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ニーハオ春庭中国日記「大連再々」

2011-07-29 08:16:00 | 日記
2009/08/31
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再び (1)チェンジ!したい

 8月26日大連空港から帰国。
 大連空港の手荷物検査で、今度は電池とお粥缶がひっかかりました。水などのペットボトルは持ち込み禁止と知っていたのですが、お粥も?電池は六個入りのを2パックもっていたら、没収されました。なんで?係り官は「あなたの安全のために」とか日本語で言っていました。大連空港は日本人客が多いので、日本語を話せる人が受け付けにも安全検査のところにもいます。それにしても、毎回毎回、何かしら没収される。ちょっとは学びなさい、というところ。トホホ。

 帰りのフライト、大連空港は雨でしたが、日本海上空では晴れてきたので、窓側の席に移動。日本列島上空の飛行で、はじめて、空から富士山を見ました。これまで何度飛行機に乗っても、天気が悪かったり位置が富士山側の窓ではなかったりして、雲の上に頭を出す富士山を見たことがなかったのです。雲海の上に富士の姿が出ています。
 ♪頭を雲の上に出し~
 初めて見る雲上の富士、これは帰国したら何かいいことあるかな?と、思ったのですが、そう甘い富士山じゃない。

 前回7月に帰宅したあと、夫は「おかえり」でも「おつかれさん」でもなく、顔みるなり「会社の運転資金が不足。10万、ちょっとだけ貸しておいて」と、言いました。出稼ぎして家族の食い扶持をやっと稼いできたのに、それすらもはぎ取ろうとする。娘は「貸してって言っても、返してこないのだから、父にお金渡すのやめたら」と言うし、妹からは「夫を甘やかしすぎた」と、毎度非難囂々だけど、、、、。夫の「会社経営道楽」のために、私、今までどれだけ苦労してきたか、、、、、、。ギャンブル狂いやら女道楽よりマシと思ってきたのだけれど。

 いつも「忙しい」しか言わない夫。私が8月26日に帰国した夜、珍しく家族4人で外食することになりました。どこが珍しいかというと、「夫・娘・息子」の3人の外食と、「夫・姑・私・娘・息子」の5人の外食はあるのに、「夫・私・娘・息子」という4人での外出はめったにないので。

 近所の和食店で夕食をとり、さて、妻が出稼ぎした「10万、ちょっとだけ借りた」分を返すのかと思いきや「お金がないから、夕食代はそっちが支払って」という。帰国お疲れさん会の夕食は、働いて帰ってきた私のおごりになりました。
 こういう夫だっていうこと、1979年にケニアで出会って以来、わかっていたはずなのですが、、、、、トホホ。お粥の没収以上に、一生の不覚。ナイロビの町で出会ってから今年は30周年。娘は「こんな父といっしょになった母が不憫だ」と言うのです。

 まあ、無事に帰宅できたのですから、文句は言うまい。4回目、二週間の中国滞在、シンポジウムでの発表も大成功、長白山ツアーもシャンユエと遊んだのも楽しかったし。
 ショーモナイ夫がひっついている人生であっても、楽しく生きていられるのだから、よしとしましょう。、、、、。
 
 不憫な私、帰国してさっそく仕事。前期に中国へ行っていた間の授業を穴埋めしなければなりません。9月1日から、集中講義の第1陣。日本人学部生への日本語学の授業を2単位分、一日4コマ4日間続け、9月15日からは一日4コマ6日間、日本語教育学の講義4単位分を続けます。
 働き者やねぇ。そしてお金は残らない、、、、、、不憫です。
 政権担当の党は国民の意思で「チェンジ!」できるけれど、チェンジしようにもヒョータン社長のほか、私の夫に立候補する人がいなかったので、、、、チェンジしたいですが、、、、トホホ。不憫です。

<つづく>


2009/09/01
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再び(2)大連観光塔

 帰国は、大連発成田行きの飛行機でした。8月25日、同僚のリグン先生に車で宿舎から空港へ送ってもらい、中国国内便で大連へ。

 手荷物検査でひっかかり、ハサミが没収されました。ああ、いつもの失敗。大連に着いたとき、すぐ使えるように、ハサミと栓抜きを手荷物のほうに入れておいた。ハサミは開けにくい中国の袋入りの食べ物を開封するために必要。日本のように、袋に切り口がついていないので、ハサミがないととても開けにくい。歯で切って開けるはめになる。栓抜きは、まあ、栓を抜くために必要です。結局、栓を抜く必要のある飲み物は飲まなかったのですが。

 大連では、友人ハンさんの教え子が迎えてくれました。ハン先生は、一人娘のシンシンちゃんのダンス・コンテストが一泊二日で行われるため、見送りができないからと、教え子を紹介してくれたのです。教え子の田くんは、1988年生まれで、私の息子と同い年。ハンさんが教鞭をとる軟件学院(ソフトウエア学部)学生で、9月から三年生です。

 ソフトウエア学部では、一年生は日本語、二年生は英語を学びます。彼は一年生のときハン先生から日本語を習いました。今は英語学習をしているので、一年間ならった日本語を忘れかけているから、日本人と日本語を話すチャンスは自分にとってとてもありがたいと、ボランティアを引き受けてくれたのでした。

 彼の所属するソフトウエア学部は、全国の大学の中でも難関学部のひとつで、中国各地から優秀な学生が入学してきています。大連出身者で「大連にある重点大学の難関学部」に入学している人は数少ないので、田くんに「日本人ご案内」の役があたりました。
 「私は、情報の授業やプログラミングの成績はよかったですが、日本語の成績は悪かった」と、言いながらも忘れた言葉をいっしょうけんめい辞書をひきひき案内してくれました。

 ホテルに荷物を置いたあと、市内の高台にある観光塔へ登りました。高いところから市街を眺めるのが好きだと私が話していたので、ハンさんが、田さんにガイドを申しつけていたのです。田さんは「大連で生まれて大連で育って、今も大連に家があるのですが、観光塔に登ったことはありませんでした」と話していました。「観光客は登るけれど、東京人はあまり登らない東京タワー」みたいなもんでしょう。入場券はひとり50元。

 大連市の中心部にある労働公園の南側の小高い山の頂上に塔が建っています。元はテレビ塔だったのですが、今は新しいテレビ塔が建ったので、こちらは観光用になっています。登って、ぐるりと一周して市街を眺め、1元コインを入れて望遠鏡を眺めるともうすることもないので、30分もしないで、「さあ、降りましょう」となる。観光塔は、塔のてっぺんは東京タワーより高いですが、展望室は288m。
 展望室の土産物やでシルク製品を売っていたので、ネクタイをひとつ買いました。ハンさんから「学生は日本語の勉強のために案内するのだから、ボランティア」と言われていたので、お礼を現金であげる代わりに、ネクタイを買い、「お父さんへのおみやげ」ということにしました。

 塔の前から、労働公園へ降りるリフトに乗りました。一人40元。リフトで降りるほか、ロング滑り台もありました。
 タワーの写真を紹介している「看看大連」
http://www.kankandl.net/dwkanm-tv.htm
 
 労働公園をぶらぶら散歩。田さんは、子供の頃、この労働公園内の遊園地で遊ぶのが楽しみだったと話していました。
 中山広場の近くにある中山園沌品店というレストランで中華料理の夕ご飯。アワビのスープがおいしかった。二人で3菜1湯(おかず3品とスープ1品)を注文しました。

 中華料理の問題点は、どれも大皿で料理が出てくること。二人だとあまりたくさんの種類が食べられません。ちょっと量が多かったのでケチな私は高い料理を残すのにしのびず、残った分は打包(ダーパオ・テイクアウト)しました。田さんに「失礼でなかったら、家に持って帰って」と、頼むと、田さんもいやがらずにプラスチックボックスを持ってかえってくれました。

<つづく>
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2009年09月02日


ニーハオ春庭「田さんのお宅」
2009/09/02
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>大連再訪 (3)田さんのお宅
 
 大連中山広場での夕食後、ネットカフェを探してメールチェックをしようと思いましたが、ふと気づいた。中国のネットカフェでは、日本語ソフトを備えていないかもしれない。「日本語が使えるネットカフェがありますか」と、田さんにたずねると、「さあ、私はいつも自分のパソコンを使うので、ネットカフェの事情を知りません。パソコンが必要なら、私の家へ行って、うちのパソコンでメールしたらどうですか。私のは日本語が使えます」というので、お言葉に甘えることにしました。

 大連を案内してくれた田さんの家は、大連空港の北方住宅街にあり、両親と一人っ子の家族です。市内といっても、彼の在学するソフトウエア学部は、郊外の開発区にあるので、家から通学しているのではなく、授業のある平日は寮生活。週末や夏休みには実家に戻っているということです。
 両親共働きのお宅にいきなり押し掛けたら迷惑をかけるだろうと思ったのですが、彼はお父さんに電話をして、許可をもらってくれました。

 雨が降り出したため、中山広場をぶらぶらする、という夕食後の予定はキャンセルして田さんの家へ。途中で果物を買っておみやげにしました。
 田さんの家は団地の3階。お父さんの書斎、田さんの部屋、両親の寝室のほか、DKは日本式に言うと20畳くらい。急におじゃましたのに、すっきり片づいています。ご両親は飲み物や果物で歓迎してくれました。

 パソコンで「予定通り帰国」というメールをしたあと、田さんの通訳でしばらくお話をしました。お父さんのお仕事は、ドイツとの合弁会社での電車車両開発で、最新の車両を作っているのだということでした。
 中国では、同僚のリグン先生のお宅と旧友のハン先生のお宅を訪問したことがありますが、なかなか中国のふつうの人の暮らしをかいま見ることはないので、田さんのお宅を訪問できて、よかったです。

 ふつうの人と言っても、「中国新興中産階級の暮らし」という点ではリグン先生やハン先生と同じ条件です。中国13億人の暮らしの中では上層部に属する人々でしょうから、これだけで「中国のふつうの人の暮らし」といえません。
 6月に訪問した集安市郊外朝鮮族自治区の村の金希紅さんのおうちは、6畳くらいの広さの一間だけでした。でも温かい歓待の気持ちは同じ。都市の中産階級も、地方の農村の暮らしも、私には貴重な中国を知る機会となりました。
 個人のお宅を訪問できたということが、観光旅行ではできない中国を知る旅になって、私にとってはどんな名所旧跡を巡るより印象深い思い出です。

 田さんは、2008年6月にプログラミングのコンテストに初出場したのをはじめ、2009年11月にもプログラミングコンテストに参加すると言っていました。大学卒業後は大学院にすすむ希望を持っており、できれば日本へも留学してみたい、というので、日本に来たら今度は私が東京を案内します、留学中にご両親が来日したら、ご両親も案内しますよ、と約束して田さんの家から空港二階にあるホテルへ行きました。

 ホテルの部屋はちょっと古かったけれど、空港二階というのが、翌朝8:40のフライトのためには便利。
 朝、ふたたび田さんが来てくれて、チェックアウトなどの世話をしてくれました。保証金としてホテルに預けていた60元が戻されたので、タクシー代として彼に渡し、旅客ゲートへ。またまた機内持ち込み荷物検査ですったもんだやってから帰途の空へ。
 日本上空、変化はあるのか、チェンジチェンジのまっただ中に着陸しました。

 帰国して最初にしたことは、住まい(公団団地9階)の風呂場チェンジ。古くなった浴室の床の隙間から階下に水漏れしたというので、改修工事が行われました。経年変化のための改修なので、費用は公団の負担です。公団の同じ部屋に25年も住んでいるのですから、あちこちが痛み、ダメになっています。工事が終わり、床と壁が新しくチェンジ!これで水漏れも気にせずさっぱりと汚れを落とすことができます。

 浴室改修の次にした衆議院選挙では、歴史的大チェンジがありました。1955年からの体制はあちこちが痛み、ぼろぼろでしたから、ちょっとの改修工事では繕えないでしょうが、みんなで工事に参加すれば、なんとか修理もできてたまった汚れも落とすことができるでしょう。
 これから私たちの生活はどのようにチェンジしていくのでしょうか。よりよい未来に向かって歩きだし、よりよい未来が遠い頂上に思えても登り続けていきたいです。
 次回は「長白山」に登ったお話。

<おわり>
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2009年09月03日


ニーハオ春庭「」中国十大山岳・長白山」
2009/09/03
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (1)中国十大山岳・長白山

 中国と北朝鮮との国境にそびえる長白山(チャンバイシャン)、標高2,744mの火山で、北朝鮮側の呼称では白頭山です。褶曲山岳が多い中国では珍しい火山で、巨大な玄武岩質の山です。頂上には大きなカルデラ湖「天池」が満々と水をたたえています。周囲を一周すると14km、一番深いところは384mという天池を14の峰が取り囲んでいます。いつも湖には霧が降りていて、3回天池にきたけれど、3回とも天池がみられなかったという運のない人もいます。

 火山であるため、温泉もあり、国をあげて観光開発中ですが、天池のまん中が国境となっているため、入山にはいろいろな制限があります。中国と北朝鮮の国境となっている鴨緑江や豆満江は、長白山を水源としています。
 1994年の赴任のときも2007年のときも、この長白山へ行くチャンスに恵まれなかったし、2009年7月に同僚の20代の先生が参加した学生向けのツアーは、一泊二日の強行軍だったので、年寄りの体力ではついていけないだろうと判断して参加しなかった。今回こそは是非と思って、国際日本語シンポジウム参加者のために企画されていた長白山ツアーに申し込みました。二泊三日のゆっくりコースで、行きに一日、帰りに一日を要し、山歩きは中の一日です。  

 8月17日、宿泊していた5つ星ホテルを7時半に出発。(学校側が用意し、シンポジウム発表者は無料で宿泊できたので、貧乏な私、中国で初めて5つ星に宿泊した)
 行きの一日は、500km以上の道のりを延々とバスに乗り続けました。東京からの感覚でいうと、区内のホテルを出発してバスで八甲田山に着いた、というところでしょうか。夕方5時半に長白山の山中にある虎林山荘に到着。ここは3つ星ホテルです。

 翌日7時半出発。あいにくと土砂降り。山の天気は変わりやすいから、山頂では晴れる信じてバスで登山口入り口までいきました。レインコートを用意していったのですが、持っていった登山用レインコートは、リュックサックをしょって着た場合、私のおなかだと、ボタンがはまらないことが判明。息子が中学校の登山で買ったけど一度も使うチャンスがなかったというレインコートを試着して「うん、着られるから、借りるね」と言ったときは、そうだ、リュックサックは背負っていなかった。しかたがないから、20元だしてビニールレインコートとビニールのレインパンツを買いました。これって、市内のスーパーだとセットで10元なんだけどね。

 登山口で、政府観光局が経営している登山バスに乗り換えます。この登山バスと天地の見える頂上へ向かうジープの乗車券は入山券をかねていて、180元です。北朝鮮との国境問題があるので、自由に山中を歩くことは禁止されていて、決められたコースを歩くことになっています。2009年7月に長白山に植物採集のために入り、決められたコースをはずれてしまった大学生は、行方不明となったままです。国境を踏み越えてしまい、山中で拉致されたのではないか、という噂です。

 最初の目的地は長白瀑布見学。天池の北側から発する川が落差70mの滝となって流れ落ちています。ただし、滝壺へは危険防止のため近づくことができず、下流から記念写真を撮って終わり。雨の中、レインコートとフードで、誰がだれだかよくわからない写真を撮りましたが、滝が写っていたのでよしとしましょう。

<つづく>
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2009年09月04日


ニーハオ春庭「長白山はジープで」
2009/09/04
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (2)長白山登山はジープで

 滝見物の次は、火山である長白山の周囲に点在するカルデラ湖めぐり。滑りやすい山道をゆっくり進みました。山道と言っても、中国の山道はすべて階段。階段登山は2007年に泰山に登ったときに経験済みでしたが、階段の上り下りはきつい。平地や坂道を歩くのは長時間でもがんばれる私ですが、苦手の階段はかなり疲れました。

 階段の途中できれいな景色があると写真を撮りたくなります。引率の先生からは「歩いている途中で立ち止まったり写真を撮ることはできません。危険ですから」と、再三注意を受けたのですが、ときどきこっそりシャッターを押しました。
 深い緑が重なる中に、神秘的な水色をたたえた湖が見えると、つい写真を撮りたくなってしまう。

 昼食は山中の朝鮮レストランへ。平壌館のように、北朝鮮のウエイトレスが食事の間に歌を歌うショウがついていました。アリランは朝鮮語「北国の春」「津軽海峡冬景色」などは日本語で歌ってくれました。日本人が半分中国人が半分の一行だったので、日本人向けサービスだったのでしょう。

 昼食後はお目当ての天池見物。果たして天池は見えるのか。雨はだいぶ小降りになり、ときどき日が差して、天気雨状態になります。
 山頂へは、ものすごいスピードでキキキキーッと車輪をきしらせてカーブを曲がって上っていくジープに乗ります。途中の下界を眺める景色はとても美しかったのですが、カーブで必死に車にしがみついていなければならず、写真どころではありませんでした。

 一番高い将軍峰は標高2744mですが、天池を眺める山頂は2700mくらい。そのうちのほとんどをジープで上ってしまうのです。登山客は残りの標高差数十mくらいを30分もかからずに上ってします。登山客というのに、サンダル履きの人もいて、最初は「中国人は登山をなめとんのか」と思っていましたが、なるほど、これなら日本の白山をサンダルで登る観光客と同じです。

 ちなみに、今回、私は新宿のスポーツ用品屋で、「自分へのご褒美」と思ってハイキングシューズを1万8千円で購入。これまで私の足に履いた一番高い靴で長白山へやってきた。うん、でもこれなら、サンダルでもよかったか。
 ジープで上る人のほか、歩いて上る人のための登山道を見かけましたが、ずっと階段。私は徒歩はご遠慮します。

 ジープが用意されているのは180元の入山料を確保する意味もあるでしょうが、観光客が勝手に山道を登らないための方策でしょう。13億人ジンミンどもをしっかりと管理してやるのが政府の方針ですから。自分たちで地図と磁石を広げて登山計画を練る、なんて自由はありません。

 昼ご飯を食べたレストランの北朝鮮ウエイトレスを見て、ツアー一行の中国人エライさんは、気の毒そうに「彼女たちには行動の自由がないのです。集団生活をして、常に監視されています」と説明していました。私から見ると、山に登るのもきっちり管理されているってのも、自由がないことのひとつだろうと思うのですが、岡目八目。きっと日本人の生活を外から見ている人は、「世間の思惑に常に気をつかって生活している日本人の人生は、自由がなくて気の毒」と、見えるのではないかと思います。世間の思惑など気にしないという人、ためしに、ご近所知り合いのお葬式に赤いパジャマを着て参列してください。他人の目にどう映るか、他人にどう評価されるかを常に気にしてい生きているのが日本人の人生です。

 「人生は重き荷を背負って山道を登るごとし」って徳川家康が言ったことばですが、長白山のところどころには「不登長白山終生遺憾。(長白山に登らないでいたら、一生残念に思い続けるだろう)」という小平の言が石碑になって建てられていました。彼は1983年に長白山に登り、それ以来、長白山は中国十大山岳に数えられ、観光開発が盛んになったのです。

<つづく>
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2009年09月05日


ニーハオ春庭「長白山天地」
2009/09/05
ニーハオ春庭クネンボ日記中国版>長白山ツアー (3)長白山天池

 天池が見えるはずの頂上に着くと、ものすごい風。尾根から吹き飛ばされそうになり、危険を感じた引率の若いテイロ先生は「すぐ下山しましょう」というのです。引率の先生には「一行を安全に誘導する」という責任がかかっているので、天池なんぞどうでもいいから安全に下山してほしいという気持ちだったのでしょうが、皆「一瞬でもいいから天池を見たい」と、強風のなか、霧の晴れ間を待っています。

 しばらく風に耐えていましたが、30分ほど粘ったのちあきらめて降りかかったら、ワーッという歓声が聞こえました。一瞬霧が途切れ、天池の湖面が見えたのです。私もあわてて尾根に戻り、また霧の切れ間があるかと待ちました。
 二度ほど霧が途切れて、ほんの5秒ずつほどですが、きらきらと波が輝く湖面が見えました。写真を撮ろうとして、レインコートの中からカメラを出している間に、すぐ霧が閉じてしまう。たった5秒でも、見えたのと「天池が全然見えなかった」のでは、せっかく登ってきた気持ちに大きな違いがあります。皆で「見えたねぇ」「よかったあ」と声かけあってジープ乗り場の山小屋まで下山しました。

 山小屋の前で、引率責任者の副校長の国愛先生が太極拳をして体をほぐしていました。私も24式太極拳を2年前に国愛先生に教えていただいたのを思い出して、先生のまねっこをして、いっしょに動きました。
 国愛先生は下山して市内のホテルにもどってから、留守役のもう一人のチョウ副校長に「二人して長白山の山頂で太極拳をしたんだ」と、おもしろそうに話していました。

 天地見物のあとは、「地底森林」「谷底森林」の見学。深い谷底まで原生森林が広がっています。きっちりと木道がしつらえてある森の中を、木の階段、石の階段を上ったり降りたりしながら、「谷底森林」をながめ、「白河(バイフゥァ)」を見たりしました。白河は、私にはどうということもない、ふつうの山中の急流です。日本の河はたいていこのような白い川波をたてて流れ落ちていく。しかし、大陸をゆったりと流れていく大河が川だと思っている中国の人にとって、このような白い川波を沸き立たせながら流れる急流は珍しく思うのか、皆、さかんに写真を撮っていました。
  
 ツアー同行者は、日本の大学を定年退職した老名誉教授とか、昨年まで東京にある在日本中国大使館の一等書記官だった女性がお孫さんを連れて来ているとか、老人子供を含む一行なので、ゆったりペースで行動できました。一日で歩いたのは合計しても6時間ほどで、それほど疲れはありませんでしたが、夜、ひまなので、足裏マッサージを部屋に呼んで揉んでもらいました。どうやら見よう見まねの素人のおばさんだったようで、足裏の壺はぜんぜん理解してなかった。マッサージおたくの妹なら怒り出すところですが、私は「肩揉みもサービスでしてくれたし、ま、いいか」と45分で60元という「観光地値段」を払いました。

 帰りは一日かけて、朝7時半に虎林山荘を出て500キロを走り、午後3時半にホテル着。ツアーの一行は続けて5つ星ホテルに宿泊しますが、私は4ヶ月半住んでいた大学外国人宿舎に移動。今までとは別の部屋ですが、台所と、六畳間くらいの広さのバスルーム、15畳くらいの書斎、12畳くらいの寝室です。5つ星もいいけれど、古い宿舎のほうが広くて居心地がよい。こちらに一週間宿泊しました。
 宿舎の近くの盲人按摩は60分20元(300円)で足ツボマッサージができますので、帰宅した後、按摩屋に出かけてまた揉んでもらいました。こちらはツボをぐいぐいで、かなり効いた。

 天地も見えて、楽しかった長白山ツアー。小平の言う「不登長白山終生遺憾。長白山に登らないでいたら、一生残念に思い続けるだろう。」にはならず、一生の満足になって、よかったよかった。

 本日還暦記念日なり。暦が一巡してかえり見れば、「一生の満足」と言えるかどうか。まあまあ、可もなし不可もなし。たいした人生ではなかったものの、不幸といえば人生後半にショーモナイ夫がひっついてしまったことくらいで、、、、天池を5秒間眺めることができたってところが、人生の成果なのでしょう。

<ニーハオ春庭 おわり>
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ニーハオ春庭中国日記「再会朋友2009夏」

2011-07-25 07:34:00 | 日記
2009/08/23
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(1)謝謝3班の仲間たち

 4回目の中国滞在の1番の目的は、勤務校の創立30周年記念の国際日本語教育シンポジウムでの発表です。
 3月から7月まで勤務した学校は、1974年に田中角栄訪中で国交回復したあと、日本中国の国家共同の日本語教育施設として1979年に開校して以来、中国有数の日本語教育の場となっています。今年は、学校をあげて30周年記念イベントの準備が続けられてきました。盛大な記念行事の場で発表できることになって、ラッキーでした。
 担任した博士コース3班の学生たちには、メールで「発表を聞きに来てください」と連絡しておきました。

 16日の発表の前日、8月15日、元の担任クラスの教室で学生たちと再会。日本に帰国中、8月1日から12日まで連日、授業資料を作る以上の熱心さで取り組んだ「3班思い出のアルバム」を披露しました。
 クラスの集合写真や、生け花、浴衣姿、縄跳び大会、カラオケなどのクラスイベントでの写真、また「3班の仲間たち」と題したひとりひとりの写真にコメントをつけて編集したアルバムです。

 写真につけたコメント、たとえば、出席番号1番のレイトウさんの写真には「加油!世界中には30億人の女性がいる、がんばって!」と、コメント。まだ恋人いないレイトウさんへのエールです。
 在学中に恋人を得た出席番号2番のコウキさんへのコメントは、いっしょに動物園へ行ったときの写真に「コウキは、縞馬よりキリンより、リンリンが好きです」というコメントをつけました。リンリンはコウキさんのガールフレンドの名前です。
 アルバムをコンピュータ・プロジェクターで見た後、大学食堂の宴会室でランチ会。

 16日、学生たちは、私の発表のとき、盛大な拍手をしてくれました。日本や中国各地からのシンポジウム出席者のすぐれた発表が相次いだなか、拍手の音量だけなら、私が1番でした。サクラのみなさん、ありがとう。
 いえいえ、拍手だけでなく、私の発表は、各方面か好評を得ることができ、3月から7月まで、食事する時間も惜しんで授業資料を作り続けたことの甲斐があったといえます。ドストエフスキーの新訳で名高いロシア文学者の学長先生からも「よい発表でした。このような授業をしてもらえるなら、学生たちは毎日楽しいでしょうね」と、言っていただき、面目をほどこすことができました。

