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アフリカの日々2008年4月

2011-02-26 19:01:00 | 日記
2008/04/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(1)愛と悲しみの果て

 『アウト・オブ・アフリカ』は、デンマークの女流作家、ディネーセンの自伝的小説です。タイトルの日本語訳は『アフリカの日々』

 シドニー・ポラック監督で映画化され、カレン・ディネーセンをメリル・ストリープが、恋人デニスをロバート・レッドフォードが演じました。
 邦題は『愛と哀しみの果て』
 1985年公開。1986年のアカデミー賞、作品、監督賞ほか7部門で受賞した、評価の高い映画でした。

 この映画、ロードショウを姉とふたりで見にいったとき、冒頭シーンから、とめどなく涙が流れました。姉にかくれて涙をふきふき映画を見ました。
 数年前に私がすごしたアフリカの大地がなつかしくて、泣けたのです。

 サバンナの大地に広がるコーヒー畑も、ンゴング高原にふきわたるアフリカの風も、ライオンの咆哮さえ、私にとっては、青春の「アフリカの日々」でした。

 ナイロビに着いた初日に迷子になって、ある男に町を案内してもらったという出会いについては、毎年、留学生たちに話します。
 「 My first African day, I lost my way、、、、」と始まる「ケニアで夫に出会った話」は、毎年、大うけです。

 なぜ、この話を授業の最初にふるのかというと、私の英語がクィーンズイングリッシュでもなくワスプイングリッシュでもなく、完全に壊れている「broken completely」であるという言い訳をするため。

 ナイロビの上層家庭はクィーンズイングリッシュを話しますが、下町の英語はスワヒリ語とチャンポンのブロークンです。私は下町や田舎の人々とつきあってきたので、英語スワヒリ語チャンポンのブロークンイングリッシュが身につきました。

 下手な英語を上達させる努力を放棄し、そのかわり、「私の英語は、ナイロビ下町方言のブロークンイングリッシュです」と言いわけしておくのです。発音まちがえても、文法まちがえても、「This is Nirobi downtown English」。
 楽なほうをとる主義。

 「以上のようなわけで、すみません、私の英語は完全にブロークンです。This is the story of my African day. So, sorry, my English is broken completeley.
 さて、私の家族を紹介します。私はケニアで、親切な日本人男性と知り合って結婚しました。ケニアではとても親切でしたが、日本の悪しき伝統により、彼は結婚後は少しも親切じゃありませんでした」

 ここで学生はニヤニヤ。「私の国でもそうだ」とか言う人も。

 「私の家族は、娘がひとり、息子がひとり。義理の母ひとり。彼女は、私の法律上の夫の母親です。
 そして、義理の夫がひとり。彼は仕事と結婚しました。仕事依存症です。私は、日本の典型的なワーカホリック未亡人ですが、陽気な未亡人、なぜなら、今、すてきな学生たちといっしょだから。ようこそ、私の教室へ。よろしくね。スワヒリ語でごあいさつ。お目にかかれてうれしいです。
 And then, I introduce you, my family . I have a dauter, a san, a stepmather in low. She is a mother of my step husband in low And, I have a stephusband in low, he marry his work.he is a typical workaholic. I am a widow of Japanese workaholic man. But I'm a merrywidow. Because, I have nace students now. Welcome my class. Nice to meet you. In Swahili langwage , Ninafurahituona 」

 ワーカホリック未亡人とか、義理の夫の部分、笑ってほしい所なんだけれど、最近は、本気で「気の毒に」という顔をする留学生もいるので困ってしまうけれど。
 今年は、フィリピンの大学で教師をしているベルさんが大笑いしてくれて、よかったよかったウケた!

 毎年の「英語が下手ないいわけ」として、私は毎回、サバンナの日々について語り、毎回夫との出会いを反芻する。私の「法律上の夫」は、思い出すこともないかもしれない「アフリカの日々」を。

 私と夫の出会いキャッチコピー「ケニアで迷子になって愛を拾った。今では愛が迷子になってる」

 アフリカナイロビの町での出会いと、その後の悲惨な結婚生活について、愚痴のタネはさまざまなバリエーションで書いてきましたが、アフリカ話、まだまだあります。私の「愛と哀しみの果て」の物語。

 今回はナマンガでのホームステイの話。

<つづく>
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2008年04月29日


jぽかぽか春庭「ナマンガ郊外の夕日」
2008/04/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(2)ナマンガ郊外の夕日

 30年も前のこと。
 1979年~1980年、アフリカのケニアに滞在していました。

 1964年にケニアがイギリスから独立して15年。 1978年に大統領が初代のケニヤッタから二代目のモイに代わり、いよいよ草創期から発展期へ入るのだ、という意欲に輝く若い国家でした。

