不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

挑戦をつづける人々2011年4月

2010-08-22 09:04:00 | 日記
2011/04/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>挑戦を続ける人々(1)あこさんとけいこさん

 4月25日、2週間遅れで始まった新学期。やはり、日本に戻ってこない留学生もいます。私立の中国人留学生の中には、「日本に行かないで、と泣いている親を振り切って、再入国した。とにかく卒業を目指して留学を続ける」と語った学生もいました。親にしてみれば、放射能の危険はまだ去っていないだから、我が子を引き留めたいのも仕方のないところでしょう。うちの息子が原発事故を起こしている国へ留学しようとしたら、、、、逆の立場なら親として心配がつのる気持ちはわかります。
 国費留学生のミシェル君、フランスでは箱入り息子だったようで、日本留学で羽を伸ばし、男性ファッション誌のモデルのアルバイトが楽しいと言っていたのですが、留学中止を決定しました。今期も彼を受け持つ予定だったのに、会えなくなって残念です。

 さまざまな分野で変更がありました。3月に東京で開催されるはずだったフィギュアスケートの世界選手権、ロシア開催に変更し日本選手の挑戦が始まりました。開催時期が一ヶ月先送りになったことがよかった選手もいたし、調整がうまくいかなかった選手もいたでしょうが、日本男子3選手の中で一番若い小塚崇彦が銀メダルを獲得。靴のアクシデントがあった高橋選手やジャンプミスをしてしまった織田選手も、これからも挑戦を続けていくことでしょう。

 3月11日に大地震が起こる前の日のこと。3月10日木曜日は、視覚障害の友人アコさんのガイドヘルプをしました。
 アコさんは、昨年大阪に引っ越しました。一人で白杖で歩くには練習が必要で、大阪では、まだ慣れていない道を歩くことが難しい。ようやく最寄り駅まで往復できるようになったとか。

 大好きなお芝居を観るのも、慣れていない大阪の劇場ではなく、東京の劇場まで新幹線に乗ってやってきます。新幹線なら、駅の中は駅員さんが親切に案内してくれるから大丈夫だし、駅を出たあとは知人友人の誰かがガイドヘルプをするので、なんとかなる。

 私のガイドヘルプ担当は、「赤羽駅から王子駅までの電車と王子駅から東京都総合身障者スポーツセンター宿泊所」までの案内です。アコさんは「視覚障害者の観劇を推進する会」を主宰し、いろいろなお芝居を観て歩いています。私も12日土曜日の公演にお誘いいただいたのですが、生憎と12日土曜日13日日曜日は研究会への出席が先約でありました。それで、アコさんの宿「障害者スポーツセンター宿泊所」への送り迎えのガイドヘルプを引き受けました。

 しかし、アコさんは12日に予定されていたお芝居を観ることなく大阪へ戻りました。11日12日の交通マヒの中、帰宅難民も出た東京からの脱出、視覚障害の不自由な身で、たいへんだったろうと思います。よくぞご無事で帰阪できたと胸をなで下ろしました。

 翌日がたいへんな日になるとは予想もせず、10日の夜はアコさんとのんびりすごしました。障害者スポーツセンター宿泊所にチェックインしてから、歩いて10分ほどのところにある、アコさんの友人の鈴木敬子さんのお宅を訪問しました。鈴木敬子さんは昨年末に自伝エッセイを出版しました。私も一冊購入し、サインしてもらいました。

 敬子さんは、脳性マヒで車椅子生活、56年間。差別に耐え、福祉関係の役所と闘い、一人で自立して暮らす福祉を望んできました。併発の腎臓病が悪化して臨死体験するなど、つらい生活のなか、いつもにこにこの笑顔で暮らす敬子さん。身障者福祉にも歯に衣着せぬ意見を述べています。

 『車いすひとり暮らし』、ぜひご一読を。できるなら、ご近所の図書館にリクエストを出して下さい。今、図書館購入予算が減らされているところが多く、ベストセラーの希望ばかりが優先されてしまいます。このような良書こそ、リクエストしてください。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3962817

 この本が並みの「自分史」とは違うのは、車椅子障碍者として生きてきた本音を語っているからです。苦労話を自慢していない。読む価値はある。少なくとも、障碍者教育に携わろうと志す学生には、必読。車椅子でも「五体不満足」の乙武君のように優れた能力を発揮でき環境に恵まれた人だけでない。都営住宅で、老人介護を受けている老親とふたり暮らしで、それでも毅然として人権を訴える、「フツーの障碍者」の視線を知ってほしい。

 視覚障害者のアコさんは、「視覚障害者にも晴眼者と同じように演劇を楽しむ機会を与えて欲しい」と、活動を続けています。読書に関しては、私も図書館音読サービスをしてきたし、全国でもかなり視覚障害者の読書環境はよくなってきました。特にパソコンの読み上げソフトは機能が向上しています。しかし、生の演劇を見る際に、視覚障害者のための音声ガイドはまだまだ不足しています。

 アコさんは、視覚障害者が「憲法で保障されている文化的で健康的な生活」をすごすために闘かい続け、敬子さんは、車いす生活者が自立して生きていける環境を求めて闘い続けています。ふたりとも、本当に尊敬できる闘士だと思います。
 今日できることでも「明日で間に合うことは明日すればよい」というぐずぐずな生活をおくる私。軟弱者の私でも、闘うふたりの姿を見ていれば、よし、私も少しはがんばるか、という気になります。

 近年、アメリカで「ハンディキャップド」に代わって「チャレンジド」という語が障害を持つ人々を表すことばとして用いられるようになっています。「神様からチャレンジという使命を与えられた人」「試練に挑戦する使命を与えられた人」という意味です。視覚障害を持つ教師、塙啓一郎(佐々木蔵之介主演)を主人公とするNHK土曜ドラマのタイトルが『チャレンジド』だったので、多くの人に知られるようになってきた外来語です。

 障害者と漢字表記すると「害」という文字が嫌だから「障がい者」と書きたい、という人、「障碍者」と書くと言う人、日本語漢字熟語の「障害者」は、文字へのこだわりがあり、使いたくない人もいるのです。
 外来語嫌いの人もいるでしょうが、「障壁に挑戦する人々」という意味のチャレンジドが広まっていくといいと思います。
 私の姪の息子もチャレンジドのひとり。4月に入学した養護学校高等部でパン作りに挑戦しています。夫の姪のお連れ合いも車椅子のチャレンジド。2児のパパさんとして挑戦中。

<つづく>
00:21 コメント(2) ページのトップへ
2011年04月30日


ぽかぽか春庭「チャレンジド青い鳥」
2011/04/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>挑戦を続ける人々(2)チャレンジド青い鳥

 挑戦を続け、闘い続けるチャレンジドとして尊敬する人のひとりが、九州に住むハンドルネーム「青い鳥ちるちる」さん。カフェ日記に詩を載せているのを読ませてもらってきたウェブ友です。オフラインで実際に会ったのは2度だけですけれど、私にとっては心の師匠ともいえる人。

 ちるちるさんと2度目にあったのは、2008年7月のことでした。東京の病院に入院して、脳性マヒによる痛みを軽減するために手術を受けたのでした。
 脳性マヒの車いす生活で、身体のあちこちに負担が出て痛みが出てきていたのを、手術すれば、もしかしたら杖で身体を支えて自力で歩けるまでに回復できるかもしれない、と、明るく希望を語っていました。

 この日の思い出は下記につづってあります。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/member/diary1st.cgi?ppid=haruniwa&num=1607&mode=edit

 2008年の暮れに九州の病院で再手術を受けたあと、2009年も入院を続けてリハビリも頑張っていて、手が前より動かせるようになった、など喜んでいたのに、2009年9月に、突然症状が悪化し、首から下がまったく動かない、という事態に至りました。以来寝たきりで入院介護を受けていましたが、長引く入院生活のため退院され、2010年8月から自宅での24時間介護生活に変わりました。

 妹さんの献身的な看護がつづき、ヘルパーさんが24時間体制で介護してくれているとはいえ、一時は声も出せなくなったそうです。首から下がまったく動かず声も出ないとなると、意志を伝えるにもどれほど不自由だったことだろうと思います。

 しかし、ちるちるさんは未来を諦めたことがないのです。
 2011日3月には、新ホームページを立ち上げて、「声が出せるようになった」と、自作の詩「どーんと来い」を朗読して、ホームページ上に公開してくれました。

 この詩『ど~んと来い』は、ヘルパーさんたちが絵やキーボード打ちなどをボランティア分担し、カレンダーに仕立てられました。このカレンダーは、新年のごあいさつとともに青い鳥さんからのご年賀として配布されました。私も壁に貼って、励みにもしてきたカレンダーです。

 その詩を朗読して「声がだせた」と希望を語るちるちるさん。
 ほんとうにすばらしいチャレンジャーだなあと思います。
 「早く指が動くまでに回復して、自分でパソコンを操作したい」というのが、声の回復の次のリハビリ目標です。

 ちるちるさんを思うと、「挑戦者」とは本当にちるちるさんのような気高い精神を持って生き抜いている人のことをいう言葉だなあと思います。
 私は言葉で応援するしかできないのだけれど、挑戦し続けるちるちるさんを、いっしょうけんめい応援します。ちるちるさんの朗読を聞くことが私の応援です。

 ちるちるさんの「詩の朗読」ホームページです。
http://chiruchiru77.blog.bbiq.jp/blog/

 4月9日、ちるちるさんからメールが届きました。春庭への詩のプレゼント。
===============
春さんのために おまじない☆☆☆(笑)

「 心の笑顔 」  2011.4.8
心細く ふるえる
不安がいっぱい つまっていく
あったか〜い息を
心にふ〜〜〜〜っと吹きかけてみた
ふわふわっと心に
しろーい光たちが集まってくる
ぱっと火を灯すと
ゆらゆらと燃えだす
蝋燭の光でも 
あったかいね・・
ふるえなんか とまったよ・・
心の笑顔が春となる
希望の花が咲きだすよ・・
明日を信じて 生きていこう
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
たった今 できたてほやほやの おまじないです(笑
春さんを想って書きました
===============

 青い鳥ちるちるさん、すてきな詩、うれしいです。明日、希望の花が咲くように「春庭の心のおまじない」にしていきますね。

 ちるちるさんにはふたりの妹さんがいます。ひとりは5才下。ひとりは双子の妹さんなので同じ年。同じ年齢の妹がいるなら、年上の妹がいてもいいかなと、私は年上の妹にしてもらおうと決めています。
 私の夫の姉は7歳年下の人と結婚したので、私にとっても7歳年下の義兄ができました。私の年齢はちるちるさんより一歳年上ですけれど、三人目の妹だと思っています。

 ちるちる姉さんは、私の心が冷えて固まってきたとき、ふうっと温かい息をかけてくれます。そんな姉さんを持っている私は、幸運です。

<つづく>


2011/05/01
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>挑戦を続ける人々(3)ビ・キドゥデの歌

 4月29日から5月8日まで、連続10日間ゴールデンウイークという会社も多く、息子の大学のように、5月2日は、休みにして、その代わり海の日7月18日は授業がある、などの措置をとっている学校もあります。
 海外旅行の話題でにぎわう平年のゴールデンウィークに比べ、「震災復興ボランティア」に参加する学生社会人の話題が新聞紙面に載るのも、頼もしいことです。2011年のゴールデンウイークに瓦礫撤去や炊き出し、子ども会の手伝い、どんな形であれ被災地でともにすごしたという体験は一生の思い出になるだろうと思います。

 一方、私が月曜日金曜日に出講しているのは国立大学なので、5月2日も5月6日も、暦通り授業があります。ゴールデンウイークは飛び石で3連休が2回。5月6月7月は、土曜日は4月に出来なかった授業の振り替え出講日があり、これから先、週6日働くことが続くので、このゴールデンウイークも、体力維持の日々にあてます。要するに寝てよう日。
 留学生が少なくなった教室ですが、少人数クラスだからこそできる手厚い教育をしていこうと、講師たちは熱を入れ、休日返上で授業準備です。授業スケジュールがずいぶん変更になりました。

 春庭担当の「音響音声学」という授業、授業を引き受けた最初のころは、日本語音声学のみを扱っていましたが、自分の勉強も兼ねて、音響学の物理学的な部分も少しずつやっています。フーリエ解析なんていうのを、四苦八苦しながら理解しようとしていますが、数字や数式が出てきたら私の脳はストップしてしまいます。
 で、???となってしまう脳を立て直すために、2010年は「世界の音響」というコーナーで、民族楽器やワールドミュージックを学生に聞かせるようにしてきました。アフリカ音楽や南太平洋の楽器などを紹介し、学生に世界の音楽はロックやラップばかりではないことを知らせました。

 NHKで2008年3月に放送されたドキュメンタリー番組「はだしの歌姫の一世紀~ザンジバル・風待ちの島で~」の再放送を、2011年2月17日に見ました。(10:00~11:50)語り、樹木希林。
 伝説の歌姫ビ・キドゥデの歌声とインタビューに合わせて18世紀からのザンジバルの歴史を紹介しています。

 ザンジバルのディーバ。スワヒリの歌姫ビ・キドゥデBi Kidude。1905~1910年頃にザンジバル島に生まれました。イスラム教の島ザンジバルには、黒人の出生を記録する書類はないのですが、彼女の記憶などを総合して2008年には「推定95歳」と判断されました。2011年の今ではおそらく98歳。100歳近いビ・キドゥデは、ザンジバル現代史の生き証人であり、東アフリカ・スワヒリミュージック「ターブラ」の現役の歌手。(「ビ」は、フランス語の「マダム」にあたる女性敬称です)

 ビ・キドゥデは、世界のワールドミュージックシーン、民族音楽の分野ではたいへんな有名人であり、人々の尊敬を集めている偉大な歌手。10歳から歌い始め、2011年の今年もザンジバルのアフリカ音楽祭Sauti za Busara(知恵の歌)に出演し、元気な歌声を聞かせたそうです。

 ワールドミュージックやスワヒリ世界に興味を持ってきた私なのに、ターブラの大スター、ビ・キドゥデが来日したときも2008年のドキュメンタリー放送のときもまったく気づかなくて2月17日の再放送を見て、びっくりしたのです。すごい人がいたもんだ。最初の30分ほどを見逃していました。お茶碗を洗いながら何か聞いていようと思ってたまたまスイッチを入れ、途中から見たのです。でも、お茶碗を洗うのをやめて、テレビの前に居ずまい正して見ました。
 ワールドミュージックの公演にヨーロッパをはじめ世界を訪れているビ・キドゥデ。日本へも2度来ており、浅草がたいへんお気に召したそうです。

 ビ・キドゥデは100年の歳月を生き、90年にわたって歌い続けてきました。彼女の歌声は、しわがれてはきているけれど、魂をゆさぶる響きを持っています。
 CDも発売し、ワールドツアーにも参加してずいぶんとお金も稼いだけれど、それらはほとんどを親戚や近所の子供達にあげてしまうから、今でも彼女は普段は靴も履かずに裸足で歩き回る。舞台衣装のほかは着慣れたぼろシャツとカンガ(腰巻き布)ですごす。贅沢な暮らしをしようなんて考えたこともない。今の暮らしで十分に幸せだから。

 自由に歌って、近隣の人々と何でも分けあって、笑って、怒って、ビ・キデゥデは日々を生きていく。
 彼女が挑戦し闘ってきたのは、イスラム女性に課せられた古い因習や、歌や踊りを業とする女性への蔑視。ビ・キドゥデは煙草も好きなだけ吸うし、男どものいいなりの生き方なんぞしてこなかった。ビ・キドゥデは、98歳の今日も自由な女性の生き方を求めて、ザンジバルの路地を闊歩しています。
 
2010年のビ・キドゥデの歌
http://www.youtube.com/watch?v=-ZWVsABF_LQ&feature=related
2004年、推定91歳のビ・キドゥデの歌
http://www.youtube.com/watch?v=bxBf5z3eoqo&feature=related
踊る百歳
http://www.youtube.com/watch?v=JGM5pvdEhHo&feature=related
食事中、インタビューにスワヒリ語で答えるビ・キドゥゲ
http://www.youtube.com/watch?v=9rRamLcy2tA&feature=related

 「はだしの歌姫の一世紀~ザンジバル・風待ちの島で~」の内容は以下のブログ(タンザニア在住のジャパンタンザニアツアーズという旅行社のスタッフによる)に詳しく書かれているので、参照して下さい。
 http://jatatours.intafrica.com/habari73.html

 ビ・キドゥデは、彼女にできること「歌うこと踊ること」を90年間、続けてきた。歌って稼いだ分は隣近所に分け与えて、自分は何一つ抱え込むことなくさらりと生きてきました。私も、私にできること「日本語と日本語言語文化について語ること」を続けて、稼いだ分は分かち合って生きて行く。たいした稼ぎにはなりませんが。

 55歳で亡くなった母の分と54歳で亡くなった姉の分もあわせて、私は100歳まで現役でがんばりたいと思っています。挑戦を続けていきます。
 目標とする100歳はたくさんいます。詩集『くじけないで』が大ベストセラーになっている 柴田トヨさんは、今年の6月で100歳。医師、日野原重明さんは10月に100歳。NHK百歳バンザイの第1回目の出演者、障害児教育者の地三郎さんは、今年105歳で、今なお講演活動に世界中を飛び回っている。

 私も100歳現役を目指してこれからも毎日を生きていきます。アフリカの大地と東インド洋の広々とした海を思い浮かべると、私がアフリカですごした若かった日のエネルギーを思い出し、100才まで歌い続けるビ・キドゥデの歌声に励まされます。
 よ~し!目指せ百歳現役!
 挑戦!