 サクラ役をしてくれた博士コース3班の学生は、最初17名でしたが、4月に一人、7月に一人、途中からクラスに加わって、基礎日本語課程終了時には19名でした。
 19人、いつも仲がよく、助け合って学習しており、グループラーニング、ペアラーニングの実践にとって、この上ない環境でした。
 そして学生たちは「先生、センセー」と慕ってくれるので、教材作りにも熱が入り、授業もよい実践ができました。
 
 21日には、私の宿舎の宴会室で専門日本語教育担当の先生方との夕食会を行いました。
 学生は、「センセーとなら緊張しないで日本語で話せるけれど、専門日本語の先生とは緊張してしまう」と言っていたのですが、夕食会がはじまると、それぞれいっしょうけんめい日本語で話していました。

<つづく>
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2009年08月24日


ニーハオ春庭「教授方との夕食会」
2009/08/24
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(2)教授方との夕食会

 私が夕食会にお招きした専門の先生方、東大、東工大などの教授たちです。非常勤講師にすぎない私、普段ならご一緒することもないエライ先生方なのですが、私のシンポジウム発表のときお世話になったので、夕食にご招待することになりました。

 「シンポジウム発表のレジュメは各自でプリントして配布する」ということを私は理解していなくて、レジュメは主催者側で作成するものとばかり思っていたのです。そのためにシンポジウムが始まってから慌ててプリントを作るはめになりました。
 ところが、こんなときに限って基礎日本語講師室のコピー機が紙詰まりを起こして使えなくなり、専門日本語講師室のコピー機を借りることになりました。講師室にいた先生方、皆さんで窮地に陥った私を助けてくださり、教授たち皆で「印刷係」として手伝ってくださったのです。日頃は秘書を使っているような先生方を印刷係にしてしまって申し訳ないことだったので、「夕食ご招待」で勘弁してもらうことにしました。

 学生と教授、教授夫人2人。合計16人で夕食をいただきました。実をいうと、中国でお金を使った一番の高額消費が、このときの宴会費用です。アワビ、伊勢エビ、刺身、上海蟹など、日頃は食べないような豪華メニューがつぎつぎにテーブルに並びました。

 テーブルについた学生たちも「教授のお話をうかがう接待」に、緊張しながらもがんばってくれました。専門日本語課程の先生の日本語は、日本人大学院生に話すのと同じ日本語なので、彼らにはちょっと難しい。日本語2級レベル試験に合格したというものの、今までは基礎日本語教師が語彙コントロール文型コントロールをして、彼らに理解できないことは話さないようして会話が成立してきたのですから、いきなり「ふつうの大学院レベルの会話」をしても、理解できないことが多い。

 エンテイさんは、彼の日本語ブログに正直に「隣の席になった教授のお話は、ぜんぜん理解できなかった」と書いていました。このとき、エンテイさんの隣に座った教授は、ご母堂の学友が森鴎外の娘や夏目漱石の娘さんだったというお話しをなさっていました。明治の文豪たちを「鴎外さん、漱石さん」と親しげに呼ぶお母さんの影響で文学を志したのですが、お父様に「文学では将来食っていけない」と諭されて理系になったのが、生涯の心残りで、本来は文系にすすみたかったのだ、と語っていたのでした。「森茉莉(まり)さん、杏奴(あんぬ)さん」と、なつかしげに文豪の娘たちの名を呼び、明治文学を語る教授の話、たしかにエンテイさんには難しかったと思います。

 昨年10月から今年3月までが基礎日本語教育前半で、中国人日本語教師が担当します。そのあとを引き継いで、日本人日本語教師団が基礎教育後半を受け持ちます。私はこの担当でした。

 専門日本語教育は、留学先である日本各地の大学の教授たちがチームを編成して文科省派遣教師団として、8月1ヶ月を担当します。
 8月の1ヶ月間で、医学や工学などの専門分野についての講義をして、日本の大学院での研究生活ができる日本語力を養成します。

 学生たちの専門は多岐にわたっているので、自分の専門の教授が派遣されている学生はいいですが、違う専門にあたる学生もいます。エンテイさんの専門は薬学ですが、薬学専門家は今回派遣されていないので、「材料化学」の教授に教わることになりました。

 その材料化学の教授から「明治文学」の話しをあれこれ伺うことになったのです。私は基礎日本語の授業のとき「お札になった日本人」紹介として夏目漱石について教えたことがあるのですが、森鴎外については、「日本人の住まい」という読解の授業のときに明治村の森鴎外旧居を紹介したくらいで、文学上の紹介をしていなかったので、エンテイさんにとって、鴎外文学の話は「ぜんぜんわからなかった」のもしかたがありません。
 
 日本語教師たちは、学生の日本語力にあわせて語彙や文型をコントロールしながらゆっくり話すように訓練されているのですが、教授たちは大学の学部生や院生に教えるのと同じ日本語で授業をします。学生たちは8月になるといきなり難しくなる日本語に苦労します。
 今年も「専門日本語は難しい」と、メールがきていました。

 英語教育に置き換えてみると、英語を習っている日本の高校生が、夏休みにいきなりオックスフォードやケンブリッジ大学の教授の授業を英語で受講し、その場で英文で感想レポートを書かされる、と思ってください。

 しかし、教授たちは「午前中に専門のレクチャーをして、午後内容要約と感想を発表させているのだけれど、なかなかしっかりと発表しているので、最終プレゼンテーションもこのぶんなら全員合格するだろう」と、お話ししてくだったので、一安心です。

<つづく>
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2009年08月25日


ニーハオ春庭「シャンユエに会いたい」
2009/08/25
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(3)シャンユエに会いたい

 専門の先生たちとの夕食会がおひらきになったあと、「私の宿舎に泊まってください。2室にシングルベッドとダブルベッドがあるから、みなで泊まれますよ」と言ったのですが、「まだ、発表の準備が完成していません」と、大学の寮に帰って行きました。
 今週末には、学生たちは日本語で自分の専門分野についてのプレゼンテーションをします。その発表成果が最終試験となっていますから、みな発表原稿やパワーポイントファイルの制作に余念がありません。
 ひとりルールーだけ「私はもう準備が終わりました」と、宿泊することになり、週末いっしょに遊ぶことになりました。ルールーの専門は遺伝子学です。クラススピーチのとき、額の形が富士額になる場合や耳の形について、遺伝子の要素の説明をして、クラスでおでこや耳を見せ合って、みな楽しく遺伝について学びました。

 ルールーに泊まってもらったのは「日本語が話せない私の友達を招いているので、通訳をしてください」とお願いするためでした。中国語を話せない私に、日本語も英語も話せない友達がいるって、不思議なようですが、、、、

 前回2007年の中国赴任の思い出の中、もっとも印象深かったことのひとつが、13歳のシャンユエと友達になったことでした。
 シャンユエは、バスで1時間ほど行った先にある郊外の小さな田舎町、合隆鎮に住んでいます。2007年の7月には中学1年生でした。8月には2年生に進級するという「少年」シャンユエと友達になって、動植物公園や「長影世紀城」というテーマパークでいっしょに遊びました。動物園でシャンユエの「祥[王月]」という字は女性の名によく使われる文字なので、「男の子なのに、親御さんはどうして祥[王月]という文字を選んだのか」と質問したら「我是女児」と、言ったのでびっくりしたのです。シャンユエは男の子にしか見えない女の子でした。

 2007年6月7月に私が楽しんでいたことのひとつに、「どこへ行くのか知らないバスにひとりで乗り込んで終点で降り、そこにある食堂で夕食を食べて帰る」という「プチ冒険」がありました。ときには、店も何もない畑の真ん中が終点、ということもあったのですが、「1元バスツアー」と称して、どこへ着くのかドキドキしながらバスに揺られて夕食を食べに行ったのです。

 シャンユエの家は、合隆鎮のバス停終点の前で「魏味佳」という食堂を営んでいました。バスを降りて夕食をとった食堂がシャンユエの家だったのです。
 シャンユエの写真を撮ってプリントしたものをこの食堂あてに送付したのですが、写真が届いたという返事はこないまま2年が過ぎ、はたしてシャンユエは写真を受け取れたのかどうか、わからないままになっていました。

 2009年の赴任で、毎週「今週こそはシャンユエに会いに行こう」と思いながら、毎週末、ひたすらパソコンに向かって、食事はワープロをたたきながら食べるという暮らしを続けたため、ついに一度も会いに行くことができないまま終わってしまいました。4回目に中国に来た目的のひとつは「シャンユエに会いたい」ということでした。
 今回の中国滞在目的の1番目は国際日本語教育シンポジウムでの発表、2番目は長白山ツアー、3番目がシャンユエに会いに行く、ということ。

 2007年8月の「合隆鎮の魏味佳」は、以下に。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200708A

<つづく>
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2009年08月26日


ニーハオ春庭「高校生シャンユエ」
2009/08/26
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(4)高校生シャンユエ

 2年たって、はたして「魏味佳」が同じ場所にあるのかどうかもわかりません。私の宿舎の周囲では2年間に多くの店が入れ替わりました。私が洗濯物を出していた「天使干洗店」はペットショップに変わっていたし、宿舎の隣のさえない食堂は「時尚旅館」になっていました。

 合隆鎮行きのバス、駅前の185番に乗って小一時間。終点の前には。あらまあ、「魏味佳」の店は、はやりのケータイ電話屋になっていました。やっぱりね、、、、、、

 魏味佳のとなりのとなりにあった「旅店」のおばさんに「となりのとなりの串焼き店は、どこへ行った?」と、聞いてみましたが、私の発音ではさっぱり通じなくて、おばさんは「一泊は30元だよ、ビタ一文まけないよ」と、繰り返すばかり。2年前は一泊20元だったのに、ま、それはいいや。

 しかたがないから、ぶらぶらと通りを歩いていきました。5分ほど歩いてみて、ま、仕方がない。2年の歳月がたっていたのですから、合隆鎮も変わったのだ、と納得して、さて、帰るまえに念のためにケータイ電話屋に聞いてみることにしました。

 私の四声はどうにも通じないので、筆談で「2年前には、ここにあった串焼き店に、シャンユエという子がいて、今は15歳になっているのだが、知らないか」と聞いてみました。ケータイ屋は、私が話が通じないことが分かると、英語がわかる若者を呼んできました。私が人捜しをしていることがわかると、シャンユエを知っている人を探してきてくれました。「このケータイ屋の場所は、前は串焼き店だった」「シャンユエ」この二つのキーワードだけで、なんとか通じたのです。

 男の人が先に立って、案内してくれました。私がさきほどぶらぶら5分歩いた道をどんどん進んで行きます。5分歩いてあきらめて引き返した、そのちょっと先に、「魏味佳」は移転していたのでした。

 あとで聞いたら、移転したのは、今年4月だったということです。合隆鎮のバスターミナルは2か所あって、移転先は、長距離ターミナルの前です。(といってもマイクロバスが数台停まっている、というだけのところですが)
 シャッターが閉まっていましたが、男の人は人を呼んで来て、シャッターを開けさせてくれました。店の中で待っているように言われ、しばらく待っていました。

 シャンユエが、店にとびこんで来ました。背が伸び、ちょっと大人びていましたが、相変わらずショートカットの「少年」です。
 筆談で「中学3年生になったんだっけ」と訪ねると、「8月25日から高級中学(高校)の1年生だ」というのです。大きくなっているなあ。
 高校に入学したけれど、勉強はきらいで、スポーツが好きと言います。英語も好きじゃなくて話せない、というのですが、「I like sports.」これは英語で言えました。
 
 店にいた親戚の女の子といっしょに、前に店があった場所の近くにある市場へ行き、入学祝いを買いました。最初、服の売り場をブラブラして、「puma」とか「adidas」のスポーツシャツはどうか、ときいたのですが、シャンユエは「いらない」と言います。親戚の女の子がフラフープがほしいというので、おもちゃ屋へ行きました。

<つづく>
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2009年08月27日


ニーハオ春庭「シャンユエとルールー」
2009/08/27
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(5)シャンユエとルールー

 フラフープにはいろいろな大きさのがあったので、どれがちょうどいいか、いろいろ見ているうち、女の子はお人形セットに目うつりして、「これがほしい」と、言います。15元の「ナース人形セット」で、おもちゃの注射器や聴診器、ナース服の人形がセットになっています。彼女はナース人形に大喜びでした。

 おもちゃ屋にスケートボードがおいてありました。シャンユエは「スポーツが好き」というので、「乗ってみて」と勧めました。シャンユエがボードに乗って試してみると、できそうなので、「これにしよう」と、買うことにしました。スケートボードは100元。高校勉強に必要なものは両親が買ってくれるでしょうけれど、遊び道具はどうかわからない。スケートボードは、「親にはおねだりしにくいけれど、自分のこずかいで買うにはちょっと高い品物」ですから、旧友の日本人のプレゼントとして高校入学のお祝いにちょうどよかったかと思います。

 シャンユエの「合隆高級中学」へ行って見ました。魏味佳から200メートルほど先にあり、走っていけば1分で高校に着く。始業ベルが鳴ってから走っていける場所にあります。
 煉瓦作り1階建ての校舎が6棟あり、その先は雑草の生えているグラウンド。入り口に近いところが「3年級」真ん中が「2年級」。そうするとグラウンドに近いほうが1年級なのでしょう。

 「化学」の教科書を抱えた眼鏡をかけた女の人が通りかかったので、「この高校の化学の先生ですか」と訪ねてみたら、その通りでした。「この子は、8月にこの学校に入学するんです。私はこの子の友達です」と、聞かれもしないのに自己紹介。勝手に校庭に入り込んだので、あやしいものではないことを言っておかないと。

 「魏味佳」の店に戻ると、シャンユエの」お父さんとお母さんが店に来ていました。今日の開店は夕方からのようです。両親に筆談で、8月26日に日本へ帰ること、22日23日の土日にシャンユエと遊びたいと話し、許可を得ました。

 21日に私の部屋に泊まっていっしょに遊ぶことになったルールーには、「シャンユエは日本語がぜんぜんわからないし、私は中国語が話せないので、通訳になってください」とお願いしました。
 2年前にシャンユエといっしょに遊んだときは、私の中国語家庭教師役だったジョウさんがいっしょに動物園や南湖公園で遊んだのでした。

 22日に、合隆までシャンユエを迎えに行きました。ルールーは、その間桂林路の美容院で髪の手入れ。
 シャンユエには、10時に迎えに行くからと行って、日本人らしく10時ぴったりに魏味佳の店につきましたが、シャンユエは中国人らしく、10時半に店にやってきました。
 12時にマクドナルドの店の前でルールーと会う約束でした。日本人は必ず約束時間を守るということを「日本事情」として教えてあったルールーは、12時半になっても私とシャンユエが現れないので、「中国語わからない先生がひとりでバスに乗っていったので、迷子になったかと心配した」と言うので、申し訳なかったです。

 「古本吉田」という牛丼店で「日式どんぶり飯」を食べたあと、かっては市内で一番高い建物であったテレビ塔へ登りました。現在はテレビ塔より高いビルもどんどんできているのですが、まず、シャンユエに「高いところから市内を見渡す」という経験をしてもらいたかったのです。
 シャンユエは望遠鏡を覗いて、南湖や市内のビル群を見ていました。

 2年前は、私が中国語を理解していないことに遠慮なしにどんどん中国語で話しかけてきたのに、高校生になったシャンユエは、とても寡黙になっていて、ルールーが通訳するから大丈夫と言っても、あまり話さない。
 ルールーはお姉さんらしくシャンユエに気をつかってくれて、よく世話をしてくれました。

<つづく>
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2009年08月28日


ニーハオ春庭「シャンユエ大熊猫を見る」
2009/08/28
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(6)シャンユエ大熊猫を見る

 テレビ塔を降りて、次は動植物公園へ行きました。前回担任クラスの学生たちと動植物公園へ行ったとき、ルールーは来られなかったし、シャンユエもパンダを見たことがないので、まずはパンダ(大熊猫ダーシューマオ)見物です。
 動物園では動物ショウで熊、山羊や猿が芸を見せていました。白虎(アルビノ遺伝子による白い虎)は、馬に乗って登場。

 前回、昼間にパンダ館を見たのでずっと寝ていましたが、今回は夕方だったので、パンダは室内で笹の葉を食べていました。おしりを床につけておすわりをして、ムシャムシャ笹を食べ続けています。
 パンダ部屋の中に、サツマイモのような大きな茄子のようなものが、ころんと転がっています。パンダの糞でした。上野動物園では、このようなパンダの糞を見たことがなかったので、写真にとったら、シャンユエは笑っていました。

 22日、動物園見物のあと、動物園の向かい側にある大学本部キャンパスへ行きました。
 シャンユエに将来何になりたいかたずねたのですが、「わからない」と言います。「大学に入りたいか」とたずねても「スポーツは好きだけれど、勉強はあまり好きじゃない。大学に行くかどうかわからない」
 両親の意見は?と、聞くと、「弁護士になれと言っている」と言います。まあ、だいたいの親は日本も中国も、文系なら「法律を学んで弁護士になれ」理系なら「医者になれ」というのです。
 エンテイさんも「医者になれ」と親に言われて、医学の隣接科目である「薬学」を選んだのだそうですし、ルールーは医学部に入学して遺伝子治療に興味を持ち、現在の専門は遺伝子学です。

 合隆鎮に住むシャンユエは、「大学」というのがどういう場所なのか具体的なイメージを持ったこともない。日本のように、大学が「オープンキャンパス」なんてイベントはしないし、中学生が大学見物するという機会もない。
 私はぜひ、シャンユエに大学見物をしてほしかった。

 新しくできた郊外キャンパスの中で過ごしてきたルールーも、本部キャンパスの中を見たことがなかったので、まずはキャンパスのなかを歩いて見ました。立派な(というか、ばかでかい)図書館(どの大学も図書館を大学象徴の建物として建てるので、大学図書館の建物はやたらにでかい)、物理学部、生命科学部などの校舎。正門近くの外国語学部校舎は、私にとっては、なつかしい建物です。
 「1994年に私がはじめて中国で教えたときは、この外国語学部の校舎だったのよ」と、ルールーに言い、ルールーは中国語でシャンユエに説明しました。

 22日の夕食は平壌館へ。
 朝鮮料理はシャンユエの住む合隆鎮にも朝鮮族の店があるから珍しくないですが、北朝鮮のウエイトレスの歌唱ショウは、シャンユエも楽しんでくれるだろうと企画した夕食です。昨年10月から市内に住んでいるルールーも、郊外にあるキャンパスから外に出て、繁華街である桂林路に来ることは少なかったし、平壌館に入るのは初めてと言っていました。

 ジャガイモ餅や鶏手羽フライを食べながら待っていると、7時半にショウが始まりました。朝鮮や韓国、中国の歌が美人ウエイトレスたちによって歌われました。テレサテンの「時の流れに身をまかせ」の中国語バージョンもありました。
 料理と歌を楽しんで、22日は宿舎にルールーとシャンユエが泊まりました。 

<つづく>
06:08 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年08月29日


ニーハオ春庭「シャンユエ大学を見る」
2009/08/29
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(7)シャンユエ大学を見る

 23日は、友達と桂林路で会う約束ができたルールーと分かれて、シャンユエと郊外キャンパスへ行きました。大学が設置している博物館を見せようと思ったのです。ルールーはエンテイさんに電話をして、エンテイさんが通訳として博物館をガイドしてくれました。
 1階は恐竜の骨格標本や動く恐竜レプリカ。2階は馬の進化のようすを模型で展示してある。3階は世界の蝶の標本。4階は中国東北の自然を再現した剥製標本の展示。エンテイさんは、いっしょうけんめいシャンユエに説明をしてくれました。

 大学の中にある食堂で昼ご飯を食べました。元3班の学習係だったチョウカショさんと北京からカショをたずねてきた恋人と食堂であったので、いっしょに食べることになりました。カショさんのルームメートのイヨウさんとカショウマンさんもいっしょです。
 カショさんは、「元3班のヨウショウさんとエイケイさんに、招待所で専門の教授たちとの夕食会で食べたごちそうの話をしたら、うらやましがっていました」と言います。ほんと、私だって日頃食べたことのないごちそうでしたよ。

 カショさんは最初は機械工学を専攻し、農機具開発を研究するはずでしたが、中国農業の将来を考えるようになり、大学院に入るときに専攻を替え、農業史や農業経済を研究することになりました。日本では東大の経済学部で博士号をめざします。

 ランチのあと、イヨウさんとエンテイさんがシャンユエにキャンパスの中を案内してくれる間、私は元の担任していた教室で、学生たちの最終プレゼンテーションのパワーポイントファイルのチェックをしました。専門の工学や化学の部分は私には理解できない難しい化学式や数式がありますが、日本語の部分で、やはり手直しした方がいいことが見つかるのです。教室に来ていた学生のpptをチェックしていると、シャンユエが教室にやってきました。

 私が勤務していた校舎は、語学教室としては中国でも最先端の設備を誇っている学校なので、教室設置の大型コンピュータセットとプロジェクターは、シャンユエには珍しいものだろうと思います。シャンユエが大学について具体的なイメージを持てるようになるといいと思いました。
 シャンユエに「本部キャンパスとこの郊外キャンパスのどちらが気に入ったか」とたずねると、新しい郊外キャンパスのほうが気に入ったということでした。

 中国では、高校3年生は卒業前に略称「高考」を受けます。この「普通高等学校招生全国統一考試」の点数によってどの大学に入学できるか決まります。なかでも重点大学と呼ばれる一流大学への入試の点数は高い基準があるので、金持ちの親はあの手この手で我が子の入学を画策し、毎年不正事件が新聞に載ります。

 替え玉受験なんてのは序の口です。
 同級生のなかに、頭はいいけれど大学へ出してやる金のない親を持つ子がいると、金持ちの親はその子の親に不正をもちかけます。自分の子と前後の席になるように受験番号を獲得して、「大学に入るお金をだしてやるから」という条件で、入試のとき、そっくり答案を写させる、なんてのも序二段くらい。

 幕内クラスになると、お金が無くて大学進学をあきらめた子の戸籍を不正手段で入手して、その子になりすまして、優秀な成績の子が受けるべき「推薦入試」をそっくりもらってしまい、大学入学後もその子になりすましている。戸籍を盗まれた子が、一念発起して通信教育で教員資格を取得しようとしたら「あなたはすでに大学を卒業しているし、教員資格を取得しているではないか」と指摘され、はじめて自分の戸籍が他人に使われていたことを知る、他人が自分になりすましていたことに気づく、なんてことも起こっています。
 中国は日本以上に学歴がものを言う社会だから、不正手段もこれからあの手この手の秘術がつかわれることでしょう。

<つづく>
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2009年08月30日


ニーハオ春庭「シャンユエの未来」
2009/08/30
ニーハオ春庭ニッポニアニッポン教師日誌中国版>再会朋友(8)シャンユエの未来

 日本の大学受験者は現在では70万人前後。日本の大学・短大の数は1200校あり、どの大学でもいいという条件なら、全員が入学できる定員数があります。一方、中国の「高考」の受験者数は2009年には1020万人。中国の大学・短大はこの10年で急激に増加し、現在は2000校にのぼっており、入学定員はこの5年間で倍増したのですが、それでも大学及び短大に入学できるのは600万人ほどですし、重点大学(プロジェクト211大学)ともなれば、将来のエリートコースが約束されているのですから、親の大学進学熱は、一人っ子に対していやがおうにもヒートアップしています。

 プロジェクト211の大学の中でも特に重要とされた38大学に入学できるのは、大学入学定員の6%にすぎません。まさに現代の「科挙」です。6%と言っても、人数からいけば、日本の全受験者数に匹敵しており、数学オリンピック、科学オリンピックなどで、中国の高校生が上位をしめているのもわかります。

 08年の当局からの発表によれば、大学での生徒募集人数は599万人、大学院では44万9000人と、07年比でそれぞれ5%、6%増加しています。在学中の大学生総数は1738万8000人、大学院生数は110万5000人に達しており、高等教育機関の在校生数は世界第1位となっています。大学・大学院への総入学率は22%に達し、「中国の大学経営」は、中国で有数の「成長産業」です。

 シャンユエの親が「弁護士になれ」というのも、親がイメージする「高学歴のエライ人」というのが「弁護士」か「医者」だからです。
 日本では村上龍が編集した「13歳のハローワーク」のような本があり、中学生高校生が具体的に将来のビジョンを持つことができますが、シャンユエのような環境で、さまざまな仕事や進学のイメージはテレビなどで見る以外に持ちにくく、自分自身の目で実際に大学を知る機会がない。

 今回の「シャンユエの大学見物」は、高校入学祝いのスケートボードよりももっと意義ある私からのプレゼントでした。
 シャンユエが将来大学に入るかどうかはわかりません。「もし大学生になったら、夏休みに必ず日本へ招待する、日本への航空券を郵送し、私の家に滞在できるようにするから、勉強に励みなさい」とエンテイさんに通訳してもらいました。

 シャンユエの将来はシャンユエのものだから、彼女は自分自身でなりたいことを見つけるのがよい。しかし、田舎町の環境で大学へのイメージを持ちにくい彼女に、できるかぎり広い世界の入り口を見せてやりたくて、大学案内をエンテイさんたちに頼んだのでした。

 シャンユエの両親は串焼きの食堂を営んでいるのだから、シャンユエは特に努力しなくても、両親の店を受け継いで、田舎町の中では裕福な層として暮らしていくことができるでしょう。でも、高校在学中に将来への夢が芽生えたとき、その入り口にさまざまな可能性があったほうがいい。大学進学もその可能性へのひとつのドアです。

 大学見物のあと、近くにある浄月潭公園を散歩しました。浄月潭は、市内の水源とするために開発された大きな貯水公園です。1994年に初めて学生たちと遠足に来たころは、ただ広い森林と湖が広がる静かな場所でしたが、現在は開発されて公園として整備され、周辺は住宅エリアになってたくさんの家が建ち並んでいます。
 公園の中には日曜日とあって、結婚前撮り写真をとるカップルが大勢いました。専門の業者が、まもなく結婚式を挙げるカップルにさまざまなポーズを撮らせて写真集を作るのです。

