分で、30分はストレッチ&ヨガ。30分はジャズステップ基礎、30分が作品振り付け練習です。3時間もレッスンを続けられるかしら、と心配しながら秋葉原駅前のスタジオにつきました。

 レッスン時間が長いのは、いつもはサンフランシスコに住んでいる先生が、春休みや夏休みなどに来日し、集中レッスンを実施しているためです。
 スタジオ入り口で、Aさんといっしょになりました。

 IDHSJを主宰しているメアリー佐野先生は、日米混血のたいへん美しい方です。ダンサーですからスタイルがいいのはもちろんですが、お人柄もふんわりとやさしい感じです。
 メアリー佐野プロフィール
http://www.duncandance.org/idhsj/html/mary_sano.html

 メアリー佐野とイサドラダンカンを紹介したアメリカTV番組の録画がyoutubeで見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=pvxO9CdAGRs&feature=player_embedded#at=326

 基礎練習をたっぷりと。イサドラダンカン・メソッドは、「自然な身体」による動きをめざすため、ダンカンテクニック自体は、クラシックバレエのワガノワメソッドとか、ジャズメソッドに比べて、決してむずかしいものではありません。しかし、すでに「自然な身体」ではなく、硬直した体になっている老体が、しなやかにふんわりとダンカンメソッドをこなすには、難しい。基礎練習で歩いたり走ったりしただけで、疲れてしまいました。

 しかし、メアリー先生は指導者の鑑みたいな教え方で、ダンカンメソッド初心者の私がぎこちなく動いても、決して落ち込ませずに「はじめてこのメソッドをやる人にとっては、歩くだけでもむずかしいと思うけれど、よくリズムにあわせて歩けています」と、よい所を見つけ出して誉めてくれます。

 最後に作品振り付け練習をしました。同じ振り付けの踊りがイサドラダンカンダンサーズの古いフィルムの中にありました。
http://www.youtube.com/watch?v=ktk-LVoSQHA&feature=related

 イサドラダンカン・ダンサーズやイサドラダンカン・レパートリーダンスカンパニーなど、イサドラダンカンの踊りを継承しているグループもたくさんあったこと、私はAさんからダンスの話を聞くまでまったく気づいていませんでした。
 今でも踊りが好きといっても、舞踊史や舞踊理論を学ぶことからはすっかり離れてしまい、下手の横好きのまま、毎週ジャズダンスのレッスンを練習するだけで精一杯になっていました。

<つづく>
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2011年08月08日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカン・ワークショップ・アサインメント」
2011/08/08
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(3)イサドラ・ダンカン・ワークショップ・アサインメント

 IDHSJワークショップの最後は、「前回だされていた宿題、ワークショップアサインメント」の発表が行われました。
 宿題は「イサドラ・ダンカンの踊りについて、同時代または後世の人々が、どのように批評しているか、あるいは影響について語っているか、ダンカンの研究家以外の人がイサドラのことをどう言っていたか発表して、みなで知識をシェアする」というものです。

 メアリー佐野先生は、ダンカンの伝記について『踊るヴィーナス―イサドラ・ダンカンの生涯』(フレドリカ・ブレア著、鈴木万理子訳)の監修者となっていて、イサドラ自身がダンスについて語ったことばは、折りにふれてレッスンの合間に生徒達に語ってきたそうです。

 Aさんは、スタニスラフスキーとメイエルホリドのイサドラ評を発表しました。スタニスラフスキーは、イサドラのダンスを高く評価し、自分の演劇論スタニスラフスキーメソッドにイサドラの身体表現を取り入れたことを、本に書いています。メイエルホリドは、イサドラに好意的ではなかったけれど、自分の演劇メソッドにはやはりイサドラダンス・メソッドをとりいれているようだ、という発表でした。

