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ぽかぽか春庭「野川源流湧水、滄浪泉園-日曜地学ハイキング」

2012-11-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/30
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(18)野川源流湧水、滄浪泉園-日曜地学ハイキング

 日曜地学ハイキング、野川沿いに歩いて東京経済大学構内の池へ。ここも野川源流といわれる湧水のひとつなのです。ちょろちょろと水がわき出ているところがあり、私はここの水で先生から渡された水質検査キットでPHを測ってみました。こんどはph6.4でした。さっきよりは中性のph7に近くなりました。検査薬の色は、薄黄緑。

野川の恋人たち


 最後の巡検地は、貫井神社の裏手の湧水。武蔵野夫人道子が勉と散歩した「野川源流、水源のひとつ」です。道子と勉の足跡を辿ってみましょう。

 「勉は道子を誘ってその水源の探索を試みた。道は正確に川に沿ってはいなかったが、勉のつもりでは斜面から流れ出る湧水の量を調べればよいのであるから、斜面の裾を伝う道をたどって行くことにした。
 斜面を飾る高い欅や樫の下を自然に蜿る道には、ひっそりとした静けさが領していた。静寂は時々水音によって破られた。斜面の不明の源泉から来る水は激しい音を立てて落ちかかり、水をくぐって、野川の方へ流れ去った。道で初めて平面に達する水の踊るような運動は生き物のようであった。(略)
 水がまた道を越して落ちていた。神社の端のように沿った小さな石橋の下は、庭園風に石が配置されていて、水がその間を跳ね下りていた。(略)
 水が道を横切るのが繁くなった。あるいは竹藪の陰、石垣の根方などから突然流れ出て、道に平行した道に沿って流れた。
 流水の形と音のリズムに伴奏されて、二人の足は自然に合った。道を隔てた山側には神社があり、石段に沿って水が落ちていた。
 水は一つの池に注いでいた。釣り堀の看板があったが、客の姿は見えず、水だけ青く澱んで、魚もいない様子であった。そして池の一角から流れ出る水は、また野川の方へ向かっていた。池から道を隔てた山側には神社があり、石段に沿ってやはり水が落ちていた。
 水の源を訪ねて神社の奥まで進んだ。流れは崖に馬蹄形に囲まれた拝殿の裏までたどれた。そこは「はけ」の湧泉と同じく、草の生えた崖の黒土が敷地の平面と交わるところから、一面に水が這い出るように湧いて、拝殿の縁の下まで拡がり、両側の低い崖に沿って、自然に溝を作って流れ落ちていた。
 立ち止まってじっと水の涌くさまを眺めている勉に、道子は「何をそんなに感心してんの」と訊かずにいられなかった。
 道子も水に対する興味に感染していた。彼女は神社の左手の崖の上から聞こえる一つの水音に注意していた。音はしゅるしゅるというすべるような音で、明らかに拝殿の後ろの湧水より高い位置から始まっていた。それと重なって下の方へ別に轟くような激しい音があった。


 貫井神社の水源、その水が源流となって野川を形成し、ほとばしり流れ出る。その水流が、道子の恋心を象徴している、重要な場面です。


 貫井神社の境内で、まとめの解説とI先生の挨拶があり、日曜地学ハイキングは流れ解散となりました。それぞれ武蔵小金井駅に向かって歩きます。
 私は、途中の滄浪泉園に立ち寄りました。本当は、ここも巡検地のひとつだったのですが、3時半に解散となっていたので、滄浪泉園は、省略となったのです。滄浪泉園もハケに建てられた別荘と庭園です。
 もう薄暗くなったために、写真はあまりよく撮れませんでした。

園内の「ハケ」の説明板


小金井市が出している滄浪泉園説明のサイト。
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Koganeishi/Sorosenen/Sorosenen.htm

 滄浪泉園は、2日前の11月16日夜にテレビ東京が「大人の極上ゆるり旅」という東京近郊の観光地を案内するガイド番組で紹介放送されたのだそうです。「それで、朝から押すな押すなの人が押し寄せて、用意したパンフレットがおしまいになりました」と、庭園案内のパンフレットを貰えませんでした。
 4時から30分ほど園内のハケ面や湧水、水琴窟などを見学して、暗くなる前に駅に着かないとまた迷子になると思って武蔵小金井駅へ。

 駅前のマックにでも寄って足安めをしようと思い、駅の周囲をぐるりと回ったのだけれど、見当たらないので、和食店に入りました。「鶏と野菜の黒酢あんかけ」と生ビール中ジョッキで一休み。ひとり打ち上げ。
 和食店を出てきたら、駅の脇にちゃんとマックもありました。マックのコーヒーなら1杯100円で休めたのですが、和食屋の生ビールとおかず、計1150円。日曜地学ハイキングの参加費は1100円ですが、このうち700円は、先生方が出版している本の代金です。
 「地下水調査のてびき」応用地質研究会(地学団体研究会)中味は、私には読んでもよくわからないことなのですが、お世話になっている先生方の本と思って買いました。
 
 本日の行楽費、交通費、電車賃往復1000円とタクシー代710円で、合計1700円。ハイキング参加費1100円。食費、コンビニで買った昼食用のおかず300円。ひとり打ち上げ1150円。などなど。合計で4000円ちょっと。
 自分が行楽してきて費やした金額と同額を貯めておきます。1年まとめて、しかるべきところに寄付します。こうしておくと、免罪符と同様の効果があって、「世の中には苦しんでいる人も多いのに、私ばっかり楽しんで申し訳ない」と思わずに、「私がお金を使えば、めぐりめぐってそれは人の暮らしを助ける一助となる」という「経済環流」の行楽になります。「行楽費と同額寄付」おススメです。

 以上、日曜地学ハイキング「国分寺崖線を巡って」の報告おわり。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「武蔵国分寺遺跡から殿ヶ谷戸公園、関東ローム層-日曜地学ハイキング」

2012-11-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/29
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(17)武蔵国分寺遺跡から殿ヶ谷戸公園、関東ローム層-日曜地学ハイキング

 日立中央研究所から武蔵国分寺遺跡公園まで歩き、ハケの崖を下って湧水群の見学をしました。真姿の池湧水群を見学。この湧水は、東京都では山中の御岳渓谷と並んで「日本名水百選」に選ばれています。東京市街地の湧水としてはただ1ヶ所の貴重な水源です。「地団研」の先生たちは、参加者に水質検査キット(リトマス水溶液が入った容器)を配布して、湧水のphを検査するよううながしていました。このとき、真姿の池の湧水は、ph5.8で、弱酸性。試薬の色は、黄色でした。

 真姿の池湧水群をめぐる「お鷹の道湧水群」遊歩道にも、押すな押すなのウォーカー団体が行き交っていました。大きな水用のタンクを持って、水を汲んでいる女性、自転車でタンクを持ち帰っていましたから、近所の人なのでしょう。
真姿の池の湧水

 
 武蔵国分寺遺跡は、50年も発掘が続けられており、さまざまな遺物が遺構が出土しています。昼食を食べたのは、かっての金堂があった場所。


 私は、金堂の礎石のひとつと思われる石に腰を下ろして、朝、握ってきた梅干しおにぎりと、国分寺駅前のコンビニで買った鶏つくね団子串、コロッケなどを食べました。

 私が最初「この人たち、日曜ハイキングの人々かな」と思ってそのそばに腰をおろしたあたりは、「坂歩き崖歩き」のウォーキンググループでした。あとから来た日曜地学ハイキングの仲間は、私からは離れた位置で食べ始めましたが、どうせひとりも知り合いはいないし、移動するのも面倒なのでそのまま「崖あるき」ウォーキングの団体に紛れ込んでお茶など飲んでいました。崖歩きウォーキングのサークル、次回のイベントは、「江戸の崖・東京の崖ウォークツアー」である、というお知らせチラシや坂学会「坂まつり」が文京区民センターで開催されるというチラシを配布してくれました。坂まつり、無料とあるので、行こうかな。

 次に武蔵国分寺跡資料館を見学しました。国分寺遺跡の出土品などが展示されていました。テレビ番組「ブラタモリ」でタモリが訪問したときに紹介された、という「銅像観世音菩薩像」は、白鳳期後期の制作。関東では最も古い白鳳期の仏像だそうです。


 この武蔵国分寺遺跡発掘現場を、2005年のみどりの日に、娘むすことともに訪れたことがあります。娘が大学の授業で「この遺跡発掘現場見学に参加すれば、授業に1回分出席したとみなす」と言われて、出かけたのです。古代史の授業で眠気をがまんして授業を聞くより、発掘現場見学ハイキングで1回分出席になるなら「お得」と娘が言ったので。娘は地理学科でしたが、中学校社会科教員免許をとるために、日本史の授業の単位も必要だったのです。

 このとき発掘していたのは、武蔵国分寺七重塔跡、武蔵国分尼寺跡でした。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2005/05/post_29ea.html 
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2005/05/post_8a27.html

 現在、再建された武蔵国分寺は、遺跡の北側に位置しています。


 今回も娘むすこを誘ってみましたが、「11月18日は、横浜国際女子マラソンの中継とフィギュアフランス大会女子を見たいからダメ」と、フられました。まあ、11月には24歳となる息子。いつまでも母親といっしょに出かけることもないとは思っているのですが。一応、娘の名を日曜地学ハイキングの会員名簿には載せているので。

 武蔵国分寺跡資料館をのんびり見学していたら、いつのまにやら日曜地学ハイキングの人々は、次の殿ヶ谷戸公園へ向けて出発していました。気づかずに取り残されてしまったもう一人の女性と、最初に集合していた場所都立武蔵国分寺公園へ戻ったのですが、だれもいません。しかたがないから、タクシーを拾って殿ヶ谷戸公園へ行きました。ハイキングなのに、途中タクシー。どうしていつも私は道に迷ったり、メンバーとはぐれたりするのでしょう。ほんとに毎度まいど。

 殿ヶ谷戸公園の入り口で待っているとI先生が入場券を買いに来て、「ふたり遅れたと思ったんですが、行程がおくれているので出発したけれど、間に合ったんですね」と言う。まあ、間に合ったのはタクシーで先回りしたからですけど。途中で行方不明になるメンバーがいても、先生は気にせず「疲れたから途中で帰ったんだな」と思う程度、というゆるさが、このサークルなので、こちらも気にしない。

 殿ヶ谷戸公園は、一度ひとりで来たことがあります。そのときは、「ハケ」見学など思いもよらず、ただ、仕事がえりに、きれいな庭をながめに寄ったのです。今回は、庭園内のきつい高低差の崖は多摩川が作り出した河岸段丘によるものであること、庭内の池はハケの湧水でできていることを、地学の先生に解説してもらって、庭を眺めるにも視点が異なりました。

秋色の殿ヶ谷戸公園


 殿ヶ谷戸公園から歩いて、とある駐車場に行きました。この駐車場の北川の崖こそ、東京都内で数少なくなった「関東ローム層」の出現地なのです。都内のほとんどの崖は、開発の波に押されて、マンションやらビルやらが建つ際に削られたり埋め立てられたりして、直接ローム層の地層が出現しているところで、一般の人が見学できる場所は、ここくらいなのだそうです。
 このローム層は「東京パミス(TP)」という名で呼ばれており、49000年前の箱根火山の軽石が地層となっています。