 シャンユエと頭上を飛び交うとんぼや花のまわりをひらひらするチョウチョを指さしたり、広々と広がる湖水や湖に影を映す森林をながめ、青空と白い雲を眺めてすごしました。帰りは160番のバスに乗ったのですが、疲れて眠ってしまい、下車する予定のバス停からだいぶすぎてしまいました。慌てて降りて、結局タクシーで宿舎まで戻りました。写真屋で昨日動物園で撮ってプリントした分を受け取り、写真とクッキーなどのおみやげを持たせ、ちょっとおそくなったのだけれど、駅前まで送って185番のバスにシャンユエを乗せました。

 13歳のシャンユエに偶然出会い、今回は15歳のシャンユエとまたまた運良く出会えた。
 シャンユエは私を他の人に紹介するとき「我的朋友。わたしの友だち」と、言います。言葉が通じない、そして年齢差が大きいふたりですが、二人の間に友情成立。これから20歳のシャンユエ、30歳のシャンユエに出会うことを楽しみに、「再見」を言いました。

<つづく>
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ニーハオ春庭中国日記「大連再訪」

2011-07-22 07:46:00 | 日記
2009/08/05
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(1)旧友と再会

 中国滞在最後のイベントは、帰国の前の大連旅行でした。
 大連には友人のハンさんが住んでいます。ハンさんは、若いながら大学で準教授に昇進して半年たったところです。たいへん優秀な人ですが、「学部によっては、私の年齢ではなかなか昇進のチャンスがなく、上の世代の人が大勢チャンスを待っているところも多いのに、私の所属する学部では、ちょうど世代の穴があったので、昇進できたのは、運がよかったからです」と謙虚に語っていました。
 
 昇進のためには、英語試験や論文審査のほか、学長ほかお歴々の前での口頭発表や口頭試問を繰り返し、研究学会での発表の評価など、たくさんの関門があったということです。 ご主人の理解もあり、お姑さんが、11歳の娘シンシンちゃんの世話をしてくれる、という恵まれた環境もさることながら、彼女自身が努力家であることが、若い準教授の誕生となったのだろうと思います。
  
 2007年に大連に滞在したときは、ハンさんの受け持ちクラスで飛び入り日本語授業をしたこともありました。今回はすでに期末試験を終えて、あとは期末の教員会議のみというところにおじゃましました。

 今回、私のパソコンもケータイも壊れてしまったという状況のなかで、連絡が行き届かなかったのですが、私が夜行寝台の列車を降りて出口に向かうと、ちゃんとハンさんが「センセー!」と、待っていてくれました。
 今では準教授の彼女のほうこそ「センセー」なのに、15年前と同じように、「センセー」「ランリン」と呼び合う二人です。

 15年前、彼女は私が勤務した中国の大学の日本語学科学生でした。私が働いた学部とは別の学部でしたが、私の中国語家庭教師を務めてくれたり、幼かった娘と息子のシッターとして世話をしてくれました。その後、彼女が日本に来て働いていたときは、東京の我が家にも遊びに来てくれました。2007年には、久しぶりに旧交温めることができました。
 
 7月23日の朝、大連駅からまずは、大学本部キャンパスの近くにある彼女の住まいに向かいました。ご主人の会社から支給されている社宅と、彼女の勤務先大学から支給されている職員住宅は人に貸し、現在は娘のシンシンちゃんが通っている大学附属小学校に徒歩3分という地に家を買って住んでいます。大学の元教授たちが住んでいる古いマンションで、若い世代はハンさん一家くらいということですが、おばあちゃんおじいちゃんが孫の世話をすることが多い中国なので、小学生くらいの子どもの姿もたくさん見かけます。シンシンの世話をしているのも、すぐ近所に住んでいるハンさんのご主人のお母さん。
 5階にある住まいは、リビングルーム、夫妻の部屋、シンシンの部屋と台所、バスルームです。

 大連など大都市では、「有名進学校に近いこと」が、親の家探しの第一条件なのだそうです。進学校の区域に住民票があることが進学に有利とされているので、進学校の周囲の住宅の値段は金融危機があろうと不況だろうと、どんどん高くなっているのだといいます。
 自身が準教授への昇進を果たした今、彼女の一番の関心事は一人娘の進学。現在勤務している大学の付属小学校の生徒なので、大学附属中学校への進学は難しくないけれど、歩いて数分のところにある超有名進学校への入学を狙っているので、受験はたいへんだと話していました。

<つづく>
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2009年08月06日


ニーハオ春庭「鉛筆の歌」
2009/08/06
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(2)鉛筆の歌

 シンシンちゃんやハンさんのお姑さんといっしょに、朝市へでかける途中、シンシンちゃんを入学させたいという有名進学校の前を通りました。北京大学、清華大学など、中国のトップクラスの大学への進学率がたいへん高いという学校で、門の横の掲示板に、生徒の写真付きで今年の進学者たちが張り出されていました。

 進学希望者の全国統一試験(中国の大学入学統一試験「普通高等学校招生全国統一考試験(高考 gāo kǎo)」)は、6月8日9日に実施され、試験点数によって進学できる大学が決まります。各大学ごとの入試というのはなく、一回限りの試験で一生の進路が決まってしまう。日本より過酷な入試制度です。

 掲示板に張り出された大学名を見ていると、ウァア、スンゴイ!と目を見張らされます。
 日本の週刊誌に高校別の大学進学者が発表されることがありますが、個人の顔写真までは出すことはない。日本でこのように顔写真付きで出したら個人情報うんぬんの問題になるでしょうけれど、校門脇に並べられた顔写真はどれも誇らしげです。

 中国ではかっての「国家重点大学」という国の重要大学の呼び方が、1995年以後は「211工程」(Project 211)と変わりましたが、今でも一般の人は「重点大学とそうでない大学」というふうに分けて呼んでいます。中国でも大学の数は増えているけれど、重点大学であるかどうかによって、就職にも差がでます。
 私のクラスに集まってきていた国費留学生候補者の所属大学もこの「プロジェクト221」の大学でした。日本以上に学歴社会である中国では、「211工程」の大学に進学できるかどうかは、人生を左右します。

 シンシンちゃんの教育のため、ハンさんは一ヶ月2400元をつぎ込んでいると語っていました。一般の大学卒業生の月給にあたる金額です。一週間のうち、ピアノ、一回110元、英語家庭教師一回100元、卓球教室一回60元、ダンス30元。一週間に4回のお稽古事で、300元、一ヶ月ではトータル2400元になるのだということです。

 中国上層社会での教育熱について聞いてはいましたが、実際目の前に「大切に育てられている一人っ子小公主(リトルプリンセス)」がいると、中国で進学するのもたいへんだなあという気持ちになります。教育にお金をかけるかわりに、衣服はお下がりですませるのが、ハンさんの子育て方針だと言っていました。

 シンシンちゃんは、2年前に会ったときに比べるとだいぶ背が伸び、眼鏡をかけたことで、ちょっと大人っぽい印象に変わりました。
 本が好きでよく読んでいたせいか、目が悪くなってしまったと、ハンさんの嘆き。今いちばんのお気に入りの本は『窓辺的小豆豆(窓際のトットちゃん)』だそうです。2年前はディズニーの絵本がお気に入りでしたから、読書の面でも成長ぶりが分かります。

 マーマにならって、私を「センセー」と呼び甘えてきます。今回は「ジャンケンポン、あっちむいてホイ」が気に入って、何度も「センセー、アッチムイテ」と、遊びたがりました。

 ダンスや英語のレッスンは大好きだけれど、ピアノと卓球はあまり好きではないというのですが、「弾いてみて」とリクエストすると、今練習中のスカルラッティのソナタを弾いてくれました。ときどきミスタッチがありましたが、いやいやでもちゃんと練習しているのだとわかりました。
 シンシンに「Can you play piano?」と聞かれて、「両手で弾けるのは、今やバイエルだけだから、片手で弾く」と言って、「これなら、聞いたことがあるかな」と『里の秋』を右手だけで弾きました。

 ピアノはリビングルームにおいてあり、リビングの向かい側はシンシンの部屋。部屋には、ベッドと勉強机。机の上には、マーマやナイナイ(奶奶=父方のおばあちゃん)に買ってもらった鉛筆がならんでいます。
 広い中国には、1本の鉛筆を買うにさえ不自由している子どももいるという現実をシンシンが知るのは、まだもう少し先のことになるでしょうか。

 鉛筆1本買うにも、何の不自由もしていないシンシンがもう少し大きくなったら、ひとつの歌を教えようと思います。

 両手で伴奏を弾くのは私にはまだできないけれど、いつかシンシンに聞いてほしい歌。
 一本の鉛筆の歌。

♪一本の鉛筆があれば 私は あなたへの愛を書く
  一本の鉛筆があれば 戦争はいやだと 私は書く

  一枚のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く
  一枚のザラ紙があれば あなたを返してと 私は書く

  一本の鉛筆があれば 八月六日の朝と書く
  一本の鉛筆があれば 人間のいのちと 私は書く

<つづく>
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2009年08月07日


ニーハオ春庭「大連自然博物館」
2009/08/07
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(3)大連自然博物館

 大連に着いた日の午前中、雨模様でしたが、星海広場という海岸を散歩しました。大連はさまざまな地層が露出していることで有名な都市で、海岸にも、黒石礁などの貴重な地層があちこちにあり、観光名所になっています。
黒石礁風景区の写真のサイトをリンク
http://people.icubetec.jp/special/mapchina/liaoning/pm/a778f01952ef4051a5ac6aa72889d426

 これらの地層を見ているうち、雨がぱらついたので、星海広場に建っている自然博物館で雨宿り。私が「中を見たい」というと、ハンさんは、博物館に勤務している知り合いに電話をかけて、入館許可をもらってくれました。

 この博物館は3日前以前に予約しておかなければ、すぐには入れない場所だったのですが、特別に許可されて中に入れることになりました。貴重な展示品の保護の意味もあり、3日以上前に予約をして身元確認ができてからやっと見学が許可されるということでしたが、博物館研究者の知り合いで身元は確かなハンさんですから、すぐに見学できることになり、ラッキーでした。

 知り合いという人は、ハンさんとは「登山の会」の仲間です。大連付近の山を歩いて植物採集を続け、つい最近、新種を発見したという女性植物研究者でした。
 中国でコネを利用して得をしたのは、はじめてのことです。何のコネもない春庭だったので。

 自然博物館の内部は、東京上野の科学博物館と似たような展示でした。階ごとに岩石と地層、植物、哺乳動物、鳥類、海の生き物などのコーナーがあり、さまざまな標本が展示してあります。中国の子どもたちが自然科学の一端に触れられるようになっていますが、上野の科博に比べると、まだまだ展示に工夫の余地がありそうです。

 最近の日本の博物館は、研究の機能のほか、教育の機能も充実してきていますが、中国では博物館の普及、教育の機能はこれからだろうと感じました。ただ、予約は必要なものの、博物館の入館は無料。これは日本も見習うべきでしょう。日本の国立の博物館は独立法人になって経営が苦しいのはわかりますが、一般の人の入館料は国民の財産として無料にすべきと思います。

 岩石や地層を展示している1階、2階以上の植物、動物、海洋生物など、テーマごとにしっかりした展示でしたが、現在の上野の科博などの展示方法からみると、専門的な知識を持っている人でないとわかりにくい展示が多いように思えました。
 専門的知識のない者にもおもしろく興味をもてるように見せる、という点では、上野の科博は展示方法も洗練されていて、小さな子どもでも、科学への興味が持てる館内構成になっています。大学メンバーズシップという制度があって、大学の職員証を見せると無料で入れるので、折りにふれて科博を見ているのですが、改装のたびに展示が充実してきたと感じています。

 中国の博物館から日本へ研究留学する学者は少なくないだろうけれど、専門の学芸員、キュレーターの養成にも、科博や国立博物館への留学生を送り出せたらいいのになあと、思いました。展示方法ひとつで、ひとつの科学的な展示品が「へぇ」と眺めるだけのものから、無限の科学への興味をひきおこす魔法の品に変わるからです。

 科博にも鯨の骨格標本やプラスチックモデルはありますが、大連自然博物館には、日本にはない展示として、海岸に打ち上げられた鯨をそのまま剥製にして展示してある階が、迫力ありました。ミンククジラ、ナガスクジラ、マッコウクジラなどが、巨大な体躯が展示されていたので、鯨といっしょに写真をとりました。剥製の制作に薬品処理を行っているせいか、においがきつかったけれど、鯨の大きさを実感できました。。

<つづく>
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2009年08月08日


ニーハオ春庭「少女と子犬」
2009/08/08
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(4)少女と子犬

 博物館から歩いて、ブランチをとりに人気の火鍋店へ。昼時にはちょっと早い時間だったので、待たずに入れましたが、昼時夕食時はいつも列を作って人々が待っている店なんだって。それでウエイトレスたちは何を勘違いしたのか、非常にいばっていて、このごろではサービスが最低だと、ハンさんは嘆いていました。
 それでも、デパートもレストランも店員が「国家公務員」でみんな威張っていた時代に比べると、まだましなんじゃないかと思う。サービス悪くても、中国ではサービスの質はどこも悪いから、結局おいしい店が繁盛する。それでますますサービス悪くなる。でも、繁盛している店の食材は回転が早くて深浅だから、おいしい火鍋(シャブシャブ)でした。

 私は、夜行寝台車を降りる前にちょこっとパンケーキやナッツを食べて朝ご飯代わりにしたので、早めのお昼がちょうどよく、おなかいっぱい食べました。薬味のおかわりやお水を頼んでもすぐには持ってきてくれなかったりしたけれど、肉も野菜もおいしくいただきました。

 シンシンちゃんは、小学校の正式科目でも英語授業を受けていますが、ほかに、アメリカ人教師から、毎週英語のレッスンを受けています。英会話がとても上達していて、私とはもっぱら英語で会話しました。読むのは複文OKだけれど、会話では複文が出てこずに単文だけで話す私の英語力とちょうどいいくらいのシンシンちゃんの英語会話力なので、2年前にはジェスチャーでコミュニケーションをとっていたのに比べると、いろいろなおしゃべりができました。

 かわいいシンシンちゃんに、「センセー、Do you like dog?」と質問されて「Of course, but do you mean dog as a pet or dog as a meat? In my childhood, I had a cute dog. I like dog very much. But, in the Korean restaurant I like dog meat 」と、答えたら、おばあちゃんが飼っている子犬を私に見せたいのだと言います。あはは、犬肉が好きかどうかではなく、ペットのことだったのね。シンシンは学校から帰ってくると、近所に住んでいる父方のおばあちゃんといっしょにすごしていますが、おばあちゃんは、最近犬を飼い始め、今シンシンは子犬に夢中で、「リリヤ」と呼び、かわいがっています。
 
 火鍋の昼食後、午後、奶奶(ナイナイ=父方のおばあちゃん)が夕食準備をし、マーマが大学の会議に出かけました。「センセー接待係」はシンシンです。いっしょにシンシンの小学校まで散歩に行きました。住まいは5階ですが、エレベーターがないので、ちょっと上り下りがきついですが、道路を隔てて、空き地を越えていくと、目の前が小学校です。

 空き地には、近所の人が思い思いの野菜を植えています。トウモロコシ、ピーマン、トマト、南瓜などが育っていました。ここもやがては整備されて何らかの建物が建つのかもしれませんが、ちょっとした空き地があれば、たいていそこは畑となるのが、東京などの空き地と違うところかも。東京だと、空き地は駐車場になる。

 空き地でリリヤを放しましたが、まだよちよち歩きの子犬はあまり歩きたがらず、歩かせると行き先とは反対の方向に行きたがる。シンシンは手提げ袋の中に子犬を入れて抱えて散歩しました。
 小学校はすでに夏休みになっているので、校門から中へは許可された人しか入れないというので、門の前で何枚か写真をとりました。小学校前でリリヤを袋から出して歩かせようとしたら、リリヤはよその知らないおばさんにくっついてトコトコ歩き出し、シンシンはまた、袋に入れてしまいました。「子犬の散歩」として出てきたのですが、リリヤはほとんど歩かなかった。

 「少女と子犬」の写真は、とてもかわいらしくて、よい「大連記念」になりました。

<つづく>
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2009年08月09日


ニーハオ春庭「大連海鮮料理」
2009/08/09
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(5)大連海鮮料理

 家に戻って、シンシンが習っているダンスの発表のビデオを何本か見ているうち眠くなったので、お昼寝。夜行寝台車でも十分に眠れたと思っていましたが、朝5時起きだったので、少し睡眠不足だったのか、2時間ほど眠りました。
 昼寝から起きて、シンシンと「あっちむいてホイ」をして遊んでいると、家庭教師のエリスがやってきました。エリスは大連の外国語大学のひとつで英語教師をしています。
 名前は、アリスかと思ったらエリスだというので、ドイツ系のアメリカ人なのかと思いました。

 私の勤務校で、アメリカ人英語教師のトムは日本語教師の2倍の給料を得ており、その金額の差を知ったとき、私たちは「うぁあ、どうしてアメリカ人教師は2倍ももらえるのよっ」と思ったものですが、中国で働きたいという英語ネイティブの教師はまだまだ少ないので、希少価値分が給与に反映されているということです。

 日本語教師のほうはというと、中国で仕事をしていた日本人ビジネスマンが、退職後に中国で日本語教師になったりする例も多く、日本語教師はいくらでも補充がきくと思われている。日本語基礎は中国人教師が教え、ネイティブには「ビジネスで役立つ会話」などを担当させる学校が多いので、日本語文法や音声学など日本語学を学んだ者より、「ビジネス日本語」を知っている者のほうが重宝だ、というわけです。
 日本語教師、日本国内だけでなく大陸でも待遇は悪い。

 と、愚痴はともかく、シンシンが英語レッスンを受けている間にハンさんが大学の会議をすませて帰宅し、ハンさんのご主人も帰宅しました。
 ハンさんのご主人は、大連開発区に本社がある化学会社に勤務しています。お姑さんを大事にするハンさんなので、家族はとても仲良く暮らしている様子でした。

 11歳の孫を持ち、髪が白いので、私よりずっと年上に思えたお姑さん、実は私より一歳年下でした。ハンさんが大学の会議に出ている間、台所で朝市で選んだ海鮮類を下ごしらえして、水餃子も皮から作って夕食の準備を整えてくれました。

 ご主人が帰宅したので、シンシンが英語レッスンを終える前に食事を始めました。ハンさん、ご主人のリューさん、ご主人のお母さん、私。ビールで乾杯し、テーブルには、朝市でハンさんとお姑さんが品定めした大連特産品の海鮮のごちそうが並んでいます。蒸しあわびがメインディッシュ。山葵醤油でおいしくいただきました。

 あわびやなまこ、わかめは、大連の海岸での養殖が盛んで、大連の漁業は近海の漁以上に養殖産業が発達しています。日本で鮑をおなかいっぱい食べるなんてできないことなので、「どうぞ、どうぞ」の声に甘えて、どんどん食べました。蝦の炒め物、魚の蒸し煮もおいしい料理でしたが、なんといっても鮑がごちそうです。
 主食の水餃子は、セロリと牛挽肉。これもおいしかった。

 夜は、大学本部キャンパスの中にあるホテルに泊まりました。大連観光シーズンのため満員で、「一泊ならあいている部屋があるけれど、二泊はできない」と言われて、一泊だけ宿がとれました。

<つづく>
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2009年08月10日


ニーハオ春庭「金石縁の巨石」
2009/08/10
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(6)金石園の巨石

 大連2日目は、海浜リゾートへのピクニックに出かけました。ご主人が会社に行ったあと、お姑さん、ハンさん、シンシンちゃん、私、4人で新交通路線で大連郊外の金石灘リゾート地区(金石灘(滩)国家風(风)景名勝(胜)区)へ。快軌3号線に乗って、金石灘駅まで50分ほど。

 いつもは星海広場の海岸がすぐ近くにあるので、遼東半島の郊外地域に位置する金石灘へは出かける機会が少なく、今回はシンシンちゃんにとっても、初めての海岸リゾート遊覧になるということでした。東京でいうと、お台場の海は近いのでいつも来ているけれど、たまには三浦海岸に遊びに行く、ってところです。

 金石灘駅で、ハンさんは「リゾート半日遊覧」のチケットを購入。一枚60元です。このチケットに、遊覧バスのほか、蝋人形館、地層公園、中国武術館などの入場券が含まれています。

 最初は蝋人形館。ほんとうは、私としては蝋人形はパスしてもいいかなという気分でしたが、シンシンちゃんやお姑さんにとっては、中国の有名人や世界の有名なお話しの主人公を見るのは楽しみなことだろうと思っていっしょに入館しました。

 最初のコーナーは、北京オリンピックのメダリストたち。また、NBAバスケットチーム、ヒューストンロケッツのスター選手、姚明(ヤオミン)の人形と写真を撮るコーナーなどがありました。姚明、身長228cmということは新聞などで見ていたし、写真も見たことあったのですが、蝋人形の前に立ったら、あまりのデカさに、圧倒されました。蝋人形館をちょっと馬鹿にしていましたが、姚明のデカさを実感しただけでも、入ってよかった。

 メダリストコーナーのあとは、毛沢東、周恩来ら偉人コーナー、歴史上の人物コーナーには、始皇帝や康煕帝など中国史の人物のほか、世界史コーナーにはヒットラーやらビルゲイツやら。中国人はお金持ちが大好きなので、ビルゲイツはどこに行っても人気者です。
 世界の有名なお話コーナーでは、ロミオとジュリエットとか、白雪姫とかの蝋人形。ここらへんは、さっさと通り過ぎました。シンシンにとっては、蝋人形で見たお話に興味を持って、これから読書レパートリーになっていけばいいと思います。
 正式名称「金石世界名人蝋像館」の前で写真を撮って、次の観光ポイントに向かう遊覧バスに乗りました。

 次は、私には興味津々の金石園(金石縁公園)へ。大連にはさまざまな地質の標本が露出しているのですが、この金石園は、5~7億年前の海底の地質が海岸に隆起して、さまざまな形の石のオブジェになっています。
 「岩の上に上ること禁止」と書いてありますが、見物客はどしどし登っていって、写真を撮りあっている。石が層になっているようすがよくわかります。こんなに大勢の人が登っていったら、層の部分が削れてしまうではないか、と心配になったのですが、3万㎡という園内の、研究用には保存された場所があって、こちらは観光客用に公開されている場所なのだ、と思うことにしました。

 北京オリンピック前には、政府はやっきとなって観光地のマナー向上キャンペーンを繰り広げましたが、どこにでもゴミを捨てる、ちょっとした暗がりでは誰かしらが立ち小便をしているという中国マナーは、オリンピック終了後は元の黙阿弥で、どうも改善の見込みはないらしい。

金石園の写真を載せているブログをリンク
http://japanese.dda.gov.cn/2009/06/14/1080.shtml

<つづく>
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2009年08月11日


ニーハオ春庭「海の恋」
2009/08/11
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(7)海の恋

 大連には海水浴ができる海岸がたくさんありますが、シンシンちゃんといっしょの海浜ピクニックは、「海の恋海岸」へ。ここは、大連で結婚式を挙げるカップルが、結婚前に婚礼前撮り写真を撮影するときの名所です。私たちが海辺で一休みしている間にも、プロによる写真撮影をしている若いカップルがいました。
 私のクラスの班長さんキンセイさんも5月の休暇の際に大連で結婚写真を撮影したということでした。撮影は何カ所かを移動して行うのでとても疲れたと言っていましたが、この海の恋海岸でも撮影したかどうか、8月に再会したら聞いてみましょう。

 海の恋海岸で、海辺にシートを広げて、大の字になって私とハンさんが寝ている間、シンシンちゃんはおばあちゃんといっしょに膝まで海に入って大喜びです。波と戯れている少女の姿、ほんとうにほほえましく、ほのぼのとしてきました。

 海に入って泳いでいる人も何人かいましたが、ほとんどの人は、波打ち際で波と戯れている。中国13億人の大部分は泳げない。
 私のクラスでアンケートをとったら、大学院修士修了生20名のうち、泳げる人は半分に届かなかった。エンテイさんは、今年初めて友人に泳ぎ方を教えてもらったそうで、彼を含めても10人未満。

 中国内陸部の海や川から遠い学区で育った人は、ほとんど泳げない。学校にプールはないし、水泳教育は中国の学校体育の項目に含まれていない。スイミングスクールに通える上層部の子弟であるか、少年宮などで特別な英才教育を受けたという人でないと、泳ぎ方を習うチャンスがないのです。飛び込みやシンクロナイズドスイミング、競泳での記録台頭著しい中国ですが、一部の英才教育を受けて選手となる人のほかは、水に縁のない人のほうが圧倒的。

 戦後日本で、あっという間にどんな山間僻地の小学校でもプールを設置した、あれはいったいどういう教育施策によったのだろうと、今更ながら不思議に思いました。日本は川が多く、水遊びできる川もあって、プールがなくても泳げる子どもはたくさんいたのに、学校プールの普及はめざましかった。

 幼稚園や小学校1年2年のころ、私は、家から歩いて3分のところに流れる吾妻川で浮き輪でぱちゃぱちゃやっていました。私の小学校にプールができたのは、私が3年生のとき。姉が毎月とっていた小学生雑誌の付録の「ひとりで泳げるようになる本」というのを読んで、その通りにやってみて、浮き輪なしで一人で泳げるようになりました。

 娘が小学1年生のとき、担任教師から「学校は水に慣れさせる場であって、泳げるように教育するところではない」と断言するのを聞いて、娘と息子はスイミングスクールに通わせました。極貧の我が家が教育にお金をかけたのは、このスイミングスクールだけ。娘と息子は、この夏のローマ世界水泳大会をライブで全中継見るほどの水泳好きに育ちました。(ライブを見るために昼夜逆転生活をしていた。予選が始まる午後6時前におき、ライブで午前2時から4時までの決勝を見てから寝る、という生活を10日間)

