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夏の思い出

2008-08-31 12:21:00 | 日記
ぽかぽか春庭「ふるさとの夏」
2008/09/21 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(1)故郷の夏

 ボリショイサーカス、娘と息子が小さいときは、毎年のように見に行きました。新聞販売店が読者サービスに配布する招待券に応募して、ほぼ毎年もらえたからです。

 子どもたちが幼い頃の夏休みは、乳業会社が募集する「親子で牧場見学会」とか、電力会社募集の「親子で水力発電所見学バスピクニック」などの無料のイベントをさがして夏休みを過ごしていました。水道局が募集した「水源をたどるハイキング」JA募集の稲刈りツアーなんてのもあったなあ。
 貧しい一家も、工夫で子どもの思い出に残る夏をみつけて過ごしていたのです。

 「区の公園課主宰の蛍見学会」「団地祭り」「ボリショイサーカス」「荒川花火大会」「豊島園プール」が、7月から8月上旬までの「夏休みお楽しみセット」でした。
 8月のお盆には実家に帰省して、父や妹の世話になってすごしました。 
 毎年、妹一家に連れられて川遊びやキャンプにでかけました。

 極貧生活を続けていて、夏休みの思い出を作ってやることも難しい暮らしだったけれど、子どもが二学期はじめに「夏休みのできごと」という作文を書かされたときに、なんとか「思い出」を書くことができたのも、実家をついだ妹夫婦のおかげ。

 今年も、8月お盆には、妹が守る故郷の実家に帰り、お墓参り。両親と姉がひとつの墓に眠っています。
 娘と息子は、今や、お墓参りなど「パス」のひとこと。

 8月15日、故郷に着き、まず、去年亡くなった義理の叔父(父の妹の夫)の家に寄って、新盆のお線香を立てました。
 この叔父の話は、「漆喰引き物」という語にからめて、
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1407#comment
に書きました。

 妹一家と、「ソースカツ丼」の一軒で夕食。ソースカツ丼は、地元の名物になってきて、何軒も類似の店が増えた。

 夜は温泉へ。車でちょっと登っていけば、市内に伊香保温泉もあるけれど、近場の市民温泉へ。市内にいくつも市民温泉があります。
 今回は、「敷島の湯・ユートピア赤城」というところへ行きました。

 翌日は、山車祭り。
 私が子どもの頃、町内そろいの衣装で山車を引くのが夏の楽しみでした。
 町内の山車を差配するのは、鳶頭の祖父でしたから、祖父の掛け声ひとつで山車が方向を変えたり止まったりするのを見ることが、子供心に誇らしくもあった。

 東京育ちの私の子どもたちも、町内の子じゃないけれど、幼い頃はそろいの衣装を着せて貰いました。今では、「祭りよりゲーム」になっていますけど。
 お盆墓参り、温泉、山車祭り、の故郷の夏。

 妹一家は、1994年に、私が単身赴任を条件に中国へ出稼ぎに行ったとき、10歳の娘5歳の息子を半年間預かってくれ、夏休みには、妹が子どもたちを連れて中国へ来てくれました。
 1994年に私が中国出稼ぎで稼いだお金は、銀行振り込みされた給料を、夫が全部会社の運転資金につぎ込んでしまって、妹に十分なお礼もできませんでした。

 2006年春休みに、妹をタイ旅行に誘ったのは、12年前のお礼の気持ちをこめてのこと。
 妹は、最初の見学地のお寺でころんで捻挫し、ろくろく観光出来なかったのだけれど。
 このときのタイ旅行報告は、下のリンクページに。(2006/03/13~ 03/17)
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200603A

 2007年夏は、いっしょに中国西安大連旅行をした。こちらも、タイ旅行に劣らず珍道中だったけれど、楽しかった。
 西安珍道中の報告は、下のリンクページに。(2007/08/17~ 09/06)
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200708A

 妹といっしょの、年に一度の姉妹旅行。今年は、7月28日~31日に、八ヶ岳高原清里へ行ってきました。

<つづく>
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2008年09月22日


ぽかぽか春庭「清里野外バレエ」
2008/09/22 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(2)清里野外バレエ

 妹から「今年の夏は清里高原へ」というお誘いのメールが来たのは、5月の連休があけたあと。清里で毎年開催されている「野外バレエ」を見よう、という計画です。
 野外バレエは、20年くらい続いているイベントですが、私は評判をきいたことはあったものの、見たことはなかった。

 野外バレエは、川口ゆり子今村博明夫妻が主宰する「バレエシャンブルウエスト(Ballet Chambre Ouest )」が、公演を行ってきました。
 昨年2007年には、文化庁の平成19年度芸術創造活動重点支援事業採択先に選ばれて、野外バレエのために商工中金が融資を行うなど、恵まれた条件で公演活動を行っています。
http://www.moeginomura.co.jp/FB/index.html

 私は30年来、クラシックバレエやモダンダンス、ジャズダンスのレッスンを続けているし、妹も踊りが好き。妹の娘ふたりは、幼稚園から小学校卒業までバレエを続けていて、毎年発表会の衣装は「保護者手作り」というバレエ教室だったので、妹は、大騒ぎで衣装を作っていました。

 妹の長女「エリエリ」が、バイトをしながら、バンド活動を続けているのも、親の芸能好きを受け継いだのだろうと思います。エリエリのバンドは、今週土曜日、9月27日に渋谷ラッシュというライブハウスに出演予定。
 (メジャーデビューできるなら、「エリエリれま砂漠谷」っていう芸名にしたらいいと、オバは勝手に思っているんですけれど。ヘブライ語で「神よ神よ何故ゆえ我を見捨てたもうや」)

 私の母方は、二手に趣味が分かれていた。亡くなった母方の祖父が芸能好きで、義太夫と農民歌舞伎の役者が趣味でした。それで、伯母とクニヒロ叔父は芸能好き。クニヒロ叔父は、国鉄駅長を定年退職後、しばらくは社交ダンスにはまっていた。
 母方の祖母の系統は読書文芸好きなので、私の母とヒサオ叔父は、読書と俳句が趣味。ヒサオ叔父は、定年退職後は、俳句の会などで一句ひねってすごしている。

 私の父は、歴史と散歩が好きでした。
 それで私は、欲張りにも、読書も文芸も芸能も歴史も散歩も好き。唯一受け継がなかったのは、父の壮年時代の趣味であった釣りだけ。

 7月末の「清里プチ避暑」
 妹の車に乗せてもらい、バレエの予約や宿泊も妹まかせ。
 野外バレエと、地ビールを楽しみに清里高原へやってきました。

 野外バレエはABCの3プログラムがあり、A=プーシキンの原作『オネーギン』を、川口ゆり子今村博明がバレエ振り付けをした『タチヤーナ』、B=アンデルセン原作『おやゆび姫』、C=グリム童話『シンデレラ』の3種。妹は3夜すべてのチケットを購入していました。

 1夜目の『タチヤーナ』は曇り空でしたが、2夜目の『おやゆび姫』は、満点の星空、暗転の間、夜空の星も楽しめて、最高の野外バレエでした。
 3夜目のシンデレラは、雨降りやまぬ中での公演となり、1幕目で上演中止。

 私と妹は、3日目は何となくリハーサルを全幕見ていたのです。リハーサルを見るのは出入り自由。明るい中、照明なしのバレエでしたが、見ておいてラッキーでした。
 上演中止は残念でしたが、閉幕後に清里名物の「ロックカレー」を食べ、ビールを飲みました。

<つづく>
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2008年09月23日


ぽかぽか春庭「清里・森の生活」
2008/09/23 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(3)清里・森の生活

 清里の最初の夜に宿泊したホテル・ハットウォールデンは、ソローの『ウォールデン・森の生活』をコンセプトにした小さなホテルです。とても居心地がよかった。
http://www.hut-walden.com/

 よくあるホテルの部屋には聖書がおいてあったりするのですが、ハット・ウォールデンのベッド枕元には、『ウォールデン・森の生活』がおいてありました。
 私、20代のころ読み、次に読んだのは35歳で入学した二度目の大学生のとき。
 なつかしい本を読み返したいと思って手にとったのですが、何しろベッドに入れば、5秒で寝付く。妹が話しかける間もないソッコー睡眠でした。

 ハットウォールデンに3泊したいところですが、予算の関係で、2泊目はペンション。3泊目はログハウスの貸別荘・「コテージ炉辺荘」に泊まりました。
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~roben-so/

 野外バレエの公演は夜なので、昼間はいろんなところに行きました。
 清里に三泊の間、絵本ミュージアムや展望台など、妹が行きたがったところを中心に車でまわりました。

 8月29日、妹がバレエ鑑賞のほか、第一に清里で行きたかったところ、清里開発の父ポールラッシュ記念センターや清泉寮を訪れました。

 妹は、清里旅行の予習として、ポール・ラッシュの伝記を読み終わったところなので、車を運転しながら講釈をつづけ、私もいっぱし「ポール・ラッシュ」の事績について詳しくなりました。
 国際交流のお手本みたいなポールラッシュについて、私も知ることができ、妹に感謝です。
http://www.keep.or.jp/shisetu/paul/

 ラッシュは、日本にアメリカンフットボールを紹介した人で「フットボールの父」と呼ばれている人。
 また、聖路加病院の再建に力を注いだ人であり、清里高原を「作物の実らない不毛な寒冷地」から「高原農業や酪農を定着させ、清里を再建した」人でもあります。

 現在、清里高原は、観光地として大発展をしていますが、俗化を免れているのは、ポールラッシュの「祈りと奉仕」の精神を受け継ぐ人が、清里に根付いているからでしょう。
 ラッシュが作った畳敷きの聖アンデレ教会も見学できました。
http://www.keep.or.jp/shisetu/andere/index.html

 ポール・ラッシュ記念館の次に妹が行きたがったところは、絵本美術館。
 八ヶ岳高原に点在している絵本ミュージアムのうち、3館を見学。
 妹は、NPOの理事として子育て支援活動に携わっていて、絵本の読み聞かせ運動をしているので、絵本美術館をたくさん見たいというのです。

 東京にも、絵本専門店や、絵本コーナーを持つ図書館がたくさんあるから、私はそんなには行きたくなかったけれど、妹は、私がよく行く青山のクレヨンハウスなどにも日頃、そう簡単には行けないのだから、絵本を見たいという希望におつきあいしました。

<つづく>
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2008年09月24日


ぽかぽか春庭「清里・絵本館めぐり」
2008/09/24 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(4)清里・絵本館めぐり

 点在する絵本美術館、3カ所、小淵沢絵本美術館、清里えほんミュージアム、黒井健絵本ハウス。
 妹は、どの美術館でも、絵本をあれこれ買い込んでいました。

 小淵沢絵本美術館では、ターシャ・テューダー(Tasha Tudor)の絵本、清里えほんミュージアムでは常設展のエロール・ル・カインの原画がよかった。

 ターシャ・テューダーは、絵本作家として高い評価を得たほか、庭作りとスローライフの達人。
 今年、2008年6月に92歳で永眠するまで、花壇を好きな花で飾り、庭の果物や野菜を使って料理をして暮らしました。薪割りなどの力仕事は、徒歩5分のところに住む息子さんが手伝います。
 わたしにとっての、理想の暮らしかた。

 日本にもファンが多いターシャの紹介サイト、たくさんあります。
http://ainahaina.exblog.jp/i2/
http://www.akmkny.net/gardeninghappy/tasya.htm

 ル・カインは、シンガポール出身の絵本&アニ家
http://www.ehonmuseum-kiyosato.co.jp/exhibition_errol.html
 絵本作品は、以下のサイトで紹介されています。
http://www.ehonnavi.net/author.asp?n=3532

 黒井健、私は「ごんぎつね」「手袋を買いに」などのきつねの絵のファンでしたが、きつね以外の作品もいろいろ展示されています。
http://www.kenoffice.jp/

 今回行けなくて残念だったところが3カ所。
 私にとって、近代史教科書のひとつともいえる『明治精神史』の著者、色川大吉が住んでいる大泉町の近くを通ったのだけれど、どのへんに住んでいるのかはわからなかった。
 『八ヶ岳南麗猫の手クラブ物語』を読むつもり。

 今回、北杜市に来るまで知らなかったのだけれど、清里周辺の地図をみたら、「金田一春彦記念図書館」がありました。
 金田一家の別荘が大泉町にあった縁で春彦の蔵書が寄贈され、金田一一家による講演などが行われている。

 私が、修士論文で他動詞ボイスアスペクトについて執筆したとき、アスペクト研究の先達、金田一春彦のアスペクト論を参照論文として巻末に書いた。
 また、社会言語論の授業を行うに際し、アクセント、方言の参考書のひとつにしているのも金田一春彦の著書やアクセント辞典。

 記念図書館に寄ったのだけれど、木曜日定休で中に入れなかった。玄関前のポールラッシュの銅像前で妹と写真をとりっこしました。

 もうひとつ行きたかったのに行けなかったところ。
 平山郁夫シルクロード美術館。平山作品はあちこちで見てきたけれど、平山夫妻が収集したシルクロード美術品も展示されているというので、見てみたかった。
 http://www.silkroad-museum.jp/

 シルクロード美術館の前を、何度もバスや車で通りすぎたのだけれど、妹が絵本美術館のほうに興味を示したので、行く時間がなくなった。
 妹が運転する車なので、妹の趣味優先。

 そのほか、リフトに乗って山の頂上へ行ったり、手打ち蕎麦を堪能したり、八ヶ岳高原ドライブ、涼しくて楽しい夏休みをすごすことができました。

妹とわたしの旅は、たいていハプニングがおこり珍道中となるのですが、今回の清里旅行は、雨で野外バレエ公演が中止になったほかに「なんてこったい」の出来事はなくて、珍しく「始めも終わりもすべてよし」でした。 

<つづく>
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2008年09月25日


ぽかぽか春庭「西の魔女」
2008/09/25 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(5)西の魔女

 8月7日、新宿武蔵野館で映画を見ました。『西の魔女が死んだ』
http://blogs.yahoo.co.jp/nishimajo_movie/7321577.html

 7月末に、妹とでかけた清里高原のキープ協会敷地内のなか、映画『西の魔女が死んだ』の「おばあちゃんの家」ロケ地が、一般公開されていました。
 ロケ用に建設されたのですが、ロケ終了後は、入場料300円で公開中。

 映画を見る前でしたが、妹といっしょに、おばあちゃんの家を見てきました。
 案内板があって、「おばあちゃんの散歩道」をたどることもできたのですが、お散歩は次のお楽しみにして、おばあちゃんの家をゆっくり見ました。ハーブティもいただいて(無料)ゆっくりすごしました。
http://www.keep.or.jp/nishimajo/

 『西の魔女が死んだ』原作は、梨木香歩の短編小説。
 「他人に無理して合わせるのは疲れた」と考える中学生の女の子マイ。女の子のグループ同士のつきあいから距離をおいたマイは、そのためクラスメートからは無視され孤立してしまいます。
 
 不登校になったまいが、夏の一ヶ月をすごしたおばあちゃんの家。
 とてもすてきな、心なごむおばあちゃんの家でした。

 主人公マイのおばあちゃんは、イギリスから英語教師として来日し、高校の理科教師だったおじいちゃんと結婚しました。おじいちゃんが亡くなった後も、ひとりで自分のスタイルを守って静かに生活しています。

 おばあちゃんを演じているサチ・パーカーは、1956年生まれ。オスカー女優シャーリー・マクレーンの娘。父親のプロデューサー、スティーブ・パーカーとともに、6~12歳を日本で過ごし、日本語も上手です。

 マイのおばあちゃんの暮らし方、雰囲気がターシャ・テューダーに似ている気がします。
 自然の中で、自給自足に近い暮らしを続け、縫い物もジャム作りも、自然を生かし周囲の人々ともよい距離を保って暮らしている。
 私も、ターシャやマイのおばあちゃんのように晩年を過ごせたらいいのになあ。

 映画のなかで主人公マイが一夏をすごすおばあちゃんの家の中、ひとつひとつのようすが、心に響きました。

 ロケ地の家のテーブルに、マイが使っていたマグカップがそのまま残されていたので、マイがマグカップでハーブティを飲む場面も、いっしょにお料理するおばあちゃんの台所用具なども、故郷の家をみるようになつかしい気がしました。

<つづく>
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2008年09月26日


ぽかぽか春庭「翼のある竜」
2008/09/26
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(6)翼のある竜

 ことしの夏は、エアコン工事のための部屋片づけやら、何年も冷気漏れがしていた冷蔵庫買い換えやらで、たいへんな思いもしたけれど、妹や友人、娘息子とのお出かけの楽しみもありました。

 娘息子と三人連れでのお出かけ、7月末にボリショイサーカスを見に出かけたほかは、エアコン、冷蔵庫、ガスレンジを買いに、何度も池袋の家電量販店へ出かけて、お買い得品の品定めで8月もすぎてしまいました。自営業の夫の会社、借金だらけなのに、高価な家電品を買うのですから、1円でも安いものを探し回りました。さらに増える借金は最少額におさえなければ。
 8月末にようやく、お楽しみのお出かけができました。

 娘は、小学高低学年のときに「恐竜発掘」の漫画本を読んで恐竜ファンになりました。中学校に入学してからは、「日曜地学ハイキング」という化石掘りの会に入って、毎月のように親子で化石を掘ったり地層見学をしたり、貝化石などをたくさん集めました。
 残念ながら、恐竜の化石を掘り当てる幸運はありませんでしたが、恐竜展は毎年のように見に出かけています。

 ことしは、春に千葉の幕張メッセで「よみがえる恐竜大陸展」を親子3人で見ました。夏になったら、今度は「世界最大の翼竜展」を見たいと、娘が言います。
 お台場の日本科学未来館に出かけました。
http://www.miraikan.jst.go.jp/

 8月の終わりなので、覚悟していましたが、「自由研究」の仕上げをする親子でにぎわっていました。
 解説ガイドのイヤホンをつけて走り回る子、デジカメで写真を撮りまくって、子の自由研究ノートを埋めようとがんばるお父さんお母さんの間で、娘と息子は「う~ん、小さいお友達に負けないで楽しむぞ!」と、気合いをいれていました。
 もう「夏休み自由研究」の提出には縁遠くなった25歳娘と19歳息子が母親といっしょに「翼竜展」にお出かけするというのも、あまりない組み合わせでしょう。

 「翼ある竜」は、西洋のドラゴンのモデルとしてぴったりですが、人間の想像力が、6千万年前に滅んでしまった翼竜とそっくりなドラゴンを思い浮かべることができたことを不思議に思います。

 科学未来館1階に、世界最大の翼竜、ケツァルコアトルスの復元化石や、復元個体を展示し、空飛ぶ竜についてまとめて展示してあります。
http://www.miraikan.jst.go.jp/spevent/ptero/
 「翼竜は頭はでかいが、体は小さくて体重はそれほど重くなく、大型翼竜は長く滑空していられた。体重を減らすために、骨はハニカム構造という蜂の巣のような構造をしている。これは、軽くて強度を保てる構造で、飛行機にも取り入れられている。

 小型翼竜は皮膜を羽ばたかせて飛ぶことができたこと、鳥のように2本足歩行ではなくて、翼を折り畳んで、4足歩行した。
 など、新しく知ったことがたくさんありました。

 娘と息子は何度か来たことのある日本科学未来館ですが、私は、はじめて。
 常設展のほうも回ってみたけれど、上野の科学博物館は、常設展もいろいろ楽しめるのに、「未来」の科学は、私には難しすぎました。

 スーパーカミオカンデの模型の中に入ってみたけれど、電球がチカチカしている模型を見たところで、これからどうなるものなのか、さっぱりわかりませんでした。
 ニュートリノ、うん、これは聞いたことある。電磁相互作用がない弱い相互作用?中性のパイ中間子のような反粒子元素?
はてはて、???どうにも徹底的に理系の頭ではありません。

 8月28日は、お台場にいる間に何度か激しい雨が降りましたが、外に出ての移動の間は止んでいて、ラッキー。
 テレコムセンターの展望台でコーヒー飲んで一休み。展望台の望遠鏡で「あ、ディズニーシーの火山が見えた」などと発見!を楽しんで、夏の終わりの東京湾景を楽しみました。

 途中また雨が強くなり、さっきまで見えていた東京タワーがぼうっと霞んで見えなくなり、葛西臨海公園の観覧車も消えて、あたり一帯、白い景色に変わりました。
 ひとしきり雨が通り過ぎると、少しずつ東京タワーも見えてきて、再びの東京湾景。

 夜は、お台場メディアージュの入場者1万人突破記念花火を見ました。
 自由の女神のレプリカが立っているあたりで花火の打ち上げが行われ、しばし花火を楽しみました。
 若者向けの、猫、ハート、ニコニコマークなどのキャラクター花火が中心でしたが、おもしろく観覧しました。

<つづく>
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2008年09月27日


ぽかぽか春庭「発掘された日本列島2008」
2008/09/27
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(7)発掘された日本列島2008

 娘・息子とのお出かけ。翼竜展の翌日は、江戸東京博物館へ。
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/

「発掘された日本2008」展の見学がメインイベントです。
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/about/josetsu/dai2/2008/0719/0719.html

 江戸東京博物館5階企画展示室に入ってすぐに目にはいるのが、鹿の埴輪。群馬県高崎市の太子塚古墳(5世紀後半)から出土した埴輪です。

 埴輪は高さ約60センチ。体長も約60センチ。腰に粘土を張って矢羽根を表現し、その下に朱で流れ出る血を描き込んである。
 矢がささった体にある斑点は、「かのこ模様」の夏毛を表したらしい。狩りの獲物を神に祈るための埴輪であったのでしょう。

 琴をひいている楽人の埴輪もいっしょに展示されていました。神への祈りの曲を演奏したのか、はたまた収穫の祭りを祝う宴席を音楽で囃したのか。

 縄文時代、弥生時代、と時代ごとの発掘品が順路に展示され、近年の発掘として話題になった本能寺の半分焼けた瓦が目に入りました。
 発掘成果が上がると、業火に焼け落ちたと言われている本能寺のさまざまな真実が浮かび上がってくるかもしれない。秀吉が他の場所に本能寺を再建し、長い間本能寺の元の地が不明であったのはなぜか、とか。

 高松塚古墳の石室レプリカもありました。
 発見当時の美しい女人像や白虎、天井の星辰が写真撮影され、新聞社の「おまけ」としてポスターが配布された記憶があるけれど、今は、かびに覆われて美女の顔もよく見えなくなっている様子が、復元されていました。

 6階通常展示の大名籠。「女籠」の前に、「靴をぬいで、籠に座ってください」と、書かれていたので、親子で順番に籠に座ってみました。気分は篤姫か和宮か。

 でも、私が中に座ったら、息子と娘が「桜田門外の変ごっこ!」と言って、刺すまねをしたので、息子が座ったときは、「坂下門外のへ~ん」と言って、今度は私が刺すまねをして、娘が座ったときは、「もう、ナンの門かわからんへ~ん」と言って遊んだ。おバカな親子。小学生中学生くらいの親子連れは、夏休み自由研究だかのメモをまじめに書き込んで一生懸命やっているのに、こちらは気楽な物見遊山である。

 そして、「えっと、桜田門外は井伊直弼だったけれど、坂下門って、安藤だれだっけ」と、殺されかけたのに、名前が知られていない安藤なにがしを不憫に思いつつ、常設展示を見て回りました。

 歴史大好きな息子、学生証を示せば、江戸東京博物館も国立東京博物館も、常設展は無料で見ることができる。
 大学が博物館の「メンバーズシップ」に登録してある大学なのに、このありがたい制度をつかうのは、この日が初めて。
 「こういう費用もバカ高い授業料に入ってるんだから、せっせと利用してモト取りなさいよ」と、けしかけるハハの、「費用対効果」計算でした
 
 科学未来館では、ランチに「恐竜の卵コロッケランチ」というのを食べて、「こういう子供だましにノって食べるのがおいしい」とか言っていた息子と娘、江戸東京博物館では、2階のレストランで「深川丼」と「穴子天とまぐろ山かけセット」を頼み、「うん、江戸っぽい」と、食べていました。

 何を見て歩いても、「食べるのが一番たいせつ」の親子です。

<つづく>
==========
もんじゃ(文蛇)の足跡:

 「発掘された日本列島2008」展、東京での展示は終了しましたが、現在、兵庫県県立考古博物館で展示中。千葉では11月に、沖縄で2009年1月に巡回展示があります。
http://www.bunka.go.jp/oshirase_event/2008/hakkutsu2008.html

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2008年09月28日


ぽかぽか春庭「葛西臨海水族園」
2008/09/28
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(8)葛西臨海水族園
 
 9月26日、娘息子と、ふたたびのお出かけ。葛西臨海公園水族園へ行きました。
 娘息子も水族館が好きですが、このところ、近場のサンシャイン水族館に行くことが多く、葛西臨海公園の水族園に3人いっしょに寄ったのは、久しぶり。
http://www.tokyo-zoo.net/zoo/kasai/index.html

 マグロの回遊水槽は、いつ見ても迫力です。銀色に光る体側を見て、「うん、うまそう」という、一家そろっての感想。
 息子と娘は、テレビで見た築地市場のまぐろのセリのまねをして、手をセリの値段の形にして、笑っています。
 「うん、アイツはいい泳ぎっぷりだから、油がのっているにちがいない」と、しばらく水槽を眺めていた母子でした。
http://www.ucatv.ne.jp/~pengin/tenjijou/drive/kasai/dai.htm

 熱帯の海、北極や南極の海、東京湾の生き物たち、ペンギンコーナー、それぞれにおもしろく見ましたが、9月の最終金曜日、平日だからすいているかという思惑はまったくはずれて、館内は社会科見学の小学生中学生で混み合っていました。

 赤キャップの一群は「社会科見学ウォッチングノート」という担任の先生手作りらしいパンフレットに書き込みをしながら館内を移動しています。
 帽子無しのグループは、班行動らしく、班長が「わー、集合時間まであと10分しかないよ」とあわてているし、グレイハットの小学生たちは、「区内探検総合学習」というクリップボードをひもで首からつるして、メモをとっている。
 何を見ても「スゲー、わー、スゲー」とうれしがる男の子がいたのは、臙脂色ハットの学校。
 「○○く~ん」と、大きな声でクラスメートを捜しているグループもいます。グループメンバーがひとり、はぐれてしまったらしい。

 娘と息子も、小学生時代にこの水族園へ、学年そろって来たことがあり、「私たちも、ああいう小学生だったんだと思うと、魚見ているより小学生見物していたほうがおもしろい」と、言います。

 「自分が小学生のときは、クラスの中が絶対の全世界で、周りのことなんか気にせずにいたけれど、端から見ていると、小学生って、おかしな生き物だなあ、って、思うよ」と、娘は、余裕で、それぞれの先生の「見学のさせ方」を見ていました。
 娘は、大学時代、児童館などでボランティア活動をするサークルに入っていたので、子どもをどのようにまとめていくかについて、先生のやり方を鋭くチェックしていました。
 「あそこのおばちゃん先生は集中管理型、あっちの若い先生は、グループ行動に分けたあとは放任型っていうか、集合時間まで自分は休憩中ってとこかな」

 葛西臨海水族園でのランチ。
 園内レストランで、私と息子は「まぐろカツカレー」、娘は、シーフードスパゲッティ。プラス、クラムチャウダー。

 味にうるさい娘は、スパゲッティの上に乗っていたエビについて、「かんづめか冷凍のエビの味」と、言います。「まあ、水族園の水槽のなかから釣ったばかりのエビです、とか言われても、おいしくないだろうけど」と、娘の弁。
 私と息子は、「う~ん、水槽の中で泳いでいたマグロじゃないと思うけれど、やっぱり鮪は、カツカレーよりお刺身だよね」と言い合いました。

 帰り道。
 「私たちの社会科見学のときは、横のほうにお弁当広場ってのがあって、そこでお弁当を食べたんだけど、今もあるのかな」と、淡水生物園へ回る道をいくと、ちゃんとありました。さきほど館内を走り回っていて、班長さんに「走っちゃダメって、いったでしょっ!」と追いかけられていた子たちも、ここでお弁当を食べたのかな。

 淡水生物館を見学しました。急速に生息数が減っているという蛙の展示。
 今年は、「世界カエル年」なんですって。
 カエルの生息できる田圃や池沼が減っているということは、同時に人間が人間らしく豊かな自然と共生して生きていける環境が減っているということ、という解説がありました。

 「あのにぎやかな小学生たちの中から、お魚ハカセやカエル愛好家やまぐろ一本釣り猟師やエビフライ大好きッコとか、クラムチャウダーを美味しく作れる奥さんとか出てくるのだろうなあ」と、思いながら水族園を出ました。
 あの小学生たちが大人になるまで、地球が残っていますように。

<つづく>
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2008年09月29日


ぽかぽか春庭「観覧車と古代エジプト」
2008/09/29
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(9)観覧車と古代エジプト

 9月26日、水族園での、遅いランチのあと「ダイヤと花の大観覧車」へ。
 娘はお台場のパレットタウン観覧車には何度か乗っているけれど、「ダイヤと花の観覧車」には乗ったことがないので、水族園の帰りに寄ってみました。
http://www.ucatv.ne.jp/~pengin/tenjijou/drive/kasai/kan.htm

 「ダイヤと花の大観覧車、直径111メートル、高さ117m、東洋一の大きさ」というふれこみで営業開始したときに、小学生だった息子といっしょに乗ってみたことがありました。
 営業開始してすぐのその頃は、ものすごく混んでいたのですが、半年ほどで「暫定東洋一」の記録が破られ、その後はいつ見ても閑散としています。お台場にも観覧車ができたので、人気がなくなったみたい。

 この観覧車に息子と乗ったときのことは、いい思い出です。
 8年ほど前のこと。息子の6年生進級祝いとして自転車を新調しました。
 「新しい自転車を買った記念に、葛西臨海公園へ行ってみよう」と私がさそうと、息子が素直についてきました。

 母子サイクリング、自転車で荒川沿いに下りました。荒川土手はサイクリングロードとして整備も進んでいます。
 家から海岸まで18km、往きは海岸へ向かって下っていく道なので、サイクリングは快適でした。すいすいと進んだのですが、家でお昼ご飯を食べてからの出発でしたから、葛西臨海公園に着いたときは、目的の水族園はもう入場締め切り時間を過ぎていました。
 そこで、予定外でしたが、長い行列に並んで観覧車に乗ったのです。

 行きはよいよい帰りはコワイ。帰り道はずっと登りです。そりゃそうだ、山登りとちがって、海へ行くときは、たいてい行きが下りで帰りが登り。ようよう家にもどりました。

 そんなことを思い出しながら、東京湾景を見渡す一周17分間でした。曇り空でぼうっと霞んでいる東京のビル群、ディズニーランドのシンデレラ城などが見えました。

 母は、「9月28日で終了する古代オリエント博物館の招待券があるから、帰りにサンシャインビルに寄りたい」というと、娘息子は「あ、ミイラはパス。ふたりで先に帰る」と、つれない。ひとりでサンシャインビル文化会館の7階、古代オリエント博物館へ行きました。
http://y-egypt.com/40year/

 早稲田大学考古学発掘チーム40年の発掘成果を展示している「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」です。
http://www.egypt.co.jp/egypt40/tokyo.htm

 目玉展示は、未盗掘の古代エジプト高官の木棺から出土した、ミイラの青いマスク早稲田考古学チームの最大の発掘品です。
 セヌウという名のエジプト司令官のミイラを覆っていた青いマスク。ツタンカーメンのミイラマスクは有名ですが、セヌウの青いマスクも古代史のロマンが秘められているような、すてきな青いマスクでした。

<つづく> 
06:39 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年09月30日


ぽかぽか春庭「セヌウの青いマスク」
2008/09/30
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(10)セヌウの青いマスク
 
 「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」、ツタンカーメンとその王妃アンケセナーメンの指輪やセヌウの木棺、復元されたセヌウの頭部など展示されていました。
セヌウの復元についてのページ(吉村チームの発掘を支援している熊谷組のHPより)
http://www.kumagaigumi.co.jp/news/2006/nw_060622_1.html

 旧王朝時代から、プトレマイオス朝、ローマ時代まで、幅広い年代の歴史を一望できました。

 「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」出土品には、専門家からみたら高い価値のある貴重なものも多かったのでしょうが、エジプト考古学素人の私には、青いマスクや彩色階段模型がいちばん派手で、あとは地道な発掘の土器片や装飾品など、レリーフなどが展示されていました。
 ガイド音声解説の声は吉村教授本人。ひとつひとつの展示品に、さまざまな思い出があるのだろうと思いました。

 「吉村作治の早大エジプト発掘40年展」、なによりの見ものは、吉村教授が40年、コツコツと発掘を続けてきた「その歳月」です。
 早稲田大学学部時代に初めてエジプトに渡ったときから40年発掘を続けてきた中に、壁にもぶつかり、山越え谷越え、さまざまな苦労があったことでしょう。

 ビデオ映像のなかで、エジプト最初の発掘現場に立つ吉村先生、発掘にかけた青春と人生に悔いなし、という風貌でした。
 「おみそ汁のCMに出るのも、すべて発掘費用を捻出するため」と、昔、インタビュー番組で語っていたことを思い出しながら、ビデオ映像を見ていました。

 ビデオの中で、吉村先生は若者を前に講演していました。「そんな夢みたいなこと何言ってるんだ、と人から言われたら、よっしゃあ、と思いなさい。夢みたいなことだから、夢見る必要がある。夢は見続けていれば、必ず実現する」と。
 夢を見る前に「そんな夢みたいなこと、無理、ムリ」と、最初からあきらめている近頃の若者たちに向かって、先生は熱く語りかけていました。

 もちろん夢を見続けるだけではなく、どのような困難挫折にも負けない強靭な意志と、夢の実現へ向ける努力が必要なことは言うまでもないことですが、吉村先生の40年間の「持続する志」に学びたいと思いました。

<つづく>
2008/10/01
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(11)ハカセの持続する志

 吉村作治教授、CM出演やワイドショーのコメンテーター、「世界不思議発見」などのクイズ番組出演等々、世間に名と顔を売る経歴多彩な中で、世間の注目と非難を集めてしまったのが、「ディプロマミル(学位製造工場)」と呼ばれる「金で学位を売る」商売をする非認定の大学から、博士号を買ってしまったこと。