<おわり>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2010/08/19

2010-08-19 21:47:00 | 日記
2010/08/19
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文化人類学志望タカ氏のレポート

2010-08-17 08:23:00 | 日記
2011/05/13
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>タカ氏のレポート(1)文化人類学志望

 5月11日は、東日本大震災から2ヶ月目なので、宮城県アンテナショップは平日ながら5月7日土曜日と同じくらいに混んでいました。八重洲にある福島県のアンテナショップも、今月は売上げが平年の4月の10倍に達したという記事を読みました。風評被害のニュースなどを聞くにつけ「私に応援できることはまず買うことくらい」と思って、みなが買い物をしているのでしょう。私も宮城ふるさとプラザで「しそ巻くるみ揚30コ入り」というのを買いました。

 雨の中、都バスで帰宅。運転手さんは出発時に「本日雨のため道路混み合っております。ただいま予定出発時間より、3分遅れで発車しました、お急ぎのところ、申し訳ありません」と発車。途中、「ただ今、2時45分になりました。あと1分で2時46分です」と、時間のみを車内にアナウンスしました。それを聞いて、「あ、地震発生の時間だったな」と気づき、黙とうしました。
 大回りのカーブでは「これよりドヨヨ~ンとカーブします」駅に近づいて駅構内に入るターンでは「ここは忙しくカーブします」。通過駅でのアナウンス「池袋駅を3分遅れで出発しましたが、ただいまは1分遅れでの発車となりました。わたくし2分間、がんばりました」と、予定発車時刻に追いついてきたことをアナウンス。愉快な運転手さんでした。

 信号の手前では「悲しいお知らせです。赤信号のために止まります」と放送する運転手さんのワンマン運転、日常を取り戻そうとする人々に、笑いや歌は買い物にも増して人々を明るくするのではないかと思います。
 空気のようにあたりまえだった日常生活が、とても貴重なひとりひとりに大切なものだと気づかせてくれた2時46分でもありました。

 自分の身の回りに常に存在するけれど、その存在を毎日意識することもなくその中にいる。しかし、それがなければ生きて行くことは不可能なもの、それは空気。
夫婦はよく「空気のようなもの」と例えられます。あるいは「水のようなもの」。生きて行くには不可欠でしかし、特に味も匂いもない。高い水も売ってはいるが、気に留めなければ東京の水道水でも十分。(放射能の計測値がもっと高くなれば東京の水も飲めなくなるかも知れないけれど)しかし、沙漠にあってそれがなければ死ぬかも知れぬ。夫婦というのも斯くの如し。とか。

 さて、そういう「毎日いっしょ」の空気や水に比べると、うちの亭主は「法事のあとのお斎きの食事についてくるお茶」くらいのものか。だいたい、姑といっしょに墓参りに行くときくらいしか、いっしょに食事していないし。
 まあ、そんな縁の薄い夫であっても、法律上は夫として存在します。

 妻の出稼ぎ給料から娘の奨学金まで会社の運転資金につぎ込んでも、万年赤字から脱出しない会社を「趣味」で経営し続けて、ウン十年。
 辛抱一途の我慢強い妻がついていなかったら、とっくにホームレスの境涯になっているだろう夫は、「この先、会社たたむことがあったら、タイの山奥へ行ってタイの子ども達のために学校つくって暮らす。日本の年金があれば、物価の安いタイの山奥なら十分に生活していける」と、この数年間、事務所近くの大学生涯教育コースでタイ語を習い続けています。赤字赤字といい続けても、タイ語の月謝やクラスメートとのコンパに使う金はひねり出せるらしい。

 「人は生涯学び続けるべし」というのが、タカ氏の自論のひとつです。であるゆえに、私が娘を産んで2年目に「もう一度大学に入る」と言ったときも、大学4年生のときに息子が生まれて「このままだと就職できそうもないから、大学院へ行く」と言ったときも、世間の夫のように「結婚後に大学行ったり、大学院へ行ったりして何の意味があるんだ」などと絶対に言わない人でした。もっとも、私が大学に2度目に入学することにしたのも、大学院へ行くことにしたのも、乳児かかえて勤め口も見つからなかったので、奨学金を申し込み、そのお金で食べていくためでした。

 タカ氏が大学を卒業するとき、単位が足りず、先生との交渉でいくつかの単位をおまけで出してもらった話は聞いていました。また、教職科目のいくつかの単位が足りなかったために、別の大学の通信教育部に再入学して足りない単位を補い、教員免許をとった、という話も聞いていました。姑の兄と姉は二人とも郷里で教員をしていた人だったので、教職免許をとることは、「大学学費を出してもらう条件」だったようで、当時は教職を目指さない人も割合気軽に教員免許を取っていました。今より教員免許取得の単位数などがゆるかったと思います。私の時代、教育実習は2週間でしたが、娘は3週間だったし。

 私がママさん学生生活3年目になったころ、息子が生まれる前の年、私の大学生活に対抗して、生涯教育受講のため、タカ氏は放送大学に入学しました。
 地震で本棚が倒れ、どっと部屋に溢れたもろもろの本や紙類の山の中、タカ氏が放送大学に提出したレポートが数部出てきました。本人はこれを書いたこともまったく忘れているだろうと思います。

 その中のひとつの科目、文化人類学。
 文化人類学を学びたかった、というのが、「挫折人生」を歩んできた私とタカ氏の共通点のひとつです。

<つづく>
05:31 コメント(4) ページのトップへ
2011年05月14日


ぽかぽか春庭「モゴール族探検記を読んで」
2011/05/14
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>タカ氏のレポート(2)『モゴール族探検記を読んで』

 「文化人類学に関連する書籍を読んで、要約と書評を書け」という放送大学レポート課題に対して、タカ氏は『モゴール族探検記』を選びました。以下、無断で行う「タカ氏35歳のレポート」書き写しです。
 無断で書き写しを行うのは、著作権の問題で言えばタカ氏から非難されてもいたしかたない行為です。でもね、糟糠の妻がいなければ野垂れ死にしていたであろうタカ氏に、何の見返りも要求しなかった妻が、これくらいの著作権違反をしたところで、慰謝料のかけらにもなりはしないワ、フンッ。つうか、本人、これを書いたことなどまったく忘れているし。

 タカ氏は、地震のあとの片付けに際し、「タカ氏撮影の写真ネガ以外は捨ててよい」と言ったのだから、このレポートの所有権(著作権)を放棄したものと解釈します。黙って捨ててもいいのだけれど、妻がこれを書き写しておこうというのは、一種ボランティア精神。

 タカ氏35歳のころって、私は2番目の大学の3年生在学中で、娘とふたり、奨学金で細々食べていたのでした。タカ氏がこのレポートを放送大学に送付した夏1987年、私は娘を保育園に預けて夫の仕事を手伝いに通いましたが、会社は赤字続き。お金も尽き果て、私には苦しくつらい年だったけれど、夫は以下のような読書感想文を書きつつ、赤字会社を続けていました。
 以下、タカ氏35歳の「読書レポート」、妻の手によって、勝手に公開。
============
(1987年夏執筆)
1)著者:梅棹忠男
表題:モゴール族探検記
出版社:岩波書店(岩波新書)
出版年:1956年

2)1955年に行われた京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊人類学班の記録。ジンギスカンの樹立したモゴール帝国は各地に勢力をのばしたが、その末裔と思われるモンゴル族(モゴール族)が、アフガニスタンの「奥地」にいるという。そのモゴール族を探し出し風習や言語を調査しようとした。浮浪の末に彼らと会うことができ、モンゴル語の古い形などを調べることができた、というもの。
 これは岩波新書の1冊であり、学術報告書ではなく、たどりつくまでの苦労や試行錯誤などの様子がわかりやすい文章で書かれている。はじめてこの本を読んだのは、たしか高校生の頃だったと思う。今回、レポートを書くにあたって、十数年ぶりに読み直しをした。

3)a.まずこの調査の行われたのが、30年前の1955年だということ。わずか30年前でも、どこの国にどんな民族がいて、何語を話すかなどということがわかっていなかったというのは驚きであった。少なくともアフガニスタン政府にはわかりそうなものだが、そうでもなかったらしい。

 b.人類学の調査の仕方がわかってとてもおもしろかった。当時彼は35歳、いまの私と同じである。あちこち飛び回れることがうらやましい。この本を含めて、こういう本はとにかく楽しい。知らない人と会えて、知らない文化を知って、、、、。そしてそれぞれ違うけれど、どちらかが優れていると言うことではない、という人類学の考え方は、すばらしいと思う。(続く)
=============

 タカ氏、世界の「奥地」に入り込んで写真を撮る「フリージャーナリスト」を目指していたのです。地方新聞の記者を退職し、ケニア・ナイロビにいたとき、妙な女と出くわし、人生の予定表にはなかった結婚ということになったタカ氏。35歳のときは妻子を捨てて放浪の旅に出るということもできず、家庭人として落ち着くこともできず、さぞかし「あちこち飛び回れることがうらやましい」という心境だったろうと思います。

<つづく>
00:47 コメント(0) ページのトップへ
2011年05月15日


ぽかぽか春庭「ケニアのトルカナ湖で」
2011/05/15
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>タカ氏のレポート(3)ケニアのトルカナ湖で

 タカ氏レポートつづき
============
4)a.この表題の「--探検記」というのが気にかかる。1987年という現在のみかたで30年前の本を批判するのは不適当だが、現在でも人に会うときに「探検」などというのだろうか。出かける側の人間にとってはどんなに「奥地」であっても、そこで生活している人にとっては「奥地」でもなんでもないのだから。

b. 3)b.にも関連するが、たしかにこのテの本はたいへんにおもしろい。しかしいざ自分でフィールドワークをしようとした場合、むずかしさを感じる。テキストをたくさん読んだとしても、いい読者にはなり得ても、そこまでだろうと思う。○○大学の調査隊に参加できるわけでなし。
 それに「調査」される側にとっては実は迷惑かも知れないと思う。モゴール語を調べることが、人類学にとって貴重な成果だとしても、実際に住んでいる人にとっては、大事なのは今の生活であって本になったモゴール語の論文ではないのだから。

5)その他
 この本を読み返しながら、数年前に旅に行ったときのことを思いだした。東アフリカ、ケニヤ共和国の北西部にトルカナ湖という湖がある。この近くに住む人々のことをトルカナ族というが、そこに3週間いたことがある。どんなとこか知らずに、たまたま行ってみたら、夕日がとてもきれいで長居をしてしまった。

 そこで話されているのはトルカナ語で--結局あいさつがエジョカで、コップのことがオコップという2語しか覚えられなかったが--もちろんこちらはトルカナ語はわからない。それでも中にはケニヤの共通語であるスワヒリ語や英語を話す人もいて、首都ナイロビ市で少しだけ覚えたスワヒリ語で何とか生活もできた。

 女の人はふだんは腰から足までの長い腰巻きだけで上半身ははだかの人が多かった。男の人も短パンのような感じで、ほとんどはだか。それではというので、私も海パン1枚で待ちのメインストリート--といっても店が数軒あるだけ--を歩いていて、おこられた。よその人間ははだかで歩くなという。

 もう少し北にいくと、スーダンで、ここらあたりはセミ・デザートだという。低い草木は多少あるが、下は砂地。もちろん暑くてはだしでは私は歩けないが、彼らにとっては何ともない。手元の温度計ではかると、60℃にもなった。しかし家の中に入るとヒンヤリとした感じさえする。外からみると、まるで弥生時代の家のようにも見えるが--家は女性が回りから草木を集めてきて3日で作るという--都会のビルの中のクーラーなどおよびもつかない。生活の知恵を感じた。

 たとえば、はだかはよくない、人は服をきるべきだ、家が粗末だ--というようにみてしまえば、トルカナもあまりよくないところに思えるが、私はそうは思わない。砂漠ではたぶん、だぶだぶの服かはだかが生活しやすいのだろうと思うし、広さを別にすれば、住みにくい家ではない。ケニヤの中でも貧しい地域であることは事実だし、どうやって生活を豊かにするかという問題はあるが、、、、。新聞や本で知ることのできないいい体験となった。(タカ氏レポートおわり)
===========
<つづく>
07:04 コメント(1) ページのトップへ
2011年05月17日


ぽかぽか春庭「トルカナ湖の夕日」
2011/05/17
ぽかぽか春庭きょうの色いろ>(4)トルカナ湖の夕日

 タカ氏はトルカナ湖のほとりで現地の人といっしょに生活し、撮った写真はガイドブックのページに採用されました。そのままひとりで世界を飛び回っていたら、よい写真の一枚も撮れて、「元新聞記者」から「フォトジャーナリスト」になる夢を追い続けることができたかもしれません。

 しかし、このレポートを書いた頃35歳のタカ氏は、チェンマイ奥地やマニラなどへ一人で出かけて行ったあと、夢と妻子を秤にかけて、結局「海外フォトジャーナリストとして生きて行く」という生涯の夢を完全に諦めたところだったと思います。

 同じ35歳なのに、梅棹忠夫は大学探検隊の一員として人類学研究に赴き、世界の秘境でフィールドワークを行う身分。タカ氏は妻子を食わせていく当てもなく、東京に閉じ込められている。家庭に落ち着くこともできず、父であり夫である自分など認める気にもならない。トルカナ湖ですごした日々を思い返し、家から逃げ出せるものなら逃げ出したいと思って、日々鬱々と過ごしていたことだろうと思います。

 私はと言えば、夫の鬱々などに関わっていることはできませんでした。とにかく幼い娘を食べさせていかなければならない。生まれてくる子のおむつも用意しなければならない。明日のあてはまったくない中、今日を生き抜かなければならなかった。
 細々かつかつにでも母子が暮らしていける目途がついたのは、1994年、単身赴任という条件を飲んで、娘息子を実家に預けて中国に出稼ぎに行ってから。夫は、私が必死で稼いだ出稼ぎ賃金も会社の運転資金に充ててしまったのですが、なんとか大学講師の職を確保することができました。
 