 娘は高校の、息子は中学校の水泳部に入って選手になりましたが、今は全然泳がず、もっぱらフェルプスや入江、古賀のタイムに一喜一憂してさわぐだけです。たまには海辺へでもでかけて、「海の恋」とやらに遭遇してほしいのに、昼夜逆転生活をぐうたらと続けています。そりゃあ、背泳ぎの入江も古賀も、解説していた平泳ぎの北島もイケメンですけれど、テレビの中の水しぶきでは、足にも手にも水はひっかからない。

 中国では、ミドルクラスの教育熱で、スイミングスクールに子どもを通わせる親も増えてきたそうですが、まだまだ北京上海などの大都市に限られており、全国の子どもたちが泳げるようになるのは先のこと。

 そうね、海で泳ぐのもいいけれど、海岸で恋を語り合うのはもっといいかも、ここは「海之恋」海岸だし。
 なんていうことを思いめぐらしながら、海岸の砂に上に横たわって大連の空を見ていました。

 私もちょっとだけ海に足を浸して、波の満ち引きを味わいましたが、すぐに貝と石を拾い集めるほうに回りました。日本の地質学の先生たちへのおみやげの石。
 葫蘆島市の海辺に行ったときも渤海湾の石を拾いました。大連市も渤海湾のはしっこの半島ですから、基本的にそれほど変わった石の構成ではないとは思うものの、専門家が見たら、葫蘆島の浜辺の砂と大連の浜の砂を比較したら興味深いものであるかと思います。日曜地学ハイキングでお世話になった先生方にいつかお渡ししたいと思って、石や砂を持ち帰ることにしました。

 お姑さんがゆでてくれたトウモロコシやソーセージを食べ、桃をむいてお昼ご飯を潮風と共に味わいました。「海之恋」海岸、やっぱり私は「海の恋」より「海の食欲」でした。潮風ランチも満腹です。

<つづく>

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2009年08月12日


ニーハオ春庭「カンフーショウと満族レストラン」
2009/08/12
ニーハオ春庭・九年母日記0908>大連再訪(8)カンフーショウと満族レストラン

 金石灘は、海岸線が20キロも続く天然の地質博物館です。金石縁公園は、5~7億年前につくられた太古の地質地層を見ることが出来ましたが、このあたりの海岸全部が、地質公園。大連の海岸に、さまざまな地質の岩があります。岩礁や岸壁の形やさまざまな色の奇岩があり、海触暗礁林と呼ばれています。
 数億年という年月と風雨に晒された岩は、珍獣奇獣を連想させる形や、小豆色や黄金色など鮮やかな色を見せており、岩というより天然の芸術品です。

 地質学の専門家でない一般の観光客に人気なのは、見立ての岩。日本でも「烏帽子岩」とか「夫婦岩」とか、海岸の岩がいろいろな形に見える場所が観光名所になっていますが、大連でも同じ。「ベートーベン(貝多芬)の頭」という名の岩あり、「恐竜が海を飲み込む」という岩あり。恐竜が首を伸ばして海に口をつけているように見える岩、ほんとうに海水を飲み込もうとしているように見えます。

 金石灘最後の観光スポットは、中華武館という場所での武術ショウ。昔の武術館を模した大きな建物。舞台にスモークがたかれ、武術ショウが始まりました。少林寺、カンフーなどの中国伝統武術が見た目も鮮やかに、次々に繰り広げられます。
 山東省の武術大会でチャンピオンになったという若い女性武術家は、鎖鎌や棒術で華麗な技を披露していました。そのほか、剣山の上に横たわって、腹の上にまた人が乗って剣山を重ねたり、ガラスを粉々に割ってその上で武術を行ったり、これでもかってぐあいに「すんごい!」技が披露され、日々鍛錬を怠らない中国武術の伝統を見せつけました。

 この武術館の隣は、「大連模得芸術学園」です。この、「大連モデルアートスクール」というのは、中国で有数のファッションモデル養成学校。校長は中国出身者で世界的に活躍したモデル出身の方で、ハンさんは、大連のタウン情報誌記者として働いていた頃にインタビューをしたことがあると話していました。とても華やかで美しい人だったそうです。
 1993年創立の大連モデル芸術学校は、中国初の国家公認のモデル養成校として、この校長の薫陶のもと、中国全土、そして世界的に活躍するモデルを輩出し、中国人モデルのの多くがこの学校の卒業生なのだそうです。

 ハンさんと、武術もいいけれど、このモデル学校も観光コースに入れて、ファッションショウを見せてくれればいいのにね、と話し合いました。

 海辺リゾートの夕暮れを身ながら、大連中心街に戻り、夕食は近頃評判という満族料理の店へ。満州八旗の貴族だった祖先を持つ人が、最近の少数民族ブームにのって、満州族の貴族料理の店を開き、大評判なのだとか。久光という日系企業のデパート9階にある「多雨褒王府」という店です。

 入り口には満州貴族の衣装をつけたウエイトレスが迎えてくれて、席につきました。ハンさんは、「ここも人気店になるにつれ、サービスが悪くなった」と言います。電話予約をし、少し遅れるという連絡をしてあったにもかかわらず、「時間に客が来なかったから」と言う理由で予約席がなくなっており、別の席が用意されるまでちょっと待たされました。
 料理は、一般の中華料理とはひと味変わったメニューもあり、おいしかったです。

「多雨褒王府」を紹介しているブログをリンク
料理の写真など
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuaki930jp/18373706.html
店の内装とウエイトレスの衣装
http://www.dalian2.cn/1/viewspace-323#xspace-tracks

 おいしい満族料理を堪能し、7月24日夜10時発の夜行寝台車に乗車しました。ハンさんには、8月の再会を約束し、今回の中国滞在最後の楽しい旅を締めくくりました。

<つづく>
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2009年08月13日


ニーハオ春庭「絵馬にこめた願い」
2009/08/13
ニーハオ春庭・九年母日記0908>再見中国(1)絵馬に込めた願い

 7月25日には、4ヶ月半を過ごした宿舎の荷物整理。8月に再訪したときのために夏服や日用品を残しておくことにして、段ボール一箱とキャリーカート二つを残しました。一番重い本と書類は段ボールにつめて、郵便局へ。SAL便(7kg380元)で送り出しました。あとは、適当にスーツケースにつめて、25kgの飛行機荷物制限内になるように調整。
 残りは手荷物。手荷物はパソコン2台。おみやげのうち壊れ物と、石と砂も手荷物。重たいものは、スーツケースに入れると超過料金を取られるから、手荷物のカートに入れます。

 7月25日夜は、同僚と最後の晩餐。桂林路のちょっとこじゃれたレストランバーで、4ヶ月半の思い出を語りながら中国赴任最後の夕食をいただきました。
 雪も降った3月から、過ぎてしまえばあっという間の4ヶ月半でした。それぞれクラスや町のなかで、いろいろな思い出があったのをふりかえり、しみじみビールやカクテルを飲みました。

 一番楽しかった思い出は?一番たいへんだったことは?など、お互いに披露し合い、それぞれ別々に出かけた旅行の写真を見せ合いました。
 一番若いバンブー先生は、私がしたかった「内モンゴル出身の学生といっしょに、学生が帰省するする村へついていく」という旅行を実施しました。私の部屋に遊びに来た蒙古族のボタンさんに出した私の希望は、「伝統的なゲル(包・パオ)」に住んでいる人がいたら、そこにホームステイしたい」というものでした。内モンゴル出身のボタンさんは、「モンゴル共和国(外モンゴル)にはまだ包で暮らしている人もいるけれど、内モンゴルでは中国政府の定住政策があるので、遊牧生活している人はほとんどおらず、皆、定住の住宅に住んでいる。包(パオ)は、ホテルしかない」ということでした。

 パオに泊まれないなら、無理して今回内モンゴルに行かずに、大連の友人を訪問するということにした私でしたが、バンブー先生はボタンさんとともに内モンゴルへ行き、彼女の家や、羊牧場を経営しているおじさんの家にホームステイをしたと、写真を見せてくれました。モンゴル族伝統の衣装を着て白馬に乗って写真をとっているバンブー先生、カッコいい。ハンサムな先生が文字通りの白馬の王子になっていました。

 一家は羊を一頭解体して、ごちそうしてくださったということです。
 「やはり、日本人だから、羊をしめるのを逐一見ているのはつらかったけれど、せっかくの好意で羊をごちそうしてくれるのだから、見ているのが礼儀かと思って、最初から最後まで見ていた。血も腸につめてソーセージにするところも、これは日本では絶対に作らない料理だから、貴重なシーンと思って見ていた」と話していました。ううっうらやましい。私もいっしょに行きたかったけれど、ボタンさんはバンブー先生のクラスの学生だから、ちょっと遠慮したんです。

 若くて優秀なバンブー先生、4ヶ月半の授業でもさまざまなアイディアを出して工夫しており、パワーポイントファイルの作成でもがんばっていました。
 「~できるように」という文型の練習のときに、私も彼のアイディアの「絵馬に願い事を書き入れてみよう」という教室活動をまねっこでやらせてもらいました。

 パワーポイントで絵馬の写真を見せ、それから神社に絵馬の願い事を奉納しているようすの写真、絵馬に合格祈願や安産祈願などの願い事が書かれている写真を見せました。絵馬の形をA5サイズに印刷したものに「学生の日本語が上手になりますように」「家族が健康に暮らせるように」と書いた私の絵馬の見本を見せ、学生それぞれに、絵馬に願い事を書かせたのです。「日本に留学できるように」「博士号がとれるように」「一家が平安でありますように」など、それぞれの願い。「3班の学生と先生がみな健康でありますように」という気遣いの絵馬もありました。

 書き上げた絵馬は、教室に張り出し、最後は学生に「願い事が叶えられたら、お焚きあげといって、燃やすんですよ」と、解説して持ち帰らせました。
 「健康で中国の任務を遂行できますように」「クラス全員、2級レベル試験に合格できますように」という私の願いも満願となり、絵馬授業は大成功でした。

<つづく>
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2009年08月14日


ニーハオ春庭「再見中国」
2009/08/14
ニーハオ春庭・九年母日記0908>再見中国(2)再びの大陸

 いっしょに4ヶ月半を過ごした日本人教師たち、それぞれに思い出を胸につめ、お土産もスーツケースに詰めて、帰国の朝を迎えました。

 7月26日早朝の便で成田へ。
 空港の手荷物検査でひっかかったのは、ペットボトルに入れた大連海辺の砂でした。X線でのスキャン画面を見ると、爆発物が入ったボトルのように見えたのか、キャリーカートを開けるよう係官に言われました。「これ、大連の思い出の砂ですよぅ。怪しいもんじゃありません」と(日本語で)主張し、中国語上手な同僚が説明してくれました。引き留められるかと覚悟したのですが、公用旅券のおかげか、係官は「sorry」と言って通してくれました。イェンチュヮン先生、援護をありがとう。

 充実していた4ヶ月半の思い出をアルバムに整理しきれないうちに、再び中国へ向かいます。旅行や宿舎での生活部分はまだまとめていないのですが、学生たちとすごした学校での思い出は、pptファイルにまとめました。「3班思い出のアルバム」「3班の仲間たち」という」写真集をパワーポイントファイルにしたので、学生たちにコピーして渡すつもりです。

 クラスの学生がときどきメールを送ってくれるので、1ヶ月離れていた気持ちはぜんぜんしていなくて、ずっと学生たちといっしょにいる気分でしたが、いよいよ再会できます。
 学生のひとりは、みんなで楽しく笑った話をメールに書いてくれました。

 「今、私たちは専門によって、新しいクラスを再編しましたが、原3班の皆さんはいつも一緒に話したり、遊んだりします。みんな一緒にご飯を食べている時、よく先生と一緒に暮らした時期を懐かしみます。3班で勉強する時間が一番短い私はいつもそばでみんなの話を聞きます。みんなの話や笑顔から、先生と一緒に暮らした時の楽しさがよく分かりました。
 ある日、ヨウさんは「老師悄悄的走了,帯走了教我的所有語法」(先生はそっと日本へ帰りました。教えてくださった日本語も全部連れていきました)と言う冗談を言いました。彼は中国の詩人、徐志摩の書いた『再別康橋(さようなら ケンブリッヂ)』という有名な詩を模倣して言いましたから、みんなよく笑いました」

 「再別康橋」という詩は、中国の国語教科書にも載っている有名な詩です。それをパロディにして、専門日本語が難しくて四苦八苦して学習しているようすを「先生は教えた日本語を全部日本へ連れて行った」と冗談を言って笑っている仲間たち、ほんとに愉快でなごやかな、いいクラスでした。

 医学用語、経済用語などの難しい専門日本語に苦労しているようすはメールでもよくわかりましたが、日本語が一段と上達しているようすを知るのが、楽しみです。
 絵馬に願いを書き込んだ通り、「日本語が上達するように」「博士号がとれるように」という希望に向かって、日本語学習を続けていることでしょう。

 広大な中国、行きたかったけれど行けなかったところがたくさんあります。3回目の中国滞在を終えたと思ったら、早くも4回目の中国訪問へ。
 半年ずつ滞在した前の3回と異なり、4回目は、2週間の滞在で短いですが、4回目の目玉は、中国と北朝鮮国境にそびえる長白山(北朝鮮側の呼び名は白頭山)登山です。標高2744m、頂上の「天池」というカルデラ湖を見るのが目的です。

 この山の名前、このあたりを支配していた満州族のことば満州語で「ゴルミン・サンギヤン・アリン(Golmin Šanggiyan Alin、=どこまでも白い山」という意味です。満州族が漢族の文化と同化して、漢字翻訳の「長白山」という名になりました。
 ゆっくり時間をかけて、安全登山を心がけます。
 
 では、4回目の中国行き。行ってまいります。本日出発、帰国は月末。

<おわり>

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ニーハオ春庭中国日記「美人新入生&ベリーダンス」

2011-07-17 08:00:00 | 日記

ニーハオ春庭「美人新入生」
2009/07/23
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(21)美人新入生

 美人揃い、ハンサム揃いの我がクラスの、「美人平均値」が一段と上がったのは、7月6日に、新入生が加わったから。他のクラスの男性陣も「美人新入生」に注目。
 修士課程修了後、大学のアシスタント教師をしていた女性で、自己紹介スピーチとして、生まれ故郷の無錫の紹介をしてくれました。大学の仕事を辞めてこちらに来る前の、自分の教え子学生たちとの記念撮影では、学生に囲まれた写真のようすから、皆に慕われた先生だったことがよくわかりました。修士の専門は日本経済。同志社大学の博士過程では経済学を専攻する予定です。

 彼女は学部では日本語日本文学を専攻し、日本語能力試験1級に合格していますから、本来は、日本語教育の受講は免除されています。しかし、彼女は「日本語の復習をしたいから、クラスに参加したい」と自分から希望して授業に出席することになりました。

 中級の2級レベルを学習しているクラスですから、彼女にとっては、すでに習ったことばかりのはず。でも、彼女は熱心に授業に参加し、クラスメートたちにはよい刺激になりました。

 自己紹介のスピーチでも、1級レベルになると、このようになめらかに豊富な語彙を使って表現できる、と言うことがクラスの学生たちにわかって、よい刺激になりました。
 他のクラスの「まだ恋人いない軍」の男子学生たちも、美人新入生が3班に入ったことをうらやましがっています。

 2007年のときのクラスは、大学若手教師がほとんどを占めていて、21名の学生のうち、独身は5人だけでした。(そのうちの2人は日本に行ってから恋人同士になったようです)

 2009年の今年のクラスは、2008年6月に修士課程修了する前に「国費留学生試験」にパスして、就職経験を持たずに日本語教育を受講している学生がほとんどなので、班長のキンセイさんと、学芸委員のソケツさんが結婚しているだけで、あとは独身。

 といっても、美女美男の我がクラスですから、ほとんどの学生は、学部時代、院生時代にすでに恋人を得ています。クラスの中には、院生時代から恋人同士になったカップルがいて、ふたりが仲良く並んでいるようすは、恋人同士というより、むしろ「長年連れ添った夫婦」のような互いの信頼感と落ち着いた愛情が感じられます。

 男性の「恋人いない3人組」のうち、ショウケンさんは最近「学食デート」して女性といっしょに食事している姿を見かけたのですが、交際申し込みが受け入れられたという噂はないので、まだ恋人成立には至っていないらしい。彼は84年生まれで、一番若いので、これからいくらでも恋人を得るチャンスはあるでしょう。

 男子学生で一番年上のレイトウさんは、学部を卒業した後、数年会社で働いてから修士課程に進学した人です。とてもよい性格で落ち着いた優しい人柄なのに、なぜか今まで恋人はいなかった。
 レイトウさんは、宿題の「習った文型を使って短い文を書いてください」という課題に、クラスメートの学習委員について、話題にすることが多かった。

 レイトウさんは、女性の中で一番若くて日本語が上手な学習係が、気になってならないようすでした。たとえば、「~ばかりでなく」というフレーズをつかって文を書いてください、という宿題を出すと、「私のクラスの学習委員は、頭がいいばかりでなく、美人だ」と、書いてくる。「~はずがない」というフレーズの作文では、「カショさんは、頭がよくてきれいなので、男性は彼女が嫌いであるはずがない」と書きました。

<つづく>

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2009年07月25日


ニーハオ春庭「シングルたち」
2009/07/25
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(22)シングルたち

 ある日の作文、「~べき」「~か、どうか」というフレーズを使って作文を書きなさい、という宿題ではレイトウさんは、「もうすぐ、中級の授業が終わりになり、クラス替えがある。残念なことにならないよう、自分の気持ちを言うべきだろうか。告白をするべきかどうか、、、、」と、書いてきました。私は、「勇気をだして告白したほうがいいですよ」と、コメントを書き込んで宿題を返しました。さて、どう進展したか。

 学習委員のカショさん、クラスで一番若い(84年生まれ)学生。修士号取得を最短で終了してきた優等生です。彼女は、とても活発で親切。歌と踊りが上手で、日本語も上手です。彼女が、文法問題や日本語類義語の微妙なニュアンスの違いなどを質問してきたときなど、私が日本語で説明し、彼女が理解した後、それを中国語でクラスの人に解説してもらう、という場面もよくあり、学習係としてクラスの日本語学習の向上に役立ってきました。

 彼女には北京に恋人がいて、今は遠距離恋愛中です。中国でも最近の学生遠距離恋愛は、スカイプ利用でパソコンで会話ができ、互いの気持ちを伝えあうのでも、すれ違いはないようです。彼女に恋人がいることは皆知っていました。

 コメントに触発されたのかどうか、レイトウさんは思い切って学習係に告白したみたい。結果は、、、、、、残念。「今、恋人がいるから、ごめんなさい」でした。仕方がないですね、今のカショさんの恋人もとてもすてきな人のようです。
 レイトウさんは、「結果は残念だったけれど、告白しないで心残りになるより、思い切って言ってよかった」と前向きにとらえて、クラスの中では「ふられてスッキリ」とふるまっています。クラスメートたちも皆それを知っていて、温かく見守っています。頭がよく、背が高くハンサムなレイトウさん、いつか必ずすてきな恋人と巡り会うことでしょう。

 もうひとりの「恋人いない歴26年」のエンテイさん、彼とは、毎日学校で顔をあわせているほか、「運命の出会い」がありました。7月4日に宿舎のすぐそばのスーパー近くで、偶然会ったことがあります。エンテイさんは先輩と近くの繁華街桂林路で食事を済ませたところでした。

 エンテイさんは、動物園散歩をしたおりに、私の宿舎へきたことがあるので、「宿舎はすぐそこだから、いっしょにお茶でも飲みましょう」と、部屋でおしゃべりすることにしました。先輩の四喜さんは、日本語は全くわかりませんが、エンテイさんが通訳してくれました。英語が少しはわかるというので、英語で話しかけてみても、エンテイさんが中国語に通訳するので、しばらく、英語日本語中国語のチャンポン会話を続けました。

 エンテイさんの先輩、四喜さんは、近くの大学病院で働いています。二人は薬学を専攻し、先輩の四喜さんは大学病院に職を得て働くようになり、エンテイさんは、大学院へ進学しました。

 エンテイさんは先輩をたて、とても優秀な人だと紹介してくれましたが、四喜さんは、東京大学に国費留学することが決まっているエンテイさんの境遇のほうが、大学病院で働くよりいいと考えているらしく、「大学病院の仕事はあまりおもしろくない」と、こぼしていました。
 確かに、博士過程に進学する国費留学生は、博士号をとって帰国して中国の大学で働くとしたら、薬学部教師のポストが与えられるでしょうから、四喜さんからみると、エンテイさんはエリートコースに乗ったと見えるのでしょう。四喜さんも「まだ恋人いない」でした。
 
 恋人いない歴○○年のレイトウさんもエンテイさんも四喜さんも、きっといつかすてきな出会いがあるだろうと思います。それまではシングル男の自由さを楽しんでください。

 自分の気持ちをきちんと告白したレイトウさんを見習って、私も「運命の出会い」をしたエンテイさんにプロポーズしておきました。「あなたを私の息子にしたいです。日本にいったら、私の娘と付き合ってね」
 回答は、「お友達から始めましょう」でした。

<つづく>
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2009年07月26日


ニーハオ春庭「民族楽器音楽会」
2009/07/26
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(23)民族楽器音楽会

 6月末の学内縄跳び大会で学内イベントは最後かと思っていたら、7月10日に校舎1階の多目的ホールで「民族楽器音楽会」という盛大なイベントがありました。大学教職員芸術団楽団の演奏による、民族楽器の紹介と演奏。6時から8時までありました。
 勤務校のテイ先生の肝いりで、教職員芸術団楽団のメンバーが、学生と教職員のために、演奏会を開いてくれたのです。
  
 テイ副校長は、皆から「書記」と呼ばれている大学の重鎮です。日本の小中学校生徒会とかPTAでは、役員の中に会長副会長の次くらいに「書記」という係があって、会議の記録などを書いていくのが書記ですが、中国で書記といったら、政治局のエリートであり、とてもエライ人。トップは総書記と呼ばれ、現在の総書記は胡錦涛(ホゥー・ジンタオ)です。

 我が校の「書記」テイ先生は、政治のエリートというより、芸術家の雰囲気がする人で、中国語や中国文化を学ぶために中国に留学している外国人学生に、中国文化を教えるなどしています。私も2007年に、太極拳を教えてもらいました。テイ先生は二胡の演奏にも秀でており、大学教職員芸術団楽団のメンバーでもあります。

 演奏会は、「紅楼夢選曲」から始まり、次にテイ先生による民族楽器紹介がありました。私は二胡は知っていましたが、二胡の同類の楽器に、高胡、板胡、京胡、中胡と、何種類もあることをまったく知りませんでした。これらは拉線楽器の種類。
| 吹奏楽器には、竹笛、笙などがあります。日本の篳篥(ひちりき)に似た管楽器、また、巴烏(バーウー)という雲南省の少数民族の楽器も紹介されました。巴烏は、竹の管に銅のリードをつけ、低音の含みのある音が出ます。
 あとは、さまざまな種類の打楽器。京劇でなじみの打楽器が多い。

 弾撥楽器の種類には、日本と同じ琵琶(中国の琵琶が日本へ伝えられたのだから、同じというのは当然だが)のほか、中阮、大阮というバンジョーに似た楽器が紹介されました。
 楊琴と古箏は、以前紹介したことがある私の好きな弾撥楽器です。楊琴はピアノのように鋼線を張った上を、木琴のように棒で叩いて音を出す。私が習ってみたい楽器のひとつです。
 古箏は21弦で、私はクラスの学生の持ち物である古箏を弾かせてもらい、「里の秋」が上手に弾けるようになりました。

 日本にある中国伝統楽器専門店のサイトをリンク。日本では、どの伝統楽器も20万円ほどしますが、中国で買っても、よい品は5千元くらいして、中国物価からすればとても高い。初級者用は千元くらいから。

二胡の類 http://www.13do.com/product-list/11
中阮  http://www.13do.com/product-list/22
竹笛  http://www.13do.com/product-list/15
巴烏 http://www.catalog-shopping.co.jp/shop/shop14/china/bawu/

 テイ先生の板胡独奏では、「東北風吹月児明」という曲の見事な演奏に聞き惚れました。司会をしていたチャンリー先生は、初級コースのときに博士コースの担任だった先生で、男子学生あこがれの美人教師。ダンスも上手だし歌もうまい。チャンリー先生は「好日子」という曲を独唱して拍手喝采を受けていました。

<つづく>
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2009年07月27日


ニーハオ春庭「里の秋」
2009/07/27
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(24)里の秋

 中国人学生にとって、エレキギターなどの現代風の曲を聞く機会はよくあるけれども、民族楽器オーケストラを聞く機会はそれほど多くなく、中国民族楽器音楽会は、中国の伝統文化を知る貴重な機会となりました。
 二胡の演奏では日本の「荒城の月」の演奏もあり、歌や演奏はよく知られた中国の伝統曲ということで、学生たち、2時間の民族楽器演奏会をおおいに楽しんでいました。
 
 演奏会が終わってから、日本人教師は、中国伝統楽器の試演奏をさせていただき、私はあこがれの楊琴を弾いてみました。調律がたいへん難しい楽器だというので、買って帰ることはあきらめましたが、いつか習ってみたい楽器のひとつです。
 古箏、近所の楽器店で2千元という格安ものが展示されていました。日本円に換算すれば3万円くらい。でも、古箏は、大きくて持って帰るのが大変そうだし、狭い家では、いったいどこに楽器を広げて弾いたらいいのかわからないから、これまた買ってかえるのはあきらめることに。