 長年考古学研究を続け、学位論文に相当する発掘成果を発表してきた人が、何故そんなことを?と、疑問に思いましたが、「(早稲田の)同僚から博士号がないと教授になれないといわれたから、つい30万円で買ってしまった」との、吉村先生談。
 吉村先生、1999年に早稲田大学工学部から正規の博士号を得ています。(考古学研究者だけど、工学博士)。

 博士課程を担当する教官・教員は博士号を持つことが条件とされるなどの大学内部事情があり、大学専任教員のなかで、学位を買った人、文部科学省の調査では全国に50人近くいたそうです。

 春庭の「持続する志」
 書くこと読むこと。学ぶこと。
 6歳で「書く人になりたい」と思って以来50余年、書き続けてきました。
 50余年の「持続する志」です。

 「吾十有五而志乎學」して以来、三十にしても立ちあがれず、四十にして惑いっぱなし。
 五十にして天命もわからずですが、、、、学び続ける志は変わりません。

 浅学非才の私からは、仰ぎ見るばかりの「知の巨人」松岡正剛の「千夜千冊遊蕩編」1263夜 2008年9月25日の一冊は、足立巻一「やちまた」を取り上げています。

 私がカフェ日記を始めたとき、コラムの最初に「春庭千日千冊、今日の一冊」として「好きな本の紹介コーナー」を作ったのは、松岡正剛が2000年2月23日に始めた「千夜千冊」のまねっこでした。

 そのとき、著者名あいうえお順の本紹介、「あ」から順に始め、「足立巻一」の「やちまた」からスタートしました。「やちまた」は、本居春庭の評伝小説の傑作です。
 盲目となってもなお国学への「持続する志」を貫いた本居春庭と、その春庭の人生を、生涯をかけて探し求めて記録した足立巻一の「持続する志」が交差する構成、見事な一冊から、「今日の一冊」紹介をはじめました。」

 本居宣長の息子、本居春庭は、「詞通路(ことばのかよいじ・構文論)」「詞八街(ことばのやちまた・動詞活用論)」を書き残した国学者です。
 私のホームページのタイトルを「話しことばの通い路」としたのは、「詞通路(ことばのかよひじ)」のもじりです。

 「春庭」というハンドルネームの紹介を兼ねたつもりで、スタートしたのですが、「春庭千日千冊」は、千冊までには及びもつかぬ、「あ」から「ん」まで48冊で終わりになりました。
 2003年9月28日スタートのカフェコラム。「21世紀になって千日目の記念にカフェ日記スタート」と銘打っていますが、千日目というのはは、計算違いだったかも。計算弱いから。

 現在はこちらに公開。「春庭、おい老い笈の小文2003」
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/oi2003mokuji.htm
 私の本紹介は、48回の「あ~ん」終了のあと、カタカナシリーズをはじめたのですが、続かず、本の紹介は、コラム内容に関連した本を、リンクページで紹介するという程度になってしまいました。

 松岡正剛先生は、持続する志をつらぬいて、千冊をとうに越え、1263冊まで、精密な読みの記録を掲載し続けています。
 「やちまた」の紹介はこちらに。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html

 カフェコラムをはじめてから満5年経った日、9月27日、学生春庭は、博士後期課程論文中間発表会で、なんとか発表を終えました。準備不十分のまま、指導教官に叱咤激励を受けて、9月に駆け込みで発表原稿を仕上げました。

 お金で買えるディプロマミルの博士号とちがい、ハカセへの道はなかなかしんどいです。
 春庭言語文化論のスタートラインとしては、ぐずぐずの不十分なものではありましたが、よろよろと、こけつまろびつの出発です。

 夏の思い出、妹との清里遊覧やら、娘息子との観覧車や水族園や翼竜展やらで遊んだだけじゃなくて、学生春庭、おベンキョーもしていました、という、本日のexcuse篇でした。

 ヨメ春庭は、姑入院のつきそいもしたし、ツマ春庭は、、、、あ、これはいつも通り何もしてないや。つうか、法律上の夫は、夏といわず秋といわず家族なんて無関係ですから。お彼岸にお墓参りと姑快気祝いの食事をいっしょにしたのが、この夏唯一夫私娘息子が顔をそろえたひとときでした。

 教師春庭、後期授業が始まりました。
 9月30日は、学部日本人学生相手に、3コマ。社会言語学、現代日本語学、日本語音声学を講義。
 90分3コマ連続、午後1時から6時までしゃべりっぱなしは、しんどいです。

 次回、夏の思い出シリーズのラストコラム。ウェブ友とのオフ会について。

<つづく>
05:58 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年10月02日


ぽかぽか春庭「青い鳥オフ会」
2008/10/02 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(12)青い鳥オフ会

 教師と学生と母と嫁を同時にやっていてシンドイなんて、言っていたらバチがあたります。どれも自分で望んだ結果の人生ですから。

 教師はなりたくてなったのではなく、これしかお金をもらえる仕事がなかったからですが、これだって仕事をさせていただくのはありがたいこと。
 午後1時から6時までしゃべり続けてつかれたなんて、愚痴を言ってはいけません。学生が「履修しようかどうしようか迷っていたけれど、とても楽しい授業なのでとることにします」なんてコメントを書いてくれる時間を作っていけるのは、やりがいのあることだもの。(でも疲れる)

 と、愚痴をこぼしつつの生活ですが、すばらしい友の生き方を知ると、自分の甘さが反省できます。
 厳しい現実のなかで、私など及びもつかないくらいがんばっている友を思い浮かべると勇気をもらえます。
 励みになる友を見習っていきたい。

 ひとりは、脳性麻痺の手術を受けたけれど、まだまだ自由にならない手足と、襲ってくる痛みをこらえながらリハビリと詩作をつづけているチルチルさん。
 もうひとりは、ご自身の体調がすぐれない中、家族のためにせいいっぱいがんばってこられたチヨさん。ふたりとも、OCNカフェの日記を読みあうなかで知り合ったウェブ友です。

 7月21日、このカフェ仲間とのオフ会をして、楽しかった。
 以下、オフ会の思い出

 九州の青い鳥チルチルさんは、6月1日カフェ日記に、翌日から始まる入院生活について、「あ~す~は、東京へ出てゆくからにゃ~ な~にが なんでも 挫けちゃならぬ~ う~まれながらの 脳性麻痺に~ 戦い挑んで また~生きる~ 」と、書いていました。

 その東京での入院生活も、あと数日でひとまず退院という日、オフ会をしました。
 病院お見舞いというと、元気な人が入院中の方をお見舞いすることになりますが、チルチルさんのお見舞いは、逆です。入院中のチルチルさんは、まだ痛みがとれない部分があるというにもかかわらず、いつも笑顔がいっぱい。

 私のほうが暑さにうだっていてくたびれていて、いっしょにお話しするなかで、たくさんの元気をもうらうことができました。

 青い鳥オフ会。
 チルチルさんが入院している病院から車なら20~30分ほどというところにお住まいのチヨさんと、チルチルさんの妹さんグリーンさんと、「女4人のアフタヌーンティ・パーティ」を楽しみました。

 冷たいコーヒーや緑茶を飲みながら、チヨさんお手製のバナナクリームクレープ、私が、ありあわせのカボチャをチンしてテキトーに混ぜ合わせただけの「簡単シナモンパンプキンケーキ」などを作ってお茶うけにして、笑いとおしゃべりのティーパーティ。

 チルチルさんは、ケータイにいっぱい保存してある、病院同室仲間や主治医の先生とのツーショット写真を披露してくれました。
 チルチルさんは、チヨさんの愛犬チョコちゃんをなでながら、私が書いた「足下が崩れる話」を「大笑いして読んだよ~」と、もう一度おもしろがり、チヨさんは、うれしそうにシッポを振っているチョコちゃんとの出会いについて話しました。
 ちるちるさんの外出許可時間いっぱいまで、おしゃべりがつきませんでした。

 グリーンさんは、ご自身も体調が不調となる日もあるなか、病院併設の「介護者用の寮」に寝泊まりし、大手術に臨んだチルチルさんの介護を続けました。
 チヨさんと私は、「ほんとうに感動的な姉妹愛ね」と、話し合いましたが、食事の介助や車椅子への乗り降りにつけても、てきぱきとこなしておられました。

 チヨさんとチルチルさんと私の共通点は、「三人姉妹」であること。それぞれの姉妹との絆もありながら、こうしてインターネットを媒介として、本来なら知り合うことがない九州と東京の距離をこえて友だちになれたことを、不思議にもうれしく思います。

 オフ会はそんなにしょっちゅうはできないけれど、これからもbbsや日記コメントを通じて、おしゃべりに花咲かせていこうと思います。

<おわり>
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マラーノ

2008-08-27 18:53:00 | 日記
マラーノ

春庭・ことばのYa!ちまた>帰化(1)はやしさんとイムさん

 日本国民として戦争に行き、日本人兵士として戦ったのに、戦後は「日本人じゃないから軍人恩給は出せない」と言われた人々のなかに、傷痍軍人の姿で街頭に立っていた人もいたのではないか、ということ話題にしました。
 民族と国籍について、まだまだ、さまざまな問題が残されています。 

 40年以上も前のこと。
 高校時代、私は、先生の勧めで夏休みに、「日本の高校生と在日朝鮮子弟・朝鮮学校高校生、交流キャンプ」に参加しました。北部地区県立高校生として参加した私は、東部地区県立高校生のヨシエさんと同じ班になりました。

 林良枝さんは、みなから「ヨシエさん・よっちゃん」と呼ばれていました。よしえさんの家族がそう呼んでいたから、周囲の人も、家族と同じように「よしえさん」と言ったのです。
 元気で明るい人でした。

 「県立高校生」として参加していたヨシエさんは、朝鮮高校の若い人々の姿を見て、自己紹介として「はやしよしえです」と、繰り返すたびに違和感を強く持つようになりました。それまで、自分自身を「はやしよしえ」と思って暮らしてきたのに、このキャンプから帰ってから「通称名を使っている在日家庭の娘」であることを意識し始めました。

 高校を卒業し大学に入ってから、ヨシエさんは、名前を「イム・ヤンジ」と呼んでほしい、と友達に言いました。本名は「イムヤンジ林良枝」だから、と。
 イムさんは、大学に入って学生運動に関わり、恋人ができました。進歩的で民主的な考え方を持つと人だと思える人でした。信頼する恋人に、国籍のこともうち明けました。

 結婚を約束した恋人は、家族に「国籍が違う人と結婚をするなら、家を出て自活しろ。財産も分けてやらないから」と言われて、イムさんに帰化を求めました。

 「僕は、君の国籍を愛しているんじゃない、中身の君を愛している。だから、国籍変更は、法律上の国籍を変えるだけで、中身の君は何も変わらないし、僕の愛も変わらない」と、恋人は言ったそうです。
 恋人は、家族の中で、空気を読める人だったのでしょう

 イムさんは、悩んだ末、「帰化しようと思えばできるけれど、ありのままの私を受け入れてくれない彼の家族とは、将来うまくやっていけないかもしれない」と考えて、恋人との結婚をあきらめました。

 彼の家族とうまくやっていけない、というのは、口実だったろうと思います。「国籍を変えるだけだし、中身の君は変わらない」と考える恋人に対し、がっかりした、というのが本当ではなかったか。
 もし私なら、「国籍がちがう人とは結婚を認めないという家族より、今のままの君を選ぶ」と、言ってほしいと思うから。

<つづく>


2008/08/30 
春庭・ことばのYa!ちまた>帰化(2)国籍

 ヨシエさんのようなエピソードは、私の周囲にたくさんありました。
 アメリカ人との「国際結婚」なら認めるけれど、在日家庭の人との結婚は許さない、という考え方の人もいました。

 当時は、「閉鎖社会」の住民が多数派でした。
 ヨシエさんが自分の国籍のことを周囲に話したころ、「テレビの人気者の中に、出身地を隠している人が多い」と、たくさんのうわさがありました。

 今でも、ネットの中に「隠れチョーセンタレントをあばく」「実は日本人じゃないタレント一覧」なんていうサイトがあるのです。あばいてどースルってのでしょうか。
 今は、韓国スターが人気を博している時代。「日本人じゃないからどうのこうの」と言ったりする人は、その人自身の品性を疑われる状況になっていますが、それでもそういうサイトに投稿したい心理ってのは、いったい何なのか。

 「本物の傷痍軍人ではない」と、言われた人々のことを描きました。
 皇軍兵士または軍属として徴用されながら、軍人恩給などからはこぼれ落ちた人々。

 1952年の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効によって、日本が朝鮮の独立を正式に認めたことに伴い、半島出身者は、正式に日本国籍を喪失しました。
 同条約の発効日に、外国人登録法(昭和27年法律第125号)が公布・施行されました。

 1965年の日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の締結により、日本と韓国との国交が結ばれました。したがって、韓国籍の人は、大韓民国の国籍を持っています。

 しかし、現行の外国人登録において、「朝鮮籍」とは、「旧朝鮮戸籍登載者及びその子孫(日本国籍を有する者を除く)のうち、外国人登録上の国籍表示を未だ『大韓民国』に変更していない者」を呼びます。
 「朝鮮籍」の人は、法的には北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と、国籍上の関わりはないのです。

 これには、わたしもびっくり。
 韓国籍の人は大韓民国の国籍所有者。それと同じように、「朝鮮籍」の人は「朝鮮民主主義人民共和国」の国籍を持っているのだと思いこんでいました。朝鮮籍の人は、「国籍を大韓民国籍に変更していない者」という扱いだったのですね。知らなかった。

 自分のパスポートに「朝鮮民主主義人民共和国への渡航はできない」と書かれていることには気づいていたけれど、日本と国交がない国の国籍を持つことはできない、ということに思い及ばずにいました。

 朝鮮籍、韓国籍の人のなかには、日本での社会生活上、日本人名を通称名として持ち、日本語を話して生活する人も多い。

<つづく>



2008/08/31 
春庭・ことばのYa!ちまた>帰化(3)力道山

 若い世代のなかで、ことさらに「KY=空気読めない」が、非難めいた言い方でクラス・グループのなかで言い立てられています。これも、「周囲に合わせよう」という社会の風潮、裏返せば「自分たちのやり方に合わない人は排除しよう」という社会意識に添ったものだと感じます。

 そんな「同化を求める社会」のなかで、自分が「少数派」だったら、どうするか。
 ひたすら周囲に同化して、自分が異端視されないようふるまうか、「カミングアウト」して周囲とは違うことを告白するか。

 2008年4~7月に見ていたドラマ『ラスト・フレンド』でも、性同一障害をかかえて悩むルカ(上野樹里)が、「女の肉体を持って生まれたことに違和感をもち、心は男性として生きることを望んでいる」ということを、家族にさえうち明けられずに悩んでいました。

 自分が「フツーと呼ばれている人とはちがうこと」をうち明けるのは、たいへん大きな心の負担となるのです。

 通称名をもつ在日朝鮮籍、在日韓国籍の人のなかに、出身を公表せずに生きた人、また、日本に帰化したあと、元は朝鮮籍・韓国籍であったことを秘密にする人もいました。
 そうせざるを得ない、日本社会の制約があったからです。
 以下、力道山と松田優作についての紹介です。

 出生地と最初の国籍を公表しなかった人。
 たとえば、力道山。
 力道山は、日本併合下の朝鮮半島洪原郡新豐里(現在の北朝鮮統治範囲)に生まれました。出生地での名は、金信洛(キム・シルラク)。

 戦後プロレスラーとして人気者になったあと、プロレス興業の場で、力道山の出身地は「長崎」とされ、朝鮮半島生まれであったことは「タブー」としてふれられなくなりました。
 長崎県大村市の農家・百田家の養子となって日本国籍をとっており、「日本人」であるということに嘘偽りはありません。
 テレビの前の人々は、力道山の活躍に熱狂し、悪役ヒールをやっつける「日本国民のヒーロー」と、思っており、生まれ故郷の出身地を言うことはできなかった。

 力道山主演の自伝映画『力道山物語』でも、長崎の貧農出身、というシナリオになりました。
 出身地がおおやけに言われるようになったのは、力道山の死後のことです。

 実の息子ふたり、百田義浩・百田光雄(ふたりともプロレス関係者)さえ、「力道山は朝鮮半島出身者」ということを、父親の死後知ったそうです。
 実の息子にさえ出身地を秘密にした、という事実に、この問題の根深さが見えます。

<つづく>



2008/09/01 
春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>マラーノ文学(1)松田優作

 死後、国籍問題をおおやけにした人、松田優作もそのひとり。
 妻の松田美由紀が、死後7年目に公表しました。
 また、前妻の松田美智子は、著書『越境者 松田優作』(新潮社2008年)において、「優作が日本国籍にどのような想いを持っていたか」を書いています。

 優作の父親は日本人。しかし、父には、法律上の妻がいたために、韓国人の母親の私生児として、韓国籍で出生届が出されました。すったもんだがあったらしく、実際は1949年に生まれたのに、届けは1年遅れで1950年。韓国名は金優作(キム・ウジャッ)。

 松田美智子は、帰化申請するにあたって、優作がどのような逡巡をへて、どのような心境にあったかを記しています。

==========
 優作は、文学座研究生のころ美智子と出会ったが、国籍については、けっして明かさなかった。美智子が優作の国籍について何も聞かされていないうちに、美智子の両親は興信所を使って優作の国籍を調べ、結婚に反対した。
 結婚問題で国籍と直面した優作は、「日本人として生きる」ことを決意し、帰化申請をする。

 『太陽にほえろ!』の出演が決まった時に、松田優作は法務大臣宛の帰化動機書を提出した。
 「番組出演が決まりました。番組は全国で放映される人気番組です。もし、僕が在日韓国人であることがわかったら、みなさんが、失望すると思います。特に子供たちは夢を裏切られた気持ちになるでしょう」と、優作は大臣に向けて書いた。
===============

 「太陽にほえろ」は、当時の人気番組。テレビの前の人々は、「刑事」たちについて「日本の正義を守る日本人ヒーロー」と思っていました。
 「警察のヒーロー役が韓国人であることを知ったら、日本人、とくに子供たちは失望するだろう」と、優作が本気で信じていたのかどうかはわかりません。

 法務大臣にこの切実な心情が伝わったのか、どうか、優作は1974年に日本国籍取得しました。

<つづく>


2008/09/02 
ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>マラーノ文学(2)マラーノ

 人気刑事ドラマのヒーロー松田優作を、「マラーノ文学の作家」としてとらえなおしたのが、四方田犬彦です。

 四方田犬彦『日本のマラーノ文学 ―ドゥルシネーア赤』が2007年12月に発行され、私はさっそく「冬休み読書」の一冊にして読了しました。
 姉妹編の『翻訳と雑神 ―ドゥルシネーア白』は、まだ読んでいません。

 2007/11/08に、国立東京博物館のなかの一角座で『俗物図鑑』を見てきたところで、映画のなかに四方田が「俗悪評論家」として出演していたのがおもしろかったし、四方田の『月島物語』なども愛読してきました。

 「マラーノ」ということばを私は知らなかったので、まず真っ赤な装丁のなかの「マラーノ」とかかれた文字に引きつけられました。
 「マラーノ」とは、 スペイン語(カスティーリャ地方の古語)で「豚」の意味だという。

 「豚」とは、「豚肉を食べることを禁じられているユダヤ教徒が、ユダヤ教徒であることを隠すために、ことさら人前で豚肉を食べてみる」という意味を持ち、「かくれユダヤ教徒」のことを指す隠語でした。

 マラーノ=Marranos スペイン語、ポルトガル語。「マラノ」とも
 もともとの意味が「豚」であるマラーノとは、イベリア半島において強制改宗させられたユダヤ人。また、ユダヤ教を偽装棄教し、表面上キリスト教徒となったユダヤ人を表す言葉。

 スペイン半島のユダヤ人の多くが、14世紀から15世紀に異端審問や魔女裁判などの影響でスペインからポルトガル、オランダ、イギリスなどへ集団で亡命した。

 なぜユダヤ教徒であることを隠さなければならなかったか。
 15世紀まで、イベリア半島はイスラム教徒であるオスマントルコに支配されていました。イスラム教徒はユダヤ教徒と共生をはかっていました。

 しかし、キリスト教徒がイスラム教徒を追い払って、カソリック王国をうち立ててから、ユダヤ人への迫害がはじまった。
 キリスト教は、ユダヤ教に不寛容であり、その結果、多くのユダヤ教徒がスペインを捨てたという。
 スペイン国内に残ったユダヤ教徒は、信仰を押し隠し、豚肉を食べているふりを装って生きることになってしまった。

 マラーノ=故郷を追われたユダヤ人、出自を偽り、他者の身を窶すユダヤ人。出自を偽って生きている人のこと。

 四方田の著作は、在日朝鮮・韓国人、被差別出身者、さらにはホモセクシュアリティといったマイノリティ等々をあえてマラーノと呼ぶ。

 きっすいの日本人なのに、中国人女優として満州映画に出演していた李香蘭。
 死ぬまで本名は金胤奎であることを隠し続けた立原正秋。
 そして、松田優作らが論評されています。

<つづく>


2008/09/03 
ぽかぽか春庭・言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>マラーノ文学(3)融合文化

 四方田は、松田優作に「劇作家」としての作品やシナリオが残されていることをとりあげ、論じています。
 私は、松田優作に戯曲やシナリオ作品があることさえ知りませんでした。
 四方田は、松田の戯曲を読み解き、松田を劇作家としても大変優れた資質をもっていた、と言っています。

 癌による40歳での早世がなければ、後半生は、優れたシナリオ作家戯曲作家となっていたかもしれません。
 俳優としては、早世したために伝説神話化した松田ですが、作家としては、まだまだこれからだったのに。

 私は、最近「比較文学」「比較文化」「融合文化」などの分野を勉強しているので、このような、越境、他者性、マイノリティなどに関わっていくことが多くなっています。
 日本文化の中にある多様性は、各地から日本列島へと流れ込んだ文化を排除することなく、それまでの文化歴史と融合させることによって成り立ってきました。

 キリスト教が、イスラム教やユダヤ教を排除する文化であったことに行きづまりを覚えている西欧文化にとって、日本の融合文化は、今、もっとも注目すべき「先駆的文化」と思えるようです。

 日本文化を学ぶ人々の熱い関心を、私は日本語教育を通じても感じてきました。
 日本の古神道仏教の融合をはじめ、この列島が大陸や大海から運ばれるものをどんどんとおなかにため込む「羊水文化」のように思えます。

 体内の揺籃を経て、これから先、どのような文化を生み出していけるのか、私にとっては、これから先の列島文化は、新たな可能性を秘めているように思えるのです。

 何者をも排除することなく、すべてを取り込み認めていく揺籃文化を、育てていきたい。
 マラーノもその一部ですし、今年、ようやく先住民族、文化であることを認められたアイヌ文化もその一部でしょう。

 ペルシャ伝来の雅楽。雅楽で使う仮面は、胡人(ペルシャ人)の姿を写したものとして中国で作られ、飛鳥奈良時代に伝来しました。
 雅楽伎楽が盛んになっても、古神道の神楽は滅びることはありませんでした。

 大陸では滅びてしまった、この伎楽が、日本の土地に融合して、その後田楽猿楽能狂言歌舞伎と、さまざまな芸能が生まれても、神楽も伎楽も能も歌舞伎も、日本社会のどこかで演じられ、滅びることなく伝えられてきました。

 バレエやモダンダンスが伝来しても同じ事。それらの洋舞の技法に、日本の土着の動きが加わり、舞踏(Buto)が生まれました。ブトーは、海外でも高い評価を受け、海外公演が続いています。

 ヒップホップやストリートダンスもきっと何かを刺激し、何かを生み出しているにちがいない。 

 何者をも排除することなく、自分たちと同等のものとして取り入れ、在来のものはそのまま残しつつ、新たな融合した文化を生み出す力。
 この融合文化の力こそが、日本文化の底力なのだろうと、私は思っています。

 加藤周一は、この日本文化を「雑種文化」と名付けました。mix=雑種または混合、というとらえ方も出来ると思います。もとの形を残したまま取り入れることも多いから。
 しかし、漢字のように「外来のもの」であることを意識しつつも、完全に自家薬籠中のものとして使いこなすようになっているものは、すでに混合ですらなく、「日本の漢字」として独自のものであると言ってよいと思う。

 表記として漢字が日本語に融合した存在となっているように、他のさまざまな文化が、日本文化として融合しつつこれからも新たに生命力を得ていくのだろうと、私は思っているのです。

<おわり> 
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兵士と人形

2008-08-26 10:12:00 | 日記
兵士と人形

2008/08/23
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(1)50年前の東京で

 今は昔。
 50余年前の話。
 敗戦から12年がすぎて景気が回復し、「もはや戦後ではない」と、世の中は落ち着きを見せてきていた。

 私が小学校2年生の夏だった。
 4年生の姉と、夏休みが終わると8歳になる私は、伯母に連れられて上京し、「東京の会社」で働く叔父の案内で、はじめての東京見物をした。

 まだ、家庭にテレビも普及していないころの、田舎暮らしの小学生にとって、「東京見物」は大イベントだった。
 電機メーカーに就職した叔父が、夏のボーナスをもらい、伯母と姪っ子甥っ子を招待してくれたのだった。

 夏休み後の学校で、「東京見物をしたこと」を自慢できるのだ。
 クラスのだれも上野動物園も三越デパートも見たことがないのだから、「夏休みに東京へ行く」という私を、皆うらやましがった。
 田舎の小学校2年生のクラスには、東京はおろか、電車に乗ったことがない子供もいる、という時代だった。

 戦死した一番上の叔父に代わって母の実家を継いだクニヒロ叔父は、家の田畑を継ぐ予定ではなかったので、戦前から国鉄職員として就職していた。
 当時の国鉄には家族パスがあり、職員同士で家族パスを貸し借りして、親戚一同がいっしょに旅行していた。(たぶん、今、同じ事をやると、職務規程違反になるのだろう)
 鉄道旅行など分不相応のはずの我が家も、叔父の一家にくっついて「家族パス」を使わせてもらうことができ、海水浴へも東京へも、鉄道旅行ができたのだった。

 上野駅につき、まずは動物園へ。
 上野での動物園見物を終え、次は「三越へ行って、皆で買い物をする」という晴れがましい気分で、私も姉も浮かれていた。
 三越では自分の買いたい物を選び、自分の財布からお金を出して買う、という体験ができるのだ。

 生まれて初めての、東京の「デパート」というところでの買い物。
 姉は何を買うだろうか。
 留守番の母が、小さなカバンに入れてくれたこずかいは、姉より多いのか、少ないのか、私はまだ知らなかった。
 デパートに着くまで、カバンをあけてはならない。私は必ず落とすから。

 私は注意力散漫で、ちょっちゅうお金を落としたりなくしたりする子供だった。
 おつかいに行かされて、途中の本屋で本に気をとられて、お金を落とした、なんていうことがよくあった。 

 はじめての東京で、気を張っていたのでカバンを落としはしなかった。しかし。
 伯母と叔父が駅で切符を買っている間に、私は街頭に立つ白い包帯姿の兵士にお金を渡してしまったのだ。

 傷痍軍人は松葉杖をつき、不自由な体でハーモニカを吹いていた。もの悲しいその歌は、私もよく知っている歌だった。

 ♪ここはおくにの何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下~

 伯母は怒った。
 「もう、おまえが買い物するお金はやらないからね。お姉ちゃんが買いものしてても、うらやましがっちゃダメだよ。自分が悪いんだから」

<つづく>


2008/08/24
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(2)ミルクのみ人形

 始めての東京旅行に出発する前、母は、父が渡してくれる乏しい毎月の給料から、姉に500円、私に500円、カバンにいれてくれた。
 当時は、一日10円のこずかいで、一ヶ月ため込んでも300円だった。一ヶ月分のこずかいより多い金額を、一日でつかってもよいはずだったのに。

 東芝に勤務し、田舎者の姪っ子を招待してくれた叔父は、私を諭した。
 「あの人たちは、本物の傷痍軍人じゃないんだよ」

 叔父は言った。「本当の皇軍傷痍軍人なら、軍人恩給がちゃんともらえているんだから、乞食をしているはずがないんだよ。あの人たちは、息子や兄弟や親を戦争で失った人の気持ちをクイモノにして、お金を得ているんだ。同情しちゃいけないよ」

 結局、三越で「ミルク飲み人形」というのを、叔父に買ってもらった。
 口から小さなほ乳瓶で水を入れてやると、本当におむつが濡れる人形。私が失った金額より多い、700円する人形だった。1957年の700円は、今ならどれほどだろうか。
 私が子供の頃に買ってもらった持ち物のなかでは、一番高いもののひとつになった。

 今になって、1950年代の新卒者の初任給が数千円だったと知った。就職したばかりの叔父は、伯母の前でせいいっぱい背伸びしてみせて、700円の人形を買ったのだろうと思う。

 母の兄弟たち。長女の伯母、次女の母シズエ。母の下に4人の弟がいた。長男のタキオ叔父は戦死。それより前、次男のクメオちゃんは、4歳で病死。家の惣領となった三男のクニヒロ叔父は、国鉄駅員。三男カズオ叔父は銀行員。

 末っ子のヒサオ叔父が就職したことで、ようやく兄弟がみな自立できた、というほっとした思いが母の一族のなかにあった。
 ヒサオ叔父も、兄弟たちの助けと見守りを得て、ようやく念願どおりに就職できたことの感謝を表したかったのだろう。

 伯母はこののち、ミルク飲み人形で遊んでいる私を見るたびに「この子は、傷痍軍人にお金をやっちゃったから、ヒサオさんがこの人形のお金をだしてくれたんだよ」と、母に告げた。毎度毎回言わなくてもいいのに、、、、、。
 もっとも、私の失態を何度も言いたてられたからこそ、このエピソードを50年たっても忘れないでいるのかも知れない。

 古くなって、足がポロっとすぐもげるようになってしまったミルク飲み人形を、私は長いこと捨てられずにいたが、私が東京に出てきたあと何年かして、実家の押入を探したときには、もう人形はなくなっていた。

 20歳で東京へ出た当時には、「古い人形を東京まで持っていく」という考えは私にはなかったし、足がもげる古ぼけた人形など、実家をついだ妹にとっては何の思いいれもないものだったから、捨てられてしまっても仕方がない。

<つづく>


2008/08/25
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(3)ニセ傷痍軍人

 実家の古いアルバムの中に、三越の屋上で、いとこのヨシユキと私と姉が並んで、大きな口を開けてソフトクリームを食べている古い写真が残っている。

 田舎町にはアイスキャンディ屋がいて、自転車で売りにまわっていた。伯母は「こんなの食べるとおなかをこわすのに」と渋い顔をするけれど、母は自分も大好きなので、よく買ってくれた。でも田舎にソフトクリームは売っていなかった。
 三越で始めて食べたソフトクリーム。今でも、ソフトクリームは私の大好物。

 姉は6年前に亡くなり、ヨシユキは、実家のある市のJR駅長を今年勇退して、支社勤務になった。
 ヨシユキが育った家、母の生家のなげしには、戦死したタキオ叔父の軍服姿の写真が掲げてあった。

 祖母は、タキオ叔父の写真を見上げては「お国のために戦地へ行ったけれど、お骨もないんだよ」と、言っていた。

 東京街頭で、私がなけなしのおこずかいを出してしまったのは、傷痍軍人の姿をタキオ叔父の軍服写真に重ね合わせてしまったのかもしれないし、ここはおくにの何百里~というメロディに心うごかされたのかもしれない。
 今になっては、8歳のそのときの自分の気持ちをはっきりと覚えているわけではない。

 辺見庸コレクションNo.2『言葉と死』の中にある「消えゆく残像--駅頭の兵士たちと寂しい詩人」を読み終えて、思わず巻末の初出一覧を見直してしまった。
 「書き下ろし」と書いてある。
 この本で初めて読んだ文であるはずなのだ。だが、既読感があった。

 書き下ろしのはずの「消えゆく残像」に、既読感があることの理由はすぐわかった。
 ここに辺見が描き出した敗戦後の駅頭光景、傷痍軍人の姿は、私が見た光景であり、辺見が「あの人たちはニセモノだよ」と親に言われたのと同じことを、私も子供の頃、言われたからだった。

 辺見の単行本は、これまで発行とほぼ同時に買ってきた。
 2007年11月発行の『言葉と死』を、買わずに図書館で借りてすませようと思ったのは、収録されている文のほとんどは、これまで読んだ単行本からの抜粋アンソロジーだったから。
 一部の書き下ろしを除いて、ほとんどが既読作品だったので、「本冊書き下ろし文」を、図書館の本で借りて読んでしまおうと思ったのだ。
「消えゆく残像--駅頭の兵士たちと寂しい詩人」は、書き下ろしエッセイだった。

 1991年の『自動起床装置』からはじまり、『ハノイ挽歌』『赤い橋の下のぬるい水』『ゆで卵』などの小説、『不安の世紀から』『もの食う人びと』『屈せざる者たち』などのノンフィクション、『眼の探索』『反逆する風景』『単独発言』『永遠の不服従のために』『抵抗論』などの評論、吉本隆明との対談本である『夜と女と毛沢東』、坂本龍一との対談本『反定義―新たな想像力へ』など、ほとんどの単行本を読んできた。

 辺見が「私の書いた文章のもっともすぐれた読解者」と呼ぶ「確定死刑囚A」さんほど鋭い感性をもった読者ではないが、20年間を辺見の読者として過ごしてきた。

<つづく>


2008/08/26
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(4)ここはお国の何百里

 「消えゆく残像--駅頭の兵士たちと寂しい詩人」は、「読んだことがある」のではなかった。
 「私自身が書いたこと」でもあるかのように、私が経験したこと、考えたことがそっくりそのまま文章になり活字となっていたゆえの既読感だった。

 お金をめぐむ者に対して鋭い目つきを向け、不自由になった身体の不幸はおまえのせいだ、とでも言うように、幼い私が握りしめていたお金を受け取ったあの松葉杖の兵士、、、、。

 「消えゆく残像」は、書き下ろしではあるが、私自身が経験したこと考えたことと重なり合う光景があった。

 「よき市民たち」は、傷痍軍人=乞食とみなした。
 駅頭にたった傷痍軍人は、もの悲しげな音楽を奏で、傷ついた体をさらしていた。
 叔父は、「あの人たちは、日本皇軍兵士なんかじゃない、ニセモノだ」と断じた。