 子どもがふたりとも成人した今になってみれば、一人で悪戦苦闘した日々も、つらいことばかりではなかったと思い返せます。子どもの成長は、人生のなによりの喜びです。
 しかし、それにしてもタカ氏は、私が明日の食べ物がないことに思い悩み、残金百円しかない通帳をながめていたときに、「モゴール族探検記を読んで」というレポートを書いて送っていたのだなあ。

 「たまたま行ったトルカナ湖の、夕日がきれいなので長居してしまった」と、ケニアの思い出を書いたタカ氏。この先、会社をたたんだら、タイへ行きたいというタカ氏。ええ、トルカナでもタイでも、好きなところへお行きなさい。

 私には、タンザニア国境の町ナマンガでタカ氏といっしょに夕日を眺めた思い出があるから、夫がいない家庭でもなんとかやってこれた。(トルカナ湖へはいっしょに行っていません。私はミチコといっしょにトルカナ湖へ行き、タカ氏とは別旅行でした。)

 これから、一人でどんな夕日を眺める日々となるのでしょう。お一人様生活を楽しむのは得意です。震災後、結婚相談所の成婚率がぐんと上がった、という記事を見ました。不安なことがあると、ひとりでいたくない、という人が増えるのですって。でも、樹木希林内田裕也夫妻を見ていても、夫婦の在り方はそれぞれで、自分たちが納得していればいいのだろうと思います。

 次回からは「1979年ケニア日記by春庭」。

<おわり>


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春庭1979年のケニア日記1979年8月上旬

2010-08-12 17:32:00 | 日記
2010/06/16
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(9)ケニヤッタ病院

1979年8月1日アフリカ通信第3号 つづき
 (ケニヤッタ病院の)外科のへやで黒人のおいしゃさんにみてもらって、わるくなっているかどうかきいたらそうわるくないといって消毒もしないで、薬だけ出すといいました。薬ののみ方をせつめいしてくれるのですが、いつけがをしたかとか、ケニアのどこにすんでいるのかというくらいはわかるのですが、薬ののみかたなんかよくわかりません。

 それで、スワヒリ語で「私は英語が少ししかわからない、ゆっくり言ってくれ」といったら「下流階級め」という顔でゆっくり言ってくれたのですが、やっぱりわからないので「辞書を家にかえって引くからかいてくれ」といってかいてもらいました。薬が出るまで30分くらいまちました。やっぱりみんなが注目しています。折り紙を折っていたらますますみなが見ます。そのうち病気の子どもが来たので、席をゆずってあげており紙をおってやったらみんなうれしそうでした。つるとふうせんをおりました。そこへちょうど薬が出ました。

 全部で二時間ほどで、思ったほどまちませんでした。日本の病院だって初診なら一日がかりです。しかしへんな日本人が英語とスワヒリ語と日本語とちゃんぽんでわめいて医者に会わせてくれとか薬くれとかいうので、きのどくがって先にしてくれのかもしれません。かのう止めらしいのが出ました。
===========
2010/06/16
 ケニヤッタ病院の診察で、いくら聞き返しても理解できなかった英語は、「tetanus」。破傷風のことでした。辞書なしに病院へ行き、宿に帰ってから医者に書いてもらった「tetanus」を日本人に聞いても、だれもこれが何か知りませんでした。医者は「この薬は破傷風予防のために飲むのだ」と説明してくれていたのですが、「破傷風」という単語を知らないために、理解できなかったのです。

 ケニア出発直前、タンザニア大使館へビザをとりにいったとき、歩道に出ていたブリキ製の看板に足がひっかかり、太ももをざっくり切ってしまったと、前に書きましたが、このときの傷、30年たってだいぶ小さくなりましたが、まだ傷痕が残っています。そのためテタナスという単語を忘れたことがありません。ケニヤッタ病院で診察を受けて、病院に来ている人たちと交流したことも楽しかった。無料病院など、一般の旅行客が行かないところにいきなり一人で出かけて、ナイロビ3日目がんばりました。
=============

1979年8月2日付けアフリカ通信3号
 8月1日。バスにはじめてのって町に出ました。バスはどこでも1シル30円。まず銀行へいって旅行社小切手をお金にかえようと思ったら、バンクレシートを忘れたのでかえられませんでした。ケニアはドルの出し入れにきびしくてドルをかえたら必ず申告書に記入しなければならないのです。それでもう残高はわずか。安いレストランをさがしたのだけれどみつかりません。それでヒルトンホテルの前にいきました。

 ヒルトンはどこからでも見つかりやすいビルだし、DoDoワールドのオフィスがヒルトンの前にあるのです。中へ入ったら駐在員のセベさんがいて、店につれていってくれました。セベさんはタンザニア駐在員になる予定です。今、ナイロビ駐在員のエンドさんがサファリツァーに出ているので、
私たちの世話を一手にひきうけてくれているのです。私は安いツァーだからナイロビについたらハイさようならかと思ったら、こまめにめんどうみてくれるのでおどろきました。
==========
2010/06/16
 私が利用したDoDoWorldという旅行社は、当時起業したばかりでしたが、現在は「道祖神」と改名してアフリカ専門旅行社として存在感を増しています。社長のクマさんの奥さんが経営しているアフリカ料理店に食べに行ったときの話は、こちら。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200808A

<つづく>
05:49 コメント(1) ページのトップへ
2010年06月18日


かぽか春庭「ナイロビ博物館」
2010/06/18
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(11)ナイロビ博物館

1979年8月3日発行 アフリカ通信No.3(象の絵が描かれているエアログラム)
 8月2日(木)午前中、銀行に行ってお金をかえました。なんやかんやとけっこう使ってしまって、最初に換えた50ドル(1万円)がたちまちおわってしまいました。ナイロビの物価は一次生産品は安いけど二次生産品、ちょっとでも加工してあると高いのです。粉は安いが、パンは高く、肉は安いがハムは高いと言う具合。

 いつも頭の中で日本円にかん算しているのですが、(DoDoハウスの)皆といっしょに行動しているとついつかってしまいます。また50ドル換えました。DoDoハウスからバスで町まで行きました。道順はキリマニ警察署の前を通って、陸軍本部の角を曲がってナイロビ病院まで歩くと病院前に停留所があります。7番のバスにのると中心街にでます。
 ものの本によると黒人はくさいということですが、バスにのってくっついてすわってもぜんぜんそんなことありません。私の方がおふろに入ってないぶんだけくさいかもしれません。

 お金がケニアシルになったので、またバスにのってナイロビ博物館に行きました。日本の国立博物館に比べものになりませんが、動物や鳥のはくせいや昆虫標本がたくさんおいてあります。古い道具なんかもおいてあって、佐渡島民芸館といったふうなおもむきです。英語で喋っている声がきこえたけど、ききおぼえのある発音だと思って「こんにちは」と言ったらやっぱり日本人でした。ナイロビには日本人がわりといます。小さい町ですから歩いているとどこかで出会います。ジャパニーズ・インフォメーション・センターには六ヶ月おくれの日本の新聞や雑誌も置いてあるそうです。
 博物館の中で、黒人にさかなを食べに行かないかとさそわれたけれど、一人できているのだから、やめました。悪い人じゃなさそうだったけど。

 ところで、博物館は外国人は300円ケニア人は150円の入場料なのですが、「私はケニア人です」と切符売り場でスワヒリ語でいったら150円で入れました。しかしハウスに電話をかけようとしたら、日本の電話とシステムがちがうので50セント(1シル=100セント)そんしました。

 ひるごはんは博物館の前の売店(やたいのやおや)からバナナをかって食べました。日本で45円だというので、「たいへん高い。まけろ」といって30円にねぎったところ、黒くなったのをよこすので「これではだめ、黄色いのだ」といったら45円になってしまいました。まだねぎり方の修行がたりません。

 博物館の前にへび動物園があったのでついでだから入ったらへびが10ぴきとワニが5ひきくらいいるだけで、まったく入ってそんしました。10シル150円の入場料はまるぞんのきぶん。
 ナイロビの小学校の生徒が見学にきていて、私が芝生でバナナをかじっているのを笑ってみているので、地図をひろげて「あなたたちの学校はどこにあるの」なんてきいていたら、むこうにいた人たちが、私が道がわからないので小学生にきいているのだと思っておまわりさんを呼んできました。あわてて道は十分わかっているからだいじょうぶだといったのですが、みんな親切だと思います。

 帰りは散歩しながらナイロビ大学やYMCAの校内をみてまわりました。YMCAにはプールがあって、外部者も安く泳げるというので、もう少したったら入ってこようと思います。
===========
2010/06/18
 YMCA(Young Men's Christian Association)とYWCAは、世界中どこでも若者向けの宿を経営していて、バックパッカーには助かります。タカ氏はナイロビ市内では、ずっとこのYMCAに泊まっていました。私もナイロビ滞在1週間目からはYWCAに移りました。門限などの規則がありましたが、安全で清潔で安い宿として最適でした。

<つづく>
06:59 コメント(1) ページのトップへ
2010年06月19日


ぽかぽか春庭「ダウンタウン・キコンバ」
2010/06/19
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(12)ダウンタウン・キコンバ

1979年8月3日発行 アフリカ通信No.3つづき
 (8月2日)サファリに出ていたDoDoハウスの主エンドさんが帰ってきました。さすが日本人離れした風ぼうで、アフリカで十分通用する迫力です。40すぎにみえましたが、33才だというのでおどろきました。
 もうひとつ驚いたのは高校教師の山田さんは独身だと思っていたら、夫と子供を日本において、一人でアフリカに旅行にきたんだって。いろんな人がいます。あと、栄養士の木村さんと獣医のタマイさんと中学校国語教師のツブラヤさんと仲良くなりました。たくましい女たちです。この人たちに比べると私も弱いオトメという気がする。

 くつみがきにお金を恵んでもらいました。コーラをかったら中身が1シルでビンが2シルだというので、のんでからビンをかえしにいったら店はもうしまっていてビンがかえせませんでした。くつみがきが「明日かえせばいいよ」というので「いや、あしたではこまる。私はお金を持っていないのでビンをかえして2シルもらったら、それでバスに乗るのだ。ビンがかえせないなら歩いてかえる」といったら、彼らは「いや、歩いてはいけないぜひお金をもっていきなさい」といってききません。いまさらいや、お金はあるんだ、冗談だよ」と言ったらおこると思って1シルもらいました。バスは1シル30円でどこにでもでもいけます。
 ハウスの皆に「ケニア人にお金をめぐんでやった人はいるがめぐんでもらったのはあなたがはじめてだ」と言われました。

 午前中は隣の家の子供につるやくす玉をつくってやってあそびました。隣の家は黒人のお医者さんで、奥さんは二年前になくなっています。ドクターと二男三女とめしつかいが4人います。いちばん末っ子のジェリーンは5歳で保育所にいっているのですが、今は目が痛いので休んでいるのだそうです。つるをおしえてあげたらへたくそながら作りました。しかしむずかしい所は「てつだって」と言います。くす玉はてまがかかりましたが、とてもよろこんでくれました。

 おひるころササキさんの運転で町に出ました。ヒルトンホテルのコーヒーが100円でおかわり自由と聞いて飲みにいったのです。日本でヒルトンホテルなんていったら、きどっちゃって、ジーパンにずた袋さげてなんて姿で入れませんが、ここはだいじょうぶ。おひるのぶんにパンを店でかってもって入って、ここでたべていいかきいたら、お皿とナプキンを出してくれました。
 
 午後は、この前肉を食べに行った下町よりもっと奥にあるキコンバというアフリカ彫刻の職人たちの作業場へ見学に行きました。このへんになると白人や日本人は一人もいないし黒人たちはハダシでぼろを着ています。
 ナイロビで旅行会社をしている清水さんという人の話では、ピーターという男が案内に出てくるはずだということでしたが、はたして「こにちわ。あいがと」なんて言いながら男が出てきました。彼に「私は自分で彫刻を作ってみたいのだ」というと、作っているところにつれていってくれました。道具をかり、はんぱ木をもらって太陽の塔のようなデザインをみほんにして作ってみました。彼らはナイフやちょうなのようなのを駆使して実に立派なキリンやゾウを作り上げていきます。私のはピーターに手伝ってもらってもできそこないになりました。
=========
2010/06/19
 このときおもしろがって作り上げた自作の「太陽の塔まがいの木彫り」は、自分で作ったことをすっかり忘れていて、先日の水害の後始末で「今現在使っていない物は、必要ない物だから捨てる」という方針でジャンジャン捨てていたとき、「これは安物のおみやげだろう」と思って捨ててしまった。いかにもマガイ物っぽいヘンテコリンな木彫りだったので。タンザニアの民芸彫刻「マコンデ」、本物は現地で買っても高いです。

<つづく>
11:02 コメント(1) ページのトップへ
2010年06月20日


ぽかぽか春庭「ボーマス・オブ・ケニア」
2010/06/20
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(13)ボーマス・オブ・ケニア

1979年8月3日(金)ケニア通信No3つづき
 私はちょうどおりづるで作ったモビールを持っていたので、ピーターにあげたのですが、あとで清水さんにきくと、やはり現金で300円くらいチップをあげた方がよかったみたい。彼らは300円あれば一日たべていけるのですって。

 清水さんはケニアの民族舞踊の踊り手を大分にあるサファリパークのアトラクションの踊り手として連れて行ったりしたのだそうです。彼らにカサを買ってあげたらもったいながって、雨がふっても、傘がぬれたらこまると言ってささなかったんですって。
 ナイロビにはボーマス・オブ・ケニアという民族舞踊の観光地があるのですが、清水さんはそこの人を知っているそうなのでつれていってもらうことにしました。
 ではまたね。1979/8/3

1979年8月8日付けアフリカ通信第4号(象の絵があるエアログラム)
 8月4日は午前中、ずっとせんたくして、午後、ボーマスオブケニアに行きました。ボーマスというのは、観光用のショウでケニアの民族舞踊をみせる所です。ちゃんと舞台があって踊り手たちは20人くらいで、ケニア国内のいろんな部族のおどりをみせます。この前行ったマサイ族の踊りは観光用とはいっても、自分たちのでみせるのでよかったけれど、ボーマスの舞台から演出は感じられても土のかおりは感じられませんでした。まあ、しかたないことだと思います。踊り手たちは都会人であり、祭りも結婚式も成人式もかんけいなくみせるために踊るのですから。

 しかし、おもしろかったのは、こちらで貿易の仕事をしている清水氏がつれていってくれた舞台裏。ふつうの観光客にはみられないウラの方をみることができました。踊り手たちは舞台の建物の裏手にアパートをたててそこに住み込んでくらしたり練習したりしているのです。いちおう振り付け・演出の先生がいるということなので会ってみたいと思います。
===========
2010/06/20
 ボーマス・オブ・ケニアというのは、「ケニアの家」という意味で、47あるケニアの各部族の民家のうち、代表的な家屋を展示している「民家園」です。その中で、各部族の民族舞踊をアレンジしたダンスショウを観光客に見せる施設があります。私は、当時は「舞踊人類学」「民族芸能学」を研究したいと思っていたのですが、私がケニアにいる間にやったことは、結局ただの観光旅行でした。あれもこれも挫折自滅つづきの我が人生の中の失敗の巻のひとつです。

私としては、ボーマスオブケニアを足がかりに、以下のような研究をしてみたかったのです。私ができなかった分野ですが、誰かしら研究している人はいるのだから、私はその成果を知って楽しめばよし。
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/oldarc/kiyou/08/endo.pdf