 古箏は、クラス一の芸術家、エイケツさんの楽器を借りて練習しました。エイケツさんに、古箏はドレミソラの五音階であることを教わり、基本的な弾き方、糸の押さえ方をならいました。日本の十三弦の琴と同じです。あとは、さぐり弾きで「里の秋」を練習しました。「里の秋」は典型的な「ヨナ抜き」つまり、ファとシの音が出てこない曲で、しかも音が順番につながって出てくるので、たいへん弾きやすい。
 クラスのカラオケパーティでも、私は「里の秋」を歌いました。スクリーンには中国語の歌詞が出るので、学生は中国語で、私は日本語で「♪し~ずかな静かな、里の秋、お背戸に木の実の落ちる夜は~」と、歌いました。

 「里の秋」は、敗戦直後のラジオ番組「外地引揚同胞激励の午后」や「復員だより」のテーマソングであり、外地から帰る人々を待つ思いが込められている歌です。遼寧省葫蘆島市の「中国及び満州からの引き揚げ者帰国記念碑」の前で歌おうとおもっていたのですが、行くことができずかないませんでした。

 「里の秋」は、中国ではテレサ・テン(麗君デン・リージュン)の持ち歌「又見炊烟」として知られ、女性が恋人のことを思う歌となっています。
 以下、「又見炊烟」春庭拙訳。(簡体字を日本漢字に変換)

想問陣陣炊烟 你要去那里  あなたがこの里を去ってから、私は夕ごはんを炊くかまどの煙にさえ、あなたを思っています
夕陽有詩情 黄昏有画意   夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你  絵のように美しい景色を見ても、私の心の中には、ただ、あなただけがいる
又見炊烟升起 勾起我回憶  かまどの煙を見てはあなたを思い、あなたの追憶にひたる
願你変作彩霞 飛到我夢里  朝焼けの中に、あなたが飛んで私の元へ来ることをどれほど願い夢みたことだろう
夕陽有詩情 黄昏有画意  夕日のなかに詩情あふれ、黄昏は絵のように美しい
詩情画意雖然美麗 我心中只有你  詩歌や絵画に美しい境地はあれど、私の心の中には、ただ、あなたへの思いだけがある。
詩情画意雖然美麗 我心中只有你

 テレサテンの歌声はこのサイトで。
http://www.haoting.com/htmusic/21022ht.htm

 私も「里の秋」を歌いながら「引き揚げ」完了です。
 というわけで、「日本の博士課程に留学する日本文科省国費留学生への日本語教育」の全任務を終了し、無事帰国いたしました。
 「だだいま!」


<つづく>
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2009年07月28日


ニーハオ春庭「おみやげは肚皮舞衣装」
2009/07/28
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(25)おみやげは肚皮舞衣装

 おみやげ、妹や職場の同僚への物をいくつか買いましたが、自分のためのおみやげもあれこれあります。
 自分のおみやげに楽器を買うことはやめましたが、「よくお仕事がんばりました」の記念品を買い込みました。そのひとつは、ベリーダンス衣装です。コインをつなぎ合わせた腰巻き(ヒップスカーフ)と、スカート、胸を覆うコインをつなぎ合わせた胸当て。
 
 3度目の中国滞在の今回、東方肚皮舞(ベリーダンス)を3ヶ月間習って、けっこううまく踊れるようになりました。(あくまでも主観的な意見ですが)
 あ、ダンスの老師も、「このリーベンレン(日本人)は、私の説明は听不懂(聞いてもわからない)のに、うまくまねをして踊っている」と、誉めてくれたんですよ。
 私、これまでクラシックバレエ、モダンバレエ、ジャズダンスと、ダンス歴は30年、ベリーダンスもレパートリーに入れることができて、大満足です。

 所属しているジャズダンスサークルへのおみやげにも、ベリーダンスの衣装として10人分ヒップスカーフを買い込みました。来年の発表会のとき、皆で「ベリーダンス風」の踊りを発表するのもいいかなって思って。

 私は、練習のときも臍だしはしませんでした。もっとも私が臍を見せても、だれもドキッリともしやしません。自慢じゃないが、まったく色気を感じさせることのない腹です。インストラクターの劉先生が踊ると、同性でもドキドキするくらいセクシーなのに、同じ動き(をしているつもり)でも、私が踊ると、オバハンの健康体操。

 衣装はこんなイメージ。
http://www.tolcore.com/shopdetail/025000000022/

 いっしょに肚皮舞を練習してきたリグン先生からも腰巻き(ヒップスカーフ)をプレゼントしてもらいました。私が買ったのとは違う種類のコインがじゃらじゃらついているヒップスカーフです。リグン先生はちゃんと臍出し衣装で踊っていましたが、こう言っちゃなんですが、お人柄そのままの非常にまじめな踊りで、少しもセクシーではない。中学生の母親と大学生の母親ふたりが、並んでベリーダンス。リグン先生ともこれで2007年2008年2009年と、3年のおつきあいになりましたが、学校で日本語教育の話だけしているときより、ベリーダンスレッスンでいっそう親しくなれた気がします。

 本場のベリーダンスダンサーは、丸くてふくよかであるほどよし、とされており、やせていて細ければ細いほど美しく見えるクラシックバレエやジャズダンスとは違います。私がベリーダンスを気に入った一番の点は、この「ふくよかであるほうが色っぽい」とされる点にあります。セクシーさにかけてはちと疑問もありますが、「ふくよかさ」にかけては自信あり。

 5ヶ月間の中国滞在、成果はベリーダンスだけではなく、もちろん、日本語教育も大成功だったんです。
 我がクラスは、7月17日に実施された「中級終了最終試験」において、全員合格点で「専門日本語」への進級が決まりました。昨年10月にアイウエオから始まったクラス。私たち日本人教師が中国人の先生とペアになって日本語を教えるようになった3月には、4級レベルだった学生たちが、4ヶ月の間に急速に進歩して、2級レベルの試験に合格したのです。

<つづく>
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2009年07月29日


ニーハオ春庭「最終試験」
2009/07/29
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(26)最終試験

 7月に入るとまもなく、学生たちはカリカリピリピリしてきました。それもそのはず、2週間後に迫った中級日本語最終試験に合格しなければ、8月の専門日本語の授業が受けられず、専門日本語授業の最終日本語プレゼンテーションに合格しなければ、1年間日本語を学び続けた努力は泡と消えてしまうのです。

 日本への国費留学ができるかどうか、この試験にかかっています。いわば、一生の問題が試験一つにかかっているのです。試験に合格すれば、日本で博士号をとり、中国に帰国後は「エリート」としての将来が開ける。不合格ならせっかくのチャンスをふいにして、どこかに就職口を探すことになる。中国でも修士修了者が増えている現在、おいそれと望み通りのポストはないし、一般会社の就職口もよい条件のところは限られています。

 動物園散歩をしたあと、私のクラスから6人の学生が私の部屋に遊びに来たのですが、その後、私が日本語教師勉強会で発表しなければならなかったり、論文を提出しなければならなかったりで、時間がなかなかとれなくて、学生を部屋に招待することができませんでした。

 「先生の部屋に行って、おしゃべりできなくて残念だった」という学生がいたので、「試験前ではありますが、もし来られるなら、週末に遊びに来てください」と、クラスの人たちに言っては見たものの、「先生の部屋に行きたいです。でも、試験はもっと大切です」と、ソッコー断られました。もっともなことです。

 学生たちは放課後も週末も、ぴりぴりしながら猛勉強を続けました。私は、学生たちの不安を少しでも取り除きたいと、連日「必ず合格するから大丈夫」と言い続け、「ダンチョー先生が去年の修了生の試験平均点との比較をしたところ、3月の4級レベル試験の平均点でも5月の3級レベル試験の平均点でも、今年のほうがずっと点数が高い。そして去年、最終試験に不合格だった学生はいないのだから、今年も絶対に全員合格します」と、合格できるという暗示をかけ続けました。

 むろん、心配な人もいました。私に古箏の弾き方を教えてくれた芸術家のエイケツさんは、これまでの試験すべて合格点に達したことがなく、百点満点で90点80点とるのが当たり前というクラスの中で、一人だけ日本語がなかなか上達しませんでした。さぼっているわけでもなく、授業にはまじめに出席するし、教科書にはびっしり書き込みをして、一生懸命勉強しているようすが伺えました。でも、私が中国語を覚えられないのと同じように、相性の悪い言語はあるもので、英語ドイツ語フランス語ができるのに、エイケツさんは日本語が覚えられない。

 コミュニケーションをとることが語学上達の要なのに、彼女はクラスの中で孤高を保ち、クラスメートともルームメートとも交流しないでいました。友達と教えあうことは、教える側にとっても理解を深めることになるので、ペア学習、グループ学習は語学学習を成功させる重要な方法ですが、彼女だけは誰とも話さずいっしょに勉強せず、ひとりでいました。誰彼と無く面倒を見てきた学習係のカショさんも彼女だけはお手上げ。

 エイケツさん、芸術家風で変わり者ではありますが、純粋な心根を持つ、いい子です。中国語で執筆されている彼女の「昆曲のリズムと造園法」という修士論文も、その道の専門家に高い評価を受けています。私の願いは、なんとか彼女が合格点をとること。いっしょうけんめい励まして、17日を迎えました。

<つづく>
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2009年07月30日


ニーハオ春庭「合格」
2009/07/30
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(27)合格

 クラスの中で一人で過ごしているエイケツさんのことが、いつも心にありました。仲間と付き合うのが苦手からといって、決して悪い子ではなく、ただ人とうち解けることが難しいだけで、本来はとても純粋なよいひとです。音楽や芸術を愛する女性です。
 エイケツさんが仲間と円満にすごして最終試験を迎えられるよう願ってきましたが、エイケツさんは日本語学習がうまくいかないというイライラが昂じたのか、あと授業は残すところ1週間という時点でクラスメートとトラブルを起こしてしまいました。
 担任のシャ先生や日本語教育主任のマー先生が学生との面談を繰り返して、なんとかエイケツさんとクラスの対立を宥和しようとしてくださったのですが、なかなかうまくいきませんでした。

 エイケツさんが変わり者でクラスになじもうとしないとしても、それは彼女が芸術家であるからなのであって、縄跳びやカラオケに参加しようとしなくても、クラスは彼女の個性を認め、決して排除しようとしたりしなかった。この対立事件のあとも、クラスメートは彼女を仲間はずれにしたりせず、班長(クラス委員長)の結婚祝いのミニビデオ制作のときも、クラスの仲間たちとお祝いのメッセージを吹き込んでいました。

 エイケツさんも、きっと私の祈りが通じて合格するに違いないと信じて、17日の試験当日となりました。私の試験監督担当は、皆が苦手だと言っていた聴解の時間。エイケツさんは、文法苦手ですが、音楽得意なだけあって耳がいいので、聴解の点数はいいのです。自信をもって聴解試験を受けてほしい、そう思ってLL教室を見回しました。

 学生たちには、再試験もあるし、絶対に不合格にはならないから、不安なく試験を受けるように言ったのですが、小学生のときから常にトップの成績を取り続けてきた学生たち、万が一、最初の試験で合格点に達せずに再試験にでもなったら、恥ずかしくて仕方がない、と考えているのです。

 恥ずかしくないよ、語学試験なんて、その時の運、不運によってうまく自分の勉強したところが出ればよくできるし、運悪く勉強していないところがでる場合だってあるんだから、それでその人の全能力が判断されるわけでもない。百メートルを10秒以内で走れる人ばかりではないし、42kmを2時間で走れる人ばかりではないのと同じく、語学が不得意だからとしても、皆、それぞれの専門に関しては優れた業績を残してきた人ばかりなのだから、落ちたら堂々と再試験を受ければいいのさ、と、学生には言いましたが、実は私のクラスで再試験を受ける可能性があるのは、エイケツさん一人。

 結果。
 全員一発合格でした。17日の合格発表の時間、日本人教師たちは帰国の荷物を送り出すために郵便局へ出かけていました。携帯電話の連絡で全員合格を知り、航空便の段ボール箱に名前を書きながら、ボロボロ涙がこぼれました。2007年に全クラス全員合格の報を知ったときもうれしかったですが、それ以上に泣けてきたのは、エイケツさんの結果を心配する気持ちがあったからでしょう。
 エイケツさんは、「ぎりぎり合格」でもいいと思っていたのに、とてもよい成績をとっており、ラストスパートでどれほど彼女が努力したのかよくわかりました。

<つづく>
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2009年07月31日


ニーハオ春庭「合格祝いカレンダー」
2009/07/31
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(28)合格祝いカレンダー

 試験結果を見て、ソッコー故郷へ帰宅したのは、班長のキンセイさん。2週間の夏休みの間に、故郷で結婚式をあげるそうです。新婦は大学院の同窓生で、秋には二人そろって日本へ留学する予定。キンセイさんは国費留学ですが、奥さんは夫にあわせた私費留学。ふたりとも留学後は同じ指導教官のもとで研究を続けます。

 他にも、即刻帰省する学生が多く、金曜日の試験が終わってみると、残っているのは、電車の切符が試験の翌日翌々日にしか手に入らなかった学生たち。みんな一刻でも早く故郷の家族に会いたいのです。夏休みは2週間しかないので、故郷が遠い人の中には、今回は帰省しないという学生もいるので、「今回、帰省しない人は、先生の部屋に来てください。ビールで合格祝いの乾杯をしましょう」と言いました。

 土曜日と月曜日の2回、担任クラス3班の学生やそのルームメート、恋人もいっしょに集まりました。土曜日は、「先生の部屋に午前中しかいられません。午後の電車で家に帰ります」という人たち。ビールで乾杯!みな、試験が終わってほっとした顔で楽しくおしゃべりをして、故郷へ帰っていきました。

 月曜日は、「今回は帰らないで勉強をつづけ、専門日本語の最終プレゼンテーションに合格して留学が正式決定になってから帰省する」という学生が集まって、ビールとおしゃべりのあとは、宿舎の宴会ルームで昼ご飯とカラオケ。パラパラを踊ったりお得意の歌を歌ったり。

 私が「合格祝いにお昼をごちそうする」と言ったら、最初、学生たちは困っていました。中国では、学生と先生がいっしょに食事するとき、必ず学生が教師を招待するという習慣なので、教師からおごられるということにとまどうのです。「でも、今回だけは合格祝いですから、先生におごらせて」と言い、学生たちがまごまごしているうち、足止めの激しい雷雨となりました。学生も納得してゆっくり食べ、外の雷雨がやむまでたっぷり時間をとって歌い踊りました。

 帰省する故郷の家族へのお土産の一つは、私が手渡した「ひとりひとりへのメッセージ入り、日本の2010年のカレンダー」です。表にはパソコンからダウンロードした暦と「加油!(がんばれ)」の文字、裏には、クラス集合写真に、私が学生名をワープロ打ち込みをしたものを2つ作りました。1枚目には、私からひとりひとりへのメッセージを手書きで加えました。2枚目には、学生から家族へのメッセージを書かせて、ラミネート加工して学生本人用と家族用の2枚のカレンダーを作りました。

 他のクラスは写真屋さんに発注して写真とカレンダーをあわせてラミネートしたので、仕上がりは我がクラスより立派ですが、私のクラスは、学生の名前を入れたり、教師からのメッセージを入れたりという「手作り感」がポイント。ラミネート加工はA5サイズが1元(15円)、A4サイズは2元。値段は安上がりに仕上げたけれど、心がこもっているってところがミソ。お金はかけずに手間暇かけた。そして、ひとりに2枚ずつカレンダーを配ったってとこが「2倍お得」

 「このカレンダーは、先生からご家族へのプレゼントです。家族と電話やスカイプで話すとき、日本ではいつが休みの日なのか、これを見ればご家族にもよくわかるから、おうちの壁に貼っておいてね。」と、配りました。お手製合格祝いを皆よろこんでくれました。

<つづく>



2009/08/01
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(30)帰国&帰省

 カレンダーに書き入れた、私から学生へのメッセージ。キンセイさんへは「結婚おめでとう。二人で力を合わせて研究してください」、エイケツさんへは「古箏の弾き方を教えてくださって、ありがとう。いつかまたいっしょに合奏しましょうね」と、ひとりひとりへの思いを込めたことばを書きいれました。

 学生から家族へのメッセージには「必ず博士号をとって日本から帰るから、体に気をつけて待っていてください」とか「一家が平安でありますように」などの思いを込めたことばが中国語で書かれています。それぞれが「世界にひとつだけの手作りカレンダー」になって、よい記念品になったと思います。

 学生から私への記念品は、ひとりひとりの手書きメッセージに写真を添えた記念アルバムです。授業最終日の7月16日に、班長さんが代表になってプレゼントしてくれました。

 全任務を終了し、基礎日本語終了を祝うカレンダーを配りながら、来し方を振り返る。3月中旬から7月下旬まで4ヶ月半の短い赴任期間でしたが、成果はいろいろありました。

1)本務。担任クラス19名の2級レベル試験合格(受験した5クラス全員が合格し、国費留学生の資格を保持しました。さすが、中国全土から選抜された修士修了者たちです)

2)4ヶ月半の間に、文科省視察団の授業参観、日本語教師団団長の授業参観、中国人教師の個人的授業参観2回、勤務校中国人日本語教師総見の授業参観、他校の教師による参観、都合6回、参観授業を実施した。

3)本務に付随する仕事。教師としての実践報告。「文型教育及び読解教育のなかで行うパワーポイント利用の日本事情教育」という日本語教育実践報告論文を1本仕上げ、勤務校の「創立30周年記念論集」に応募。査読にパスして、国際日本語教育シンポジウムでの発表者に選ばれました。8月16日発表日に併せて再び中国へ行くことに決定。

4)大学院博士課程学生として。日本語言語文化に関する紀要論文を1本仕上げ、大学院のジャーナルに掲載。

5)「村上春樹研究」で博士論文を提出する中国人日本文学研究者の論文添削をはじめ、3人の中国人日本語教師の日本語日本文化研究論文の添削をした。学部4年生日本語科学生(日本人講師室アシスタントを務めてくれたかわいい女子学生ふたり)の卒論を添削。都合、論文4本卒論2本の添削。皆、私のところに添削希望を持ち込んできます。気安く頼みやすいからだと思います。

6)勤務地の日本語教師勉強会で、「日本語教育実践報告-パワーポイントファイルの読解教育利用-その利点と欠点」について発表。

7)東北地方の三か所の世界遺産見学。集安市、好太王石碑と将軍墳ほかの遺跡。遼寧省葫蘆島市の九門口長城。瀋陽市のヌルハチ陵や盛京故宮。

8)ベリーダンス習得

 私としては8番目のベリーダンス習得をおおいに誇るところです。おお、すばらしい活動成果!と、自分で誉めておく。娘&息子からは「ああ、あ、暑苦しいハハオヤが帰ってきちゃったよ」というふうに迎えられているのですから、せめて自分で自分に「よくがんばりましたで賞」くらい贈ってあげないと。

<つづく>
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2009年08月02日


ニーハオ春庭「健康第一」
2009/08/02
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(31)健康第一

 7月31日午後は、健康診断。区の無料診断の締め切りが7月31日でした。朝から食べてはいけないというので、ダイエットになるからがんばれと、自分を励まして午前7時に目覚めてから午後5時の検診開始まで空腹に耐えました。えらいなあ、私。って、みんな検査のときはこれくらいやっているよね。普段空腹に耐えることないので、えらい大仕事した気になっています。

 血液検査は、外部検査に出して結果が戻るまで5週間かかるということですが、あとの結果は、X線レントゲン、血圧、心電図、尿検査すべての数値が理想的な範囲に収まっていて、何の問題もない健康体であると、内診の若いお医者さんが保証してくれました。母と妹が患っていた糖尿病について心配していたので、今回の数値ではその心配もなかったことがわかり、ほっとしました。血糖値の心配は残っていますが。

 無事、中国での任務を全うすることができ、元気に帰国できたのも健康であったればこそ。同僚の先生方、みな一度はおなかの調子が悪くなり「脂っこい中国料理はこれ以上食べられない」という状態になったのに、一番年寄りの私ひとり、最後まで中国料理を食べ続けました。

 レストランで日本料理を食べたのは5ヶ月で6回。「古本吉田」というチェーン店の牛丼屋に1回、「888ラーメン」という北海道ラーメンのチェーン店に3回(安いから)、「プチ北国」という和食レストランで刺身定食1回。長白山ホテルの中にある「紅葉」という和食レストランで「200元で和食食べ放題」というのに1回行きました。

 自炊で和風料理を作ったのも、みそ汁を何度か作り、菜っぱのお浸しを作ったのやカレーライスを一度作っただけで、あとは大学職員食堂のセルフサービス中華ランチと宿舎食堂のテイクアウト中華おかずで暮らしました。中国の野菜料理、油炒めが多いので、たまには野菜をゆでただけの物に醤油だけでさっぱりと食べたくなりましたが、あとは特に、刺身が食べたいとか肉じゃがが食べたいとか思うこと無かった。東北地方料理も、湖南料理も北京料理も、何でもおいしくいただきました。健康で過ごせたのも、鉄の胃袋を持っているおかげと思います。

 また、今回特に人間関係のトラブルがなく過ごせたのも、快適に過ごすために大いに役立ちました。2009チームの先生方のお人柄のよさに助けられての5ヶ月間でした。
 最初に中国で仕事をした1994年のときは、いっしょに赴任した男性助教授と女性助教授の折り合いが悪く、毎日のように机をたたき合って口論していたことを思うと、今回の派遣では6人のチームワークがたいへんうまくいき、机を叩くことも意地を張り合うこともなく過ごすことができたこと、ひとえに私の人徳のおかげ、、、、ってことはまったくなくて、、、。私は、最年長なのを掲げて、いつも「私は年寄りだから」と言い訳しつつできるだけ楽をしようと考え、皆に助けてもらうばかり。

 特にパソコン関係ではわからないことだらけなので、何かというと若い先生にパソコンの設定やらをお尋ねしながら仕事をしました。親切な同僚のおかげでなんとか任務全うできたのです。

 私が何か役にたったとしたら、ダメだめぶりを皆に見せ続けて、あんながさつな人間でも何とかやっていけるのだ、ってことを示せたことくらいかな。年中ばたばたとあわてていて、何かと忘れ物が多く、1回の授業で教室から2度3度忘れ物を取りに講師室に戻ってくる。毎日のドタバタぶりをみせて、年取ってもあんな程度でやっていけるのだ、という安心感を与えることができたかもしれません。

 また、誰一人中国語が話せなかった2007年の派遣チームと異なり、今回は中国滞在歴2年の先生や、以前中国で仕事をしたことがあり、中国語韓国語両方話せる先生もいらっしゃった、ということも、ストレスが少なかった理由だろうと思います。日本語を教える学校の中にいる限りでは、中国語を一言も話すことができなくても仕事はやっていけます。でも、町にでると、片言でも中国語が必要になる。そんな時でも、中国語ができる先生は、一人で着々と暮らしていて日常生活がスムーズにいくので、私も安心できました。

<つづく>
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2009年08月03日


ニーハオ春庭「みなさんありがとう」
2009/08/03
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(32)みなさんありがとう

 今回の中国滞在中、宿舎の生活でのトラブルは、道路工事のため3日間水が出なかったことと、水は復旧したと思ったら、そのあと3日間お湯がでなかったことがあった、ということくらいです。同僚はスポーツジムのサウナに出かけたりしていましたが、私はヤカンでお湯を沸かして体を拭いてしのぎました。不自由だったことはこれくらいで、あとは日本と比べてこれがなくてたいへんという物質的なことはなく、おおむね生活は快適でした。

 不自由だったのは、ユーチューブが制限されていて、ネットから遮断されていたことかな。投稿サイトは、政府にとって都合が悪いことも映し出してしまうので、情報の元そのものが遮断されたままでした。チベット問題も新疆ウイグル自治区の暴動も、テレビが伝えるニュースは、政府側の発表に基づく情報だけでした。

 あと、不自由と言えるのは、私の中国語がまったく進歩しなかったこと。片言でなんとか生活できてしまうので、それ以上の中国語を学ぶことがなく、4ヶ月半すぎてしまいました。今回の赴任では仕事仕事の毎日で、ちょっとの間があればパソコンに向かっていたので、中国語を学ぶ時間もなかったし。

 たとえば、私の部屋では風呂場のシャワータンクから漏水したこともありましたが、漏水のときは、受付へ行って、シャワータンクの絵を描き、水がぽたぽた垂れるようすを描いて、ただ「水、シュイ」と言いました。「明白了、ローシュイ、明天修理」と、受付の人に言われて、あれ、漏水は中国語でローシュイっていうんだ、と気づく程度の中国語力の私が何とか暮らせたのも、複雑な話になったら、同僚の中国語に助けてもらったおかげ。

 前回、前々回の滞在中は、中国語の家庭教師を頼んで、少しでも中国語を覚えようとしたのですが、今回は「もう年寄りだから、これ以上中国語覚えられない」と、完全に投げていました。そんな私でも、任務完了できたのは、同僚の先生たちに恵まれたからと感謝しています。
 おなかの調子をくずした人はいましたが、病院に行くほどの病気になった人がいなかったというのも、今回のチームがなごやかにすごせたひとつの理由。
 私もベリーダンスで踊ってストレス発散できたし、みなが体調よくすごせたことが、一番よかったことでしょう。中国人の同僚先生にもいろいろ助けてもらいました。

 担任クラスの学生たちにも恵まれました。前回前々回の学生たちももちろん非常に優秀な人たちで、よいクラスでしたが、今回も優秀で人柄のよい学生のクラスであって、たいへん助けられました。
 班長(バンチャン=クラス委員長)のキンセイさんは、皆から「シーバンチャン」と慕われ、リーダーシップを発揮しても決して強権的ではなく、なごやかにクラスをまとめていました。

 学習委員のカショさんは、日本語の聞き取りも上手で、クラスの皆の学習に役立ってくれました。体育委員のヨーショーさんは、明るく元気に縄跳び大会やバドミントンのとき活躍していたし、学芸委員のソケツさんは、人妻らしい落ち着きを見せながら、教師歓迎の学芸会をとりまとめていました。生活委員のエンテイさんは、クラスメートの寮生活やみなでお金を集めてパーティをするときなど、きちんと配慮して対処していました。その他の学生たちも、皆なかよく、楽しくクラスの中でお互いを認め合って、互いの個性とそれぞれの専門分野では優秀な人であることを尊重しあっていました。