 辺見はその当時の風説「ニセモノ傷痍軍人」について、人々が「にせもの」と断じたのには、次の種類があったと書いている。

(1)ほんとうは障害などないにも関わらず、傷痍軍人のふりをしているニセモノ。前科ものなども多い。
(2)もともと先天的な障害や事故による障害だったのに、兵士として負傷したふりをし、戦争で家族を失った人々の同情をかっている人
(3)日本人兵士ではない人(旧植民地出身の兵士で、日本兵士として出征しながら、日本国籍を奪われた人たち)

 私は(3)の人々については、叔父にも聞かされなかった。叔父の話では、「本物の皇軍傷痍軍人だったら、恩給を得ているはず」だった。
 私が日本国籍を失った元植民地出身の戦没軍人傷痍軍人について知ったころには、白衣を着て立つ傷痍軍人は、駅頭や街頭から消えていた。

 辺見は、(3)の人について、「日本人が利用し、捨て去った人々」と解説している。
 半島や大陸の出身者、台湾島の出身者の人々も、皇軍兵士として従軍した。
 従軍するときは、「真の日本人となるために、お国のために戦え」と、最前線へ駆り立てられた。

 戦地で戦い、負傷して帰国したとたんに「中国籍朝鮮籍の者は、大陸、半島へかえれ」と、言われて日本国籍は与えられなかった。
 在日朝鮮人韓国人中国人となった人には、軍人恩給も傷痍軍人手当も出ないのだった。日本人じゃないから。

 一部の人は、アコーディオンやハーモニカでもの悲しい音楽をながしながら、人々の善意にすがる生活をした。
 ♪ここはおくにの何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて~

<つづく>


2008/08/27
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(5)赤い夕日に照らされて

 ニセモノ傷痍軍人の中に、「障害がないのに、負傷者のふりをする前科者」などもいたのかも知れない。
 だが、「国籍を失ってしまったがために、傷痍軍人恩給を受けられなくなった植民地出身者」も、少なからずいただろう。

 わたしがお金を渡した傷痍軍人が、どのような「ニセモノ」だったのか、今はもう何もわからない。
 辺見の「消えゆく残像・駅頭の兵士たちと寂しい詩人」を読んで、私は、あの駅頭の光景をまざまざと思い出し、足がもげてしまうようになった古いミルク飲み人形を思い出した。

 辺見が描き出した「日本国籍傷痍軍人となることを拒否され、駅頭に立って物乞いをした傷ついた兵士たち」の話は、50年前の東京の駅頭での私の思い出とともに、夏の日本の光景となって重なった。

 辺見は、この「駅頭の兵士と寂しい詩人」で、シベリアラーゲリに抑留され、望郷と怨郷の念を詩にした石原吉郎(1915~1977)を取り上げている。

 『 孤独な詩人、石原吉郎も、駅頭の白衣の兵士たちの前を通り過ぎたことがあるに違いない。石原ははたして何を思ったか。1953年、つらいラーゲリ生活を経て帰国した元関東軍特殊通信情報隊員、石原は間違いなく彼らの前を何度となくとおりすぎ、睨める視線を浴びたであろう。彼らが奏でた「戦友」を幾度となく耳にしたはずだ。
 ここはおくにの何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下、、、、』

 「戦争を知らない子供たち」であった私も、この「戦友」を歌うことができる。
 私のこずかいを受け取った傷痍軍人たちが歌っていた歌であり、「なつかしのメロディ」などの番組でよく聞いた。

 石原の詩を引用して「傷痍軍人とミルクのみ人形」の思い出を閉じることにしよう。
 私にとって、まだ昇華されない思い出である「兵士と人形」。
 石原の詩を読んでも、まだ、私にはあの駅頭の兵士たちとの距離を埋めることはできないだろうと思う。

 私にできることは、あの兵士たちの姿を忘れないでいることだけだ。
 敗戦後、12年という時を経ても、まだ「傷痍」の姿のまま、「友は野末の石の下」と悲しいメロディを奏でていたあの兵士たちを、私は忘れない。

<つづく>


2008/08/28
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>兵士と人形(6)友は野末の石の下

石原吉郎 第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』(思潮社1963)より
[位置]
   しずかな肩には
   声だけがならぶのでない
   声よりも近く
   敵がならぶのだ
   勇敢な男たちが目指す位置は
   その右でも おそらく
   そのひだりでもない
   無防備の空がついに撓(たわ)み
   正午の弓となる位置で
   君は呼吸し
   かつ挨拶せよ
   君の位置からの それが
   最もすぐれた姿勢である

『満月をしも』(思潮社1978)より
[死]
  死はそれほどにも出発である
  死はすべての主題の始まりであり
  生は私には逆(さか)向きにしか始まらない
  死を〈背後〉にするとき
  生ははじめて私にはじまる
  死を背後にすることによって
  私は永遠に生きる
  私が生をさかのぼることによって
  死ははじめて
  生き生きと死になるのだ
===========
 辺見は私にとって、最初に卒業した学部の先輩にあたり、石原は二つ目の大学の大先輩にあたる。そのようなつまらぬ縁を辺見は笑うだろうけれど、私は辺見の本を読むことでかろうじて「大政翼賛」に自分の心が抗するのを、支えることもできる。
 私はひよわな日和見だからね。

 8月は、すべての死者たちのための月。すべての死者たちに祈りをささげてすごす。
 私は、故郷の寺へ行き、父母と姉の墓にお参りしてすごす。
 石原の詩を朗読して、8月をすごす。
 「戦友」の、赤い夕日に照らされて~のメロディを低く歌ってすごす。

 ♪ここはおくにの何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下、、、
 
<おわり>
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どうも

2008-08-23 16:27:00 | 日記

2008/01/29 
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(1)新聞記者を取材する

 何度もネットに書いているけれど、私の初恋の人は新聞記者でした。40年前の昔話になります。
 相手は、私という人間が目の前に存在していることすら気づかない、という完全なる片思いでした。存在に気づいてもらえたとしても、鼻も引っかけてもらえなかったことでしょうけれど。
 ついでに言うと、私が二度目に入学した大学は、彼の出身校でした。

 片思いのヒトのことは、↓のページほかに書いてあります。
 http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/oi0310c.htm
 Googleで、そのお方の名前を検索したら、私のサイトが2番目に上がっているのでびっくりした。

 新聞社のモスクワ支局長、外信部長、テレビのキャスターを経て、現在は、山梨にある大学で教えていらっしゃる。
 在京テレビ深夜の「あしたの朝刊」のキャスターをしていたころは、ヒゲをたくわえていて、とてもカッコよかった。きっと今は、大学生あこがれの教授になっていると思います。

 私が初級公務員で彼が前橋支局の記者だったころの、初恋片思いは遠い思い出になってしまいましたが、まだまだ、いろんな人との出会いが人生には待っていることでしょう。
 ウェブ上で、さまざまなことばや人に出会うのも楽しみですし、現実社会でもさまざまな人との出会いがあります。

 2008年1月に、ひとりの新聞記者とお話する機会がありました。
 彼にとっての私は、毎日次々に出会う取材相手のひとりで、すぐに私の名も忘れてしまうでしょうけれど、私には、なかなか得難い出会いだったので、記録しておきます。
 題して「新聞記者を取材する」

 ひさしぶりに「新聞記者」という種族に会うのだし「天下のアサヒ」記者に会う、というので、せっかく記者に会うのなら、逆取材してブログネタにしてやれ、と思ったしだい。ころんでもタダでは起きない。

 1月13日、日曜日。秋葉原のホテル1階喫茶室で取材を受けることになりました。
 記者さんからは
 「私は40歳で、めがねをかけ、中肉中背です。ヒゲを生やしています。黒いリュックを持ち歩いています。」
という自己紹介の目印をメールでもらいました。

 「中肉中背」は、特に目印にはなりません。めがねをかけている40歳も、黒いリュックサックを持ち歩いている人も多いです。だとしたら、目印は「ヒゲ」です。

<つづく>


2008/02/01
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(2)目印はヒゲ

 現代日本社会で、「髭を生やす」というのは、「私は、勤務時間と上司に縛られている一般の会社員や銀行員とはちがう自由度の高い仕事をしている」という記号になりうる。ヒゲは、目印として「見つけやすい度」の上位にあります。

 私は、先に喫茶室で待っているつもりだったので、「私は座って本を読んでいます。本のタイトルをあててください」というクイズを出題しておきました。
 読んでいた本のタイトルは『本』です。シャレのつもり。
 『本』は、講談社の出版情報サービス本です。『一冊の本』という朝日新聞の出版情報サービス本『一冊の本』もバッグにいれてありましたけれど。

 『本』は2007年12月号で、森村泰昌の「ロス・ヌエボス・カプリチョス/諷刺家伝 私は飛ぶ・あんたらが踏み台にされたのは自業自得だよ」というタイトルのついた絵が表紙になっています。

 「自由度の高い職業」の記号として、「ヒゲ」を目印にする記者さん相手なら、私の目印は『本』の表紙。「あんたらが踏み台にされたのは自業自得だよ」という気持ちの表明として、見てもらうつもりでした。
 無名の取材ソースなんてのは、踏み台にされて終わりですから。

 でも、お互いに、お互いの目印を見つけることができませんでした。
 記者さんは「ヒゲ」が目印のはずなのに、入ってきたときマスクをしていて、私には見つけられませんでした。
 風邪気味だったのだそうですけれど、自己紹介のメールに「髭を生やしています」と、書いたのなら、ヒゲを目印にさせてほしかった。

 記者さんは、「自分は待ち合わせの10分前にきたのだから、相手より早いはずだ」という思いこみで、店内にいる待ち合わせの相手を見つけ出そうという気をおこしませんでした。さっと見渡して、見つからなかったから、禁煙席にすわりました。

 私は待ち合わせの20分前に喫茶室についていました。
 私はタバコを吸わないけれど、入り口から入って一番すぐ目の前の席は喫煙席だったから、すぐに見つけてもらえるよう、隣の人の煙をがまんしながら喫煙席に座っていたのです。目印の『本』をみつけてほしかった。

 結局5分後に「あの、今、どちらにいらっしゃいますか」という電話がかかってきた。「どちらにって、オヤクソクした場所にいます。椅子に座って、本読んでいるんですけれど」

 「あいさつことば」についての取材で、記者さんは、『話しことばの通い路』のコピーをテーブルにおいて、日本語に関して取材の質問をしてきました。
 「どうも」ということばを挨拶語に使っていることについてどう思うか、という質問です。

 私は逆に記者さんに、「記者さん自身は、どうも、という挨拶を使うことがありますか」と質問しました。
 記者さん自身は、「どうも」なんていう簡略挨拶ではなく、きちんとした言葉遣いできちんとお礼のことばを言いたい、というお考えでした。

<つづく>


2008/02/01
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(3)どうもありがとう

 夫が駆け出しの記者のころ。
 発行部数も少部数の地方新聞では、まず、取材相手に会ってもらうまでが一苦労。会えたところで、取材許可をもらうまでがまた困難。
 それに比べてアサヒやヨミウリでは、大新聞の名詞さえ出せば、相手は喜んで取材に応じ、取材に何の苦労もしていない。

 そういうのを「殿様取材」というんだ、アサヒやヨミウリの記者は、そういう殿様取材を続けているからダメになる、というのが、夫の持論です。
 駆け出しでもワカゾーでも、「自分はジャーナリストとして、世の中に認められたエライ存在なのだ」と思ってしまう危険性がある、という夫の「大新聞ヤッカミ主張」です。

 愛読してきた澤地久枝のエッセイに書かれていたこと。
 『妻たちの二・二六事件』の取材をはじめたころ、澤地さんは『人間の条件』の資料助手として働いていました。

 まったく無名だったし、『二・二六事件』という負の事件に関わった人々への取材だから、相手の人に取材を受けてもらえるようになるまで、何度も足を運んだ、というエッセイを書いています。

 資料助手としての乏しい収入から、心ばかりの手みやげを買い、何度も取材のおねがいにあがる。取材のあとには、お礼状をだす。
 ようやく一冊の本ができあがったあと、お礼に本を持参したときには、亡くなっている取材相手も少なくなかったのだそうです。

 「本ができあがってからお礼をいえばよい」と思わずに、取材が終わったらすぐに「とにかく、相手の時間を自分に与えてもらった事へのお礼をいうのが先決」と、澤地さんが考えたことは、取材相手に対する態度として見習うべきことだと感じました。

 澤地久枝の文章から、ノンフィクション取材相手への温かい視線を感じ取ってきたけれど、このような細やかな心遣いをしてきたからこその文体であったのだと、感じ入ったエッセイでした。

 さて、今回の記者さんは、「取材によって、あなたの時間をいただきました」という挨拶をするか、しないか、どっちかなあ、と思いました。
 「自分の目印はヒゲ」と書いておきながらマスクをしてきた感性の持ち主、ということから考えて、おそらく、取材を終えた日に取材謝礼メールはこないだろうと予測しました。

 私はお礼のことばがほしくて取材に応じたのではない。新聞記者がどのようにしてどのような質問を切り出して取材をするのか、間近で見てみよう、というヤジ馬気分で取材に応じたのです。

 でも、記者さんは、私の質問に対して「挨拶はきちんとしたいと思っている」と、言っていたので、取材相手を呼びだして1時間なりの面談時間を持ったことに対して、挨拶があるのか、ないのか、興味がわきました。大アサヒだから、たぶんないだろうと予測しました。
 アタリ。

<つづく>


2008/02/02
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(4)どうもすみません

 私は、「ことばは、いつの時代であれ、変わっていくものだから、若者がドーモを挨拶用語として使いはじめたら、将来の日本語ではドーモが「万能挨拶語」として定着していく可能性はある、何もお礼を言わないよりは、「ドーモ」とでも、言うほうがマシ、という話をしました。

 記者さんは、私のホームページの記載文章を参照し、私のURLを新聞に載せると言ってくれたのですが、まあ、世の中に日本語学者として知られている大学教授の名ならともかく、まったく無名の、著作の一冊も出版していない、大学非常勤講師にすぎない私のサイト、取り上げてもらえないとしても仕方がないなあ、と思いました。

 案の定、記者さんからは、「紙面の都合で、今回の取材について、取材したコメントを載せることはできない」というメールが1月25日に届きました。
 うん、そういうことだろうなあ。紙面に登場したのは金田一秀穂でした。

 サイトを開設している以上、たくさんの人に読んでもらいたいと思ってきました。
 でも、これまでどこかのサイトにリンクしてほしいとお願いして回ったこともなく、自分のサイトの宣伝はいっさいしてきませんでした。

 読んでもらうことをお願いするより、書いている時間を確保することが大事でした。週に5日、あちこちの大学を回って授業をする非常勤講師の非情なる細切れ時間の合間を縫って、書き続けました。

 たくさんたくさん書きたいことがあって、毎日書き続けることが楽しかった。
 自分のホームページに書き続けたこと、原稿用紙にすれば、1年間で400字詰め原稿用紙千枚分になります。2003年からトータルすれば、5千枚分以上いになるでしょう。

 宇野千代が「何か書きたいと思っている人、どんどん書いたらいいですよ。毎日原稿用紙3枚分、書き続けてごらんなさい。1年で千枚を越えます。千枚といったら、あなた、長編小説2~3冊分です。それを5年つづけて、まだ書きたいことがあったら、たぶん、物書きをめざす資質があります」と、いう意味のエッセイを書いていました。

 それ以来、私は宇野千代のことばを信じて、毎日原稿用紙3~5枚分をネットにUPし、プラスアルファとして、さらに、過去の文章からも3~5枚分UPし続けてきました。1日にネットに原稿用紙にして5~10枚分は掲載してきた。
 2003年から2008年まで、宇野千代のいう5年間書き続け、まだまだ書きたいことがあります。

<つづく>


2008/02/03 
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(5)雑学ネタ

 2007年に中国生活の日記を書いたことと、2007年の終わりに「落語でおいしい日本語食堂」として、日本語学をおもしろく読んでもらう工夫をして文章をまとめたこと、私なりに文章を楽しんで書くことができました。

 今年1月に掲載した「てれすこ」を書いているときは、「日本語学の研究者は大勢いるけれど、私はわたし独自の編集方法で対象を描くことができる」という自信を持つことができました。

 世の中に落語に詳しい人、江戸時代の博物学を調べている人、日本語の外来語研究をしている人、語彙論音韻論を研究している人、それぞれの専門家はいます。私には及びもつかない、すぐれた研究がなされています。

 でも、「てれすこ」の一語から、落語と江戸大名博物学と平賀源内と、英国人による望遠鏡献上と、オランダ語と葛飾北斎の「物見遊山の癖・遠めがね」と、ポルトガル語と天璋院のミシンとシェークスピアを同時に思い浮かべて、外来語のはなしをまとめ上げた人はいない。
 雑学研究者春庭のオリジナル編集です。

 さらに、私がHPに書いたことに関して、記者さんから取材を受けたことは、「私のホームページの文章がだれかの目にとまり、読んでもらえることもあるのだ」という大きな自信になりました。コメントは掲載してもらえなかったけれど。

 記者さん、私のHPに目をとめてくださって、ありがとうございました。
 私のホームページURLは掲載してもらえなかったけれど、誰かが読んでくれた、というだけでも、うれしいものです。

 それから、もうひとりの「元新聞記者」さん。
 私が何を書いても、彼は、私の文章をけなすのでした。
 「あんた程度の文章が書けるヤツは日本中にゴマンといる。あんた程度のオリジナリティなど、吹けばとぶ」と。

 1983年に、私がフリーランスライターとして、400字詰め原稿用紙1枚5千円の原稿料を得て連載ページを持てるようになったとき、あなたは「この程度じゃだめだ、続けられない」と、けなしました。
 私はその評をきくたびに自信がなくなり、ライターとして仕事を続けることをあきらめました。

 ライターを断念し、1985年、大学に入学し直しして、日本語学を学ぶことになりました。今では、日本語学は、私の大事な「ネタ」です。

<つづく>


2008/02/04
ぽかぽか春庭やちまた日記>どうも(6)記者さん元記者さんありがとうございました

 「修士号を得て、大学教師として働きながら、日本語学エッセイをネット上に書き続ける」という生活を始めたのは、夫がライターとしての私を認めず、ライター生活をあきらめさせたから可能になったのかも。

 たしかに、当時、収入のない夫と、乳飲み子を抱えてライターをつづけることは不可能でした。赤ん坊を預ける施設も当時は住居の近くにはなく、子どもを抱えて取材には出られなかった。

 私をけなし続けた元地方新聞記者さん、ありがとうございました。「毀誉褒貶」のうちの誉褒なしに、毀貶だけをこれまでつづけてくれて。
 「読む価値のないものを読む時間が惜しい」といって、私が書いた文章を読んだこともないのに、よくもけなし続けてくれたわね。

 アサヒの記者さん、私のホームページ記事を読んでくださって、ありがとうございました。お話ししていただき感謝しています。

 初恋のあこがれだった元記者さん、「ヨミウリ明日の朝刊」のテレビキャスターの時代もすてきだったけれど、今もかっこよくきめて大学の先生しているんでしょうね。
 私、あなたが卒業した大学に入学し、大学院を修了。今では母校の留学生日本語授業を担当しています。

 三人の記者さん、ありがとうございました。
 ドーモドーモ!
 今、私はのびのびと書きたいことを書いています。
 書きたいです。これからも。

<おわり> 
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作家でごはん

2008-08-22 09:58:00 | 日記

2008/04/03
ぽかぽか春庭やちまた日記>作家でごはんおさんドン(1)出版社倒産

 素人に共同出版をすすめる広告に「夢の印税生活をあなたも」というキャッチコピーをつけた自費出版の会社があった。
 ひどいコピーだと思ったが、それを信じ込む人がいるとは思わなかった。でも、信じた人もいたのだ。

 こんなコピーに騙されてしまう人は、「ニセ有栖川宮」の結婚式に祝儀を出してしまう人や、フィリピンの海老養殖事業に投資して「1年で元金二倍、夢の金利生活」といっしょで、騙されても自業自得としか思えなかった。ひっかかる人は、あまりに無防備だ。

 本は売れない。そうそう売れる物ではない。このことをはっきり言って自費出版をすすめるのならともかく、素人が書いた本で印税が入ってくるがごとき幻想をふりまくコピーは、出版業の内情を知らない人にとっては、皿に盛られたごちそう(毒)を目の前に並べられたことになる。

 「毒を食らわば皿まで」の毒を、毒と知って喰らうのならともかく、本当に印税で生活できるような営業トークで自費出版をすすめたのなら、「この壷を床の間にならべておけば、必ず病が治癒する」という霊感商法をした警察官と同じ。

 出版不況の昨今、印税を得て生活が成り立つのは、ごく一部の筆者作者であって、素人が書いた本がバンバン売れて、筆者に印税が入ってくるわけがない。
 素人は100部刷って50部は知人親戚一同に配り、あとはネットで四半世紀かけて売るがよろし。
 素人の本がネットで1年に2冊売れたらすごいことだ。 
 
 上記コピーを広告に使っていたのは、自費出版大手「碧天舎(へきてんしゃ)」(東京都千代田区)だったように覚えているが、同じようなコピーはいろいろ出回っていたから、確かなことじゃありません。

 碧天舎が、経営の行き詰まりから倒産し、出版を申し込んでいた執筆者約250人の本が出版できなくなった。執筆者が同社に支払った百数十万~数十万円の出版費用も戻ってこない恐れがある、という報道から、その後はどんな処置がとられたのだろうか。

 次には、自費出版最大手の新風社が倒産した。
 新風社はまともに営業しているのかと思っていたら、「全国の書店に本を並べると言われたのに、並んでいない」「増刷もあり得ると言われたのに、初刷りも売れ残っている。本を売る営業努力をしていない」という素人筆者たちから裁判を起こされて、裁判費用やらダーティイメージによって自費出版者が減るなどの影響をうけて、経営悪化、倒産。

 新風社の裁判ニュースの時、素人筆者はほんとうに「全国の書店に本が並ぶ」とか「増刷あり」という営業トークを信じてしまったのか、そういうサービストークを信じてしまえる程度の人は、ネットでUPするだけにしておけよ」と、むしろ裁判起こされた新風社のほうに同情してしまった。

<つづく>


2008/04/04
ぽかぽか春庭やちまた日記>作家でごはんおさんドン(2)自費出版

 夫は出版社の下請け校正会社を25年間続けている。毎年赤字で、たまに余裕があったとき家計費にまわしてくれる程度。

 それでもゴマンとある零細出版プロダクションの中で、倒産しないで25年間営業が続いている会社は少数派だ。
 私が夫に生活費を要求しなかったから、倒産しないですんだのだ。

 1992年~1994年の日記をヤフーブログにUPしている。
 読んでいると、あまりの貧乏生活、あまりの自分の忙しさ、娘のけなげさに涙が出てくるくらい。
 自分の生涯のたいへんだったことを思い出すにつけ、この苦労話を娘息子に残しておきたいと思ってしまう。

 娘と息子も読みはしないかもしれない。自分では「ああ、こんな苦労をしてふたりの子供を育ててきたのだ」と、思うけれど、ヒトサマから見たら、ただのビンボーぐらしだもの、たいしたことのない、平凡な日常だ。
 それでも、自費出版しておきたいと思うことがある。
 こんな苦労をしてきた自分へのごほうびに、苦労を語っておいてもいいじゃないの。

 もともと自費出版の本というのは非売品として自分で印刷分をすべて引き取り、知人友人親戚一同に配布すればそれでよい。
 
 ある食堂に入ったら、そこの店に、本が並べてあった。女主人が、自分がいかに苦労してこの店をだすまでに至ったか、という自分史を書いたものだった。子育ての思い出を書いた本と、店の思い出を書いた本の2冊があった。
 そういう本は、親戚一同のほかは、配っちゃダメなんです。

 ひとことふたこと言葉をかわし、私が本好きだとわかると、女主人は、私にも2冊くれた。「いらない」と、言えなかった。
 私は帰りの電車で2冊とも読み、翌週、またその店へ行き感想を伝えた。本をもらってしまった義務として。

 義務でなければ、本屋で手にとることもないし、さいしょの数ページをパラパラと拾い読みして、「読みたい」という気分になる本でもなかった。要するに自分史ってそんなもんです。

 子育てしてきた中年主婦が、一念発起で中野のビル地下に店を出した。台風の下水があふれた騒動のとき、地下の店に下水が入り込み、内装もすっかりダメになって、郊外に移転した、という苦労話は、お酒を飲みながら語るにはよいが、「自分史」としてヒトサマに読んでもらうには、至らない。

 読んで意味が伝わる文章であるけれど、それだけでは人を惹きつけない。
 平凡な内容を書いて人を惹きつけるには、相当な文章力が必要だ。
<つづく>


2008/04/04
ぽかぽか春庭やちまた日記>作家でごはんおさんドン(3)自分史

 自分史自費出版本をもらった食堂の3軒先が古本屋だった。
 たぶん食堂で本をもらった客は、帰り道、読みもしないうちにこの古本屋に本をおいてきたのだろう、何冊も3冊200円とか1冊50円の店前ワゴンに放り込まれていた。

 駅への通り道だから、女主人もこのワゴンを目にするだろうと思った。
 なんだか悲しかった。女主人は、精魂こめて本を書いたのだろうと思う。

 本を店の客に配っちゃだめですよ。読んでくれる人にだけに配ることです。
 自費出版本を読んでくれる人って、家族と親友です。
 それ以外の人に読んでもらうには、「この本の感想を書いてくれた人には1000円分の図書カードを進呈します」と書いた読者はがきを本に挟んでおくことだ。

 素人や駆け出しライターの本が売れるには「書いた本人が死ぬか、よほどの重度障害でも持っているか、自分の犯した殺人&殺した女の肉を食う顛末を書くか」だと言った編集者がいた。

 正しいと思う。
 佐川一政が書いた本を、私は読む気にならんけれど。(唐十郎作品は読んだがな)
 一政さんは、じっちゃんの名にかけて、がんばって書いてください。あなた以外にフランス留学してオランダ人女性の肉食った人いないんだから。(じっちゃんはアサヒ論説委員だったのだって、しらんけど)

 自分史を書いて「印税もらおう」と、思っている人、佐川一政くらいの経験をして書きなさいと、いうこと。
 「他に、だれもマネできないような体験」をしたのでなければ、自分史を他の人に読んでもらおうという気はおこさないほうがいい。
 自分史はアマチュアとして書けばいいのだ。

 アマとプロについて。

 サッカー野球ゴルフなどのプロスポーツ選手、あるいは囲碁将棋など、勝ち負けがはっきりわかる分野ではプロとして生き残れる才能と、「あんたは趣味として続けていけよ」という層がはっきりしているので、わかりやすい。

 将棋には、「26歳までに四段に昇格できないと退会する」という年齢制限の壁がある。 この年齢制限を破れず、奨励会を退会し、アマチュアから復帰した唯一の人が 瀬川晶司(せがわしょうじ)さん。

 14歳でプロ棋士養成機関「奨励会」に入会したが、26歳で4段に昇進できなかった。
 瀬川さんは26歳で大学進学し、アマチュア将棋で活躍。アマ王将などを獲得後、2005年2月に将棋連盟に異例のプロ入り嘆願書を提出。同年7月の6番勝負で3勝をあげ、プロ四段の資格を得た。37歳になっていた。

<つづく>


2008/04/04
ぽかぽか春庭やちまた日記>作家でごはんおさんドン(4)M1ルール

 島田紳助が「M1」を始めた動機を語っていた。
 「才能ない奴らに漫才を続けていくことをあきらめさせ、まっとうな仕事に戻してやるため」と、言っていた。

 ひとつの分野で渾身振り絞って10年続けて、それでもダメなら、プロとして続ける才能はないのだ。それをはっきりさせて、肩たたいてやるための「M1」なのだと。
 M1は、結成10年以上のコンビは挑戦できない。(コンビを変えればいいのやけど)

 漫才はじめてコンビ組んで10年続けて、それでも芽がでないなら、もうヤメロ。
 いつまでも「オレには才能があるのに、アイカタに恵まれなかったから」とか言い訳したいやつはコンビ変えて出直すのだろうけれど、変えても次の10年もだめならあきらめなはれ。はい、20年がかりであきらめた結果、すてきな老後が待っている。
 数年の悲惨な老後ののち、のたれ死んでもよいと思う人は、あと10年続けよう。

 困るのが、歌手俳優と物書きだ。
 カラオケではうまいと言われるし、たまに素人のど自慢では入賞したりする「30すぎても歌手になる夢をあきらめない」プロ希望者はぞろぞろいるし、アルバイトかけもちで小劇団の役者続けている「食えない役者、苦節20年」組なら、私のまわりに佃煮にしたいくらいいる。

 物書きもまた。ごろごろところがっている。
 かっての私のような、「書いてお金をもらうことはできたけれど、物書きだけで食ってはいけない」という範疇の「半プロ」は、掃いて捨てるほど。
 小説家志望、脚本家志望、ノンフィクション志望、エッセイスト志望、、、、、

 はっきり言おう。エッセイスト志望という人は、その時点で、もうやめたほうがいい。あんたのエッセイなど、たまに地方新聞の季節記事穴埋めに採用されたり、フリーペーパーに載ったりしたところで、それで「エッセイスト」として仕事ができると思ったら大間違い。職業作家ではなく、趣味として書いていくのなら、それでいいんじゃない?

 シナリオライター志望者。ノンフィクション志望者、公募は毎年やっているから、まずはひとつでも当選してくれ。
 小説も同様。

 ただし、自分で自分に「M1」ルールを適用しなさい。
 毎年渾身振り絞って書き続けて、応募して、10年落ち続けたら、「運」がないと思わずに、黙ってあきらめろ。運がないんじゃなくて、才能がないのだから。

 うわっ、すごいこと言ってるね、私。
 でもね、この暴言に耐えても、まだ書きたい書きたい、あきらめられない、どこでのたれ死のうと覚悟の上で書いていきたい、と思える人が、書き続ければいいのである。

 これは、プロとしてやっていくための指針。
 アマチュアは何年でも楽しんで続けていいのである。

<つづく>


2008/04/05
ぽかぽか春庭やちまた日記>作家でごはんおさんドン(5)アマチュア

 私は、7歳のとき「ものかきになろう」と、思ってから紆余曲折50年。
 結婚1回、出産2回。卒業7回、転職11回の人生のあいだ、とにかく50年間とぎれることなく書き続けた。

 マグロは泳ぎ続けていないとエラ呼吸できなくなって窒息して死ぬ。
 私も同じく、書いていないと窒息して死んでしまうから書いてきた。

 50年書き続けたうち、プロとして書いた文章をお金にしたのは、たった1年なので、プロとして自立できたとはいえない。

 25年前、私は、ライターとして仕事をはじめて、連載ページをもった。
 400字詰原稿用紙1枚5000円の原稿料もらえたけれど、プロとして仕事を続けることはあきらめた。
 1ヶ月に原稿用紙4枚の連載ページをもらっても、収入は2万。2万では食費にも足りない。

 仕事を増やすための営業が、私にはできなかった。
 定職のない人は、保育園が子供を預かってくれず、子連れの営業などできないし。
 物書き業は甘くなかった。

 ライターで食っていけるまでになるための時間の余裕が、私にはなかった。
 赤ん坊の腹を満たさなくちゃならないから、家計費を支えるほうを優先した。とは言っても、教師を続けても食えるほどには稼げなかったが。

 人には「どの道をめざすのであれ、10年書き続けて芽が出ないならプロとしてやっていこうとは思わずに趣味として続けなさい」とすすめてきて、自分でもネットで趣味で書いていればいいや、と思ってきた。

 趣味として書き続けて、息子が20歳すぎ、自分が還暦越えたら、家族が読むための本を自費出版してもいいかな、と思ってきた。
 還暦はまだだけれど、息子は今年20歳になる。

 私がウェブページに書いている文章に関し、息子と娘は「フン」と笑って「子供のことを絶対に書くな、それ以外注文はなし」と言って無視している。
 どうせ娘も息子も読みゃあしないから、ときどき娘のこと、息子のことも書いてきた。愚息子、豚児、与太郎クンと。
 ふたりとも読みはしないから、ばれておらん。

 夫も「読むに値しないものを読む気はしない」と言って、私のサイトなど読んでいないから、季節ごとに、夫の悪口を書いてきた。秋の亭主こきおろし、冬の夫悪口三昧。春の連れ合い愚痴大会ってな割合で。
 ばれておらん。

<つづく>


2008/04/06
ぽかぽか春庭やちまた日記>作家でごはんおさんドン(6)涙のリクエスト

 自費出版しておくのは、どうせ、母親の葬式なんぞまともに出そうとも思っていない娘と息子なので、「葬儀のときは、お坊さんのお経代わりに、集まった者だけで、代わりばんこに1ページづつ、読め」と、「読経がわり本」を残すためである。

 坊さんを頼むにもタダでは来てくれないので、「母がこう書いているから、読経のかわりに読んでやってください」と、参会者に言えよし、坊主頼むお金がなんぼか節約になる。

 参会者といっても、娘息子のほかは、姪が4人。私は100歳を超す長命での葬儀となるので、友達はみな死んでいるし、もちろん夫はとっくに先に行っている(予定)。

 100歳超して死ぬのなら、90くらいで出版しても間に合うのだけれど、90歳になる前に惚けているかもしれないから、まだボケていないうちに、本を作っておくのである。
 還暦までにはなんとかお金を貯めようと思っております。

 自主出版などしても、もとより売れる本ではないので、そう多くは望まない。謙虚である。
 しかるに、このサイトを読んで、一度でも「読んで損はしなかった」と、思ったことのある、アナタへお願い申し上げまする。

 自費出版上梓のあかつきには、近所の図書館へ行って、「新規購入リクエストカード」に本のタイトルと著者名を記入してくださいませ。

 図書購入財源が減少している多くの公共図書館では、利用者からのリクエストカードを図書購入のめやすにしている。
 リクエストカードが数枚集まれば、図書館が本の新規購入を検討するとき、私の本も買ってもらえるかも知れないではないか。
 書名たしかめて図書館へ。

 家族が読むための葬式本といいながら、図書館が買ってくれれば、大勢の人によんでもらえる、とか、いろいろ考えるのは、そりゃ、新しい服をあつらえた女王は、「バカには見えない特別製の新しい服」を着て、みんなに見せびらかしたいもんだからに決まっておろうが。

 さあ、新しい服をまとってパレードじゃ。女王様の新しい衣裳が見えない人は○○である。
 あ、しまった、私は女王ではなく、おさんドンだった。
 「おさんドン」という「台所仕事の下働き・飯炊き女」を意味する語を知っている世代もいなくなってきたが、まだ辞書には載っている。

 さて、あなたがリクエストした春庭著作が、ご近所の図書館で購入されているのがわかったら、ご連絡を。
 そんな心やさしいアナタに春庭からとっておきの「サイン入り」美麗装丁本をプレゼントいたします。あら、いらないの?