<つづく>
00:05 コメント(1) ページのトップへ
2010年06月22日


ぽかぽか春庭「駅おじさんのケニア旅行」
2010/06/22
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(14)駅おじさんのケニア旅行

1979年8月8日付けアフリカ通信第4号 つづき
 8月5日は公園を散歩したりして昼間をつぶして、夜、空港へ「駅おじさん」たちをむかえに行きました。ケニア人の友人のファザル氏が運転して送り迎えしてくれたので助かりました。飛行機が着くのは真夜中なので、くうこうから町のホテルまでタクシーをたのむと一万円もふんだくるという話です。どこにもクモ助はいますね。おじさんたちは、「シックスエイティホテル680Hotel」という日本人がよく利用するホテルに泊まりました。でもみちこは海外協力隊の事務所に泊まりました。

 8月6日は朝、おじさんのホテルへ行きました。おじさんといっしょに朝食を食べました。ベーコンエッグとトーストとコーヒーとジュース。スワヒリ語で話したら、ボーイたちがまわりに寄ってきました。ホテルに泊まる日本人は英語もしゃべらないので、めずらしかったのでしょう。それからおふろに入って、シャプーして出ました。おじさんとみちこはアンボセリ国立公園という動物のサファリパークにでかけました。
===========
2010/06/22
 駅おじさんというのは、国鉄駅長をしていたみちこの父親。私の母の弟です。JICAの海外青年協力隊のイベントとして、隊員の家族が赴任地を訪問するツアーがあり、みちこの両親は、2週間の予定でケニアツアーにやってきました。駅叔父さんもケニアに旅行するということを聞いて、私の父も「嫁入り前の娘が一人でアフリカに行く」というのを許可したのですから、おじさんに「ナイロビで安全に健全に生活している」とアピールして、日本の父に報告してもらわなければなりません。でも、私ときたら、水不足のDoDoハウスで、シャワーだけですませていたので、680ホテルのおじの部屋で、真っ先におふろを使わせてもらったり、自分では泊まることはないであろうホテルライフを楽しみました。

 英語が通じるホテルの中でわざわざスワヒリ語をしゃべってみせたのは、「現地のことばも話せるので、しっかり生活していけるだろう」と、父に報告して欲しかったからでしょう。駅おじさんは、「ナイロビには高層ビルもたくさん建っているし、ケニアは安全な国だ」というような話を父に伝えたと思います。

 みちこと駅おじさんが出かけたアンボセリ・ナショナルパークは、高峰キリマンジャロ山を望む動物保護区です。ケニアに行ったらキリマンジャロというのは、日本旅行するなら富士山を見ておこう、みたいな、ケニア旅行の定番です。私は9月にタカ氏とアンボセリ国立公園で動物ウォッチングをしたのですが、こちらはバックパッカーの貧乏旅行ですから、駅おじさんたちが出かけたサファリツァーとは大違い。でも、日本の父にはそんな違いはわかりませんから、駅おじさんも安全に快適に旅行してきたアンボセリナショナルパークなら、娘が同じようにアンボセリに出かけたと手紙にあっても心配しない、という具合。

 ツアーで野生動物見物などをしている限りでは、車を降りてライオンのそばにいくというようなマネをしないなら、安全に旅行できます。タレントの松島トモ子が、ケニアでライオンに近づきすぎて咬まれ、大けがをしたことがありました。無謀なマネをすれば危険があるのは、どんな観光旅行も同じ。

 私のケニア滞在中、二度スリの被害にあったほかは、たいした事故事件に出会わなかったのはほんとうに幸運でした。
 今、南アフリカへサッカー応援ツアーに出かけた日本人が、さっそくひったくりや置き引きなどの被害にあったというニュースが伝えられています。手元から荷物を離しても、だれもそれを持って行かない日本に暮らしていると、安全への意識が低下してしまうのは仕方のないことですが、日本を一歩離れたら、自分の身体と手荷物は自分で安全確保する意識を持たなければ、アブナイです。

<つづく>
05:43 コメント(2) ページのトップへ
2010年06月23日


ぽかぽか春庭「スラム街キコンバ」
2010/06/23
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(15)スラム街キコンバ散歩

1979年8月8日付けアフリカ通信第4号つづき
 8月7日は、キコンバに行きました。8月3日に行ったらおもしろかったので、皆に話したら、獣医さんのタマイさんがいっしょに行きたいというので、また行ったのです。途中、アフリカ人の食堂でコーラとサモサというあげぎょうざを食べていたら、ピーターが出てきました。ピーターは日本人の案内をしておこずかいをかせいで食べている男です。脇野さんという人の書いた本の中にピーターの写真とエピソードが書いてあるのでみせてやったら、喜んで町中の人に「これはおれだ、日本の本に紹介されたのだ」とじまんして歩いていました。この前はチップもやらず、土産物も買わなかったので、今度はみなで出し合って20シルピーターにあげました。

 8月8日は、DoDoハウスこと旅行社のエンドさんの家を出て、YWCAに移りました。エンドさんの家は泊まるだけなら一泊15シル450円で安いのですが、長くいると食費や電気代ガソリン代などが加算されてけっこう割高になることがわかったのです。私は結局7日間で270シル、8100円払いました。一日1200円ですからホテルよりずっと安いですが、やはり人様の家ですから、いろいろ気兼ねがあったり、水が出ないのでせんたくも遠慮したりでおもったより不便でした。

 YWCAはシングル部屋は一泊47シル1400円。部屋の中の洗面所、お湯が出るのでせんたくやシャンプーができます。町に近いので歩いてポストオフィスへ行ったり買い物ができます。エンドハウスからバスで町に出るのもおもしろかったですが、一度出てしまうとおっくうになって、いったりきたりできませんが、YWCAはちょっと気が向いたときに町へ行けます。女ばかりの宿ですが、ほとんどが黒人女性の学生です。たまに白人やアジア人(インド人)がいます。タマイさんといっしょに泊まっているので安心です。

 ナイロビには学生下宿や寮がないので、学生たちは高いのを覚悟でYWCAに泊まっているのです。安いアパートは治安が悪く、けっきょくYWCAは学校にも町にも近くて、比較的安いのです。朝食付きですが、昼食と夕食は別料金です。月極でかりると三食付きで4万5千円と、わりやすになります。
=========
2010/06/23
 ナイロビにいる長期滞在のバックパッカーたちは、何かと情報交換をし合い、この後の帰国まで仲良くさせてもらいました。このときキコンバ出かけた仲間たちといっしょの写真、アルバムの7ページ目に貼ってあります。一番の仲良しは獣医のタマイさん。アフリカの動物と共に暮らしたい、という希望を持っている元気な女性でした。のちにジャイカ職員になるカメヤマ君。写真にタカ氏が写っていないので、あれ?いっしょに行ったはずなのに、と思ったら、タカ氏はカメラを構えて私たちを撮影していたのでした。自分自身は撮られたがらず、「プロのカメラマンは、自分を撮影したりしないのです」とか言っていた。へぇ、そういうものかと思っていたら、その後、知り合いになったプロのカメラマンのナカノさんは、やたらに自分も写りたがる人でした。
 タカ氏といっしょに写っている写真は、アフリカアルバムの中でも3枚だけです。

 ナイロビのキコンバは、現在でもスラム街として残っているようですが、都市部の開発が進むと、いずれ取り壊される運命にあるのかもしれません。2009年にケニアへ行った日本人のリポートに、現在のキコンバの写真がありました。この日本人は、ケニア在住40年の人といっしょに行ったということですが、バックパッカー志望者に告ぐ。けっして一人ではキコンバに足を踏み入れないこと。 
http://d.hatena.ne.jp/Malie/20091206/1260108373

<つづく>
05:35 コメント(3) ページのトップへ
2010年06月25日


ぽかぽか春庭「YWCA」
2010/06/25
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(16)YWCA

1979年8月8日付けアフリカ通信第4号つづき
 (引っ越ししたYWCAで)私は一日中せんたくをしていました。雨がふったので、へやの中にロープをはってほしました。乾季ときいていたので、まさか雨がふるとは思いませんでした。(雨がふると)たいへん寒くなります。
 YWCAの女性たちはなかなかおしゃれで、いろんな服を持っているし、ちぢれた髪を様々に編んでニュールックをきそっています。しかし一番のあこがれはまっすぐのびた髪なのです。

 町をぶらついているとニューモードの人からぼろぼろの服をきたこじきまで千差万別です。しかし若い女性と、仕事上いい服をきることが必要なビジネスマン以外は、皆やぶれた服を平気で着ています。エンドさんのいえのとなりの家は、黒人の医者ですが、こどもたちはやはり穴のあいたセーターをきて、学校へいく以外はハダシです。

 8月8日は、別に何もしないで、町のみやげ物をひやかしたりしてすごしました。ねぎるのは一種のゲームで、わりにおもしろいし、どうせ、いまのところ何も買わないのです。
 夕ご飯をいかに安く食べようか考えながら町を歩いていたら、ケンタッキーフライドチキンの店がありました。いくらだろう、など考えていたら、黒人のおニイさんがビールをのみにいこうというのです。しかしこちらは一人ではキケンと思うのでやめました。タダより高いものはないというから、気をつけよう甘いことばと暗い道の精神です。

 今のところ盗まれていませんが、いっしょのひこうきできた日本人でパスポートと有り金いっさい盗まれた人がいます。パスポート再請求してトラベラーズチェックの盗難届を出して再発行されるまで日本大使がお金をかしてくれるのだそうです。こちらの人は鍵がかかっていないものは所有権放棄と思うのだそうです。

しかし、私がいままで会った黒人たちは、みんな気のいい人に思えました。かたことでもスワヒリ語を話すと喜んで、すぐコーラをおごるとかビールをおごるから、と言い出します。「私は自分の分は払う」というと、いいや、ここはケニアでおまえはお客だから、おれたちがはらう、おれたちが日本に行ったら、ごちそうしてくれ、と言うのです。しかし彼らに日本へ来る機会があるとは思えないので、えんりょしています。ではまたね。
===========
2010/06/25
 1979年のレートでは1シル約30円。2010年のレートは1シル約1.1円。ドルは1979年で1$=約200円、2010年1$=約90円ですから、日本円が高くなった以上にケニア通貨(ケニアシリング)は大きく変動したことがわかります。

 ケニアの国情。アフリカの他の国々と同じように、一国の中にさまざまな民族が暮らしています。ケニアの最大部族は農耕民のキクユ族で、初代大統領もキクユ族出身のケニヤッタでした。1979年1980年当時は、少数部族出身のモイが第二代大統領でしたから、「民族融和」の気風が国にありました。しかし、最近では再び、優遇されているキクユ族と少数部族の間で、対立が起きるようになっています。

 1979年当時も、政府の要職はキクユ族が占めており、キクユ族以外の部族は農耕や牧畜で生活する人が大部分でした。たとえばマサイ族が現金収入を得ようとしたら、金持ちの家の警備員(アスカリ)に雇われるくらいしか仕事がなかった。ルオ族、ソマリ族、メル族など、他部族も同じようなものでした。オバマ米大統領の父親は、ケニアのルオ族でした。最大部族のキクユ族に対立する第二の部族です。優秀であったろうオバマ父は、キクユ族ではないため、ケニアに残っても将来が開ける保障はなかった。そのため、活路を求めてアメリカへ留学したのです。

ケニアの民族一覧
http://wee.kir.jp/kenya/kny_people.html

<つづく>
08:31 コメント(1) ページのトップへ
2010年06月26日


ぽかぽか春庭「ホシノスクール」
2010/06/26
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(17)ホシノスクール

1979年8月11日発行 アフリカ通信5号
 8月9日は、星野学校の卒業式に出てみました。この前ちょっと星野学校へ立ち寄った時に、私が群馬の出身であるといったら、星野さんが沼田(出身)なもんで喜んで、お茶屋の石坂園はしんせきだとか、栃赤城はどうだとか、今のケニア政府についてとか、いろいろ話してくれました。

 私が敬語を駆使し「御著書の『アフリカの指導者』を感銘深く拝読させていただきました」なんてぺらぺら調子よくしゃべるので、いっしょに行った獣医のタマイ女史もびっくりしていました。私も三年間、中学校のガキどもに敬語の用い方なんてシンキくさいことをやってムダではなかった。今日はタマイさんは用事があるので一人でいきました。

 三時に(ホシノ・スクールに)ついたら、はじまるのが五時からだというので、すぐ近くにあるフェアビューホテルでヒマつぶしをしました。ここのトイレと680ホテルはただなのです。ヒルトンホテルは25セント(10円)ほどとります。10円はらうのがおしいわけじゃないけれど、タダのほうが日本人にむいているから、つい遠回りしても680ホテルに行ったりします。

 コーラは2シル60円、ビールは5シル150円です。60円でファンタを買って、庭のテーブルで休もうと思っていたら入り口近くのテーブルにすわっていたポーターが話しかけてきました。旅行客の荷物を運ぶ仕事です。英語とスワヒリ語チャンポンでくらしむきの話やら家族の話やらしました。こどもにはいい教育をうけさせたいそうです。「彼らはニュージェネレーションだ」という表現で、ポーターまでが次代のケニアに期待を寄せているようです。

 5時から卒業式がはじまって、ケニアのだれかえらそうな人が生徒に修了証みたいのを渡しました。ケニア人や日本人が、わりにたくさんあつまりました。メイドが飲みものは何がいいかきくのでビールにしました。それからスワヒリ語で日本の劇をやりました。ことばは半分くらいしかわかりませんでしたけど、わりとおもしろかったし、ビールの2本めを飲んで、オードブルやサモサをおなかいっぱい食べて、夕食代をうかせることができてとてもよかった?