 8月の専門日本語は、今までの基礎日本語のクラスがバラバラになり、専門ごとに10クラスに分かれる編成になります。医学専攻のクラス、化学専攻のクラスなどになるので、また違う雰囲気のクラス作りとなるでしょうが、基礎日本語クラスの3班は、8月に私が再び中国に行ったときは、もう一度元の仲間が集まってクラス会ができるかもと、期待しています。
 
 みなさん、本当にありがとうございました。

<つづく>
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2009年08月04日


ニーハオ春庭「論文発表会」
2009/08/04
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(33)論文発表会

 帰国してものんびりはしていられません。
 8月中旬には、中国での勤務校が主催する国際日本語教育シンポジウムで発表するために、再び中国へいくことになったし、9月には前期お休みした分の授業の集中講義があります。学部日本人学生向けに1週間は日本語学概論、2単位分。2週間は日本語教授法4単位分。朝から夕方まで、一日に90分4コマの授業を集中して行います。声が枯れそう。
 さらに、学生としては、大学院の単位にする英文学との比較文学論のレポート執筆が2本。9月末日にはもう一度博士論文中間発表を行う。

 6月にパソコン故障のため失敗した「博士論文中間発表会」の再実施が7月30日に実施され、拙い発表でしたが、なんとかこなすことができました。事例研究として発表した論に対し「実証研究としてのデータがきちんと出されていない」という叱責も受けましたが、定型文の「今後の課題としていきたいと存じます」で切り抜けました。官僚や政治家の発する「前向きに検討していきたい」みたいなもんです。昨年9月の第一回目の中間発表に続き、第二関門突破。

 6月4日に予定されていた私の「中国からサイバー方式で博士論文中間発表を行う」というイベントが、その6月4日当日の朝にパソコンハードディスク損傷というアクシデントで、すべておじゃんになりました。
 指導教官は私のために何度も大学院教官の会議を要請し、前例のないことはしたくないという他の教官を説得して「中国からの発表を認める」ということにしてくださったのに、パソコンが壊れたという情けない事情で、先生の努力も無駄にしてしまったのでした。

 指導教官は、なおかつ「7月30日に再度、発表の機会を与える」という結論を教官会議で決議してくださり、チャンスを残してくださった。ですから、30日の発表はぜひとも成功させなければなりません。

 30日の発表、今度こそうまくいきますように、と祈りつつ迎えました。それでも、学生たちが試験を前に緊張していたほどではありません。学生たちは試験に落ちたら日本への留学ができなくなり、人生が変わってしまう。彼らと異なり、私は博士号とったからといって、残り少ない人生がよくなるわけでもありません。

 私が博士号を取ろうと志したのは、ただ、還暦記念として自分の学業に記念のメダルが欲しかっただけ。還暦記念にエルメスケリーの60万円のバッグを買うのも、1カラット60万円のダイヤの指輪を買うのも、博士号を取るのも、同じことです。私にはブランドバックよりもダイヤモンドよりも博士号が欲しかったというだけです。

 実は、ハカセゴーというのは、けっこう高い買い物です。私立大学の博士課程在学には3年間に結構な額の学費をつぎ込むことになる。息子の私立大学費も払わねばならぬ女の細腕にとって、いくら「服も化粧品もいらぬ」と節約してもスネが細るばかりの教育費。しかも、ダイヤはお金を出せばかえるけれど、博士号はお金を払っただけでは買えない。

 どうして修士課程出身校の国立でなく、学費の高い私立に進学したのか、と中国で学生に質問されたことがあります。出身校の博士課程の入試には、語学試験で「2つの言語に堪能なこと」というシバリがあった。英語と中国語とか、ロシア語とスペイン語とか、ふたつの語学ができることを求められた。私ができるのは英語とスワヒリ語ですが、入試科目にスワヒリ語はない。私立では英語だけでよかったので、語学苦手な私は「筆記試験は英語と論文」でよい私立を受験したのです。

 お金で買える博士号もあります。ディグリーミルと呼ばれるインチキ博士号にだまされて大枚はたいてしまった人もいる。ご注意あれ。海外からの迷惑メールの何割かはこの「博士号を手に入れませんか」というディグリーミルからの宣伝です。

 博士課程在学の学費をつぎ込まないで、論文執筆のみで博士論文審査に提出することも可能でしたが、怠け者の私は、コツコツ論文を仕上げるより、レポートや発表、紀要論文などで尻をあおられるほうが、確実に課題をこなしていけると考えたのです。今のところ、とりこぼしは、6月の中間発表、サイバー発表の失敗だけ。単位は取れてます。

 中国で、アラカン(アラウンド還暦)の記念品に、還暦祝い赤いちゃんちゃんこがわりの赤いポロシャツを25元(約400円)で買いました。これを着て近くのスーパーに買い物に行ったら、スーパーの店員がみな似たような赤いポロシャツを着ていた。スーパーのお仕着せとそっくりのシャツで、偽スーパー店員になってしまって「○○売り場はどこか」とか質問されて困りました。「○○」が聞き取れなかった。
 いつものように「听不懂チンブートン聞いても理解できない」と答えたのではまずかろうと思い、偽店員の返事は「不知道ブーチーダォ知りません」。

 本物の店員に聞いても、持ち場以外の売り場に関してはつっけんどんな返事しか帰ってこないので、まあ、スーパーのサービスに関して苦情が出るようなことはなかったろうけれど。同僚たちは赤いポロシャツを目にするたびに笑って「あ、今日はスーパーに出勤ですか」とからかうのでした。
 店員としては偽物でしたが、博士としては本物を目指したい。

 7月30日には、なんとか「博士論文中間発表」を終え、第二関門のクリアです。研究の不備を指摘され指導されたのは当然のこととして、次の発表9月末までにもっとよい論になるよう、まとめていかなければなりません。ファイナルステージまで、元気に持ちこたえていきたいものです。
 4ヶ月半の中国での任務、日本での博士論文中間発表、この半年間、厳しいけれど充実した日々をすごすことができ、老骨むち打った甲斐がありました。偽スーパー店員になったり、学生たちとカラオケで歌ったり踊ったりした日々をなつかしく思い起こしています。

<おわり>
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ニーハオ春庭中国日記「楽しいクラス」

2011-07-14 06:03:00 | 日記
2009/07/11
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(10)跳縄比賽(縄跳び大会)

 先月末、6月29日月曜日、校内縄跳び大会が開催されました。2007年の綱引き大会では、私のクラスは0勝2敗で敗退しました。(負けたけれど、「残念賞パーティ」は盛大にやりました)
 2009年の縄跳び大会では、ぜひ我がクラスが優勝してほしいと、学生たちの練習を見たり、教職員チーム対抗戦に出場すべく、自分でも縄跳びの練習をしました。

 大縄の部は、チームは男女混合10人。二人が大縄を回し、8人が順々に縄に入って跳び、3分間に何回飛べたかを競います。短縄の部は、各クラス代表5名が、3分間に何回飛べたかを競います。
 短縄跳びは、中国の「びっくり特技披露」の番組でも、ときどき出場者があるので、中国ではこの競技が盛んなのでしょう。

 3分間に何回飛べるかが、大学入試の体力テストに出題されたこともあったそうです。せっかく学力試験に合格しても縄跳びの回数不足で入試に落ちたらしょうがないので、中国の高校生は縄跳びもしっかり練習しているとか。とにかく縄を回すスピードがものすごく、テレビのチャンピオンは3分間に300回近く跳んでいました。

 我がクラスは「絶対に優勝したい」と、意気込み、縄跳び試合当日の10日くらい前から、連日猛練習が続けられました。日本の大縄跳びは、10人が同時に縄に入って何回飛べたかを競うのが多いですが、今回の縄跳び大会は、順々に縄に入るほう。
 1位のクラスには300元、2位には200元、3位には100元の賞金が出るというので、どのクラスも昼休みや放課後に熱心に練習しました。

 我がクラス「博士3班」の代表10人は、ものすごいスピードで回る大縄につぎつぎと入って行き、練習以上に順調に跳び続けました。しかし、3分間の後半では体力が落ち、何度か縄にひっかかりました。結果、3分間に268回跳んだ。しかし、我がクラスよりスピードがゆっくりだったために縄に引っかからずに順調に跳び続けた隣のクラス「博士2班」の280回に及ばず、3位でした。(2位は他コースのクラス)。

 教職員の部では、日本人教師団、皆、日頃の運動不足にもかかわらずがんばって跳び、3分間に165回跳んで2位。1位は例年そうですが、事務職員チームでした。中国語先生チームや中国人日本語教師チームに勝ったので、2位でも大満足です。教職員の部2位の商品はシャンプーリンスセットでした。

 個人の部、学生の部の優勝記録は、3分間に220回。私のクラスの学生は、170回台の記録で賞には入りませんでした。よく練習していてすごいスピードで縄を跳んでいたのですが、やはり「ひっかからないこと」が大事なようです。

 私は個人短縄の部にエントリーしていなかったのですが、同僚の日本人教師が跳ぶというので、エントリー外の飛び入り参加。3分間に86回の記録。トホホ。3分のうち、後半の1分間は疲れて、何度も縄に引っかかったので、記録が伸びませんでした。同僚の20代男性バンブー先生は175回。若さには勝てません。

 3分間縄を跳び続けるというのは、ものすごく疲れる運動だということがよくわかりました。縄跳びの縄がお手元にある方、ちょっと跳んでみて。3分間続けて跳んでみると、ボクサーがいかにも軽そうに縄跳びを練習に取り入れているのが、たいへんなことなのだとよくわかります。
 ただ、言わせてもらえば。翌日、他の先生方はみな筋肉痛で、「足が痛い」と嘆いていたけれど、日頃ベリーダンスで足腰鍛えている私だけが、足が痛くならなかった。エヘン。

<つづく>
07:35 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年07月12日


ニーハオ春庭「縄跳び練習」
2009/07/12
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(11)作文「縄跳びの練習」

 学生が、縄跳びについて書いた作文を紹介しましょう。「学習した文型を使って、文章を書いてみましょう」という宿題です。300字程度の短い作文の中に、既習の文型を折り込む。テーマは自由で、習った文型を使ってみることが目的です。長く書く学生もいるし、数行で終わる学生もいる。「中級日本語16課・練習と人生」という読解の課を学習したときの宿題だったので、「練習」をテーマにした学生が二人いました。
 縄跳びは学生にとっても印象的なイベントだったようで、「~に限られる」「~できるだけ」「~というのは」「むしろ」「その上で」「べきだ」などの16課の既習文型や語句を上手に折り込んで文章をまとめていました。

 日本語をアイウエオから習い始めて、まだ1年たっていないのですから、誤用はありますが、中国語では修士論文も書き上げてきた学生たちです。皆、既習文型や語句をうまく折り込んであると、感心しています。( )の中は添削前の誤用です。
============
キョウレイリ「縄跳びの練習」
 来週の月曜日は、大縄の試合がある。広報(広告)によると、団体試合のチームは10人に限られているそうだ。毎日の午後、私たちは練習している(する)。というのは、優秀賞を取りたいからだ(た)。訓練の中、ちょっとミスをしたくらいで、全員に(を)影響される。それから、スピードを上げると言うより、むしろミスを減らした方がいい。その上で(に)、相手の情報を集められれば(集められば)よい。学生は団体活動に(を)参加すべきだ(参加べきだ。)それは、貴重な体験になるだろう(珍しい体験だろう)。

 ショウケン「縄跳び」
 縄跳びはおもしろく、たいへんな(の)スポーツである。ちょっとしても疲れてしまう。わたしたちはクラスのために長い間練習した。きのう、晩ご飯が食べられなかった。というのは、疲れたからだ。しかし3クラスが勝つのを目標にもっと練習すべき(練習が要るべき)だ。(チームの参加者は)10人だけに限られているが(ために)、ほかの学生も(は)同様に練習したらいい。試合と言うより、むしろ、終了後のクラスパーティーのほうが楽しみに思われる。
=========== 
 疲れすぎて、ご飯も食べられないほど練習した学生たち。本番では「鬼気迫る」というくらいのド迫力スピードで縄を回し、学生たちは必死に跳んでいました。あまりの真剣さに見ている方が涙が出てしまうくらい。
 結果は、残念ながら優勝ではありませんでしたが、3位賞金の100元を元手に、大学近くのカラオケ店へクラス皆で繰り出しました。優勝300元を期待して予約したので、ちょっと予算不足。私が100元、ペアを組んでいる中国人日本語教師シャ先生が100元「3班はよくがんばったで賞」を拠出しました。

 カラオケ店、最初は日本語の歌の出し方がわからず、とにかく日本語の歌なら何でもいいやと、出てきた『浪曲子守歌』とか『人生いろいろ』とか、日本では絶対にカラオケで選ばないという歌を歌ったあと、日本語曲の選び方がわかりました。『翼をください』とか『知床旅情』『北国の春』などの定番を数曲歌いました。使用してきた日本語教科書『実力日本語』に歌詞が紹介されている歌なので。

 学生たちやシャ先生もノリノリでかわるがわるマイクを握りました。皆楽しそうに歌い、かつビールを飲み、6時からたちまち3時間たちました。私はシャ先生の車で宿舎まで送ってもらいましたが、学生たちは10時まで歌っていたそうです。
 いつも私のクラスは、宿題をたっぷり出すので学生たちは毎晩フゥフゥいいながら宿題を仕上げるのですが、綱引き大会の日は、なぜか宿題がひとつもない日でしたから、夜遅くまで、学生たちは心ゆくまで熱唱したのでした。
 ほんと、楽しい、縄跳び大会とカラオケパーティでした。

<つづく>
01:33 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年07月13日


ニーハオ春庭「総見授業参観」
2009/07/13
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(12)総見授業参観

 縄跳び大会、優勝はできませんでしたが、私は、クラスの熱心な練習に対して、賞状を贈りました。賞状テンプレートを利用して、特別栄誉賞という賞状を作成し、クラスに掲示しました。
 特別栄誉賞「あなた方は2009年縄跳び大会において日頃の成果を発揮され優秀な成績を収められました よってここにその栄誉をたたえこれを賞します 」 
 手作り賞状ですが、クラスの学生たちは喜んでくれました。

 そして、「練習と人生」という読解教材の「シメのことば」として、学生たちに語りかけました。
 「夕食が食べられなくなるほどの激しい練習を続けて、優勝できなかったら、その練習は無駄になったと言えますか。いいえ、これほどの激しい練習を、クラスが心をひとつにしてまとまって行えたということを、私は一生忘れないだろうと思います。このように集中して練習できる人たちは、これから先、博士論文を書くときも必ず集中できます。皆で練習した過程の思い出は、これからずっと心の中に宝物として残っていくでしょう。練習の成果は人生のなかに輝き続けると思います」

 クラスの学生に話しかけながら、「おお、なんて教師っぽい人生訓を語っているんだろう、ワタシ」と、思ったのですが、ここで照れちゃいけません。たまには、このような教師っぽいことを語ってみるのもいいもんです。
 しかも、この「学生への教師らしい語りかけ」は、クラスの学生のほか、校内の日本語教育教官室の中国人教師、総見の授業参観の場で行ったのでした。

 以前に文科省の役人たちが授業参観を行った際、私のクラスも覗いていったのですが、そのとき、参観者たちが私の授業を絶賛したというので、副校長から「校内若手日本語教師たちの勉強のために模範授業をやってほしい」と、頼まれました。

 最初は、「模範となることなどしていないので、いやだ」と思ったのですが、下手な授業であっても自分と違うクラスの授業を見ることは教師にとってよい経験になるし、反面教師としても、役立つのです。そして何よりも私自身の授業向上のために、よい機会です。そこで、「ただ見て終わりにするのでなく、必ず批判点を見つけ出して、参観した教師からレポートを提出してもらう」ということを条件に引き受けることにしました。

 授業参観をしたら、「とてもよい授業でした」「すばらしい授業実践でした」というようなほめ言葉を受けることが多い。この模範授業の前に、日本語教師団ダンチョー先生に参観していただいがことがあるし、クラスの担任ペアのシャ先生、2007年のときペアを組んだリグン先生、それから、隣のクラスの中国人先生であるベテランのトウ先生が「ぜひ、授業を見たい」とのご希望だったので、それぞれに見ていただきました。個人参観でしたし、「よい授業でした」という感想をいただいて終わってしまったのですが、「中国人日本語教師総見」となると、特別なイベントですから、やるからには、こちらも得をしないと。

 ころんでもタダでは起きない春庭ですから、「総見授業参観」という特別なイベントをやるなら、「私の授業をもっとよくするために、批判してくれるのでなければ、参観して欲しくない」くらいのことは言いたい。
 参観の感想文を必ず書いてもらうこと、授業へのほめ言葉を一言書いたら、必ず二つ以上は批判点を記すという約束で、引き受けました。
 
<つづく>
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2009年07月14日


ニーハオ春庭「授業参観つかみ」
2009/07/14
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(13)授業参観つかみ

 7月2日、学生たちは、午後の参観なのに朝から緊張して総見授業参観の日を迎えました。私は「失敗するところだめなところを見てもらうことも必要」と思っているのであまり緊張しませんでしたが、普段の「だめすぎる」授業よりはマシにしたいとは思っていました。何より、普段、学生たちが授業を楽しんでいる雰囲気を感じ取ってもらいたいと、教案を準備をしました。

 私立大学で私が講じている「日本語教授法」を受講している日本人大学生には、「最初のうちは、教師の説明や発問、予想される学生の発言をすべてシナリオ形式で書きなさい。3年、同じ教材でこのシナリオを作ったら、あとは、メモ程度の教案でも授業ができる。もちろん、新しい教材を扱うときには、また新しい教案を書くんですよ」と、教えています。

 私は1988年から日本語教育に携わってきましたが、いまだに「今日の授業は十分な展開ができた」と、満足できた日は少ない。特に今年は、教室のコンピュータ利用で、パワーポイント表示を中心に授業を進めているため、パワーポイント作成に追われ、肝心の読解や文型応用が十分にできていません。

 文科省授業参観の時は絶賛だった、という私の授業に、もし見るべきところがあるとしたら、それは全部、優秀な2009年の学生たちのおかげです。
 日本語教授法受講の日本人学生たちに、一番先に強調して講じることのひとつが、「学生と教師の間に、信頼関係を結び、かつ親密な感情を育てること」、教育心理学でいう「ラポール作り」です。
 これがなければ、どんな高度な授業技術を行使したところで、学生の頭に教えたことが入っていきません。先生の話を聞こう、先生がいっしょうけんめい教えてくれることを、いっしょうけんめい覚えよう、このような学生の気持ちがあってこそ、授業が生き生きとしてきます。

 1994年も、2007年も、「日本の大学で博士号を取るために留学する学生たち」は、とてもよい学生たちでしたが、2009年、今回の「博士3班」(クラスニックネームは「謝謝3班」)も、全員よい人柄で、クラスメンバー同士の仲がいい。いつもドジばかりの私の授業ですが、学生たちの協力のおかげで、順調に進んできました。
 ドジの一番は、忘れ物が多いことです。いつも講師室でぎりぎりまでパワーポイントスライドを作っていて、「あ、授業が始まっちゃう」と、あわててパソコンをオフにするので、きちんと確認すればいいものを、毎回「あ、漢字テスト持ってくるのを忘れた」とか「聴解のCDがない」と、慌てることになるのです。

 「練習と人生」は、「中級日本語」の後半にあたり、若者が努力や練習を好まなくなった風潮に対して、練習を軽くみることを戒める小泉信三のエッセイです。
 90分授業を、「文型復習」「読解」「会話練習」3つの学習項目で構成しました。

 授業参観、最初は、ウォーミングアップ。教師が短いトークをしたり、学習者に質問したりして、前回習ったことを確認します。総見授業参観は特別なイベントですから、トークも特別なものを用意しました。
 まず、学生に質問をして、今日、昨日、明日の日付の確認。学生は「今日は、しちがつふつかです」「明日は、しちがつみっかです」上手に答えられました。
 初級のころは、日付をいうのも「よんがつさんにち」になったり「ここのか」を言うのに、「しがつ、じうにち」「違いますよ、ジゥは中国語の9でしょう」、「あ、きゅうにち?くにち?」「ここのか、です」となったりしていたのですが、皆、日付や、他の数字を言うのも上手になっています。

<つづく>
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2009年07月15日


ニーハオ春庭「授業参観Q&A」
2009/07/15
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(14)授業参観・Q&A

 授業参観、最初の教師トーク。
 ふつか、みっか、よっか、みな「日」の意味の「カ」ということばがつきますね。でも、ついたちだけ、「か」がつきません。なぜでしょうか。と、質問を振りました。この質問は、実は学生向けではなく、中国人日本語教師向けなのです。一般の日本人より日本語について、文法や語彙をよく知っている中国人教師たちなので、ここはひとつ、「さすが日本人日本語教師は、日本語ネイティブスピーカーだけある」というところを見せてから授業を始めようという作戦です。
 「参観の先生方、いかがですか、学生に教えてやっていただけませんか」という私の挑発に、声がないことを確認して、おもむろに、旧暦の月の満ち欠けから「ついたち」とは、新月が立つこと、「月立ち」である、というトリビアを紹介。学生たちは「へぇ!」と、おもしろがってくれました。
 
 本当は、語源を知っている先生もいたのに遠慮して声をあげなかっただけなのでしょうが、一応、授業の「つかみ」はこれでOK。「つかみ」というのは、芸能界用語で、漫才やコントの最初の部分で行われるギャグなどのこと。客の気持ちをまず演者の発話に引き込むことを言います。学生たちは「へぇ、ついたちって、そういう意味だったのか」と、納得のようす。教師はいいよね。毎年同じネタで、学生の「へぇ!」を見ることができる。

 つかみの次は、Q&Aの活動。教師の質問に学生が答えて、聞き取りができるかどうか、既習文型項目が定着しているかどうか、の確認をするのですが、参観用にちょっとアレンジしました。学生は後ろの参観者の方を向いて、プロジェクタースクリーンに映っている質問が見えないようにする。参観者の先生に、学生なまえカードを1枚ずつ引いてもらって、スクリーンの質問を読み上げたあと、学生の名前を呼んで答えさせる。

 参観の先生が「毎日の授業が終わったあと、暇なときどんなことをしていますか」と質問。初っぱな、名前カードは、班長(クラス委員長)のキンセイさんにあたりました。キンセイさは、「スポーツをしたり、専門の勉強をしています」と、答えました。
 お、うまく、「~たり~たり」の文型が使えたぞ。と安心していたら、参観者から「あなたの専門は何ですか」と、予想外の質問。キンセイさん「私の専門は、どもくこうがくです」。どもく、じゃない、どぼくこうがく、って、何度も発音を直してきたのに、緊張しているせいか、土木工学が、どもくこうがくになっちゃった。私が、「キンセイさんの修士の専門は土木工学で、博士の研究テーマはナノテクノロジーでしたよね。どぼくこうがく、キンセイさん、もう一度言ってください」「ドボクコウガク」「はい、よく言えました」と、フォローしてカバー。

 「仮に宝くじがあたって、1千万あったら、何をしますか」の質問、「仮に~たら」の文型が聞き取れて理解できているかチェックするための質問です。文科省視察団の授業参観のとき、「日本はアジアのニシにあります」と答えてクラスの爆笑をとったゴタンさんにあたりました。「りょこうします」とか「家を建てたいです」って答えればいいんだよ、とゴタンさんに念力を送りましたが、通じなかった。

 ゴタンさんの答え「いちまん、いちまん、、、えぇ、私の専門は医学です。医学の専門書は高いから、専門の本を買いたいです」と答えました。私が「うん、1千万円あったら、一冊1万円の専門書でも千冊買えるね」と、フォロー。参観者には、ゴタンさんが「1千万円」の聞き取りを間違えて、「1万円」と思って答えたことには気づかれなかったでしょうか。それともみえみえでバレてた?

