春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭2013年5月 目次

2013-05-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/05/30
ぽかぽか春庭2013年5月 目次

05/01 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>日本国憲法施行の日をまえに(1)憲法第3章
05/02 日本国憲法施行の日をまえに(2)我が窮状

05/04 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>無料ですごすゴールデンウイーク2013年(1)プレスリーのフィーバー!
05/05 無料ですごすゴールデンウイーク2013(2)映画「別離」
05/07 無料ですごすゴールデンウイーク2013(3)映画 桃さんの幸せ」
05/08 無料ですごすゴールデンウイーク2013(4)みどりの日自転車散歩
05/09 無料ですごすゴールデンウィーク2013(5)ランチ&ハンドクラフト

05/11 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2001年のゴールデンウイーク(1)時空をこえる文字
05/12 2001年のゴールデンウイーク(2)敗者復活
05/14 2001年のゴールデンウイーク(3)チョウの飛ぶ道
05/15 2001年のゴールデンウイーク(4)働く女性

05/16 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記2013年5月(1)母の日2013
05/18 十三里半日記2013年5月(2)薔薇と蕎麦
05/19 十三里半日記2013年5月(3)ジョンソンタウンでおしゃべり

05/21 ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(1)苦役列車貧乏
05/22 ボロの美と贅沢貧乏(2)BOROアミューズミュージアム
05/23 ボロの美と贅沢貧乏(3)BOROを集める
05/25 ボロの美と贅沢貧乏(4)BOROは美しい
05/26 ボロの美と贅沢貧乏(5)映画の中のBORO衣裳
05/28 ボロの美と贅沢貧乏(6)おやつ談義-ボロの美と贅沢貧乏
05/29 ボロの美と贅沢貧乏(7)鉄路-人生はガタゴト苦役列車に乗って
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ぽかぽか春庭「鉄路-人生はガタゴト苦役列車に乗って」

2013-05-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(7)鉄路-人生はガタゴト苦役列車に乗って

 今回の春庭コラムタイトルは、3つの作品のタイトルの合成です。王兵『鉄西区第三部・鉄路』、井上マス『人生はガタゴト列車にのって』、西村賢太『苦役列車』
 列車つながりで集めただけですが、BOROシリーズの最後の感想として、王兵の『鉄路』でまとめてしまおうと。

 『人生はガタゴト列車に乗って』は、井上ひさしの母親マスさんの自伝です。井上ひさしは、たびたびエッセイや自伝的小説に、その破天荒な母親を登場させていて、「ひさしのおっかさん」の姿は井上ファンにはなじみになっていました。

 マスさんは、山形での短い結婚生活で長男ひさしと次男をもうけるも、夫は早世してしまいました。マスさんは山形から岩手へと流れ、釜石など東北各地を渡り歩きながら、貧しくともたくましく生きて行きます。
 1983年に出版されたマス自身の執筆による自伝、私は読んだことなくて、演劇で見たのです。

 浜木綿子主演の舞台、姉に招待されて、帝国劇場の一番前の席での見ました。妹のモモは演劇好きで地元で「おやこ劇場」という活動をしていたので、ときどきいっしょに舞台を見る機会がありましたが、姉といっしょに舞台を見たなんて、この『人生はガタゴト列車に乗って』ただ一度きりだったので、私には思い出の残る作品です。

 5月23日の仕事帰りに渋谷へ出て、イメージフォーラムで『鉄西区第3部 鉄路』を見ました。渋谷駅の出口を間違えて、いつもの方向音痴、六本木通りから青山大学西門あたりをぐるりと遠回りして、やっと映画館に着いたら、まだ上演時間まで小1時間ある。となりにある「根室食堂」で時間つぶしサンマ塩焼き定食なら480円という格安だったのに、昼ごはんはもう食べちゃったし、夕ご飯には早い、という時間なので、サンマ単品280円と生ビール430円。

 ビール飲んだら寝ちゃうぞと思いながら飲んでいました。私、ちょっとでも目をつぶるとすぐ眠れる寝付きのよさを誇っているんです。電車のなかでも、座ればすぐに寝られます。明るくても平気ですが、暗い映画館の中なら、なおさらぐっすり。

 『鉄路』は、王兵(ワン・ビン)監督のドキュメンタリー映画『鉄西区』(ティーシィークTie Xi Qu: West of Tracks)の第3部です。遼寧省瀋陽市鉄西区を2000年代初頭に取材した、第一部「工場」240分、第二部「街」175分、第三部「鉄路」130分、計545分という大作ドキュメンタリー。
 私は「工場」も「街」も見たことない。王兵の最新作『三姉妹・雲南の子』を見たいと思い、上映館をさがし、『鉄路』もやっていたので見る気になったです。

 最初のシーン、真っ暗な冬の夜。列車の先頭に据えたカメラが、延々レールの上を走っていきます。暗い、、、、
 田園地帯の美しい風景も鮮やかな街の風景もなく、列車はひたすら雪と闇の中の走っていく。レールのシーンが続きます。

 ちょっと目をつぶって目をあけたら、朝の線路にになっていました。上演開始から40分、寝てしまった。あらら、ビール飲むんじゃなかった。でも、それからの90分、とても充実したよい作品だったので、冒頭の40分を見逃したこと、悔しい。ビール飲まなきゃいいのに。

 王兵は、機関車の中で働く人々を写し、休憩室で弁当を食べトランプに興じる労働者をうつします。2000年の彼らは、日本人観客の目に、終戦直後から1950年代の日本がそうであったほどの暮らしに見えます。つまり、貧しい。

 ことに、正式の鉄道職員でもなく、駅の雑用をしたり鉄屑拾いをして暮らしている老杜と杜洋親子の暮らしは、圧倒的に貧しい。住む家は、鉄道線路脇の電気もないボロ小屋。無断で住みついているけれど、老杜が言うには、「鉄道公安局」にコネがあるから、住み続けていられるのだと。息子の杜洋は成人になっても働き口もなく、老杜が働いている間も、ぼうっとボロ小屋の中にいるだけ。日本でいうならニート。

 ある日、老杜は鉄道の石炭を無断で拾ったという罪をきせられて、拘置所にいれられてしまいます。鉄道の中に落ちているものを拾って売っぱらうのは、労働者たちの小遣い稼ぎとして、どの労働班もやっていたことでした。労働者たちは自分たちもやっていることなので、老杜が鉄道内に落ちているものを拾うのも見逃していました。しかし、杜親子の住む家を取り壊すことにした上層部は、それを見逃さないことにして親子の追い出しをはかったのです。

 杜洋は、泣きながら拘置所にいる父親を案じます。幼い頃に母親が出て行き、残された父と息子。杜洋の弟は食堂で働くことになって出て行き、たまに帰って顔を見せるきり。杜洋は、父を頼る以外になく、父とこれほど長く離ればなれになったことはなかったのです。ようやく父が帰されました。郊外の拘置所へ迎えにいく杜洋。杜親子は、場末の安食堂で食事しました。杜洋は酒を飲み、酔っ払います。

 杜洋は、父親をどれほど案じていたかと泣きくどき、自分を見放すなと土下座します。と、思ったら次は自分をほったらかしにした父へ怒りをぶつけて床にころがります。ついには老いた父親が大きな息子をおんぶして帰る始末。老杜は、自分の人生を息子に語り始めます。文革時代にわが家は没落してしまったのだと。

 2001年の春、空港近くの住まいを見つけた老杜は、鉄道労働者の休憩所にやってきて、自分は月に500元、息子も300元を貰える仕事にありついたと、仲間に告げます。収入が出来たので、必ず返済するから、皆に借りた借金はもうちょっと待ってくれというためにやってきたのです。今月は、携帯電話を買ったために、お金をつかってしまったが、あとで必ず返すと、老杜はいいわけします。

 二人あわせて一ヶ月800元(約1万円)の収入は、他の都市部で働く労働者と比べて決して低い額ではありません。2007年2009年に中国に赴任したとき、食堂店員の月給は600~700元でしたから。まして農民と比べれば、上等な月収で、老杜がケータイを買い込み、自分より若い女性と再婚できそうになったのもわかる。

 私が1994年に中国に赴任したときは、高給ビジネスマンや軍幹部しか持っていなかったケータイを、13年後の2007年に赴任したときは大人はみなケータイを持っていて、2009年には学生までが皆持っていました。90年代に始まり、2000年以後は爆発的な勢いで貧しさから脱却した都市部の中国。日本が1945年から30年かかって成し遂げた変化を、中国は2000年以後、たった10年で行ったのです。短期間の変化の中に、当然ゆがみがでてきます。

 年収200万元(日本円で約3000万円)があり、投資可能な資産が1000万元(約1億3000万円)以上ある中国人(中国富裕層)は、30万人もいます。一方、貧困層はどんどん拡大しています。前から農村と都市部の格差は大きかったですが、都市部の貧困層拡大も急速です。農村から出稼ぎにやってきて、そのまま都会に住みつく人も多い。

 中国では、農村に生まれた農村戸籍の人は、都市部に戸籍を移動することはできません。移動できるのは、軍人と大学入学者のみですが、農村出身者が大学に入学するのは都市部に比べて不利です。
 出稼ぎ者が都会で子を持つと、子は無戸籍者になり、学校に行くこともできず、貧困層の連鎖になっています。

 母親のいない杜洋は、洗濯もされていない垢じみた着たきり雀のような服を着ていました。農民の親が出稼ぎにでてしまって、取り残された農村部の子どもたちは、今もなお、ボロボロの服をきています。
 青森のBOROは、丹精込めてつくろいを施したボロでした。しかし、親が出稼ぎに出ていて繕い物をする人もいない中国農村の子のボロ服は、文字通り襤褸。破れたらやぶれたままのボロです。

 中国の農民がそろって飢えから解放されたのは、人民中国成立以後のこと。その点では毛沢東を評価したい。「毛沢東が晩年に文革をやったのは、自分を権力者のままにしておくための過ちだったが、彼のやったこと全体としては評価できる」というのが、現在の中国での受け止め方と思います。

 21世紀になって、ようやく貧しい農村部でもテレビを買い、ケータイを持つようになりました。
 この先、ボロを綴りあわせたような布団は捨てられていくに違いない。中国に田中忠三郎はいるでしょうか。中国人は、ボロボロの布団に美を見いだすことがあるでしょうか。
 彼らは、華麗ド派手なものを好みます。ぴかぴか光っていたり、原色の取り合わせは中国どこでも見ることができますが、「侘び、寂び」はどこにも見かけない。お寺も金ぴかで派手です。

 奈良時代平安時代のお寺も派手だったそうですが、今の日本人は金ぴかのお寺を見ても美しいとは感じない人が多いでしょう。私が高校の修学旅行で平安神宮へ行ったとき、ちょうど柱や壁の塗り直しがおわったところで、赤い柱が派手でした。それを見て、私はこんな赤い柱、気持ち悪い、と感じたのです。われわれの美意識が千年の間に、金ぴかや原色の寺を受け付けないほどに変化した、というべきでしょう。