 帰りは7時で、もう暗いので、バスはちょっと恐いなと思っていたら、(星野学校を出ようとする)白人女性がいたから、乗せてくれとたのみました。いいというのでYWCAまでおくってもらいました。彼女はカジノで働いていて、イギリス系だが、おじいさんは中国人だそうです。
==========
2010/06/26
 星野学校は、ナイロビにあるスワヒリ語学校です。設立者は星野芳樹(1909~1992)。星野さんは私と話したとき、「うちの出身は群馬の沼田」と言っていたので、同郷人と思っていたら、実は本人は横浜生まれで、静岡で暮らした人でした。祖父が沼田の豪農出身で、横浜に出て生糸商で成功を収めた。父親の星野光多の妹星野あいは、津田塾が大学に昇格したあとの初代学長。芳樹の兄は、満州国総裁をつとめた星野直樹。祖父星野宗七の妹の子の生方敏郎が東京朝日などで記者をしたジャーナリストだったこともあって、星野芳樹は、兄のような官僚、政治家、実業家という人生ではなく、ジャーナリストとして前半生をすごしました。静岡新聞主幹を辞めたあとアフリカへ渡り、日本ケニア文化交流協会を設立しました。スワヒリ語を学びたい若者のための学校を建て、アフリカ日本との友好のために尽くした後半生でした。

 ナイロビ市内にあるスワヒリ語学校(通称ホシノ・スクール)は1975年設立。ケニアでは上流階級の多くはイギリスに留学し、クイーンズ・イングリッシュを話します。スワヒリ語と英語が公用語といっても、スワヒリ語は日常生活には必要ですが、中学校以上の教育を受けたり、政府の仕事や貿易をするには英語が必要。日本の若者がスワヒリ語を習う、という場合、特別な関心や心意気を持った人が多く、面白い人たちが留学していました。

 いくら英語が通じるといっても、日本で仕事をするジャーナリストやビジネスマンには、日本語を習って欲しいし、ケニアで仕事をしようというなら、英語のほかにスワヒリ語も覚えて欲しい、というのが、私の願いです。

 ぺらぺらになることはなくとも、ある地域に深くかかわろうとするなら、相手のことばを理解しようという姿勢をもっていたいです。私のスワヒリ語は観光客の片言程度で終わってしまいましたが、英語の通じない村に滞在したときなど、キクユ族の村ならキクユ語を、ソマリ族の村ならソマリ語を少しでも話そうとする姿勢を見せることができたから、楽しい日々をすごせたのだと信じています。

<つづく>
08:41 コメント(1) ページのトップへ


2010/06/27
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>ケニアからの便り(18)ホームヴィジット

1979年8月11日発行 アフリカ通信5号つづき
 8月10日は、タマイさんにつきあって、町のあちこちへ行きました。
 YWCAは、三日間運良く予約もしないのにシングル部屋がとれて幸運でしたが、今夜はもうシングルはないと言われて、ドミトリィという6人の相部屋になってしまいました。シングルは47シル1400円で、相部屋は35シル1000円ほどです。町の高級ホテルのようなぐあいにはいきませんが、海外協力隊の人の話ではユースホステルは安いけれど町から遠いし、男も女も泊まれるからよくない、YWCAは、女だけしか泊まれないし町に近いから一番安全だ、というのです。おふろとトイレは共同です。

 タマイさんのあとをついて、下町のグローブホテルというのにも行って見ました。下町は一人ではぜったいに行ってはいけない、と言われているので、同行者があるときは、用事があろうとなかろうと見に行くことにしています。

 今日は金曜で、イスラム教の聖日なので、モスクにたくさんの人々があつまっていました。ナイロビはキリスト教とイスラム教とシーク教があって、ヒンズー教は印度系の人が信じているし、いろんな宗派があります。仏教寺院はありません。
 それから、イクバルホテルという日本人のヒッピーが利用するホテルでおひるを食べました。ハンドバックを必死にかかえこんでサモサとチャパティ(うどん粉のジリ焼き)とファンタで90円のおひるごはん。タマイさんと「貧しいなあ」と言って笑いあいました。

 夜はタマイさんと二人で、私たちに日本でスワヒリ語を教えてくれたカヒンディさんの家へ行きました。カヒンディさんは、電話局の教育担当官。奥さんは郵便局につとめているパートです。ケニアとしてはいい暮らしの方ですが、それでも家に行ってみると日本の水準からは考えられない質素なくらしです。子供たちは医者のうちと同じく、やぶれセーターにハダシでとび回っているし、部屋もわりにせまいほうです。

 おみやげに子供たち4人に一枚ずつハンカチと、作ったくす玉をあげて、花火で遊びました。花火を見る機会なんてないらしくて、たいへん喜び、寄ってきた近所の子に自まんしていました。しかし、中国のちょうちんが出る花火では火をつける方向とひもをつるす方向をまちがえて失敗しました。歌をうたったりしてすごして、ライスとじゃがいもと肉と豆の煮物で夕ご飯をたべて、写真をとっておわりにしました。車で送ってもらいました。

 車といえば、交通の方法が日本と同じで左側通行のせいか、町をゆく車の半分はダットサンやトヨタなど日本車です。しかし、修理代が高いのか、事故が多いのかまともな車は少なく、必ずどこかをぶっつけてへこましたままサビらかせて走っています。ナイロビの道は広くて並木なんかあっていいのですが、10分も走ると穴だらけのデコボコ道になって、私には運転できそうにありません。
========
2010/06/27
 電話局の教育担当官だったカヒンディさん、お世話になったのに、今は文通も途絶えてしまいました。ハダシで飛び回っていた子供たちも40代30代になって、ケニアを支える人材になっていると思います。

 私は国際運転免許証を持っていったのですが、結局ケニアで一度も運転をしたことはありませんでした。
 6月に放映されたNHKの『プレミアム8アフリカ紀行「第1回 東アフリカ トラック街道を行く」』という番組を見ました。東アフリカの運輸を担っている大動脈「トラック街道」をケニアからルワンダまで1500キロ旅する記録です。トラック運転手53歳のサリム・サイード・アリさんが、鉄のコイル30トンを積んでケニアのモンバサからウガンダのカンパラまで5日間かけて運ぶのですが、幹線道路でも穴ぼこだらけのなのは、30年前と変わっていませんでした。
 東アフリカの景色、なつかしかったです。

 グローブホテルは、タマイさんのスワヒリ語の師匠である西江雅之さんの当時の定宿。タマイさんは三鷹にあるアジアアフリカ学院で西江さんの教え子でした。このとき、西江さんは奥地にフィールドワークに行っていて、会えませんでした。このときから数年後、娘が2歳になったとき入学した大学で、学部で2年、大学院で2年、合計4年間西江さんの授業を履修しました。言語人類学者・文化人類学者として西江さんの研究は多岐にわたっており、退官後もお元気なようすをうれしく思っています。

<つづく>
02:07 コメント(0) ページのトップへ
2010年06月28日


ぽかぽか春庭「ナイバシャ湖」
2010/06/28
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>ケニアからの便り(19)ナイバシャ湖

1979年8月11日発行 アフリカ通信5号つづき
 8月11日は、ナイバシャ湖にドライブに行きました。リフトバレーを通ってナイロビから二時間くらいの所です。ナクル湖はフラミンゴの大群で有名ですが、今は鳥があまりいない季節で、フラミンゴもちらばっているとのことです。ナイバシャ湖もあまり鳥が多くなくて、それでもペリカンが空をとんだり魚をとったり、名もしれないツルのような鳥が立っているのがみえました。写真をとったけど、逆光だったのでうまくとれたかどうかわかりません。魚をとっている漁師がいたので写真をとってもいいか聞いてシャッターを押したらら、5シル150円取られました。

 夕方6時ごろナイロビにもどりました。YWCAは、土曜日のこととて、いっぱいなので、ついにホテルへいきました。町からちょっとはなれた博物館の近くにある、サファリランドホテルに部屋がとれました。庭をあるいているとけっこう日本人に会いました。町の中心部のヒルトンや680ホテルに比べ、ビジネスや研究できている長期滞在者が多いようです。「もう一人(日本人の)女の人が泊まっていますよ」と、教えてもらったけど、東大の学生とかいうので、おそれおおいから会いに行きませんでした。

 サファリランドホテルは、朝食付きで110シル3300円です。朝食がYWCAよりずっといいというのがとりえで、私にとってはとにかくやすいことがありがたい。ずいぶんけちって生活してるつもりですが、7月31日~8月11日の12日間で、千シル三万円がおわってしまいました。

 今、滞在させてくれそうな村をさがしているのです。村に入れば、一週間で砂糖10キロくらいのお礼で暮らせるそうです。そのかわりとうもろこしばかりの食事と水なし紙なし、蚊ありということになるでしょう。
 10日の晩訪問したカヒンディ氏が自分の母親とおじ夫婦の写真を見せてくれましたけど、そこにでもたのんでみようかと思います。

 私も何をすきこのんで文明から遠い村に入りたいのかわかりませんけど、大きな事いえば、文化の原点を知るために、一度都会の文化からはなれてみるのもいいことだと思うのです。

 ナイロビには文化人類学を志す学生がたくさん来ています。YMCAでも、オランダから女性グループできているという人類学の学生に会いました。社会組織と経済構造を知りたいそうですが、スワヒリ語もぜんぜん知らないのです。それでスワヒリ語の学校を教えてやりました。日本人ならまずことばの問題でこまるから、少しは準備できているのに、なまじ英語がしゃべれると、英語は世界共通のような気になっちゃうのですね。

 オランダの学生たちに、「私はアフリカ伝統芸能の研究者である」と自己紹介しました。本当は今のところ研究らしいことなんて一つもしてなくて、普通の観光客と同じなんですけれど。最初から観光と思って来た人たちはサファリに行ったり海岸に行ったり楽しく過ごしているのですが、獣医のタマイさんと私は、自分の目的に合った場所が見つかるまで、お金をつかうまいとして必死です。
==============
2010/06/28
 家族には、「文化人類学、芸能人類学のフィールドワークとしてケニア舞踊を研究に行く」という名目でケニア行きを許可してもらったので、気持ちとしては「観光ではなく研究」をしたいという意識はあったのです。しかし、研究というほどのことは何もできず、ボーマスオブケニアというアフリカダンスショウを見せている施設でダンス練習をしたくらいで、結局は観光旅行で終わりました。タマイさんは、動物孤児院やサファリパークで獣医研修をしたいと望み、アプローチしていました。自分のやりたいことを探し、身を置く場所を探し続ける、まさに青春の彷徨の時代でした。

<つづく>
06:02 コメント(2) ページのトップへ
2010年06月29日


ぽかぽか春庭「赤道の日々」
2010/06/29
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>ケニアからの便り(20)赤道の日々

1979年8月11日発行 アフリカ通信5号つづき
 同封の写真はナイロビ動物孤児院でとったものです。私のフィルムはだめになってしまったのですが、車の運転をしてくれた河合夫妻のカメラに入っていた分はたすかりました。花がきれいでしょう。もちろん私もきれいですが。ハハハ。

 明日の夜、山崎さんが(日本からケニアへ)来ると思うので相談がまとまれば、モンバサ海岸へ行ってみようかと思います。おまつりがあっておどりがみられると聞いたのですが、いつだかまだ確認していません。
 駅おじさんたちはたぶん今日か明日帰るのだと思います。今はカプサベットにみちこと行っているので、会っていません。ではまたね。
8月11日、ナイロビ サファリランドホテルにて 1979年8月11日
==========
2010/6/29
 これでアフリカ通信第5号までおわり。最初の10日間を夢中ですごして、そろそろ自分がケニアに来た目的をはっきりさせるべきだ、とあせってきたことがわかります。
 このあと、8月14日付け第6号には、2週間のケニア旅行を終えて日本へ帰国する叔父夫妻を空港へ見送りに行ったことや、みちこの家へ泊まりにいくことにしたことなどが綴られています。

 このときナイロビから日本へ帰国した叔父夫妻のうち、みちこの母親が亡くなったと連絡があり、6月28日に通夜、今日29日は葬儀でした。今お焼香から帰ってきたところ。叔父夫妻のケニアの日々、短くはあったけれど娘みちこがアフリカの大地で活躍する様子を見たことは、一生の思い出になったことと思います。

 以下、第30号までのアフリカ通信、一生に一度の「ロングバケーション」が書き続けられています。
 7~30号まで、タカ氏とタンザニア国境やアンボセリへ行ったこと、大晦日と新年を、ケニア東海岸のラム島で、タカ氏、みちこといっしょに過ごしたことなどが綴られています。1980年には、熱中時代スペシャル篇のケニアロケに遭遇してエキストラ出演(浅野ゆう子の留学生仲間という設定)したり、ボイという地方で日食を見たり、アフリカ通信全部書き写すと膨大な量なので、今回は第5号まで、30号まで断続的に記録していこうと思います。

 結局最初の意気込みとは異なって、何の「研究」もできずに私のロングバケーションは、ただの観光旅行で終わりましたが、この1年があったから、失敗と挫折と不遇つづきの私の人生でも、いじけずに過ごせたのだろうと思います。おっと、いじけずに過ごしたというのはウソ。いつもいじけて、ひがみねたみそねみの毎日であったことは事実ですが、悲惨な貧乏暮らしでもくじけずにいられたのは、水道も電気もないケニアの村で、笑って生きる人々の中に混じって暮らした日々があったからこそ。
 赤道直下のサバンナでのロングバケーション。アウトオブアフリカ、アフリカを出てからもあの太陽の光に照らされた日々を思い出すと、生きる元気が出てきます。

<アフリカ通信第一部おわり>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春庭1979年のケニア日記1979年7月

2010-08-05 08:46:00 | 日記
2010/06/01
ぽかぽか春庭十人十色日記2010>ケニアからの便り(1)去年のジャイカニュース

 検索大好きなので、用もないのにときどき知り合いの名前を検索してみます。自分の名前や家族の名前で検索すると「へぇ!こんな同姓同名の人が世の中にはいるんだ」と思うこともあるし、ときに知り合いがらみの思いがけないニュースに出会うこともあります。
 従妹の名前で検索してみたら、ケニアの話がでていました。日付は去年の今頃。私は中国赴任中のころで、日本のニュースなど見る余裕もない時でした。昨年の5月にジャイカボランティアニュースの中に従妹の名前が掲載されていたのです。
========
 ジャイカボランティアニュース 第2号 2009年5月1日より
 「去る1月28日、ミチコさん(1978~1980ケニア派遣/理数科教師)のもとに、嬉しい一報が舞い込んだ。それは、30年前のミチコさんの教え子が連絡を取りたがっているというものだった。「知らせを受けたのが私の誕生日の翌日でしたので、これは神様からのプレゼントだと思いました」と、ミチコさん。30年という長い年月を一気に飛び越え、ミチコさんと、教え子の一人であるセレム氏とのメールのやり取りは始まった。
 当時、中学生だったセレム氏が、現在はケニア園芸公社の総裁となり活躍していることを知り、ミチコさんは、「自分の子どもが立派になったような気分で本当に嬉しいです」と話す。現在、ミチコさんの娘さんが25歳で、セレム氏の娘さんが14歳。これは、当時のミチコさんとセレム氏の年齢にあたる。このことに長い時の流れを感じながらも、再び繋がった絆に感謝をしつつ、いつか再会できる日を二人とも強く待ち望んでいる。」
========
 30年前に私がケニアに出かけていったのは、従妹のミチコがJICAの海外青年協力隊に参加して、ケニアのハイスクールで理数科教師をして1年たったころでした。

 ミチコはケニアについて早々、研修で出かけた村の人からふるまわれた水を飲んで入院してしまいました。「女の人が遠くの水場まで何キロも歩いて水くみに行くような地区で、せっかく村の人が貴重な水をふるまってくれたのに、飲まなきゃ悪いと思って、思い切って飲んだ」あげくの災難。現地の人には大丈夫な水でも、生水は飲むべきでなかった。

 一ヶ月の入院生活ののちにようやく任地での仕事を始めることができたのですが、入院したため、辺鄙な赴任場所は避けてもらい、水道電気のある町の学校に赴任できました。ミチコの同僚のサイトウさんは、水も電気もない村に赴任しました。サイトウさんは、明るくてかわいい女性でした。小柄で見た目は強そうではありませんでしたが、海外青年協力隊員らしいバイタリティを持って活躍していました。

 ミチコやサイトウさんといっしょにトゥルカナ湖を旅行したり、ミチコが勤務するハイスクールのある町に泊まりに行ったりしました。
 東海岸のモンバサやラム島へ行ったときは、ミチコ、私、タカ氏、クロさん、あと誰がいっしょだったかしら。マリンディという海辺の町で青年協力隊の隊員さんの家に泊まらせてもらって、サークル合宿のようなノリで楽しかった。ここでも、生水はぜったいに飲むな、と隊員さんから注意されました。冷蔵庫に入っている沸かし水を飲み、飲んだ分は薬缶で沸かして補充しておく、というルールを守れば、冷蔵庫の中のものを食べたり飲んだり自由にしてかまわない、という人のいい隊員さん。海岸地帯で稲作指導をしている方でした。ケニアでの思い出は、いつも赤道直下の太陽に照らされ、私の青春ハイライトです。

<つづく>
06:04 コメント(0) ページのトップへ
2010年06月02日


ぽかぽか春庭「ケニアではモテ女」
2010/06/02
ぽかぽか春庭十人十色日記2010>ケニアからの便り(2)ケニアではモテ女

 ミチコはケニアで出会ったジャイカ同僚のマサミさんと結婚しました。外務省外郭団体ジャイカの青年協力隊員から堅実な会社の正社員に戻ったマサミさんとミチコの結婚は親戚縁者に祝福され、結婚式から10ヶ月後にハネムーンベビーが生まれたときも皆に祝ってもらいました。