 今回は、「他者の評価」が中心の短い発表でしたから、私の好きなスキャンダラスな面での言及はありませんでしたが、演劇史を思い起こしながら聞いていた私には、とても面白かった。なぜなら、イサドラは最初のロシア訪問で、妻子あるスタニスラフスキーを恋人としたがり、最後のロシア訪問では、詩人のエセーニンと恋仲になり、18歳年下のエセーニンと正式に結婚したという私生活があったからです。

 エセーニンにとってイサドラは3人目の妻。2人目の妻である女優のジナイーダ・ライフZinaida Raikhは、エセーニンと離婚後、メイエルホリドと再婚しています。つまり、メイエルホリドにとって、イサドラは「妻の敵」のような人。だから、妻の手前、イサドラに好意的な批評はできなかったのかもしれないと、そんな感想を持ちました。

 それにしても、エセーニン、自殺。ジナイーダ、自殺。メイエルホリド、反体制分子とされ、スターリンによって処刑される。イサドラ、車の車輪にスカーフが巻き込まれて首の骨が折れて死去、と並べると、この四角関係の不幸な結末は、どんなドラマよりすごい。

 もうひとりの発表は、ココ・シャネルの伝記の中で、ココは「お針子」の身分から這い出すために女優かダンサーになろうとしたことがあり、イサドラにダンスを習おうと思っていたけれど、結局そうはせず、デザイナーとして身を立てる決意を固めたことが紹介されました。発表では、「ココがイサドラに賛同できなかったのは、似たもの同士だったからではないか」と、評されていました。

 女性をコルセットの締め付けから解放する20世紀の新しい衣服デザインをしたココ・シャネルと、ダンサーの足をトゥシューズの締め付けから解放して新しいダンスを作り上げたイサドラ。そしてどちらも恋多き女。いわば「男をこやしにして」のし上がっていくタイプの女性だったところが共通しています。

 私もココについては、数種類の伝記や映画を見たことがあるのですが、イサドラにダンスを習おうと思ったことがあったとは知りませんでした。面白い発表を聞けました。

 3人目の発表は、イサドラのダンス姿をスケッチしたイラスト画集の紹介。イサドラはたくさんの画家にインスピレーションを与えました。そのダンス姿は、絵画に残され、写真も数多く残されています。

 同時代のロシアバレエ団バレエ・リュスに所属していたニジンスキーの踊る姿は、映画に残されています。20世紀初頭の映画技術ですから画面は暗く荒いですが、youtubeで検索すると、短い秒数ですが、生きて動くニジンスキーを確認できて感激します。しかし、イサドラはあれほど多くの画家が描いているにもかかわらず、映画が残されていないのです。たった5秒間分だけ、イサドラが動いているムービーが、これはニュース映画のひとこまでもあるのでしょうか、youtubeで見ることができます。5秒間でも貴重なので、UPしておきます。
 http://www.youtube.com/watch?v=mKtQWU2ifOs

<つづく>
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2011年08月09日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカン・メソッド」
2011/08/09
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(4)イサドラ・ダンカン・メソッド

 8月1日のレッスンでは、メアリー先生が監修したイルマ・ダンカンの著作『イサドラ・ダンカンの舞踊テクニック』を紹介していただきました。
 イルマ・ダンカンは、イサドラの教え子の中でも「イサドラブルズ」と呼ばれた6人の弟子のひとりです。イサドラは、未婚のまま生んだふたりの子ども、息子(演劇美術家ゴードン・クレイグの子)と、娘(シンガーミシン創業者の二代目パリス・シンガーの子)を、事故で一度に失いました。その後、ダンス学校の生徒であったイルマやアンナが、イサドラの養女に迎え入れられました。

 イルマとアンナは。イサドラの作ったダンススクールを継承し、作品を伝えました。私がレッスンを受けたメアリー佐野先生は、イルマの弟子のミニヨン・ガーランドに師事しました。ガーランドはイサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティを創始し、メアリー先生は、その日本版を設立しました。1983年にイサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパンを立ち上げ、サンフランシスコと日本を行き来しながら弟子の養成と公演にあたってきて、日本でも公演を続けてきたのですが、私はその公演があったことをまったく知りませんでした。