 グランジファッションが中国の若者に流行ったら、画期的な出来事にちがいない。中国4000年の文化の中になかったことですから。
 おそらく、清朝時代などの古い書画骨董を保存する人はいても、大躍進失敗以後の極貧の農村の衣服や布団を保存しようとする人は、中国にいないのではないかと案じます。

 日本には、行基、西行から良寛、芭蕉を経て西村賢太に至るまで、「貧しさ」の中に人間の真実と美を描き出した文人の系譜があります。
 中国にも、竹林の七賢人ら「清貧」の文人暮らしの伝統はありますが、清貧は「ほんとうなら贅沢もできるのに、あえて質素を選ぶ」という生き方ですから、老杜親子がそうであったような、選びようもなく極貧の中に落とされている、というのとは異なります。

 私の中国文化への目配りはほんの少々なので、もしかしたら、農村でボロ布を集めてまわる「物好き」がすでにいるのかもしれませんが、少なくとも日本には紹介されていません。
 中国4000年(あるいは6000年)の歴史の中で、BOROの美に気づく人が現れるなら、中国の文化は、1911年の辛亥革命でも1949年の共産国家誕生でも、1960年代の文化大革命でも成されなかった「文化と美意識の変革」が起きたことになるでしょう。

 「BOROは美しい」と今言えるのは、青森も岩手も、電気もねー、ガスもねー、信号ネーあるわきゃネーと歌った時代を通り過ぎたからなのかも知れません。

 田中忠三郎が集めたBOROには、貧しいなか親子が寄り添って暮らし、必至に生きていた思いがこもっています。時代を超えてなお、美しいと感じさせる圧倒的な力があるのです。
 このBOROを見るために、またアミューズミュージアムに出かけたいと思います。
 田中忠三郎さん、「BORO」を伝えて下さって、ありがとうございました。

<おわり> 
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ぽかぽか春庭「おやつ談義-BOROの美、贅沢貧乏の美」

2013-05-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(6)おやつ談義-BOROの美、贅沢貧乏の美

 森茉莉の美意識に魅了される女性、私が読んできた範囲ではかなり多い。
 台所も自室内にはない、共同キッチンの古アパートで、出来上がる料理はとってもおいしそう。アクセラリーを語っても服の好みをのべても、研ぎ澄まされた感性が超一流の美意識となって、流麗な文体に綴られる。
 『贅沢貧乏』『貧乏サヴァラン』などのエッセイにきらきらとその美の世界が描かれ、『父の帽子』などに、「父の娘」として育った至福の中に一生をすごした人であったことが包まず語られる。

 私も好きですよ、森茉莉。『私の美の世界』も、ひとつひとつのエピソードを、上等な洋菓子や洋酒を一口ずつ味わうような気分で読みました。
 それでも、ときに彼女の美意識に、なんとはなしの反感を感じてしまうのは、鴎外に溺愛され、新婚旅行は「ヨオロッパ」だった「上等なお茉莉」とは真逆の、上品とはほど遠い「一般庶民」のがさつな生活の中で育ってきた者の僻みによるのだとわかってはいます。

 森茉莉は、お菓子の思い出について、こう書く。「お菓子の話(「貧乏サヴァラン」より)」
 「天長節の日、父親が宮中から持って帰る白木綿の風呂敷包みは、私の有頂天な夢をかきたてた。風呂敷包みを解くと、緋色の練切りの御葉牡丹、羊羹の上に、卵白と山の芋で出来たが透き通ってみえる薄茶入りの寒天を流したもの、氷砂糖のかけらを鏤めた真紅い皮に濾した餡を挟んだ菓子、なぞがひっそりと入っていた。明治の文学者は多くの報酬をえたとはいえない。それらのきらめく菓子たちはたいてい頂き物であって、私たちが常用したのは本郷、青木堂のマカロン、干葡萄入りのビスケット、銀紙で包んだチョコレエト、ドロップ、カステラなぞであった。どこかの遠い知人から送られてくる、白い薄荷糖は甘く、品のいい蜜の味。種のない白い干葡萄。これらは年に一度の楽しみであった

 明治の裕福な家庭で繰り広げられる、溺愛されて育つ娘と文豪の物語。「パッパ」と「お茉莉」の濃密な甘やかさのお菓子たち。
 森茉莉がいう「私たちが常用したのは、マカロン、カステラ」と書く、そのマカロンやカステラなどがわが家にとっては「ハイカラなハレの日のおやつ」であって、日常のおやつは、塩煎餅やまんじゅう、黒糖のかかったかりんとうなどでした。

 私が「この人の感じ方が好き」と思う佐野洋子は、お菓子や家庭料理について次のように書いている。「伯爵夫人のたいこ(「がんばりません」より)」
 「『私の洋風料理ノート』は人事院総裁佐藤達夫氏の夫人昌子さんの家庭料理の本である。
 私はこの本で息子の好きな「伯爵夫人のたいこ」を何度も作ったし、デザートの「酒飲み」というお菓子も作った。ずいぶん汚れた。しかしこれは私にとって料理の本というより幸せな上流家庭の小説のように思えた。昌子さんが幼少の頃、父上はヨーロッパからきれいな絵はがきや絹のリボン、ハート型のペンダントを贈り、西洋風なマナーを教え、母上は明治の人でありながら、独逸風お菓子を作るという家庭に育っている、ということがお料理の手順の間にびっしり書かれているのである。そしてそういう家庭の娘がふさわしい格式の家に嫁いで四十年厳しい姑に賢く仕え、その姑がどんなに意地悪だったかというのもバターの香りの間から立ち上ってくる
。」(中略)
 「私はハンガリアグラーシュなどというしゃれた料理を、その本をめぐりながら団地の台所で作り、幼年時代は絹のリボンはおろか、芋の団子を食っていた。戦後のドサクサの子だくさんの親は西洋風テーブルマナーなど及ぶところではなく、せいぜい「食い物を残すと目がつぶれるぞ」とか「肘を下げろ」とか云ってにらみつけ、その合間に夫婦げんかもなさっていた。これが同じ日本人の立体的構図というものである。貧乏人とはいやなもので、この本の料理の手順の間にみごとに描き出されているいわば上流社会の家庭のあり様を私は何故か、犬養道子の『ある歴史の娘』や『花々と星々と』と同じように、表現が自慢になってしまう人たちと思えてしまうのである。たぶん貧乏人の表現は僻みになってしまうのだろう

 上流階級に育ってしまった女性たちの書くものが「無意識の自慢」であることを、佐野洋子は鋭く見抜く。そして、「貧乏人の表現は僻みになってしまうのだろう」という佐野のことばに、共感してほっと安心する。私など、ひがみとねたみとそねみばかりを書いているのだから。
 金持ちと美貌の人と才能を持つ人へのひがみねたみが私の体の90%を作っていることを、それこそ「貧乏人の悲しさ」と思っているので。

 むろん、上流育ちの「無意識の自慢」だけでなく、数限りない貧乏話も読んできた。成功者が「昔はこんなに貧乏だった」と書くのも、一種の自慢である。プロレタリア文学とか私小説の赤貧話も、それを文章にできた時点で、私にははるか見上げる才能への、やっかみとなってしまう。

  田中忠三郎は、青森の農民の「おやつ」について書いています。
 「畑にヒエの種をまくというので見ていたら、畝にまくときに風でとんでいってしまわないように肥料、、、つまりウンコとオシッコを入れた桶に、あらかじめヒエの種を入れて混ぜた上でそれをまくのだという。なるほどこれも生活の知恵である。
 老婆はその肥桶の中味を素手でさっと混ぜ合わせたかと思うと、手のひらですくったそれの種入りの肥やしを、畝のうえにピタッ、ピタッと慣れた手つきでまき始めた。初めて見る光景なのでいささか驚いた。
 やがてコビキ(おやつ)の時間いなった。お婆さんは、てのひらにこびり付いた肥やしを野良着の裾で二、三度拭くと、茹でてあったジャガ芋をつかみ、うまそうに食べ始めた
。」

 肥やしのついた手でおやつを食べたあと、夜なべにその手は、針を持ち、ひと針ひと針、ボロを繕うのです。

 絹のリボンや黄金の鎖のついた首飾りなどの美しいものを愛する女心が嫌いなわけではありません。ただ、私は、この年になって我が手のしわしわになって指の関節が節くれてきているのをじっと眺めていると、この手には絹のリボンは似合わなかったし、黄金の指輪をこれから指にはめることもないだろうなあ、と思います。

 田中忠三郎の収集した青森のドンジャ(夜着)やボド(敷布)の盛大なボロボロぶりは、なんともほっとする「本物の貧しさ」に思えます。絹のリボンは似合わない僻みも黄金の指輪を買えないねたみもすんなり抜け落ちて、そのボロにほおずりしたくなるようないとおしさを感じるのです。

 私は「苦役」と呼ばれるほどの労働をしてきたわけでもない。小説のネタになるほどの苦労でもなかった、どこにでもある貧乏な暮らし。そんな暮らしのなかで、それでも、「美しいもの」を愛でていきたい。

 その「美しいもの」のひとつに、青森のボドやドンジャの「ぼろ」を加えて下さった、田中忠三郎さん。3月6日に亡くなってから、3ヶ月ちかくが過ぎました。栄耀栄華とは無縁に生きた田中さんですが、大勲位だの恩賜賞とは関わりなく、その生涯を偉大だと感じます。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「映画の中のBORO衣装」

2013-05-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(5)映画の中のBORO衣裳

 田中忠三郎は著書『物には心がある』の中で、さまざまな無名の人々との出会いを記録し、青森の凍える寒さの中に輝く人の心のあたたかさをつづっています。また棟方志功、高橋竹山ら青森人との深い親交も書き残しています。そんな田中の「出会いの旅」の中で、「生涯の誉れ」として書き残しているのが、「夢のような世界のクロサワとの交流」という一章です。

 田中は中学1年生のとき、黒澤明監督の「我が青春に悔いなし」を見て大感激。原節子らのまっすぐな生き方にあこがれました。
 映画を見終わって、席を立つこともできないほど感動したそうで、「この映画で、人生を一生懸命に生きることのすばらしさを教えられた」と書いています。

 戦後の混迷期、1946年に発表された『我が青春に悔いなし』は、滝川事件とゾルゲ事件をモデルにした黒澤の第5作目の映画作品です。GHQと東宝労働組合の間に挟まれて、思い通りの映画には仕上がらなかった「我が作品に悔いあり」でした。
 のちに田中が黒澤に「中学生のとき見て人生の指針となった映画が『我が青春に悔いなし』です」と話すと、黒澤は「あの作品は悔いある作品なんだ」と打ち明けたそうです。

 黒澤映画の衣裳プロデュサーであった黒澤の長女和子が、田中のもとを訪れ、黒澤80歳の作品『夢』の衣装について、特別な依頼をしました。衣装全体の担当はワダエミですが、「水車のある村」には、青森の野良着を使いたいというのが黒澤明の希望でした。

 田中が長年集めてきた青森の野良着は、ようやく有形民俗文化財の指定を受けることができたところで、文化庁の許可無しに外部へ貸し出すことができない。田中は、自腹をきって新たに野良着を集め、黒澤のもとに届けました。「我が青春に悔いなし」を人生の指針とさせてもらったことへのお礼として、無償での提供で「物品借用証」も要らないという「寄贈」での提供でした。