ローム層にうつってているシルエットは、日曜地学ハイキングの参加者たち


 関東ローム層と言えば、日本史教科書の一番最初に出てくる用語です。このローム層にあった打製石器を発見した岩宿遺跡により、日本にも旧石器時代の人々が住んでいたことが証明されたのです。岩宿発見の相沢忠洋さんは、郷土群馬の誇りです。
 私は,小学校の遠足のとき、どこかの崖を指して先生が「ここもカントーロームソーなのだ」と言ったような気もするのですが、大人になって、関東ローム層が何を意味したのかわかってから、この地層をじっくり眺めたことなどありませんでした。

 日曜地学ハイキングで、秩父だか荒川だかで化石を掘ったときも、地学の先生にローム層の表れている地点の説明を受けた気がするのですが、どこだったか忘れました。今回のローム層は、ちゃんと覚えておこうと思います。あ、でも、ぞろぞろくっついて歩いていただけなので、何と言う駐車場だったか、忘れてしまいました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「武蔵野夫人と日立中央研究所庭園」

2012-11-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/28
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(16)武蔵野夫人と日立中央研究所庭園

 大岡昇平は、敗戦後、小金井のハケに位置していた富永次郎宅に一時寄寓していました。崖の上と下という環境に興味を持った大岡が、斜陽族の没落を描いた小説『武蔵野夫人』執筆にあたって、小説の舞台として「ハケ」を選んだのです。小説は1950年に発表され、太宰治の『斜陽』とともに大ベストセラーとなりました。小説発表の翌年1951年には、溝口健二監督、田仲絹代主演で映画化されました。

 この多摩地域のハケの地形がたいへんよく説明されているので、少し長いですが、引用します。府中市や小金井市などの観光パンフレットなどに、「はけ」や「湧水」の説明が書いてありますが、どんな説明書を読むより、大岡昇平の初期の名文で読むほうがずっと心に残ります。また、なまじっかの地理解説や地学解説の本より、ことばから醸し出される雰囲気がよい。
 たとえば、「えんえんと」というとき、現代表記では「延々と」が出てきますが、大岡は、野川の段丘が蛇行しつつ下流に到るようすを「蜿々と」という表記であらわしています。この文字づかいひとつをとっても、文の芸、文芸だなあと思います。

 『武蔵野夫人』の冒頭。
 「土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。
 中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。「野川」と呼ばれる一つの小川の流域がそこに開けているが、流れの細い割に斜面の高いのは、これがかって古い地質時代に、古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘の一つだからである。
 狭い水田を発達させた野川の対岸はまた緩やかに高まって盾状の台地となり、松や桑や工場を載せて府中まで来ると、第二の段丘となって現在の多摩川の流域に下りている。
 野川は、つまり古代多摩川が武蔵野におき忘れた数多い名残川の一つである。段丘は三鷹、深大寺、調布を経て喜多見の上で多摩の流域に出、それから下は直接神奈川の多摩丘陵としつつ蜿々と六郷に到っている。
 樹の多いこの斜面でも一際高く聳える欅や樫の大木は古代武蔵原生林の名残りであるが、「はけ」の長作の家もそういう欅の一本を持っていて、遠くからでもすぐわかる。斜面の裾を縫う道からその欅の横を石段で上る小さな高みが、一帯より少し出張っているところから、「はけ」とは「鼻」の訛だとか、「端」の意味だとかいう人もあるが、どうやら「はけ」はすなわち「峡(はけ)」にほかならず、長作の家よりはむしろ、その西から道に流れ出る水を遡って斜面深く喰い込んだ、一つの窪地を指すものらしい。
 水は窪地の奥が次第に高まり、低い崖と鳴って尽きるところから涌いていている。武蔵野の表面を覆う壚拇(ローム)、つまり赤土の層に接した砂礫層が露出し、きれいな地下水が這い出るように涌き、すぐせせらぎを建てる流れと鳴って落ちていく。長作の家では、流れが下の道を横切るところに小さな溜まりを作り、畑の物を洗ったりする。
 古代武蔵野が鬱蒼たる原生林に蔽われていたころ、また降っては広漠たる荒野と化して、渇いた旅人が斃死したころも、斜面一帯はこの豊かな湧き水のために、常に人に住まわれていた。長作の先祖がここに住みついたのも、明らかにこの水のためであって、「はけの荻野」と呼ばれたのもそのためであろうが、今は鑿井技術が発達して到ところに井戸があり、湧水の必要は薄れたから、現在長作の家が建っている日当たりのいい高みが「はけ」だと人は思っているわけである。
」(新潮文庫1953初版の1999年71刷より)

 「国分寺崖線-ハケを歩く」は、いくつものテーマを含む散歩です。ひとつは、上記の武蔵野夫人の地を歩く「文学散歩」、もうひとつは、国分寺遺跡をたどる「歴史散歩」、タモリが会長をつとめる「坂学会」などがテーマとするのは、「国分寺の坂、崖を歩く」この「坂歩き崖歩き」を目的とするウォーキングチームは、国分寺遺跡金堂跡での昼食時に、同じ場所でお昼を食べていたので、学芸員の先生が説明をしているのを聞きながらお弁当を食べました。日曜地学ハイキングも「坂歩き」チームも、似たような中高年の集まりで、どっちがどっちでもいいような団体です。

 日曜地学ハイキングのテーマは「ハケと地下水、地層」なので、要所要所で地層や地下水脈、多摩川の河岸段丘の形成などについて、詳しい解説がありました。本当を言えば、私の主な興味は、文学散歩「武蔵野夫人紀行」か、歴史散歩「武蔵国分寺遺跡探索」のほうにあるのですが、それは一人でも歩ける。地層の解説など、私にはまったく門外漢の分野ですから、解説はとてもありがたいことでした。
 地層や地下水脈についての解説をする先生たち、日頃の授業もかくやと思える熱心でくわしいお話を聞かせて下さいました。

 「武蔵野夫人」の中では、主人公道子は、幼なじみの勉と散歩に出かけ、野川の水源を巡ります。二人が歩いた水源も今回のハイキングコースに含まれています。野川の水源とされる湧水は何カ所かあるのですが、そのひとつの湧水は、日立中央研究所の庭園内にあります。

 日曜地学ハイキングの面々が今回の「地学巡検」で最初に訪問したのは、日立中央研究所の「一日庭園公開」でした。
 入り口からすぐのところに、「ハケ」の崖が作り出した谷があり、橋がかかっていました。「返仁橋」と名付けられていました。

 私はまったく知らなかったのですが、日立中央研究所は広大な敷地の中に立てられており、春秋、年に二回だけ無料で一般公開が行われるということです。



 中に入ってみて、押すな押すなの人混みに驚きました。なんと旅行会社クラブツーリズムがツアー客を募集しており、各地からのバスが15台だか20台だか乗り込んできているのだそうです。一台50人ツアー客として、1000人の客。いくら広大な庭園だからといっても、池の周囲800mは、日曜日の原宿竹下通り並の、押すな押すなの行列になっていました。地元の人だか日立社員だかが、サービスとして地野菜、焼きそば、鯛焼きなどをテントを張って売り出していました。

 かっては、この庭園開放はおそらく地元の人しか知らない行事であり、日立も、地元の人へのサービスとして庭園を開放したのでしょうに、無料の庭園公開を自社のツアーに利用するとは、クラブツーリズムも抜け目がない。ツアー客は一日バスツアーに5000円ほどのツアー代を払い込み、お弁当などを支給されて園内の芝生などで食べるのでしょう。

 日立がクラブツーリズムからいくらかもらっているとは思えず、数少ないトイレに長蛇の列で並んだときは、クラブツーリズムの商売が阿漕に思えました。園内を歩いたのは30分ほどなのに、トイレに25分並びました。
 旅行団体の客のほか、小金井市ウォーキング協会という旗を立てた団体など、ウォーキングブームのおりから、数多くの中高年ウォーカーが押し寄せていました。

 庭園内の水源からの湧水が、周囲800mという大きな池を作っています。この池は人工池で湧水の貯水池として1958年に造られました。池には名前はないらしく、もらった園内地図には、ただ「大池」とあります。池の片隅に湧水があったのですが、あまりの人混みで近づけませんでした。池の写真だけとりました。庭園は、まだ紅葉には早かったのですが、秋の色があちこちに見られました。
 めずらしい「十月桜」も見事に咲いていました。


 この園内から始まる「国分寺崖線」は、立川から世田谷の等々力渓谷まで30km続くのです。

 このあたり一帯は、古くより「恋ヶ窪」という地名がつけられていました。『武蔵野夫人』の主人公ふたりが散歩したときのようすを、引用してみましょう。

 「川はしかし自然に細くなって、ようやく底の泥を見せはじめ、往還を一つ越えると、流域は細い水田となり川は斜面の雑木林に密着して流れ、一条の小道がそれに沿っていた。
 線路の土手へ上ると向こう側には以外に広い窪地が横たわり、水田が発達していた。右側を一つの支線の土手に限られた下は足の密生した湿地で、水が大きな池をたたえて溢れ、吸い込まれるように土管に向かって動いていた。これが水源であった。」


 この「恋ヶ窪」の地域が、この日立中央研究所のあたりです。「武蔵野夫人」の勉と道子が歩いたときの「支線の土手」は、現在の西武国分寺線でしょう。「水が大きな池をたたえて溢れ」とある大きな池が「日立中央研究所内庭園の大池」と思われます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「国分寺崖線を巡って-日曜地学ハイキング」

2012-11-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(15)国分寺崖線を巡って-日曜地学ハイキング

 私は仕事でも、一匹狼であちこちの大学にパートで教えに行く「非常勤講師」。団地の自治会には属していますが、毎月の自治会費を銀行引き落としで払い込むだけで、自治会の行事には何も参加しませんし、ほかの自治会員と顔を合わせることもありません。
 ただ、趣味の会にはふたつ所属があります。ひとつは、毎週金曜日夜に集まって練習をする、ジャズダンスのサークルです。もうひとつは、もう会員になって16年経つけれど、活動に参加したのは2004年が最後で、ここ8年は会報を送ってもらうだけで、参加はしてこなかった「日曜地学ハイキング」です。

 日曜地学ハイキングは、サークルと言っても、とてもゆるい集まりで、コアとして活動しているのは、高校の地学・地理の先生たちの研究会「地学団体研究会」の人々。1947年に設立された「民主主義科学協会(略称=民科)」のひとつ。私は、この民科のひとつだった、民科言語科学部会から発展した「言語学研究会」の奥田靖雄の『連語論』という理論をもとに修士論文を書きました。たぶん、私の精神の何割かは「民科の流れ」で出来ていると思います。

 「日曜地学ハイキング」一般会員は、毎月送られてくるイベント情報を見て、化石堀り、地層見学、干潟の蟹観察、磯の生物観察などから、興味を持ったものに、現地集合で参加します。資料をコピーする関係で、一応、係の先生に参加申し込みをしますが、当日になっての参加でもOKですし、参加を取りやめるときも、メールや電話をするだけ。とてもゆるいサークルでメンバーの名前を互いに知らないし、ひとりで参加してただ黙って化石を掘って、だまって帰ってもそれでよし。人と話をするのが苦手な私向きの団体です。