 ミチコとマサミさんの結婚式の半月後に私とタカ氏の結婚式。タカ氏の場合、新聞記者を退職したあと「フリージャーナリスト」、別の語でいえば「プータロー」。結婚式から半年後には娘が生まれました。ちょいと早めに出産した私、非難囂々でした。「そんなふしだらな娘とは思わなかった」なんて言われました。今なら珍しくもないことで、「おめでた婚」とか、子宝を授かってのめでたい「さずかり婚」と呼ばれるようになっている「できちゃった婚」ですが、たった四半世紀前の時代は「親類の面汚し」扱いでした。

 ミチコはマサミさんとの間にハネムーンベビー誕生の次の年には年子で双子を出産し、子育て主婦業を続けました。マサミさんは堅実なエンジニアとして仕事をつづけ、ときには単身赴任で海外へ。ときには一家でネパール赴任などもありました。ミチコは次男を東大に入れ、またまた親戚縁者から祝福を受けました。一家で堅実な人生を歩んで、マサミさん定年退職のあとも、優雅に年金暮らしをするのでしょう。

 私は、夫が「趣味の会社経営」を続けるのを横目で見ながら働きづめです。相変わらず「祝福」なんぞには無縁の人生。同じケニアで出会った夫婦ふた組ですが、堅実な人生を歩んだミチコと、フラフラ自由ではあったけれど、貧乏暮らしを続けた私。ま、これも持って生まれた運命というものでしょう。
 アヤ伯母の葬儀の席でいっしょになったミチコは、トゥルカナ湖へいっしょに旅したサイトウさんは癌になって早世したと教えてくれました。ケニアですごした青春の日々から30年。それぞれの人生がすぎていきました。

 私にいいことがあったとすれば、端から見れた「ダメダメな人生」だったとしても、私自身は自分の歩んできた茨道をおもしろがってきたことだけでしょう。年金もない老後不安定な人生になってしまいましたけれど、今まで過ごしてきた日々は、私にとってはどの一日も大切な時間です。

 ミチコへ届いたというケニアからのメールは30年という時を超えて、なつかしい赤道直下の太陽を思い出させてくれました。1979年と1980年のケニア。
 30年前の私は、日本では「女だからといって、男に依存して暮らしたくない」と肩肘張って生きてきて「こわい女」と思われていました。太陽直射日光の下で、私はそんなツッパリもとれて、ケニアの男性達にモテモテでした。「あなたは色が白くて美しいから結婚してほしい」なんて言われ、そこらじゅうで申し込まれました。そりゃ、いくら日に焼けて真っ黒になったとはいえ、ケニアの女性よりは色が白い。

 けれど、『私の夫はマサイの戦士』という本を書いた永松真紀さんのように、思い切ってマサイ族男性の第二夫人になる、っていうようなことをする勇気もなく、ナイロビで最初の日に出会った日本人と結婚するハメになって青春時代は終わりとなりました。
 ケニアでの青春の日々、ますます遠くなっていきますが、なんといっても、私が唯一男性にモテモテだったひととき、永遠の輝ける日々です。

<つづく>

06:37 コメント(2) ページのトップへ
2010年06月04日


ぽかぽか春庭「30年前の手紙」
2010/06/04
ぽかぽか春庭十人十色日記2010>ケニアからの便り(3)30年前の手紙

 30年前のケニアで、生まれてはじめて「モテ女」の生活を楽しんだおかげか、今のところ私には「こういう夫と結婚したことも運命」というあきらめが身についています。
 70代の女性が書いた「死ぬまでに一度でいいから、身を焼くような恋を経験したい」という投稿を新聞で見ました。それを読んで「お見合いで結婚して、生涯に一度も恋い焦がれるという思いをしたことのなかった人が、恋に焦がれてみたいと感じる、そういう気持ちも分かるなあ」と思うけれど、私は、赤道直下の太陽で顔が真っ黒に焼けて十分に焦げたせいか「身を焼く恋」に焦がれる思いを残さず、自分の青春は十分に燃焼しきった、という感覚があります。

 去年2009年はケニア、ナイロビ市で夫と出会ってから30年目の年でした。むろん、夫は一言も私にはそんなこと言いませんけれど、夫にとってもケニアが青春の光に満ちた土地であったことは同じ。
 いつか、ナイロビを再訪することがあるかもしれないけれど、映画『愛と悲しみの果て』(原作アイザック・ディネーセンの「アフリカの日々(OUT OF AFRICA) 』)を見ただけで涙滂沱だったので、きっと空港に着いただけで、涙で景色が見えないことでしょう。
 映画でディネーセン(1885~1962、Baroness Blixen-Finecke 本名カレン・ブリクセンKaren Christence)を演じたのはメリル・ストリープ、恋人の飛行家デニス役はロバート・レッドフォード。

 1979年にケニアから実家に送った手紙の束が、段ボール箱に入ったままになっていました。私が育った実家を取り壊してアパートに建て替えるときに、妹が「いるなら持っていけ、いらないなら捨てる」と通告してきたので、引き取ってきた手紙の束です。
 2月末の上階からの漏水事故で紙が湿気て、読めなくなっている文字もありました。たとえ漏水がなかったとしても、ナイロビで買った質の悪い便せんを使っているので、いずれインクも紙も劣化し読めなくなる運命だろうと思います。30年たって、だいぶインクも薄れてきましたが、今ならまだ読めます。

 娘も息子もたぶん読みはしないだろうけれど、30年前の、父と母が出会った頃の日々を書き残しておくのも、金土地財産を残せない私に、ただひとつ子に残せる心の宝です。娘と息子は「心の宝はいらんから、実のある宝を残すべし」と、言うのはわかってるんですが、私の心の老化防止エイジングになるだろうと思うので、書き写しておくことにしました。

 以下、1979~1980の手紙コピーです。生まれてはじめての海外で、飛行機に乗るのも初めてだったから、最初の数通は緊張がよくわかります。アフリカにひとりで出かけたいき遅れの娘を案じている家族を安心させるための通信なので、父宛は、できる限り楽しい話題を書く努力をしていたのがわかります。
 「ナイロビへ向かう飛行機の同行者はいい人ばかり」とか、老親を安心させる言葉を並べています。姉宛の便りでは、あとで銀行から引き落としたお金を送金してもらう予定なので、無駄遣いをしていないことを証明するために、細かい金額の報告をしています。中学国語教師をやめて2年たち、貯金も底をついている中でのケニア行きです。
 かさばるので辞書を持って行かなかったから、書けない漢字はひらがな表記にしています。
 今月は、30年前のケニアを振り返ります。

<つづく>
05:23 コメント(3) ページのトップへ
2010年06月05日


ぽかぽか春庭「1979はじめての飛行機」
2010/06/05
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(1)はじめての飛行機

1979年7月28日 実家の父宛(カラチで買ったのであろうヒマラヤの雪山と木立の絵ハガキ。切手はアラブ首長国連邦United Arab Emiratesのもの。ドバイで投函)
 午後4時に成田を立って午後7時にマニラにつきました。空や雲がとてもきれいでした。バンコクも通ったけど、眠っていました。7/29の午前4時にパキスタンのカラチに到着して、市内のホテルに泊まりました。いっしょにナイロビまで行く日本人グループは大学生くらいの男の子が6人とその父親一人。二人で世界中を旅している60歳くらいの夫婦。若い女性が10人。日本人の妻になって、今度はじめてケニアに里がえりするというアフリカ人のおくさん。みんないい人です。

 カラチでは、午前10時から1時まで市内を歩きました。高校の先生という女の人と3人いっしょにマーケットをみてまわりました。
 カラチはとても暑い町です。50度くらいあるような気がします。そして屋台のやおやとか肉屋にはハエがわんわんいました。今はまた飛行機にのって、ナイロビへ向かっています。今は日本時間の7/29午後九時です。(アフリカ通信号外)

1979年7月30日 現住所の姉宛て(姉の家の二階に住んでいた)(ドバイで買ったアラビアのロレンス風の白馬に乗るアラブ人の写真の絵はがき。切手はケニア。ナイロビで投函)
 7月30日午前8時(ケニア時間午前2時)にナイロビ空港につきました。旅行社現地駐在員のセベ氏とスワヒリ語を教えてくれたブワナ・カヒンディが出迎えてくれました。とても寒かったです。
 旅行社の家のDoDoハウスにとまりました。新婚旅行中という河合夫妻とケニアにきて4ヶ月目という佐々木さんがいっしょにとまりました。ナイロビの町は道が広くて、赤やピンクの花が咲いていてきれいです。車で通勤するケニア人もいれば道ばたにすわりこんでいる人もいます。今日は病院にいって、傷をみてもらって、かのうしていなければあしたから見物して歩こうと思います。同行の女の人たちはお金をたくさんもっているのでおどろきました。私はケチケチ旅行にします。たらなくなったら、カードで「ときわ」からひき出しておくってもらいます。では金のかからんようせいぜいたのしくいっぱいみてあるきます。ではまたね 7/30午前10時 アフリカ通信号外

1979年7月30日 実家宛(キリマンジャロ山を背景にして立つキリンの絵はがき、切手はケニア。ナイロビで投函)
 いつもサインしているので、つい(この葉書の宛先に)自分の名前を書いてしまいました。今、7月30日午後3時(日本時間7月30日午後9時)いつも6時間の時差があります。ナイロビに無事つきました。今日は市内の繁華街に言って、ヒルトンホテルのロビーに行ったり、下町のやき肉やへ行ったりしました。DoDoハウスに泊まっていますが、郊外のとてもよい家です。今はニュースタンリーホテルの前のテラスでビールをのんでいます。日本の中瓶くらいで五シル10セント。日本円で200円くらいなんだと思います。しかし、チップをやるのかどうか、悩んだ結果あげませんでした。まったくチップというのは、世界中からボクメツすべき習慣だと思います。(1979/7/30 アフリカ通信号外)

<つづく>
09:38 コメント(0) ページのトップへ
2010年06月06日


ぽかぽか春庭「マニラのトイレ、カラチの市場」
2010/06/06
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(2)マニラのトイレ、カラチの市場

1979年7月30日アフリカ通信No.1 (姉宛PIAパキスタン航空の便せん)
 日本時間7/29午後9時。外はまだ明るい。現地時間では午後5時。(時差は6時間と前の手紙に書いているのに、さっそく計算を間違えている。計算に弱いのは子供の頃からだけれど、赤道惚けでますます計算できなくなっていた)

 お見送りありがとうございました。ゆっくり食事などできたらよかったけど、みんなより一時間おくれて成田についたので、あわただしくなってしまいました。飛行機はタラップを登るのかと思ったら、空港ビルから直接長いローカを通って飛行機に入ってしまうしくみになってしまいました。私がどの飛行機にのったかわかりましたか。空港利用料金とかいうものを千五百円とられました。

 とび立つ瞬間はとても気分がよかったです。どんどん畑や家が小さくなって、すぐ海に出てしまいました。それからはいろんな雲が窓の外にあらわれてたいくつしません。ちぎれ雲や雲海や様々な雲を、雲の上からながめていました。(席が窓側だったので)空が夕焼けになると窓をしめるようにいわれました。そして機内が暗くなるとウォルトディズニー制作の映画がはじまった。しかし字幕がないのでおもしろくとも何ともなかった。そしたらそのうちマニラに着きました。

 マニラはもう夜で夜景がきれいでした。ミィが「宝石!宝石!」と叫び出しそうにきらきらしていましたよ。バンコクも光ってましたが、カラチはあまり電気がついていませんでした。日本時間で7/29午前十時ごろカラチに着きました。なんせ、空へのぼることに関しては、これが本当のおのぼりさんだからマニラからカラチまででもう失敗しました。機内のトイレで手をふく紙かと思ってひっぱり出したら、それはトイレのいすにかける紙のペーパーでした。でも同じと思って手をふきました。

 それに機内食が何度も出るのですが、一番先に出た中に卵やきのように見えたのがあったのでついていたおしょうゆをかけたところ、それはお菓子でした。となりの席の人が笑っていました。それからは見なれないものはとなりの人に「これはなんちゅう食べ物ですか」とききましたよ。

 マニラのトイレで中で紙もって立っているおばさんに「シャクエンシャクエン」といわれて100円とられました。カラチ空港のトイレは、ただじっとはだしでうずくまっているピンク色のサリーをきた女の人に200円とられました。トイレにうずくまっているのもいい商売になります。

 カラチ市内のホテルに一泊しました。これは空港運賃に含まれているのでただです。いっしょにナイロビまで行く日本人が20人くらい泊まりました。私は高校の先生という女の人2人と同室になり、少し眠ったあと2時間ほど市内の見物をしました。シクロという小型オート三輪タクシーで三人で片道200円です。市内のマーケットを見たのですが、めちゃくちゃに暑くて、よくもまあこんな町でくらしていると思いました。屋台のやおやは小さいレモンやピーマン、しなびたきゅうりやほうれん草をならべていてハエがいっぱい。

 こじきがたくさんいて、脳性小児マヒの人や片足やこどもたちが寄ってきて「バクシーシ」というのです。これは「神のためにおまえは私をたすけるべきだ」という意味でお金をやるとこじきは「私のおかげで善行ができて神にほめられるからありがたいと思え」と感じるのだそうです。
 こちらはむこうをジロジロみるけれど、町中の人々が日本人の女の子をめずらしがってジロジロ見ました。きっと美人だと思ったのでしょう!
==========
2010/06/06
 初めて飛行機に乗って、飛行機のトイレや空港のトイレも初体験でめずらしく、きょろきょろと周りを見回している姿が、今となってはかわいらしい。当時、パキスタンのカラチでも、アフリカでも日本人女性などはあまり見かけない存在だったので、日本では経験したことのない、「人様から見つめられる」という経験をしました。
 また、こじきにお金を恵むとき、もらう方でなく、上げる方が「ありがとう」と言って感謝するというのも、日本からはじめて海外へ出て彼我の文化の違いを痛感した一コマです。

<つづき>
07:44 コメント(3) ページのトップへ
2010年06月08日


ぽかぽか春庭「ドバイ」
2010/06/08
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(3)ドバイ

1979年7月30日アフリカ通信No.1 つづき
 カラチ午後7時半発の飛行機にのりました。前の成田からの飛行機は日本人スチュワーデスもいて、設備もまあ一応そろっていたのですが、今度のはせまくなって、映画も何もなくておまけにむしぶろのような暑さ。前のは冷房がききすぎて毛布をひっかぶっていたのに、毛布どころかシャツもぬいじゃいたいくらい。暑くて汗がしみるのか、カラチで町中を歩きすぎたせいか、足の傷がいたみだしました。

 かのうどめの薬はもらってありますが食後というのがしょっちゅうたべているのでいつが食後だかわからないので、てきとうにのんでいます。(気圧の関係かしらんけど急にペンのインクがどどどとにじみ出してきてぽたぽたたれたのでペンはやめます。)消毒の方がカラチのホテルで一回しただけなので心配です。みんなも心配してくれて「破傷風になって足切断したらカラチで「バクシーシ」といって商売してね」と言ってくれます!