 田中が集めた野良着、裂き織りの前だれなど350点は東京の黒澤のもとに送られ、撮影開始。黒澤は「水車のある村」のロケ地(長野県大王わさび農園)に招待して田中夫妻を歓待したほか、それ以後、黒澤が1998年に亡くなるまで、毎年田中を誕生日の集まりに招待したそうです。作品の上ではただ一度のおつきあいであった田中を、そうして生涯「大切な友」として遇した黒澤を知って、映画の世界では「クロサワテンノー」とかワンマンとか言われてきた彼が、周囲の人に対して細やかな心遣いができる人なんだなあと、イメージが変わりました。

田中と黒澤 安曇野のロケ地で


 さらに黒澤は、撮影終了後、350点の衣装をそっくりそのまま田中に返還しました。現在アミューズミュージアムには、そのうちの一部が展示されています。
 笠智衆を中心とする村の人々が、百歳を超えて亡くなったおばあさんのお葬式に参列して行進するシーンに使われた衣装が並んでいます。

 映画を見ていたときは、夢の中の村ですし、ゆったりと水車の廻る美しい風景にみとれるばかりでした。笠智衆らの、あの世とこの世のさかいめなどないような会話の連なりに、衣装をひとつひとつ眺めてみることもしなかったのですが、改めてアミューズミュージアムの展示室に並んでいる衣装を眺めていくと、あるシーンが印象的に観客の目に映るには、衣装や小道具のひとつひとつの存在が一体となって効果をあげていたのだと感じました。

「水車のある村」の農民衣装


 地方の文化人としてそれなりに知られ、民俗民具の収集家として知る人ぞ知る存在であったとはいえ、全国的に知られた学者ではなかった田中忠三郎さんですが、私は今年正月にはじめてアミューズミュージアムを訪れ、田中忠三郎という人を知ることができてよかったと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「BOROは美しい」

2013-05-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(4)BOROは美しい

 アミューズミュージアム、展示内容紹介のつづきです。

 忠三郎は、アイヌ文化の民族調査、青森県の民俗民具の調査に研究を広げたときのころを回想して述べています。
 「私が出会った時は、BOROという思いがしませんでしたね。ああ、こんなに布きれを大事にして、粗末にしないで、いのちあるものとして大事にツギハギしたんだなと。感激しましたね。涙が出ましたよ。こんなにモノを大事にする人たちがね、この雪国、青森にいたんだと

 以下、民具、刺し子を求める旅に寄せる思いを綴った田中忠三郎の『ものには心がある』からの引用です。(p28暗く貧しい生活の中でも「女として美しくありたい」)

 民具を求める旅の途中、あるお婆さんからこんな話を聞いた。
 「台所で泣くと、『女は台所で泣くものではないわ』と姑から言われ、夜、寝所で泣くと『うるさい』と夫が怒る。我慢しろと言われるばかりで、女には泣く場所すらなかった

 現金収入の少ない当時、特に山村部に住む人々は、衣食住すべて自給自足の生活を余儀なくされていた。人々がどうにか身にまとっていた「衣服のようなもの」から、現代の「衣服」に至るまでの道のりは長かった。普段着、労働着、晴れ着、、、、と多様な衣服が、様々な材料で作られてきた。衣服作りは婦女子にとって、日中の激しい労働を終えてから、睡魔と格闘しながら行う夜なべ仕事であった。
 厳寒の冬、板の間に座って針仕事をする主婦は、家族の者たちがみな寝静まった後、囲炉裏の残り火をかきわけ、その明るさと、わずかな暖で作業をした。素肌の片ひざの上で朝の繊維を糸による仕事は言語に絶する苦痛を伴い、感覚のまったく失われた冷え切った膝を道具として使ったという。
 木綿の衣服は暖かく柔らかい。藩政時代から禁制が解かれた明治に入っても、木綿の服はなかなk手に入らず、貴重品として扱われ、小布を継ぎ足して胴着とする程度であった。
 寒冷地帯には、何年かおきで凶作がやってくる。班と大小の地主等による圧政、自然、風土との戦いは、まさに生き地獄絵図そのままであったのではないかと想像される。

 このような食もおぼつかない状況の中でも、婦女子にとって衣は欠かせないものであった。「一枚の麻布が、多難な作業の末に出来上がる。それを紺に染め、麻布の荒い目を木綿糸で刺し縫いすることは、防寒、保温、補強の用便だけでなく、女として美しくありたいという願いがあり、だから「こぎん」「菱刺し」の模様を作りだしてきた。「暗く貧しい青森」と言われた地で、なぜ豪華で緻密なこぎんや、色鮮やかな菱刺しが生まれたのだろう。そこには自然と共に暮らした人々の英知があり、四季折々の風土の中で素直に生きた証がある。南部の菱刺しは、樹皮衣、麻布衣からの数千年の衣服の歴史の中で、最後の麻布織として大正の末期にある、閑村の片隅でその灯を消してしまった。だからこそ、一枚の菱差しの「三幅前だれ」に、当時の婦女子の衣に対する業とも執念ともいうべきものを私は感じるのである。女の哀感と寒気を語り伝えるものであろう。


 アミューズミュージアムに展示されている、青森農家の女性用の下着。生活が豊かになれば、このような下着などは「恥ずかしいもの」としてまっさきに捨てられてしまうところの布切れでした。私だって履き古したパンツを保存しておこうとは思わない。しかし、忠三郎は「これも布の美、日用の美」として集めました。



 田中忠三郎自身は、青森の富裕な商家の生まれ育ちであったけれど、常に貧しい人の側に身を寄せ、ひとりひとりを温かいまなざしで見つめ、その暮らしを尊んでいます。
 アミューズミュージアムのボロ展示が全体としてあたたかな雰囲気に包まれているのも、忠三郎がこれらのボロを愛用してきた農夫農婦たちを尊敬の思いで見つめ、かれらの手仕事、ボロ繕いを尊重した上で収集しているからだろうと思います。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「BOROを集める」

2013-05-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(3)BOROを集める

 アミューズミュージアムの「ボロ布」
 ボロに美を見いだしたコレクター田中忠三郎は、すごいと思います。青森では、出稼ぎなどで豊かな暮らしができるようになったあと、このようなボロ布を「貧乏時代の恥」として隠したり捨てたりしていたそうです。田中が集めておかなかったら、この「ボロ布の美」も気づかれないまま捨て去られていたところでした。

 機会があったら、また見たいけれど、入館料1000円というのは高い。観光地だから千円払う人も多いだろうけれど、私は、またぐるっとパスを夏に買ったときもう一度行きます。「館内撮影自由」なのに、正月に入館したとき、デジカメもケータイも忘れていって、写真を撮れなかった。

これは、きれいな「こぎん刺し」の着物


 読売新聞の記事より(2013年3月6日)
 江戸から昭和期にかけての古い衣類や民具の収集・保存に尽力した青森市の民俗研究家田中忠三郎さんが5日午後、喉頭がんのため同市内の病院で死去した。79歳だった。
 青森県むつ市出身。布が貴重だった時代に農家がつぎはぎを繰り返して大切に使った古着「ぼろ」など、県内に残る民俗資料に早くから着目。各地の集落や古民家を回るなどして収集を進めた。学術的価値が高く評価された786点は、1983年に国の重要有形民俗文化財に指定された。収集品の一部が黒沢明監督の映画に衣装として提供されたことでも知られる。
 青森市の和菓子店「おきな屋」の元社長で、生前親交の深かった斉藤葵和子(きわこ)さん(69)は、山奥の旧家に足しげく通い、顔なじみになって古着を譲ってもらうなど、収集に労を惜しまなかった姿が印象に残っている。古美術商が自宅に買い取りに来ることも珍しくなかったが、そのたび「これはただでねえもんなんだ」ときっぱり断っていたという。「青森の田舎の風土がたまらなく好きな人だった。大学で学ぶような知識ではなく、感性に突き動かされた人だった」
 講演や展示会では、何世代にもわたって県内の農山村に受け継がれてきた生活用具の大切さを訴え続けた。平川市在住のコラムニスト山田スイッチさん(36)は、よく「ものには心がある」と聞かされたといい、「黙っていれば捨てられてしまうものが、実は大切な文化なのだと早くからわかっていた。何とか残したいと思っていたのでしょう」としのんだ
。(2013年3月6日 読売新聞)

 葬儀は青森市内で行われ、筒井八ツ橋203の2のご自宅にもたくさんの弔問の意が届けられました。 青森市の歴史民俗展示館「稽古館」館長として公的な給与を得るまで、貧乏生活に耐えて夫を支えた妻の智子(さとこ)さんも、えらい奥さんだった、と思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「BOROアミューズミュージアム」

2013-05-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
ボロ布をつぎはぎした夜着

2013/05/22
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(2)BOROアミューズミュージアム

 正月三日に、浅草へ出かけたことを書きました。ぐるっとパスで「アミューズミュージアム」を観覧するため浅草へ行って、ついでに浅草寺で初詣というコラムです。

 浅草寺の二天門脇にできたアミューズミュージアムについて、「なんだか観光地の秘宝館のようなあやしげなミュージアム」と感じたと書きました。経営母体が芸能プロダクションのアミューズだということも、私の偏見を助長しました。「浮世絵と布文化」という展示内容について、浮世絵は観光客相手のものと思うけれど、布文化というのが、「タレントの着た衣裳」とかの展示なのかなあと。

 芸能プロダクションアミューズの社長は、芸能界の大物。大里洋吉は、渡辺プロダクションから独立し、大手プロダクションにしたてたやり手です。今や、サザン桑田佳祐と福山雅治を売上げ2本柱とするほか、若手イケメンの春馬クンや佐藤健など多数のタレントを抱えています。そんな人が手がけた美術館って、どんなもんじゃろかいと思う。

 財界の成功者というのは、三井美術館も大倉集古館もニューオータニ美術館も、それなりに審美眼を育て、芸術家の大パトロンとして作品を集めてきた。でも、一代で成り上がったとはいえ、芸能プロの成金社長って、どんなもの集めたんだろ、なんて思ってしまい、ほんとにひどい偏見。世の中、何事も色眼鏡でものごとを見てはいけません。

 青森県出身のアミューズ創業者会長、大里洋吉は、同じ青森出身の民俗学者田中忠三郎をアミューズミュージアム名誉会長に据え、田中のコレクションを展示していました。
 田中忠三郎は、縄文遺跡発掘からアイヌ文化の民族調査、青森県の民俗民具の調査を行った民間の民俗学者です。学会などには所属せず、渋沢敬三傘下でこつこつと民具の収集を続けてきました。

 田中が青森県下で集めた布地、刺し子うち786点が国の重要有形民俗文化財指定を受け、アミューズミュージアムではそのうち「津軽・南部のさしこ着物」など約1500点を順次、公開展示しています。
 ミュージアムのコンセプトは、「アクティブシニアの知的好奇心を刺激するようなコンテンツ開発」だそうです。