 1999年のメアリー佐野ダンス公演の批評
http://www.duncandance.org/idhsj/html/reviews.html

 今回、私がIDHSJワークショップに参加してみようと思ったのは、イサドラダンカンメソッドを知りたいという好奇心とともに、「なぜ、私はこれまでダンカンの踊りの継承について気づかなかったのか」という疑問がわいたからです。

 今は舞踊学研究から離れてしまったとはいえ、ダンスは私の「生き方」のひとつ。バレエ公演でもモダンダンスやコンテンポラリーダンスでも、舞踏でも、およそダンス公演の記事があれば、見逃さないようにしてきたつもりでした。公演を見に行くことは難しくても、公演のテレビ放映があれば録画したし、ダンス雑誌などに載った写真を見ることもありました。しかし、「イサドラ・ダンカン」の名に気づいたことがなかったのです。

 1979年には市川雅の研究会から離れてしまい、1983年にメアリー佐野がイサドラダンカン・ヘリテッジソサエティ・ジャパンを立ち上げた頃には、結婚と出産子育てで、ダンスから遠ざかっていた時期だった、ということもあります。
 そしてもうひとつの理由。IDHSJの活動は、マスコミではあまり報道されなかった。NHKの「映像の世紀」の中で、イサドラ・ダンカンが紹介されたとき、ダンカンのダンス再現として登場し踊ったのはメアリー佐野だった、ということですが、私は新聞でも雑誌でもメアリー佐野の名前を見たことがありませんでした。

 イサドラ・ダンカンのダンスは「20世紀芸術の歴史」としては重要ですが、「現代のダンス」としてマスコミから注目されることが少なかった、というのが、最大の理由だろうと思います。
 
 メアリー佐野の活動拠点がサンフランシスコ(イサドラの出生地)だった、ということも理由のひとつでしょう。日本のアートシーンは、海外からの招聘アーティストの紹介か、相互扶助的批評による互いの持ち上げ報道が多い。(私の偏見かもしれませんが)
 アートシーン報道することが、報道者の得にならないことは、報道されないのです。資本の原理でいえば、報道も消費のひとつ。つまり、メアリー佐野を報道することは、だれの得にもならなかったということでしょう。
 IDHSJの公演も、一部の人に目を向けられたことはあったかも知れないけれど、ダンスシーン全体に影響を与えるようなものではなかった、ということ。

<つづく>
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2011年08月10日


ぽかぽか春庭「イサドラダンカン・ダンスの継承」
2011/08/10
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(5)イサドラ・ダンカン・ダンスの継承

 実際のイサドラ・ダンカン・ダンスは、どうなのか。
 7月30日にIDHSJワークショップに参加したあと、7月31日には参加できませんでした。午後、ジャズダンス発表会のための「文化センター利用者の会」の会議に出席しなければならなかったからです。
 それで、31日午前中と夜は、youtubeでイサドラダンカン・ダンスを見てすごしました。イサドラダンカン・ダンサーズとイサドラダンカン・レパートリーダンスカンパニーのダンスフィルムがyoutubeにUPされています。ダンカンダンサーズの映像は、古いフィルムからのUPなので、ノイズも多く、きれいな映像ではありませんが、イサドラの振り付けがどういうものだったか、わかります。

 イサドラダンカン・ダンスカンパニー、スタジオ公演のようす
http://www.youtube.com/watch?v=B--BW0T9tsA&feature=related

 8月1日のワークショップで、メアリー先生に「イサドラの振り付けが用いられているダンスを見た」という話をすると、「それは、ニューヨークの団体でしょう。イサドラの弟子のうち、イルマとアンナの系統と、他のイサドラブルズ系統があって、ニューヨーク一派は、私たちの系統とは違います」ということでした。