 冬場はハイキングはしません。「化石クリーニング」や「講演会」などがあります。ハイキングは、年に6回ほど。うち年末には一泊の「宿泊巡検」が行われます。私は2003年の常磐いわき周辺地層の一泊巡検、2004年の秩父山中宿泊巡検に参加したのを最後に、この8年間は、化石堀りにも磯の生物観察にも「行こうかな、どうしようかな」と、思っているだけで参加してきませんでした。

 この日曜地学ハイキングに最初に参加したのは、1996年、娘が中学校1年生のとき。恐竜大好きの娘が、「恐竜の化石、堀りたい」と言って参加するようになったのです。最初は秩父の山中で貝の化石を掘るハイキングだったように記憶しています。山の中から海の貝の化石が出るということの不思議さを感じながら、石を割りました。それ以来、娘息子と母子3人で、毎月「地学巡検」のハイキングに参加してきました。

 この会に思い入れがあるのは、娘が教師からのイジメにあって、中2、中3と不登校になったとき、ひきこもって青白い顔をしている娘を、月に1度だけは、この日曜地学ハイキングに参加するため、青空の下に連れ出すことができたからです。ほんとうに助かりました。娘が大学地理学科を卒業するとき、会のリーダーI先生にお礼の手紙を出しました。おかげさまで、大学卒業までこぎつけました、と。

 娘はほんとうは地学を学びたかったのですが、不登校のせいもあって理科系の入試科目はまったくダメ。文科系の学科のうち、自然地理学を学べる大学を選び、卒論は「神津島の黒曜石分布」の調査でした。
 I先生からは、クモヒトデに関する研究成果をまとめた本が卒業祝いとしてプレゼントされました。

 そんな思い入れのある「日曜地学ハイキング」11月18日に久しぶりに参加しました。ハイキングのタイトルは、「国分寺周辺の地下水の観察・国分寺崖線を巡って-はけの道を散歩して-」
 11月17日は一日中冷たい雨が降っていたのですが、18日は一日とてもよいお天気でした。19日は急な冷え込みの日になったので、ちょうどいい日曜ハイキングになりました。

 月1回のハイキングの162回目のイベント。思えば、1996年に初参加したころから比べて、先生方もそれ相応に年をとりました。先生方は、「地学教育」の一環として、地道に一般向けのハイキングを続けてこられたのです。
 I先生も高校地学教師を定年退職したあとは、毎日つくば市にある科学博物館分館に通って研究三昧の日々なのだとか。

 11月17日の武者小路実篤邸の紹介で「実篤邸は、ハケの上部に家を建て、ハケの下に池のある庭園をしつらえてある」と書きました。

 ハケとは、武蔵野の大地を削って多摩川が作り出した河岸段丘の崖を指し、崖の上は武蔵野台地です。この台地の上下は崖になっており、府中から世田谷の等々力渓谷まで、30kmにわたって、崖がラインをなしており、この崖線をハケと呼びます。

 ハケという語が世に知られるようになったのは、大岡昇平の小説『武蔵野夫人』によってです。
 冒頭は、「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」で始まります。

<つづく>

11/28 武蔵野夫人と日立中央研究所庭園-日曜地学ハイキング
11/29 武蔵国分寺遺跡から殿ヶ谷戸公園、関東ローム層-日曜地学ハイキング
11/30 野川源流湧水、滄浪泉園-日曜地学ハイキング
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ぽかぽか春庭「横浜美術館・神奈川県立博物館」

2012-11-25 00:00:01 | アート


2012/11/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(14)横浜美術館・神奈川県立博物館

 11月3日文化の日は、各地の美術館博物館で、無料公開が行われます。チェックした中で、今年の「無料!」は、横浜美術館に決めました。
 横浜みなとみらいに着いて、クイーンズスクエアビルのラーメン店で博多ラーメンを食べて、いざ、横浜美術館へ。横浜へ足を伸ばして見る美術館、これまでそごう美術館が多くて、横浜美術館に入ったことがなかったのです。1989年開館以来四半世紀たつのに。

 開館記念日が11月3日とかで、「はじまりは国芳・江戸スピリットのゆくえ」という企画展。江戸後期の浮世絵から、明治の美人画、昭和初期絵画表現までの流れを展示していました。
 ひとつひとつの絵は、版画だから、あちこちで見た覚えがあるし、明治の鏑木清方その弟子の伊東深水などの美人画も近代美術館や鎌倉の鏑木清方記念美術館でも見てきた絵です。鏑木の弟子筋の「新版画運動」に所属した版画家たちの作品、はじめて見たものが多かったです。
絵の集め方並べ方、はっと感心する並べ方に出会うこともありますが、今回はあまりキュレーターのセンスを感じませんでした。

 常設所蔵展も、初めて見たのですが、現代彫刻が多く、心ひかれる作品がなかった。
 唯一、森村泰昌がレーニンに扮して演説するのをムービーで表現したインスタレーションが面白かった。今まで、森村が有名な絵画の人物や歴史上の人物に扮したシリーズ、写真では見てきたけれど、動画ではじめて見たので。

 「レーニンの演説」は、「20世紀の男たち」というシリーズのひとつ。ほかに、ヒットラーの演説もあるし、三島由紀夫の市ヶ谷自衛隊での演説もある。強い風刺が感じられる画面のでき。すごくおもしろかった。

 「森村レーニン」のロケ地は釜ヶ崎。画面に登場するエキストラの労働者は、釜ヶ崎ドヤ街にいた人々です。釜ヶ崎支援機構からの仕事発注で、労働者や野宿の人たちが出演しました。
 この労働者たちがすごくいい。画面は暗く、ひとりひとりの顔などうつっていないのだけれど、社会主義が全体主義に転じていき、やがて潰える過程のむなしさまでも表現できている作品だと思いました。

 森村レーニンは演説台の上で叫びます。「戦争は、、、、、むなしい!」「人間は、、、、、 むなしい!」そして、森村レーニンが手を振り上げると、絶妙に遅れたタイミングで、労働者たちは、力なくその腕を振り上げ、権力者に迎合するのです。
 森村レーニンは、演説の終わりには紙をちぎった花吹雪を自ら労働者の上に降らせます。濃霧が立ちこめ、労働者たちは静かに演説台のまわりから去っていきます。
 どんな長々としたレーニン伝であろうと、レーニン思想の解説書であろうと、これほどの風刺精神を発揮したレーニン描写はなかったのではないか。

 森村は、この釜が崎のおっちゃんたちについて、語っています。
群集は、20世紀のイメージです。それは作品のバックグラウンドとして、重要なポイントなので、その顔をどうやって揃えるかが、大問題でした。私は大阪に住んでいるので、釜ヶ崎が連想された。レーニンが築こうとした理想社会、当時の労働者階級を現代日本のそこに重ね合わせてみた。私の映像に出てくれたおっちゃんたちは、かつては労働者であっても、現在は仕事がなくて野宿をしている。レーニンそのものは、この現実を知らないが、レーニンに扮している私は、ソ連の崩壊までも知っている。その上に立って、ドヤ街で演説をしなければならない。日本の戦後経済を支えてきた人々百数十人を前にしての演説は、最初考えていたものではだめで、すっかり内容を変えることになった。
 高齢者だから働きたくても職場がない。一時的に私が仕事として雇用する。ボランティアの学生を集めようとすれば、それも可能だった。俳優の卵を雇った方が、見栄えがよくて、それらしい元気のいい演技をしたかも知れない。私はそれでも20世紀の現実が欲しかった。だらだらやっているわけではないけれど、そんなに気勢は上がらない。それでもおっちゃんたちは何かの役に立っていることが分かってくれていた。強力な撮影ライトが当たって、自分たちに脚光が当たっているのを感じていたと思う。レーニンの立つ演壇を撮影するためには、手前の足場のしっかりした高い位置にカメラをセットしなければならない。そのセット作りを、おっちゃんたちは瞬く間に作りあげてくれた。工事現場で慣れたその作業手順は、感動的だったといってもいい。ここには昭和というが時代がしっかりと刻み込まれた顔があった。」


 私も、この「レーニンの演説」の成功の第一番は、「釜が崎のおっちゃんたち」をエキストラに選んだセンスにあると思います。
 横浜美術館、わたくし的には、この森村泰昌「レーニンの演説」を見ることができただけで、大満足。

 本館、平成館、法隆寺館と、3つの博物館をまわって、招待券一枚で朝から夜まですごせた東博とちがい、タダとはいえ、横浜美術館はおひる食べてから入館して、途中水飲み休憩も入れて3時間もすごしたら、全部見終わってしまいました。
 この美術館、すごく広いけれど、「館内に飲み物持ち込み禁止」と書いてあるのに、トイレの脇などに水飲み施設がいっさいなし。
 展示室外の廊下のベンチで持参の水を飲んでいたら、係員がとんできて、「ここも飲み物禁止です」と言う。「喉が痛いので水を飲みたいのですが、どこでなら飲んでいいのでしょうか」とたずねると、「トイレの前にベンチがあるから、そこでなら」と言う。係員が指さしたトイレへ行ってみましたが、ベンチなどなし。立って飲みました。

 館内飲食禁止という美術館博物館、たとえば、東博でも東京都美術館でも近代美術館でも、冷水器を備えており、入館者が休んで飲み物をとれる休憩所があります。横浜美術館にはカフェはあるけれど、冷水器などはなく、とても不親切だと感じました。飲食禁止を求めるなら、館内に「飲食出来る場所」をきちんと設置すべき。1階ロビーに「飲み物を飲んでもいいけれど、食べ物はダメ」という畳を敷いた休憩所があったけれど、11月3日は、そこで「国芳展開会セレモニー」が行われていて、逢坂恵理子館長の長いあいさつなどがあり、とても水飲んでくつろげる場所じゃなかったし。

 3時じゃ、まだ帰るには早いので、みなとみらい線で一駅先にある神奈川県立博物館に寄ることにしました。電車に乗れば次の馬車道駅まで一駅ですが、横浜散歩を兼ねて歩くことに。

 そして、いつものごとく、地図を見ながら道を間違えて、桜木町へ出てしまい、大回りをして歩くこと60分。4時半の「入館締め切り」時間の5分前にようやく到着。閉館の5時まで30分、「横浜の歴史」を縄文時代から現代まで駆け足で見て回りました。

 歴史を見るのは、ついでです。神奈川県立博物館に立ち寄る目的は、その建物にあります。1905(明治37)年完成当時の横浜正金銀行正面の古写真の絵はがきと、現在の神奈川県立博物館として修復された建物の絵はがきを買いました。

 5時に閉館になり、薄暗くなった博物館の周囲をゆっくり一周しました。


 東京都北区にある赤レンガ建物「醸造試験場(1904年完成。現酒類総合研究所東京事務所) 」の設計者、妻木頼黄(つまきよりなか)の作品で、同じ1904年に完成した「横浜正金銀行本店」が、現在は神奈川県立博物館になっているのです。
 妻木は、横浜の赤レンガ倉庫も設計しています。妻木設計の建物、2007年に大連へ行ったとき、旧、横浜正金銀行大連支店(1909年 現・中国銀行大連分行)も見たので、あとは、拓殖大学恩賜記念講堂(1914年、現・拓殖大学恩賜記念館)と、山口県庁&旧県会議事堂を見に行きたい。こちらは復元もののようですが。

 11月3日も咳をしながら、よく歩いた。横浜美術館で水が飲めなかったのをのぞいて、いい文化の日でした。文化とは、水くらいゆっくり飲める場所があることを言うんじゃなかろうか。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「中国王朝の至宝展・東京国立博物館」