 ミュージアムの受付嬢、係員の男性とも、とても愛想がよくて、他の美術館の係員とは雰囲気が異なっていたので、入館したときは「あれ?」と思いました。思うに、彼らはタレントの卵なんじゃないかと。タレント養成の一環として、卵さんたちの何名かは、受付や1階ショップの売り子をするのが養成コースのひとつに当てられているのではないかという気がしました。

 だとしたら、非常に美味いやり方。タレントの卵は自分を売り出すための方策として、プロダクションの意向にしたがって売り子もミュージアムの掃除もやる。有名になるための修行と思うから、とても愛想良く受け付けもこなし、閉館時間すぎても見続けようとした客(私ですが)にも、とても感じよく出て行くように仕向ける。こういう接客も万人に好感を持ってもらうための、タレント養成修行だと思えば、彼らの愛想良さも納得。プロダクション側は、人件費いらずでショップやミュージアムを運営できる。

 ミュージアムの宣伝は、草刈正雄が司会をしている『美の壺』(NHKBS)でも行われました。私はお茶碗を洗いながら見る番組として時々『美の壺』を見るのですが、アミューズミュージアムの展示品、BOROが紹介されたときは、番組に気づきませんでした。2010年に放映されたころ、博士論文を仕上げている最中で、番組を見ている余裕がなかった。

 さて、肝心の展示内容紹介です。
 日本各地に綿花が栽培されるようになって以後も、青森はその寒さゆえ綿花が育たない土地がらでした。それゆえ、青森の人々が木綿の着物を着られるようになったのは、大正以後のことだそうです。明治期までの青森の人々は、冬でも麻の着物を、当て継ぎをし、刺し子をしてつくろいを重ねて着ていました。布団も綿がないから、麻くずをつめたもの。

 田中が足で集めたボロ衣裳ボロ布団が、展示されていました。それらは、涙がでてくるほどのボロなのです。でも、そのボロが美しい。穴だらけ継ぎ当てだらけの布団や足袋が、人間存在の根源の光を放つような美しさを放っているといえるし、継ぎあてが美しく見えるように、女達が工夫をこらして繕ったその模様に味があり、ひと針ひと針の縫い目が美しい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「苦役列車貧乏」

2013-05-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>ボロの美と贅沢貧乏(1)苦役列車貧乏
 
 イケメン好きです。「知的なクール・ガイ」も、「あっけらか~んとして、バカそーだけど、かわいい」のもいい。一番のお好みは、ちょっと暗い影も併せ持っていたり、ニヒルな感じを漂わせているいい男。とにかく、イケメンはみんな好き。オダギリジョー、浅野忠信、井浦新なんぞの、ちょっと暗さをほの見せるのも好きだし、佐藤健などの「ちょいオバカ」系もかわいい。若手では、染谷将太の目がいいわ。
 松田龍平高良健吾綾野剛なんぞと並んで、今わたしのお気に入りは、森山未來。『苦役列車』で日本アカデミー賞ほか演技賞受賞などが続くだろうけれど、その屈折したところを捨てないで、私の好みに折れ曲がっていてほしい。

 昨年末のこと、『苦役列車』を息子といっしょに飯田橋ギンレイで見ました。
 森山未來が演技力でせいいっぱいかっこわるくふるまっているのに、それでもなお、「これぞイケメン顔」の高良健吾の大学新入生ぼっちゃまより、けっこうカッコいいのはどうしたもんか。
 未来君くんがカッコいいと、いくら貧乏ぶっても「そうやってダメ男やってるの、好きでやっているだけだろ」という気がしちゃって。「小説のネタとしてはわかるけれど、ほんとの貧乏はそんなもんじゃないからなあ」と思ってしまう。ラストシーンでタップダンスでも踊り出したらドーしようかと思ったくらいだ。

 北町寛太の経験している貧乏は、這い出そうと思えばいくらでもいくらでも出て行けるレベルの貧しさです。抜け出そうとすれば抜け出せる貧乏でありながら、家賃払わずにフーゾクで抜いてもらうほうに日雇取りの金をつぎ込んでしまう。抜け出るより抜いてもらうほうに五千円、っていうダメぶりが「売り」なんだからまあ、フロ無し共同便所くらいは当然である。

 実際、NHKハートネットTVに出演したとき、西村自身も言っている。
 「もうね、貧困のレベルというか、世界が違うと思いますよ。僕の体験した貧困は、自分の努力次第でいくらでも抜け出せる貧困でしたし、周りの状況も今とは違っていましたから。たとえば、僕の頃は家賃を滞納しても結構許してもらえてたんです。今は1ヶ月の滞納も許されない場合が多いですし、現に番組の中でアパートを追い出されている人もいましたよね
 そう、西村賢太の貧乏は、いわば贅沢な貧乏なのだ。

 苦役列車の貧乏ぶりを見て、一番に感じることは、「貧乏ってのは、こんなもんじゃないけど、この貧乏生活さえなくなってしまったら、もうあとは私小説家として書くことなくて困るんじゃないか。なんせ小説映画化権だけでもウン千万」とか心配してしまう。あとは、性犯罪者であったというオヤジをネタにするしかないじゃないか。小説売れ出して以来、どんどん太っていく西村賢太、そろそろメタボ対策を。

 昨冬のドラマ『プライスレス』。キムタクがホームレスになったところから這い上がるのは、キムタク大好きな努力成功物語に貴種流離譚が加わったファンタジーで、これも本当の貧乏じゃないけど、キムタクだからOK。

 私が今、貧乏生活にあえいでいるのだって、寝るところ食うもんありついての貧乏語りだから、路上に寝て食うもんが何もないインドのストリートチルドレンなんかとはいっしょにならない。趣味の貧乏とは言わぬが、抜け出る努力をしなかったじゃないかと言われれば、その通り。がむしゃらに業績作って、がむしゃらにコネ探して仕事を得るという努力をしてこなかった。会議会議の大学教師生活や業績作りに奔走するより、映画館美術館でのんびり時間をすごすほうがいいと思ってそちらを選んだのだから、私の貧乏は自業自得。

 貧乏を美学として語ってしまうと、嘘くさくなるのは、仕方なかろう。真の貧乏は語るに語れないものなのだから。
 だが、貧しさを美と捉えることができるのも、「美の世界」が持つ美しさの本質なのだから、これまた文句を言っても始まらない。本当に、貧しさの極地にあって、美を見いだす。これもひとつの才能。以下、そんな才能のひとつ田中忠三郎と大里洋吉の紹介です。

 2013年3月5日の新聞に、田中忠三郎さんのお悔やみ記事が出ていました。
 田中忠三郎さん(たなか・ちゅうざぶろう=歴史民俗研究家)が5日、喉頭(こうとう)がんで死去、79歳。通夜は10日午後6時、葬儀は11日午前11時から青森市堤町2の4の1の平安閣アネックスで。喪主は妻智子(さとこ)さん。
 縄文土器や石器、古民家に残る民具などを収集、保存。芸能事務所アミューズが運営母体の「アミューズミュージアム」(東京・浅草)で、「ボロ」と呼ばれる古い衣類など約300点を展示し、名誉館長も務めた。黒沢明監督の映画「夢」では衣装提供などで協力した。


 貧乏を貫いて青森の文化、民俗に心を寄せたひとりの男の死。お話を聞いてみたい人のひとりでした、

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ジョンソンタウンでおしゃべり」

2013-05-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/19
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記2013年5月(3)ジョンソンタウンでおしゃべり
 
 2013年5月18日、入間市を中心とする建築物の建築見学会に参加しました。午前中の見学は、建築学会埼玉支所の主催で、ヴォーリス設計「豊岡教会堂」。午後が埼玉県立近代美術館が主催する旧石川組製糸西洋館と、遠山記念館。(建築見学リポートはのちほど)
 間の昼食は自由参加ですが、「ジョンソンンタウン見学を兼ねて」というのが、お勧めでした。

 午前の部の豊岡教会から入間市駅にもどり、駅からはタクシー割り勘でジョンソンタウンへ。タクシーの中で、リュックサックに入れておいたケータイがブルブル震えました。妹モモからの電話でした。モモがジョンソンタウンに来ているというのです。

 「今日の見学会が終わったら、ももの次女ひつじの家に寄る」という約束をしていました。
 「お昼ご飯はジョンソンタウンでとるのがお勧めと、見学案内に書いてあるから、ジョンソンタウンってどんなところなのか、行ってみるよ」と話したのですが、妹の方からジョンソンタウンにくるとは思っていなかったので、ちょっとびっくり。
 妹の次女の家は、同じ入間市内とは言っても、それほどご近所というわけでもないからです。でも、車での移動に慣れている人と、どこでも徒歩か自転車の私では、ご近所の感覚が違うのかも。

 ジョンソンタウンという町に、初めて行ってみました。ジョンソンタウンは、旧米軍ジョンソン基地(現自衛隊入間基地)の近くに建てられた貸し屋群を再編成した町です。
 米軍の軍人や軍属が住んだ家をそのまま補修した街並を生かして、新しく建てた家もアメリカ古民家ふうに仕立てて、こじゃれた雑貨店洋品店やレストランが営業しています。

ジョンソンタウン公園側の入り口


 もともとは、昭和初期に、日本陸軍の航空士官学校の要請で、将校とその家族が住むための住宅を建設し、高級な「磯野住宅」として貸し出した土地。
 戦後は、朝鮮戦争のために米兵とその家族が急増し、ジョンソン基地内の軍人用宿舎が不足しました。そのため、周囲の住宅地をアメリカ人向けに改装して、民間宿舎として貸し出しました。
 周囲に雨後の竹の子のように立ち並んでいたアメリカ郊外風住宅は、朝鮮戦争が終わると、たちまち寂れました。米軍基地は返還され、民間の米軍住宅は放置され、やがて取り壊しに。元磯野住宅だけが、老朽化したまま残されました。

 これを改修して「ジョンソンタウン」として売り出したのが、磯野商会。今では、アメリカ古民家をまねた「平成住宅」という新しい家も建ち並び、店舗に住居に貸し出されています。
http://isonocorporation.com/

 2006年公開の映画『シュガー&スパイス~風味舌佳~』のロケ地にもなった町並み。私、映画を見たのですが、そのときには、ロケ地として福生市ばかりが取り上げられていたので、入間市のジョンソンタウンロケには気づきませんでした。

アメリカ民家風の家

貸し屋やお店が並んでいます。


 ジョンソンタウンのどこか手軽な店でランチをとるつもりでしたが、モモは休日のブランチをとったばかりでまだお腹がすいていないというので、ジョンソンタウンを抜けて、隣接している公園のベンチでサンドイッチを食べながらおしゃべり。
 モモは1分も黙っていることなく、しゃべり続けることができる人なので、私はあいずちのみ。

 モモの次女ひつじは、3人目の子を出産して半月。きのう、床上げの祝いをしたところです。ひつじの長男6歳と次男3歳は、お父さんが公園で遊ばしているとのこと。3人目の孫が女の子だったので、モモは前にも増して張り切っています。きっと入間市の三井アウトレットでかわいらしい女の子の服を買いまくりになるんじゃないかしら。