 ニューヨークのThe Isadora Duncan Dance Companyイサドラダンカン・ダンスカンパニーは、どうやらメアリー先生にとっては好ましくないグループのようでした。メアリー先生の話によると、ニューヨーク派は、イサドラの振り付けを「より見栄えがするように、身体の使い方を激しくしたり、改変が多い。私たちの流派は、イサドラが考えたように、身体をより自然に使うことをめざしている」ということでした。
 宗教でも芸術でも、茶の湯でも踊りでも、流派・分派は互いに「自分が正当な後継者」というのが常ですから、メアリー先生も当然「自分たちが正統」とおっしゃる。

 私にとっては、どちらが正統ということは問題ではありません。私の疑問は、どの流派にせよ、イサドラの創始したダンスは、現在のパフォーミングアーツ・シーンにとって、ダンス芸術の傍流でしかなくなっているのはなぜか、ということ。

 イサドラが否定したはずのクラシック・バレエは、いまだにダンス芸術の大きな勢力です。7月31日、私は溜まっていた録画番組のいくつかを見ましたが、そのひとつは7月23日に公演が行われたばかりの、アメリカン・バレエシアターの『ドン・キホーテ』でした。華やかなスターダンサー、超絶的なバレエテクニック。セルバンテスのドンキホーテは狂言回しの脇役にすぎませんが、ドンキホーテとサンチョパンの二人連れがストーリーを運びます。いろいろなバレエ団によって何度も見ているドンキホーテですが、見ていて楽しいです。

 一方、イサドラが作りあげた「自然な身体の動きと、ギリシャ風チュニックの衣装、裸足」というダンスは、ダンス芸術に影響を残したとはいえ、「現代を代表するダンス」ではなくなっている、という事実を、どう受け止めるのか。
 
<つづく>
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2011年08月12日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカン・レパートリー」
2011/08/12
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(6)イサドラ・ダンカン・レパートリー

 イサドラダンカン・ダンスカンパニー、イサドラダンカン・ダンサーズ、イサドラダンカン・レパートリーダンスカンパニー、youtubeで見ることができます。この3つのグループのダンスを見比べて、古いフィルムと、新しいビデオとの違いはあるにせよ、イサドラのメソッドはかなり正確に継承されているのではないか、という印象を受けました。

 従来、イサドラのダンスが途絶えた、とされていたのは、イサドラの踊った姿のムービーフィルムが残されていないこと、イサドラは自伝は残したけれど、まとまったダンス理論書とコレオグラフィー・ノート(ダンス振り付け譜)を残していないことによります。イサドラのダンスは「思いつきのダンス」とまで酷評されたことがあるくらいで、即興性が強く、イサドラ自身、同じ振り付けでは二度と踊れない、とさえ言われてきました。
 まとまった振り付けの記録は、彼女自身の手では残されなかったのです。

 イサドラダンスを受け継いだのは、ロシアのダンス学校を継承したイルマ・ダンカンらイサドラの養女や弟子たちでした。身体に染みこませていたイサドラの振り付けを継承し、断片的に手紙などに書かれていたイサドラのダンスについてのことばをまとめていきました。イサドラのダンス理論は、さまざまに書かれているイサドラの伝記や研究書にも引用されているし、書簡集もまとめられているので、読むことができます。

 それらを総合して、イルマたちは、かなり正確にイサドラが彼女たちに教えたダンスを再現できていたと思われます。なぜなら、イサドラの振り付けは、決して複雑なものではないからです。私は7月30日にイサドラが振り付けたという「グルックのミュゼット」と8月1日に「シューベルトの第9交響曲第2楽章」に振り付けたダンスを練習しました。

 ダンス歴30年といっても、いつまでたってもターンもリープも下手っぴいなままですが、そんな私でも、一度踊ったあと、振り付けをかなり覚えて、他のダンサーの動きにそれなりについていくことができたのです。もちろん正確に踊れたわけではないし、先生から見たら、イサドラスピリッツを理解していない、ドタバタの動きだろうと思います。それでも、バレエやジャズの動きをマネしようとすると、一回のレッスンではとてもマネのマまではいかないのに、ダンカンダンスは、マネのマくらいは理解できたのです。