 前の飛行機はジュースが出たのに、こんどのは水なので食後の紅茶をおかわりしてます。そして前のは気圧調節がよかったのに、今度のは、ドバイ空港に立ち寄るために高度を下げたら耳がビンビン痛くなって死にそうでした。まったくひどいひこうきです。おまけにドバイではすんなりおりられなくて町の上をぐるぐるまわるのでひょっとしてハイジャックでもおきたのかと思いました。

 ドバイ上空からのけしきはすごかった。カラチも緑が少なく乾いた土色の町でしたが、ドバイはもう砂だけ。はじめ荒涼とした山々がみえて次はあたり一面砂だらけ。遠くは黄色い砂ぼこりでかすんでみえません。砂はまったいらなところもあるし波もようもあるし、しまもようもあります。所々に茶色っぽい木がやっと立っています。町は灰色の四角い家、地面は白茶けて草もはえていない土だけの土地です。

 ぐるぐる回って期待が右に左にかたむくので気持ち悪くなった人もいました。私はまた窓側だったので窓の外のけしきによって、あっ左にかたむな、こんどは右にいくとわかるのでだいじょうぶでした。やっとドバイにおりたら空港のアスファルトだかコンクリの上だかは、やけたフライパンの上にいるようで、熱風が吹きすさぶのです。カラチがめちゃくちゃ暑いのなら、こちらはやけくそ暑くてとても人間の町とは思えません。しかしはだかで穴ほって働いてる人もいるのです。はだかでも頭にはちゃんとターバンまいています。

 空港のポスト・オフィスで日本あての絵はがき出そうとして切手いくらかときいたら「ワンダラー」という。約200円だからたかい切手だと思ったけどさすがの私もねぎれないと思ってあきらめて一ドルだしたらちゃんとおつりをくれました。しかしドバイのお金もらってもしかたないから絵はがきをかうことにしましたお金をみせたら4枚選んでいいというのでかいました。一枚20セントけんとうだというから切手も20セントだったわけで、そんなら日本の切手よりそう高くもないわけです。

 パキスタンの人々はうす青やうす緑の長くてタブタブのシャツとたぶたぶのズボンをみんなきてました。女の子とはサリ姿もいるしパキスタン風シャツとズボンもいます。一般にあまり女の人はいませんでした。ドバイは白の上下にアラブ独特のかぶりもの。そして女の人はまったく出ていません。空港にいる女の人は皆インド人とか外国人です。町を空からみた時も暑さのせいか、ただのひとりも通りを歩いているようすはありませんでした。

 日本からマニラまでの空は雲が何層にもわたって変化し高度がかわるたびに様々の雲がみられましたが、このへんは雲も黄色ののっぺりした砂ばくのような雲で何の変化もありません。住めば都とはいうけれど砂ばくの町だけは住みたくない気持ちです。カラチもドバイも海に面した町です。ドバイの海は濃い緑色で船がとまっているのがみえました。
=========
2010/06/08
 30年後のドバイが、世界一高いビル(828m)はじめ高層ビルが林立する経済都市に発展するなんて、夢にも思えないドバイ・トランジットでした。第一、飛行機のトランジットで降りるまで、ドバイなんていう町があることすら知らなかった。
 足の傷のことを書いていますが、これは、出発直前にタンザニア大使館にビザを取りにいったとき、道路にはみ出していたブリキの看板に足をひっかけて、切ってしまったときの傷。治っていないままの出発になったのです。(ぼうっとしながら歩くので、やたらにいろんな物にぶつかる癖は今も同じ。電信柱に頭をぶつけるなんて漫画みたいなこともあります)。姉や父が心配しないよう、ナイロビに着いたら、何より先に病院へ行くと約束してありました。家族は「嫁入り前の娘が、個人旅行でアフリカに行くなんて、しかも怪我した傷が治っていないのに」と、ケニア行きに大反対でしたが、「行かずに後悔するよりは、行って後悔したほうがいい」と思ったのです。行ってよかったと思います。

<つづく>
06:56 コメント(3) ページのトップへ
2010年06月09日


ぽかぽか春庭「ナイロビへ」
2010/06/09
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(4)ナイロビへ

1979年7月30日アフリカ通信No.1つづき
 同行の日本人は、マニラでもカラチでもなんとなく一人では不安だから結局団体みたいにみんなかたまっていっしょに行動しています。いっしょにスワヒリ語を習った仲間の学生が2人。女の人は教師が多いみたい。だいたい一ヶ月も休みが取れる職業はそうざらにないものね。日本人のおくさんになったアフリカ人が、里帰りでケニアに帰るそうなのですが、ケニアに7つの子がいるというのです。それから推しはかると15歳くらいでアフリカ人と結婚して子供をうんだのち20才くらいで日本人と結婚したみたいです。モリタさんというのですが、ダンナさんも子供のいるアフリカ人と結婚するのは勇気がいったでしょうね。しかしほりが深く目が大きくとても美しい顔立ちで足も長いです。
 あと、60才くらいの老夫婦で世界中を旅してるという二人づれがいます。今度アフリカをまわれば世界全部に行ったことになるんですとさ。

 カラチのホテルで食べた肉の煮こみもからかったけど、ひこうきで出たカレーはもっとからかった。私が「からいのはニガテ、あついのはダメ」というと、みんなに「そうあまいこと言ってはアフリカを旅できない。二本のはしでとんでるハエをひょいとつまんで食べるくらいじゃなけりゃ」とひやかされました。お米は細長くポサポサした味です。食べないと体力おちると思って必死にたべました。

 カラチの町にもドバイの空港にも小銃を片手にして立っている人がいます。重いと思って登山ナイフはやめてくだものナイフにしたけど、やっぱり登山ナイフを持ってた方がよかったかなと思います。
 また高度が下がり出しました。今度はサウジアラビアのジエダという所です。前は白茶けたさばくでしたが、今度は赤茶けたさばくです。しかし、町はドバイより大きくきれいです。石油でもうけた町かもしれません。

 英語はなんとかつうじます。ごちゃごちゃいわないでウォーター、プリーズとか、ほしいものにプリーズをつけたらもってきてくれます。これはアフリカ通信第1号です。奇数番号は埼玉の姉宛に偶数は群馬の父宛に届くから、てきとうに交かんしてよむべし。ではまたね。(7/30午前一時半 アフリカ通信No.1おわり)

 アフリカ通信第二号 7/31発行。ナイロビ・ケニアより(時間はすべてケニア時間)
 ケニア第一日7/30午前8時起床。飛行機がついたのが午前2時。ベッドにもぐったのが午前5時ごろでしたから、ちょっと時差ぼけぎみ。ドゥドゥハウスはとてもよいいえです。ゆいいつの欠点は水の出が悪いことでおふろは一週間にいっぺんしかはいれないということですが、これは私にとって別だん不自由なことではありません。半月くらいはいれなくたって平気です。

 9時にフェアビューホテルに泊まった同行の人々をむかえに行って皆で銀行へ行きました。ドゥドゥの駐在員がマイクロバスの運転をしてくれるほか、とてもしんせつに世話してくれます。約30円が1シルに変わります。私は、はじめ50ドルだけかえました。365シルになりました。約1万円分です。他の人は300ドルとか、せいだいにかえてます。
========
2010/06/10
 私は「現地までの往復オープンチケット販売。行きの飛行機のみ団体利用」というツアーを利用しました。たまたま同じ飛行機を利用したという団体だったのに、ナイロビに着くまではカラチなどで連れだって行動しました。添乗員もつかない片道ツアーですから、皆慣れない土地で不安に思い、いつも3~5人が連れだって動いていたのです。ナイロビに着いた翌日のみ旅行社の駐在員が世話をしてくれて、2日目から個人行動でした。

 私は、旅行小切手を両替するにも、ちまちまと少しずつ換えていきました。小切手はサインしてない場合落としたり盗まれたりしても保障があるけれど、「おまえは子供のころから、お金を落としたりとられたりするのが得意だったから、絶対に1万円以上の現金を財布に入れておいてはいけない」というのが、姉からのアドバイスでした。1979年7月ごろのドル為替相場は1ドルが200~250円でした。1万円両替すると50ドルくらい。日本を出るときの旅行小切手も最小限におさえ、なくなったら、姉から旅行社のナイロビ駐在所あてに送金してもらうことになっていました。

<つづく>


2010/06/11
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(5)ナイロビの迷子

1979年8月1日 アフリカ通信No.2 つづき
 (7月30日ケニア第一日目)次にヒルトンホテルのロビーで待ち合わせて10人ほどで下町の肉屋へおひるを食べにいくことになりました。しかしいつもドジな私、エハガキを買うに手間取っているうちに皆は先へ行ってしまいました。私も目だたない女ですから、いなくなっても気づいてもらえそうにないのであります。

 しかたないからヒルトンホテルのロビーにすわっていると河合夫妻にばったり会いました。河合夫妻はおさななじみ同志の新婚夫婦です。1年間の新婚ぶらぶら旅行に出ているのです。私がまいごになったというと、ふたりはしんせつに前に行った肉屋についれていってくれました。前は車で行ったので歩いて行く道はよくわからないということで、下町をぐるぐるまわって店をさがしました。

 ヒルトンの前あたりはナイロビの高級街で人々の服もきれいで店もきれいで観光客もいっぱいいますが、下町はカラチの町ほどではないにしても、ヒルトンのあたりよりはずっときたない。人々はぼろい服をきて何するわけでもなく道ばたにすわっているのです。仕事がないのだと思います。

 やっと肉屋がみつかりました。肉屋というのは本当に肉をぶら下げて売っている店で、ぶたや羊がさかさまにぶら下がっている下をくぐりぬけて奥に入ると、解体した肉がゴロゴロころがっているのをほうちょうでぶった切ってそれを焼いてくれるのです。テーブルには下町の人々だけで日本人はいませんでした。それでまたヒルトンに戻ったら、皆もいました。皆は夕食に肉屋へ行くことにして、おひるは別の店で食べたのですって。それで私はスタンリーホテルで食べることにしました。

 テラスにすわっていると、飛行機でいっしょだったティナ・モリタさんに会いました。彼女はウガンダの生まれで今は日本人の妻になっている美人の黒人です。ウガンダに残してきた前の結婚の時の子供と、子供を預けてある母親に会いに来たのです。だんなさんは横浜でラーメンやをしているそうです。いっしょにおひるをたべて写真をとりました。

 そしたら、7月7日の便でケニアに来て一ヶ月間ナイロビのYMCAにとまっているという日本人に会いました。もとは奈良県の地方新聞記者だったという人で、仕事をやめてこちらに来たのだそうです。まったくいろんな人がいるものです。私はリュックとショルダーバックだけ持ってきて、ちょっと持ち歩くくらいのバッグがなかったので、バッグを買うのを手伝ってもらうことにしました。下町の店は安いけど、まだ一人で歩くほど慣れていないからです。
==========
 2010/06/11
 ケニアからの手紙第一報で、いきなりのタカ氏登場です。同じDoDoWorldというアフリカ専門の旅行社を利用していて、社長のクマさんや駐在員のセベさんを知っているというだけで、すっかり信用して下町ショッピングの案内をしてもらうことになりました。日本人同士というだけで全面的に信用して危険なダウンタウンをいっしょに歩いたのですけれど、当時は「日本人の女の子を信用させておいて、だましてカスバに売り飛ばすのは簡単」なんてアブナイ噂も出まわっていたので、どうして初めて出会った人を信用したのか。ちょっとヤバい状況でした。この日から30年もこの人とシガラむことになろうとは思ってもみなかったのですが。

 あとで聞くと、旅行社駐在員のセベ氏が「昨日ナイロビに着いたばかりの女の人がひとり迷子になっちゃって、困ったよ。他の旅行者の世話があるから、探していられないし、タカさん探してくれないかな」と、頼まれていたのだそうです。
 ナイロビに着いたばかりの人が、アブナイ人について行ったらたいへんだと思って探していたところに、日本語でしゃべりながらティナと写真をとっている私を見かけて声をかけたのです。

<つづく>
04:56 コメント(1) ページのトップへ
2010年06月12日


ぽかぽか春庭「ナイロビ・ダウンタウン」
2010/06/12
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(6)ナイロビ・ダウンタウン

アフリカ通信第二号 7/31発行。つづき
 (ナイロビの)インド人の店にはサムソナイトとかメーカー品がおいてあったけど高かった。アフリカ人の店では安ものがあって安かった。それでスワヒリ語でねぎったけれどたいしてまけてもらえなかった。やはり旅行者という顔をしていたのでしょう。合成皮革で千五百円だから、日本と比べてかわらないわけ。ということはケニアとしては高いわけ。でもカメラとノートと財布くらいがちょうどよくはいる大きさで役に立ちます。

 DoDoハウスの運転をしている男の人はササキさんというのですが、25くらいかと思っていたらなんと19才だというのです。そして15才から4年間ヨーロッパやインドを放浪して歩っているのだそうです。親は印刷やだということですが、出てくるむすこもむすこだが、出してやる親もえらいというか、かわってるというか。いろんな人がいるもんです。今度日本に帰ったら、高校1年に復学するそうです。

 夕食は昼に立ち寄った肉屋へ行って、肉をたべました。トマトの切ったのと塩といっしょに口にぶち込むのですが、肉が固くてかむのにたいへんでした。こちらの人は固い肉のほうが好きでやわらかい肉は二級品なんだそうです。日本人は金持ちと思って一級品をくれたのでしょう。肉がやける間はとなりのバーで飲みながら待っているのです。地酒というか白くてぶつぶつしたどぶろく麦酒、ほとんどアルコール分はなくてすっぱいのです。みんなはジュースと同じといってのみましたが、私はすっぱいのはニガ手なのでだめでした。このバーはアフリカ人の中下流用です。

 私に話しかけた人はおまわりさんでした。最初私がおっかなびっくりの顔をしていたので身分証明書を出してみせてくれました。そしてとなりにいる女の人と赤ん坊を自分の妻と子供だと紹介しました。私は妻は美人で子供はかわいいとほめたところ、むこうもあなたのスワヒリ語はたいへんうまいとか、ほめあいました。

 赤ん坊はわたしの髪をめずらしがってひっぱりました。私が学生だというと、おまわりさんは「自分ももっと高い教育を受けたいがむずかしい」といいました。こちらでは大学教育を受けられるのはほんのひとにぎりのエリートです。おまわりさんはしかしながら定職を持つ点で中流に入るわけです。職のない人に比べれば、くつみがきや新聞売りも上等です。とにかくこの店にはえたいのしれない人もたくさんいるのです。このおまわりさんと話せて楽しかったです。

 そのあとは一回宿に帰ったあと夜にこの町の最も高級というナイトクラブに行きました。最も高級といっても入場料と麦酒2本で50シル(1500円)くらいです。しかし、ナイトクラブといっても部屋の周りにイスとテーブルがあって真ん中でゴーゴーというかディスコというか白人や黒人がいっしょにおどっているだけです。そこへどどどっと黄色の日本人が入っていってしばし注目を集めました。

 さいしょはおどおどと様子をうかがいながめていましたが、勇敢なる女高校教師がおどりだしました。この人はちょっと私に似ているのです。みんなおどりに行ったので、私も踊った。(ディスコで踊るのは初めてだったけれど)うまく踊れました。週二回(モダンダンスの)レッスンにかよい、月に五千円はらうのもムダではなかったわけです。みんなは私に「いつもディスコにいってるのかとききましたよ。そこで私は「私は踊り子である」といいました。(しかし、元教師ということはバレているのです。)
=======
 2010/06/12
 タカ氏と下町のカバン屋などを見て歩いてナイロビの第一日目を過ごしたのですが、実は、案内してくれたときのタカ氏はまったく印象に残っていないのです。タカ氏はこのとき私に一目惚れしたはずなんですけれど。
 1979年に19才だった佐々木みきおさん、帰国後一時はアフリカ旅行社道祖神の仕事を手伝っていたこともあったらしいですが、今はどうしているでしょうか。もう50才になっているはず。どんな大人になったのか会ってみたい人のひとりです。
 当時はモダンバレエのレッスンを続けていましたが、日本でディスコなどに行ったことがありませんでした。ケニアに行く前、日本で中学校教師をしていたころは、ディスコなんて不良のたまり場だと思っていたようなカタブツでしたから、ナイロビで初めてディスコダンスを踊ってみて楽しかったのでうかれている気持ちが、手紙にあふれています。