 入間市の西洋館と川島町の遠山記念館の見学を終えて、迎えにきてもらい、ひつじの赤ちゃんと対面。小さくてかわいい命です。私も久しぶりに赤ちゃんを抱っこするので、ちょっと緊張。毀さないように。
 赤ちゃんは生まれて半月。小さな手と足を動かしたり、あくびしたり。しばらく抱っこしていると、おっぱいの匂いがないことに気づいて、「ちが~う、おかあさんじゃな~い」と顔をしかめます。あらら、泣き出す前にひつじにバトンタッチ。

 お兄ちゃん二人はもっぱらゲームで遊んでいて、お母さんが赤ちゃんにかかりきりになっても、あまり気にしていないのは、かわりに抱っこしてくれるおばあちゃんが来てくれているからかも知れません。

 ひつじのミシンでは縫い物が思うようにはかどらないと、モモは田舎からミシンをかついで次女の家に来て、孫たちが小学校保育園で使う袋物などを縫っているんだと、見せてくれました。私も娘息子が保育園のころは、お昼寝シーツだのお道具バッグだの作ったものです。 
 ひつじの夫は、家事もよく手伝い、子どもの育児にも協力的な人なので、ひつじも安心して3人目を出産できました。

 1994年、私が最初に中国に赴任したとき、「単身で半年間の赴任」という条件をどうしようと思っていたときに、妹モモは娘と息子を預かってくれました、それでなんとか教師の仕事をつづけることができたので、妹にはいつも感謝の気持ちを持っています。
 妹は体が弱く、なかなかいっしょに旅行するチャンスもないのですが、夏休みに、以前いっしょに実にいった「野外バレエ」に今年また行ってみようと誘ってくれました。
 
 父も母も姉もいない今、妹はたったひとりの「生まれ育った家庭」の家族ですから、持病をたくさん抱えている妹、十分に体調を整えてすごしてほしいと思います。
 子どものころ、私がどれほどドジで奇妙奇天烈なことばかりやらかす姉であったかを笑っておしゃべりする妹の存在、私には大切な人です。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「薔薇と蕎麦」

2013-05-18 00:00:01 | エッセイ、コラム

2013/05/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記2013年5月(2)薔薇と蕎麦

 「薔薇」と「蕎麦」は目にすれば読めるけれど、何度練習しても、あとで書こうとすると「あれ、どう書くんだっけ」と戸惑う漢字の代表です。そらで書ける人、すごい。

 今年もバラの季節になって神代植物園のバラ園に行ってきました。旧古河庭園のバラが、ゴールデンウイークにはもう咲き終わりだったので、どうかなと思いながら、9日に神代植物園に行ったのですが、多摩地域のほうが少し気温が低いらしく、見頃でした。つるバラはまだ咲いていないのもありましたが。

 むろん花見の前には腹ごしらえが先。深大寺周辺の蕎麦屋のうち、今回は「玉㐂」に寄りました。ざるそばと筍てんぷら。筍てんぷらは二人前600円とありました。一人前ってたけのこ二切れくらいだろうから、二人前でもあ食べられるだろうと思って注文しました。するとお皿に山盛りのタケノコが出てきました。
 お会計のとき聞いたら、一人客には注文されれば一人前も出しているのだと。でも、自宅に生えているのを朝とったという「食材費無料」の筍、とってすぐに茹でるから、えぐみもなくて美味しいというお店の人の説明通り、3人前でも食べてしまえそうなくらい、おいしかったです。

 以前に、以下のようなバラ蘊蓄を書きました。
 日本には野生種のバラが古来より咲いていて、古名はイバラ、ウマラでした。万葉集には二首の歌があります。(拙訳:春庭)
からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自:忌部首(3832)
(カラタチとイバラを刈り取ってそこに倉を建てるから、木で櫛を作っている女の方々よ、イバラに刺されないよう、遠くへ行って用を足しなさいよ)
道の辺の茨(うまら)の末(うれ)に延(は)ほ豆のからまる君を別(はか)れか行かむ:丈部鳥(4352)
(道の辺のイバラの枝先に絡まる豆のつるのように、遠く去っていくわたしに絡まりついて離れない愛しいおまえと、今や別れて行かなければならない)

 また、『常陸国風土記』の茨城郡条には、地名起源伝説にイバラが出てきます。
昔国巣(くず)、俗(くにひと)の語(ことば)に都(つ)知久母(ちくも)、又夜(や)都(つ)賀波岐(かはぎ)と云ふ。山の佐(さ)伯(へき)、野の佐伯在りき。普(あまね)く土窟(つちむろ)を堀置きて、常に穴に居(す)み、人の来る有れば、則(すなは)ち窟(むろ)に入りて竄(かく)り、その人去れば更(また)郊(の)に出でて遊ぶ(中略)
 此の時、大臣(おほのおみ)の族(やから)・黒坂(くろさか)命(のみこと)、出で遊べる時を伺候(うかが)ひて、茨蕀(うばら)を穴の内に施(い)れ、即ち騎(うまのり)の兵(つはもの)を縦(はな)ちて、急(にはか)に遂(お)ひ迫(せ)めしめき。佐(さ)伯(へき)等(ども)、常の如く土窟(つちむろ)に走り帰り、尽(ことごと)に茨蕀に繫(かか)りて衝き害疾(そこな)はれ死に散(あら)けき。故(かれ)、茨蕀を取りて、県(あがた)の名に着(つ)けきといひき。」


「穴に住み人をおびやかす土賊の佐伯を滅ぼすために、イバラを穴に仕掛け、追い込んでイバラに身をかけさせた」とある。佐伯氏はエミシ(蝦夷)系の人と言われています。勇猛をもって知られたエミシを撃つのに、イバラを住処の穴蔵にいれておいてやっつけた、という記述、にわかには信じがたい。『続日本紀』にその名がみえるアテルイらが何度もみやこの軍勢を破っていることを考えても、エミシが穴に敷かれたイバラに引っかかって死ぬとは思われないのです。
 でも、風土記が書かれたころにはイバラゆえに佐伯氏が滅んだ、という伝説が出来上がっていたのでしょう。

 神代植物園のバラ園に入ってまずしたことは、バラソフトクリームを食べること。250円。食べながら、「バラ原種コーナー」を見ました。例年バラ園の園芸種が見頃のころには、原種のバラはもう散っていることが多かったです。今年は、原種コーナーがきれいに咲いていました。ハマナスやノイバラなどの日本の野生種は、ヨーロッパ園芸種の元になった原種です。

原種コーナーのバラ
サンショウバラ

ナニワイバラ

中国の原種 黄モッコウバラ


 9日は、東京の気温27度という夏日。一枚二枚と脱いでいき、チュニックシャツ一枚になってバラの間を歩きました。「香りのバラコーナー」で、バラアイスの香料は「リンカーン」という種類のバラの香りと同じだと思いました。ソフトアイスに天然のバラエッセンスを使っているんじゃなくて、合成の香りでしょうけれど。

 もう盛りは過ぎてしまった藤棚の下でしばし休憩。閉園時間の5時までのんびりしていました。大きな一眼レフカメラを下げている人、イーゼルにキャンバスを載せてスケッチしている人、恋人をバラの前に立たせてケータイで撮影している人、みなそれぞれの楽しみ方をしています。私は毎年少しはバラの名前と花を一致させて覚えたいと思うのに、毎年「あらら、この花はこういう名前なんだ」と、思います。

マリアカラス  

チャールストン

 車椅子を押していっしょにバラを楽しんでいる人々を見ていて、九州の青い鳥さんが車椅子で藤を見に行ったと大喜びしているブログを思い出しました。そういえば、この神代植物園も車椅子には不自由な作りです。足下のおぼつかない高齢者や車椅子の人にも楽しめるようにバリアフリーにしてほしいと思いました。私も、年取ってからだってバラを楽しみたい。

薔薇の香りを楽しむ


 バス代、深大寺蕎麦、神代植物園入園料、バラソフトクリームなどなどで、5月9日の行楽費は、合計2600円ほど。半額の1300円を貯金。金額がまとまったら、東銀座のいわて銀河プラザで買い物します。
「まめぶ汁」なんぞがジェジェジェブームで大人気みたいです。私はうに海宝漬や生わかめを買いたい。買うことで、復興のお手伝い。
 
 給与の税金天引き欄を見たら、復興税というのがさっ引かれていました。この復興税は、九州の林道整備などに使われちゃったみたいです。「復興地への木材安定供給に役立つ」という名目がついて、復興に寄与するってことになったみたい。頭にきます。ちゃんと岩手や福島、宮城の人にとどく税であってほしい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「母の日」

2013-05-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/16
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記2013年5月(1)母の日2013も相変わらずで

 5月12日日曜日、娘息子と3人で姑宅へ。母の日プレゼントを届け、いっしょに夕食を食べる毎年のイベントですが、以前と変わったことは、ここ何年かは夫も参加する行事になってきたこと。

 自分の母親の老化を意識するまで、夫は「おふくろのことは奥様におまかせします」とか言って、母親の家に寄りつきもしてこなかったのです。夫に「奥様」と奉り上げられると、ろくなコトがない。「奥様、会社の運転資金がないから、カネ貸してください。当分返せないが」とか。

 おまかせしますって、どういうこと。私の母親じゃないのよ、あなたのお母さんでしょう、といつもブーブー言ってきましたが、姑の足下がおぼつかなくなり、要支援も受けるようになって、ようやく最近は一日おきくらいに姑の家に顔を出し、週末には泊まるようになりました。今までさんざん「いてもいなくてもいいような息子」で、気ままに過ごしてきたのですから、これからは大いに老親孝行をしてもらいましょう。
 母親が歩行困難などのハンデキャップを抱えるようになって、還暦過ぎた老息子、ようやく母親のために何かせねば、という気になりました。

 幸い、要支援で週一回きてくれるヘルパーさんがとてもいい人で、姑とも気が合っているようなので、ありがたいことだと思います。私は、たまに顔を出していっしょに夕食を食べてくる程度の親孝行。姑が調子よければ、「おばあちゃんのお世話は、娘におまかせ」で、「私が働かなければ、一家で飢えるのだから、仕事優先です」と言って、イベントだけ参加で済ませているヨメです。

 1月御年始、2月姑誕生日、3月舅命日、5月母の日など、一家で集まっていっしょに食事をします。「一人暮らしの気ままな生活に慣れて、毎日人といっしょだと疲れる」という姑のことばが、本気なのか、働き続けるヨメを気遣っての言葉なのか、どちらかなと思いつつも、「お義母さんが、ああ言っているのだから」と、たまに顔を出すだけで「よいヨメ」のふり。

 今年の母の日も、恒例のスキヤキ。材料準備までは私。調理しながら食べるのは娘の担当。(直箸を突っ込まれるのを私が嫌うので、娘は調理を一手にひきうけてくれます)
 息子はお茶碗を出したりする係。夫は、今回は「仕事が片付くまで行けるかどうかわからないから、先に食べていて」と、「食べるだけ」宣言。