 幼い頃からイサドラのダンススクールに入り、養女として迎えられたほどのイルマやアンナなら、正確に身体に振り付けをしみこませていただろうと思います。それを振り付け譜に残すこともできたでしょう。イサドラの「公演での即興的な踊り」は残されていないとしても、ダンススクールで教え込まれた定型の踊りは継承されてきた、と言えると思います。

 イルマのイサドラダンカンダンス理論書『イサドラ・ダンカンの舞踊テクニック』について、監修者のメアリー佐野は、世阿弥の『花伝書』にも匹敵する秘伝書である、と前書きで述べています。エクササイズやポーズのやり方について、イルマがことばで書き残している小冊子です。(A6版36ページ2500円。IDHSJの発行で、非市販本)
 レッスン1のウォーキングからレッスン12体操まで、イサドラダンカン・メソッドのエクササイズの説明があります。

<つづく>
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2011年08月13日


ぽかぽか春庭「イサドラ・ダンカンの身体」
2011/08/13
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(7)イサドラ・ダンカンの身体

 8月1日のワークショップでは、ポルカや「グラナダの彫像」と呼ばれているポーズ・エクササイズを練習しました。
 ポルカについてのイルマ・ダンカンの解説は以下のとおり。

 「エクササイズ1 ポルカとは、4/4拍子に合わせてスキップ1回とランニングステップ3回をするものです。4拍目のスキップから始めて,続く3拍に合わせてランニングステップを踏みます。まず右膝を上げてスキップするところからスタートし、次の1拍目に合わせ右足をすばやく下ろし、続いて左足で一歩踏み出します。続いて右足で1歩踏んでから左足でスキップし、膝を腰骨のほうへ引き上げます。室内を周りながらこれを続けます」

 言葉で書き残せば、正確な方法がわかりますが、実際にやってみれば、ポルカステップの基本ですから、ダンスを続けている者にとって、難しい動きではありません。メアリー先生が「秘伝書」というのは、イサドラダンカン・ダンスにとって、理論的に正確に記録が残されたエクササイズの本は、イルマが書き残したこの書が唯一のものと言ってよいからでしょう。

 さて、いよいよ、現在のダンスシーンにとって、なぜ、イサドラダンスは舞踊芸術の主流ではなくなったのか、という問題に私なりに考えていくことにしましょう。
 IDHSJワークショップの基礎的なレッスンのあと、アサインメントの発表を聞いて、とても有意義でした。私も、ダンス本を何冊か読み直して、「同時代、また後世の人がイサドラについて語っていること」をピックアップしてみました。

 まず、最初の恋人であり、イサドラの最初の子デアドリーの父親であるゴードン・クレイグ(舞台美術家)が、イサドラと別れたあとに語っていることば。
 「衣紋掛けに、ぼろのように見える布切れが掛かっている。それをイサドラが身にまとう。すると布は一変する。普通は衣装が俳優を変えるものであるが、イサドラの場合は彼女がそれを着ることで衣装を変える。衣装を奇跡の美に変え、一足ごとに、一身振りごとに身にまとった衣装に語らせる。彼女が踊るのを見れば、それで十分に彼女の思想が純粋な空間に飛翔するのを感じとることができる。」(クルツィア・フェラーリ『美の女神イサドラ・ダンカン』p136)
(この翻訳、「衣紋掛け」という訳語は、現代の若者には意味が通じない「老人語」なのですが、イサドラの時代感は出ています)

 クレイグは、舞台美術を革新した天才です。そのクレイグから見て、イサドラの身体は驚異の存在だったことがわかります。ぼろのように見える布切れが一変する、ということばの中に、イサドラの存在感がわかる。もし、他の人が同じ衣装を着て、同じ振り付けで踊ったとしても、それはあいかわらずのぼろ布にすぎないだろうし、単純なステップは、たいくつな動きにしか見えないだろう。イサドラの身体性がすべてを輝かせるのです。