2012-11-24 00:00:01 | アート


2012/11/24
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(13)中国王朝の至宝展・東京国立博物館

 東博本館で出雲展をみたあと、平成館へ。中国王朝の至宝展(12月24日まで)。
 中国六千年の歴史、紀元前二千年の夏王朝、殷王朝から、紀元後1200年の宋の時代までの、古代中国の遺物の展示です。
 根がケチなので、入場券を自腹で買ったときは、500円のガイドイヤホンは節約して借りないのですが、この日は無料の招待券なので、ガイドイヤホンを借りました。音声解説は、展示品の脇に出ている説明プレートに書かれている以上のことはそんなにしゃべらないのですが、お話をききながら展示を見ていると、なにやら分かった気になる。
http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1495

 日中友好条約締結40周年の展覧会です。こちらでは、暗雲垂れ込める政治情勢は別として、中国の文化を知ろうとする善男善女がひきもきらす会場に押しかけているのに対し、かの地では、フィギュアスケート中国杯の応援に出かけたツアー客も参加の選手も「ホテルから一歩も外に出たら安全は保障しない」という国情。文化度、民度の違いですかね。 

 これまで、最初の中国王朝といえば、伝説の夏王朝や、最後の王は「殷の第30代帝、暴君紂王(ちゅうおう」というその名を私でも知っている殷王朝。(「酒池肉林」とは、紂王の事跡というのだが、後世の伝説は最後になって滅ぼされた王だから悪く言っているだけのようで、紂王はけっこうよい治世をおこなったということのようです)。
 黄河中原の夏王朝、殷王朝と同時期に、長江流域の四川盆地に蜀(しょく)王朝があったことが、近年の考古学発掘の進展によってわかってきました。
 四川省成都市金沙遺跡出土の、前16~前15世紀に作られた黄金の仮面、青銅器の爵(しゃく=酒を注ぐ器)などが展示されていました。

黄金の仮面


虎座鳳凰架鼓 戦国時代・前4世紀 湖北省・荊州博物館蔵


 殷の次の周王朝の展示品はなくて、次の第2章は、春秋戦国時代の斉や魯王朝。孔子は、魯王朝の時代に生きた人です。魯国の曲阜に、孔子の墓があります。私は2007年に、山東省曲阜市に行き、三孔(孔廟、孔林、孔府・旧称は衍聖公府)を訪れました。
 今回の展示では、魯や孔子に関する展示は、孔廟や孔林(孔子一族の広大な墓)の写真のみの展示でした。孔廟や孔林の写真は、私もたくさん撮ったのですが、今パソコンを探しても、どこにしまったか分からなくなってしまいました。パソコン内蔵写真も整理整頓が必要ですね。

 秦の始皇帝の時代の展示では、矢を構える武人ともう一体の兵馬俑が展示されていました。兵馬俑の写真も、2007年の西安旅行で撮ったのですが、このとき、カメラのメモリーカードが満杯になり、ケータイで写真を撮って、そのケータイが壊れたらデータが取り出せないで、そのまま。どうも中国での写真はうまく保存できていません。

 時代を下って、宋の時代まで、たくさんの遺物、出土品を見ました。宋は今年のNHK大河ドラマ「平清盛」で、清盛が盛んに「宋と貿易をしたい」と言っていたのでも、わかるとおり、当時の世界の中で最高の文化力を持った国でした。今年1月には、宋時代の有名絵画「清明上河図(せいめいじょうがず)」を見るために東博平成館で3時間も並んで待ったことを思い出しました。中国北宋の都開封の都城内外を描いた絵でした。

 中国6000年の歴史をたどり、遣隋使遣唐使のいにしえ、江戸時代鎖国中の清との貿易まで思い返せば、日本はなんと多くを中国文化に負ってきたことでしょう。
 それに比べると、歴史上、日本文化が中国に与えた影響はないとはいえないまでもごく少ないような気がします。日宋貿易でも日本からの輸出は銅や硫黄などくらいで、文化輸出といえば、日本刀と扇の輸出くらいでした。
 現代文化の上で、アニメのドラゴンボールやクレヨンしんちゃんの海賊版で中国の子どもたちに絶大な人気を誇っているのくらいが、まあ日本文化の中国への浸透と言えましょうか。

 中国の考古学発掘は、まだ研究が始まったばかりです。秦の始皇帝陵で兵馬俑が発掘されたのでさえ、たった40年前の1974年のこと。上記の成都市金沙遺跡が発掘された野など、12年前の2000年のことです。これからどんな歴史的な発掘発見があるかと思うと楽しみです。

 中国のGDP(Gross Domestic Product国内総生産)が日本を追い抜きました。国力は十分なのですから、全国民の教育や文化面をもっともっと充実させ、国内格差を是正してほしいです。出稼ぎの賃金さえ不払いになってしまうことがないように、生活に不満を持つ階層の人が、その腹いせを日本製自動車や日本式デパートに向けたりしないよう、民度の熟成を図ってほしい。

 中国。漢文漢詩、論語から莫言まで、好きです。兵馬俑の舞踊人形から千手観音(中国の聴覚障害者ダンス集団)まで、好きです。中国文化、もっともっと知りたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「出雲展・東京国立博物館」

2012-11-22 00:00:01 | アート
2012/11/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(12)出雲展・東京国立博物館

 法隆寺館の1階観音様、2階の伎楽面を見て、気分はおさまりました。レストランゆりの木で、不愉快な思いをしたのは、さっぱり忘れて、よいものを見て目をなごませれば、立った腹も横に寝ておさまります。

 まず、本館で出雲展を見ました。(11月25日まで)
http://izumo2012.jp/
 メインの展示は、2000年に出雲大社の境内から出土した宇豆柱(うづばしら)と、古代出雲大社の復元模型です。
 出雲大社の千家家に伝わる大社設計図の古伝によると、柱の太さは3mで、本殿の高さは16丈、約48m。古伝では、平安時代の建物については、雲太、和二、京三(出雲太郎、大和次郎、京三郎)と書かれ、出雲が日本一の高さ、大和の東大寺が二番、京都の御所が三番、とされていました。(数え歌として人口に膾炙していたのを元に、平安時代の「口遊」by源為憲が書き残していたそうです)
 東大寺の高さ45mよりも高いのが出雲大社だと言われていたのです。この記録に対して、「そんなに太い柱になる木はないし、そんなに高い建物も、往古の技術では建てられるはずがない」という論を出す学者もいました。

 ところが、2000年の発掘調査で、大社境内から、古い柱の残痕が出てきました。これが宇豆柱です。直径1m以上の太い杉の丸太を3本束ねて一本の柱としており、古伝(千家家所蔵「金輪御造営差図」)の「直径3mの柱」が本当だったことがわかりました。そうなると、本殿までの階段が100mもの長さで続いていた、という伝説も本当だということです。

 本館正面奥の展示室には、この出雲大社本殿の10分の1の模型が設置されていました。神官のフィギュアが階段に置かれていて、いかに巨大な神殿だったかがわかります。発掘された宇豆柱も展示されており、太さを実感できました。



 そのほかの展示では、1984年1985年に荒神谷遺跡で発掘された銅剣銅矛、銅鐸が圧巻でした。1996年、加茂岩倉遺跡から発掘された、銅鐸の一部などが展示されていました。ひとつの遺跡からの出土数が、日本最多となる39個。ひとつでも発掘されればすごいのに、これほどの数の銅鐸があったのですから、出雲の地の力がわかります。出雲は大和にも増して重要な土地でした。
 銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個という常識をはるかに超える数の青銅器が発見されたことで、古代史の中で出雲がいかに大きな存在だったか、大和天皇家に「国ゆずり」をした、というその言い伝えについて、さらに研究が必要なことがわかりました。

 国譲りの話は、712年、今からちょうど1300年前に完成した『古事記』に大国主命が、アマテラスの孫のニニギに国土の権利をゆずり、そのかわり、この世で一番高く大きなおやしろを建てて出雲の神々をたたえることを要求した、という話になっています。
 古事記研究風土記研究も進んできたとはいえ、まだ古代史の全容が解明されたわけではありません。
 ちなみに、春庭1974年提出の卒業論文のタイトルは『古事記』でした。

 出雲大社遷宮のためおやしろから出されている大社の所蔵品、また島根県立古代出雲歴史博物館所蔵品などが多数展示されていました。
 展示のなかで、あ、そうなのか、と、目からウロコの品がありました。銅鐸復元品です。銅鐸は東博の考古室などでも多数展示されているので、見慣れた気になっていましたが、復元品がアカガネ色に輝いているのを見て、「そうか、私は銅鐸といえば、緑青がふいている緑色を思い浮かべてきたけれど、製造されたばかりのときは、銅の色なんだ」と、改めて思いました。銅鐸=緑青色という思い込みで、アカガネ色の銅鐸を想像したことがなかった。想像力がない人間ですね。銅剣銅矛の復元品もありました。

復元された銅鐸


 「神話のふるさと出雲」、出雲風土記や古事記の研究がもっとすすんで、古代のアキツシマがより深く理解出来るようになってほしいと思います。アヅマエビスの子孫である私にとっても、「出雲や大和は、心のふるさと」と言ってよいと思うので。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「饐えていたブロッコリー・ホテルオークラレストランゆりの木in東京国立博物館」

2012-11-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/21
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(10)饐えていたブロッコリー・ホテルオークラレストランゆりの木in東京国立博物館

 思いがけなく手に入った東京国立博物館の招待券。大学祭で授業が休みになった金曜日、上野に出かけてきました。一枚のタダ券で、朝10時から夕方6時まで一日中歩きまわり見て回り、心満腹で過ごしました。
 ただひとつ、満腹にほど遠かったのは、法隆寺館1階にあるホテルオークラの出店レストラン「ゆりの木」でのランチ。

 前日11月1日のランチは、駅前牛丼屋の「焼きトン丼」350円ですませた私、11月2日は、「チケットはタダなんだから、お昼ご飯はちょっと張り込もう」と思って、東京国立博物館法隆寺館の1階にあるホテルオークラレストラン「ゆりの木」に入りました。いつもは、利用しません、高いから。私にとって、千円以上のランチは「高い」部類です。それに、12時前後だと、いつも待合の椅子に奥様方がいっぱい並んでいて、待たずに入れることはなかった。東博に来る奥様方には人気のランチとみえます。

 朝ご飯なしに出かけたブランチで、11時15分に入店したので待つこともなくすぐ座れ、ランチメニューの中から、「鯛のソテー、クリームソース」を頼みました。サラダとコーヒーがついて1980円。日頃は350円の豚丼を食べている身には、「ちょっとお高めランチ」です。

 席に案内されて、割合にすぐお皿が供されました。野菜から食べると糖類の吸収が抑制される、という説を信じて、まず、サラダを食べる。それから、鯛のつけあわせにブロッコリーが三つ。ちょっとしなっとしているブロッコリー、見栄えは悪いけど、だされたものは残さず食べるのがポリシー。