 夫、お正月のスキヤキ肉を買う「初めてのおつかい」をまかされて、「お買い得なお肉」を買ってきました。姑は初めて家事を手伝った老息子に対して「じょうずに買い物できたね」と誉めたのですが、娘は、「お父さんの買った肉、まずくはないけれど、これじゃ、普段のおかずの肉と同じようなものだから、こういうときはもうちょっと高い肉選んでもよかったのに」と、「タカ氏、はじめてのおつかい」に注文をつけました。夫は「だって、お肉の良し悪しなんて、区別がわからないもん」と言い訳。「初めてのおつかい」に懲りて、もう「食べるだけ」に専念したいのです。

 結婚直後、夫が何も家事ができないことに驚きました。姑のシツケが悪かったのだと思いましたが、私も息子を持ってみて、姑がタカ氏に家事をさせられなかった理由がわかりました。超チョウ不器用。
 中学生のとき技術科の授業で作った作品、夫は、中1のときクラスでひとりだけ、電気がつかないスタンドを作り、中3のときはクラスでひとりだけ、音が鳴らないラジオを作ったという記録を持つ、超不器用な人なのです。

 それがそっくり遺伝して、我が息子も超チョウ不器用です。包丁を持たせても、ハサミを持たせても、たいてい怪我をする。くぎを打とうとすれば手を打つ。
 最近は、学習障害ということばも認知されるようになって、学習に障害がある子どもへの支援がはじまっていますが、夫や息子のように、「何かものを作る」とか「込み入った仕組みの機械を扱う」ということに特化して、まったく何も出来ない人もいるのだとわかりました。「もの作り障害」とでも言うのかしら。

 今、息子が家でやれるお手伝いは、「フロを洗って湯を張る」「古新聞をまとめて玄関先に出す」「ゴミを捨てる」ことくらいか。娘はたまに、スライサーで胡瓜を薄切りにするのなどを「弟クン、これやって」と頼むのですが、スライサーで指の皮を削ることくらい朝飯前。たぶん、脳のどこかの蝶番が外れているのでしょう。

 夫も息子も、数学やら社会科やらの座学は「非常に優秀」な生徒であったために、学校ではハンデキャップが目立たなかっただけで、社会に出てみれば、「普通の人があたりまえにできることが出来ない」ハンデを持つ人だったのです。

 私は、こういう事実に、息子が大きくなるまで気づかず「姑がタカ氏を甘やかして育てたからだろう」と思っていました。「娘には家事を手伝わせるけれど、息子には勉強だけさせる」方針だったのだろうと。
 私は、息子を甘やかさないぞ、娘と同じようにどんどん家事もさせるぞ、と思って息子を育てましたが、その過程で、「家事が出来ない人々」というハンデキャップドパーソナリティに気づきました。

 娘や息子が生まれたてのころ、「私が家事をしている間くらい、赤ちゃんを抱っこしていてよ」と言っても「抱き方が下手で落とすかも知れないから、いやだ」と言っていた夫。自分の子を抱きたくないなんてどういう人なんだろう、と腹が立ちましたが、息子もきっと赤ん坊など抱っこするのに不安を感じることでしょう。落とすんじゃないかと。

 イマドキ、家事ができない男は、結婚対象者にならないそうです。今時のお嬢さんの結婚の第一条件は「年収600万以上、家事育児を平等にやる人」だって。
 「貧乏研究者」志望の息子、年収600万クリアも難しいし、家事育児に至っては、まるでダメ。たぶん、結婚できないでしょう。キョウビ、博士号をとっても、ポストがないので、オーバードクター研究員あるいは万年非常勤講師のままで年取っていく人が、ワンサカといます。「ガリレオ」の中に、 渡辺いっけい演ずる万年助手がでてきますが、息子もそのクチでしょうから。

 夫は、食べ終わると早々に事務所へ帰っていきました。
 姑へは、私から「これで帽子を買って下さい」と言って、いつもの金一封。娘は、ゴールデンウイークに東急ハンズで作った帆布のバッグをおばあちゃんにプレゼント。
 娘から私には、東急ハンズで作った「草木染め、絞り染めハンカチ」と、「毎月作っている刺繍のポーチ、作るばっかりで、あげる人がいないから、母にあげるっきゃない」という巾着袋やポーチをまとめてもらいました。もらってあげた?

手作りポーチやら、絞り染めハンカチやら


 姑のヨメとして、娘の母親として、よい一日でした。
 自営業零細会社の運転資金として、なけなしの家計費から借りていって「カネは返せん」という夫の妻であることだけが、私の人生の「ドンビキ」条項です。う~返してもらわんと家賃が払えんぞ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2001年のゴールデンウイーク 働く女性」

2013-05-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/15
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2001年のゴールデンウイーク(4)働く女性

 2001年のゴールデンウイークつづき 
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2001/05/08 火 雨
ニッポニア教師日誌>『女と仕事』

  「J501」の授業。「在外日本人」の2回目。グラマーノートと練習問題。内容確認問題。内容は、自立して仕事をする女性へのインタビュー。
  仕事を退職して、夫のアメリカ赴任に従ったものの、「夫は仕事、妻は家事」という夫や世間から押しつけられる夫婦観に違和感をつのらせて離婚した女性。彼女はワシントンの大学院で国際関係を学び、ジャーナリズム関係の仕事に再就職する。

  「違和感をつのらせたまま夫の給料をあてにして生きるしかない」多くの日本女性からみれば、エリートコースの女性自立物語。だが、夫のもとに子どもを残して日本での研究生活をスタートしたセリーヌや、「経済と日本女性」というテーマに興味を持つというナターシャは、文法事項について例文をつくって練習するより、自分の考えをまとめて述べることに時間を使いたがる。

  私もこのテーマならいくらでも話すことがあるので、ついつい授業は「文型練習」などよりも「女性と仕事」についての思いのたけを語り合う方へそれる。
  私が子どもをふたり育てながら日本語教師の仕事を続け、夏休みには夫の仕事を手伝いもして大学院で修士号をとったこと、大学院を修了した後、子どもを実家に預けて中国へ単身赴任したことなどを話すと、共感をもって聞いてくれる。

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2013/05/15
 2001年も2013年も、変わりばえなく働く日々です。ゴールデンウイークが終われば、あとはひたすら夏休みを待つ日々。

 2001年のゴールデンウイークにしていたこと、ほぼ今年と同じ。みどりの日の無料散歩(このときは4月29日だったことが今とちがうけれど。本の読み散らし。テレビ漬け。
 まったくかわらない日常生活。ほんと進歩のない日々。

 たぶん、10年後の2023年に日記を書けたとして、やはり愚痴をこぼしつつテレビウォッチングをしていることでしょう。今よりもっと貧乏になっていることが、「少々の変化」ですむのか、大変化になっているのか。
 まだ「地球大滅亡」という大変化にはなっていないと希望しつつ。できれば、10年後もゴールデンウイークの日記書きたい。きっとみどりの日に無料散歩をしていると思います。

<おわり>
コメント (2)
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ぽかぽか春庭「2001年のゴールデンウイーク チョウの飛ぶ道」

2013-05-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/14
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2001年のゴールデンウイーク(3)チョウの飛ぶ道

 2001年のゴールデンウイーク日記つづき。
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2001/05/06 日 晴れ
ことばの知恵の輪>『frajileつづき。(教材研究)教科書の中の蝶』

  息子の中学校国語教科書1年(学校図書)に定番教材の『少年の日の思い出』が入っている。このヘルマン・ヘッセの文章は私にとっても特別な「乙女の日の思い出」になっている。73年秋。区立中学校で2週間の教育実習を受けて、最後の研究授業の教材がこの『少年の日の思い出』だったのだ。

  念入りに準備し教案を書いた。授業は教案どおりになんかいかないのに決まっているけど、最後に定番の「作者が読者に伝えたかったのは何か、どのような読後感をもったか」という質問をするよう指導の国語科教師に言われていた。

  研究授業当日。
  「悪いことをしたけど、ちゃんと謝りに行った『僕』は、勇気があると思う」「一度起きたことはもう償いができないと最後に書いてあるとおりだと思う」「この本の中の『僕』は最後にちょうちょの標本を粉々に押しつぶしてしまうけど、私にはそんなもったいないこと出来ません」というような答えが続いた中で、「こういう答えを引き出せたら成功」と指導教諭から言われていた答えを誰かが言ってくれないかなと思いながら、生徒の感想を聞いていった。

  そろそろ授業時間も終わるし、もういいかげんなところでまとめちゃおうかなと思ったとき、ある女子生徒が「みんなの感想とちょっと違っちゃうかも知れないけど」というようないいわけを前にふって、「『僕』がちょうちょを全部押しつぶしちゃところが胸にぐっときて、悲しい感じがした。それはたぶん『少年の日』という年齢のころがとてもこわれやすくて、特別な年齢で、美しくて保存しておきたいけど、すぐこわれちゃって、ときには自分でおしつぶしたりする、そんな年齢のころが少年の日という気がしました」というような意味のことを述べた。この感想でちょうど時間となって授業は終わった。

  授業後の研究会で、「少年の日のこわれやすさ、傷つきやすさ、特別な日々の思い出」という感想を引き出せたのは、それまでの学習によって、主題について深く感じ取れるような指導がなされていたためだろう、授業実施者はよくやった、と大いに誉められた。
  私は指導書通りの授業をして、指導教諭の案に従って教案を書いたのだから、私が誉められるべきことは何もしなかったのだ。あの女子生徒が自分で「少年の日の美しく、それゆえにはかなくこわれやすい日々」を感じたのだ。
 もしかしたら、もう何十年も教科書に掲載されているこの話の指導案に、今では「主題」のひとつとしてこの女子生徒の感想と同じようなことがちゃんと出されていて、期末試験には「少年の日のこわれやすさ」なんて書くと「正解」になって丸がもらえるのかも知れない。   

  「フラジャイルflajaileこわれやすい」という言葉を聞くと、『少年の日の思い出』が反射的に出てきて、標本箱の中の粉々になった蝶の羽が思い浮かぶ。チョウの標本と教育実習と。教育実習でうまくいったからとウカウカ国語教師になってみたら、チョウの羽よりはかなく粉々になってしまった私の青春の日々。
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2001/05/07 月 曇り
トキの本棚>『チョウの飛ぶ道』

  息子の学校は教科書を使わない。ほとんどの教師がプリント教材を用意していて、教科書と関係なく授業を進める。だから息子はたぶん中1の1年間のうちに『少年の日の思い出』を授業教材としては読まないだろう。国語は週に5時間組まれているが、そのうちの1時間は書道。1時間が副校長による現代国語。3時間が担任教諭による古文。『古事記』を旧かな漢字仮名交じり文で読解していく。

  現代国語の最初の教材は日高敏隆『チョウの飛ぶ道』。これを見て最初は「?」と思った。この文章は「中学入試用国語教材」の定番なのだ。日能研やサピックスなどの大手受験塾に通った生徒はもちろんこの教材の「正解」の出し方を教え込まれたことだろう。
 家の近所の小さな塾で、定員10人の教室に3人しか在籍しなかった息子のクラスでも、テキストにこの文章が載っていたし、四谷大塚だか首都圏模試だったかでこの文章が出題されたこともあったはず。