<つづく>
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2011年08月14日


ぽかぽか春庭「裸足のイサドラ」
2011/08/14
ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(8)裸足のイサドラ
 
 1914年以後、ニューヨーク・メトロポリタン劇場公演での最初期のニューヨークタイムズ評
 「プログラムの最後にダンカン女史は<ラ・マルセイエーズ>を踊り、絶賛を博した。観客は立ち上がり、何分間も拍手を続けた。熱演するダンカン女史のポーズはパリの凱旋門を飾る古典様式を思わせる端正な彫像の姿に想を得ていた。かたやもともと肌が露わであったが、凱旋門にあるリュード作のみごとな女性像を表現する場面ではチュニックの裾が大きく開き、賛美せよと言わんばかりに足が腰のあたりまで観衆の目に露わになった。高貴な芸術のこのあまりに鮮烈な表現に観衆は電撃的な感動を受け、それが熱狂的な拍手と歓声となって轟いたのだった。」

 生まれ育ったアメリカ西海岸で、若いイサドラはダンス教師として人生を出発しました。父親が家庭から去ってしまったあと、母親と兄弟がピアノ教師ダンス教師をしてかつかつ食べていた一家で、イサドラも11歳からダンス教師をして家族を支えてきたのです。
 思い切って一家そろってヨーロッパに渡ったのち大成功を収め、凱旋公演としてのメトロポリタン劇場公演。ニューヨークタイムズは、「電撃的な感動」がイサドラダンスに寄せられたと伝えました。

 観客の熱狂はどこにあったか。「端正な彫像のような古典的姿」「肌が露わ」「チュニックの裾が大きく開き、賛美せよと言わんばかりに、足が腰のあたりまで観衆の目に露わになった」
 優雅な動き、しなやかなギリシャ風の衣装。そして観客は、露わになった足に熱狂した、、、、

 踊り好きのルイ太陽王が保護したように、バレエはヨーロッパ宮廷の楽しみの大きな部分を占めていました。それが、フランス革命を経て、西欧ではバレエは「品のよくない、不道徳な踊り」と見なされ、バレエの主流はフランスかぶれのロシアに移動していました。ことにビクトリア女王の時代、イギリスでは「短い衣装にタイツ姿」で踊るのは不道徳きわまりない、という見方がなされ、クラシックバレエの魅力のひとつであった短いチュチュなどは顰蹙を買うものになっていました。

 そんな風潮の窮屈な19世紀末に登場したのが、イサドラのダンスでした。足を見せることに対して、イサドラは「これはギリシャの古典的スタイルであり、決して不道徳なものではない。芸術なのだ」と、自らの身体で主張しました。
 ルネサンス以来、ギリシャの古典を持ち出されれば、芸術として扱わねばならない西欧社会で、芸術としての女性の足や露わな身体を見るのに、「ギリシャ彫像風、そして裸足」のイサドラが一大センセーションを巻き起こしたのも理解できます。

 この時代の裸足とは、現代のスアシ、ナマアシとはまったく意味が異なります。現代、ラッシュの電車の中に、下半身はビキニパンツ一枚、上半身はノーブラ、シースルーキャミソール一枚で乗り込んだとしても、「ビクトリア朝社会での裸足」ほどの衝撃は巻き起こさないでしょう。
 現代でも、ベッドに横たわるとき以外に靴を脱ぐ習慣がない地域では、人前で靴を脱ぐのは、人前でブラジャーをはずして乳首を露わにするのと同じような感覚で受け止められています。日本のように「夏になれば下駄に素足」が当然だった社会とは、裸足の意味合いが異なるのです。

<つづく>
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イサドラダンカンダンス歳末三美神

2010-04-10 08:43:00 | 映画演劇舞踊
2011/12/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(10)三美神