 うん?ブロッコリーの味がおかしい。風邪を引いているので、味覚がおかしいのかとおもいつつ、ひとつめのブロッコリーは無理矢理飲み込んじゃいました。あとは手をつけず。鯛のクリームソースには、バルサミコ酢もかかっていたので、もしかしたら、酢の味なのかも知れず、味オンチの私が風邪引いているので、ブロッコリーの変な味も、私のせいなのかもしれません。確認してから食べようと思いました。
 鯛をきれいに食べ終わり、ブロッコリーふたつを皿に残して、店長とおぼしき人に「このブロッコリー、いつゆでたものか、茹でた日付を厨房で確認していただけますか」と言いました。「今朝、茹でました」という答えが返ってくるなら、「変な味」と思ったのは私の舌のせい、ということになるから、食べてしまえ、と思ったのです。

 厨房からの答えは「今朝、スープで煮たものです」でした。ハハン、これは私もよくやる。冷凍のブロッコリーをスープで煮て解凍して食べるやり方。「けさ、スープで煮たというのは、冷凍のものを使ったということでしょうか。で、いつ茹でていつ冷凍していつ解凍したものなのですか。私は今風邪をひいているので、もしかしたら私の味覚のせいかもしれませんが、味がおかしいです」と言いました。

 このくたり具合からみて、夜のうちに翌朝の分を解凍しておいて、朝、ちょいとスープで温めて出した、と推測されました。ちょっと饐えた味がしたのは、風邪ひき舌のせいではなく、やはり饐えかかっていたのだ、と納得されました。
 冷凍ブロッコリーを解凍して、スープで煮て出せば客は文句を言わないだろうと判断したのは、厨房です。味見をしたのでしょうか。

 ウェイターは「申し訳ありません、取り替えてきます」と言って、しばらくしてブロッコリーを三つ別皿で持って来ました。こんどはちゃんと茹でてあります。私がクレームつけてから、あわてて茹でたものとみえ、ちょっと固めのブロッコリー。
 食後のコーヒーも飲み、ブロッコリーも替えてもらったので、私にはこれで文句はない、と、ランチ代1980円を払おうとしました。

 すると、店長は「お客さまに不愉快な思いをおかけしたので、半額とさせていただきます」と、50%引きの990円のレシートを私に見せました。私は、代わりのブロッコリーを出されたことに対しては、不愉快ではなかったのです。そういう厨房なのだと思っただけ。しかし、半額に値引きしたことに対しては、モウレツに腹が立ちました。
 実をいうとこの990円の値引きまで、「もしかしたら、風邪を引いている私の味覚のほうがおかしいのかも知れない」という疑いも持っていたのです。値引きによって、レストラン側が「古い解凍ブロッコリー」であったことを認めたのだと判断しました。

 半額にしたということは、レストラン側が非を認めた、ということです。ブロッコリーの不始末に対して丁重にわびを入れた上で、1980円を請求したのなら、私の気はおさまる。しかし、半額にしたということは、レストラン側が「この手のクレーマーには、半額でも代金をひいてやれば文句は言わないだろう」と、判断したということです。レストランがしょぼくれた格好の私(この日は、ジーンズに同じデニム生地のジャケット)を見て、「こいつは990円でクレームを引っ込める客だ」と値踏みした、ということです。

 私は、ファミレスで冷凍物を解凍した料理を出されても、文句は言わない。しかし、支店とはいえ、ホテルオークラと銘打ったレストランで、まさか、饐えたブロッコリーを食わされるとは思っていなかった。
 ゆりの木の客層は、博物館を観に来た通りすがりの客がほとんどです。本店のホテルオークラにはなじみ客も大金持ちも来るでしょうから、饐えたブロッコリーなんぞは出さない。しかし、通りすがりで二度とこないかもしれない上野に集まる田舎客なら、古いブロッコリーでもかまわず出す、そういうレストランの方針をこの990円で感じました。経費削減が本店から厳しく言われているのでしょうけれど、ここの料理長には料理人の誇りというものがないのでしょうか。

 客においしいものを出して「ああ、おいしかった、幸せ」と言ってもらうのが夢で料理人になった、というシェフもいます。自分の料理に誇りを持つ。これがものを作り出すものの心意気です。古くなったブロッコリーを皿に載せ、客が気づいたら半額にして「これで文句ないだろう」という方針。これが老舗と言われるホテルのやり方なのかとあきれました。

 「ホテルのレストラン支店なんだから、そうそういいかげんなものは出さないだろう」というブランドへの盲信でランチを食べようとした私がいけない、ということもありますが、このレストランは、客をなめてかかり、古くなって味がおかしくなったものを出している、それをカバーするのは990円の値引き、ということになんだか釈然としないものを感じました。日頃千円以上のランチは高いと感じる低所得者層というものは、かくもバカにされながらランチを食わねばならぬ。

 で、990円払って出てきました。別段口止め料と言われたわけじゃないから、ここに、こうして、「東博のホテルオークラレストランゆりの木」は、古くなった冷凍ブロッコリーを出し、それに対して文句をつけた客には半額引きの値引きをした、という事実を書き留めておきます。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「おはなしの会」

2012-11-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/20
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(10)朗読「おはなしの会」


 11月11日午後、飛鳥山の渋沢史料館から、中央図書館へいきました。図書館3階のホールで、T子さんの朗読の会「大人のためのお話会」が開催されていました。

 ダンス仲間のT子さんは、朗読や合唱、オペラ歌唱のために、声帯を鍛え、腹筋胸筋を鍛えるためにダンスを続けています。9月にはT子さんのオペラアリアを聴き、11月には合唱を聴きました。
 このところ、T子さんづいています。T子さんのこと、大好きなんです。小学校の先生時代校長先生時代、小学生や先生たちに慕われる先生だったろうなあと思います。T子さんを見ていると、私ももうちょっとまともな教師にならにゃいかんなあ、という気になってきます。

 T子さんたちは、図書館で子ども達のための読み聞かせをやっていると聞いていたので、この「大人のためのお話の会」も、朗読かと思ったのですが、会員はみなおはなしを完全に暗記して「語り」として上演していました。
 みな、とてもよい発声で、楽しい民話、笑い話、外国の話、それぞれ味わい深く語っていました。
 T子さんのおはなしは、「くぎスープ」という昔話。ラトルズという出版社が出している「スウェーデンの森の昔話」の中のひとつで、10分くらいの語りです。私ははじめて聞いたお話でしたが、「語り聞かせ」の世界では子ども達に大人気のお話みたいです。
 こんなお話でした。

 昔々、スウェーデンの森の小さな村にとてもけちん坊なおばあさんが住んでいました。とってもケチでしみったれ。ある夜、風来坊の男がやってきて、「一晩だけ、とめてくれませんか」と頼みます。けちんぼうのおばあさんは「ダメダメ」と断ります。
 風来坊は「ベッドに寝かせてくれとは言いません。床でいいから泊めて欲しい」と頼みましたが、おばあさんは「うちは宿屋じゃないよ」とそっけない。
 
 「たのむ。床に寝かせてもらうだけでいい」
 さすがのお婆さんも根負けして、床を貸すことに。おばあさんは念を入れます。「泊まるだけだよ。食べ物はいっさい出さないからね。うちだって食うや食わずさ」

 風来坊は「ああ、腹がへった」とあたりを見回し、「鍋をひとつ貸して下さい」。
 ついついけちんぼ婆さんが鍋を貸してやると、「ついでに、その鍋に、水を入れてくれませんか」
 まあ、水くらいなら飲ませてやらんでもないさ、と、おばあさんが水を鍋に入れてやると、男は、「このくぎ一本あれば、うまいスープをつくれるんだ」とポケットから釘を取り出しました。けちんぼうのおばあさんは、どうしてもそのスープの作り方を知りたくなりました。釘一本でスープが作れるなら、けちん坊には大助かり。

 男は釘の入った鍋をかきまぜています。おばあさんが「どうだね。うまくできそうかね」と聞くと、「ああ、もうすぐできあがりさ。「だが、ここでほんの少し、小麦粉を入れるともっと美味くなる」と、風来坊は言いました。おばあさんはほんの少しの小麦粉でスープがもっと美味くなると聞いて、部屋の奥から小麦粉をとってきました。くぎ一本でおいしいスープを作る方法を聞き出せたなら、これから先は大助かりだからです。
 「おお、ありがたい」風来坊は小麦粉を入れると、またゆっくりゆっくりと、かきまわし、「ああ、もうすぐできあがり。だが、ここでほんの少し、牛乳を入れると、さらにうまくなる」
 おばあさんはほんの少しの牛乳でスープがさらに美味くなると聞き、牛乳を取ってきました。「おおありがたい。」男は、鍋に、牛乳を入れると、ゆっくりゆっくり、かきまわしました。

「どうかね。うまくできそうかね?」けちんぼ婆さんは、くつくつ煮えてきた鍋の中をのぞきました。
「ああ、もう少しで出来あがり。だが、ここでほんの少し、じゃがいもを入れるとますます美味くなる。そうすりゃ公爵様が飲んでも誉めるほどのスープになる」
 おばあさんは、ほんの少しのじゃがいもでスープが美味くなるときき、奥からじやがいもをとってきました。公爵も誉めるほどのスープとは、どれほど美味しいことでしょう。

 「おお、ありがたい」と男は言って、鍋の中をゆっくりゆっくりかき回しました。
 「どうかね。うまくできそうかね」おばあさんが、くつくつ煮え立つ鍋の中をのぞくと、「ああ、もう少しで出来あがり。だが、ここにほんの少し塩漬け肉を入れるますます美味くなる。王様が飲んでもびっくりするほど美味いスープさ」おばあさんは、とうとう奥から、とっておきの塩漬け肉を持ってきました。王様が飲むスープなんて、どんな味でしょうか。
 「おおありがたい」男は、鍋に塩漬け肉を入れると、ゆっくりゆっくり、かきまわしました。
 
 「さあ、もうできあがりさ」勧められて一口飲むと、おばあさんはびっくりしました。「くぎ一本で、なんて美味しいスープだろう」王様だって大満足のお味です。
 くぎ一本で作れるお得で美味しいスープの作り方、これから毎日大助かりだ。おばあさんは、ついつい風来坊にパンとチーズも振る舞って、おまけに、自分のベッドも貸してやりました。
 朝には銀貨一枚、お得なスープのお礼にと、男に渡してやりましたとさ。

 なんともほんわかと愉快なお話でした。T子さんの語り口はあたたかい人柄そのままに、お鍋の味がどんどん良くなっていくような、心に滋養がたっぷりと注ぎ込まれるような美味しいおはなしでした。

のら書店「世界のむかしばなし」よりスエーデンの「くぎスープ」田貞二訳 太田大八絵


<つづく>
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ぽかぽか春庭「渋沢資料館・晩香廬」

2012-11-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(9)山本有三記念館、渋沢資料館晩香廬

 11月11日は、私の父の命日です。1995年に76歳で死にました。南太平洋の戦線で死ぬよりつらい苦労をした兵士でしたし、母に先立たれて四半世紀をやもめとして暮らした父ですから、1995年の夏まで家庭菜園の畑仕事や、史跡巡りウォーキングなどを続けて、9月に調子が悪いと言いだし、10月に入院、11月には死んでしまうというあっけない最後も、父らしい見事な終わり方と思えたことでした。

 ささやかで慎ましかった父の一生とは大違いの偉人ですが、おなじ11月11日を命日とする人に、渋沢栄一がいます。命日記念で、渋沢資料館が無料になるので、王子飛鳥山へ出かけてきました。無料が好きです。