  「段落分け」と「筆者の述べたかったことを書く」という宿題が出され、各自の答えをクラスで発表した。段落分けの答えは3段に分けた者から27段に分けた者まで様々だったが、「筆者の述べたかったこと」は見事に全員同じ答えを書いてきたのだという。
 「少年の日に何かに興味を持ったことを忘れずに、ひとすじに追求していくことが大切だということ」というのが、息子がノートに書いた答え。他の生徒も大同小異、同じような答えだったのだという。

 それを聞いて先生は怒った。「段落はバラバラの答えなのに、なんで筆者の言いたかったことは全員同じ答えになるんだ。全員宿題やりなおし!」その先生の言葉を聞いて、息子は「だって、採点者が正解とするであろう解答をいかにすばやく見つけだし、いかに不正解にならないようにそつなく書くか、をひたすら訓練された生徒が入学してくる学校なんだから。そういう生徒を入学させておきながら、同じ答えだから宿題やり直しっていわれてもなあ」

  たぶん副校長は、同じような答えが出てくることを承知でこの「チョウの飛ぶ道」を最初の教材として出したのではないか。そして、生徒たちがこれまで養成されてきた「出題者が求める正解をすばやく見抜く読解力」を打ち壊したいのではないのだろうか。
 一つの文章を40人が読んだら、40通りの感想があっていい。「出題者が何を要求しているかではなく、自分が感じ取ったことが大事だ」ということを、最初に生徒に確認させたいのではないのだろうか。
 だってこの文章が「中学入試定番教材」であることは、入試業界に疎い私でさえ知っている。副校長がそれを知らずに、生徒にこの文章を与えたということはないだろう。

  「すばやく出題者の求める正解を見つけだす」訓練を受けたことがない私の感想は以下の通り。印象批評。

  戦前の子ども時代に「チョウは同じ道を飛んで行き来するのではないか」という興味を持った日高少年。チョウを追いかけているうちに太平洋戦争が始まる。44年。勤労動員で働く中で、どんどん人は死に、山は荒れる。45年、東京は空襲で焼き払われ、日高少年の家も焼ける。このような戦争の被害も書かれているのに、この「チョウの飛ぶ道」の全体の印象は驚くほど明るく、きらきらしているのだ。チョウが光を浴びながら、ひらひらと飛んでいく。そのイメージが全体を覆っている。木の葉が光にあたり風にそよぐ。葉が濃く淡く緑にきらめく。チョウが羽を輝かせて木の葉をかすめる。
  そしてチョウのイメージの通り、光輝きながら、不思議な存在感をまき散らし、見る者をこの世ならざる場所に誘う。重さを持たないもののように、この世からあの世へ誘うもののように、チョウは木々の南側を通り過ぎる。チョウが古代には「人の魂を運ぶもの」であったことなど知らなくても、チョウはいつでも「特別な飛び去るもの」なのだ。だから少年たちは追いかける。こわれやすく、消え去りやすい何物かを標本箱につなぎとめようと、はかない努力を傾ける。

  ヘッセのチョウは「手に入れたものを死者として永遠に所有する」存在である。愛するものを死体として身近において所有し続ける。昆虫採集には、生きた虫を追いかける熱さと、標本を眺め続けるひんやりした情熱の両方がある。これに対し、生態観察は生きて飛ぶ蝶を追いかけるのでなくては意味を持たない。チョウが生きて飛んでいる状態を眺めることが中心になる。ヘッセのチョウには、情熱を傾ければ傾けるほど、ひんやりした悲しみがつきまとうのに、日高のチョウは明るく「健全志向」である。この健全志向の部分につまらなさを感じる人はヘッセのチョウの哀感や翳りを好むだろう。

 戦争で東京が焼け野原になり、自宅が焼け落ちた日高一家も秋田の大館へ疎開する。「チョウ道」探求を再開するのは戦後10年を経てからであった。同好の士と共に、開発の及ばない千葉県東浪見の山に観察場所を決め、ついに小学校以来20年以上の疑問に対する答えがわかる。「チョウは光によって道を決める!」チョウは光の中に生きる。

 チョウが飛ぶ。木の葉が風に揺れる。この圧倒的な「自然と共にある至福感」。同好の友といっしょにひとつの謎を追いかけて解明しようと山に分け入り、沢を渡る。木漏れ日を浴びながら、チョウを追う。多くの大人たちはこのように純粋に「少年の日に願ったこと」を追求できないまま終わる。日高少年のように、20年後であってもついに少年の日の謎を解き明かす日が巡ってこないまま人生を終えるだろう。だから、この『チョウの飛ぶ道』はきらきらとひたすら明るい光明感と、さわやかな風が木々を吹き抜ける清涼感に満ちあふれる。

  少年たちがこのような向日性生物のような人生を生きていくのか、翳りと哀感に満ちた陰影の中で生きていくのか。チョウはダッタン海峡を越えてたちまち飛び去っていってしまうから、私にもわからない。 

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2013/05/14
 2013年5月11日土曜日は、NHKアーカイブスの番組「神秘の蝶 驚異の大冒険 ~北米大陸5000キロを渡る~」を見て過ごしました。1997年放映の再放送です。
 メキシコでモナルク、英語ではモナークバタフライと呼ばれる「オオカバマダラ蝶」が、何千万匹もの大集団を作って飛び、北はカナダからメキシコまで5千キロもの大移動をする「蝶の渡り」を記録した映像。

 メキシコではモナルクを「死者の魂が年に一度蝶になって帰ってくる」として手厚く保護してきたが、近年の森林乱伐盗伐で、蝶の生息地が荒らされ、モナルク蝶も数が減ってきているという国際共同製作の番組でした。蝶が魂を運ぶ、という信仰、モンゴロイドには共通する思いなのでしょう。 蝶が大集団となって飛ぶ様子、圧巻でした。

 私は、モンシロチョウが大根畑とかにひらひらしているのを見たり、からたちなどの柑橘類の木に揚羽蝶が卵を産みに飛んできたりするのを見るのが好きです。こんなふうに大集団で蝶が頭上を舞っていたら、逃げ出すかも。でも、メキシコまでわざわざモナルク見物に出かけた人の旅の記録を読むと、「蝶が飛ぶ映像だけ見たのでは、この蝶のすばらしさは伝わらないだろう。目をつぶって蝶の羽音を聞いている瞬間、蝶が舞う森の木洩れ日の美しさとともに眺めてこそのモナルクだ」と書いてあったので、私もいつかモナークバタフライの渡りを見にいきたい。

 少々くたびれた中高年になりつつある現在ですが、ここに行きたい、これを見たいという願いをもっていれば、あと何年かは希望のなかに生きていくことができるでしょう。

 中学1年で、旧かな旧漢字の原文で『古事記』読解の授業を受けた息子、今も古文書読解に頭を悩ませています。孫が日本史研究者として一人前になるまで生きていたいというのが、姑の希望です。あと10年以上はかかるでしょうから、姑は100歳を越えるまで長生きしてくれるでしょう。希望の種だけは持っていたい。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2001年のゴールデンウイーク 敗者復活」

2013-05-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/12
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2001年のゴールデンウイーク(2)敗者復活

 2001年のゴールデンウイーク続き
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2001/05/01 火 晴れ

 ジャパニーズアンドロメダシアター>敗者復活 明けない夜はなかったしい、止まない雨もなかったあ

  華原朋美がこのところ歌番組トーク番組に出まくっている。彼女を自殺未遂状態にまで追い込んだと言われている小室哲哉が、現在組んでいるグループのメンバーと結婚し、まもなく子どもが生まれるというニュースすら「話題づくり」のひとつとして利用してしまうほど、はじけている。小室が結婚してくれたおかげで、彼と「ともちゃん」との恋愛と破局について語るにも何のタブーもないというノリであっけらかんと「フラレ体験」をしゃべりまくることができる、っていうのがテレビ局の「トーク視聴率稼ぎ」のおヤクソク。

  かって、トップアイドル歌手だった中森明菜が、近藤雅彦にふられて自殺未遂事件をおこしたあと、復活をかけてイメージチェンジをはかったが、うまくいかなかった。彼女がどんなにテレビの画面からはみ出そうな笑顔を浮かべて明るい声を張り上げて熱唱しても、彼女の身体にはりついた「男にふられて自殺しようとした女」という暗い記号を払拭することができなかったのだ。マッチが別の女性と結婚し、「明菜は六本木で泥酔状態でいる」というような週刊誌記事がワイドショーで増幅喧伝され、彼女は「過去の歌手」として出演する以外、テレビの「今」を感じさせる存在に復活することはなかった。

  華原が「宿泊先から救急車で病院へ運ばれた」というニュースが伝わったとき、もうこれで「ともちゃん」はテレビの中では過去の歌手になってしまうのだろうと思った。「あの人は今」や「ものまね」の「ホンモノ登場」の扱いになるところだった。華原と明菜の差はキャラクターの違いだけでは片づけられない。まず、時代の差。10年前まで、男が他の女性に乗り換えた後「捨てられた女」のスティグマをはらいのけるには、別の「もっといい男」と結婚する以外に方法がなかった。しかし、現在「恋愛しても結婚に至ることなく破局すること」が女にとって「消しがたい人生の傷」ではなくなっている。これは「処女の価値」がなくなったこと、離婚がタブーではなくなったことと同一平面での変化なのだろう。

  むろん、時代が変化したとはいえ、華原がやつれきった病んだ顔つきでテレビで唄うのを見て、「この先どうやってイメージチェンジをはかるのだろう」と思っていた。しかしながら知恵者はちゃんといたのである。今どきのテレビだもの、何でもあり。「電波少年」に「復活仕掛け人」がいた。華原に「アメリカひとり旅」させる。貧乏生活に耐えさせ、ボイストレーニングを受けさせ「アメリカでCDテビューできたら帰国させる」という条件をつけて数ヶ月をすごさせた。たぶんほかの「電波少年」ストーリーと同じように、「ライブのためのシナリオ」が作られていることは視聴者もわかっている。「この日はお金がなくなって、ハンバーガー1個で一日すごす」とか「この日は声がうまく出なくて衝撃を受ける」とかのシナリオを、わかっていて楽しむ。日本にいる間は「ジュースが飲みたいと言えば、誰かが買ってきてくれるような生活」をしていた若い歌手が、それなりに苦労をして変わっていく「やらせドキュメンタリー」を楽しんだ。

  結果、視聴者は華原が「明けない夜はなかったしい、止まない雨もなかったあ」と高らかに唄うのを認めた。ともちゃんは復活に向けてがむしゃらにしゃべりまくっている。「実は小室とはどうだったのか、アメリカでどうすごしたか」笑顔で語る華原を、視聴者は「私たちが見守って成長させ復活させた歌手」として遇している。「5万枚手売り完売、メジャーデビュー決定」を達成した「モーニング娘。」を「私たちが育てたグループ」感を持って扱ったように、テレビの「ウリの常道」ではあるのだが、とりあえず「ともちゃん復活」ストーリーはうまくいったのじゃないかしらん。