 もらってもソッコー古本屋にもっていくだけですって?
 あー、ブックオフで売れば5円くらいにはなるかも。
 あなたとの「ごえん」がよろしいようで。

<おわり> 
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婆力

2008-08-21 13:23:00 | 日記
婆力(1)チンパンジーにババアなし
(2)おばあさんが人類を救う
(3)経験を伝えるおばあさん
(4)いないいないバァ
(5)バァリキ
(6)経験値


2008/05/24
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(1)チンパンジーにババアなし?

 「ばあさんになったけれど学生」の春庭が、婆力の話をします。
 婆力というのも春庭造語。馬力のだじゃれ。老人力の類語です。赤瀬川源平が「ぼける」ことを「老人力がついた」と表現したのにならって、ばあさんになったことを「婆力がついた」と言うことにしました。

 老いの脳力ドリルには、ことばを鍛えるのが一番。婆力ますますUP。
 俳句川柳短歌などはもちろん、音読写経、読み聞かせ。ことばを鍛える方法はいくらでもある。

 かって、ケニアですごしたころ、あこがれの女性霊長類研究者だったジェーン・グドールさん。
 彼女の近影をみたら、髪は白くなっていたけれど、とてもすてきだった。またまたあこがれました。こんなふうにすてきなオールドレディになりたいなあ。
 でもね~、皺と白髪がふえるだけの我が姿、現実はなかなか厳しい。

 かって、「演劇人類学・芸能人類学」という分野をめざし、フィールドワークを行うつもりでケニアへ出かけ、結局1年間遊び暮らしただけで帰国。ナイロビで出会った夫と結婚ののちは、今のとおりのしょうもないぐうたらバァさんになっております。
 夫よ、私を指して「ごま塩髪を染めてごまかしているバァさん」と言うなかれ。そういうアンタは総入れ歯のじいさんでしょうが。

 演劇人類学研究の夢は、はかなく散りましたが、今でも、ケニアでの人類学研究やタンザニアでのチンパンジー類人猿研究などの記事が載ると、読みふけってしまいます。

 京都大学霊長類研究所は、アフリカでのチンパンジーやゴリラの研究のほか、幸島の「猿の芋洗い文化伝承」、犬山のモンキーセンター隣接の研究所の「コミュニケーション能力を修得したチンパンジー、アイちゃん」などの報告によって、一般の人にも広く知られた研究を発表してきました。

 2007年12月18日の新聞に「チンパンジー閉経期なし」という記事がでていました。
 京都大学霊長類研究所やハーバード大学らの国際共同研究によって、アフリカチンパンジー観察の結果、チンバンジーの雌は10代での初産から、50歳の寿命ぎりぎりまで出産をつづけ生殖能力がなくなるのと、寿命がおわるのはほぼ同時であることが確認されたという。

 1998年に、ユタ大学の人類学者クリスティン・ホークス教授らは、
 『 閉経後の女性は、人類独自に進化した存在で、孫の世話してくれる女性がいると子孫の存続に有利になる 』という研究結果を発表しました。
 「おばあさん仮説」と呼ばれています。

 惑星学者の松井孝典は、このホークスらの「おばあさん仮説」にもとづいて、
 『 ヒトの女性が生物としては例外的に生殖可能年齢を超えて生存することで「おばあさん」が集団の記憶装置としての役割を果たし、そのことで文明の誕生が可能になった。しかし(文明が発達しすぎた)結果として、ヒトの文明が地球環境を蝕む結果をももたらしている 』という説を展開しました。

 ところが、この松井おばあさん論を、曲解した男がいる。
 松井との対談でこの理論を知ったのち、強引に「ババア有害理論」をのべ、さらに「私が言ってるんじゃなくて松井先生が言ったことばです」と、裁判でも述べている人。現東京都知事。

 『週刊女性』2001年11月6日号の「石原慎太郎都知事吠える」などでの都知事発言。

 『 これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。
 男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。 』

 とんでもない曲解でした。

<つづく>


2008/05/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(2)おばあさんが人類を救う

 都知事発言は、明らかに松井孝典の発言をねじ曲げて解釈しています。
 松井先生は、「人類文明が発展したのは、おばあさんがいたおかげ」「人類文明が発展したせいで、地球環境をむしばむ結果も出てきた」という説を述べた。
 それを、読解力ゼロ男は、「生殖能力のないババァは地球にとって悪しき弊害」と曲解したのです。

 このような読解力しか持ち合わせていない人をトップとしなければならない都民は不幸です。といっても、選んだのは都民だよね。
 2007年3月18日に私が中国へ行くときにはまだ公示前(3月22日告示)で、不在者投票ができず、4月、「ババァ有害論」の都知事が再選されたという報を読みました。

 チンバンジーの雌が、閉経後、まもなく寿命がつきるという点について。

 江戸時代農村の標準的家族では、女性は結婚し、平均20.6歳で初産。以後20年間出産し、平均40.3歳で末子を出産。
 乳幼児死亡率の高さにより、江戸270年間に人口増加はごくわずかの上昇にとどまっています。
 
(この乳児死亡率の高さ、人口増加率の低さは、「間引き」の習慣による、という研究もありますが、それはまた別のお話。間引きとは、生まれてすぐに、赤ん坊を「生まれなかったことにする」ということです)

 末子が10歳になるころ、女性は平均51.8歳で、長子に初孫が産まれるので、初孫の出産を手伝い、末子とともに子育てを手伝う。
 平均55.6歳で死去。

 人類学が「おばあさん仮説」と呼ぶ期間。これを江戸時代の女性ライフサイクルにあてはめれば、自分自身が40歳で出産したのちに閉経し、寿命がつきる55歳までの15年間をさすことになる。この15年間は、チンパンジーにはなく、ヒトにはあった「閉経後の寿命」です。

 この15年間に、人間の女性は、自分が経験してきた人生のあれこれを、子や孫に教えてすごしました。

 この平均的ライフスタイルから見て取れること。
 兄弟姉妹の中で、年長者として生まれた子どもは、母親の子育てを手伝い、末子として生まれた子どもは、姉や兄の子の子育てを手伝うことにより、現代の若い母親のように「赤ん坊をだっこするのは、我が子が初めて」というような「初心者母」は、いなかった。

 母は、自分の生んだ末子の子育てが手をはなれるころに、初孫の誕生をむかえ、出産や子育てを手伝う。孫が七五三を迎えるころに自分の寿命がつきる。

 このライフスタイルの、「おばあさん仮説」の15年間は、人類文明にとって、大きな意味を持っていたといえるでしょう。

<つづく>






2008/05/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(3)経験を伝えるおばあさん

 もちろん、チンパンジーの雌も、人間の女性のように、子に自分の経験を教えたでしょう。おいしい木の実がとれる場所と時期を教えたり、シロアリの釣り方を教えたり。

 しかし、ヒトとチンバンジーの「経験の伝え方」で、決定的に異なっていたことがあります。チンパンジーと人間の進化と文明とを隔てたものは何か。
 それは、人間の女性は、子育てをするときに、自分の経験を「コトバ」として伝えることができた、という点です。

 石器や火の使用など、文化を持った人類ではあるが、原生人類の直接の先祖ではないと言われるネアンデルタール人。彼らの脳の容積は、原生人類とほぼ同じです。
 しかし、原生人類と大きく異なるところ。口とのどの構造です。

 アメリカのリーバーマンによると。
 ネアンデルタール人は、「舌と口腔からなる発声器官がヒトに比べて不十分である。何種類もの音を発声するためには、喉頭から咽頭にいたる空間的スペースが足りない。だから古い人類は、現代人並みの巧みな発音は不可能である」という説を出しています。

 骨格化石から復元されたネアンデルタール人の喉仏は、かなり喉の上部に寄っていて、気道の距離が発声に対して十分でなく、特に「あいうえお」といった母音が発音できなかったであろうと言われています。

 母音の発音が明瞭でなく数種類の子音だけでは、音の分節が限られます。
 ネアンデルタール人が発音できたのは10~15種類の子音だけだったろうと、人類学者、解剖学者たちは推測しています。
 子音の単音だけなので、発声できる単語の種類は限られます。語彙はおそらく100語もなかったことでしょう。

 100くらいの単語だと、最低限どんな表現が可能だっただろうかと想像してみます。「mm~」が食べ物をさし、「bb~」が否定を表す、と想像した場合、「mm~」と発声して一定の方向をさすと、「あっちに食べ物があるぞ」ということを表現でき、「bb~mm」と言うと、「それは食べ物じゃない」「そっちの方向には食べ物がない」などの表現が可能、、、、としても、日常生活の経験をすべて伝えるには不足だったことでしょう。

 チンパンジーに手話によるコミュニケーション能力がある、とされる実験には賛否両論がありますが、私はネアンデルタール人は、音声によるコミュニケーションより、手真似、ジェスチャーによるコミュニケーションを発達させていたのではないかと、想像しています。

 2007年10月30日、雌のチンパンジー「ワショー」が死にました。
 ワショーは、セントラル・ワシントン大学が実験を続けていたチンパンジーで、「手話を250語獲得し、自分で文を創出する力を持っていた」と言われています。

 私は、単語250語を獲得することはチンパンジーにも可能であるけれど、その数少ない単語で「自分で表現を創出する能力」は、どれほど可能だったか、疑問を持っています。

<つづく>


2008/05/27
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(4)いないいないバァ

 言語表現を自分で表出するには、「象徴作用」ができていなければならない。

 「マネッコ」ができるというのが、言語の象徴作用の前段階です。
 人間の子どもは、2歳くらいになれば、まねっこが理解できます。
 眠そうになった子を見た親が、「ネンネ」と声にださなくても、寝るマネをしてみせると、子どもはそのジェスチャーが、「ふとんに入って寝ること」を意味しているのだと理解し、自分のふとんの中に潜り込みます。

 おなかがすいたとき、チンパンジーが手に何かを持っているふりをして、それを食べるマネをして、「何か食べたい」という意志を伝えることができて、はじめて「おなかがすいているから何か食べたい」という表現ができたといえます。

 「食べ物」という意味の単語の手話をしたとしても、それは、ネズミが「このボタンを押すと食べ物が出てくる」という記憶を持つことができるのと同じことです。
 二語文が作り出せてはじめて「言語表出能力がある」といえるのです。

 人間の子どもは、2歳くらいになると、二語を組み合わせて文を創出できるようになります。
 子どもが、「みじゅ(水)」「じゅす(ジュース)」という語と「のむ(飲む)」という語を修得したとします。

 ある日、親が「水のむ?」と、子どもに話しかけたとする。
 子どもはそれまで一度も「ジュース飲む」という表現を親から聞いたことがなかったとしても、そのとき飲みたいのがジュースであるなら「みじゅ、ない。じゅすのむ」と、言えたりするのです。
 「ジュース飲む」という名詞と動詞を組み合わせた文を、自分の能力だけで創出するのです。

 「パパ」「ママ」という単語と「いる/いない」という単語を覚えれば、教えなくてもそれらを組み合わせて「パパいない」「ママいる」「ママいない」という二語文(文法を持った文)を創出できるのです。

 この「いる」「いない」の感覚を発達させるに適した遊びが「いないいないバァ」ですが、チンパンジーの子どもは、この遊びをしない。

 さて、母音が発音できるとどうなるか。
 母音とはのどの奥の声帯をふるわせ、口の中のどこにも息をじゃまされないで、口から外へ息を吐き出すことによって音声を作り出す音です。

 母音と子音を組み合わせれば、音の種類は拡大します。

<つづく>


2008/05/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(5)バァリキ

 日本語の場合、5つの母音と14種類の子音の組み合わせで、114~115の音節が発音できます。

 114種類の音の順列組み合わせは、限りなく大きく、あらゆることがらを音声で表現できるようになります。「115(一音節)+115×115(二音節)+115×115×115(三音節)+115×115×115×115(四音節)、、、、、、、」無限大まで拡大できます。

 ことばを「音」として表現できるようになった現生人類は、自分たちの経験を「音声」で子孫に伝えることが出来、食料の確保にも子育てにも、大いに「経験」を生かすことができるようになりました。

 さまざまな経験を経てきた「おばあさん」が、子どもたちに語りながら、いっしょに食料調達や子育てに参加することで、「母性の時代」の人類は、豊かに発展することができました。

 外に狩りにでかける男たちは、また別のコトバを伝えあったでしょうが、狩猟採集時代の人間のコミュニケーションにおいては、母と子との会話のほうが、ずっとこまやかな情報交換がなされたのではないかと、私は想像します。

 男たちは獣を追いながら、「走れ!」「石投げろ」なんてことをいいあうくらいで、こまやかなコトバを交わしあうヒマはなかったのではないかしら。
 住まいのいろりを囲んでの語り合いにおいて、男たちは母親に仕切られながらすごしたことでしょう。

 しかし、人類が豊かさを獲得し、歴史時代になったあと、土地の争奪において、「武力」が「女性の経験」より優先する時代がやってきました。
 「支配と所有」を優先する「男性原理」は、21世紀の今日まで続き、今に至るまで戦争によって優位に立とうとする人間は、争いを続けています。

 わたくしの娘と息子は、今のところまったくモテず、私は将来も、孫を持つことがないかもしれませんが、年齢だけは着実に「おばあさん」になってきています。

 生物学的な孫には恵まれないとしても、できることなら、私は、私のことばを語りつぎ、豊かな「ことばの文化」を伝えたいと思っています。

 「人は老いて衰えると、ものをうまく忘れたりする力、つまり老人力がつくと考えるべきである」という逆転の発想から「老人力」ということばが生まれ、赤瀬川原平の本『老人力』もベストセラーになりました。

<つづく>


2008/05/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>婆力(6)経験値

 「生殖能力のないババァは、地球に有害」という愚かな発言をする知事が、トップとして君臨する都市に住んでいる私ですが、「老人力」とならんで「婆力」を身につけたいと思っています。「馬力バリキ」ならぬ「婆力バァリキ」

 ゲームの世界では「経験値」というものが、ゲームの成否を左右するものとしてゲーマーたちは高い「経験値」を手に入れようと日夜コントローラーをたたいています。

 「婆力」はこの「経験値」に近いものと考えてもいいし、「老人力」のように、「耳が遠くなった→老人力がついて、不都合なことを聞かずにすむようになった」という逆転発想の力だと思ってもいい。

 今月、2月11日は、私の祝日暦によると「神話と伝説の日」です。

 「おばあさんが経験を伝えることによって人類文化が発展した」という「おばあさん仮説」が、都知事の頭のなかでは「生殖能力のないババアがのさばっていて地球を滅ぼす」と誤変換されてしまったように、「日本の最初のスメラミコトは、年のはじめに即位した」という伝承が「建国記念日」に誤変換されてしまった。

 私は日本語母語話者として、「神話と伝説の日」を設けることには賛成です。
 私たちの母語、日本語は、古代に豊かな「ことば語りの文化」を持ち、女性を中心とする一族(稗田阿礼の一族など)が、それを記憶し伝えてきた。

 『古事記』を語り伝えた稗田阿礼は、私のイメージでは、経験豊かなおばあさんです。年をとっても、豊かな響きの声で、朗々と神と人の世の話を語り伝えている姿。

 その「語り」を、大陸の文字文化を修得した男性が、苦心して文字化したのが『古事記』『日本書紀』です。
 『日本書紀』は、当時のアジア共通の「知識人の言葉」だった中国語(漢文)で書かれています。
 『古事記』は、漢字を日本語の音を表す表音文字(万葉仮名)として用いたり、意味を翻訳して、日本語語彙に漢字を当てました。 

 文字化に際し、多くの伝承が変容しました。
 最初のオオキミ(王)即位の日、というのも、当時の大陸の知識を援用して、「重大なことが行われる年回り」を算出し、その年の元旦に即位した、ということにしただけで、ほんとうにこの日に即位したわけではありません。
 古事記日本書紀の執筆者が、中国や朝鮮半島から伝えられた知識をもとに計算しただけです。
 
 私の1974年提出の卒論タイトルは『古事記』でしたから、今も『古事記』関連の書をときどき読みます。

 2007年読書の収穫のひとつは、神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』でした。
 「日本語言語文化」を追求している春庭にとって、文字表記論からいっても、古代文学論からいっても、たいへん示唆にとんだ著作でした。
 このような有意義な日本語言語文化論をもっともっと知りたい。極めていきたい。

 春庭、ハイパワー「婆力」をめざして、ことばを交わしことばを伝えていきたいと思っています。
 私はわたしなりに日本語の豊かなひろがりを追求し、経験を積み上げ続けていきたいと思っています。
 春庭バァリキ、今年も全開です。

<おわり>
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2008夏の思い出

2008-08-18 22:07:00 | 日記
<2008夏の思い出>
(1)夏のおたのしみ
(2)清里・野外バレエ
(3)清里・森の生活
(4)清里・絵本美術館
(5)西の魔女
(6)翼のある竜
(7)発掘された日本列島2008
(8)青い鳥オフ会
========

2008/09/19 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(1)夏のおたのしみ

 保育園小学校時代の娘と息子のために、毎年、夏休み前になると企業が募集する「親子で牧場見学会」とか電力会社主催の「親子です威力発電所見学バス旅行」など、無料のイベントをさがしました。

 「区の公園課主宰の蛍見学会」「団地祭り」「ボリショイサーカス」「花火大会」「豊島園プール」が、7月から8月上旬までの「夏休みお楽しみセット」でした。
 ボリショイサーカス、娘と息子が小さいときは、毎年のように見に行きました。新聞販売店が読者サービスに配布する招待券をもらえたからです。

 8月のお盆には実家に帰省して、父や妹の世話になってすごしました。 
 毎年、妹一家に連れられて川遊びやキャンプにでかけました。
 極貧生活を続けていて、夏休みの思い出を作ってやることも難しい暮らしだったけれど、子どもが二学期はじめに「夏休みのできごと」という作文を書かされたときになんとか「思い出」を書くことができたのも、実家をついだ妹夫婦のおかげ。

 貧しい我が家も、やりくりと工夫次第で、子どもの思い出に残る夏をみつけて過ごしてきたのです。

 今年も、8月お盆には、妹が守る故郷の実家に帰り、お墓参り。
 両親と姉がひとつの墓に眠っています。
 まず、去年亡くなった義理の叔父(父の妹の夫)の新盆に、お線香を立てに行きました。

 妹一家と、「ソースカツ丼」の一軒で夕食。ソースカツ丼は、地元の名物になってきて、何軒も類似の店が増えた。
 夜は温泉。車でちょっと登っていけば、市内に伊香保温泉もあるけれど、近場の市民温泉へ。市内にいくつも市民温泉があります。
 今回は、「敷島の湯・ユートピア赤城」というところへ行きました。

 翌日は、山車祭り。
 子どもの頃、町内そろいの衣装で山車を引くのが夏の楽しみでした。
 町内の山車を差配するのは、鳶頭の祖父でしたから、祖父の掛け声ひとつで、山車が方向を変えたり泊まったりするのを見ることが誇らしくもあった。

 私の子どもたちも、町内の子じゃないけれど、幼い頃はそろいの衣装を着せて貰いました。今では、「祭りよりゲーム」になっていて、お墓参りなど「パス」のひとこと。

 お盆墓参り、温泉、山車祭り、の故郷の夏。

 妹一家は、1994年に、私が単身赴任を条件に中国へ出稼ぎに行ったとき、10歳の娘5歳の息子を半年間預かってくれ、夏休みには、妹が子どもたちを連れて中国へ来てくれました。

 1994年に私が稼いだお金は、銀行振り込みされた給料を、夫が全部会社の運転資金につぎ込んでしまって、妹に十分なお礼もできませんでした。
 2006年春休みに、妹をタイ旅行に誘ったのは、12年前のお礼をようやくできる状態になったから。

 妹は、最初の見学地のお寺でころんで捻挫し、ろくろく観光出来なかったのだけれど。
 このときのタイ旅行報告は、下のリンクページに。(2006/03/13~ 03/17)
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200603A

 2007年夏は、いっしょに中国西安大連旅行をした。こちらも、タイ旅行に劣らず珍道中だったけれど、楽しかった。
 西安珍道中の報告は、下のリンクページに。(2007/08/17~ 09/06)
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200708A

<つづく>


2008/09/20 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(2)清里野外バレエ

 妹といっしょの、年に一度の姉妹旅行。今年は、八ヶ岳高原清里へでかけることにしました。
 清里で毎年開催されている「野外バレエ」を見るため。
 野外バレエは、20年くらい続いているイベントですが、私は評判をきいたことはあったものの、見たことはなかった。

 野外バレエは、川口ゆり子今村博明夫妻が主宰する「バレエシャンブルウエスト(Ballet Chambre Ouest )」が、公演を行ってきました。
 昨年2007年には、文化庁の平成19年度芸術創造活動重点支援事業採択先に選ばれて、野外バレエのために商工中金が融資を行うなど、恵まれた条件で公演活動を行っています。
http://www.moeginomura.co.jp/FB/index.html

 私は30年来、クラシックバレエやモダンダンス、ジャズダンスのレッスンを続けているし、妹も踊りが好き。妹の娘ふたりは、幼稚園から小学校卒業までバレエを続けていて、毎年発表会の衣装は「保護者手作り」というバレエ教室だったので、妹は、大騒ぎで衣装を作っていました。

 妹の長女「エリエリ・レマ」が、スーパーでバイトをしながら、バンド活動を続けているのも、親の芸能好きを受け継いだのだろうと思います。

 私の母方は、二手に趣味が分かれていた。亡くなった母方の祖父が芸能好きで、義太夫と農民歌舞伎の役者が趣味でした。それで、伯母とクニヒロ叔父は芸能好き。クニヒロ叔父は、国鉄駅長を定年退職後、しばらくは社交ダンスにはまっていた。
 母方の祖母の系統は読書文芸好きなので、私の母とヒサオ叔父は、読書と俳句が趣味。ヒサオ叔父は、東芝を定年退職後は、俳句の会などで一句ひねってすごしている。

 私の父は、歴史と散歩が好きでした。
 それで私は、欲張りにも、読書も文芸も芸能も歴史も散歩も好き。唯一受け継がなかったのは、父の壮年時代の趣味であった釣りだけ。

 7月末の「清里プチ避暑」
 妹の車に乗せてもらい、バレエの予約や宿泊も妹まかせの、「大名旅行」ならぬ「大奥お局様旅行」。見るのはカブキではなく、バレエです。野外バレエ、楽しみに清里高原へやってきました。

 野外バレエはABCの3プログラムがあり、A=プーシキンの原作『オネーギン』を、川口ゆり子今村博明がバレエ振り付けをした『タチヤーナ』、B=アンデルセン原作『おやゆび姫』、C=グリム童話『シンデレラ』の3種。
 妹は3夜すべてのチケットを購入していました。ワォ、予算オーバーだけど、、、

 1夜目の『タチヤーナ』は曇り空でしたが、2夜目の『おやゆび姫』は、満点の星空、暗転の間、夜空の星も楽しめて、最高の野外バレエでした。
 3夜目のシンデレラは、雨降りやまぬ中での公演となり、1幕目で上演中止。

 私と妹は、3日目は何となくリハーサルを全幕見ていたのです。明るい中、照明なしのバレエでしたが、見ておいてラッキーでした。
 上演中止は残念でしたが、閉幕後に清里名物の「ロックカレー」を食べ、ビールを飲みました。

<つづく>


2008/09/21 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(3)清里・森の生活

 清里の最初の夜に宿泊したホテル・ハットウォールデンは、ソローの『ウォールデン・森の生活』をコンセプトにした小さなホテル。とても居心地がよかった。
http://www.hut-walden.com/

 よくあるホテルの部屋には聖書がおいてあったりするのですが、ハット・ウォールデンのベッド枕元には、『ウォールデン・森の生活』がおいてありました。
 私、20代のころ読んだきりなので、読み返したいと思ってはいるのですが、何しろベッドに入れば、5秒で寝付く。妹が話しかける間もないソッコー睡眠でした。

 ハットウォールデンに3泊したいところですが、予算の関係で、2泊目はペンション。3泊目はログハウスの貸別荘・「コテージ炉辺荘」に泊まりました。
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~roben-so/

 野外バレエの公演は夜なので、昼間はいろんなところに行きました。 清里に三泊の間、昼間は、絵本ミュージアムや展望台など、妹が行きたがったところを中心に車でまわりました。

 8月29日、妹がバレエ鑑賞のほか、第一に清里で行きたかったところ、清里開発の父ポールラッシュ記念センターや清泉寮を訪れました。

 妹は、清里旅行の予習として、ポール・ラッシュの伝記を読み終わったところなので、車を運転しながら講釈をつづけ、私もいっぱし「ポール・ラッシュ」の事績について詳しくなりました。
 国際交流のお手本みたいなポールラッシュについて、私も知ることができ、妹に感謝です。
http://www.keep.or.jp/shisetu/paul/

 ラッシュは、日本にアメリカンフットボールを紹介した人で「フットボールの父」と呼ばれている人。
 また、聖路加病院の再建に力を注いだ人であり、清里高原を「作物の実らない不毛な寒冷地」から「高原農業や酪農を定着させ、清里を再建した」人でもあります。

 現在、清里高原は、観光地として大発展をしていますが、俗化を免れているのは、ポールラッシュの「祈りと奉仕」の精神を受け継ぐ人が、清里に根付いているからでしょう。
 ラッシュが作った畳敷きの聖アンデレ教会も見学できました。
http://www.keep.or.jp/shisetu/andere/index.html

 次に妹が行きたがったところは、絵本美術館。
 八ヶ岳高原に点在している絵本ミュージアムのうち、3館を見学。
 妹は、NPOの理事として子育て支援活動に携わっていて、絵本の読み聞かせ運動をしているので、絵本美術館をたくさん見たいというのです。

 私は、東京にも絵本関連の施設がたくさんあるから、そんなには行きたくなかったけれど、妹は、私がよく行く青山のクレヨンハウスなどにも簡単には行けないのだから、絵本を見たいという希望におつきあいしました。

<つづく>


2008/09/22 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(4)清里・絵本館めぐり

 点在する絵本美術館、3カ所、小淵沢絵本美術館、清里えほんミュージアム、黒井健絵本ハウス。
 妹は、どの美術館でも、絵本をあれこれ買い込んでいました。

 小淵沢絵本美術館では、ターシャ・テューダー(Tasha Tudor)の絵本、清里えほんミュージアムでは常設展のエロール・ル・カインの原画がよかった。

 ターシャ・テューダーは、絵本作家として高い評価を得たほか、庭作りとスローライフの達人。
 今年、2008年6月に92歳で永眠するまで、花壇を好きな花で飾り、庭の果物や野菜を使って料理をして暮らしました。薪割りなどの力仕事は、徒歩5分のところに住む息子さんが手伝います。
 わたしにとっての、理想の暮らしかた。

 日本にもファンが多いターシャの紹介サイト、たくさんあります。
http://ainahaina.exblog.jp/i2/
http://www.akmkny.net/gardeninghappy/tasya.htm

 ル・カインは、シンガポール出身の絵本&アニ家
http://www.ehonmuseum-kiyosato.co.jp/exhibition_errol.html
 絵本作品は、以下のサイトで紹介されています。
http://www.ehonnavi.net/author.asp?n=3532

 黒井健、私は「ごんぎつね」「手袋を買いに」などのきつねの絵のファンでしたが、きつね以外の作品もいろいろ展示されています。
http://www.kenoffice.jp/

 今回行けなくて残念だったところが3カ所。
 私にとって、近代史教科書のひとつともいえる『明治精神史』の著者、色川大吉が住んでいる大泉町の近くを通ったのだけれど、どのへんに住んでいるのかはわからなかった。
 『八ヶ岳南麗猫の手クラブ物語』を読むつもり。

 今回、北杜市に来るまで知らなかったのだけれど、清里周辺の地図をみたら、「金田一春彦記念図書館」がありました。
 金田一家の別荘が大泉町にあった縁で春彦の蔵書が寄贈され、金田一一家による講演などが行われている。

 私が、修士論文で他動詞ボイスアスペクトについて執筆したとき、アスペクト研究の先達、金田一春彦のアスペクト論を参照論文として巻末に書いた。
 また、社会言語論の授業を行うに際し、アクセント、方言の参考書のひとつにしているのも金田一春彦の著書やアクセント辞典。

 記念図書館に寄ったのだけれど、木曜日定休で中に入れなかった。玄関前のポールラッシュの銅像前で妹と写真をとりっこしました。

 もうひとつ行きたかったのに行けなかったところ。
 平山郁夫シルクロード美術館。平山作品はあちこちで見てきたけれど、平山夫妻が収集したシルクロード美術品も展示されているというので、見てみたかった。
 http://www.silkroad-museum.jp/

 シルクロード美術館の前を、何度もバスや車で通りすぎたのだけれど、妹が絵本美術館のほうに興味を示したので、行く時間がなくなった。
 妹が運転する車なので、妹の趣味優先。

 そのほか、リフトに乗って山の頂上へ行ったり、手打ち蕎麦を堪能したり、八ヶ岳高原ドライブ、涼しくて楽しい夏休みをすごすことができました。

妹とわたしの旅は、たいていハプニングがおこり珍道中となるのですが、今回の清里旅行は、雨で野外バレエ公演が中止になったほかに「なんてこったい」の出来事はなくて、珍しく「始めも終わりもすべてよし」でした。 

<おわり>


2008/09/23 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(5)西の魔女

 8月7日、新宿武蔵野館で映画を見ました。『西の魔女が死んだ』
http://blogs.yahoo.co.jp/nishimajo_movie/7321577.html

 7月末に、妹とでかけた清里高原のキープ協会敷地内のなか、映画『西の魔女が死んだ』の「おばあちゃんの家」ロケ地が、一般公開されていました。
 妹といっしょに、おばあちゃんの家を見てきました。

 案内板があって、「おばあちゃんの散歩道」をたどることもできたのですが、お散歩は次のお楽しみにして、おばあちゃんの家をゆっくり見ました。ハーブティもいただいて(無料)ゆっくりすごしました。
http://www.keep.or.jp/nishimajo/

 『西の魔女が死んだ』原作は、梨木香歩の短編小説。
 「他人に無理して合わせるのは疲れた」と考える中学生の女の子マイ。女の子のグループ同士のつきあいから距離をおいたマイは、そのためクラスメートからは無視され孤立してしまいます。
 
 不登校になったまいが、夏の一ヶ月をすごしたおばあちゃんの家。
 ロケ用に建設されたのですが、ロケ終了後は、入場料300円で公開中。
 とてもすてきな、心なごむおばあちゃんの家でした。

 主人公マイのおばあちゃんは、イギリスから英語教師として来日し、高校の理科教師だったおじいちゃんと結婚します。おじいちゃんが亡くなった後も、ひとりで自分のスタイルを守って静かに生活しています。

 おばあちゃんを演じているサチ・パーカーは、1956年生まれ。シャーリー・マクレーンの娘。父親のプロデューサー、スティーブ・パーカーとともに、6~12歳を日本で過ごし、日本語も上手です。

 マイのおばあちゃんの暮らし方、雰囲気がターシャ・テューダーに似ている気がします。
 自然の中で、自給自足に近い暮らしを続け、縫い物もジャム作りも、自然を生かし周囲の人々ともよい距離を保って暮らしている。
 私も、ターシャやマイのおばあちゃんのように晩年を過ごせたらいいのになあ。

 映画のなかで主人公マイが一夏をすごすおばあちゃんの家の中、ひとつひとつのようすが、心に響きました。

 マイが使っていたマグカップがテーブルの上にそのまま残されていたので、マイがマグカップでハーブティを飲む場面も、いっしょにお料理するおばあちゃんの台所用具なども、故郷の家をみるようになつかしい気がしました。

 ことしの夏は、エアコン工事のための部屋片づけやら何年も冷気漏れがしていた冷蔵庫買い換えやらで、たいへんな思いもしたけれど、妹や友人、娘息子とのお出かけの楽しみもありました。

<つづく>

2008/09/24
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(6)翼のある竜

 娘息子と三人連れでのお出かけ、7月末にボリショイバレエを見に出かけたほかは、エアコン、冷蔵庫、ガスレンジを買いに、何度も池袋の家電量販店へ出かけて、お買い得品の品定めで8月もすぎてしまいました。借金だらけなのに、高価な家電品を買うのですから、1円でも安いものを探し回りました。さらに増える借金は最少額におさえなければ。
 8月末にようやく、お楽しみのお出かけができました。

 娘は、小学高低学年のときに「恐竜発掘」の漫画本を読んで恐竜ファンになりました。中学校に入学してからは、「日曜地学ハイキング」という化石掘りの会に入って、毎月のように親子で化石を掘ったり地層見学をしたりの会に参加。貝化石などをたくさん集めました。残念ながら、恐竜の化石を掘り当てる幸運はありませんでしたが、恐竜展は毎年のように見に出かけています。

 ことしは、春に千葉の幕張メッセで「よみがえる恐竜大陸展」を見たのですが、夏になったら、また「世界最大の翼竜展」を見たいと、娘が言うので、お台場の日本科学未来館に出かけました。

 8月の終わりなので、覚悟していましたが、「自由研究」の仕上げをする親子でにぎわっていました。解説ガイドのイヤホンをつけて走り回る子、デジカメで写真を撮りまくって、子の自由研究ノートを埋めようとがんばるお父さんお母さんの間で、娘と息子は「う~ん、小さいお友達に負けないで楽しむぞ!」と、気合いをいれていました。

 もう「夏休み自由研究」の提出には縁遠くなった25歳娘と19歳息子が母親といっしょに「翼竜展」にお出かけするというのも、あまりない組み合わせでしょうが、3人とも恐竜が好きなので。