 渋沢栄一は、1840(天保11)年に、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)に生まれ、1931(昭和6)年11月11日に満91歳で没しました。日本が資本産業を打ち立て、近代国家の基礎を固めるために一生を捧げた人です。
 豪農の生まれで商才にも長け、幕末にはその才を認められて一橋慶喜に仕え、慶喜が将軍となると幕臣になりました。

 1867年のパリ万博に際し、慶喜の弟・徳川昭武の随員としてフランスへと渡航し、もちまえの商才に加えて、近代資本産業の発展を身をもって知り、帰国後は大蔵省官僚となりましたが、大久保利通や大隈重信らと対立。退官後は、第一国立銀行ほかの銀行を設立し、500以上の会社を設立しました。「日本資本主義の父」と呼ばれる所以です。

 渋沢の偉いところは、。ただ金儲けをするにあらず、福祉教育などの事業にも力を注ぎ、決して財閥などは構成しなかったことです。そこが他の近代資本家と異なる点です。
 「私利を追わず公益を図る」という考えは、後継者である孫の渋沢敬三にも受け継がれました。私の好きな在野の民俗学者、宮本常一は、渋沢の設立したアチックミューゼアムで研究を続けたのです。敬三は自身も民俗学民族学の研究者になりたかったのですが、財界や政界の仕事に追われて、研究ができないかわりに、宮本らに資金を出し、研究を続けさせました。

 晩香廬は、渋沢栄一の喜寿(77歳)を祝って、1917(大正6)年に落成し、栄一自作の漢詩の一節「菊花晩節香」から命名されました。栄一はこの洋風茶室建物を内外の賓客を迎えるレセプション・ルームとして使用しました。

 この晩香廬と青淵文庫が、11月11日、無料公開。
 2年前の文化財公開ウィークのときだったか、この晩香廬見学でyokoちゃんと出会いました。yokoちゃんが「出かけます」と書いていて、行き先は書いてなかったのですが、たぶん、晩香廬を見るのだろうと見当をつけて、私もいったら、予測通りyokoちゃんがいて、この人がyokoちゃんだろうと声をかけてみたら、ぴったり当たった。それで、「顔を知っているネット友」になりました。

晩香廬(2012/11/11)

内部での撮影は禁止ですが、外側からガラス窓にカメラをくっつけて撮影するのはフラッシュ焚かなければOKです。


  渋沢家は、都内各地にお屋敷を構えていましたが、晩年の居宅となったのが、飛鳥山に建てた本邸です。洋館和館の住まいは、東京大空襲で焼失しましたが、栄一が客をもてなすために使用した「洋風茶室」の晩香廬と、論語研究の書籍を収める書庫「青淵文庫」の建物は焼失を免れました。なぜなら、近隣の人々が総出で集まり、「渋沢先生の書庫を焼いてはならぬ」と、防火消火にあたったからだ、と、ボランティア解説員が説明してくれたことがありました。それだけ、渋沢栄一の事跡を慕う人が大勢いたのだと。青淵というのは、栄一の号で、栄一は内外の論語関連の書籍を集め、青淵文庫におさめて論語研究を続けてきました。

青淵文庫外観(2012/11/11)

 

 今年の一般公開の目玉は、橋本雅邦が飛鳥山邸の新築祝いとして描いた「松下郭子儀梅竹図」の特別公開。そして、「故渋沢子爵葬儀の実況」の映画上映。
 私は葬式映画の途中までしか見られませんでしたが、渋沢史料館本館での「おぢいさま、80のおいわい」というフィルムで、渋沢一族が総出で、庭で老いも若きも子どもも栄一自身も、とても楽しそうにお遊戯をしているようすがとても興味深かったです。

 栄一は、先妻ちよとの間に一男二女、後妻かねとの間に五男一女の子福者で、さらにそれぞれの子が多産系で、孫は38人。嫡男篤二が財界を嫌い芸術志望であったのをカバーして、嫡孫敬三は学者志望をあきらめて栄一の後を継ぎました。たくさんの事業を興し、子どもにも孫にも恵まれて、子爵栄一の葬儀には天皇勅使や皇后皇太后からのお使いも来るという、栄耀栄華に包まれた一生でした。

 栄一翁に及びもつかぬことながら、ちょっとでもあやかりたい、という一般庶民のために資料館が命日記念に企画したのが「翁といっしょに写真を撮ろう」コーナーです。
 栄一が愛用した中高帽のレプリカをかぶり、ステッキを持って栄一翁の実物大パネルといっしょに撮影してくれるのです。

 私も、中高帽をかぶって、翁とツーショットにおさまりました。写真でもわかるとおり、翁は小柄で、150cmしかない私と並んでもそう違わない。渋沢栄一も徳川慶喜もともに150cmだったそうです。
 小さな体に大きな一生。私も、この「たっぷりの肉のかたまり」にせめて大きな夢を詰め込みましょう。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「文士のやかた小説家の家」

2012-11-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/17
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(8)文士のやかた小説家の家

 11月15日、木曜日の仕事が終わったあと急遽思い立って、仙川にある「武者小路実篤・仙川の家」に寄りました。
 三鷹市山本有三記念館の旧山本邸洋館を見て、「なんだか気恥ずかしい」と感じたのはなぜだったのか、と思ったからです。1年前の秋、2度、「武者小路実篤・仙川の家」を見たときは、ただ「瀟洒な家、文士好みの造りだなあ」と感じただけだったのに。

 2011年11月04日のぽかぽか春庭「華族のおやしき画家のアトリエ作家の家シリーズの中で、武者小路実篤邸のことを書いています。このコラム中に書いたことで、訂正がひとつ。2011年11月04日のコラムには、「実篤邸は、夫人の死後、夫人の遺言によって世田谷区に寄贈された」と書きました。夫人の遺言に「家屋敷は世田谷区に寄贈」と書かれていたことは事実ですが、これは、実篤より15歳も若い夫人が、自分のほうが未亡人になると信じて書き残して置いたことなのです。私は実篤が亡くなったあと、夫人が死んだのだと思い込んでいました。実際には、夫人が75歳で亡くなったあと、90歳の実篤は気落ちして、夫人の死後1ヶ月後に死去。実篤死去のほうがあとなのでした。実篤の遺言がどうだったのかとは記録されていませんが、遺族は夫人の志を汲んで邸宅を寄贈しました。
 
 世田谷や多摩地域で「はけ」と呼ばれる崖があります。実篤邸は、この「はけ」の際に建てられており、邸宅は崖の上に、庭園は崖の下に位置しています。実篤が愛した庭園は、現在は「実篤公園」として一般公開されています。
 山本有三邸の庭は、洋館の南側に明るい感じで広がっていましたが、実篤公園は、晩秋の日差しの中、すでに薄暗いうっそうとした感じでした。

 「旧山本邸」の洋館を「気恥ずかしい」と感じたのはなぜだったか。子どもの頃、ダイニングキッチン+和室6室と縁側という和風の家に育った私は、父に「私は洋館に住みたかった。どうせ建てるなら、洋館にしたら良かったのに。どうして和風の家にしたの?」と、ことあるごとに文句を言っていました。

 私が「和風の家なんかいやだ」と文句を言ったとき、父は怒って、「俺は35歳で家を建てたが、この家をこういうふうにしか建てられなかった。お前も35のときに家を建てろ。好きなように洋風にしたらいい。いいか、棒ほど願って針ほど叶うだからな」と言いました。父は35歳で自宅を建てたけれど、私は還暦すぎても公団の貸し室なのですから、父はあの世で笑って「棒ほど願って針ほど叶うと言ったけれど、針ほどの家でも自力で建てられたか」と言うでしょう。でも、お父さん、姉が結婚したとき家を買う資金は双方の親が折半して出したのだし、妹が家を建て直すときもお父さんがお金を出した。私だけ、家の資金一円ももらわなかったよね。

 「おとぎ話の中の家」みたいな家を願い、「洋館に住みたい」と言っていた、こどものころに思い描いた通りの家が山本有三の家だったので、気恥ずかしかったのです。日本のものより西洋のもののほうがしゃれていると信じていられた無邪気でアホな子どもの願い。日本の田舎に残存する家父長的な封建主義的なものの考え方より西欧近代主義のほうがずっとよいと、単純に思っていた頃のあこがれの家が「旧山本有三洋館」だったのです。

 山本有三はけっして「路傍の石」の愛川呉一のような貧しい家の出身ではなく、呉一が奉公に出た呉服屋の、主人側の家に生まれました。父に進学を阻まれ、家業を継ぐよう強制されますが、進学への意志を貫いて、一高、東京帝大を卒業しました。

 実篤は、15年戦争(日中戦争太平洋戦争)中、戦争賛美者となり「我が国が強いのは、国体のおかげである」なんてことを書き散らしたために、戦後は公職追放処分を受けます。一方山本は、共産党シンパかと疑われて、戦争中は筆を折っていたため、戦後はすぐに復活し、1947年からは衆議院議員として政治家になります。
 実篤は、公職追放が解けた1951(昭和26)年には文化勲章を受けました。

 実篤は1885年生まれ、山本有三は1887年生まれ。2歳違いの同世代なのです。実篤は公家華族の子爵家に生まれ、農民として生きるための「新しき村」を建設するなど、上から下りて平らになろうとした人。有三は田舎町の呉服屋のせがれとして生まれて、上昇志向を持ち続けた人。
 私が山本有三の洋館を気恥ずかしく感じたのは、私も田舎町に生まれて、少しでも這い上がりたいともがく子ども時代青春時代を送ったからだろうと気づきました。

 西欧近代主義の反映である、明治以後の近代建築。洋館もそのひとつですし、復元なった東京駅もそのひとつ。私はかって、東京駅を西洋キッチュと評したことがありました。西洋に追いつきたいと必死に背伸びする日本が作り出した「かわいいおとぎの国の駅舎」が東京駅である、という論です。山本有三の洋館も、帝国大生から国会議員へと這い上がっていった山本が、自身の夢を実現した「昭和の洋館」でした。

 子ども達を独立させ、70歳で夫人と二人だけで住むための瀟洒な「千川の家」を建てた実篤。池のある庭と静かな落ち着いた家を望み、決して華美な造りではない、千川の家を好もしく思い、山本有三の家を「子どもの頃望んだような洋館で気恥ずかしい」と感じる、還暦もだいぶんすぎた私。ああ、年をとると家への好みも変わるのだなあと実感しつつ、団地2DKのごちゃごちゃの部屋に帰りました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「山本有三記念館前の路傍の石とマララの日記」

2012-11-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/15
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(7)山本有三記念館前の路傍の石とマララの日記

 2012年秋の「東京都文化財ウィーク」
 毎年、特別公開の建物見物を楽しみにして都内を歩きまわっていたのですが、今年は文化財公開パンフレットがなかなか手に入らず、村山家住宅の見学を申し込んだのですが、すでに定員締め切りという往復葉書の返信が届きました。よほど早めに申し込まないとすぐ満員になってしまうみたい。

 個人の邸宅が見たいなあと思って、三鷹市にある山本有三記念館を11月1日の午後、訪問しました。こちらは通年公開で、文化財ウィークにわざわざ行かなくても見ることができる建物ですが。
 三鷹駅から玉川上水に沿って「風の散歩道」という通りを10分ほど歩くと記念館がありました。