<つづく>
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2009年07月16日


ニーハオ春庭「授業参観・読解」
2009/07/16
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(15)授業参観・読解

 参観の先生からの質問のつづき。
 「今、一番大切なこと、大切なものは何ですか」の質問は、コウキさんに当たりました。私が「コウキさんにとって一番大切ことは、もちろん、隣のクラスにいる恋人でしょう」と、チャチャを入れても、コウキさんはまじめに「今、一番大切なことは日本語の勉強です。日本に留学するために、一生懸命日本語を勉強しています」と、答えました。まじめに答えた、というより、緊張のあまり私のチャチャなどまったく耳に入っていなかったのかもしれません。

 Q&Aのあとは、ロールプレイ、会話役割練習です。
 「日本で、国際交流パーティに参加し、初めてあった人と円滑に会話して交流を深める」という課題で、自己紹介や趣味、出身地など、互いに情報を交換して会話を盛り上げる、という状況を設定しての自由会話です。

 参観の先生の役割は「国際交流に興味を持ってパーティに参加した日本人」、学生の役割は「初めて日本の国際交流パーティに参加した留学生」
 参観の先生が名前カードをよび、その学生と会話してもらいます。先生10人ほどに協力してもらって、5分ほど教室は「国際交流パーティ会場」になりました。
 最後に2ペアにロールプレイを発表してもらって、会話役割練習はおわり。

 会話役割練習の次は、メインの読解授業です。先生方は、私がどのように授業スライドを作っているのか、ということが知りたくて参観しているので、まずはスライド紹介として、「練習と人生」のパワーポイントスライドを使って、音読の復習。スライドに1枚に本文を一文ずつ書き入れ、読解を助ける写真を入れてあります。

 小泉信三のエッセイ『練習と人生』の最初の部分に、空を飛ぶことへのあこがれが、飛行機の発明に至ったこと、飛行機ができても、操縦の訓練を受けて練習を積まなければ空を一人では飛べないことや宇宙飛行士の訓練について書かれています。

 教科書付属スライド教材として既存のレオナルド・ダ・ビンチの「空飛ぶ機械の設計図」やライト兄弟の飛行機の写真に加えて、私は、備前屋・浮田幸吉を紹介しました。幸吉は、江戸時代に大凧をつけて空を飛んだ人物です。1849年のジョージ・ケイリーのグライダーによる有人滑空実験よりも60年以上早かったけれど、ほめられるどころか、「世間を騒がせた罪」で岡山藩主から罰を受けてしまった。

 新しいことをしたり、発明したりするためには、世間から理解されずに非難を受けたりすることもあるけれど、人間のあくなき探求心が科学を進展させてきたのだ、と、教師らしい解説を加え、飯嶋和一の著作『始祖鳥記』を紹介して、前回の授業を終えています。
 「文型や読解の授業のみで、日本の歴史や文化紹介の時間が設定されていないときでも、できる限り文型授業の合間に日本の文化を紹介する時間を数分でもよいからとる」というのが、私の現在の授業テーマです。

 学生たちが、「備前屋幸吉」の名前を覚えることが目的ではなく、飛行機を発明したのはライト兄弟だとされているけれど、大昔から空を飛びたいと願った人はおり、夢の実現のために努力した人は大勢いること、幸吉のように罰を受けてさえ、空を飛ぶ夢を追いかけた人もいた、ということを理解してほしかった。

<つづく>
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2009年07月17日


ニーハオ春庭「授業参観・スライド画像利用の読解授業」
2009/07/17
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(16)授業参観・スライド画像利用の読解授業

 小泉信三のエッセイ、練習によって恐怖を克服する例として、「10メートルの台からの高飛び込み」をあげています。
 私は中国高飛び込みで最も有名な郭晶晶(グオ・チンチン)の飛び込み写真を数枚紹介したあと、数年前の深夜番組「Qさま」のチキンレースの写真を見せました。10メートルの台にいきなり連れてこられた芸人が、最後に意を決してプールに飛び込むまで、何分間怖がったか、その過程を撮影しておもしろがる、という番組でした。我が家はこのチキンレースが大好きで、娘と息子が見ていました。何度かゴールデンアワーで特集を組んだときに私も見ていました。

 こんなところで、お笑いテレビ番組が役立つとは思ってもみませんでしたが、教師の袋は何でも袋。何でも知って何でも放り込んでおく袋、授業で大いに役立ちます。
 本当は、ユーチューブで録画投稿されている「怖がる過程」を見せたかったのですが、中国では3月にユーチューブがネットで閲覧禁止措置になって以来、未だに回復していません。グーグルが閲覧禁止になったときは、すぐに問題のページを削除したらしく、ほどなく閲覧できるようになったのですが、ユーチューブは回復しません。

 でも、ネットから数枚の「10メートルの高飛び込み台の上に立って怖がっている」写真を拾うことができました。3階か4階くらいの高さの台と下のプールが写っている写真だけでも、学生には高飛び込み台の高さが視覚的に理解でき、「飛び込みは高さ10メートルの所から行うものである。初めてこの台に立った者はだれでも、恐れずにはいられないだろう。」と書いてある小泉信三の文を実感することができました。

 読解について、考え方がふたつあります。文字で書かれた文章をできる限り文字のままに読み込ませ、想像によって理解させていく、と言う方法。もう一つは、画像やグラフなどを補助手段として、学生の理解を助けていくものを提出する、と言う方法。画像映像ですべて示してしまったら、想像の余地がなくなる、という意見もあります。

 しかし、現在の私は、「日本の歴史や文化」などの紹介を兼ねて、画像で示したほうが理解が早いというものについては、できる限り画像で紹介する、という方針をとっています。日本人の衣服を紹介する読解では、「十二単」を紹介しました。結婚式のっとき着用される十二単の写真を見せたり、『源氏物語絵巻』『紫式部日記絵巻』などの写真を見せて、日本の文化を紹介するのです。

 「十二単って、どんな衣装だと思いますか」と質問して想像させたあと、文字や言葉であれこれ説明するより、画像で理解させる、というやり方なので、「文字によって想像させて理解させる」という教育方針の方には反対されるかもしれません。もちろん文によって理解する、ということをおろそかにしてはいませんが、私の方針は、画像によって理解できることは絵柄で示してよい、というものです。

 「いろり」「ランプ」「日本家屋」「和室」「和食」などは、どんどん映像を使って紹介してきました。また、「明治時代の高等教育の普及率は低かった」ということを理解させるためには、あれこれ数字で説明するより、進学率のグラフを示す、日本の食品自給率を理解させるために、食品の輸入率をグラフで示す。写真やグラフを効果的に利用することは、「文字による理解」を確実にするために、決して無駄にはならないと思っています。

<つづく>
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2009年07月18日


ニーハオ春庭「授業参観・短文作り」
2009/07/18
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(16)授業参観・短文作り

 学生たちも、私のパワーポイントスライド紹介を楽しみにしていたし、授業参観の先生たちにも、どのような観点でスライドを準備していくか、ということの参考にはなったと思います。
 小泉信三が「恐れにひるまないということは、立派な人間の美徳である」と書いている文を理解させるのにあたって、「恐れにひるむ」とはどんなことか、百万言費やしても言葉だけで理解させるのは難しい。

 10メートルの飛び込み台の高さを実感できる写真を見せて、「台から飛び降りなさいと言われたら、恐ろしいですね。あなたは恐れにひるみますか、ひるまないですか」と発問して考えさせる。郭晶晶の美しい飛び込みフォームの写真を見せて、「彼女は10メートルの高さでも、恐れにひるまない。練習を続けてきた人は、どんな困難にあっても、恐れにひるまない。最終試験は難しそうですね。心配ですか。恐れにひるんでいますか」と質問し、「日本語の練習をつづけていけば、どんな難しい試験でも、恐れにひるむことはないですよ」と、言えば、学生は「おそれにひるむ」ことがどんなことか理解する。

 「怯む」という日本語の訳語として「害怕」があてられることがあるけれど、「怯む」のニュアンスは、「害怕」とは異なる。中国語の「害怕」は、「恐れる」の訳語としては適切ですが、「恐れにひるむ」というニュアンスとは違っています。中国語でぴったりの訳語がなく、言い表すことが難しい。日本語で「こわいと感じ、何かをしようという気持ちが弱くなること」と、直接法で説明しても、その怖さを学生に実感させることは難しい。「LL教室は4階にありますね。そこから下に飛び降りると想像してください。下にはプールがあって、水がありますから、飛び降りても死ぬことはありません。はい、飛び込みましょう。どうですか、やはり、恐いですね。恐さにひるんでしまいます」

 小泉信三は、練習こそが人間の肉体的精神的能力を高めるものであり、忍耐と努力を要する「練習」は、民族の将来のために必要だと結論しています。
 自分の将来のため、ひいては祖国の将来のために今必死で日本語学習の練習を続け、忍耐と努力を忘れていない学生たちにとって、この小泉信三の「練習と努力」も、心に残る文章であったと思います。

 前半の12課までの読解学習を終えた時点でのアンケート調査で、「一番印象に残った文章」をたずねたところ、学生たちの一番人気は「野口英世」の伝記でした。
 私は、野口シカの英世にあてた手紙が大好きなので、教科書には載っていないシカの手紙を紹介し、「皆さんのお母さんも、きっとシカと同じように、我が子がいっしょうけんめい研究を続けることを願い、博士号をとることを願っていることでしょう」と言うと、深くうなずいていました。だから、野口英世の伝記、身にしみて心に残ったのだと思います。

 参観授業は、読解Q&A、文章内容についての質疑応答をしたあと、文型復習。学生が既習文型をつかって、文を創出できるかどうか、文を作らせました。
 「~のみならず」「~傾向がある」「~というものは、~ものだ」「~せずにはいられない「~はずがない」「~と同時に」などのフレーズを使って、短い文を作らせてみる。
 口頭で耳で理解させるべきだという批判がでるのを承知で、私は学生が口頭発表した文をワープロでパワーポイントスライドに書きこんでいきました。

 学生がクラスメートの言った文を耳で聞いて理解することも大事ですが、文字で再確認することも決して無駄ではないと、私は思っているので、板書のかわりにワープロ筆記しています。字を書くのが嫌いな私、授業でワープロが使えるようになって、ほんとに助かります。

<つづく>
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2009年07月19日


ニーハオ春庭「授業参観・誉める教授法」
2009/07/19
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(17)授業参観・誉める教授法

 授業参観後半終わり近くでは、「練習した人たちと練習しなかった人たち」というテーマで、縄跳び大会のビデオを2~3分見ました。
 練習を重ねたチームとは、我がクラス3班。すごいスピードで縄を回し、上手に跳んでいます。練習をしていなかった人たちとは、日本人教師チーム。ダンチョー先生は何度か縄にひっかかりました。
 予想外のビデオ視聴に学生も喜んで見ていました。

 参観後の「授業を批判する」というミーティングでは、「先生は、会話授業や短文発表のとき、学生がアクセントや発音を間違えても訂正しなかった」という批判点がでました。「学生発言の発音などをその場で訂正させる」という意見に対して、私の考えも述べました。

 実際の会話では、意味が通じれば、「雨」と「飴」のアクセントの違いは問題にならない。「飴が降ってきた」と言っても、だれも空からキャンディが降ってきたとは思わないからです。「病院に行く」「美容院に行く」は、聞き取りを間違えると会話が通じなくなるので、注意するけれど、実際の会話では、京都大学や大阪大学に留学する人たちに標準語の「春」「秋」「夏」「冬」のアクセントを厳しく修正させたところで、関西では標準語とまったく逆のアクセントになっているのです。標準語のアクセントをきちんと覚える必要があるのは、日本語教育能力試験にアクセント問題が出題される日本語教師志望者であって、留学生ではない。

 だから、初級の時代に「日本語には高低アクセントで意味を区別する語もある」ということさえ理解していれば、よい。たとえば食卓で「すみません、橋をとってください」と発言したとき、誤解を受けることはない。聞いた人は「橋」ではなく、「箸」をとって渡してくれるだろう。日本で実際に生活していく中で、「箸」と「橋」の意味が異なり、文脈によっては意味が通じなくなることを実感すれば自然と矯正されます。『中級日本語』は語彙項目と文型項目が膨大であり、短時間に詰め込まなければ2級試験に合格できないので、発音矯正を今の時点で細かくやる余裕はない、という「その場で発音修正しない理由」を述べました。

 中級会話授業では、こまかい発音訂正は、メモをしておいて、会話が終わったあとすればよいと思う。その場その場でいちいち訂正していては、会話の流れが滞り、学生の「発言したい」という意欲をそぐことになりかねない、と私は考えています。
 参観者には私と違う方針の方もいらっしゃるとは思いますが、私は私の方針を述べました。
 発音指導観の違いは、リピート練習が主体で、初級日本語指導において発音指導を徹底している中国人の先生と、後半の応用練習が中心で「とにかく積極的に自分から話させること」を目標にしている日本人教師の違いであるかもしれません。

 普段の授業でも、学生は漢字書きとりで全問正解だったり、ディクテーションで全問正解のとき、「よくできました」と私が書き込むと、とてもうれしがるのです。書き入れを忘れると「先生、わたしのテストに、よくできました、がありません。わたしは、悪くできました、ですか」と、冗談を言ったりします。私は「教育の要」は「ほめること」であると思っています。間違ったところを厳しく指導するより、良かった点をほめていけば、そのうち自然と間違ったところも矯正される場合が多い。
 「教師の仕事とは、よい点を誉めること。前にはできなかったことができるようになったことを共に喜ぶこと」これが私の「日本語教授法」のコツ。

<つづく>
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2009年07月20日


ニーハオ春庭「授業参観のごほうび」
2009/07/20
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(18)授業参観のごほうび

 授業参観は、学生たちにとってやはり緊張するものです。私としては、できる限り学生が何らかの発言したらほめてやり、発言の訂正などは、参観の場で行うのではなく、のちほど自分たちの授業の中で行えばいい、と考えました。参観者の前で「間違っている」と、なおされるより、「よい、文が作れました」とほめられたほうが、ただでさえ緊張している学生にとって、負担が少ないからです。

 他のクラスでは、1度も誰からも授業参観がなかったクラスが2クラス。文科省が10分ほど覗いていったクラスが2クラス。私のクラスだけが、文科省視察団の参観のほか、日本人教師団ダンチョー先生の参観、中国人日本語教師の授業参観が2度、中国人日本語教師の総見参観1度、他の大学の先生たち4人の参観、都合6回も授業参観を行いました。

 授業参観のまえに、うまく答えられるよう「予行練習」をさせる先生もいますが、私は普段のままで、間違ったら間違ってでいいや、と言う考え。縄跳びの「特別栄誉賞」の授与を参観の場で行うというのもサプライズ企画で、学生たちは知らされていなかったので、手作り賞状をもらって、とても喜んでいました。

 だだし、「賞状の受け取り方」というのは、前に「卒業式」の話題でふれたことがありました。「練習と人生」読解のなかで、日本では卒業式の練習を何度も繰り返し、予行練習を行って式が滞りなく進むようにお辞儀の練習や賞状受け取り方の練習をする、と話し、日本と中国の違いについての話題が出ました。学生たち、中国ではそのような賞状受け取りの練習はしない、と言うので、賞状はこういう具合にもらうのだよ、と、実演して見せたのです。
 私からの賞状授与では、班長のキンセイさんが上手に受け取りをして、拍手喝采でした。

 総見授業参観が、なごやかに終了できたのも、学生たちが緊張しながらもいっしょうけんめい答えていたおかげ。私から学生にごほうびをあげることにしました。

 ごほうびは「浴衣姿の写真」のプレゼント。
 学内の他コースの先生が保有している浴衣を借りて、クラスの学生たちに着付けをしてやり、浴衣姿の写真撮影大会をやる、というクラスイベントを開催したのです。

 私は、娘の浴衣着付けをしたとき文庫帯の結び方を練習したのですが、忘れているので、もういちどネットの「帯結び」のサイトを開いて復習。だいたい思い出しました。
 着物は、女物の単衣の着物が3枚、黄八丈や花柄です。浴衣は女物が4枚、男物が1枚だけ。これは、和服を着たがるのは、女子学生が多いので、女物のほうが多く集められてきたからでしょう。

 実は、「浴衣で写真撮影」は、生け花教室の次の「日本文化体験教室」として、5クラス共通のイベントとして予定されていたのですが、諸般の都合により、5クラス全体ではしないことになってしまいました。

 だから、私のクラスだけ浴衣を着て写真をとったら、他のクラスから不平が出るところでした。
 でも、「参観授業を何度もしたごほうび」ということにすれば、他のクラスは参観授業を実施していませんから、あきらめてもらえます。
 クラスの学生には、「他のクラスが、3班だけ浴衣着付けをしてもらって、ずるい」と言い出したら、「3班は授業参観をしたから、そのごほうびなのだ、と説明しておきなさい」と、言い含めておきました。

<つづく>
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2009年07月21日


ニーハオ春庭「浴衣姿の撮影大会」
2009/07/21
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(19)浴衣姿の撮影大会

 我がクラスは、女性が9人、男性8人。男性は、女物を流用したり、男物浴衣を交代で着ることにして、浴衣着付け教室を行いました。浴衣の枚数が足りないので、3回に分けて実施。
 第1回目は、男性3人、女性5人が参加。私が文庫帯をふたりの女性に結び、あとは、付け帯です。一番人気は付け帯のお太鼓帯でしたが、じゃんけんで勝った人から好きな着物を選び、負けた人から帯と下駄草履を好きな順に選ぶと言う方法で、まずそれぞれの着物と帯を選びました。

 第1回目のときは、私がひとりで文庫帯を結んだので男性にまで手が回らず、男物浴衣は自分で帯を締めさせたところ、心配したとおりに胸高に締めて、「ツンツルテンに胸高帯」で、見事に「天才バカボン」になっていました。
 2回目3回目は、「帯はズボンのベルトの下に締めること」を徹底して、なんとか見られる姿になりました。

 1回目、ひとりで着付けをしたら、大変でした。それで、他学校の先生から授業参観希望を伝えられたとき、授業参観の一環として「学生と会話しながら、浴衣の着付けを手伝う」ことを条件に参観希望に応じることにしました。2回目は、短時間に着付けが終了し、たっぷり写真をとることができました。参観の先生方ともいっしょに写真をとり、よい記念になりました。

 浴衣は、本当は裸の上に直接着るのだ、湯上がりの衣装だった、という解説は事前にしてありましたが、1回ごとにクリーニングに出す予算がないので、Tシャツの上に羽織ることにしました。
 浴衣はまだしも、ウール黄八丈などは、Tシャツの上に着ると、7月の気温で、かなり暑い。しかも、日頃なれない帯をぎゅっと締めた女子学生は「毎日着るならたいへんだ」と言いましたが、互いに写真を取り合って、「きれいね」「日本女性みたい」とほめ合って、大喜びでした。

 男性組も、腕組みをしてポーズとるやら、恋人同士が並んでラブラブ写真を撮るやら、楽しそう。
 他のクラスからのぞきに着た学生もいっしょに撮影していました。他クラスの女性陣はちょっとうらやましそうです。

 3回目は、「女物でも写真にとってしまえば、男物の浴衣とたいした違いはない」ということで、残った男性たちの和服撮影大会。実際、男物の浴衣も、平均身長180センチの我がクラスの男性陣にはツンツルテンです。女物でも、着流しにすれば、膝の少し下くらいの長さには達する。ゆきが短いので、袖は肘が出るけれど、写真は、膝から上だけを撮影すれば、ツンツルテンはごまかせる。

<つづく>
11:43 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年07月22日


ニーハオ「浴衣姿の感想」
2009/07/22
ニーハオ春庭・ニッポニアニッポン語教師日誌中国版>(20)浴衣姿の感想

 ブログのニックネームを「白ちゃん」にして、3月から日本語ブログ」を書いてきた我がクラスの男子学生の日記を紹介します。
 彼はとても穏やかなやさしい性格で、他の女子学生のスピーチコメントにも「いつもやさしいエンテイさん、大好きです」と書かれていました。

 女性にもてそうですが、親友レイトウさんの短作文によると「エンテイさんはチャイなので、女性と話そうとすると、すぐ真っ赤になってしまう」そうです。うん?チャイナので?中国人はすぐ真っ赤になるのか、と思いきや、「彼はシャイなので」と表現したかったのです。「~ようとすると」「~そうとすると」という文型の練習文としてレイトウさんが作った文でした。
 レイトウさんとエンテイさんは、クラスのなかで、「まだ恋人がいない男性3人」のうちのふたりです。

 ブログのなかでは、私のことを本名で呼ばず、春庭かHAL先生と書いておいてね、と話したので、彼のブログで、私は「春庭先生」で登場しています。
 エンテイさんの日本語ブログ、誤用はありますが、私は「書き続けるうち必ず上手になるから、初期の間違った文を直さない方がいいですよ。そのうち、だんだん上手になったとき、最初はこのように間違えていた、ということがわかったほうがいいから」とアドバイスしました。 
=============
7月8日
昨日、授業が終わった(あと)、春庭先生は六つの着物を持って来ました。着物の中で、五つのが女の着物、一つしか男の着物ではない。
 着物は日本の伝統の服だ。現在、正月や成人式、結婚式など特別な時に着物を着る。私たちは初め(て)この着物を着る。
男の着物を(の)着方が簡単(だ)が、女のが複雑だ。春庭先生は優しいので、私たちを助けた。着物を着終わったとき、私たちのイメージが完全(に)変わった。また、私たちは先生と一緒に写真を撮った。この写真を見るのを楽しみにしている。
===========
 着物を着たあとでは、鏡に映る自分のイメージが完全に変わって「日本人のよう」になったことを、かわるがわる写真を取り合って楽しんでいました。
 私のブログコメント
 「白ちゃんは背が高いので、着物のサイズが少し小さかったことはちょっと残念でしたが、白ちゃんの着物姿は、とてもカッコよく、男前でした。教室のコンピュータに着物の写真が入っています。USBを持ってきて、コピーしてください。」

<つづく>
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ニーハオ春庭中国日記「世界遺産瀋陽の旅」

2011-07-11 06:10:00 | 日記
2009/07/02
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(1)瀋陽市

 遼寧省の省都、瀋陽。
 都市名は、中国風水思想により山の南側と川の北側は「陽」という考え方から命名されています。市内の南部を流れる渾河の古名「瀋水」の北に位置することから「瀋水ノ陽」という意味で、「瀋陽」という名になりました。これは、瀋陽市出身のゴタンさんとレイショウさんふたりのレポートによる知識です。
 中国東北部最大の都市であり、清王朝の古都としても知られています。女真族(清朝成立後は満州族と改称)の建てた「後金」の首都としての都市名は「盛京」です。

 現在の瀋陽市は、市区の人口500万人、周辺地区を入れると700万人という大都市ですが、歴史は古く、7200年前には定住集落(新楽遺跡)があったことが知られています。遼寧省博物館でこのあたりの歴史はたっぷり勉強してきました。
 瀋陽博物館は、たいへん内容が充実しており、中国磁器や絵画、歴史や考古学の好きな人にとって、丸一日使ってゆっくり見ても時間が足りないくらい。私は半日しかいられなかったのが残念でした。しかも無料!2008年から始まったという「無料開放」の恩恵を受けました。

 原始時代の展示室には、新楽遺跡のドルメン(石造の建築物)のレプリカや人々が洞窟で暮らしたようすの再現ブースなどがあり、7200年前という太古から、この地に人々が営々と日々の暮らしを営んだようすが展示されていました。
 そのほか、中国東北地方の歴史が時代ごとに展示室を設けてあり、社会科見学の小学生中学生がおもしろそうに見ていました。

 考古学的発掘品のほか、古銭の収集でも際だったコレクションが収蔵されていて、「中級日本語」の読解教材「銀貨や銅貨はなぜ丸いか」というページに出てくる「刀の形の貨幣」「鍬の形の貨幣」「貝がら貨幣」などがびっしりと並べられています。
 美術品の収集も充実していて、元、明、清それぞれの時代の陶磁器が展示してありました。中国美術に興味がある人にとっては、一日中見ていたい国宝級の美術品がありましたが、私は時間がなくて、どの展示室も駆け足でまわりました。

 満州族古都時代は、盛京と呼ばれた瀋陽。清朝3代目の順治帝が北京に遷都したあとも、初代と二代目の陵墓がある故地として大切にされ、副都として重きをなしてきました。

 日本近代史にとっては、。1905年の日露戦争で、当時史上最大規模の野戦である「奉天会戦」の戦場となり、日本近代史のターニングポイントとなった地でもあります。
 清朝滅亡後、瀋陽は張作霖張学良父子を代表とする奉天軍閥の拠点となりました。馬賊から身を起こし、卓抜な軍事力で「事実上の満州王」としてこの地に君臨した張父子の拠点となった家が張氏師府。
  
 瀋陽観光は、宿のすぐそばにある張氏師府の見学から。宿から歩いても5分くらいの場所にあるのですが、自転車タクシーに乗りました。タクシーの中に駅前で買ったばかりの瀋陽地図を置き忘れてしまった。
 張氏師府の入場料50元は、隣にある「瀋陽金融博物館」の入場料も兼ねています。う~ん、こっちも無料にしてくれればいいのに。
 張氏の邸宅は、東北軍閥政府の政務庁を兼ねていた大きな屋敷です。伝統的な「三進四合院」という建築様式の私邸部分と、近代建築の西洋風の公務用邸宅があり、張父子はここで日本の関東軍要人や外国人貿易商らとの面会、政務を行っていました。

 入り口を入るとすぐのところに、張作霖の娘たちが学校に通うために使用した馬車が展示されていて、中国人観光客はわいわい騒ぎながら、馬車の前で写真を取り合っていました。

<つづく>
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2009年07月03日


ニーハオ「張氏師府」
2009/07/03
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(2)張氏師府

 張氏師府には、日本語の案内パネルがあって、ガイドなしでも説明がわかってよかったのですが、この日本語の説明が実に笑える「日本語でどづぞ」式だったので、「う~、添削してぇ!」と、叫びながら読みました。添削した紙を係官に渡したらどうか。そんな紙はひねりつぶしてゴミ箱へ。すでに設置されているパネルの書き換えなど提案しても、だれの得にもならない。得にならないことを役人がするはずない。

 いつか中国人のエライさんに出会って、「中国人の日本語力はこの程度かと思われたら、中国の恥になりますよ」くらいのことを言えば、国際的観光地の日本語パネル表示が訂正されるかも。それまでは「日本語でどづぞ」を読んで楽しみましょう。

 張氏師府内の写真豊富なブログをリンク
 http://kangeki.blog.so-net.ne.jp/2008-03-22-2

 日本語が聞こえてきたので耳をすますと、50~60代くらいの日本人男性ふたりを、若い女性ガイドが案内しています。しかし、彼女の日本語は少々おそまつで、たとえば、展示品の火鉢の前では、「冬、寒いね。手、します」と、手を摺り合わせるジェスチャー。まあ、意味が伝わったからいいのだけれど、集安市で出会った日本語ガイドの金さんが、完璧な日本語を話していたのと比べると、「ああ、この程度でもガイドとして通用しているんだなあ」と思ってしまいます。

 朝鮮族であり、文法が日本語と同じである母語を持っているため日本語が達者だった金さん。彼のガイド料は、1日300元(約4500円)と言っていました。高句麗や好太王の歴史についてもきちんと説明してくれるにちがいありません。貧乏旅行の私は金さんにガイドを依頼できませんでしたが、この「手、こう」のガイドさんは、もっと高いガイド料とっているのかもしれません。瀋陽は大都市ですから。

 ガイドされている日本人二人は、「張作霖?知らないなあ」と、日本近代史には何の興味も持っていないようでしたから、「手、します」くらいでちょうどいいガイドだった。
 もし、近代史に興味をもっていたり、「偽満州」史や日中関係史などに関わる人のためだったら、もう少し歴史的な説明ができるガイドがつくのでしょう。