 科学未来館1階に、世界最大の翼竜、ケツァルコアトルスの復元化石や、復元個体を展示し、空飛ぶ竜についてまとめて展示してあります。

 「翼竜は頭はでかいが、体は小さくて体重はそれほど重くなく、大型翼竜は長く滑空していられた。体重を減らすために、骨はハニカム構造という蜂の巣のような構造をしている。これは、軽くて強度を保てる構造で、飛行機にも取り入れられている。
 小型翼竜は皮膜を羽ばたかせて飛ぶことができたこと、鳥のように2本足歩行ではなくて、翼を折り畳んで、4足歩行した」
 など、新しく知ったことがたくさんありました。

 娘と息子は何度か来たことのある科学未来館ですが、私は、はじめて。
 常設展のほうも回ってみたけれど、上野の科学博物館は、常設展もいろいろ楽しめるのに、「未来」の科学は私には難しすぎて、スーパーカミオカンデも宇宙開発もさっぱりわかりませんでした。どうにも徹底的に理系の頭ではありません。

 お台場にいる間に何度か激しい雨が降りましたが、外に出ての移動の間は止んでいて、ラッキー。
 テレコムセンターの展望台でコーヒー飲んで一休み。展望台の望遠鏡で「あ、ディズニーシーの火山が見えた」などと言って、夏の終わりの東京湾景を楽しみました。

 途中また雨が強くなり、さっきまで見えていた東京タワーがぼうっと霞んで見えなくなり、葛西臨海公園の観覧車も消えて、あたり一帯、白い景色に変わりました。
 ひとしきり雨が通り過ぎると、少しずつ東京タワーも見えてきて、再びの東京湾景。

 夜は、お台場メディアージュの入場者1万人突破記念花火を見ました。
 自由の女神のレプリカが立っているあたりで花火の打ち上げが行われ、お台場周辺でしばし花火を楽しみました。
 若者向けの、猫、ハート、ニコニコマークなどのキャラクター花火が中心でしたが、おもしろく観覧しました。

<つづく>


2008/09/24
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(7)発掘された日本列島2008

 娘息子とのお出かけ。翼竜展の翌日は、「発掘された日本」展に行きました。
 入ってすぐに目にはいるのが、群馬県高崎市の太子塚古墳(5世紀後半)から出土した鹿の埴輪。
 埴輪は高さ約60センチ。体長も約60センチ。腰に粘土を張って矢羽根を表現し、その下に朱で流れ出る血を描き込んである。
 矢がささった体にある斑点は、「かのこ模様」の夏毛を表したらしい。狩りの獲物を神に祈るための埴輪であったのだろう。
 琴をひいている楽人の埴輪もいっしょに展示されていた。神への祈りの曲を演奏したのか、はたまた収穫の祭りを祝う宴席を音楽で囃したのか。

 縄文時代、弥生時代、と時代ごとの発掘品が順路に展示され、近年の発掘として話題になった本能寺の半分焼けた瓦があった。
 発掘成果が上がると、業火に焼け落ちたと言われている本能寺のさまざまな真実が浮かび上がってくるかもしれない。秀吉が他の場所に本能寺を再建し、長い間本能寺の元の地が不明であったのはなぜか、とか。

 高松塚古墳の石室レプリカもあった。
 発見当時の美しい女人像や白虎、天井の星辰が写真撮影され、新聞社の「おまけ」としてポスターが配布された記憶があるけれど、今は、かびに覆われて美女の顔もよく見えなくなっている様子が、復元されていた。

 通常展示の大名籠。「女籠」の前に、「靴をぬいで、籠に座ってください」と、書かれていたので、親子で順番に籠に座ってみた。私が中に座ったら、息子と娘が「桜田門外の変ごっこ」と言って、刺すまねをしたので、息子が座ったときは、「坂下門外の変」と言って、私が刺すまねをして遊んだ。おバカな親子。

 そして、「えっと、桜田門外は井伊直弼だったけれど、坂下門って、安藤だれだっけ」と、殺されかけたのに、名前が知られていない安藤を不憫に思いつつ、常設展示を見て回りました。

 歴史大好きな息子、学生証を示せば、常設展は江戸東京博物館も国立東京博物館も無料で見ることができる「メンバーズシップ」に登録してある大学なのに、このありがたい制度をつかうのは初めて。「こういう費用もバカ高い授業料に入ってるんだから、せっせと利用してモト取りなさいよ」と、けしかけるハハの「費用対効果」計算でした
 科学未来館では、ランチに「恐竜の卵コロッケランチ」というのを食べて、「こういう子供だましに乗って食べるのがおいしい」とか言っていた息子と娘、江戸東京博物館では、2階のレストランで「深川丼」と「穴子天とまぐろ山かけセット」を頼み、「うん、江戸っぽい」と、食べていました。

 何を見て歩いても、「食べるのが一番たいせつ」の親子です。

<つづく> 

2008/09/25 
ぽかぽか春庭やちまた日記>夏の思い出(8)青い鳥オフ会

 7月21日、カフェ仲間とのオフ会をして、楽しかった。
 以下、オフ会の思い出

 九州の青い鳥チルチルさんは、6月1日カフェ日記に、翌日から始まる入院生活について、「あ~す~は、東京へ出てゆくからにゃ~ な~にが なんでも 挫けちゃならぬ~ う~まれながらの 脳性麻痺に~ 戦い挑んで また~生きる~ 」と、書いていました。

 その東京での入院生活も、あと数日でひとまず退院という日、オフ会をしました。
 病院お見舞いというと、元気な人が入院中の方をお見舞いすることになりますが、チルチルさんのお見舞いは、逆です。入院中のチルチルさんは、まだ痛みがとれない部分があるというにもかかわらず、いつも笑顔がいっぱい。

 私のほうが暑さにうだっていてくたびれていて、いっしょにお話しするなかで、たくさんの元気をいただきました。

 青い鳥オフ会。
 チルチルさんが入院している病院から車なら20~30分ほどというところにお住まいのchiyoさんと、チルチルさんの妹さんグリーンさんと、「女4人のアフタヌーンティ・パーティ」を楽しみました。

 冷たいコーヒーや緑茶を飲みながら、chiyoさんお手製のバナナクリームクレープ、私が、ありあわせのカボチャをチンしてテキトーに混ぜ合わせただけの「簡単パンプキンケーキ」などを作ってお茶うけにして、笑いとおしゃべりのティーパーティ。

 チルチルさんは、ケータイにいっぱい保存してある、病院同室仲間や主治医の先生とのツーショット写真を披露してくれました。
 チルチルさんは、chiyoさんの愛犬チョコちゃんをなでながら、私が書いた「足下が崩れる話」を「大笑いして読んだよ~」と、もう一度おもしろがり、chiyoさんは、うれしそうにシッポを振っているチョコちゃんとの出会いについて話しました。
 ちるちるさんの外出許可時間いっぱいまで、おしゃべりがつきませんでした。

 グリーンさんは、ご自身も体調が不調となる日もあるなか、病院併設の「介護者用の寮」に寝泊まりし、大手術に臨んだチルチルさんの介護を続けました。
 chiyoさんと私は、「ほんとうに感動的な姉妹愛ね」と、話し合いましたが、食事の介助や車椅子への乗り降りにつけても、てきぱきとこなしておられました。

 chiyoさんとチルチルさんと私の共通点は、「三人姉妹」であること。それぞれの姉妹との絆もありながら、こうしてインターネットを媒介として、本来なら知り合うことがない九州と東京の距離をこえて友だちになれたことを、不思議にもうれしく思います。
 オフ会はそんなにしょっちゅうはできないけれど、これからもbbsや日記コメントを通じて、おしゃべりに花咲かせていこうと思います。

<おわり>

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レクイエムバナナ番外読書編

2008-08-17 10:36:00 | 日記
<レクイエムバナナ番外読書編>
(1)ニューアイルランド戦記
(2)レイテ戦記
(3)憂鬱なる乗り物
(4)耐え難きを耐えのバナナ
(5)無気魂のバナナ
=====

2008/09/01 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(1)ニューアイルランド島戦記

 父の戦地でのようすが知りたくて、ずいぶんとニューギニア戦記をさがしたのだけれど、激しい戦闘のあった地域の記録はあるのに、「捨て置かれた島、ニューアイルランド島」の戦時記録は、そう多くない。

 以下の池田充男さんの戦記は、「伏見から平和を」という平和運動のサイトから引用させていただきました。
http://homepage3.nifty.com/hushimiheiwa/gyouji/ikeda.htm

==============
「ニューアイルランド島戦記」
池田充男
(2002年当時81歳 京都市伏見区深草)

 私は一九四二年(昭和十七年)一月から長崎県佐世保の海兵団で水兵として新兵訓練を受け、同年四月から実戦に参加した。
 南はソロモン諸島のツラギ攻略戦、北はアリューシャン列島のキスカの撤退作戦と、広範囲の戦闘に参加した。その間、二度も「敵」に乗艦を沈没させられた。多くの戦死傷者を見た。

 もう乗る艦もないため、四四年、南太平洋のニューブリテン島のラバウルからニューアイルランド島のカビエン守備隊付けとして渡島した。
 カビエンに着いたとたん、アメリカ軍機の機銃掃射を受け、クモの子を散らすように逃げる。

 私たちは、円形の機銃座とヤシの丸太で囲った壕を構築して居住区とした。
 住民たちはジャングルの奥深く逃げ込んでいた。そのうち食料を食いつくした。ジャングルを切り開いてイモ畑としたり、海水をくみ、塩を作った。雑草の中で食べられるものは汁の中に入れて食べた。

 時々、アメリカ軍機がイモ畑の上空にきて急降下で機銃掃射をする。小銃での応戦では太刀打ちできない。アメリカ軍機の弾がプスプスブスブスと畑に突き刺さる。ひざをぶちぬかれ、ザクロの割れたような傷口の戦死者も出た。

 食べ物不足を補うためにカエルを大小を問わず捕ったり、スコール後にパパイアの木に集まってきたカタツムリを捕ったりした。
 しかし、やがて、兵士たちの体力は段々と失われ、あばら骨が見え出した。加えて熱帯マラリア、アミーバー赤痢、熱帯潰瘍にかかった。薬がないため、体力のないものは次々死んでいった。

 熱帯潰瘍が大きくなり、その上、マラリアにかかったりすると高熱、寒気が続き、イモさえ食べられなくなり、寝たきりの状態になり、死を待つばかりになる。
 熱帯腫瘍はカなどに刺されたりして傷口ができると段々広がってうずき、膿み、てのひらの大きさ以上にも傷口が広がる。

 私も熱帯潰瘍にかかった。看護兵が、麻酔薬なしで傷口の肉をハサミで切り取った。苦痛を通り越した治療だった。
 膿にハエが群がってうじ虫をわかせたまま死ぬ兵も多かった。生きているのにうじ虫をわかすという悲惨は戦地での極限状態に置かれ、目撃した者以外、想像もつかないだろう。 戦病死とされたこれらの兵は、こんな悲惨な死に方をして浮かばれないだろうと思う。前線でたたかった者の体験のひとこまである。
==========
<つづく>



2008/09/02
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(2)レイテ戦記

 この夏に読んだニューアイルランド島サバイバルの記録。
 連合軍の機銃掃射から逃げ回り、海岸に出れば、偵察艦隊から艦砲射撃を受ける。
 食えるものは何でも食い、海水から塩をとって暮らしていても、しだいに栄養失調で衰弱し、熱帯の病に倒れる。生きながらウジ虫に体を食い荒らされ、骨と皮ばかりになって死ぬ。

 ニューアイルランド島戦記を書き残した池田充男さんは、1921年生まれの海兵隊所属。
 1919年生まれの父が所属していた陸軍とは別の部隊と思うけれど、ニューアイルランド島での自給自足生活は似たようなものだったろうと思う。

 池田さんの戦記のほか、gooブログ「Message in a Bottle」に掲載されていた「伯父の戦記」を読んだ。
 戦友会会報に執筆したという「戦記」を、筆者の死後、介護施設職員の甥御さんがブログに転載なさったものです。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/userbbs.cgi?ppid=haruniwa&mode=comment&art_no=929388
「Message in a Bottle」 http://blog.goo.ne.jp/non_b/

 この「伯父の戦記」の中の、ニューアイルランド島上陸後の部分を、春庭bbs に引用させていただきました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/userbbs.cgi?ppid=haruniwa&mode=comment&art_no=929388

 池田充男さん、また「non_bさんの伯父さん」の記録に感謝します。

 それでも父は、ニューアイルランド島から、生きて戻った。
 ニューギニア戦線に20万人従軍して2万人のみ生還という、生存者たった1割の中に残ったのだ。

 私の叔父(母の弟)は、フィリピンの戦地から戻らなかった。

 フィリピンのジャングルの奥深く、病死体となって木の根に横たわったのか、弾にあたった「名誉の戦死」だったのか、飢えてジャングルを敗走したあげく餓死したのか。
 あるいはまた、1本のバナナをめぐって、奪い合いのあげく殺されたのか。
 叔父の骸は、白くさらされたまま、フィリピンの島の地に眠っている。

 先の大戦について書き残された作品のなかでも、私にとっては、大岡昇平の一連の従軍の記録「野火」「レイテ戦記」などが、もっとも深く心に残る作品群だ。第一級の文学作品であることだけでなく、舞台がフィリピンだからだろうと思う。

 先の戦争で亡くなった方々、家族のために国のためにと散っていった思いは、貴い。
 しかし、どのように戦局が推移したのか、事実を知れば知るほど、「なぜ、これほど無謀な戦争が実行されたのかと、驚愕する。

 軍事研究戦略研究などしたこともなく、まったく素人の私でも、戦時記録をよむと「そんな無茶な!」と叫びたくなるような戦術、作戦が続き、なんでこういう決定になるのか、という決定が次々に繰り出される。

 職業軍人なら、もう少し戦争を冷静に科学的に考えるべきだったし、「大和魂を持っていれば勝てる」「気魂で勝つ」なんてこと言い始めた時点で、軍人としての能力のなさを自覚すべきだった。
 と、いまさら言ってもおそい。彼らは職業軍人ではなくて、「特殊一神教の信者軍人」だったのだから。

 司馬遼太郎は、『私の雑記帖』の冒頭、「大正生まれの故老」に、明治の軍人と比べたときの昭和の軍人を「集団的政治発狂集団」と、断じている。戦車隊に従軍し、日本の軍部体制を身をもって経験した作家の言である。
 次回、司馬の戦車談。

<つづく>


2008/09/03
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(3)憂鬱なる乗り物

 この夏読んだ本の一冊、司馬遼太郎のエッセイ『私の雑記帖』
 この中の、「戦車・この憂鬱なる乗り物」を紹介する。
 司馬は、新聞記者として活躍した冷静な目で、自分が所属した戦車部隊と戦車の構造について書き残している。

 戦車開発について。
 戦車にもっとも必要な構造は、相手からの攻撃に耐える防御力である。しかし、軍部は、大きな砲を戦車にのせるだけで目的を果たしたと考えた。戦車らしさの見た目優先。
 戦車にもっとも必要な防御を無視し、敵の一撃で撃破されてしまうようなペナペナの車体であったのだと、司馬は記している。

 攻撃は、敵に発見される前にできるだけ。
 1度でも攻撃してしまえば、敵前から姿を隠すことはできず、敵の攻撃を防ぐ方法はない。乗員が死ぬことを前提とした戦車であったと、司馬は書いている。飛行機零戦や人間魚雷と同じ発想。

 どのような他の言説があろうと、この戦車開発一事をもってしても、日本が無謀で愚かな戦争を行ったことは明らかだ。
 味方の人的損害を最小限にとどめつつ相手に損害を与えようとするのが戦争であって、最初から味方の命を粗末にしている発想で、勝てるわけがない。

 防御第一であるべき戦車の車体をペナペナに仕上げてよしとしていた感覚で、日本の戦争指導者たちは、見かけだけ強そうなペナペナの「日本丸」を仕上げて、国民を乗せていた。国民は、見かけの立派さに歓喜の声を上げ、転覆必死とも知らず乗り込んでいた。

 司馬遼太郎は書いている。
 堅牢であるべき戦車の車体に疑問を感じてヤスリでこすってみたら、いとも簡単にヤスリですり減ってしまった。
 「日本丸」の乗組員のうち、船体をヤスリでこすって確かめようとした人も、いたことはいたのだろうが、たいていはヤスリを持ち出した時点で、逮捕拷問され死んでいった。

 愚かな戦争に粛々と殉じた人たちが、家族を思い国の将来を思っていたことは貴い事実にちがいない。しかし、死んでいった人々が、いかに高潔な純粋な心をもっていたかという一事でもって、「愚かな戦争をしてしまった」という事実を隠蔽してはならない。

 「天皇は立憲君主国の法に従って行動したのであって、立憲君主としての自己責任は果たした」という観点があることは知っている。
 昭和天皇自身、1981年の記者会見で、自分自身で決断したのは、二・二六事件の処理と敗戦受諾の2回だけで、あとは憲法の規定に従い、内閣の決定を承認しただけだ、と述べている。

 それでもなお、昭和天皇の発言や行動の記録を読むとき、積極的に戦局に関与していたこともわかる。

 たとえば、太平洋戦争開戦直後の1941年12月25日には「南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ(南洋をみてみたい。日本の領土になるのだからさしさわりはないだろう)」と、側近に語っている。(小倉庫次侍従日記より)
 その後は、南洋方面の軍事、たとえば、1942年のガダルカナル戦局に対して積極的に発言関与を繰り返した。

 軍幹部や内閣首脳に「勝てるのか」と再三の御下問があったとき、「勝てます」と答えざるを得なかったのは、天皇の希望を察知しての返答ではなかったか。
 天皇が「南洋領土」を自分自身の「希望の土地」としていたため、軍幹部は南洋からの撤退を決断することが出来なかった。
 ガダルカナルは撤退の機を失い、2万人の兵士が餓死。

 フィリピンで、ビルマで、インドネシアで、満州で、死者は増え続けた。
 南洋やインドシナで餓死した兵が出た時点、前線への補給ができなくなった時点で、すでに敗戦決定なのに、東京が空襲されても、大阪神戸が火の海になっても、「気魂があれば勝てる」と、さらなる非戦闘員の死を増やした軍部。

 私には戦争論の難しいことはわからない。
 私はただ、南の島で1本のバナナをも口にすることもできずに餓死していった兵を悼むのみ、フィリピンに眠る叔父をしのぶのみ。

<つづく>


2008/09/04
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(4)耐え難きを耐えのバナナ

 夏の読書。
 今日も、平和な時代の「4本200円のバナナ」を手に、夏の本たちをめくる。
 「無農薬樹上完熟バナナ1本1000円」には手が出せないけれど、農薬たっぷりだったのであろう4本200円のバナナでも、小腹を満たすには役立つ。
 何より皮をむく手間がいらない。読みながら食べるには一番の果物です。

 江戸城明け渡しののち、天璋院篤姫所有のミシンがどうなったのかを探るための関連読書として、榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』を読んだ。

 (天璋院篤姫が、日本で最初にミシンを所有した女性であったことを、2008/01/25のカフェ日記「日々雑記いろいろあらーな」に書いた。
 NHKの『篤姫』では、8月10日放送の桜田門外の変の放送の回で、篤姫はミシンをつかって袱紗を縫い、仇敵の井伊直弼にプレゼントしていた。
 夏休み中にレポートを4つ仕上げなければならない。そのうちのひとつが、「外来語ミシン」の成立過程をまとめる「ミシン考」という語彙論レポートなのだ。

 『徳川慶喜家の子ども部屋』の著者は、徳川慶喜の孫で、高松宮妃の妹。
 古い奥女中の昔語りを聞いた、として、ミシンの行方でも書いてないかという興味での読書だったが、ミシンについての収穫無し。
 そのかわり、戦争末期におきた「機密漏洩榊原事件」の経緯について知った。

 喜佐子の夫、榊原政春は、軍機密を書き写し、1944年の段階ですべての物資が戦争遂行するには不足し、敗戦必死状態となっていることを書き留めた。
 その情報が天皇にまで伝わり、東条英機への御下問があったため、東条は機密漏洩に激怒。榊原政春は東条の命によって憲兵に連行された。

 が、喜佐子の姉が高松宮妃であることから、高松宮が密かに背後で動き、激戦地への左遷などは免れた、と、喜佐子は戦時秘話として書き残している。
 他に記録が残されていない「秘話」なのだから、事実関係を確かめてはいないけれど、少なくとも榊原夫妻の間では、「榊原事件」が高松宮によってもみ消されたことは、暗黙の了解事項となっていた。

 東条英機は、自分にたてつく人間を片端から激戦地へ転勤させることで有名だった。
 戦後、東条ひとりが戦争責任者代表のようになり、彼を弁護する人が多くはなかったのも、権力闘争の末、権力をつかむまで、また権力者として政局トップにいる間にあまりにも多く敵をつくり、自分に刃向かう者を、「激戦地への転勤」というやり方で死に追いやっていたからだ。

 高松宮は東条英機をたいへん嫌っていた。
 細川護貞(近衞文麿元首相の秘書官・元首相細川護煕の父)が、大戦後証言した話によると、高松宮黙認を得て、東条英機暗殺計画もあったという。暗殺実施の直前、東条が辞任したため、計画のみで終わったが。

 表沙汰にされずに終わった「榊原事件」という秘話が教えるところとは、何か。
 昭和天皇は、戦争続行が不可能な状態になっていたことを、早い段階で理解していたということ。

 天皇無謬論の通説では、「天皇は国民と同じように情報を遮断された状態におかれ、軍部が大丈夫、勝てるというのを鵜呑みにしていた。天皇は何も知らされなかったのだから、責任はない」という言説が流布している。

 しかし、最近の、昭和天皇側近の日記、メモなどが相次いで発表され、明らかにされてきた事柄や、「榊原政春軍機密漏洩事件」なども考えあわせると、天皇は戦局の推移を把握していたと見るべきだ。

 ガダルカナルの2万の兵の餓死。ビルマインド戦線では無知無謀なインパール作戦によって3万の兵が餓死。
 戦死者でなく、これほど多数の「餓死者」を出した軍隊の例は、世界史上まれである。

 8月6日9日の原爆投下を受け、ようやくポツダム宣言受諾決定。
 「集まってラジオを皆でいっしょに聞いたけれど、何を言っているのかさっぱりわからなかった」と、母が語っていた終戦詔勅を、国民は頭をたれ夏の直射を受けながら聞いた。

 今まで、テレビの戦争時代のドラマなどでたびたび「耐え難きをたえ、忍びがたきをしのび~」という部分だけを聞いていたけれど、この夏、はじめて全文を聞いた。

 昭和天皇の独特の発音と、耳で聞いたのではまったく意味不明な文語文体。ききしにまさる「何言っているのかわからない」放送だ。
 「国体護持」という語だけは、はっきり聞き取れるので、「国体護持のためにみながまんしてこれからもがんばれ」という内容だ、と誤解した人がいたのもわかる。

 You Tube サイトでも、さまざまな種類の「玉音放送」を聞くことができる。
 終戦詔勅の全文と現代語訳つきのバージョンをリンク。(リンククリックすると、YouTubeトップページへ飛ぶので、下記URLをURLバーにコピペするとよい)
http://jp.youtube.com/watch?v=LSD9sOMkfOo&feature=related

 戦記を読み、玉音放送をきき、この夏は亡き人々を思うこと多かった。 
 と、いっても、私は、バナナなど食いながら、ぐうたらと寝そべって本を読み散らしているばかりなのだが、、、、、。

<つづく>


2008/09/05
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ番外読書編(5)無気魂のバナナ

 国立公文書館から、東条英機メモが発表された。
 ポツダム宣言受諾に至る背景として「国政指導者及び国民の無気魂」を挙げるなど、責任を転嫁している心境のメモである。

 「国民が無気魂だったから、戦争にまけたのだ」と、最高権力者だった者が敗戦を国民のせいにしているのを読み、唖然とした。こういう指導者に「国体護持」を吹き込まれて、多くの若者が散っていった。

 将校たち参謀幹部たちの回想録やメモが明らかにされるのを見るにつけ、国のトップたちが自らこぞって国を滅ぼすほうへ向かったのだという感を強くする。

 戦争を記録した第一級の作品のひとつ、吉田満『戦艦大和ノ最期』。
 これから先、これらの作品を読み継いでいくことが、私にできる「夏の祈り」となる。
 「大和~」の作品中、21歳になる「臼淵大尉の持論」として記録されたことば。
========
 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目ざめることが最上の道だ。
 日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか」(「作戦発動」より)
======== 

 この、死を覚悟した、わずか21歳の若者が到達した「死んでいこうとする理由」に対して、私たちは「本当に目ざめている」と、言い切れるのか。
 「ふつうの国」を待望する人々、すなわち「日本がふつうの軍隊を保有し、戦争ができるふつうの国家として再生する」ことを願う人たちに、抗することができているのか。

 戦争できることが「ふつう」というならば、私は「戦争放棄」を明記した憲法9条の「フツーじゃない」ことを誇りに思うし、「戦争放棄」こそを世界の「ふつう」にしていきたいと、願っている。

 アフガニスタンで活動していた伊藤和也さんが無惨にも殺されたあと、伊藤さんが所属していたペシャワールの会の代表中村哲医師は、「昔は日本人によい印象を持っていてくれたアフガンの人々。しかし、アフガニスタンを爆撃する米軍に日本が加担するようになってから、日本人への厳しい目が増えた。せっかくボランティアが地元に根をおろして信頼関係を築いてきても、それをぶちこわしにしてしまう」という意味の発言をしている。

 しかし、町村官房長官は、「尊い犠牲を今回、NGOの方からお1人出てしまったわけでありますけれども、そうであればあるほどですね、このテロとの戦いに日本が引き続き積極的にコミットしていく」と述べた。(2008/08/28)

 現地で活動している中村医師のことばは無視され、ますます戦争への加担を増やすという発言、これではボランティア活動は、さらに危険が増してしまうだろう。
 テロをなくすには、現地に根ざした活動が必要であり、人々の貧困をなんとかしようと農業指導をしていた伊藤さんの意志を引き継ぐことが必要だと思うのに、そのような活動への援助は考慮せず、「米軍と共同の戦いへのコミット」を積極的にするというのでは、伊藤さんの霊も悲しむだろう。

 シリーズのオチとして「よしもとばなな」読みました、と、書きたかったのだけれど、、、、。
 ばなな初期の作品はほとんど読んでいるけれど、「吉本」を「よしもと」に変えて以後の最近の作品には、とんとご無沙汰。

 「バナナを読みながら、このシリーズを終わりにする」と、オチを書けないのは残念ながら、1本50円バナナをぱくっとひとくち。

 今日もぐうたら無気魂の私が食らうバナナ。
 うん、たいしてうまくないけれど、平和の味である。
 無気魂で暮らしていても、なんとか生き延びられる。

<おわり>
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レクイエムバナナ

2008-08-14 10:03:00 | 日記
<レクイエムバナナ>
(1)南洋のバナナ
(2)バナナ甘いかすっぱいか
(3)蚊帳の中の青いバナナ
(4)戦場のバナナ
(5)ニューアイルランド島のパパイヤ
(6)ニューアイルランド島の南十字星
(7)ニューアイルランド島のエスカルゴ
(8)ニューアイルランド島のバナナ
(9)さらばラバウルよ♪のバナナ
(10)南十字星のバナナ
(11)旅立ちのバナナ
(12)南十字星のかなたへ
========
2008/08/20 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(1)南洋のバナナ

 私は、「バナナがごちそうだった世代」に属する。
 こどものころ、ラーメン1杯30円のとき、バナナは1本70円だった。
 今、ラーメン一杯700円平均としたら、バナナ1本1500円くらいに相当する。
 遠足のときと、風邪をひいてほかに何も口に入らないときしか買ってもらえなかった。

 「遠足のおやつ代50円以内、違反者のおやつは没収」なんていう決まりを、「民主的に」学級会などで決められてしまったときは、バナナはおやつなのか、昼ご飯のおかずと言えるのかを、真剣に討議した。

 バナナがおやつなら、夕食のおかず代を節約した親がやっと買ったバナナを、弁当箱の脇に入れてくれることはできない。おやつ代50円以内だと、甘いおやつは、1枚20円の板チョコと1箱10円のキャラメル、おせんべや鈴カステラを買うのはどうしようか。とにかく、バナナは買えない。

 それで、私は「バナナは果物だから、お菓子とは別だと思います。おやつには入らないと思います」派に、挙手した。たいてい負けたけど。

 父は「日本のバナナなんか、食う気がしない」と言っていた。
 父は「輸入バナナは、まだ熟さない青いうちにつみ取り、輸送船のなかで熟させているので、まずくて食べられたもんじゃない、樹の上で熟した南洋のバナナの味を知ったら、日本の輸入バナナなんて、もう一生食べなくてもいい」と、いうのだ。
 
 こんなにおいしいバナナを「まずくて食べられたもんじゃない」と父が言うからには、南洋の木でたっぷりと熟したバナナの味は、いったいどれほどの美味なのだろうかと私は夢想した。
 私にとって、南洋とは「バナナがとびきりうまい島々」だった。

 父はときどき南洋の人々ののんびりした暮らし方や、食べ物の話をしてくれた。島の椰子の木の上を渡る潮風や、まだ熟さない青いココナッツの実の中にあるジュースの話は、遠いおとぎの国の物語のようだった。ココナッツ・ジュースとは、どんな味がするもんなのだろう。

 子供たちに聞かせる話の中には、飢えた兵士たちの話や、蜘蛛でも昆虫でもカタツムリでも、あらゆるものを食べた悲惨な戦争末期の「補給が完全になくなり、食料は各部隊自給自足」とされた時期の話は、語られなかった。
 せいぜい「南洋のかたつむりは、まずい」という思い出くらい。

 父は1946年にラバウルから復員してきた。
 母は、婚期が遅れていた。兵役から無事帰還したら婚約するかもしれなかった従兄が戦死してしまったため、28歳まで親元で暮らしていた。当時、28歳は、「行き遅れ」と思われていたのだと母は話していた。

 母は見合いの席にうつむいたままお茶を運んだだけで下がり、見合い相手の顔を見ることさえできなかった。
 父は、お茶を運ぶ母を見て、「カーちゃんがいいと思うなら、ヨメにもらう」という態度だった。

 カーチャンとは、父を育ててくれた祖母くめ(私にとっては曾祖母)のこと。
 父ユキオを生んだ実母は、父が2歳のとき病没してしまっていた。父は、育ててくれた祖母くめを母親と信じて成長した。父が生まれたとき、くめさんは38歳だったから、母親と思ってもいい年齢だった。

 ユキオは、職場でもらったアイスクリームを食べず、カーチャンに食べさせたいと、持ち帰るような孝行息子だった。
 「溶けてはたいへんと、走りに走って家にもどってきたよ」と、父の法事の席での昔語り。父の叔母に当たるシモさんが話してくれた。父は子どもの頃、シモさんトリさんのふたりを姉と信じていたが、実は叔母だった。

 「ユキは学校時代足が速くて、運動会が楽しみだった」とは、シモさん(私には大叔母)の語る父の姿。「ユキは、賢くて、優しい子だった。手先が起用で何でも自分で作った」
 そんな孝行孫息子に、ヨメがきて、さあたいへんの嫁姑。

<つづく>
06:55 コメント(8) ページのトップへ
2008年08月21日


ぽかぽか春庭「バナナ甘いかすっぱいか」
2008/08/21 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(2)バナナ甘いか、すっぱいか

 母シズエは、見合い相手より自分のほうが2歳年上であることを、引け目に思っていた。
 1947年春に結婚。
 母は、年下の父に対して「行き遅れの自分を嫁にもらってくれた」と、いつも遠慮し、大姑のクメにも物言えぬ立場でいた。

 職場で1本のバナナをもらうことがあったとして、父がそれを家に持ち帰るのは、新婚ですぐに妊娠した妻のためではなく、「カーチャンに食べさせたくて」であった。
 母は、「妻より育ての母親を大事にする夫」に添いとげるために、ただ堪え忍ぶほかはなかった。「当時は、それが当然のことと思っていたから」と、母は回想していたのだけれど。

 クメばあさんと同居だったから、甘い新婚時代なんていうものはなかったし、結婚した当初は、いつも父の寝言で夜中に目覚めてしまい、恐ろしくて寝ていられなかった、と、新婚時代の思い出話を母がしてくれたことがあった。

 戦争の夢を見ているのか、突然、父は寝言で叫んだり悲鳴を上げたりしたという。
 「聞いているだけで、ほんとうに恐ろしげなようすで、どれほどつらい、悲惨なことを経験し、阿鼻叫喚のなかをくぐり抜けて日本に復員したのか、同じ戦争を体験したといっても、最前線にいた兵隊さんは、内地にいた者には語りきれない思いをしてきたのだろう」と、母は思ったそうだ。

 「戦争を知らないい子供たち」と歌われていた私たちの世代。
 私は、「戦争を体験した人は、その体験を次の世代に語り伝えるべきじゃないのか」と、母にぶつけてみたことがあった。

 母は、「私は、空襲のとき、タンスをひとりで担いで畑に逃げたことがあった。空襲がおわったあと、どうにもこうにもひとりでは担げず、みなで運んだ」というような戦争中の苦労話をよく語っていた。
 それに対して、実際に従軍した父が語らないでいることを疑問に感じたからだ。

 母は、「戦争がつらかった、と語れる人の体験は、語れるくらいのつらさなんだよ。本当に悲惨な思いをしてきたら、それを語ってしまったら、自分が壊れてしまうくらいな、つらい思い出だから、復員したあと普通に生活していこうと思ったら、語ってはいられなかったんだよ」と、私を諭した。

 「家族を背負う責任もなにもなくて、自分の身だけ心配すればいい、自分の心が壊れてしまうことがあっても、語りつくそう、というのは、子育てが終わってからでないと、話すことはできないのだろうね」と、母は父をかばった。
 父が新婚当時うなされていたことを教えてくれたのは、こんなときだった。

 父がバナナを食べないのは、「樹の上で熟したバナナじゃないとおいしくない」からじゃななくて、一本のバナナをめぐって人が争い裏切りあった、つらい時代を思い出したくなかったからかもしれない。