 クリスマスイブの秋葉原駅前は「イブを二人であま~く過ごすだと?ケッ!」てなエネルギーに溢れた人々が、目当ての製品が買える店の前に列を作って並んでいるし、AKB48劇場の前にも大勢の人がいました。世の若者たちの中には、12月病とか言って、12月の声を聞いてもイブを過ごす相手がいないと、いたく落ち込むタイプもいるのだそうですけれど、行列のオノコたちオタクたちは、そんな世間の風潮などクリスマス寒波に凍結してしまって熱気むんむんでした。

 私も元気に駅前のダンススタジオへ。夏休みに初めて参加したイサドラダンカン・ダンスワークショップにいき、冬休みのレッスンを受けました。
 指導のメアリー先生は、アメリカと日本を往復しながら、ロスと東京のスタジオで教え、4月には東京での公演も企画しているという忙しい身体。

 私は、毎週金曜日のジャズダンスレッスンが、23日は祝日のため練習会場が使用できずお休みになってしまったので、秋葉原のスタジオでちょうどよくレッスンが受けられて、身体をほぐすことができました。連続180分の練習、練習生は「ちょっと風邪気味なんですけど」などと言いながらも、たまにしか先生のレッスンが受けられないので、熱心に参加していました。

 今回も、ストレッチや基本ステップからはじめて、イサドラダンカンが振り付けた作品を踊ってみるところまで進みました。「三美神スリーグレイシス」というタイトルの3人組で踊るダンス。う~ん、私が加わっても、ローマ神話の女神、愛(amor)、慎み(castitas)、美(pulchritude)のどれなのやら、どれにも当てはまらない気分で踊ったので、ちょいと消化不良でした。

 ルーベンス、ラファエロ、クラナッハ、さまざまな画家がそれぞれの三美神を描いています。三人を象徴することばも、「エウプロシュネ(歓喜・祝祭)、タレイア(花のさかり・喜び)、アグライア(光輝)」というギリシャ神話由来の組み合わせからはじまって「愛(愛欲)、慎み(純潔)、美」などいくつかあります。喜びと平和そして豊穣を表しているのだそうです。でも私が3人組で踊るなら、「嫉妬、愚痴、貪欲」あたりが似合いそうです。

 さて、「三美神」を踊って帰って、娘が用意した「イブコース」を食べながらのフィギュアスケートテレビ観戦のお楽しみ。コースは、ロブスタークリームスープ、グリーンサラダ、蟹とマカロニのグラタン、ハニーアップルチキン、苺のショートケーキ。どれも生協の半調理済み製品をもとに、ちょっと手を加える簡単調理のごちそうですけれど、とても美味しかった。たとえば、ショートケーキは、土台になるココアスポンジは既製品で、生クリームの泡立ては息子の係。娘がスポンジを3枚に切って間にクリームと苺をたっぷり挟み、苺とクリームで飾り付け。どこのパティシエのケーキよりおいしいと誉めながら、私は食べるだけ。

 フィギュアスケート、すばらしい試合でした。こちらにはちゃんと「三美神」がそろっていて、スケート靴不調から復活を賭けた村上佳奈子、母の死を乗り越えて輝こうとする浅田真央、今シーズン好調な鈴木明子の三選手が美と技を競いました。
 男子フリー。ショートで見せたすばらしさには及ばなかったものの、高橋が優勝。三代目プリンスの小塚崇もがんばったし、17歳の「新・王子様キャラ」の羽生結弦がフリーでは一位となりました。

 今回の全日本フィギュア選手権、ジュニアクラスの選手もたくさん見ることが出来て、新しい世代の王子様、美少女がたくさんいて、日本のフィギュア界、これからも楽しみだなあと思いました。「この子がかわいい」「この子は伸びていきそうだ」など、わいわい話しながら若い選手の活躍を見ました。