 中国では、事件現場の地名をとって「皇姑屯事件」と呼ばれている事件。日本では、事件当時は「満洲某重大事件」と呼ばれ、現在の歴史教科書には「奉天事件」あるいは「張作霖爆殺事件」と記載されている事件。近代史のなかでは大きな事件なのですが、興味のない人にとっては、張作霖も張学良も歴史のかなたの「昔の人」に過ぎないでしょう。

 日本では、近代史や近代日中関係史を中学高校ではほとんど扱わないので、張作霖と張学良親子について知らない若い人は大勢います。でも、せっかく「張氏師府」という張親子の居宅兼政庁に観光に来たのだったら、もうちょっと中国に関する興味を持ってほしいなあと、思いつつ、歴史的な写真パネルや張学良の遺品などを見て歩きました。

 張学良は、数奇な一生をすごした人です。何よりも100歳まで生きた「歴史の証人」でありました。
 「事実上の満州王」として中国東北地域を支配した張作霖の長男として生まれ、プリンスとして、幼少時から英才教育を受けて育ちました。父張作霖が日本軍によって列車ごと爆殺されたあとは、軍人としての才能を発揮して父の後を次ぎ、東北軍閥を掌握しました。
 以下、張学良と後妻の趙一荻の物語。

<つづく>
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2009年07月04日


ニーハオ春庭「張学良」
2009/07/04
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(3)張学良

 張学良は、西安事件など、中国近代史に重要な役割を果たしました。現代中国では「周恩来との秘密会談によって、抗日に協力した英雄」という評価を受けています。蒋介石を「国家の敵」とするために、張学良を持ち上げている、という評もあり、歴史上の評価は、中国、台湾、その他の国でも評価が定まっていません。

 張学良自身は、1991年にNHKのインタビューに答えた際も、西安事件については詳細を語りませんでした。しかし、1994年に、陸鏗(香港の著名ジャーナリスト)のインタビュー(香港『百姓』1994年)に対して、彼は、「(西安事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と述べ、自身が果たした歴史上の行為について、結果的に西安事件が国共内戦においては共産党に有利に働いたことを「後悔していない」と語っています。このようなことも中国側の評価を高くしている理由でしょう。

 1937年、蒋介石は張学良を軟禁状態とし、以後50年間、彼は行動の自由を奪われて生き続けました。1949年に共産党が人民共和国を樹立したあと、国民党蒋介石によって台湾へ拉致され、軟禁が続きました。1975年の蒋介石の死後、1991年に正式に軟禁が解かれるまで、50年に及ぶ日々を幽閉状態で暮らし続けました。

 軍閥として国際的に名を知られた張学良が、37歳から50年間もの間、軟禁状態に耐えたには、強い精神的支柱が必要だと思いますが、この支柱になったのは、キリスト教入信と、後妻の趙一荻です。軟禁から解放された後、夫妻はハワイで晩年をすごしました。

 台湾に移送されて以後の張学良と添い遂げた趙一荻は、ハワイ移住後はエディス・チャン(Edith Chang)名乗っていました。
 趙一荻夫人は、2000年6月に88歳で亡くなり、最愛の妻を失った張学良はその翌年11月に妻の後を追って亡くなりました。張学良は100歳と4ヶ月という長寿をまっとうしました。 

 張氏師府の隣の地に、趙一荻が若いころ住んだ瀟洒な家が残されています。これは、張学良と趙一荻が出会った当時、張学良にはすでに妻子があったため、張氏師府の中に住まいを与えることができず、別棟を建てていたときの家です。
 先妻于鳳至は1916年春、張学良と結婚、二男一女をもうけていました。
 趙一荻は、16歳で27歳の張学良とダンスホールで出会い恋に落ちました。(その後、ダンスはふたりの共通の趣味として、生涯ともにダンスすることを楽しみにしていたそうです)。
 趙一荻は、美しく聡明な女性で、張学良が海外へ出かけるときは、男装して従いました。これは、表向き「秘書」として彼のそばにいるための方策でした。趙一荻旧居には、男装写真が階段の壁に掛けられていました。

<つづく>
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2009年07月05日


ニーハオ春庭「張学良と趙一荻」
2009/07/05
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(5)張学良と趙一荻

 張学良の先妻于鳳至は、夫が蒋介石によって軟禁されたあと、1940年 2月に米国へ脱出しています。(一説に病気治療のため)
 趙一荻は88年の生涯のうち、73年を張学良に連れ添いましたが、正妻の于鳳至をはばかって30年以上を日陰の身として「秘書」の名目で張学良に従いました。于鳳至と張学良の法的な離婚が成立したのち、1964年7月に晴れて結婚しました。出会ってから38年目、台湾での軟禁状態にある張学良をささえ続けて15年の末に得た正妻の座、趙一荻は52歳になっていました。

 1989年、張学良は、李登輝政権の下でようやく自由を回復しました。1991年に正式に釈放され、趙一荻は夫と共に1994年ハワイに移り住み、二人してハワイで暮らし、生涯を終えています。

 張学良の99歳(数え年で百歳)の誕生日祝いが盛大に行われたとき、趙一荻はどのような思いで来し方を振り返ったでしょうか。この誕生祝いののち、趙一荻はホノルルの病院に入院、そのまま帰らぬ人となりました。

 台湾での軟禁生活のうち12年をすごした台湾北部、新竹県五峰郷の清泉温泉の「張学良軟禁の家」は、2008年に改修整備されて一般公開されているそうです。
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/china/081024/chn0810242238005-p2.htm

 2008年12月の開所式のテープカットは、馬英九総統が行うなど、台湾でも張学良の再評価が進んでいることがわかります。

 先妻の于鳳至は、『我与漢卿的一生:張学良結発夫人張于鳳至回憶録』という、口述筆記の自叙伝を残しています。出版は2007年5月(ISBN:7802142237 ISBN13:9787802142237 )
 張学良と趙一荻も、世界史的な事件に関わった人物として歴史の証人となるべく自叙伝を口述筆記でもよいから残すべき人だと思うのですが、今のところ、ふたりの回想録や口述筆記の伝記は見あたりません。

 張学良は自由の身となって以来、中国にも揮毫をさまざまに残しており達筆の人でした。たとえば、私が1994年に瀋陽市の東北大学を見学した際、正門の「東北大学」という文字は張学良の書によるものでした。50年にわたる幽閉生活では、旅行や外部マスコミとの接触などの自由はなかったものの、衣食住は保証されて労働の必要もなく時間はたっぷりあったと思うのですが、著作を残していないところを見ると、文章を書くのはあまり好きではなかったのかもしれません。

 国共内戦を戦った人々のうち、毛沢東や周恩来は読書家として知られ、多くの著書を書き残したのに対し、台湾へ去った蒋介石と張学良には著作がない。文字によって己の思想を書き残せる人のほうが、歴史的評価の点では有利。張学良の評価が歴史的に固まるのは、この先、さまざまな資料の解読がすすみ、研究が進展してからのことになるでしょう。

<つづく>
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2009年07月06日


ニーハオ春庭「東陵公園」
2009/07/06
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(6)東陵公園

 張氏師府見学のあと、若い友人リンリンといっしょに、中街の餃子店へ。おなかいっぱい餃子を食べました。
 大東門前のバス乗り場から218番の路線バス(1元=15円)に乗って、東陵へ行きました。近代史の舞台から一気に清朝の初代へ。東陵は清朝初代ヌルハチの陵墓があるところです。瀋陽市の東北11㎞の緑濃い丘陵地帯にあり、路線バスで30分でつきました。

 東陵の正式名称は福陵ですが、瀋陽市の東部に位置するので東陵と呼ばれ、現在は「東陵公園」として一般公開されています。入場料は30元。2004年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定されています。

 ヌルハチの死については、興城の攻防について記したとき述べました。明の領土への侵入をはかったヌルハチ13万の軍勢に抗して、明の知将袁崇煥が興城を守り抜いたというお話。ヌルハチは袁崇煥の撃った紅夷砲(ポルトガル製大砲)によって傷を受け、そのため死にいたりました。ヌルハチの息子のホンタイジも同じように明の領土への侵入をはたせず、袁崇煥に屈しています。

 ヌルハチの陵墓は、1629年に建てられ、ヌルハチと共に皇后イエホラナが眠っています。後金時代の1629年(天聡3年)に着工し、完成したのは、1651年。清の3代目順治帝のときでした。
 その後も歴代の皇帝が墓参に訪れ、康熙帝によって、整備拡張が続けられました。1672年(康煕10年)から1829年(道光9年)年まで、康熙・乾隆・嘉慶・道光の4皇帝が10回東巡し,福陵を訪れています。日本の歴代将軍が日光東照宮を訪れているのと同じ。

 山に囲まれていて、参道には108段の石段があります。リンリンといっしょにイーアルサンスーと数えながら登ったのですが、なぜか107段。最初の一段を上ったところから数え始めたのですが、登る前を一段目にすべきだったのでしょうね。仏教では108は煩悩の数とされ、除夜の鐘は大晦日には108回鳴らされますが、陵墓を完成させた順治帝が仏教に深く帰依した人だったので、ひいじいさんの墓も仏教思想を取り入れて完成したのだろうと思います。

 あたり一帯には松が植えられており、松林の中にこんもりと小山が築かれています。私はこの古墳の中にヌルハチ夫妻が眠っているのだろうと思ったのですが、リンリンが説明板を読んだところによれば、古墳っぽい丘の前に立つ立派な建物の地下が墓室だというのです。発掘したかどうかわかりませんでしたが、私がヌルハチなら、建物の地下より「古墳の山の中がいい。私がいいって言ってもどうにもならんが。

 この福陵にも、清時代の衣装を着て写真を撮る貸衣装屋がいて、若いカップルが皇帝皇后の衣装っぽいのを着て写真を取り合っていました。いっしょに写真をとってもらいました。
 福陵前の龍湖でしばし休憩。再び218番の路線バスで中街へもどりました。

<つづく>
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2009年07月07日


ニーハオ春庭「」盛京故宮」
2009/07/07
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(7)盛京故宮

 夕食は友人リンリンの故里である湖南省料理の店へ。ホテルの前から10メートルくらい歩いたところにあるので、土曜日の夕食と日曜日の昼食の2度食べました。その名も「毛家の店」店内には、共産党王朝の初代、湖北省出身の英雄、毛沢東の写真が掲げられています。毛王朝は、「皇后」江青の失脚によって二代目三代目とつづくことはありませんでしたが、隣の国では金王朝がどうやら三代目の跡目相続でもめているようす。

 さて、毛沢東が最も好んだと言われる紅焼肉や、竹の筒の中に餅米と豚肉が入っている竹筒蒸排骨、とてもおいしかった。湖南料理は四川料理と並んで辛いことで有名ですが、私が辛い物が苦手と言っていたので、リンリンは上手にメニューを選んで、辛くないものを並べてくれました。「これはお母さんの得意料理」という鶏肉のスープも辛くはなく、おいしかった。リンリンは、7月5日にお母さんや妹ヤータンの待つ故里へ帰りました。8月からはOLです。

 盛京(瀋陽)故宮は、後金(のちの清朝)の初代皇帝ヌルハチと2代皇帝ホンタイジの皇居で、規模は北京の故宮の12分の1です。
 盛京故宮は、北京故宮ほど壮大ではなく、こじんまりした印象なので、リンリンは「想像していたより小さい」と感想をもらしていました。

 1625年に着工、1636年に完成しました。初代ヌルハチと2代目ホンタイジはこの皇居に住んで全中国の統一をめざしました。
 3代目の順治帝が明を滅ぼして北京へ首都を移し、元時代から受け継がれている北京故宮(紫禁城)を住まいとしたのちも、歴代皇帝は故地を大切にし、盛京故宮は引き続き離宮として用いらました。

 入場料50元。敷地内は、主に東院、中院、西院に分けられています。
案内図のリンク
http://www.chinaviki.com/china-maps/Liaoning/sygg.html
世界遺産に指定された頃の写真をリンク
http://www.wakhok.ac.jp/~sumi/album/2004/10/07/album20041007b.html

故宮内の説明があるブログリンクはこちら
http://e-miai.biz/pipipiga/pipipiga.php?q_dir=.%2Fimg%2Fdir03

 満州族(女真族)は、もともとはツングース系の遊牧の民でした。そのせいかどうか、同じく遊牧民であった元朝が建てた北京故宮と同じく、建物にはあまり凝らなかったように思うのです。
 同じ17世紀18世紀に建設されたベルサイユやエルミタージュなどがやたらに華麗主義で飾り立て、また、日本の桂離宮などは素朴っぽい木造に見えて、建築材料はとても凝ったお金のかけようをしていて、柱一本天井板一枚に気を配って建てたようすがよくわかる。

 それに対して、北京故宮も瀋陽故宮も、壁や床が、見た目粗末っぽいのです。現在までアラビア半島などのテントによって生活していた部族の女性は、家は移動式でいつでもたためる「動産」であり、一番お金をかけるのは、ネックレスやイヤリングなどの装身具、体中にアクセサリーをじゃらじゃらさせているという印象があります。
 蒙古族も満州族も、建物にお金をかけるのは好きじゃなかったのか、という印象を受けます。もちろん、3階建ての鳳凰楼など、壮大な建物はあるのですが、内に入ると、建物の内部自体はそう華麗という印象ではない。

 金ぴかの茶室を建てた豊臣秀吉とか、華麗な障壁画を巡らせてあったという安土城、今も美しい姿を見せる二条城など、同時期の日本の権力者が建てた建造物に比べると、瀋陽故宮も福陵の建物も、それほど見た目はぱっとしていない。
 遊牧民の伝統というか、壁や床にはあまり気を配ったようすがありませんでした。

<つづく>
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2009年07月08日


ニーハオ春庭「ヌルハチ御殿」
2009/07/08
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(8)ヌルハチ御殿

 清朝滅亡後の混乱の中、めぼしい宝物は散逸してしまったといいますから、北京故宮や瀋陽故宮の床や壁を覆っていたタベストリーや絨毯なども無くなってしまったのかもしれません。
 江戸城明け渡しに際して、城内の宝物を「公共のもの」と見なして持ち出しを禁止し、そっくり西郷隆盛に引き継いだ天璋院篤姫のような人がいなかったのでしょう。

 清朝滅亡後は、中華民国成立後も混乱が続き、馬賊出身の軍閥が闊歩して略奪し放題だったのではないでしょうか。その点、八路軍はたいへん軍律が厳しく、略奪はしなかった、と言われています。(これは現在の政権から見た歴史的ストーリーですから、実際にひとつもなかったかどうかわかりませんが、少なくとも八路軍は農民からの略奪は絶対にしなかった)

 北京故宮の宝物はそのほとんどを蒋介石が台湾に持ち運んだとされています。西太后の陵墓には、「蒋介石が墓室内の宝物を全部盗んで持ち去った」という内容の説明板が立てられているそうですが、全部が全部蒋介石の仕業ではないにしても、王朝交代の混乱時に、前代の貴重品が散逸してきたというのが、大陸の歴史的事実。
 王朝が交代し、支配民族が入れ替わる大陸と、1300年前の正倉院の宝物が、そっくりそのまま大切に受け継がれてきた島国の違いなのかもしれません。

 江戸時代に、大陸では明から清へと王朝が変わったさい、明代の貴重な書籍絵画は散逸し、唯一日本に多くの書籍や絵画がまとまって残された。江戸幕府が長崎を通して明国の書籍絵画を輸入していたからです。2007年のときの教え子留学生の一人は、宋時代明時代の美術史研究にとって、日本での明代絵画研究が大切だと言って留学を決めたのでした。

 瀋陽(盛京)故宮は、瀋陽市のほぼ中央にあります。故宮見物をメインにするつもりだったので、中街という瀋陽で一番にぎやかな町の中に宿をとりました。張氏師府もヌルハチ故宮も歩いて5分くらいのところにあります。

 故宮は、東院、中院、西院の三部分に分かれています。
 東院は、ヌルハチが建てた最も古い部分で、政事(まつりごと)の中心であった大政殿の前に、「八旗」という満州族の軍事行政の基本となった武人組織の殿舎が一旗にひとつずつ建てられて両側に並んでいます。大政殿は八角形をしており、これは遊牧民の移動式住居であるゲル(包パオ)を模した建築様式なのだそうです。中央には玉座があります。

 ツングース系遊牧民であった女真族のことばでは、自分たちの部族を「ジュシェン」(または「ジュルチンと呼んでいました。その民族名に漢字をあてたのが「女真」です。女真族は初代ヌルハチが「後金」王朝を建て、のちに部族名を「満州族」と改称しました。北京入城後は王朝名を「清」と改め、満州族は漢族や蒙古族との通婚により、文化はほとんど漢族のものに同化しました。

 満州語やヌルハチが整備した満州文字もしだいにすたれ、皇帝の「教養」のひとつであった満州語満州文字の習得も、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀などはほとんど学習せず、溥儀は満州語を書くことも話すこともできなかったと伝えられています。

 少数民族優遇策がとられている現在、自分自身を満州族であるとして戸籍登録している人は約1000万人おり、チワン族の1600万人に次いで、少数民族の中では2番目に大きい民族になっていますが、他の少数民族が独自の言語や生活様式を保有しているのと比べると、満州族の生活は言語や文化がほとんど漢族に同化しています。

<つづく>
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2009年07月09日


ニーハオ春庭「八旗と纏足」
2009/07/09
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(9)八旗と纏足(てんそく)
 
 満州族組織の基本である「八旗」はヌルハチが組織した軍事行政組織です。これをもとに、すべての満州人は八旗のいずれかに編入されて軍備行政の任を担当しました。後の時代には漢族八旗や蒙古八旗など、満州族支配に入った民族もそれぞれ八旗が組織され、清王朝の中国全土支配の要となりました。

 ヌルハチの軍は、当初は4軍でした。大政殿の前に立ち並ぶ八旗の駐屯殿舎は、1601年にヌルハチがこの制度を創始した当初の黄・白・紅・藍の4色の旗を持つ軍事組織であったものを、1615年にそれぞれの色を「正」「鑲(金+襄)じょう」に分け、八旗としたものです。

 組織に入っている満州族は「旗人」と呼ばれて領地を与えられており、江戸時代の武士と同じように、武人であると同時に官僚として行政を担当しました。

 中院は、二代目ホンタイジの建てた皇居です。瀋陽(盛京)故宮の中の最も高い建物である鳳凰楼は3階建てで、3階からは皇帝が盛京の街を見下ろしたそうです。ホンタイジの執務室(正殿)は、崇政殿と呼ばれています。

 記録に残された限りでは、ヌルハチとホンタイジにはそれぞれ12人の正后と側后があり子を残しています。子をなさなかった側室はさらにいたでしょう。皇后以下、宸妃、貴妃、淑妃、側妃、庶妃などの位があり、後の時代には、それぞれの后の持つ衣装の数や食器の数まで厳密に決められ儀礼儀式の中でがんじがらめの生活をすごしたようです。
 瀋陽博物館のなかに、后妃の持つ食器の数を一覧表にして展示してありました。後宮一番の権力者は皇帝の母、皇太后です。

 皇帝とその家族の生活空間であった清寧宮には、皇后の寝室と側室の寝室4棟があり、寝室のようすなどが復元展示してあったのですが、皇子誕生のときのゆりかごなども、本物は失われてしまったのか、ごく普通のハンモック型のゆりかごが展示されていて、豪華な雰囲気はなく、皇室の家具調度としたらちょっとお粗末なものです。
 もとは遊牧民なので、家具調度にお金をかけない主義であったのか、豪華な家具は盗まれてしまって、現代の復元にはお金をかけられなかったのか、知りたいところです。

 西院は、順治帝が北京入場を果たして以後の増築で、『四庫全書』が収められていた図書室、文溯閣などがあります。
 
 瀋陽故宮の売店で、中国四大美女を描いた扇子、十二代の皇帝の肖像を並べて描いた扇子など、お土産になりそうなものを買いました。

 お土産で買い損ねて残念に思ったもの。故宮に行く前に、中街の蚤の市の続くストリートを冷やかして歩きました。売り物の中に10センチサイズの「纏足の靴」があったのです。見た目、ただの「古い子供靴」にしか見えませんが、売り子は「古い時代の女性の靴」と言っていました。

 ほんとうに纏足の靴なのか、ただの古い子供靴なのか、私には見分けがつかないので、心ときめいたものの、買いませんでした。300元という言い値、日本円で5000円くらいですから、思い切って買っておけばよかったと後悔しています。これから先、纏足の靴などは手に入りにくいものでしょうから。もし、ただの子供靴だったら、、、、私の眼力のなさをあきらめればよかっただけですから、買っておくべきでした。

 纏足は、清の貴族女性や金持ち女性の習俗で、幼児の頃から、足を強く包帯で締め付けて、足の大きさを10センチから15センチ以上に大きくさせないようにした習慣です。体は大きくなっても、足だけは子供のまま。当然よちよち歩きしかできず、纏足は「労働をせず、男性の庇護のもとに一生をすごす」ことの象徴でもありました。

 清時代の男性は、この小さな足に魅力を感じ、より小さな足の女性が「美人」でした。「よちよち歩きしかできない小さな足」に魅力を感じる男性のために、足を成長させない習俗ができたのです。
 現代の男性が大きな乳房に魅力を感じ、女性は豊胸手術をしてまでも大きな胸になりたいと思うのとまったく同じことです。

<つづく>
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2009年07月10日


ニーハオ春庭「再見、瀋陽」
2009/07/10
ニーハオ春庭・中国世界遺産の旅4>ヌルハチの遺産(9)再見、瀋陽

 ヌルハチを始祖とする清王朝の残した遺産のうち、八旗制度や纏足習俗などは失われましたが、故宮などの文物は中国の歴史を彩る文化遺産として残り、世界遺産にも指定されています。古い時代の建物も町の中に数多く残っていますが、現代中国女性たちは、はつらつと町を歩き回っています。男性たちも、よちよち歩きで男に頼って生きるしかない清朝時代の美人ではなく、生き生きと自分自身の人生を追求する女性に魅力を感じているのではないでしょうか。

 纏足靴は買い損ねたけれど、蚤の市ストリートでは、ほかにお土産をいくつか買いました。孫文夫妻の結婚記念写真や魯迅一家の写真のコピー、1枚1元。
 のみの市ストリート出店のテントの中で扇子に牡丹の絵を描いている女性がいました。しばらく見事な牡丹の花が描かれるようすを見ていましたが、見ているうちに欲しくなり、娘へのお土産用に牡丹の花を描いてもらうことにしました。

 画家は王暁敏さん。骨董市場の建物の中に店を持っています。以前は北京で画家として活躍していたのだけれど、瀋陽に移ってきてまだ日が浅いので、現在は宣伝中のため、格安の値段で描いている、という話です。
 表に牡丹の花、裏に娘の名前を書き入れてもらいました。

 午前中注文して、午後電車に乗る前に受け取りにくることを約束したため、瀋陽で見物したかったことが二つできなくなりました。
 ひとつは瀋陽駅前で写真をとること。この瀋陽駅は、旧時代の建物で、1910年(宣統2年)満鉄五大停車場の一つとして建設されたものです。

 瀋陽駅周辺には、近代建築史上の建物が残されており、現役で使用されています。
 駅近くの中山広場周辺には、旧ヤマトホテル(現・遼寧賓館)はじめ、旧満鉄共同事務所(現・瀋鉄大旅社)、満鉄貸事務所(現・瀋陽飯店)、満州医科大学付属病院(現・中国医科大学)、東洋拓殖奉天支店(現・瀋陽商業銀行・写真右)などがあります。

 私が往復に利用した中国新幹線の和諧(わかい)号は、新しい瀋陽北駅の発着なので、在来線の瀋陽駅を利用しません。瀋陽駅を写真を撮るための時間を予定に入れていたのですが、牡丹絵の扇を受け取りに行くことと瀋陽駅に行くことのどちらかをあきらめないと、午後4時半の和諧号に間に合わなくなります。

 古い時代の建物や、近代建築を見て歩くのが好きな私としては、ぜひ写真を撮りたかったのですが、今回は見物することができませんでした。
 1994年に瀋陽に来たときは瀋陽郊外にある平頂山博物館(日本軍がゲリラ掃討のために平頂山の村民全員を虐殺した遺体をそのまま保存し博物館にしている所)の見物に時間がかかって、やはり旧瀋陽ヤマトホテルなどの建物群を見物できなかった。

 写真で見る瀋陽駅は東京駅によく似ています。東京駅を設計した建築家の辰野金吾氏の様式(辰野式)を取り入れているので、東京駅と外観が似ているのです。設計の施行者は、満鉄技師の太田毅。2007年に大連で妹と宿泊した大連賓館(旧大連ヤマトホテル)の設計者も太田毅と言われています。(敗戦時の満鉄関連資料散逸のため、確実な記録は失われているそうですが)
瀋陽の近代建築紹介サイトをリンク
http://media.excite.co.jp/ism/extra/shenyang/00.html

 そのほか、瀋陽市出身の学生がスピーチで紹介し、「瀋陽に来たらぜひ見物してください」と勧めていた「瀋陽植物園」も見る時間がありませんでした。この植物園は、2006年に「世界園芸博覧会」の会場となり、現在はそのときの「世界中の植物を地域ごとに集めた植物園」「中国各地の植物を地域ごとに集めた植物園」が残されています。「雲南省の植物」とか「南アメリカの植物」など、テーマごとに植物を見ることができ、瀋陽市民自慢の植物園です。

 これら、見に行けなかった場所は、この次瀋陽に来たときのお楽しみといたしましょう。次に見たいと思っている場所があれば、いつか必ず再訪することができるでしょう。

 「もう一日あったらなあ」と心残りではありましたが、月曜日は仕事ですからしかたありません。午後4時半の中国新幹線、和諧(わかい)号に乗車して瀋陽をあとにしました。再見、瀋陽

<おわり>
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