<つづく>
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2008年08月22日


ぽかぽか春庭「蚊帳の中の青いバナナ」
2008/08/22 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(3)蚊帳の中の青いバナナ

 母シズエは、次々と生まれた娘の世話に追われながら、姑との同居に耐えていた。姑と言っても、実際は夫の祖母。
 ユキオの生母ハンは、息子が2歳のときに病没した。

 ユキオの父親ジヘイさんは、相思相愛だった妻ハンが病気になったのは、クメばあさんの「嫁いびり」が激しかったからだと、信じていた。
 クメさんは、跡取りの長男には自分の気に入った嫁を添わせたいと思っていたのに、ジヘイはなんと恋愛結婚してしまった。ハンさんが美人であることさえも、クメさんは気にくわない。こんな顔に息子はまどわされて、、、、と、悔しくてならない。

 ジヘイさんが再婚するにあたって、後添えのキヨミさんは「姑との別居、先妻の子は姑が育てること」を条件にだした。
 クメさんは別居してユキオを育てることになった。

 クメさんは、一人っ子の家付き娘で、乳母日傘でわがままいっぱいに育ったが、婿運わるく、実家を破産させてしまった。裕福な実家を没落させてしまった負い目と、いつかはお家再興したいという思いが重なり、だれもが「こわい人」というほどのきつい性格になっていた。
 没落したのに、プライドだけは高くもっていたので、ひねくれてくるのも当然だったのかもしれない。

 ユキオとシズエの夫婦仲を心配したジヘイさんは、家を建てる土地を分けてやるからクメばあさんと別居しろと、ユキオに命じた。
 「オレとハンの二の舞にはなるな」と、ジヘイさんは言ったそうだ。

 ジヘイさんの言葉に、ユキオは、「オヤジが言うのだから、息子として言いつけを守らなければならない」という大義名分で従った。
 育ての母であるクメばあさんと別居する気になったのは、長女次女を年子で生んでしんどそうにしている妻への愛情が、育ての母への思いにまさってきたからだろう。

 シズエにとって、やっと「夫婦で語り合える暮らし」ができるようになった。
 畑の中の一軒家、新しい「坂下の家」で暮らすようになり、夏は2階の窓を開け放して風をよび、ひとつ蚊帳の中に両親と3人姉妹が仲良く並んで寝た。蛙の鳴き声が聞こえ、裏の沢から蛍が飛んできた。
 南洋のバナナの話を聞いたのは、こんなときだ。

 父は、戦争中のつらい話をすることはなかった。
 おとぎ話のような「南洋の人々の暮らし」の話はしても、「悲惨な戦争」の話は封印されたままだった。

 父の語る「ニューアイルランド島のバナナ」
 青空の中にすっくりと立つバナナの木は、南洋の風に梢をゆらしていた。
 父の話す、たわわに熟したバナナの房が、夏の蚊帳のなかに甘く香ってくるように思う頃、3人の娘たちは次々に寝付いた。

<つづく>
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2008年08月23日


ぽかぽか春庭「戦場のバナナ」
2008/08/23 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(4)戦場のバナナ

 1919年生まれの父は、1939年に応召。2.0の視力をかわれて、砲兵となって従軍した。標的との距離を目測するのに、目が悪い者では砲兵として役立たないのだという。
 砲兵は、後方から最前線の歩兵を援護射撃するのが任務だから、歩兵より生還率が高い。

 砲兵に選ばれたことは、クメばあさんにとっては誇りであり「おまえは長男なのだから、なんとしても生きて帰ってこい」と、言ってやれる出征になった。もちろん町内会総出の出征見送りでは、「お国のために手柄を立ててください」くらいのことは言ったろうが。

 満州北部の戦線にいた間は、大砲を牽かせる馬の世話が主な兵役だった。激戦地を渡り歩き、負傷した。
 内地の病院で療養し、怪我が癒えたあとは、南洋ニューアイルランド島に送られた。

 1939年から1945年まで7年間激戦地に従軍したが、父は軍人恩給の対象にならなかった。
 1920年早生まれの舅は父と同学年。中国山東省の安全な駐屯地で「計算係」として後方勤務をしていた舅には恩給がでていた。

 恩給には複雑な計算方法があるらしい。
 恩給計算方法では、激戦地での従軍は3倍カウントとなるため、7年間の従軍は加算の年計算を加えれば、最低12年必要という下士官の恩給受給必要年に足りるはず。しかし、内地での戦傷療養期間は年金年数計算外とされ、計算上わずか1ヶ月か2ヶ月分足りないことになったのだそう。
 父は「命があっただけもうけもの」というのだが、不公平な気がする。
 
 舅は、山東省駐屯地の周辺のスケッチを戦地から持ち帰ってきた。
 スケッチを楽しむくらい余裕のある勤務だった舅には恩給が支給され、補給の絶えた激戦地で飢えに苦しんだ父には恩給無し。舅は82歳でなくなるまで、戦友会出席を楽しみのひとつにしていた。

 戦傷治療と療養期間を兵役と見なさないというのは理不尽に思える。しかし、日本兵として長期間従軍させたあげく、「旧植民地出身者は、日本国籍を失ったので、軍人恩給を出さない」というさらに理不尽なことを決める国家であるのだから、戦傷者を遇さないくらいは当然なのだろう。

 ニューアイルランド島は、ニューギニア戦線の東端。激戦地ニューブリテン島ラバウルの隣に位置する島。
 砲兵といっても、島に上陸したところで大砲の弾もない。食料もなく、自給自足の食料調達がほとんどの「任務」となった。

 父が語ったほんのわずかな言葉をヒントに、ニューギニア戦記などを読んで、私が知った「戦場のバナナ」。

 父が行かされたニューギニア戦線。
 20万人が従軍し、生還者はたった1割の2万人。

 ニューギニア本島でも、ニューブリテン島でも、激しい戦闘があり、悲惨な死が続いた。
 1942年1月23日に、海軍陸戦隊はニューアイルランド島カビエンに上陸。父たちの陸軍部隊が上陸したのは、このあとだろう。

 カビエンは、最前線であるラバウル(ニューブリテン島)の後方で、補給路の確保をはかるための軍港だった。
 しかし、すぐに補給路は断たれ、兵たちは飢えの中に放り込まれた。

 島にはバナナが実っていたが、木の一本一本にはきちんと現地の所有者がいた。

<つづく>
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2008年08月24日


ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島のパパイヤ」
2008/08/24 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(5)ニューアイルランド島のパパイア

 ニューアイルランド島には、オーストラリア人の入植者が居住しており、コプラプランテーションなどを経営していた。
 海軍陸戦隊上陸後、残留オーストラリア人のほとんどが、「討伐」の対象となった。

 討伐を命令したのは海軍田村劉吉少将であるが、上官の命令は「天皇の命令」であり、兵士はどのような命令にも従わなければならない。
 捕虜となった23人のオーストラリア人は、田村劉吉少将の命令によって処刑された。 戦後、ジュネーブ協定違反で田村少将は戦犯となった。

 父が所属していた陸軍は、討伐を命ぜられた海軍陸戦隊とは別の部隊であるけれど、カビエン上陸時に行われた「オーストラリア人討伐」について、見聞きしたことはあるに違いない。父が決してニューアイルランド島の闘いについて語らなかったことの理由のひとつは、このことにあるのではないかと思う。

 もし、誰かが語れば、命令されたので仕方なくオーストラリア人討伐や処刑に従った兵士も、BC級戦犯として裁かれる結果となっただろう。
 命じられて仕方なく加担した捕虜処刑の罪により、戦犯となり死刑に処せられた『私は貝になりたい』というドラマは、戦場の各地にあった話のひとつなのだ。

 父は、下士官だった。砲兵の父に、大砲の弾ひとつもなし。父のニューアイルランド島での任務は、食料さがし。
 1本のバナナの木を見つけたら、その木をどうやって守り、飢えた部下たちに分けるか考えなければならない。父の性格から想像すると、父は誠実に几帳面に食料を分けようとしたのだと思う。

 しかし、飢えた将兵によって、父は裏切られ続けた。
 体力の落ちた兵士に与えたくても、上官が命令すれば、すべてを上官に差し出さなければならない。上官の命令は天皇陛下の命令であるのだから。

 父が語らなかった戦場での人間の姿。
 ネットに公開されていたある「ニューアイルランド島カビエン駐屯の記録」を読んだ。海軍航空隊に所属していた兵士の「戦記」である。

 海軍兵士がジャングルの中で見つけた一本の熟したパパイアの木。
 それをだれにも知らせず、自分だけで秘密の食料にして生き延びることができた、とその記録には書かれていた。
 周辺の島では、食糧不足のあまり人肉食さえ発生しているというなかで、ひとり生き延びようとした人がいたとしても、責められはしないと思う。

 父の周辺にも、このネットの記録と同様のことが起こり、父は人間不信に陥っていったのではなかったと想像する。どれほど飢えても、父は食べ物を戦友に分ける。しかし、戦友は、自分が見つけた食べ物を独り占めして隠していた。
 父は、島での従軍の間に「人間不信」を身につけた。

<つづく>
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2008年08月25日


ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島の南十字星」
2008/08/25 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(6)ニューアイルランド島の南十字星

 海岸では貝や魚を調達できるけれど、浜辺に出れば、連合軍機銃掃射の標的になる。攻撃をさけ、標高2150mのランベル山も見えない昼なお暗いジャングルをさまよいながら、自給自足生活を続ける。
 野草、木の根、虫、何でも食べた。

 連合軍戦艦から島へ向けての砲撃や、食料を探してさまよう日本兵の上に降りそそぐ、機銃掃射の鉄の雨。
 補給が途絶えた孤立の島で飢える兵たち。
 熱帯の病に衰弱し、生きながら体中に蛆をわかして死んでいく仲間の姿。やっと見つけた食料をめぐって争う仲間の姿。

 ニューアイルランド島は、当初は連合軍の激しい攻撃を受けた。しかし、戦争後半になって、ニューギニア海域の制海権をにぎって以後、連合軍は兵力の無駄な損耗を防ぐために、ニューアイルランド島に上陸することを放棄した。

 アメリカ軍にとって、トラック島後方のグアム島、硫黄島攻略を行い、補給路を断つという戦術のほうが、はるかに有益だったからだ。
 サイパン島、テニアン島など南洋の島々の部隊が、次々に全滅玉砕していくなか、ニューアイルランド島は、「戦略的価値なし」と、捨て置かれた。

 連合軍の「上陸放棄」のため、ニューアイルランド島への爆撃は減り、軍港カビエンは、硫黄島のような凄惨な陸上作戦が行われること無く、終戦時まで日本軍将兵が自給自足を続けることができた。

 父の部隊が駐屯したのがニューアイルランド島であったのは、玉砕の島に比べれば、まだしも幸運だったのだと言える。
 夜、南十字星を見上げ、「生きて帰れ」と、こっそり耳打ちしたカーチャンのことばを思い出しながら、飢えた身を横たえる。朝、「ああ、まだ生きている」と思いながら目ざめる。

 1944年の夏、グアム島の闘いに連合軍が勝利した。
 連合軍すなわち米軍はグアムに集結し、日本本土空襲を始めた。
 グアム島から出撃した飛行機による本土攻撃が行われるようになってから、ニューアイルランド島への艦砲射撃が減り、偵察艦隊の砲撃があるだけになった。

 戦争末期に、ニューギニアの島々では兵に「分散自活体制」を命じた。
 つまり、「めいめい、自分の生き死に勝手にせえ」作戦になったのだ。
 兵士は、島の人々と物々交換で食べ物を得ることも、それぞれの裁量で行えるようになった。

 ニューアイルランド島への艦砲射撃が少なくなったので、夜目にまぎれて海岸で魚や貝を捕ることも出来るようになった。
 物々交換で手に入れた食料を、上官に取り上げられることも少なくなった。いやな上官からは「分散」してしまえばよいのだから。

<つづく>
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2008年08月26日


ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島のエスカルゴ」
2008/08/26 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(7)ニューアイルランド島のエスカルゴ

 「分散自活体制」下で、だれもがまず、ジャングルの中に空き地を開き、畑を耕して芋を作った。落とし穴や罠での「野豚狩り」に成功する者もいた。

 父は出征前勤め人だったが、自家用の畑仕事は手伝っていたから、芋や野菜を作ることは出来た。しかし、都会出身の者には、栄養失調の体で土を掘り起こすだけで体力を消耗してしまう者もいた。

 父が語った数少ない戦地体験記のひとつに「南洋のかたつむりは不味い」という思い出がある。
 南洋の食べ物のなかで、バナナは「うまい」と言っていたのに、「どれほど空腹であっても、かたつむりはまずい」と話していた。

 かたつむりは、ときに大発生した。
 兵たちが空からの機銃掃射の危険をかいくぐって耕した収穫間近の芋や菜っぱを、畑一面を埋め尽くすようなかたつむりが、食い荒らす。

 バケツいっぱいのカタツムリを、ゆでて食う。同じかたつむりとは言っても、フランス料理のエスカルゴとはおおちがい。
 せっかくの芋を台無しにするかたつむりは、貴重なタンパク源と思っても、憎さ倍増で不味く思えたのかもしれない。

 日本軍は、1942~43年、ガダルカナル島で大敗。作戦のまずさからつぎつぎに兵士を損耗し、なおも兵を投入して2万の兵をむざむざと餓死させた。
 戦闘による死者よりも餓死者(戦病死といわれている兵士も、つまるところは栄養失調からの発病)が多いというのは、もはやこれは戦争ではない。補給を得られない軍隊はもはや軍隊ではない。

 戦争とは、直接の戦闘のみが問題なのではない。兵站(補給線)を確保すること、人員の無駄な損耗を防ぐことがなにより必要なのだ。
 自軍の兵を2万人も餓死させた時点で、敗戦確実であり、降伏和平への道を探すべきであったが、ガダルカナル敗戦ののち、さらに2年戦争は続き、死者を増やした。

 軍幹部にとって、人員の無駄な損傷など何ほどのこともなかった。兵士は「一銭五厘」の葉書一枚(赤紙=召集令状)でいくらでも代わりがくる「消耗品」扱いだった。
 軍中枢トップは、熾烈な権力争いを続けており、南方の兵が何万死のうと、己の権力拡大が最重要事項だった。

 中国15年戦争や太平洋戦争への歴史的評価についてさまざまな論評があろうとも、最低限これだけは言えるのは、1941年以後の死者は、「兵站確保できなかったら敗戦」という戦争の常識をわきまえなかった軍部によって殺されたのだということ。
 近代戦においては常識はずれの「兵站なしの戦争」を行った軍人たちによって、日本は泥沼の深みにはまっていった。

 それから見ると、ニューアイルランド島上陸をさっさと放棄した連合軍は、合理的な判断をしていると思う。

<つづく>
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2008年08月27日


ぽかぽか春庭「ニューアイルランド島のバナナ」
2008/08/27 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(8)ニューアイルランド島のバナナ

 砲撃が少なくなったニューアイルランド島だからこそ、畑を耕すこともできたが、他の島では「人肉」しか食料がない、という事態もあらわれた。

 ガダルカナル島が「ガ島」と呼ばれたのは、単に短く縮めた略称だからではなく、「餓島」だったからだ。
 「餓死の島」の兵士たちは、自分たちと違う部隊の日本兵に出くわすことをおそれるようになった。相手は、人肉を求めているのかもしれないから。

 顔見知りの兵士以外には心許さぬこと、これが生き延びるための鉄則となり、人を信じないことが生還への可能性を広げた。

 ニューアイルランド島の「分散自給体制」
 この「分散自活体制」の命令は、自給自足を行い得る兵士にとっては、命拾いの期間となった。

 「軍靴の靴ひも一本とて天皇陛下の命と思い大切にせよ。勝手に使ってはイカン」と命じられていたのが、「もう、軍は兵士の補給に関わることをいっさい放棄し、少人数の分散体制にするから、それぞれ勝手に食料を得て、生きるも死ぬも好きにしなさい」ということになった。

 無理矢理に現地人の食料を奪おうとして、逆に襲撃され命を落とす兵士もいたし、現地の人と良好な関係を作ることができ、生還できた者もいた。

 父が「南洋の島の人たちの、のんびりした暮らしを見た」というのは、1945年夏までの、「分散自活体制」下でのこと。
 父は、現地の人と良好な関係を作ることができた。

 軍帽も背嚢も食べ物と交換した。かわりに、器用な父は草やつるで菅笠を編んでかぶり、しょい籠(背負い籠)を作って荷を入れた。
 ナイフ一本針ひとつ残しておけば、何でも自分で作ることができた。父は裁縫でも編み物でも大工仕事でも、何でもできた人だった。

 軍服のボタン1個でも、バナナ大房と交換できる。かわりのボタンは、木を削って自分で作ればいいのだ。
 空腹というより、餓死寸前の体に、バナナはどれほどうまかったことだろう。

 父がそのままニューアイルランド島で暮らしたら、終戦後もグアム島のジャングルで28年を過ごした横井庄一さんのようになったのかもしれない。

 1945年夏、父の部隊は捕虜となり、ラバウルの収容所に集められた。収容所もまた、人が裏切りあう場だった。

 「死しても天皇陛下に忠義をつくせ」と語っていた将校が、捕虜収容所では、たちまちアメリカ軍将校にすりよる。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」と言っていた人が、少しでも多くの配給品を得ようとして争う。変わり果てていく将兵の姿を見て、父はますます人間不信になった。

<つづく>
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2008年08月28日


ぽかぽか春庭「さらばラバウルよ♪のバナナ」
2008/08/28 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(9)さらばラバウルよ♪のバナナ

 父は決して「戦友会」などには参加せず、「戦友」との個人的なつきあいもしなかった。
 戦友たちは父を慕い、毎年、年賀状をよこす人が何人もいたのに、自分からは返信せず母に代筆を命じるくらい、徹底して距離をおいていた。

 父は、「オレは自分だけを信じ、他人を信じることを二度としない」と言い、「親友など自分の人生に必要ない」と言っていた。復員後、仕事仲間とのつきあいはしたが、決して親しい友人を作らなかった。

 どれほどの目にあったのかと思う。
 職場の部下たちにも慕われ、上司の信頼が厚かった父なのに、人間への不信は胸をえぐったままだった。
 
 父は、仕事帰りに職場の人たちと居酒屋で飲んで帰るということもなく、仕事がおわればまっすぐ帰宅した。家で母の手料理をつまみながら手酌で1合だけ晩酌を楽しむ。
 毎日帰宅が早いので、母は、月に一度の句会に出かけるのも、父に遠慮しながらだった。
 
 母が句会に出かけた夜など、私と妹はふざけて「酔っぱらいごっこ」をした。妹はこれを「おっとっとごっこ」と言っていた。水を入れたとっくりを並べて、「おっとと、もう一杯」なんていいながら、お酌しあって飲み、茶碗をたたいてでたらめな歌を歌う。

 普段の夜は、三人姉妹がさわいだり口ゲンカしたりすると「やかましい。ほんとにオマエらは女三人寄ると姦しい、だな」と、小言を言っていた父も、母親がいない夜のさびしさを、でたらめ歌でさわいでこらえている幼い末娘を不憫と思うのか、「おっとっとごっこ」は、「姦しい」と言われた覚えがない。

 酔っぱらい役の私が、「♪.さらばラバールよ、また来るひぃまで~」などと、聞きかじりの歌を歌っても、もう、父が戦時中の夢を見て、夜中にうなされることもなくなってきた。

 ♪さらばラバールよ また来る日まで~、 しばし別れの 涙が滲む 恋し懐かし あの島見れば 椰子の葉陰に 十字星~」

 南洋戦線の動画つきラバウル小唄
http://jp.youtube.com/watch?v=6nctM7_FgdM
 バナナの房を前にした兵士の写真などが出てくる春日八郎の歌うラバウル小唄
 http://jp.youtube.com/watch?v=bcLzbSlE-eM

 私が「椰子の葉陰に十字星が光るのを見たいなあ。赤道の向こう側に行ってみたい」と言うと、母は、「赤道の向こうなんて遠くでなくてもいいから、お父さんと旅行してみたい。でも、お父さんは、オレは連れはいらない、一人がいちばんいいって言う人だからねぇ」と、ため息をつく。

 敗戦混乱の時期の結婚式で、文金高島田での結婚式はしたものの、新婚旅行なんてものはなかった。結婚してすぐに長女を身ごもり、年子で次女を生み、あとは子育てですごしたから、父と母がふたりで旅行したことは一度もなかった。

<つづく>
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2008年08月29日


ぽかぽか春庭「南十字星のバナナ」
2008/08/29 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(10)南十字星のバナナ

 父は、妻シズエを失ってから、20年以上のやもめ暮らしを貫いた。
 53歳で妻に死なれた父に、再婚を勧める人は多かった。しかし、「定年退職したら、旅行にも連れて行き、楽させてやりたいと思っていたのに、苦労だけさせて、何も女房に報いてやれなかったオレには、再婚の資格がない」と言い張って、三女夫婦と暮らす方を選んだ。
 入り婿のように父と同居してくれた、妹の亭主に感謝。

 私たち姉妹が育った家は、目の前にバイパス道路が建設され、「畑の中の一軒家」どころか、「バイパス沿いの家」になってしまった。
 蛍が出た裏の沢は、コンクリートで護岸されたどぶ川になり、沢で芹をとることもなくなっていた。

 田園地帯に住みたい父は、古屋をアパートに立て替えて、人に貸すことにした。
 父と妹一家は、シズエの母親(私にとっては祖母のキンばあさん)が生まれた村に、新しい住まいを建てた。

 60歳で職を退いて以後の父は、三女夫婦の間に生まれた孫娘の子守をする合間に、歴史書を読むこと、歴史散歩史跡探索の会、ゲートボールの会、ウォーキングクラブ、などを楽しんでいた。

 母が大切に育てていた家庭菜園は、アパートにしてしまった元の家の裏に残してあったので、父はその畑を引き継いで野菜作りに励んだ。

 頑固一徹の父は、よく妹と喧嘩した。喧嘩するとプイと中郷の家を出て、畑のある坂下の家にもどり、畑道具などをしまっておく物置小屋に一人で寝泊まりした。

 バナナは、長い間父にとって「二度と食べなくてもいい」食べ物だったが、このころ、ようやく父はバナナを口にするようになった。皮をむく手間もいらないバナナは、ひとりの夜を過ごすには一番手っ取り早い食べ物だった。
 3日もすると、バナナにも飽きて「畑仕事が一段落ついた」と言って、家に戻ってきた。

 美容院を経営する長女が離婚してしまったことは、父ユキオにとって唯一の心配事ではあったけれど、長女に孫が生まれ、父はひ孫の顔を見ることができた。
 次女は変わり者でケニアくんだりにひとりで出かけていき、嫁にもいけないだろうと心配したけれど、貧乏ながらがんばって娘と息子を育てている。

 私の息子は、父にとっては、6人目にして初めての男の子の孫だったので大喜びし、手作りの木馬を息子にプレゼントしたり、竹とんぼを作ったり、かわいがってくれた。ほんとうに器用で、なんでも作れる父だった。

 1994年、私が中国へ単身赴任することが決まったあと、私の娘と息子を半年預かってくれた。この時5歳だった息子が、今年は二十歳。じいちゃんに似たのか、歴史書を読むのが大好きな子に成長した。

 私たち姉妹にとっては、頑固一徹で癇癪もちの父だったけれど、娘と息子にとっては、「やさしいじいちゃん」だった。娘は「叱られたことなんかない」というので、毎日のように叱られてばかりだった私など、気が抜ける思いがするくらい。

<つづく>
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2008年08月30日


ぽかぽか春庭「旅立ちのバナナ」
2008/08/30 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(11)旅立ちのバナナ

 父は、毎年1度の検査を欠かさず、医者からは「大丈夫」と言われていた。
 1995年の秋、父は「前回の検査からまだ1年たっていないけれど、なんだか具合が悪いから、もう一度検査してもらおう」と、自分で入院を決めた。
 名医がいるところがいいと、家から車で1時間もかかる病院に入ったけれど、入院した時点ですでに手遅れになっていた。

 父は死期をさとったあとは、ほんとうに見事に死に向かっていた。
 1年前の検査できちんと診断してくれていれば、治療の方法もあったのにと、私たち姉妹は、「何も問題なし」という診断を下した医者を恨んだけれど、父は泣き言を一言もいわず、従容と死を受け入れた。

 死ぬはずだった1945年の夏から50年生き延びたのだから、もうこれで十分だという覚悟が父にできていたのだろう。
 50年前1945年の夏を思えば、1995年の夏は、父にとって、思い残すことのないひとときであったろう。

 私は土日に父のいる病院に通い、姉は美容院が定休日の火曜日。あとは妹が担当し、車で1時間の道を通った。
 他家に出した私と姉には、父は遠慮してあまりわがままを言わなかったけれど、名字は夫の名前になったとはいえ実家で同居の妹には、きついことも遠慮無しに言う。

 この夏のお盆に墓参りに帰って、妹から父が死の床で食べたがったものの話を聞いた。
 「なんでも食べたいものを言って。明日買ってくるから」と、妹が病院からの帰りぎわにたずねたら、「バナナ」と、答えたのだという。

 「バナナ」と言ったって、買ってきたバナナにぜったい「こんなんじゃない」と、言うだろうと予想して、それでも妹は、高級なほうのバナナを買って、翌日病室へ持っていった。
 案の定、ひとくち食べただけで、父は「こんなんじゃない」と、つぶやいた。

 「そんなこと言ったって、南洋の島で、木からもいで食べるバナナなんか、南洋へ行かなければ食べられないし」と、妹は言う。「第一、戦争で飢えた末に食べたバナナと同じほどおいしく食べられるバナナなんか、どこにもありゃしない」

 父が死の床で食べたがったバナナ。
 どんなごちそうよりも、空腹に耐えた末に食べた1本のバナナが、人生最上の味として脳裏に残っていたのだろう。

 満州での凍てつく寒気の中、軍馬を守りぬいた話はしたが、飢えつつニューアイルランド島のジャングルを敗走した話は、ついに語られず、父は1995年に76年の生涯を終えた。

<つづく>
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2008年08月31日


ぽかぽか春庭「南十字星のかなたへ」
2008/08/31 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムバナナ(12)南十字星のかなたへ

 今、中国15年戦争、太平洋戦争に従軍体験をした人たちが、つぎつぎと亡くなっていく。
 中国戦線、太平洋戦争に従軍した人たち、つらい記憶であろうけれど、できる限り孫や子に語るか、自分史として書き残すかしておいてほしいと思う。

 「私の体験した戦争」を語り残す運動をしているグループなども各地にあるので、ひとりでは書けないという人も、録音などの手段で、思い出す限り、断片でもいいから伝えて置いてほしい。
 時代の証言は、多数の人の声が集まるほど、後世の人が参考にできる部分も多くなるだろう。

 私は、父に戦争体験を語り継いでもらうことができなかった。
 せめて、戦争を記録した本を、読み継いでいきたいと思う。

 半月ほど、人様に読んでいただくには少々気の重い戦争話を書き続け、ようやく、父が語らなかった「ニューアイルランド戦記」について、自分なりにまとめることができたと思う。読んでくださった方々、コメントをくださった方、ありがとうございました。

 父の人生をあらためて振り返ることにもなった。
 「自分に親友など必要ない」と言った父に対して、思春期反抗期のころの私は反発し、「戦争という特殊な時期に人を信じられなくなったことがあったからと言って、それを引きずって生きることはない」と、批判をぶつけたこともあった。
 今思うと、極限の中を耐えて生き残った父に対して、思いやりのないことばだったなあと申し訳なく思う。
 
 父が生きた戦後50年について、私は「平凡な会社つとめを続け、可もなく不可もない人生。可もなく不可もない三姉妹を育てるために、一生を費やした。ほかにもっとやりたかったことはなかったのか、男の一生をかける壮大な夢を持たなかったのか」と、思ったこともあった。

 しかし、地獄をかいくぐって生還した父にとって、「平凡で穏やかな日々」こそが何より大切なかけがえのない日々だったのだ。父は父なりに、戦後の日々をせいいっぱい生ききったのだ、と、今は思う。

 いま、天にいる母と語り合いながら、父は思う存分「南洋の完熟バナナ」を食べているのだろうか。
 そのバナナ、1本を半分にわけて、シズエさんに食べさせてやりなさいね。クメおばあさんを優先したら、お母さん泣くよ。

 「男はねぇ、どんなに育ての母親を恋い慕ってたとしても、結婚したあとは妻子優先にしなくちゃね。それができないなら、女房もらうべきじゃない。結婚せずに、母親が死ぬまで孝行息子してりゃいいんだから」って、お母さん言ってたよ。

 日本からは見えない南十字星。
 自由な魂となった父は、母に、「あれが南十字星だよ」と語りかけているだろう。
 母は、はるかに遠い星たちを指さし、父と並んで見ているだろう。

現在のニューアイルランド島とニューブリテン島
http://pngtourism.jp/charm/nip/
http://pngtourism.jp/charm/enbp/

<おわり>
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レクイエムびるまの竪琴

2008-08-13 08:51:00 | 日記
2008/08/15
春庭ことばのYa!ちまた>今日の確認

『日本国憲法前文 第二段』

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

『日本国憲法第9条』

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
00:54 コメント(1) ページのトップへ
春庭「レクイエムびるまの竪琴」
2008/08/15 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(1)ビルマ

 東南アジア諸国のなかで、タイ、フィリピン、ベトナムなどに比べるとなじみのない、現在のミャンマー。ミャンマーといっても、どこにあるか思い浮かばない世代の方、ビルマではどうだろうか。
 現政権の軍事独裁政権に反対している人々は、今も自国を「ビルマ」と呼んでいる。

 寒い時、「さぶい」と言う人と「さむい」と言う人があるように、mとbは交替可能な発音であり、「ビルマ・ミャンマー」は、発音は異なっても、同じものを指し示している。「ニホン・ニッポン」のようなもの。
 英語の Burmaバーマも、中国語の緬甸(Mian diàn)も、語源は同じ。

 ミャンマーについて、日本の人に知られていることといえば、、、、
 民主化闘争のスーチーさんを弾圧し軟禁状態にしていること、2007年に軍兵士によって、ジャーナリスト長井健司さんが射殺されたこと。

 かって、ビルマという国名で日本の人が思い浮かべたことといえば、圧倒的に『ビルマの竪琴』だった。

 私は、竹山道雄の『ビルマの竪琴』を、学校図書館にあった本で読んだ。
 小学校何年生だったのか忘れたけれど、安田昌二が水島上等兵を演じた映画も見た。
 安田昌二の水島上等兵の印象が強かったせいか、市川崑監督が1985年に中井貴一を水島に起用して自らリメイクした作品を見ることはなかった。

 リメイク作品公開から後、13年後の今年、市川崑 が2008年2月13日に亡くなり、2月15日に、追悼放映された『ビルマの竪琴』を見た。

  原作者の竹山道雄は、ビルマへ行ったことも、従軍体験をしたこともない人であり、一高教授、大学教授としてドイツ文学研究などに携わってきた。

 『ビルマの竪琴』は、竹山道雄にとって唯一の「長編児童文学」であり、作者のあとがきとして「自分はビルマに行ったことがないが、復員した人の話を聞いた。ビルマに残された白骨化したままに放置されている日本軍兵士の話などをきいて、小説にしあげた」という意味のことばを書いている。

 だから、ビルマ文化のや風俗の記述において、正確な記述ではないとしても、そこを責められるべきとは思わない。
 ただ、ひとつ、決定的な問題点は、ビルマ仏教では、僧侶が音楽に携わることは戒律で禁じられており、僧衣を着たものが竪琴を鳴らすことはあり得ない、ということ。

 水島が復員兵たちに書き残した手紙によれば、部隊とのお別れの前に、水島は正式に僧侶になっている。
 日本に復員する井上部隊の兵たちにお別れを告げる水島上等兵は、「仰げば尊し」を奏でて、「帰るわけにはいかない」という心中を吐露する。

 正式な僧侶であるならば、戒律を破ることは僧をやめることになり、人前で竪琴を弾くことはあり得ない。

<つづく>
00:55 コメント(5) ページのトップへ
2008年08月16日


ぽかぽか春庭「ビルマ仏教」
2008/08/16 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(2)ビルマ仏教
 
 竹山が想像でビルマを書いたことは、小説作法として責められはしないのだが、この決定的な部分だけは、書き直したほうがよかったと思う。
 ビルマの人がこの部分を読んで感じるのは「ビルマ仏教への冒涜」になるからだ。

 映画的な脚色として、正式な僧侶になるのは、部隊と別れてから、ということにしてもよかったのだろうが、そうしていないのは、脚本家も監督も「ビルマの僧にとって、音楽は破戒である」ということを、少しも気にしていなかったから。
 1956年にはもちろん、1985年当時も、それほどビルマは日本にとって遠い存在だった。

 市川崑監督の『ビルマの竪琴』は、映画としてよくできていると思う。
 このお話では、音楽学校出身の井上隊長指導の合唱が物語の要になっている。
 また、水島上等兵の奏でる竪琴の音が、ストーリーの推進役だから、本を読んだとき以上に音楽の持つ力が身に染みた。
 それだけに、「あれでは、ビルマ仏教にとって破戒僧」という点が残念至極。

 1985年リメーク版をみたとき、1956年の映画をみたときにはわからなかったことが、いくつか、私には気になった。

 画面をみて、すぐに「あ、このロケ地はミャンマーではなくてタイだな、この石造りの寺院もタイのお寺だな」とわかった。

 2005年にタイへいき、アユタヤの寺院などを見たせいもあるだろうし、ここ数年つづけてミャンマーからの留学生を受け持ち、ミャンマーとタイの文化風俗の差について詳しくなった、という理由もあるだろう。

 たとえば、水島上等兵が僧侶になって着る僧衣は、タイ仏教式の着付け方であり、ビルマ僧の着付け方ではない。
 ミャンマーの人がみれば、「このお坊さんのふりをしている人は、タイから来たのか、それともどこかの部隊からの脱走兵なのか。少なくともビルマ人ではない」と、すぐにわかるらしい。

 すぐに脱走兵とわかる水島の僧衣であっても、食べ物を寄進するほど、ビルマの人々は深く仏教に帰依している、ということもできるし、並んで托鉢に歩くお坊さんたちがそろって「タイからやってきた、タイ式着付けのお坊さんの集団」であっても、やはり自分たちの食べ物を削ってもお坊さまたちに米でも野菜でも報謝するだろう。