 山本有三記念館の建物は、小説家山本有三(1887 - 1974)が、家族とともに1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで住んだ家です。有三はここで代表作「路傍の石」や戯曲「米百俵」を執筆しました。現在は、三鷹市が管理し、有三の顕彰や資料の保管を行っています。

 門の前に、大きな石が据えられています。山本自らが気にいった石を、新築の際に門前に据えたもののようです。私のイメージでは、路傍の石というのは、学校の帰り道に片足で蹴りころがしながら帰る大きさの石だったので、2mもありそうな大きな石は予想外でした。

 建物は、昭和の洋風邸宅の典型的なこしらえで、応接間や家族がくつろぐスペースは洋間で、書斎は和室でした。昭和の小金持ちが作る建物はこういう風であったかというイメージそのままで、私が子どもの頃、「お父さん、どうしてこういう和風の家を建てたの?私、畳に障子や襖の家でなくて、ドアやベッドの洋館に住みたかった」と文句をつけたとき、こんな家を想像していたのでした。なんだか気恥ずかしい洋館でした。

 「路傍の石」の物語。
 主人公の愛川呉一少年は、成績優秀品行方正なのに、中学校の学費が捻出できず、呉服屋のでっちに出されます。父親が政治運動に入れあげているために、母親の内職仕事で喰うや食わずの境遇だからです。物語の中に労働運動に関わりそうな記述がみえたとたん、当局から横やりが入り、1937(昭和12)年、山本有三は執筆継続を断念します。戦後、山本は続編を書き出し、呉一が数々の苦労試練の末、自力で出版社を起こそうか、というところまで書き足しますが、完結することなく、物語は中断しています。

 田中真紀子文科大臣が大騒ぎを引き起こした、大学設置認可問題。
 確かに、現在大学は、大学進学希望者数よりも大学全体の定員のほうが多く、選ばなければ、進学希望者は大学と名のつくところどこかに進学できます。
 どこに進学するかというより、何を学び、どう自分を確立していくのかが問題だとは思うのですが、これから先も進学熱は下がらないでしょう。大学の中には、この先倒産するところも出るなど、淘汰はおこるでしょうが、学びたい人が貧しいゆえ学ぶ機会を奪われる、というようなことだけはもうない世の中にしたいです。

 紛争やまぬアジアの地では。
 イスラム教徒過激派の拠点があるアフガニスタンとの国境地帯のすぐ近く、パキスタン北西部にスワト地区があります。スワト地区に住む14歳の少女、マララ・ユスフザイさんは、大好きな学校に通学バスで通っていました。2012年10月9日、マララは下校途中、突然バスを襲ってきた2人の男に銃撃されました。男達は「マララはどの子だ」と聞き、あきらかにマララを狙っていました。マララは頭を撃たれ、意識不明の重体で、治療のためイギリスに搬送されました。

 パキスタン最大の過激派組織「パキスタン・タリバン運動」が犯行を認める声明を発表しました。マララはイギリスのBBC放送のブログに日記を公開し、タリバン支配下の惨状を世界に告発したのです。タリバンはイスラム法に基づく厳格な統治を行い、女性が学校へ通うことを禁止しました。マララは、「女の子も学校へ行きたい」と日記に書きました。2009年当時11歳だったの女の子がペンネームを使い、ウルドゥ語で書いた日記。

2009年1月3日「私は怖い」
 「学校に行くのが怖い。タリバンが女は学校に行くことを禁止すると命令したからだ。クラスの27人のうち登校したのは11人だけだった」。
2009年1月14日 「もう学校に行けないかもしれない」
 「嫌な気持だった。校長先生はあすから冬休みと言ったけど、学校がいつ再開されるのかは言わなかった。タリバンが登校禁止の命令を実行すれば、二度と学校に来れないことは皆知っていた」
2009年1月14日「銃撃戦の夜」
 「銃撃戦の音がひどくて、夜中に3回も目を覚ました。きょうはタリバンの命令が実行される日の前日だ。友達が来てまるで何事もないかのように宿題の話をしていた」
 2010年
 「圧制や迫害されている人を見たら反対の声をあげましょう。あなたの権利を奪おうとしている者に反対しましょう。怖がってはいけません」

 
 マララの日記はタリバーンによって「西欧かぶれでイスラム教に違反する」とみなされ、ついに命を狙われました。マララはイギリスで治療を続けていますが、いまだに危険な状態から脱することはできません。

 世界には、こんな思いまでして学びたいと懇願する少女もいるということに、衝撃を受けました。貧しさで学ぶことができなくても、呉一のように、なんとか手段を得て新たな世界を切り開くこともできる。しかし、宗教の掟によって学ぶことを禁じられる中、学び続けようとしたばかりに殺されようとしたとは。

 マララさん、助かってほしいです。そして、平和な社会で学び続けることができますように。
 世界中の子どもたちに、学ぶ機会と新しい世界を知る喜びを!

<つづく>
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ぽかぽか春庭「船虫口説・イクちゃんの芝居」

2012-11-14 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/11/14
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(6)「船虫口説」イクちゃんの芝居
 
 10月28日、知人の出演している芝居を見てきました。強い咳が出ている最中の芝居見物になってしまい、息を殺して咳を我慢していたので、苦しかった。
 あくたーず工房プロデュース公演「船虫口説~オチョロ船まぼろし画帖」という劇で、猪野建介作、雁坂彰演出。10日28日の楽日公演。中野テアトルBONBONにて。
 オチョロとは、瀬戸内の港町遊郭での方言で「お女郎」のことです。

 明治の廃娼令のあと、各地で「自由廃業」をしてお女郎の身から抜け出そうとした女性たちがいました。女郎の廃業を助けようとしていた男と、苦界に泣くオチョロたちの物語。
 浮花というオチョロは、自由廃業をしようとして果たせず、今その身を置く浦富楼よりさらに格下の淫売宿に売られていきます。労咳持ちの浮花。劣悪な淫売宿のその先には、咳をしながら喀血しながらの死が待つばかり。(浮花の儚げな咳に比べて、時折強く咳き込んでしまう私、恐縮でした)

 慕っていた姉が、家計のために売られていった経験を持つ宗介。お椀の行商人です。宗介は、お椀を売り歩く陰で、キリスト教救世軍の兵士としてオチョロ(お女郎)たちに自由廃業をすすめます。しかし、彼女たちは耳を貸しません。廃業したその先には、さらなる地獄があるだけだということを知っているからです。

 人身売買にあたる女郎の売り買いは、不平等条約改正を狙う政府にとっての痛点でした。「日本は人身売買を行う野蛮国」と言われないため、時の政府は、「娼婦は自由にその仕事をやめてよい」と廃娼令を公布しました。廃娼令を全国最初に決議したのは、1882(明治15)年の群馬県議会とか。
 しかし、女郎をやめたところで女たちにはほかに仕事もなく、飢えずに生きるためには娼婦を続けるしか生きようがなかった。

 ジャズダンス仲間だったイクちゃんは、銀波という名のオチョロの役。銀波は、自由廃業に批判的で、抜け出そうとするオチョロをいじめる側です。イクちゃんの演技は、メリハリがきいていて、自分が置かれた「風待ち港のお女郎」という境涯のなかで、気強く生きようとする女性像を作り上げていたと思います。

 ひとつ気になったのは、女郎たちの身の上を話すとき、役者が「苦界」を「くかい」と発音していたこと。「くかい」は「苦海」であって、苦界は「くがい」です。ひごろ有声音無声音の発音区別が苦手な留学生に「柿と鍵はちがうっ。自信と指針はちがう!」と、清音濁音区別を厳しく言っている商売柄、「くかい」と「くがい」は、意味が異なっていることに役者が気づいていない、ってところが気になりました。(たぶん、演出家も見逃していた)

 今の世では、女郎達の「苦界」といっても、その世界がわかる人はごくわずか。私の世代から下の世代では、すでに赤線も廃されたあとですから、苦界のイメージは「ソープ界隈」ってなものになっているでしょうが、ソープ街と苦界は別の世界。
 苦界は、人の世の蟻地獄。一度落ちたらその身を食い尽くされるまで、抜け出すことはできません。あっけらかんと「大学生ソープ嬢、学生バイト4年間で働いて貯めた2000万を元手に店を始める」なんていう昨今のフーゾクと、親や夫にその身を売られ,一生を性奴隷として働かされた上、無残に死んでいく女たちのむごい運命とでは、同じ身を売るにも天地の差。

 苦界の悲劇を知る人もいなくなった現代だからこそ、廃娼令の前もあとも、お女郎たちが悲惨な運命の中、必死に生きた心を伝える小説も芝居も大切です。つらい境遇のなかで泣き叫び、それでも、生き抜いていったであろうひとりひとりの心を。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「愚痴ぐちグチ」

2012-11-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/13
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十二単日記2012年秋(5)愚痴ぐちグチ

 10月15日月曜日。仕事が思ったより早く終わったので、駅ビルでお総菜を買って、姑のところに行く。牛蒡サラダ、キノコサラダなど。
 駅に着いて電話したけれど、出ない。土日の週末に泊まった夫に電話したら「月曜日には詩吟に出かけるかも知れないと言っていた。出かける気になったのは、元気になってきた証拠。詩吟はたぶん、1時半か2時からだから、4時前には終わるだろう」と言う。
 しかたがないから、駅前の中華屋に入って、中華お総菜が好きな姑のために、レバニラ炒めを注文。娘が夕べ炊いたお赤飯のおにぎりを入れておいたお弁当箱にレバニラを詰める。入りきらない分は、お腹につめる。

 3時45分に電話してもまだ出ないので、しかたがないから、踏切脇のコンビニで時間つぶし。どんなものを売っているのか、一回り。最近の姑は、コンビニのお弁当などもいやがらなくなってきたというので、親子丼をひとつ買う。これは明日の分にしてもらおう。
 姑宅の鍵は、合い鍵が作れない防犯しっかりの型で、夫と娘が持っており、私には無し。前もって行くことがわかっていれば、合い鍵を借りたのだけれど、15日は、急遽行くことを決めたので、姑が居ることを確認してから玄関前に行かないとならない。
 4時にもう1度電話したら出た。出かけていたのではなくて、昼寝していたのだと。

 コンビニ親子丼を冷蔵庫に入れ「これ、賞味期限は18日までですよ」と、念をいれる。私は鉄の胃袋なので、賞味期限を1日過ぎて食べてもなんでもないけれど、姑が期限切れのものなんか食べてお腹こわしでもしたら、ヨメが悪いってことになるじゃないの。
 姑のおしゃべりを2時間聞いてから、買ってきたレバニラやサラダを並べて、お赤飯をチンして、夕食。孫娘が炊いたおこわと思うとおいしいらしく、「医者から糖質は控えるように言われているけれど、たまにはいいわね」とごきげんで食べています。

 姑のおしゃべり、山形時代のこどものころの話は、何度同じ話を聞かされても、おとぎ話のように何度でも聞いていられるのだけれど、今日はいつもの「娘婿がしょうもない人だったことの愚痴」だった。

 姑にとっての最愛の娘(夫の姉)が癌になって、50歳の誕生日前に死んでしまったことは、姑人生最大の痛恨事。二番目の痛恨事は、その長女の孫娘が、姑の意に染まぬ結婚をしてしまったこと。子どもが二人生まれた今でも、頑としてこの結婚を認めず、ひ孫に会うこともしない。
 「娘が不安定な、定期収入のない人と結婚したいっていったとき、もっと強く反対していればよかった。翻訳家なんてこれほどしょうもない仕事だって知らずに許してしまったので、娘は貧乏暮らしが続いて、苦労してガンにもなってしまった。だから、孫の結婚でも、私は今度は、絶対に許そうと思わない」という無限ループの話を、今回も拝聴。