<つづく>
07:52 コメント(1) ページのトップへ
2010年06月13日


ぽかぽか春庭「マサイ族の踊り」
2010/06/13
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(7)マサイ族の踊り

アフリカ通信第二号 7/31発行。つづき
 さてここ(2010/6/19注:ナイロビのナイトクラブ、ニューフロリダ)には白人の男客と黒人の女客がいます。女はすべて「お商売」のためにきているのです。こちらではこの種の商売を「カジ・ヤ・テンベア(散歩のおしごと)」といいます。みんな商売とは言えこざっぱりした服でメーキャップをなまめかしくほどこし酒をのみながら横目でチラリと反応をうかがっています。

 中には一人太っているけど色は白いカジヤテンベア嬢がいたので、きいたら白人とのハーフなんだと。「あなたはとても美しいからきっとよい男をお客にできるだろう」といったらよろこんで酒をおごるという。そしてインド人に交渉してるから、あれ、商売成立かなとみていたら、私に「インド人は好きか」と聞くのです。私にインド人をまわしてくれるなんて、ごしんせつに。
 それで「夫ときたのでだめだ」といって旅行社の駐在員をさしたところ納得してくれました。
 男の人たちは皆女にせまられて四苦八苦しています。12時ごろかえりました。
=======
2010/06/13
 ここまでで、ようやくナイロビ第一日目の報告が終わりになります。長っ!
 日本に無事帰り着くまでの手紙を全部UPしたら、大長編になりそうなので、休みやすみ気長に続けることにしましょう。家族へ送った手紙はNo.30まであって、最初のうちは詳細に毎日の暮らしを報告していますが、だんだん大きなイベントだけの報告になります。
=======

アフリカ通信第二号 1979年7/31発行。つづき
 7月31日(ケニア第2日目)は、マサイ族のおどりをみにいきました。フェアビューホテルに泊まっているソガさんという日本人旅行者がDoDoツァーを頼んだので、河合氏のランドクルーザーという草原でも砂ばくでも行ける車(ジープのワゴンカーのようなもの)で行きました。(郊外の)農場に着きました。

 ケニアがイギリスの植民地だったころにできたらしい農場で、家も古いけれどイギリス風植民地風の花がいっぱいの家です。ナイロビから車で一時間くらい走るとリフトバレーという広大な谷にでます。谷といっても谷底は平らで関東平野くらいのがタンザニアからスーダン、エチオピアまで続いているのです。そのリフトバレーの中に農場が広がっていますが、牛を飼う農場だそうです。

 その農場内に観光用にマサイ族を住まわしてやって踊りを見せるのです。入場料は50シル(1500円)です。ガイドの案内でマサイのまで行くと、マサイ族がぞろぞろ出てきました。まずみんなパチパチ写真をとります。ふつうマサイ族をを写真にとると、おこってヤリで攻撃してくるか「金をくれ」というかどちらかですが、ここは料金に含まれているらしくて、いくらとってもいいのです。ひととおり写真をとるとおどりになりました。歌いながら飛び上がったり歩き回ったり腰とあごをつき出すおどりです。やり投げの練習などもワンセットでみせてくれます。

 しゅう長のような人が観光客にみやげをかえと手まねで言っています。ソガさんは日本にあるアメリカ大使館につとめている英語ぺらぺらの人で、アメリカ人なみに三週間の夏休みがとれるのですって。ソガさんは「彼らの中に英語しゃべっているのがいるから話かけてみるとしゃべってくれない。きっと観光客にはマサイらしくみえるよう営業上しゃべらないのだろう」といってました。しかしスワヒリ語は少し通じました。入場料をはらったんだからいいと思ってみやげ品はかいませんでした。あとできいたらマサイはお金もらってないって。

<つづく>
09:05 コメント(2) ページのトップへ
2010年06月15日


ぽかぽか春庭「動物孤児院」
2010/06/15
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(8)動物孤児院

1979年7月31日アフリカ通信第二号 つづき
 マサイ族のおどりがおわると農場のハウスでお茶が出ました。私はジュースを3ばいとお茶をいっぱいとクッキーをたくさん食べました。ガイドに「十分たべたか」と笑われました。西洋人はみんなきどっていっぱいでやめてます。日本人はいやしいと思われたかな。

 家の奥には車椅子の老人がすわっていました。あいさつしてもいいか聞いたところ、どうぞというので「はじめまして。ごきげんいかが」とイギリス風の発音でいったのですが、耳が遠くてきこえないとのことです。きっと若い頃に植民地へ入って営々と農場を築いたのでしょう。そしてあく手してかえりました。

 それから動物孤児院へ行きました。ここは傷ついたり母親にはぐれたりした動物の収容所です。「動物園ではない」と入り口に断り書きがありました。野生動物を保護するのが目的でみせものではないという意味でしょう。広さはけっこう群馬サファリワールドくらいあります。ひょうが木にのぼってのんびりひるねしていました。望遠もってきてよかった。しかしフィルムがうまく巻けなくなってしまったのでカメラをあけたのでたぶんこのフィルムはだめになったと思います。

 夜はまた皆は肉屋へ行くというので、私はハウスに残りました。河合さんの奥さんがごはんと鶏とだいこんのにこみを作ってくれました。ハウスにいれば日本食は十分食べられるそうです。私はあとかたずけを手伝いました。
 ハウスは一泊15シル(450円)。食事はたべた分だけ頭割りで材料ヒを出し、作るなりかたづけなりを手伝うというしくみです。

1979年8月1日アフリカ通信第3号
 1979年8月1日は、病院に行きました。最初教えていただいた病院はナイロビホスピタルでした。ササキさんが送ってくれたのですが、そこは、ナイロビホスピタルではなくて、医学大学でした。そこで車からおりようとした黒人に道を聞くと車でつれていってくれました。医学生だそうです。ナイロビ病院は、しかしながら有料でした。それで「お金ナイ、シナペサ」というとおいかえされ、ケニヤッタ病院へ行けと言われました。道がよくわからないけど適当に歩いていたら偶然星野学校をみつけました。星野さんは沼田の出身で新聞記者をやめたあとナイロビでスワヒリ語の学校をひらいています。奥さんももと教師でした。ちょうど朝食中にたずねてしまったのですが、生徒のひとりがケニヤッタ(病院)までつれてきてくれました。

 ケニヤッタは無料だがたいへん混むと教えてくれましたが、待つのは覚悟で本や折り紙を持って出たのです。しかし受付がなかなかみつからずこまりましたが、いったん受付の列にならぶとあとはスムースにいきました。おおぜいの人が待合室につめかけていましたが、いっせいに私をみて、けっこう手まねやらで並び方を教えてくれます。ナイロビ市内はたいてい英語が通じますが、さすが無料病院は話せない人の方が多かったです。しかしとなりにすわった人は大学で働いているとかで英語が通じました。大学で働くといっても無料病院にくるくらいだから下働きなのでしょう。

 しんりょう券をもらうまで30分くらいまち、しんりょう券をもらってから名を呼ばれるまでまた30分くらいまちました。
========
2010/06/15
 ケニアは、1963年にイギリスの植民地から独立。初代大統領のケニヤッタ(最大部族のキクユ族出身)から2代目のモイ(少数部族出身)に変わったばかりで、国全体が新興の気概に溢れていました。人種差別(アパルトヘイト)を続けた南アフリカ共和国と異なり、ケニアでは、残留したイギリス人も黒人も平等の政策で、白人は権力を黒人に譲り渡し、残った白人は農場経営や大学での研究などに携わっていました。

 ケニアはイギリスの社会制度をそっくり導入したので原則として公共病院は誰でも無料です。イギリスも同じですが、私立病院は設備がよいが高額料金をとられ、公共病院は医療設備は古かったりするけれど、無料。

 貧富差が広がった現在では、金持ちは私立病院へ、貧乏人は公立病院へというのがさらに徹底していることでしょう。医者への給料も差が大きいので、公立病院からの人材流出がはなはだしく、病院として機能しないまでになっているという報道もあるので、ナイロビの貧しい病人たちが心配です。

<つづく>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春庭1979年ケニア日記 目次

2010-08-01 11:48:00 | 日記
2010/06/30
ぽかぽか春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>ケニアからの便り(21)ケニア日誌

ケニア日誌
 家族へ送った手紙のほか、帰国してから写真をまとめたて貼ったスケッチブックに、毎日の記録が残っています。
7/30 ナイロビ着 DoDoハウス泊。町見物
7/31 メイヤーズファーム(農場とマサイの)、動物孤児院見学
8/01 ケニヤッタ病院
8/02 ナイロビ博物館
8/03 キコンバ(ナイロビスラム街)同行、タカ氏カメヤマ氏キムラ嬢。
8/04 ボーマスオブケニア(ケニア民家園)
8/05 空港で叔父夫妻を出迎え
8/07 キコンバ(ナイロビスラム街)
8/08 YWCAに宿泊
8/09 星野学校卒業式出席
8/10 カヒンディ氏のお宅にホームヴィジット
8/11 ナイバシャ湖へドライブ
8/12 ボーマスオブケニア。叔父夫妻を空港へ見送り。
8/13 みちこの家へ行くため切符を買いに駅へ
8/14 汽車でキスムへ
8/14・8/15 みちこの家滞在
8/16 ナイロビへ戻る
8/17 みちこと夜行列車でモンバサへ。同行、カメヤマ氏
8/18 モンバサ・フォートジーザス見物(アラブ人が18世紀に築いた砦の廃墟)
8/19 ヒンズー寺院見学
8/20 モンバサ海岸
8/21・8/22 マリンディの海外青年協力隊員宅を訪問。農業指導にあたっていた田本氏の家。
8/23 ゲディのアラブ人遺跡を見学
8/24 マリンディからモンバサへ戻る
8/25 モンバサから夜行列車でナイロビへ
8/26 ナイロビに戻る
8/27・8/28 マサイに宿泊 同行、カメヤマ氏ヤマザキ嬢
8/29~9/05 マラリア闘病生活
9/06 ナイロビナショナルパーク(動物保護区)同行エンド氏ほか。
9/07 ボーマスオブケニア
9/08~9/12 タカ氏&タカハシ嬢とナマンガ滞在
9/13 ナイロビに戻る
9/14 ナマンガ。タカ氏とルカスの家に宿泊
9/15 炭酸ソーダ工場見学&アンボセリナショナルパーク。同行タカ氏タカハシ嬢
9/16 ルカスのたばこ畑見物
9/18 ナマンガ保育園見学 ナイロビへ戻る
9/21 YMCAのプールで水泳
9/22 カヒンディ氏、ワイナイナ氏とギカンブラ村、ウゴングタウン訪問
9/23 下町散歩
9/24~9/28 ボーマスオブケニアでアフリカ民族舞踊の練習
9/29 タカ氏と映画『ワイルドギース』を見た。
9/30 ハッサン(ソマリ族)とイシリー地区のムーサ(エチオピア人)の家を訪問。
10/01 午前中ボーマスオブケニアでダンス練習。午後、カヒンディ氏の車でギカンブラ村へ。カヒンディ氏の伯母(ママ・アンボイ)宅へ。
10/01~10/07 ギカンブラ村ママアンボイ&ムゼーの家にホームステイ。
10/09~10/12 ボーマスオブケニアでダンス練習
10/13 ソマリ族の結婚式に出席
10/18 ハッサンとナイロビナショナルパークへ。
10/19 カヒンディ氏のお宅に宿泊
10/20 カヒンディの奥さんの実家(エンブ近くの田舎)を訪問。宿泊。
10/26 タマイさんと動物孤児院へ。ビザ延長一回目。
11/01 ハッサンのいとこフーレとアルフィ夫妻の家を訪問。イディのお祝いに呼ばれる。(イディは断食ラマダン明けのお祝い)
11/03 YWCAの事務長ミセス・ジェリダの妹の結婚式に招待される。
11/4~11/27 ナイロビ郊外ケニアブルーリー(ビール会社)の社宅に住むルル&ブランディン夫妻の家にホームステイ。サファリパークホテルで泳いだりルルの娘ヤスミンの子守をして暮らす。
11/29 みちこの家へ。
12/01 カカメガショウ(産業博覧会)見物
12/02 キタレ博物館見学
12/03 トラックでロドワへ。ロドワ泊
12/04 トルカナ湖近くのノルエー人の家に宿泊。みちこ、サイトーさんと。
12/05 トルカナ湖でナイルパーチフィッシング。巨大魚を釣る。
12/06 ロドワへ戻る。
12/07 キタレへ戻る
12/08・12/09 みちこの家滞在
12/10 イテム泊。
12/11 綿畑見学 カバルネット泊
12/12 マリゴットからバリンゴ湖へ 。カンピヤサマキ泊
12/13 マリゴット泊
12/14 ナイロビに戻る
12/16 みちこ、タカ氏、ハッサンとディズニー映画『バンビ』を見た
12/17 みちこと『ウィズ』を見た
12/18 海外協力隊員ウエキさんタカギシさん、みちことモヤレへ。イシオロ泊。
12/19 トラックを待ち、マルサベットへ。
12/20 マルサベットからソロロへ。ロッジがないソロロで警察署に泊めてもらった。
12/21 ソロロからモヤレへ。ゲリラ組織(シフター)出没の地域。
12/22~12/25 モヤレ滞在。エチオピア領モヤレで結婚式に参加。
12/26 ナイロビ着。
12/27 ナイロビからモンバサへ。
12/28 マリンディ経由ラム島へ。同行は、みちこ、タカ氏、クロカワ氏、オノ嬢。
12/29 バハティロッジ宿泊。ラム島で海水浴。ラム博物館見学
12/30 マンダ島の遺跡見学。画家田中槇子さんと出会う。
12/31 田中槇子さん宿泊のペトリーズインで忘年会。

1980年
1/01 パテ島へ。ファザ村宿泊。
1/02 パテ島散策
1/03 パテ村の遺跡見学
1/04 ラム島へ戻る
1/05~1/08 ラム島散策と海水浴
1/09 ラム島からモンバサへ戻る
1/10 モンバサからナイロビへ
1/11・1/12 日本テレビ『熱中時代』のナイロビロケにエキストラ出演
1/13 ハッサンと映画『ビューティフル・ピープル』を見た 
1/14・1/15 マガディ湖でキャンプ。同行、エンドさんナカノさんコータロさんニャンブラちゃん。
1/16~1/19 ナイロビ
1/20 シティパーク散策。同行、クロカワ氏カノウ氏ミヤギ嬢。
1/21 オオツカ嬢と下町散策
1/22 ウゴングヒルでキャンプ。同行、クロカワ氏、ナカノ氏、オオツカ嬢、 
1/23 ナイロビ・ナショナルパーク 。同行、同上。
1/24~1/26 ナイバシャ湖でキャンプ。同行、同上。
1/27~1/30 マサイマラ動物保護区へ。同行、同上。
2/01~2/03 ナイロビ。クロカワ氏空港へ見送り。
2/04 動物孤児院へ。同行、ナカノ氏
2/14 シティパーク散策。同行、ハッサン、サンディ、テリー。
2/15・2/16 日食見物にボイへ。同行、アベ氏、ナカノ氏、オノ嬢。
2/20 映画『アフリカ物語』主演キャティの写真集撮影のガイド。
2/21~2/27 ナイロビ
3月~4月12日 ナイロビDoDoハウスに宿泊。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする