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ぽかぽか春庭アーカイブ「(す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』」

2018-11-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181110
ぽかぽか春庭アーカイブ>「す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』

 2003年のアーカイブです。
 読書記録をつけ始めた1977年以前に読んだ本を思い出す、という決まりで始めましたが、須賀敦子を読み始めたのは1990年代から。

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at 2003 10/08 07:33 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.13(す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』

 若い頃出会い、共にすごした仲間たちを、30年のときを隔てて回想し、生き生きと描き出している。熱い議論を交わす仲間たち、キリスト者による社会変革をめざして苦悩する仲間たちが、一行一行から、行間から、立ち上がる。
 須賀は、棚卸しをする本の革表紙の匂いまで伝わるように、思い出をいとおしみつつ書き綴る。「珠玉のような」というありきたりの形容しか思いつかない自分がなさけなるような、美しい日本語。

 『コルシア書店の仲間たち』あとがきから。書店をともに切り盛りしたイタリアの友の死の知らせをうけて。
 『ダヴィデの死を電話で知らせてくれた友人にたのんで、私は新聞の記事を読んでもらった。葬儀のミサ参列者の名を、彼は、ひとりひとり、ゆっくり読んでくれた。カミッロをはじめ、この本に出てくる人たちの名が何人もあった。記憶の中の、そのひとたちの、ちょっとした身振りや、歩き方のくせが、ゆっくりと私の中を通って行った。』

 亡くなった友を思い出す、友人たちの名を聞き、彼らのしぐさや姿を思い浮かべる、そういうひととき、私たちは遠くへ去ってしまった人々と共に生き、今はそばにいない人たちが私たちの中によみがえる。
 須賀敦子も、その死後なお、どんどん作品が出版される作家のひとり。味わいつつ、いとおしみつつ、読んでいきたい。

 須賀敦子の本を読み始めたのは、1990年発行の『ミラノ霧の風景』が出会いの一冊。須賀敦子、たった十年余の作家活動だったが、亡くなるまで次々とすばらしい本を私たちに与えてくれた。
 イタリアのこと、育った関西での思い出、東京での学生生活、フランスへの留学。何を語っても、須賀の日本語で読むと、イタリアや関西が自分のふるさとであるかのごとく、親しくなつかしく目の前に現れる。『トリエステの坂道』『ヴェネツィアの宿』『地図のない道』などなど。

 『遠い朝の本たち』、いつか私もこんなふうに読んだ本のことを語れるようになりたいけれど、ま、こればっかりは、身の丈にあわせて、才無き者は才なきままに、おしゃべりしましょ。

 須賀敦子は、『コルシア書店の仲間たち』の中に、亡くなった友人を永遠に描き込めたけれど、私はただ、早く亡くなった母や姉の面影を追うばかりで、嘆きに沈むことが多い。母が死んで40年近く経つのに、未だに母の死が悲しくてならない。
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2010/01/22
 2002年4月に、姉が医者の誤診のために54歳で亡くなった。子宮肉腫という難病であったのを、「子宮筋腫が見つかった。放っておいても心配ないけれど、心配なら、切りましょう」という医者の診断を信じて手術を受けた。1年後に具合が悪くなって、同じ病院で診てもらったら、医者は「筋腫は切っちゃったんだから、悪くなるはずがない!」と怒鳴った。

 セカンドオピニオンを求めたのに、診断書を出そうとしなかった。子宮筋腫と診断した医師は「もう一度手術しなおす」と、再手術し、腸も胃もほとんど摘出した。
 実は、肉腫が転移してもう手遅れなのだった。肺へも転移していた。医者は「抗ガン剤を使う」と主張したが、その医者をもう信用できず、故郷のホスピスへ転院した。

 最初の診断時に肉腫と診断できていれば、助かる道もあった。でも、肉腫は癌よりももっとたちが悪く、ごくわずかな症例しかないので、藪医者には診断がつかない難しい病気だった。
 がんセンターへの紹介状を知り合いの医師からもらい、転院を希望したのに、藪医者はそれを許さず、再手術した。自分たちの誤診が他病院で明らかにされることを恐れたからだった。患者のことより、自分の保身を優先した医者だった。

 母は心臓病をインフルエンザと診断され、姉は子宮肉腫を子宮筋腫と誤診された。つくづく運がなく、藪医者に殺されたのだった。

 再手術前の家族への説明で、医者はわざと「ユーテリン・サルコーマ」という病名を言い、「あんたらシロートは、どうせわからないのだから、黙って医者の言うとおりにしていればよい」という態度だった。
 私は、インターネットを使って、ユーテリン・サルコーマとは子宮肉腫のことだと知り、病状を調べた。姉は、1年前なら1期で、このとき正しい診断がでていれば助かる道もあった。病名がわかった1年後には4期に進んで、転移しており、抗ガン剤を使ってももう助からないとわかった。

 姉と話し合い、姉はホスピス転院を選択した。覚悟を決めた姉の最後は見事なものだったが、残された家族は、どうして最初に「子宮筋腫」と言われたときセカンドオピニオンを求めなかったか、悔いが残った。

 姉が亡くなって、落ち込む気持ちを奮い立たせようと始めたのが、ホームページ作りだった。2003年の夏、ホームページをネットにUPし、2003年9月から毎日更新のカフェコラムを書き出した。この「毎日更新」を続けることで、私は姉の死からも立ち直れた。
 「毎日更新すると、筆が疲れるから、休憩を挟んだほうがいい」というネット先輩の忠告を真に受けて、「休載日」というのを設けたころもあったけれど、別段、むりやり休載する必要なんてなかった。


 無理に書いているなら「筆が疲れる」ということもあるのだろうけれど、私にとって、書くことは息をすること、おしゃべりすることと同義で、おしゃべりする速度、すなわち1分間にローマ字変換で400字詰め原稿用紙1枚強をワープロで打ち込むことができる。ニュース原稿の音読が1分間に400から500字分だから、ほぼしゃべる早さで書くことができる。一日に5分10分のおしゃべりは誰でもできる。私にとって、一日に1600字分の文章を書くことは、門口のまえで5分ほどかわす立ち話と同じ。
 母や姉と、心の中でかわすおしゃべりを、私は指先でキーボードから打ち出している。

 お母さん、梅がさいたよ。ねぇちゃん、大寒なのに、ぽかぽか陽気だったよ。でもまた寒くなるんだって。

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20181110
 「神も仏もあるもんか」と、父は言っていたけれど、私は神も仏も、自分の心の中に住むのだと思っているから、母も姉も心の中の天国にいます。だから、神や仏に祈るかわりに、母、父、姉に祈ります。
 お父さん、妹モモの一家をお守りください。ねぇちゃん、ねぇちゃんの長女次女の一家をお守りください。お母さん、私の一家をおまもりください。

 ちゃんと役割分担してあるので、しっかり守ってくれるだろうと思います。

<つづく>
コメント (2)
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