 「センターをめざします」なんて言わされている美少女たち、みんなかわいい。毒舌が売り物の有吉が「美と技を競うフィギュアスケートで、伊藤みどりはオリンピック銀メダル、どれだけ技がすごかったのか」と論評して笑わせていましたが、ほんと、これからのフィギュア界、技だけで上位に出られないのかと心配になるくらい、美少女ぞろいです。 ニュープリンスの中、顔立ちと足の長さからいくと、立教ボーイの中村健人選手が目立ちました。フランス人とのハーフだかクォーターだそうです。

 みな、一歩一歩成長して上を目指してほしいです。がんばれ氷盤上の三美神たち。

<つづく>
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お盆の一日2011年8月

2010-04-05 11:04:00 | 日記
2011/08/15
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記201108>お盆の一日
 14日の日曜日、姑のところへ行き、お仏壇の舅にお線香をあげてきました。息子もお線香をあげたけれど、夫は「ボクは無宗教」と言って、仏壇に手を合わせることもしない。姑も同じような考えで、ふたりは母子で考え方がよく似ています。姑は「親戚縁者やご近所の手前、何もないというのもみっともないから」というので仏壇は買ったけれど、お盆になったからそこに亡くなった魂が戻ってくるということは考えない。
 
 姑の「本日の昔話」は、夏祭りのこと。田舎の神社の夏祭りなど、東京から見たらどうということもない人出だったけれど、田舎のこどもには出店が並ぶ祭りで小遣いを使うのが何よりの楽しみ。10銭のこづかいを、食べ物に使うか「月遅れで田舎に届く雑誌」を買うかで半日悩んだそうです。親から「ああいう屋台のものを食べるとおなかをこわすから」と脅されても、みなが食べている食べ物を食べて見たい。ものすごくおいしそうに思える。でも、食べてしまえばそれっきりだけれど、雑誌ならあとあと残るから、お祭りが終わったあともしばらく楽しめる。両方買うことはできないこづかいの額で、近所の○○ちゃんが50銭ももらえるのがうらやましかった、と言っていました。
 姑の父親は早くに亡くなり、姑の母親は女の細腕で家を守り、姑の兄と姉を師範学校にやり、姑を女学校へ出したのです。10銭のこづかいは姑の母親にしてみれば、せいいっぱいの小遣いだったのでしょう。今から70年も80年も前の遠い田舎のお話でした。

 原爆や空襲で人々が地獄のような苦しみを味わったのも遠い日々のことになって、人々の記憶から薄れていってしまうのかと思っていましたが、今年はこれまでにも増して、原爆の被害に思いをいたす人々が多かったように思います。
 児玉龍彦(東京大学先端科学技術研究センター教授、東京大学アイソトープ総合センター長)が、7月27日に衆議院厚生労働委員会で参考人として発言。「熱量からの計算では広島原爆の29.6個分に相当するものが漏出しております。ウラン換算では20個分の物が漏出していると換算されます」だ、そうです。むろん児玉発言への反論もありますが、今なお原爆の後遺症に苦しむ人がいることを思うと、3.11の後遺症を私たちはこれから先、数十年にわたって負っていかなければならないと覚悟する夏なのだと感じます。

 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と、憲法は高らかに宣言しています。しかし、今の状況では、幼い子ども達がこれから先どのような影響を受けていくのかという恐怖と有効な政治的判断や放射能への対策が欠乏している、という中での生活をせざるを得ない。

 「平和で安全な生活」は世界中の人の願い。私たちの願う安全な生活とは、小さなささやかなものなのですが、これすらも、ベクレルやらシーベルトやらの前には脅かされています。
 夫と姑は、夏になると強くなる湿疹に悩まされている点もよく似た母子なのですが、姑が最近皮膚科の医者を代えたことに関して夫に相談すると、夫は「どの医者でも出してくる薬は同じようなものだから、医者をやたらに代えるべきではない」という意見でした。

 まもなく日本のトップも変わるということですが、おそらく、顔を代えたところで、処方箋はたいして変わらないものになることでしょう。
 「平和で安全なささやかな生活」は、どうなっていくのでしょうか。
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