  自民党総裁選に過去2度までも破れ、3度目の挑戦はあり得ないと党内の誰もが思っていた小泉潤一郎が時代を読んだ。ともちゃん復活作戦以上にシナリオは上出来で、地方党員の「このままじゃ夏は惨敗。なんとか新風をふかせたい」という崖っぷちの思いにのっかれた。敗者復活!「勝ち組み、負け組」という二分法なら、一部の人をのぞいてほとんどが「自分は負け組に属している」と感じるであろう2001年。「敗者復活」は何にも勝る時代のキーワードになったのだ。敗者復活戦を勝ち上がることができる者もまた少数であることがわかっていながら、「今、私は負け組だが、いつか必ず敗者復活戦に勝ち残れるかもしれない」という幻想を抱くために、小泉はほえ、ともちゃんは唄う。

  私は真っ暗闇のどん底で「止まない雨」に打たれている。夫の会社の負債、借金地獄、舅のガン入院、伯母をグループホームに入所させなければならなくなったこと、仕事はうまくいかないし、子育ては失敗続きだし。止まない雨の中で「止まない雨はなかったしぃ」と鼓舞してもらう以外にぬれそぼつ身体を保つ方法がない。
  今日、娘の高校の「映画鑑賞の日」。娘は『雨上がる』を見てきた。「クロサワの残したシナリオだからみんなで盛り上がって映画を制作しましょうね、という気分が画面にあふれていて、きれいなシーンが多かった」という娘の批評。本当に雨はあがるのだろうか。私の雨は止みそうにない。
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2001/05/02 水 曇りのち雨
ニッポニアニッポン事情>視聴率78%

  保守党党首扇女史の「さすが芸能界上がり」という発言。世論調査の小泉新内閣支持率について「本当に高い視聴率で」と言ったが、並みいるキャスターたち「こんなことで揚げ足をとったひには、あとでどんなシッペ返しをくらうかわからない」という顔のコメントばかりだった。
 森前首相の発言よりよっぽどからかいやすいネタなのに、だれもからかわないところをみると、テレビ界自主規制はこんなつまらないネタにも発動しているんだ、と思わざるをえない。
  78%!!?大政翼賛会もびっくり。私は22%組。いつも「マイナー族」人生。
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2001/05/03 木 雨(寒い!)
ニッポニアニッポン事情>施行された日

 「すべて国民は個人として尊重される」
 「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」
 「学問の自由はこれを保障する」
 「日本国民は、正義と秩序を祈祷とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する」

  一日中雨。寒い。「放棄することを放棄する」が足音たてて、大手をふって「連隊ススメ!回れ右!」。
 去年「日本事情(日本の近代)」のテストに「戦後、5月3日に施行された新しい憲法」は「ア 大日本帝国憲法 イ 日本国憲法 ウ 少林寺拳法」のどれかという問題を出したら、ウを正解とした留学生もいました。
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2001/05/4 金 晴れ
ジャパニーズアンドロメダシアター>COCCO

  娘が録画しておいた「ミュージックステーション」をいっしょに見た。コッコのテレビ出演最後だというので、ビデオにとっておいたものだ。Coccoの出番は一番最後だった。トークシーンではタモリの質問にコッコはうなずくだけで、それさえも必死に答えているようすが伝わる。「テレビ出演は嫌い」というコッコにタモリが「じゃ、出ないでいればいいじゃない」とつっこむと、本当に困ったような顔で「でも、出させられるぅ」とやっと言葉で答えた。使役受身形の正しい使い方。

  今時、テレビに出て顔を売りたくてたまらないタレントがひしめいている中で、仮にも「歌つくり」という「「売れてナンボ」の仕事をしていながら、本当にテレビが嫌いな人がいるのかしらとも思いつつ、これまでコッコがテレビで唄うのを何度か見た。テレビになじまない様子は「面白いキャラ」に思えた。「テレビは苦手です、テレビで唄うのはいやです」と言うトークを見ているのは、おもしろい見せ物なのだ。
 絵を作る側はその面白さをねらって、テレビは嫌いというコッコをテレビの画面に登場させる。「最後のテレビ出演」とか言いながら、またすぐ出戻るタレントも多いのだから、まあどういう売り方をするのもこの業界の「なんでもあり」の中のひとつだろう、と思った。

  最後の出演もこれまでと同じく、裸足で唄う。そして唄い終わるとそのまま裸足でスタジオから逃げ出した。「自分の歌が終わったら、一刻もスタジオにいたくない」と背中で語るコッコの後ろ姿を「面白い見せ物」としてカメラはスタジオ出口まで追いかける。「テレビが嫌いなのにテレビで顔をさらして唄わなければならない」というコッコを、私はこの瞬間まで「今時のテレビには向かないというところがテレビ向きのウリセンになるキャラのタレント」として消費していた。
 しかし、スタジオ出口から裸足で逃げ出す姿を見て、さすがに自分たちの「見せ物消費の仕方」のあざとさに苦味を感じる。か細い栄養失調の女の子が手にしているパンのかけらを取り上げて、おもしろがる不良のような気分。

  今時、本当に歌が作りたいから作り、唄いたいから唄っていた人がいたんだな。お金がほしいとか、テレビで売れてチヤホヤされたいとかでなく、ただ自分の気持ちを歌にして自分の声で伝えたかった人だったんだな、それを私は面白いキャラとして消費しようとしていたんだな、と思う。

  娘が図書館から借りているCoccoのCD。「読んでみて。すごい歌詞が多いから」と娘に勧められて、歌詞カードをながめる。『ラプンツェル』『クムイウタ』。『ブーゲンビリア』のラストspecial thanks to「私を捨てた人へ、私が捨てた人へ、私を残して死んだ人へ、私を愛した人へ、私が愛した人へ、私が愛した美しい島へ、心からのキスを込めて」とある。その美しい島へコッコは帰り、心を癒やすだろう。「これからはふるさとの島で絵本を作ってすごす」と話していたが、いつかまた歌を作ったら、テレビじゃないところで聞いてみよう。
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2001/05/05 土 晴れ
ことばの知恵の輪>フラジャイル チルドレン

  coccoの歌詞は、どれもせつなく痛ましく、いとおしい。愛の中で傷つき、傷つく自分を抱きしめている。自己愛と人恋しさと。それでも人の愛を求めずにはいられない存在として生きていくこと。このような傷つけられやすさの中で、首に下げられた「こわれもの注意」の札を手で隠して、女の子たちは愛を求めていかなければならないのだろう。

  たとえば、『ベビーベッド』の一節。
  「あなたに瓜ふたつの生き物がわたしの子宮から出てきたら バンドを呼び集めて舞い踊りその子の誕生を喜ぶわ あなたのように私を捨てないように 鉄の柵で作った檻に入れて眺め乳を与えあやしていつもいつも見てるわ 壊れるくらい愛してあげるの 首輪と足枷でもこしらえて私の名前だけをくり返す....」この追いつめ方は、自傷行為に近い。自傷による自己愛。

  傷つきやすさこそがアイデンティティとなるフラジャイル世代。トラウマを語ることで自己存在証明を行うしかないfrajile children。
  「リストカット症候群」とも言えるような、自分で自分を傷つけることでしか自分の存在を確認できない子どもたち。自傷行為の痛みの中でかろうじて感じられる自己。このような傷つきやすさの中でしか生きられない世代を抱きしめてやるべき年齢でありながら、私は私で、壊れかかる自分自身に絆創膏など貼りまわるのに忙しい。傷つくリスクを背負いきれない思秋期vs傷つくことでしか自己を語れない思春期。

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2013/05/12
 2007~2011に芸能活動休止していた華原朋美は2012年の年末から芸能界復帰。さて、今回で再浮上できるのか。浮き沈みの多いのがあたりまえの芸能界だけど、この人の浮いたり沈んだりも忙しい。再々登場の歌はレミゼラブルの「夢破れて」スーザン・アン・ハサウェイに負けない声を響かせて欲しいです。

 急浮上したスーザン・ボイルの人生もあれば浮いたり沈んだりのトモちゃんの人生もある。さて、私の人生に浮き沈みはあったか?きっぱり、ないですっ。ずっと沈みっぱなしだったから、、、、、、。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2001年のゴールデンウイーク」

2013-05-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/05/11
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2001年のゴールデンウイーク(1)時空をこえる文字

 2001年、21世紀が始まったなあと思ったら、あっという間に13年。そして、私のゴールデンウイークは、2001年も2013年も、たいして変わり映えのないものでした。
 2001年のゴールデンウイークを再録します。
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font color="blue">2001/4/28 土 晴れ
ことばの知恵の輪>ロクブ

  福祉作業所のボランティアに参加した。会が引き受けている「区の広報点字版」印刷の校正を手伝う。点字を読み、墨字原稿と突き合わせをして間違いがないかチェックした。
  よう子さんが点字を指で読み朗読する間、盲導犬ビリヤはじっと足下に伏せている。お茶の時間に「日本語わかち書き」の話などをする。補助動詞の扱いなど。

  途中失敗したこと。本の紹介の中で藤沢周平『ふるさとへ廻る六部は』について、「ロクブって何?」という質問が阿子さんから出たので「昔のおこもさん。こじき」と言ってすませてしまった。あとで、「しまった。乞食は差別用語だったろうか。もしロクブがゴゼさんのような盲人芸能者だったら失礼なことを言ったことになる」と心配になった。家に帰って辞書をひいたら、「筆写した法華経を一部ずつ日本六十六カ所の霊場におさめるために遍歴する行脚僧。転じて銭を乞いながら全国をまわる巡礼」とあった。セーフ!

 図書館で阿子さんに朗読しているときは、お互いに気心が知れているので、差別用語など気にしないで読んでいられる。私が例えば「盲縞」と言ったところでそれが差別など意図していないとわかっている間柄だから。でもはじめて出かけた今日のような場所で、きちんと確かめもしないで「ロクブ=乞食」と言ってしまったのはよくなかった。
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2001/04/29 日 曇りのち雨
ことばの知恵の輪>時空を越える文字

  自転車で古河庭園、六義園、小石川植物園、後楽園、上野公園を巡る。国立博物館で醍醐寺展を見た。
  満済准后日記などのホンモノを見ることができた。後鳥羽法皇や後白河天皇の巡幸の記事が記載されているページ。
 時代が下って、太閤の醍醐寺花見の記録。歴史の本で読んだことが、今、目の前に当時の記録としてある!文字、記録、日本語。これまでも本館で歴代天皇宸筆や信長や秀吉の手紙類を見たことはあるが、今日は特別に「時空を越えてきた文字」が迫ってきた。たぶん庭園巡りをして時間と空間の移動が身に染みていたせいだろう。
 平成館を出たら、雨が降っていて、ずぶぬれで自転車を漕いで帰った。
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2001/04/30 月 雨
トキの本棚>晴散歩雨読

  ツンドク本をいくつか読む。あまりにベストセラーだったので敬遠してしまった大野晋『日本語練習帳』発行日に買っておきながら読まないできた酒井直樹『死産される日本語日本人』

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<つづく>
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