 このように信心深いビルマの人々を描くにあたって、原作と映画で描き方がことなっていて、不満な点がある。

 1956年版と1985年リメーク版の両方に同じ役で出演している唯一の人、北林谷栄。
 彼女は、カタコトの日本語ができるビルマ人老婆の役で、井上部隊に野菜やバナナを運び、物々交換で靴下やナイフなど、日本製の品物と取りかえる。
 この老婆の描き方も、ビルマの人々にとっては、残念に思われる人物像なのだ。

<つづく>

23:00 コメント(3) ページのトップへ
2008年08月17日


ぽかぽか春庭「ビルマの喜捨生活」
2008/08/17 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(3)ビルマの喜捨生活

 老婆が日本兵と取りかえた日本製品は、ビルマでは高額で売れるものばかり。野菜やバナナはただ同然。交換風景だけを映画にしたなら、老婆はあこぎな商売をしているように、ビルマ人には見えてしまう。

 原作では「ビルマ人は、少しでも余裕があれば、お寺に寄進します」と書かれていて、この老婆も持ち金はお寺に寄付すると書かれている。

 しかし映画では、老婆がもうけた金をすべてお寺に寄進してしまうところは描かれていなかった。
 1956年版のは、もう細部を思い出せないので、もしかしたら、旧版にはあったのかもしれないが、1985年リメーク版では老婆の寄進シーンは、少なくともテレビ放映ではなかった。

 そうすると、老婆は、ただ金儲けのために売り買いをする、がめつい商売人に見えてしまい、やはりビルマ人からみると、「ビルマ仏教文化への侮辱」に感じられるという。
 そんな、がめつい人は、ビルマ人じゃないって思うのだって。

 商売をして儲けがでたら、自分が食べるためにとっておくほかは、寺院へ寄進する、というのがビルマ人の生き方であり、自分だけがうまいものを食べたりよい服をきたりしたところで、そんなことは軽蔑の対象になるだけで、まわりの人から尊敬されない。
 回りの人の尊敬を得られなければ、生きていても無意味であり、幸福な人生とは言えない。

 北林谷栄が演じた老婆の描かれ方は、ビルマの人々にとっては、「商売だけしているあのような人がビルマ人の代表のように思われたら恥ずかしい」と、感じてしまうらしい。
 せめて、1シーンでもいいから、老婆がお寺でお坊さんに寄進するシーンを入れて欲しかった。

 ビルマ人の生活を反映できる程度には「ビルマ仏教文化」を画面に映して欲しい。
 ビルマ人の生きかたを誤解させてしまうのであれば、せっかくビルマを舞台にした映画を撮影してはいるのに、残念なことだ。

 もちろん、ビルマ人のなかにも「ガメツイ人」「したたかな人」はいるにちがいない。しかし、ビルマ人にとって「仏教精神をもって生き、一生を利他の心ですごす」のがの自己イメージなのだ。

 異文化理解について学生に教えることも仕事の大切な一部である私にとっては、「ある国に関わる表現をするならば、その国と国民を尊び、文化や生活を尊重し、その国の人々が納得できる画面を撮影してほしい」ということが、私の願いです。

<つづく>
11:19 コメント(7) ページのトップへ
2008年08月18日


ぽかぽか春庭「王様とわたし」
2008/08/18 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(4)王様とわたし

 映画では北林谷栄が演じた「日本婆さん」について原作(新潮文庫版)では、
「このばあさんは、信心深いビルマ人の中でもことに信心深い人でした。日本軍の御用商人のようになってずいぶんもうけたはずなのに、それをみなお寺に寄付してしまって、自分はいつも貧乏でした」と、書いてある。
 映画は、この「ビルマ人婆さん」の姿を「ただのがめつい商売人」に脚色したことになる。

 竹山道雄は、巻末の「ビルマの竪琴ができるまで」に、自分がビルマの社会風俗について何も知らず、『世界地理風俗体系』や「ビルマ写真帖」を参考にした」と、述べている。

 また、1952年には、『ビルマの竪琴』英訳本を読んだビルマ人新聞記者に、「宗教関係にまちがったところがあるが、ビルマ人は宗教についてきわめて敏感だから、この本をビルマに紹介するときにはこの点に気をつけるように」といわれたと書いている。
 
 竹山自身、自分の記述に間違いが多かったと承知していたのであり、ビルマ文化ビルマ仏教について間違っている点を改める必要があることを認識していたのだ。

 原作では、水島は肩の上にオウムをのせて連れ歩いているとなっていたことについて。リメイク版の映画では、水島が連れているビルマ人少年がオウムを肩にのせて歩いていた。
 「出家者は、鳥や動物を肩にのせたりしない」という点については、ビルマ人仏教文化を考慮したことが伺える。

 「お別れの竪琴を弾くシーンのあとに得度する」という脚色をすることを、市川が考慮したのかどうか。
 そのようなことはまったく気にしなかったのか、考慮した上であえて無視したのか、私にはわからないことであるけれど、せっかくビルマと日本をつなぐ映画となる可能性があったのに、このままではビルマの人には見てもらえない映画になってしまっていることは残念です。

 その国の人に見せたら、侮辱することになってしまうという映画、たとえば『王様と私』
 タイのチュラロンコン王がモデルとなっている『王様と私』は、私も好きな映画のひとつ。ダンスシーンも楽しい。私には、ユル・ブリンナーのシャム王が印象深い。
 リメーク版の『アンナとシャム王』も作られた。

 しかし、タイの人にとって、シャム王とイギリス人家庭教師の女性がダンスを踊ることなど、とても考えられないことであり、タイ宮廷に対する侮辱、と受け取られる。
 『王様と私』『アンナとシャム王』、両作ともにタイ国内での上映は、今も禁止。

 日本人や欧米人が、「王様だって、外国人女性とダンスしたっていいじゃないの」と思うとしたら、それはただ自分たちの文化の価値観を異文化に対して押しつけているだけのこと。

 伊勢神宮のなかで、天皇が外国人女性を侍らせて、酒を飲んでどんちゃん騒ぎをし、歌って踊るシーンを含む映画が撮影されて、「これが天皇が伊勢神宮にお参りするようすです」と、外国に紹介されたとします。
 「日本人は、天皇が酒飲んで伊勢神宮のなかで歌って踊ることもあるだろうよ、と、理解を示しますか。そんなことはありえない、と思うんじゃないですか」と、タイの国王夫妻を尊敬するタイ人留学生は言う。
 「タイの王様が外国人女性とダンスを踊るのは、日本人にとっての、伊勢神宮でのどんちゃん騒ぎ、のようなものです」

 「ザ・ディ・アフター・トゥモロー」に描かれた東京市街光景のあまりのでたらめさに、これは日本をおちょくるために、わざとこれほどキッチュな風景にしているのか、と思うほどだったことについて
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/kotoba0702b.htm
に書いたのでご笑読あれ。

 ハリウッドが描くアジアやアフリカなど、偏見と独断にみちた描写ばかりであるのに比べれば、『ビルマの竪琴』に描かれたビルマは、まだしも良心的なのかもしれない。

 また、『ビルマの竪琴』は、日本で上映するための映画であり、日本人はビルマとタイの仏教の差など気にしていないから、そんな細かいところまで気にすることはない、というのも、制作側のひとつの考え方であるだろう。

 市川崑監督の作品として、画面の映像の作られ方はとてもすばらしい。それだけに、ビルマ文化をもう少し考慮した脚色があったなら、ビルマでの上映も可能になったのにと、惜しく思う。

<つづく>
00:45 コメント(2) ページのトップへ
2008年08月19日


ぽかぽか春庭「泰緬鉄道」
2008/08/19 
春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>レクイエムびるまの竪琴(4)泰緬鉄道

 『ビルマの竪琴』の映画を見た人に、東南アジアの光景の美しさに心あらわれ、音楽の美しさに心うたれる。
 景色も音楽も美しいために、よりいっそう三角山の戦闘場面のあとに残された日本人兵士の死体の山は大きな衝撃をもって受け取られたことと思う。

 しかし、日本人戦死以上に、ビルマには大きな死体の山があった。別のストーリーであるから、映画ではこちらの死については語られない。
 日本がビルマの地に強硬敷設した泰緬鉄道(タイビルマ国境鉄道)のために、タイ人18万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、マレーインド人4万人が徴用された。
 これらアジア人徴用労働者「ロームシャ」の多くが死んでいったのである。

 日本軍が徴用労働者を「労務者」と呼んだことから、インドネシア語で「Romushaロームシャ」というのは「強制労働させられる」という意味の外来語になっている。
 連合国の捕虜6万2千人も鉄道建設の労働に当てられて、うち1万2619人が死亡した。英語圏では、この鉄道は「泰緬鉄道Thai-Burma Railway 」ではなく、「死の鉄道Death Railway」という名で知られている。

 捕虜の死者数は、連合国側の調査ではっきりしているが、ロームシャの死者は、調査が行き届かず、一説では約半数が亡くなったと言われている。

 鉄道建設にあたった徴用労働者は、ひどい労働環境と栄養不足のために、コレラが流行すると半数は病死してしまったのだ。25万人の死屍累々。

 戦闘によって戦死した兵士も、死にたくて死んだのではないだろうが、強制労働につかされたあげくコレラで死ぬことになった人々も、死にたくて死んだのではない。

 この強制労働に対しても、強制ではない、労働者募集に応募してきた現地人を採用した正式な労働契約である、という説を述べる人もいる。

 沖縄戦末期の住民自害に対して「あれは、住民が自主的に死を選んだのだ。軍の命令ではない」と反論した軍関係者遺族との論争があったのと同じ経緯と私は思う。
 少なくとも、日本で、ひとつの工場に勤務する労働者の半数が死に至るような工場があったとして、その労働条件が妥当だったと言い切れる労務管理者がいるだろうか。

 「鉄道建設を行った徴用労働者=ロームシャのうち死に至った人々も、日本軍によって死に追いやられた人々だ」と私は思うし、これらの人々も供養してやらなければ、せっかくの水島の「亡き人々を弔うためにビルマに残る」という決意も、ビルマの人々の心には伝わらないだろう。

 ビルマにおける日本人戦没者数は14万人にのぼるという。しかし、その数を上回る15万人のビルマ人が、戦争のために亡くなっている。

 戦争による非戦闘員死者は、太平洋戦争でも中国戦線でも、各地に被害を広げていた。
 1938~1943年に繰り返された重慶空爆。アジアで最初の無差別爆撃であり、非戦闘員市民を巻き込んで多数の犠牲者がでた。太平洋戦争末期、米軍の空爆によって、多数の日本市民が犠牲になったことは、語り継いでいくべきと思うが、アジアで無差別空爆をはじめたのは、日本軍であることも忘れてはいけない。

 日本軍初年兵は、「度胸をつけさせる」という訓練のために、銃剣で生きている人を突き刺すよう、命令された。
 南洋の島で、補給を断たれた兵士が、飢えに耐えかねて、一本のバナナやキャッサバ芋をめぐって現地の人を殺してしまった、ということも起きた。

 私は1994年7月に、現在は博物館になっているハルピンの元七三一部隊実験室を訪問した。
 また、平頂山博物館を訪れた。平頂山にある村で、女性も赤ん坊も全員が虐殺されたときの折り重なって死んでいる死体をそのまま展示している。

平頂山事件についてウィキペディア解説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%A0%82%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

(平頂山事件について、本多勝一『中国の旅』1972などの著作を参照してください)

 広島長崎など、戦争の犠牲となった日本の方々を悼むとともに、これらのアジア全域にわたる戦争の犠牲者への思いも深くしたい。

 8月、日本の夏は死者をとむらう日々が続く。
 戦争で亡くなった人、空襲や原爆で亡くなった人を弔うと同時に、日本がアジア各地で死に至らしめた数百万人の人々にも思いをこめる夏にすべく、私は祈り続けたい。

<おわり>

もんじゃ(文蛇)の足跡:

>投稿者shimin21( 2008-08-19 06:46)
シナの傀儡のような本田勝一に平和を語る資格はないと私は思っている。問題を誇張することが本当に平和を願う態度か疑問を持っている。真実を語ることはやぶさかではない、しかし、日本が悪いことしたというだけで平和が達成できるのでしょうか・・・?>

 拙文をUPした直後のコメントをありがとうございます。はじめましてshimin21さん。
 カフェ日記タイトルをチェックし、戦争に関わりそうなタイトルがあるとすかさずコメントを入れる方々がいるのは知っておりましたが、ほんとにすばやい反応で、びっくり。

 春庭は、ただ、亡くなった方々のために祈りたいだけです。
世の中には、本多勝一が嫌いという方もいるだろうし、先の戦争について「悪いことをした」と書くことに心おだやかでない方もいるでしょう。いろいろな意見を出し合うことは必要です。

 ただ、論争したい方がいたら、ここではなく、他にサイトをたてておこなってください。
 この文章は、論争提起のためでなく、静かな祈りのために書きましたので。(2008-08-19 07:20)

simin21さんの日記冒頭にある文章
>日本の文化や歴史が占領史観によってゆがめられ、捏造されてきました。この間違った歴史観を正していく行動を国民の側から進めなければなりません。私たちはこの書き込みの中で考えを同じくする人たちがネットワークをつくり、未来の日本のために正しい文化と伝統及び歴史を広めることを心がけて行こうと思います。それには憲法を改正し、自主憲法を創ることが必要です。
人権擁護法案に反対する!
北朝鮮の日本人「拉致」をゆるすな!>

という文と、春庭の考え方が異なることは、過去ログをよんでいただければわかることなので、いくら論争しても、一致点は見いだせないでしょう。

8月15日の「確認」に書いた通り、春庭は、9条を守りたいと考える者です。

 挑発にのってあげられるほど暇でなくて、ごめんなさいね。

以後、この件に関してsimin21さんやそのお仲間さん方のコメント不要です。ご自身のサイト内で、ご自由に「間違った歴史観」を正すべく論争してください。(2008-09-19 07:40)
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写文「寝耳に水」

2008-08-12 10:52:00 | 日記
2008/01/16
ぽかぽか春庭>ことばのYa!ちまた>写文・「寝耳に水」

 ある言葉、四字熟語、詩、など読んだとき、「あ、いいな」と思ってもたいてい読みっぱなしなので、忘れてしまうことが多い。
 あとになって、あ、あの言葉、どの本の中にでていたんだっけ、と思い出したくても、もうどの本にあったのか、なんて、すっかり忘れている。

 これからは、ますます記憶力が減退する一方でしょうから、できる限り文を写しておくことにします。ネットに人様の文章を丸写しにすると、著作権だの何だのって、いろいろむずかしい問題もあるのでしょうけれど、あくまでの自分の防備録。
 著作権にひっかかるなら、削除しますので、写させてください。

『ちくま』2005年3月 表紙ウラ。吉田篤弘「という、はなし」15回「寝耳に水」のコピペ
==============
 少年期というものが、いつ終わったのか知らない。だからといって「永遠の少年」がどうのこうのと口走るのはいかがなものか。

 いつであったかはともかくとして、それは間違いなく終わってしまったはずで、無造作に押し入れへ仕舞い込んだのを「ああ、そんなものもあったっけ」と、新たに浮上した記憶も又思いこみかもしれない。

 とにかく、<少年>は挨拶もなしに去ってしまった。残されたのは体重ばかりが増えてゆく脂肪の固まりだ。それでも開き直って「少年は去ってしまったからこそ永遠なのだ」と自分なりのセリフも準備したりしてみる。

 そこへ、、、、
 「お前はさぁ」
 唯一無二の親友と言っていい男に、あるとき忠告されたのだ。
 「なんだか、足が地に着いてない感じがするよ」
 これぞ、寝耳に水。

 <少年>が去ってからというもの、三年寝たろうのように惰眠をむさぼり、みるみる重くなっていく体は、重力のきびしさばかりを味わってきた。
 重い重い。

 <少年>のころは誰よりも早く走り、身の軽さを過信したあまり、空中一回転に挑戦したこともあった。残念ながら見事に失敗して方を脱臼しただけに終わったのであるが。思えばあのとき、、、、あの空中でバランスを崩した瞬間、、、、、<少年>だけが「するり」と一回転して、我が身から抜け出たのかもしれない。

 となれば、「足が地に着いてない」のは抜け出ていった方だと言い張りたくもなるが、もとより、<少年>はうわついた浮気心で動く生き物だから、「足が着いてない」ことを揶揄されるのは、やはり残されたこちらの負担なのだろう。

 寝てばかりいた耳に歳入れられた水は、親友の言葉であるだけに詰めタック手痛かった物の、彼は思いがけぬ夭折で、言葉だけ残してさっさとあの世にいってしまった。
 「足が地に着いてないのはおまえの方じゃないか」と、ときどきいとりごとのように彼に言い返してみる。
 耳の中には、体温であたためられた水がまだゴロゴロと音をたてている。」

<おわり>
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姪の結婚

2008-08-09 16:23:00 | 日記
2008/09/25
ぽかぽか春庭やちまた日記>姪の結婚(1)車いすに寄り添って

 夫の姉の長女は、大学看護科卒業後、看護師をしています。私にとっては義理の姪。
 「車椅子の青年」と結婚することになり、6月に結婚式を行うというお知らせは、3月の法事の前に、姑から聞いていました。

 その姪から結婚式の招待状がきたのは4月。
 ぜひお祝いしたいと思って、出席すると返信しました。

 夫は「法事も結婚式も出ない」という偏屈方針の人間です。亡くなった最愛のお姉さんの長女といえども、結婚式には出席しないというのです。「自分の娘の結婚式も断固出席拒否」という偏屈もの。

 姑は6月に検査と胃の治療があり、結婚式の日は入院中でした。私が「母方の親族代理」の形で出席しようと思いました。

 ところが。
 ジューンブライドを、楽しみにしていたのに、5月20日に骨折してしまいました。
 泣き泣き這ってでも仕事に行かねばならず、心身そうとう参ってしまったので、式には欠席するというお知らせを出しました。

 「生まれつきの障害」というのが、どのようなことなのか、私は聞かされていませんが、互いに理解し合い、お相手の方と愛をはぐくんだのでしょう。
 看護師としてボランティア活動をするなかで知りあい、結婚までたどりついたふたりを式には出席できなかったけれど、遠くから祝福しました。

 おめでとうございます。
 私とおなじ年生まれのあなたのお母さんにとって、あなたはかけがえのない最初の子供でした。

 あなたのお母さんの死から8年がたちます。50歳の誕生日を目前にしての最期でした。
 ホスピスで人生最後のひとときをすごしたお母さん。
 長女として、妹弟を気遣いながらお母さんの看病に献身し、あなたは看護師をめざすようになったのでしたね。

 大学で看護学を学ぶ間、マザーテレサのいた病院をたずねて、インドへ出かけていったと聞いて、あなたの行動力にびっくりしたこともありました。
 今は、立派な看護師さんになりました。

 心から信頼できるお相手と巡り会い、こうして愛をはぐくんできたことを、お母さんは空から見守っていてくれると思います。

 末永くお幸せに。

<つづく>


2008/09/26
ぽかぽか春庭やちまた日記>姪の結婚(2)軽井沢で挙式

 8月末、姉の次女の結婚式に出席しました。
 ミクシィでの呼び名はペコです。

 私は、ぺこが3歳になるころまで、姉とひとつ屋根の下に住んでいましたので、「親戚のおばさん」というよりも「ママといっしょに子育てをしたママ代理」のつもりでいます。

 ペコは幼い頃、体が弱くて、姉がどれほど子育てに心砕いたか、姉の子育てを手伝った伯母も亡き今では、赤ん坊のころのペコの育ってきた過程を知っているのは、今や私だけです。

 私は母親を23歳で亡くしましたが、ペコも、母親を早くになくしました。
 私の姉が2002年4月になくなる少し前、ペコは、2002年1月に父親を失っています。ペコは、25歳になる直前、父と母を3ヶ月のうちにふたりともなくしてしまったのでした。

 ぺこの父親と私の姉は、ぺこが6年生のときに離婚しました。
 父方に引き取られたペコは、父親の再婚相手との仲がうまくいかず、つらい思春期をおくりました。

 このころは、「勉強をおばちゃんに教わりたいから」という名目で、しょっちゅう我が家に泊まりにきていました。勉強は口実で、息抜きがしたかったのでしょう。

 姉にとって鬼姑だった人は、結婚当初から姉と仲がよくなくて、孫娘が、ママの家に泊まりにいくのを快く思いませんでした。息子と離婚した元ヨメは、離婚したあとも憎くくてたまらなかったのかもしれません。

 姉への評価があがったのは、息子が二番目のヨメとも別れたあとになってからのこと。ふたりのヨメを比べれば、まだ最初のほうがましだったと思えるようになったのでしょう。

 しかし、なぜか私のことはずっと気に入ってくれて、ぺこが私の家にくることは許していました。
 姉にとっては鬼姑でしたが、私には親切な遠縁のおばさん、という感じでした。

 父親が再婚相手とも別れたあとは、ぺこ自身が成長したこともあって、我が家に泊まりにくることはなくなりましたが、私にとって、大切な姉の忘れ形見であることは今もかわりありません。

 そのペコが、5月には結納をすませ、8月末に結婚式をあげました。
 軽井沢に親しい友人や家族があつまっての、なごやかな式とパーティでした。 

 ペコが結婚にあたって、一番気がかりにしていたことは、おばあちゃんのこと。姉には鬼姑にあたっていた人ですが、ペコにとっては、育ての親です。
 おばあちゃんを残して結婚できないという理由で、これまで何度かあった結婚話を断ってきました。
 ペコにとっては、おばあちゃんを一人にして、遠方へ嫁ぐのは不安だったのです。

 8月に挙式したお婿さんは、「おばあちゃんと同居」という条件を承諾した人だそうです。
 親と同居ということさえ、なかなか承知してもらえない昨今なのに、長男だというのに、よくぞ「マスオさん」になることを承知してくれたと思います。

<つづく>


2008/09/27
ぽかぽか春庭やちまた日記>姪の結婚(3)祝婚歌


 8月末の軽井沢は静かで、とてもよい環境でした。
 数日間、夕方から夜にかけて激しい雷雨が続いた天候だったのですが、8月30日は、ときおり雨がぱらついただけで、フラワーシャワーもブーケトスも皆でできました。

 披露宴のお食事、おいしかった。メニューは、和風テイストのフランス料理。15000円コース。私がこれまでに食べたきた料理、コースだって5千円止まりだから、たぶん、私が一生のうちに食べた一番高い料理になったと思う。

信州サーモンの菊花和え
上田産トリュフ入り信州野菜のテリーヌモザイク仕立て
身蟹入り南禅寺蒸し
活帆立貝のカダイフ揚げ、サフランリゾット添えバジル風味
和牛ロースのシャトー仕立て
舞茸ご飯
パイナップルのムースパッションソース
パン
コーヒー

さらに、ケーキカットでふたりが分けたケーキもふるまわれ、おまけのデザートもあり、もうおなかいっぱいでした。

 結婚する若い人たち。幸福になってほしい。心から祝い、心から願っています。
 お祝いのことばのかわりに、ペコの結婚式に詩を読むつもりでした。しかし、当日、急遽飛び入りスピーチをして、「今は亡きペコの両親」について紹介しました。

 会場一同しんみりして、あれっ、めでたいお祝いの席をしめっぽくして、顰蹙だったかなと心配しましたが、ペコの親族一同には好評でした。
 ペコとその姉も「泣けた!感動」と言いました。

 お祝いに読むつもりだった詩は、「祝婚歌」という詩です。

 吉野弘(よしのひろし1926~)は、山形県酒田市生まれの詩人。
 私の舅は、山形の米沢、姑は高畠の生まれ。同じ山形でも山側の米沢地区と、海沿いの庄内地区は、江戸時代は藩が異なり、文化圏が少し異なります。でも、同じ山形出身の詩人である吉野弘の詩を、義理姪の結婚式で朗読しました。

 私が吉野弘の名に親しんだのは、合唱が好きだったゆえ。
 小学校中学校のとき、合唱部でした。渡される楽譜の、作詞者としてその名を見ていたからです。

 姪二人の結婚を祝して、吉野弘の詩『祝婚歌』を紹介します。

吉野弘(『贈る歌』花神社)より「祝婚歌」

    二人が睦まじくいるためには
    愚かでいるほうがいい
    立派すぎないほうがいい
    立派すぎることは
    長持ちしないことだと気付いているほうがいい
    完璧をめざさないほうがいい
    完璧なんて不自然なことだと
    うそぶいているほうがいい
    二人のうちどちらかが
    ふざけているほうがいい
    ずっこけているほうがいい
    互いに非難することがあっても
    非難できる資格が自分にあったかどうか
    あとで
    疑わしくなるほうがいい
    正しいことを言うときは
    少しひかえめにするほうがいい
    正しいことを言うときは
    相手を傷つけやすいものだと
    気付いているほうがいい
    立派でありたいとか
    正しくありたいとかいう
    無理な緊張には
    色目を使わず
    ゆったり ゆたかに
    光を浴びているほうがいい
    健康で 風に吹かれながら
    生きていることのなつかしさに
    ふと 胸が熱くなる
    そんな日があってもいい
    そして
    なぜ胸が熱くなるのか
    黙っていても
    二人にはわかるのであってほしい

<おわり>
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ハートでアート

2008-08-06 21:39:00 | 日記
2008/09/25
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(1)NHKハート展

 今春の3月4日、上村淳之(うえむらあつし)展を見に、日本橋三越へ行ったら、隣のフロアでNHKハート展を開催していました。

 ハート展は、心身に障害を持つ人から詩を募集し、入選した50編に、アーティスト、俳優など著名人がそれぞれに絵をつけたコラボレーション作品展です。

 私は三越で開催されていることなど少しも知らなかったので、こうして出会うのも、ご縁というものだろうと思い、ゆっくり会場をまわりました。もう買い物タイムはデパ地下の食料品あたりに集まる頃合いで、会場はそれほど人も多くなく、ゆったりと詩を読むことができました。

 カフェ友のchiruchiru77さん、すてきな詩をカフェ日記に掲載しています。去年ハート展に応募したのだけれど、結果は残念!でも、またの応募を励みにして、詩を書き続けています。

 chiruchiru77さん、車椅子生活です。今年は手術を受け、苦しくともリハビリを続け、自分自身の可能性にチャレンジしています。身体的には不自由な面が多いけれど、精神的な面では、一人息子の子育てを終えた今も、まだまだチャレンジをつづけています。

 ちるちるさんの詩を思い出しながら、会場に展示された50編の詩を読み、絵を見ていきました。
 どれも、こころの中のことばがすっと口にでてきたような、きらきらした言葉たちです。

 8歳の田上周弥さんは発達障害がありますが、外遊びが大好き。ビーズの作品をつくるのも好き。
 アーティストの山本昌美さんのコラボレート作品は、キルティング布の上に、布を切ったティアドロップスの形がたくさん貼ってありました。

「おさかなになろうねの話」(手書き文字の切れ目のとおりに改行してあります)
ママとぼくのなみだがたくさ
んたまって海になったら
いっしょにおさかなに
なって、おしりフリフリして
およごうね。

 俳優の緒方拳さんが描いた、ちょっとふとっちょの顔は三角のうなぎの絵。8歳の前田蓮さんの詩とのコラボレーションです。蓮さんは肢体障害がありますが、みんなと遊ぶのが大好きだそうです。

「うなぎちゃん」
うなぎはかわいいです。
口がにっこりしてかわいいです。
うなぎの顔は
とんがりです。
うなぎはめっちゃ
とんがりです。
 
 56歳の山本清年さんは、知的障害者。お母さんが大好きですって。
 絵描きさんの門秀彦さんの絵とのコラボレート作品です。

「くる・まいす」
おかあさん
ごはんをたべんけん
ちさくなった
いえのしたまでかいだん
ふー、おむたい
つきにいっかいのやくそく
おかあさんうえをみて
ねむる
くるまいすおす

 車椅子を、「くる・まいす」と、区切り方を変えてみると、くるくる車輪がまわっていく感じも出て、「来るmy isu」みたいにも思えて、とてもおもしろく感じました。

 詩はどれも素朴な味わいで、ひとりひとりの心のつぶやきがそのまま詩になっているように思います。
 chiruchiru77さんにプレゼントしたいと思って、普段は買わないカタログをかいました。

<つづく>
 

2008/09/26
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(2)ハートフル社員

 障害とアート表現について。
 障害をもつ人のアート作品の発表。たとえば、「アート村」の活動があります。

 パソナグループのHPより
 『 アート村プロジェクト”はパソナグループの「社会貢献」事業として、働く意欲がありながら就労が困難な障害を持った方々の“アート”(芸術活動)による就労支援を目的に、1992年に設立されました。

 以来、公募展・企画展・アート講座・及び作品展での作品販売を通して社会参加・就労支援をバックアップしています。』

 知的障害身体障害精神障害がある人など、さまざまな障害をもちつつアート制作に取り組んでいる人を援助する企業もあることを知りました。

 「ハート展」で見たコラボレーション作品のうち、内部障害をもつ中曽根千夏さん(群馬県10歳)の「うさぎとぞう」に絵を描いたのは、アート村所属アーティストの佐竹未有希さん。知的障害をもつ、「パソナハートフル」の社員で、アート制作を仕事にしています。

 すてきなことだなと思ったし、パソナという会社を見直しました。
 派遣会社というのは、どうしても「阿漕な女衒」に見えてしまうところでしたが、ハートフル社員を雇用する会社でもある、ということを知り、パソナのメセナとしては成功事例だと思います。
 
 アートを制作する側の障害者についての偏見は減ってきているのだと思いますが、では、モデルとしてはどうでしょうか。

 感じ方はそれぞれあってよいけれど、次のような「障害者モデル」についての考え方を見て、私とは異なる受け取り方だなあ、と思います。
 私にとっては受け入れがたい、悲しい見方だなあと思います。

 以下のコラムを書いた方は、自称「日本画家」です。プロフィールによると、ご自身が病気をされたことがきっかけで、絵を描きはじめたそうです。
===========
ある日本画家のブログより引用
「2007年の日展で」

 私は、少し驚いたことがある。
 彫刻の展示場で、特選に選ばれた作品についてである。
 ある青年の独特のポーズなのであるが、、そのポーズは、ある意味脳性麻痺の人間が立って歩く時に自然に出てくる仕草を木彫にしたものである。

 一昔であれば、このような木彫は敬遠されたであろうが、今の時代は特選として評価されている。
 私にとっては、実は大変不愉快な思いなのである。
 人間の病気を木彫にしたものに見えてくるのである。

 ソレを芸術まで昇華した?はたして、そうなのであろうか?う~ん・・・・ 考えすぎか?(^^;)
 しかし、見て不愉快なものには変わりは無い。(2007-09-09 10:19:51 ) 
 
<つづく>

2008/0927
ぽかぽか春庭>ハートでアート(3)泥田のにおい

 上記ブログへの読者コメント
 はじめまして
 その作品、審査の際、うちの隣に立ってましたけど、一度見たら忘れられない表情をしてましたね。
 何を意図して・・・と思いましたけれど。

 このお話から、障害を持っても力強く生き抜く・・・ という事を表現したかったのかな?とも・・・。
 それにしては、あのサブタイトルの「泥のにおい」というのは、どういう意味なんだろう?と今だに判りません。(2007-09-10 09:48:30)
================

 私は当の作品を見ていないので詳細はわかりませんが、「泥のにおい」と題された彫刻作品、モデルになっている人が脳性マヒの方であるらしい。

 歩いている脳性マヒの人の姿を彫刻作品にしたものが、このコラムを書いた日本画家さんには、「人間の病気を木彫にしたもの」に見えて、「不愉快だ」と、言っています。
 何がこの日本画家さんを不愉快にさせているのでしょう。
 この方は「人間の病気を木彫にした」と、怒っておいでだ。

 ご自身が病気をなさってから絵を始めたということなので「病気」に対して感じ方が、私とちがうのだろう。
 私は脳性麻痺生活者を「病気」とは思わない。不自由があるのはわかる。その不自由さはできる限り解消されるべきだが、不自由さとともに「脳性麻痺という個性」を生きている人と思っています。

 「美しい肢体を持つ若い女性や青年がモデルになるのとおなじくらい、脳性マヒの青年はモデルになるべきだ」と、私は思う。
 彼らの姿を「不愉快」と受け取るのも、それぞれの感じ方だと思うし、私が「ひとつの人間存在のあり方であり、人間の姿の表現のひとつ」と感じるのも、ひとつの感じ方だと思います。

 脳性マヒの青年は、じっとモデルになっていたのではないかも知れない。
 立ち上がろうとするだけでも大変だったろう。

 私がガイドヘルプをしたことのある脳性マヒのご夫妻、「立ったりすわったりするだけでも、えらいこっちゃ」とおっしゃっていた。ご夫妻、奥様は車椅子生活、ご主人は杖をたよりに歩行が可能でした。

 「半人前同士だから、ふたりでいっしょになれば一人前かと思って結婚したんだけど、ふたり合わせても一人前にはならない」と笑って、ヘルパーさんの助けを借りて、ふたり仲良くお暮らしでした。

 脳性マヒは、たしかに身体的に不自由があるけれど、彫刻作品のモデルとなって悪いわけじゃない。また、発達障害を伴う場合もあるが、すぐれた感受性や能力を発揮する人もいます。
 不自由はあっても、人間の生きているかたちのひとつにすぎない。

<つづく>
 

2008/09/28
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(4)ユニークフェイス

 私は、いわゆる「ド近眼&乱視」で分厚いレンズの眼鏡をかけています。
 2,0の視力を持つ人からみたら、「病気」の範疇かも知れない。でも、眼鏡の助けがあれば、ある程度は見えて不自由は解消される。

 もし、眼鏡をかけている「健常な目を持たない人」をモデルにしたら、この日本画家さんは「人間の不自由さを木彫にした」と、怒るでしょうか。
 脳性マヒの方の姿を「人間の病気を木彫にした」と感じるのは、脳性マヒ者の姿を「本来の人間の姿でない、美しくない」と感じるから、不愉快にお思いになるのではないか。

 この「泥のにおい」の木彫作品を作り上げた人、モデルへの愛情がなければ決して作ったりしないだろう。健常者をモデルにする以上に、たいへんな制作となるのはわかっているから。
 それをあえて作品にしたのは、脳性マヒの人がもつ身体的なダイナミズムに共感したからに違いない。

 私はダンスが好きなので、障害を持つ人のダンスパフォーマンスに注目してきました。
 身体障害がある人でも、ダンスによる身体表現で、実に生き生きとした表現力をしめす。 だから、障害があってもなくても、ダンス表現の場では同じ「表現者」であると思っています。

 2008/08/31の日本テレビ「24時間テレビ」の中で、身体や聴力に障害があるアメリカの若者4人のブレイクダンスユニットと、嵐がコラボレートしたダンスがあり、とてもよかった。
 「障害を乗り越えて」「障害にめげずに」ではなく、「障害も表現のひとつにしてダンスする」という表現力がとても心地よいダンス空間を作っていたのです。

 脳性マヒの人が木彫モデルになることで、この画家さんが「不愉快」と感じるのは、「病気の人をさらしものにしている」という意識があるからではないだろうか。そして「病気を人目にさらして不愉快」と感じるのは、脳性マヒの人を「人目にさらしてはならない、かわいそうな人」と思っているのではないか。

 障害があることによって不自由が生じるのなら、その不自由さはできる限り解消されなければならないと思います。
 ド近眼&乱視&老眼の私がなんとか不自由なく仕事をこなせるのは、眼鏡の助けがあるから。

 眼鏡をかけるのは不自由ではあるけれど、私にとって、それで「人目にさらされるのをさけたい」と思ったことはありません。
 だから、脳性麻痺の人にとっては、その不自由をできるだけ解消するお手伝いをしたいし、彼らの姿を世の中にさらすことを躊躇することもない。
 と、信じて生きてきた。ところが、、、、

 「ユニークフェイス」というNPOがある。遺伝、疾患、外傷等による見た目の問題を持つ人々を、サポートする活動を行っています。
 見た目が他の人とことなることで、外出をためらったり、人前にでることに苦痛に感じ生きづらさを感じている人たちにアドバイスし、さまざまなサポートをしています。

 顔の傷やアザを手術やメイクで目立たなくする方法を教えたり、自分自身のユニークフェイスを子供たちに見せて、子供たちに、外見が人と異なる人への接し方教えたり、ユニークフェイスの持ち主の心情を話したり、という啓蒙活動を行ったり。

<つづく>


2008/09/29
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(5)カバーマーク

 6年前に亡くなった私の姉は、腕のいい美容師でした。ヘアカットや着付けが上手なだけでなく、「オリリー・カバーマーク」という特殊メイクの技術を習得していました。
 手術しても完全には直らないやけどやアザを、メイクでうまくカバーする方法を身につけて、施術し、感謝されていました。

 姉は「顔のあざを目立たなくすることで、性格がすっかり変わったようになる人もいる。顔をじろじろ見られたり、子供から指さされてオバケの顔とまで言われたりして、人前に出たがらなかった人が、うれしそうに外出するようになる」と、仕事に誇りをもって話していました。

 そういう話をきいたとき、私は、「外見がどうだろうと、堂々と歩けるほうがほんとうなんだけど」と、姉に言ったこともありました。

 「人と同じことをしたがり、いつも群れて行動する」のが好きな人々を、批判してきた私。
 脳性麻痺の肢体をぶしつけに見られるのをいやがったり、顔の怪我などを人から見られるのがつらいという人へ、「悪いことしているんじゃないんだから、堂々と外に出ようよ」と言っていたにもかかわらず、、、、、。

 7月に、「世界が足もとから崩壊する気分」を書きました。
 私の自己イメージが崩れて、「自己イメージ私的世界崩壊」でした。
 「靴をはいていない」というだけの「一般常識とはちがう姿」をして都会の道路を歩いてみて、人から見られとき、「ジロジロ見るんじゃネーヨ!」と感じてしまった。
 何も悪いことをしていないのに、スティグマを負うて歩くような気分。

 「悪いコトして居るんじゃないのだから、堂々と歩きましょう」なんて、建前にすぎなかった。人にうさんくさい目で見られること、ほんと、いい気分ではありませんでした。
 自分自身は、たかが「靴をはいていない」程度のことでも、「人から変な目で見られる」のがいやだという事実。衝撃!