 この話、何度かはおとなしく聞いたのだけれど、何回目かに同じ愚痴を聞いたとき、「でも、お母さん、不安定な定期収入のない人と結婚して、そのあとずっと貧乏暮らしで苦労続きだったのは、私も同じですよ」と、言ってやった。あなたの息子だって、あなたの気に入らぬ娘婿と同じじゃないの。

 それで、その後からは、姑はこの愚痴の最後に付け足すようになった。「あなたは、自分で仕事を見つけて働くようになったから、子ども達もちゃんと大学まで出たけれど、むこうの孫達は、一番上だけは私が援助して大学をだしたのに、ああいう結婚をしてしまって。二番目と三番目は、高卒以来、フリーターだもの」と、愚痴は続く。

 フリーターを蔑視する姑に告げる。現代社会では、正社員とか安定した暮らしを望んでも得るのは難しいし、若者の半数は正社員ではない働き方をしているのだから、と、現代社会一般論に話をむけたのだけれど、姑にとって、現代社会の問題点なんかはぜんぜん問題じゃなくて、世の中社会がどうであろうと、自分の孫だけは「人様に自慢できるようなところ」に安定した職業を持ってほしい、ということなのだ。

 この価値観、こののちも変わらないだろうと思う。で、この先も同じ愚痴を何十回と聞くことになるのだろう。これもヨメの勤めとかや。
 姑のほうから「同居して」と言わないのをいいことに、通いのヨメで申し訳ないけれど、私だって、私が働かなければ、一家で飢える。姑の愚痴の聞かされ役くらいで勘弁してもらいたい。これもあれも、「不安定な、定期収入のない人と結婚した私」のせいなのだから。
 夫が自営で稼いだ分は、すべて夫だけが使っていて、家族には何の恩恵もない。「不安定な翻訳家」のほうが、まだしも、家族を養ったと言えるんじゃないの?
 「不安定な自営業より、不安定な翻訳家のほうがまだまし」と言いたかったけれど、これ以上姑の体調が悪くなると私が困るから、だまって、姑の話を拝聴。たぶん、姑は、自分の息子が家族を養うために働いていると信じているだろうから。

 姑のところに10月15日に行った翌日あたりから咳が出始めて、近所のクリニックに通ったのだけれどいっこうによくならず、咳がようようおさまるまで1ヶ月かかりました。咳している間は「そんな咳していて、おばあちゃんに風邪うつしたら困るでしょう」と娘に言われて、訪問を控え11月はまだ姑のグチをきいていません。
 咳がおさまったら、また、同じ愚痴を聞きにいきましょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ちえのわ録画再生日記1992年11月07日ヌレエフの栄光と悲惨」

2012-11-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/11/11
ぽかぽか春庭日常1茶飯事典>ちえのわ録画再生日記1992年20年前の今日、何をしていたか(19)1992年11月07日「ヌレエフの栄光と悲惨」

ちえのわ録画再生日記1992年十一月七日 土曜日(晴れ)
「ヌレエフの衰弱した姿を見て、肉体の栄光と悲惨を思うこと」

 飯星景子の手記のついでに、『文春』をすみからすみまで見て、一番衝撃を受けたのは十月七日の撮影というヌレエフの姿だった。病気療養中とは聞いていたが、たいへんに衰えた姿で、ショックだった。
 ヌレエフは五十四歳。ダンサーとしての盛りを過ぎた年とはいえ、長年のパートナーであるマーゴット・フォンテーンは六十歳過ぎまで現役で踊っていたのだから、健康を維持していたなら、まだまだ踊れる年のはずだ。

 同世代を生きたと思えるダンサーの中に、ミハイル・バリシニコフを筆頭として何人か好きな踊り手がいるが、私にとっては、ヌレエフは「ちょっと前の世代」という感じがする。しかし、ついこの間まで、森下洋子らを相手にパ・ドゥ・ドゥを踊っていたのだし、十分に「現代のダンサー」である。
 マーゴのジュリエットを相手に、しなやかに熱情的に、繊細に力強く踊ったロミオ、ノーブルとは、こういう姿だと観客を納得させる王子役。etc.

 しかしグラビア上のヌレエフはやせ衰え、両脇を抱えられなければ立つこともできない姿で、胸にかけられた「芸術文化勲章」が悲しくみえる。
 どのような姿を人目にさらしても、勲章という名誉を自らの手で受けたかったのか、舞台に立つチャンスを与えられれば、どんな無理をしても観客のコールを受けねば気が済まないのか、われわれ凡人にはわからない。
 しかし己の肉体を元手に、肉体をさらすことによって表現する役者やダンサーは、ことのほか自分の肉体のイメージを守ろうとするのではないのか。ヌレエフの姿は、あまりにも観客に対し無防備で、自らを「さらしもの」とする覚悟なのかと思うほどだ。
 闘病は八年続いているというから、世間の噂する「エイズ感染」ではないのかもしれない。エイズなら、症状が表に現われたら、普通は三年以内で死ぬというから。

 スーザン・ソンダクの『陰喩としての病気』にはまだエイズは取り上げられていないだろうが、「エイズ」という病気に込められた陰喩は、古代のハンセン氏病と中世のペストと、梅毒とその他もろもろのイメージ全てを包括している。

 確実に死に至り、死に際して、たいていその身体は醜く変形している。やせ衰え、さまざまな症状がからだ中に広がっている。広告の写真に、エイズで死のうとしている患者を家族が取り巻いているものがあったが、家族やホスピスがどんなに患者に暖かく接しているか、という様子を見せられても、エイズに付された恐怖のイメージを人々の意識から拭い去ることはできない。
 エイズのイメージのうち、最も人を畏怖させるものは「皮膚の上に具体的に現われる醜さ」への恐怖ではなかろうか。

 特効薬がなかったころの、ハンセン氏病や梅毒には「身体がドロドロと溶けて変形する」というイメージがつきまとっていた。ハンセン氏病は感染力が弱い伝染病であるのに、過去、かくも忌み嫌われ恐れられたのは、この「身体の崩壊」というイメージによるものだったのではないだろうか。

 「死」そのものは、避けて通ることのできない人間の運命である、として受け入れるとしても、「崩壊する肉体」のイメージを受け入れることのできない人は多い。「虫」に変身したザムザを、家族として受け入れることを拒んだように「崩壊した身体」を顕現するエイズを受け入れることが怖いのだ。

 バスケットボールのマジック・ジョンソンが現役復帰を断念した、というニュースを痛ましい思いで読んだ。オリンピックという祭りの場で、一回限り彼を受け入れ、共にプレーした同僚たちも「シーズン中ずっといっしょに過ごすことはいやだ」と拒否したのだという。

 オリンピックという祭りの場では、私もマジックの華麗なプレーに「崩壊する身体」のイメージを重ねあわせて見ることはしなかった。マジックは屈強でしなやかなバネの身体を躍動させていた。しかし、ボールを追っていない時、人はマジックの体に「いつかはドロドロと崩壊していく肉体」のイメージを重ねる。

 同様のイメージがマイケル・ジャクソンにもしつようにからみつく。何度も整形手術をくり返し、元の姿と完全に決別して、限りなく黒人らしさから離れ、美しい姿形を追求してきたマイケル。何度否定しても「マイケルの鼻は、もう再手術不可能なほど崩れてしまって、修復できない。」というような噂が絶え間なく流される。
 ファンはマイケルの姿が崩れ去るのを、心ひそかに望んでいるのではないか、とさえ思うほどだ。人工によって美しく作りあげられたマイケル。人々はその姿を楽しむと同時に、美の崩壊を予感することによって、より強い感慨をもつ。『カラヴァッジョの果物篭』の果物が腐っているのを知るのと同じかもしれない。

 マイケルは、自分の姿がもはや鑑賞に耐えないものとなったことを自覚したら、おそらく、広大な屋敷で例のウォータードームの中に身を潜めて、決して人々の前に崩壊した身体を見せることをしないだろう。

 私が、『文春』のグラビアを見て驚いたのは、肉体の完璧さをステージに現出することを仕事としていたダンサーが、なぜ、ステージにあえてやせ衰えた病身を登らせたのか、という点だ。勲章を手にしたヌレエフへ、観客の拍手は十分間も続いたという。
 彼の意識の中では、ダンサーとしての彼の仕事は終了しており、今は舞台演出家として来期に上演予定の『コッペリア』の演出を担当しうる人気を栄光をもっている、ということをアピールしておきたかったのかもしれない。

 しかしながら、私にとってはヌレエフは不世出のダンサーであって、至高の肉体を誇る王子様なのだ。衰え、立つこともできないヌレエフの姿はただただ悲しい。
 美しい花も、豊穣な果物も、地上の美は、すべて枯れ、腐り、崩れ去るもの。それは、わかっていても、「崩壊する身体」はどの記号より強く、生きとし生きるもの共通の悲しみとして、グラビアのなかにやっと立つ。

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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/11/10 のつっこみ
 以上、1992年10月下旬から11月上旬の日記の再録でした。どうして毎日こんな埒もない日記を長々書いていたのかと言うと、日記中にもあるように、修士論文を書くために「文庫本の切り抜き」という地道な作業を続ける日々だったからです。日本語学統語論で論文を書くために、第一にしなければならないのは、きちんとした用例を数多く集めること。このコツコツとした作業が面倒だった。当時でも、国立国語研究所などでは、大型のスーパーコンピュータをつかって、デジタル化された小説などを分析していたのですが、私のような貧乏学生は、そんな高額な機器にたよることもできず、指導教官に言われた通り、手作業での用例集めをしていました。

 いまでは、パソコンに電子書籍をいれるだけで、手軽に用例など集めることができるようになっています。私が3ヶ月かかって集めた用例など、一日あれば、パソコンのクリックひとつで集められるでしょう。20年前にパソコンで手軽に作業ができたなら、私も日本語学を続けられたのかも知れません。修士論文から18年後に書いた博士論文は、用例なんぞ集めなくてもよい「社会文化」という分野での執筆になりました。

 1992年年末。修士論文執筆当時、9歳の娘と4歳の息子の遊び相手をしながら洗濯機をまわしつつ夕食を作り、ふたりをお風呂にいれて寝かし、さて文庫本切り抜きをしようかと思うと疲れてしまい、よもやまおしゃべりをワープロで書き散らす以外に気晴らしの方法がなかった。よくもこんな埒もないことを長々書いていたと思うけれど、あれまあ、いまでも同じですね。つまらぬことをダラダラ書き続けることが私の気晴らしなのですから、そんなダラダラにつきあって、読んでくれた奇特な人がいたとしたら、感謝感激です。

 このあと、この1992年の日記「ゴールデンボウ」は1994年2月までダラダラと続き、1994年2月からは、10歳の娘と5歳の息子を実家に預け、背水の陣で中国に単身赴任したときの記録となります。
 あれもこれも、ふりかえれば、「よくぞ生き延びてきたなあ、生きてるだけで丸儲け」の気分です。
 この先も「生きてるだけで万々歳」と思って生き続けます。

<おわり>
コメント (2)
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