 「顔にあざがあっても、堂々と外を歩ける社会にしなければ」という私は、ただの「建前」を述べていたのにすぎなかった。
 私が「外見で人を判断したり差別することは、まちがっている」と、思っていたことは、事実だけれど、自分自身が「差別される側」には立たないまま言っているだけなら、「アフリカの飢えた子供を救おう」と活動する一方で、飢えた子供を100人救える金額の高級グルメを食べ残したりしている人の行動と変わらないではないか。

 「どのような顔や肢体でも、堂々と外を歩こう」と言っていながら、自分はじろじろ見られることがいやだ、なんて、「地球にやさしいエコ生活をしよう」と、割り箸やスーパービニール袋の使用禁止を訴えながら、エアコンかけている人と変わらないではないか。

<つづく>


2008/09/30
ぽかぽか春庭やちまた日記>ハートでアート(6)裸足で泥田を

 自分自身が、いかに「他の人と異なる様相を見せて、うさんくさい目で見られる」ことを嫌っている人間であったか、と思い知って、自分が頭で思っていた「自分自身のイメージ」が、崩壊した。

 「みんなと同じでありたい」「他人と自分とが違う部分について、あれこれ言われたくないから、多勢に同化しようとする」という日本社会の中に、自分自身がどっぷりつかっていることを思い知った、裸足の400メートル道中でした。

 外見が他の人とちがっていても、肌の色がちがっていても、靴を履いていなくても、自分は自分、と、堂々と歩ける人でありたいと思っており、そういう社会をめざす人になりたいと、もう一度確認した「裸足の400メートル」

 おのれの思想信条、肌の色、姿かたち、自己のいかなるありかたをしめしても、決してそのことによって人を差別することのない社会であってほしいと、私は、思っている。
 
 脳性麻痺によって、不自由があるなら、それを完全にとはいえなくても、できる限り不自由のない状態にまで援助することは、私たちのつとめだし、行きたいところに出かけていけるよう、手助けしたい。私はそうやって、視覚障害の方とも身体障害の方ともおつきあいしてきた。
 かれらを「かわいそうな人」とは思わない。私にない可能性をたくさんもち、私にない感受性を持っている。

 視覚障害の方は、ド近眼で乱視の私以上に不自由はあるだろうけれど、その不自由さ以外の部分では、それぞれの個性をもって生きていく人間同士。
 脳性麻痺の方は、足を怪我した私以上に不自由であるだろうけれど、その人の個性感性をもっている。

 ある人の存在のしかた、ある生き方を、「美しい」とみるか、「不愉快」とみるか、人さまざまであるのだろう。
 「泥のにおい」という木彫作品をみて、「不愉快」と感じる人がいたら、それはそういう人であるのだから、反論しても意味はないのかもしれない。

 私の、大切な友人たち。
 ひとりは視覚障害のあこさん。私に「見えない世界」「音と匂いの世界」の感じ方の豊かな感覚をおしえてくれる。
 ひとりは、脳性麻痺のちるちるさん。詩とアートのすてきなハーモニーを見せてくれる。

 私自身が「人からジロジロみられるのはイヤだ」と感じてしまう弱い人間であることを自覚しつつ、それでも「いっしょに外を歩こう、裸足で散歩しよう」と、あこさんもちるちるさんも誘いたい。

 映画『裸足で散歩』の原作『裸足で公園を』は、ニール・サイモンの戯曲作品。
 私は、『裸足で泥田を』歩いていこうと思う。

 もうずいぶん昔になる。子供同士であぜ道を歩いていた。
 田植えの泥田を見下ろし、「あんな汚い仕事をする人になりたくない」と、言った子がいた。
 私の母の実家、元は農家で、母も田植えの手伝いをしてきたから、町かたの子が田植えを見て「泥んこのきたない仕事」と言ったことにびっくりした。

 それを聞いて、「泥の中に植えなければ稲は育たないよ」と反発したのだったか、「私は泥の中で生きるよ」と言い返したのだったか、もう反論の中身は忘れてしまった。
 どちらにせよ、反論しても意味はなかったろう。泥の中で生きることが嫌いな人もいれば、泥の中でなにかをつかみ取ろうとする人もいる。それだけだ。

 私は、これまで泥んこ人生だった。不如意な人生の泥の中をはいずり回って生きてきた。
 泥のなかの私の姿をみて、汚れている、きたない、と思った人もいるだろう。

 私は泥のにおいが好きだ。
 雨上がりのどろんこ道の匂いも、田植えの前の泥田の匂いも。私がはい回っている泥んこ人生のにおいも。
 実は、自分自身だって、人からジロジロうさんくさい目で見られるのは嫌いなのだ、という弱点を自覚しつつ、私は裸足で泥田を歩いていく。

<おわり>
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私の好きな店

2008-08-04 07:30:00 | 日記
11/13 インターナショナル食べ放題>私の好きな店(1)500円ランチ
11/14 インターナショナル食べ放題>私の好きな店(2)製麺所ラーメン富士丸


2008/11/13
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>私の好きな店(1)500円ランチ

 ふだんは、外食するとき、千円以上のメニューは高いから食べない。
 では、私の外食、お気に入りはどこかというと。ワンコインランチ\500
 東京近辺でワンコインランチの情報をお持ちの方、教えてくださいね。
 私がお知らせする3店。「ポポキ」「みのや」「ちゃぶぜん」

 総武線西千葉駅前ポポキ。
 ランチ\500、ディナー\600(メニュー内容は、ランチもディナーもほとんど同じ)
 ワンプレートに山盛りのおかずとご飯、サラダ。ハワイ名物ロコモコほか、オリジナル多国籍料理。食い盛り学生向け格安ランチ。
 カウンター10席だけの店の中、ドアの外に並んで待つ人、多数。

 ポポキとは、ハワイ語で猫のこと。ドア前の猫の置物が目印。
 ご主人と奥さんが世界中を旅した記念写真が壁中にところせましと貼ってあります。

 私は、残念ながら、ポポキ夫妻のように世界中を旅行したことはない。
 でも、ここにある写真全部の国の留学生を教えてきた。私が教えた留学生の国籍は100ヶ国になる。

 ポポキ、いつも学生ですぐいっぱいになってしまうのだけど、列作って並んで食べる価値はある。なにしろ、500円。

 お次のワンコイン食堂紹介は、京浜東北線東十条駅北口階段上って20メートル。
 トンカツの「みのや」
 王子、十条、東十条界隈を紹介する番組などでは常連の店だけど、有名になっても店の人たちは淡々とトンカツをあげ、トントンとキャベツを刻んでいる。

 どんぶりの豚汁(かつおだし)と、山盛りのキャベツ。何よりもトンカツがでかい。それで、セットで500円。ランチタイムは11:00~14:00だけど、夕食タイムもまったく同
じ値段同じメニュー。
http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13008750/

 千葉駅構内(エキナカ)の一膳飯屋「ちゃぶぜん」
 おろしカツ丼580円、唐揚げ定食560円など、どれもおいしい一膳飯ですが、新聞に取り上げられて、ど~んと注文する人が増えているのが「いわし定食」

 よその店の「鰺フライ」「いわしフライ」では、開きにした鰺や鰯がフライになっていますが、ちゃぶぜんのいわしフライは、頭を落とし、骨を抜いた丸姿でフライになっています。
 太めがうれしいイワシの丸揚げがどんとふたつ。おみそ汁、佃煮、ご飯で500円。

<つづく>


2008/11/14
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>私の好きな店(2)製麺所ラーメンふじまる

 ラーメンのお気に入り店紹介。メニューは一種類のみ。チャーシュー、ラーメンの量のによって680~900円
 春庭bbs 2月14日の書き込みより。
haruniwa
 昨夜は、ラーメン食べて早寝。
 「製麺所ラーメン富士丸」というのが、私のお気に入り。

 「製麺所ラーメン二郎 マルジ」が、店名変更。昨年、わたしが中国へ行っている間に「製麺所ラーメン富士丸」になったけれど、作っている人は、私が2004年に初めて食べたときから変わっていない。(創業1994年ころらしい)

 ラーメン通の間では「二郎系」と呼ばれる種類で、豚背油たっぷりの汁にごろごろ大きなチャーシューが入り、上にもやしとキャベツのゆでたのが、富士山のように山盛りになっています。
http://r.tabelog.com/tokyo/rstdtl/13002910/

 私の注文は「麺少な目、やさいたっぷりニンニク少々」680円です。
 麺は自家製手打ちの太麺。体調がよく胃が万全の時でなければ、「緬少な目」でも完食はむずかしい。このごろは、麺半分という注文もします。これで他店のラーメンの量と同じくらい。

 私は食べ物は完食をルールにしているので、残したくないので、月に一度はたべたいけれど、実際には、季節に一度ほどの注文になっています。

 食べたあとは、ちと苦しい。おなかいっぱいだし、背油スープは年寄りの胃にはきつい。
 中年女性がひとりで食べにきているのを見たことはない。女性は男性のつれとしてくるだけ。
 だから、店長も私を覚えていて、三ヶ月に一度しか行かないのに、いすにすわると黙礼してくれる。イケメンの店長なのでちょっとうれしかったりして。

 それで、2月14日、仕事帰りにふじまるラーメンによって、完食した後、「もう、お母さんは夕食いらない。寝る」と、8時に寝てしまった。娘は私が買っておいた安売り牛肉で牛丼をつくり、弟と2人で食べたって。(2008-02-15 12:31:28)

ラーメン
haruniwa
 昨日寄ったラーメン屋にまた今日も行った。2日続けて同じ店で食べて、それでも美味いと感じるかどうかの実験のためにいったのだけれど、うまかった。
 昨日2月14は木曜日で開店と同時に入ったので、待ち時間は10分だったけれど、今日は花金で、ラーメン通オノコどもがグループでわんさか列をつくって並んでいた。

 北本通り(きたほんどおり)沿いの歩道にならぶベンチ。北本通りっつうくらいだから、道路は北へ向かって延びており、寒風ふきすさぶ。前のほう15人くらいはベンチがあるけれど、あと15人くらいは立ったまま風にさらされてまつ。

 私は列に並び初めて、すぐに後悔した。たかがラーメン一杯のために、こんな難行苦行をつむ意味が、私にはない。

 とおくからこのラーメン富士丸めあてに電車賃かけ、1週間のイベントとして来ているラーメン通若人たちには、たかがいっぱいのラーメンのために、この難行苦行をかさねることこそ、味を高める秘訣なのだろうが、私にはそんな義理はない。

 近所だから、自転車できて、食べたいときに食べればよい私には、なんで、みんなこんな寒い中、バカみたいにならんでんだよ、と思っていた。私が一番ばかだね。なぜなら私が一番年寄りだから。

 列にならんで65分。やっと店の中に入れたときは、死後硬直がはじまりそうな気配だった。

 ただし、いつも自由にこられるというわけではない。
 私自身の体調がよくて、胃がぴんぴんしていること、という条件に加えて、息子娘が外出していることという条件が加わる。

 娘と息子が家にいるときの夕食、私は外食しないでちゃんと家で食べるようにしているので。
 疑似母子家庭3人母子は、こうやって、肩寄せあって一杯のかけそばをすすってきたのだよ。(2008-02-16 01:07:47)
=============

 味の表現ができない私なので、週に三日このラーメン富士丸に通うという人の評価を見てください。
http://r.tabelog.com/tokyo/rvwdtl/411127/

<おわり>
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グルメぐりエスニック2ペルーグルジアウィグル

2008-08-03 11:24:00 | 日記
2008/09/09
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>グルメぐりエスニック2(1)ペルー料理

 甲子園の応援もちょっぴりはしたけれど、やはりこの夏は「北京奥林匹克」テレビ観戦で、ひと夏終わってしまいました。
 開会式で娘息子が興味を示したのが、国名の漢字表記。

 ハハは、ここぞと「日本語と中国語の国名漢字表記の相違」なんぞについてウンチクを語り、うるさがられれました。
 中国語国名表記を、春庭bbsにコピーしたので、ごらんあれ。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/userbbs.cgi#form

 「この204ヶ国と地域のうち半分、100の国の留学生に出会ってきたんだよ」と自慢しても、子供ら、もはや「耳タコ」で聞いてくれない。
 100ヶ国の留学生に教えてきたという以外に自慢話がないんだから、聞いておくれよぅ。

 留学生たちの食生活。
 中国の人も、韓国の人も、自分の家から馴染みの調味料を持ってきて自炊する人が多いです。他の国の人にとっても、「食事」の問題は留学生活の成否にかかわる重大事。

 留学生にとって、東京、及び東京近郊に留学して便利なこと。
 世界中のあらゆる料理が食べられる。

 自分で料理作りたくないけれど、どうしても故郷の料理が味わいたい、というとき、ネット検索すれば、たいてい自国料理の店がみつかる。
 こんなマイナーな国、地方の料理まで、と、びっくりするくらい、さまざまな料理の店があります。

 中華料理、コリアン焼肉店、インドカレーは、もはや「エスニック」の範疇に入らないほど、あたりまえの「日本の食事」になっていますが、中華、印度を含め、今年食べに出かけた都内のエスニック料理のいくつかを紹介します。

 日本語教師は、日頃留学生と接しているので、留学生の国の料理について実に豊富な情報を持っています。
 出講している大学の講師仲間、A大学でもB大学でも、学期のおわりになると、そわそわしだし、「次の打ちあげは、どこの料理がいいか」という話題で盛り上がります。
 2007年の春と夏の「打ちあげエスニックめぐり」から、何店かご紹介します。

 勤続14年になるC大の講師仲間と、五反田のペルー料理店「アルコ・イリス・ベンボス」へ。(2008/02/12)
 本厚木、川崎、大和にも、同系列店がありますが、五反田にはペルー総領事館があって、いつでも、ペルーや南米の人がいっぱい、という店。
アルコ・イリス・ベンボスを紹介しているブログ
http://e-food.jp/blog/archives/2006/09/arco_iris_bembo.html

 私たちが食べたときも、隣のテーブルは陽気なラテン系一家でした。
 オーナーは、沖縄出身でペルーへ移民し、日本に帰国して店をひらいた、というので、沖縄風麺類などもありました。

 ここに常連として通っていた同僚講師の話によると、オーナーはひとりだけれど、来るたびに毎回コックは顔がちがうので、同じメニューを頼んでも、毎回見た目も味も違う。
 ペルー料理っていっても、インカ風だったり、スペイン風だったり、沖縄風だったり、そのたびに違う、ということでした。

 セビッチェ1100円、カウカウ850円、ロモサルタード1300円 など、エスニックレストランとしては、「手頃な値段設定の家庭料理」をコンセプトにしているのだそうです。
 沖縄だかインカだかペルーだか、出身地がよくわからないカタコトのオバハンが給仕。
 肉中心のメニューでしたが、おなか一杯になりました。

<つづく>

2008/09/10
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>グルメぐりエスニック2(2)中国東北家郷料理

 中華料理はもはや「エスニック」には入らず、特にラーメン・ギョウザは「日本の国民食」。
 また、本格中華も、四川料理、上海料理、北京料理、台湾料理、主立った地方の料理が食べられます。

 でも、私が2007年に赴任した土地である中国東北料理の店というと、まだそれほど多くありません。なつかしい中国東北の味をご紹介します。

 中国東北料理専門店。池袋の「永利」http://r.gnavi.co.jp/a956000/
 2008年2月、春節祝いをかねて、ここで、講師仲間の「就職祝い」をしました。
 2007年に中国東北地方へいっしょに赴任した同僚のひとりが、A大学の専任に決まったお祝いの会です。

 なつかしい、中国東北料理を食べよう、ということで、幹事の先生のお気に入りの「永利」に決まりました。

 集まったのは、去年中国で仕事をした同僚たち。
 ダンチョー・チュンツォン先生、アグアフレスコ先生、ナンベン先生。
 ナンベン先生は、私にとっては、去年の同僚ではなく、14年前1994年に中国に赴任したときごいっしょした先生です。アグアフレスコ先生にとっては、大学院指導教官です。

 大阪からもふたりの先生が駆けつけてくれました。私とほぼ同世代の女性ふたりです。
 この、「ほぼ」同世代ってとこがビミョーで、知り合ったころは誰が一番若いか、さぐい合い。結局私が一番年上でした。クッ-。

 アグアフレスコ先生には、中国で私もとてもお世話になりました。人柄がよく、仕事にも熱心、パソコン使いも上手。ほんとうに有能な日本語教師です。
 アグアフレスコ先生は、スペイン語堪能で、メキシコとベトナムで日本語を教えた経験があります。
 2007年春に大学院修士課程を修了すると同時に、中国に赴任。

 日本に帰国するとすぐに、アグアフレスコ先生に女の子が誕生しました。奥様はカウンセラーで、共働きですが、お子さんのためにもと、専任の仕事を探していました。
 A大学では、中国からの留学生が一番多いそうで、メキシコ、ベトナムと日本語教育の場で経験を積んできたアグアフレスコ先生ですが、主として中国での教育経験をかわれての専任決定となりました。

 本人も「数年は非常勤講師として経験を積んでから専任に応募したい」と話していたので、これほど早く専任のポストが決まって、同僚たちも、大喜びのなかにもびっくりでした。
 日本語教育業界、ポストが少なくて、私を含め、非常勤講師のまま勤続するほうが多いのです。

 最近は、非常勤の口さえも「博士課程以上の学歴」を求められるようになったので、大学院修士課程を修了しただけでは、なかなか非常勤の口も厳しくなってきました。

 店内のほとんどのテーブルから中国語が聞こえてきます。私たちのテーブルのほか、日本人のグループは1組だけでした。
 中国東北家郷料理の評判は、中国の人たちにも伝わっているものとみえます。

 華やかなお祝いの食事、楽しくおいしくいただきました。
 ウェイトレスの、ぶっきらぼう、つっけんどんな物言いさえも、「ああ、なつかしい中国風」と思いましたよ。

<つづく>



2008/09/11
ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>グルメぐりエスニック(3)スウェーデン料理スモーガスボード

 8月4日、友人A子さんのご招待を受けて、はじめてスエーデン料理スモーガスボードというのを食べました。

 スモーガスボードというスエーデン語は、英語にすると「バターブレッドのテーブル」という意味。
 スウェーデン語の「パンとバター」(smorgas)と「テーブル」(bord)の合成語。

 テーブルに並べられたサンドイッチはじめ、さまざまな料理を各人が好きなだけ、食べたいだけ食べるというパーティ料理。
 そう、日本語の「和製カタカナ語」でいうところの「バイキング」のことです。
 「食べ放題(all you can eat)」は、フランス語ではビュッフェスタイル、ブッフェ、などと呼ぶ。

 スモーガスボードというなじみのない語でなく、食べ放題料理を「バイキング」と名付けたのは、帝国ホテルのシェフ。

 1957年、当時の帝国ホテル支配人の犬丸徹三が、旅行中にデンマークで「北欧の食べ放題」に出会った。パリのリッツホテルで修行していたシェフ村上信夫に、日本人にあったスタイルの料理研究を命じ、いいにくい「スモーガスボード」に代わる名称を社内公募した。
 村上と犬丸が採用したのは、1958年公開の映画『バイキング』のタイトル。
 海賊たちの豪快な食べっぷりと北欧料理のイメージがぴったり合った。

 以来、春庭の大好きな「食べ放題」は、「バイキング料理」として日本中に広まりました。和製カタカナ語のなかで、「ナイター」と並ぶヒットネーミングです。

 今回の食べ放題は、本格的なスエーデン料理スモーガスボードとしては東京唯一の「レストラン・ストックホルム」赤坂見附にあります。
http://www.stockholm.co.jp/

 友人A子さんは、私の二つ目の出身大学の同窓生。私のコラムを読んで、「同窓ですね」と、メールをくださって以来、何度かオフ会おしゃべりする機会がありました。
 今年は、4月20日に泉屋博古館で「近代日本画と洋画にみる対照の美」を見て、六本木の居酒屋さんでおしゃべりしました。その前は、白金の松岡美術館を見て、白金近辺のベトナム料理店で話し、「美術展」を見たあと食べながらおしゃべりというパターンが定着しました。

 8月04日は、レストラン・ストックホルムで思いっきり食べてから、青山のユニマット美術館で『シャガールとエコールドパリの画家たち』という展覧会を見ました。そのあと、ビールを軽く飲んでおしゃべり。

 スモーガスボード。
 「にしん」や「サーモン」などの魚介類がおいしかったです。
 お店のテーブルには、「お皿に少しずつ取り分けて、何度もお皿を換えてください。お皿の数が多いほどよい食べ方です」という「スモーガスボード食べ方指南」があったのですが、私はいつものように、「とにかく全種類を少しずつ2枚のお皿に並べる」という方式で、1時間くらいかけて2枚のお皿を平らげ、そのあとは、デザートに挑戦。
 デザートもおいしかったです。

 A子さんは、細身で私の半分も食べなかったけれど、「おいしかった。今回のお店はヒットでしたね」と、満足満腹でした。 

 翻訳者A子さんとのおしゃべりで、2006年度のピューリッツア賞受賞作、ジェラルディン・ ブルックスの小説、『March』と、2005年度全米批評家協会賞受賞のE.・L・.ドクトロウの『The March』について知りました。
 どちらも南北戦争を題材とした作品で、A子さんは、翻訳をしてみたいということでした。
 
 もりもり食べて、仕事に趣味によい時間を作っていこうと、A子さんと語り合った一日になりました。
 なんと言っても食べ放題、大好きです。

<つづく>


2008/09/12
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>グルメぐりエスニック2(4)インドカレー

 この夏、最初の大学のクラスメートK子さんと、六本木にあるインドカレーの店ラロージャに行きました。六本木ヒルズの脇、テレビ朝日通りに面しています。
 池袋にあったカレー店から移転してきたので、池袋のマンションひとり住まいのK子さんは、シェフと顔なじみです。
http://www.persia-trd.co.jp/laloggia.html

 カレーは、ランチセットCを注文。サラダ、スープ、ナン、タンドリチキン、デザートとチャイ。カレーは、豆カレー、ラムカレーを選びました。
http://www.persia-trd.co.jp/img/carry/m-05.gif

 K子さんは3月末で退職し、悠々自適の年金生活者。
 「国家公務員上級職の年金なら、一人暮らしを十分まかなえるでしょう」と、うらやましく思っていました。ワーキングプアの非常勤講師とは、同じ年月働いてきても、天地の差です。
 
 いつのも方向音痴で、私が遅れて店に到着すると、オープンテラスのテーブルには、『ローマの歴史』が広げられていました。

 春休みに、オーケストラコンサートとK子さんごひいきのデュオ「こころね」ライブを聴いて以来ですから、半年ぶりのおしゃべり。(前回のおしゃべりは、2008/04/10 と2008/04/11カフェ日記に記載)
 リタイア後の生活について、「人生の先輩」に聞きたいことがたくさんあります。
 
 週に2回英語スクールに出かけるのと、演劇鑑賞に行くほかは、家で読書三昧。
 「今まで仕事しごとで暮らしてきた反動で、今はのんびり本を読んで、家にひきこもっているの」と、K子さん。

 演劇はK子さんの「一生の趣味」
 「あなたが、チケットをドイツ語の教室に持ってきて、都合で行けなくなったから、代わりにこのチケット買ってくれない?っていうから買って見たのが、私が演劇にはまった最初なの」と、K子さんの思い出。

 「あげる」って言わないで「買って」というところが、若い頃から貧乏生活してきた私だとは思うけれど、私はぜんぜんそんなことがあったのだと覚えていない。
 それから何度かいっしょにお芝居を見て、仲良くなった。

 それまで「民芸」や「文学座」などの「新劇」になじんできた二人にとって、演劇で「ぶっとんだ」思いをしたのが、『劇的なるものをめぐって』
 当時はまだ早稲田の路地裏にあった早稲田小劇場。白石加代子の演技、本当にすごかった。
 
 私が、「この夏見たのは、劇団昴のジュリアスシーザーだけ」というと、K子さんも「あ、私も見たよ」と言う。
 K子さんは、公演のはじめのほうで、私は千秋楽の日に見たのでした。
 お互いに全然知らずに、同じ舞台を見ていたというのも、気の合う友達の証拠。

 気は合うけれど、「なんでもいっしょ」の、べったり型友情ではなく、たまに会っておしゃべりすれば、若い頃の友情がさっとよみがえるっていうのが、1970年からのおつきあいが長続きしている秘訣かな。

 読書三昧というK子さんをうらやましいなあと思いつつ、おいしいカレーを食べました。

<つづく>


2008/09/13
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>グルメぐりエスニック2(5)ウィグル料理

 埼京線南与野が最寄り駅の「シルクロード料理ムラト」
 「関東地方で唯一のウイグル料理」がキャッチコピーです。
http://r.tabelog.com/saitama/rstdtl/11002026/

 この店には、いつもひとりで行きました。
 仕事が終わって、とぼとぼと大学前からひとつ隣のバス停まで歩きます。バス停付近にムラトがありました。
 「シルクロード料理」という看板ですが、店のご主人エリさんは「新疆ウィグル」の出身。

 エリさんは、シルクロードの町カシュガルから、1997年に来日。苦学をつらぬき、白鳳大学大学院を修了しました。日本語がよくこなれていて、上手です。
 日本でビジネスを成功させたいと奮闘し、2006年に故郷ウィグル料理の店を南与野に開店しました。店の名の「ムラト」は、息子さんの名前でもあります。

 同郷ウィグルのスタッフと作るウィグル料理。
 カシュガルは、イスラム圏なので、肉は羊、鶏、牛。豚肉料理はありません。ミートパイ、シシカバブ、ラグメン(ウィグル風麺類)など、ウィグルから取り寄せたスパイスのきいた味です。

 私は仕事先から歩いて店まで行ったのだけれど、もうこの大学へは出講しなくなったので、今行こうとすると、ちょっと遠い。南与野からバスかタクシー。
 足繁く通うには辺鄙な場所にあるけれど、ビジネス意欲に燃えているエリさんなので、きっといつか駅に近い場所に支店をだすだろうと思います。

 新疆ウィグルの中心地カシュガルは、今年、激しい反政府デモが行われ、北京オリンピックの間、厳しい監視体制が敷かれました。
 55の民族が暮らす中国。チベット、ウィグルなどにはさまざまな問題があります。
 オリンピック後の中国がどのような国となるのか、新疆ウィグル出身の人々にとっても一番大きな問題です。

 オリンピック開会式で、55の民族衣装を着た子どもたちが登場しました。私はテレビを見て娘と息子に「あれ?この子どもたち、服装は各地の民族衣装だけど、顔はみんな漢族の子どもだけどなあ」と、感想を言うと、娘は「こんなハレの場所なんだから、各民族からオーディションして集めたんじゃないの?」と言ってました。

 開会式の裏話が花火CGとか、女の子の歌声口パクとか伝わるなか、私が思った通りに、民族衣装の子どもたち、各民族から集められたのではありませんでした。
 民族が融和し助け合っていくという建前と、漢族支配の本音が、この「民族衣装の子どもたち」にも表れていたと思います。

 これから先、中国が都会と地方との格差解消、民族間の融和をどのようにすすめていくのか、私にできることは何か考えながら、中国の発展そして、新疆ウィグルの平和を願っていきたいと思います。
 「ムラト」の料理も、エリさんの息子のムラト君も、明るい未来へむかっていけますように。
<つづく>


2008/09/14
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>グルメぐりエスニック2(6)グルジア料理

 2008年2月。出講している大学の講師仲間と、グルジア料理店へ。
 私にとって、二つ目の母校なので、同窓の人も多く、話がはずみました。

 吉祥寺のグルジア料理店「カフェロシアCafe RUSSIA」
http://caferussia.web.fc2.com/
 料理の写真はこちらに
http://e-food.jp/blog/archives/2007/05/_cafe_russia.html

 店の名前は「ロシア」を名乗っているけれど、グルジア料理がウリ。ロシア料理とどんなふうに違うのかなあ、という興味をもって食べましたが、基本的にはそんなに違ってはいないと思いました。

 もっとも、ロシア料理といっても、そんなにたくさん知っているわけではなく、新宿のスンガリーなどに行ったことがあるだけ。
 グルジア、ロシア、ウクライナは、ソビエト連邦成立以前にも相互に影響し合っていたので、スンガリーにもグルジア料理がメニューにありました。

 前菜が豊富で、前菜をつまみながらウォッカで話がはずみ、ボルシチやビーフストロガノフをメインにして最後をしめるっていうコースが多いんだって。
 「グルジア料理はヘルシーだ」というのは、ボリュームのある肉を中心としないで野菜たっぷりの前菜中心だからなのか、と、納得。前菜は見た目もきれいで、おいしい。

 そして、ウェイトレスの美人たち。日本語が上手な人もそうでない人もいましたが、料理を引き立てる美人さん揃いでした。ただし、ロシア人なのかグルジア人なのかは、わかりません。

 グルジアとロシアは、北京オリンピック開会式に、ねらったように軍事衝突。
 南オセチア地方の所属をめぐって、紛争が続いている地域です。

 グルジア共和国に所属する南オセチア自治州には、オセット人が約70000人が住み、自治州ではなく、共和国として独立したいと望んでいます。オセット人のほか、ロシア人グルジア人ウクライナ人アルメニア人も住み、自治州人口は10万人弱。
 
 自治州の人々のうち、大多数を占めるオセット人は、独立した南オセチア共和国となった上で、ロシア連邦に加入したいというのですが、それを認めるわけにはいかないのがグルジア。

 ことばの違い、食文化のちがい、いろいろ問題はあるでしょうが、どこの料理もおいしい。
 ロシアのことば、ロシアの食べ物、イクラだけでなく、おいしい料理が日本にも定着しています。ビーフストロガノフとかピロシキとか。
 グルジア料理も、ロシア料理もおいしい。

 9月14日初日の大相撲。
 大相撲の露鵬、白露山は、北オセチア共和国(ロシア連邦に加盟)の首都ウラジカフカスの出身。黒海や栃ノ心はグルジア出身。
 9月場所中も、故郷の紛争が気にかかっているのではないでしょうか。

 露鵬と白露山、黒海や栃ノ心の活躍を祈り、故郷の平和を願っています。

<おわり>
コメント
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