 政府やODA関係者のほかは、日本人観光客もあまりおらず、知り合ったバックパッカーたちは、お互いに情報交換をしながらケニア滞在を充実させていました。

 日本人バックパッカーたちは、ケニアの首都ナイロビを拠点とし、仲間たち何人かで相談がまとまると、地方へ出かけていきました。

 ナイロビの町ではそれぞれ勝手気ままに町歩きをしているバックパッカーたちも、地方へのひとり旅は無謀。
地方に電話のある家など少なくて、緊急の場合の連絡もとれません。交通手段もない地方では、ひとりではたちうちできない出来事もおこるからです。

 旅仲間のひとり、タカ氏。ケニアにいたころはJust friendで、のちのち結婚するとは思っていませんでした。
 旅仲間でいたころは、いい人だったんですけれど、、、、、。

 1979年9月。ケニアとタンザニア国境の町、ナマンガに半月ほど滞在しました。このときは、バックパッカー仲間のクニコさん、タカさんと。

 ナマンガの小学校や保育園を見学させてもらったり、キリマンジャロ山をながめたり、野生動物公園(ゲームパーク)で、キリンやシマウマを追いかけて走ったり。

 9月14日のこと。バスに乗って、ナマンガの近くの農村へタカ氏とふたりで出かけました。
 
 ヤギ農家の前で、ヤギの群をぼんやり眺めながら、ゆったりすぎる時間を楽しみ、タカさんととりとめもなく話し続けました。

 放牧から帰ってきた山羊の母親が、留守番していた子ヤギを捜し当てて乳を飲ませるようすが面白いのです。
 何十頭ものヤギの母子。それぞれの身体の模様がそっくりで、父親の遺伝子はまるで関係ないがごとく、黒ヤギの子の母は黒く、ブチの子の母はぶち。
 母ヤギを見て、ほら、あそこにいるのが子供でしょうね、と、推測すると、母ヤギのメェ~という声を聞き当てて、子ヤギはとことことおっぱい目がけていきます。

 ヤギをみながら話し込んでいたら、時間を忘れ、ナマンガへ向かうバスの時間に間に合わなくなってしまいました。

バス以外に交通手段はなく、ナマンガ町のゲストハウス(安宿)に戻るにもどれなくなってしまったのです。
 ヒッチハイクしようにも車も通らないし、野宿しかないか、と、困り果てていたら、近づいてきたオッサンがいました。 
 私のたどたどしいスワヒリ語でも、なんとか話が通じました。トラックがむこうのほうに止めてあるのだそうです。
 オッサンは、家に泊めてくれると、いいます。

 私一人だったら、初めて出会ったオッサンについていくことはできなかったでしょうが、ふたりだったので、ちょっとは心配しながらもついて行きました。

 タカ氏、見た目だけは「コワモテ」です。黙って立っているとジャパニーズ・マフィアかと思われて、スリもひったくりも寄ってこないので、バックパッキング旅行の連れには最適。

 うさんくさい怪しげな見た目なので、ナマンガの町に到着したばかりの日、「日本赤軍」の手配書のひとりに似ているといわれて、ナマンガ警察に一晩拘留されたほどです。
 このときは、警察署からナイロビの日本大使館までパスポート番号の照合をしてもらって、「逃亡中の日本赤軍の一味」という疑いは晴れました。

 この無骨な男といっしょだったら、そう野蛮な事件には巻き込まれずにすむのではないか、という根拠のない安心感から、オッサンのトラックに乗せてもらいました。

<つづく>
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2008年04月30日


ぽかぽか春庭「ニャマ・ヤ・ンブジ、ルオ族の家でオームステイ」
2008/04/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(3)ニャマ・ヤ・ンブジ

 トラックが着きました。
 トゲのあるソーントゥリーの枝で家のまわりを囲って、野生動物よけにしています。
 質素なつくりの家でしたが、庭も床もほうきできれいに掃き清められ、清潔です。

 泊めてもらったのは、ルオ族の一家でした。
 ルオ族の一家、おっさんの名前はルカス。

 家には子どもたちがワイワイと大騒ぎしていたので、安心しました。
 笑顔のかわいい子どもたちがいる家なら、いっしょに泊まっても大丈夫だよね、と、ジャパニーズ・マフィアもどきの連れと話しました。

 一家みな、日本人を見たのは初めてでした。オヤジさんが、なにやら色白の人を連れてきたので、あれは一体白人なのかと小さい子供たちがいぶかる。

 中学生のお姉さんが、「たぶんチャイニーズだよ」と、学校で教わった知識を自慢げに披露している。
でも、自分だってチャイニーズなど見るのは初めてのことで、珍しいから、小さい子たちのように、じろじろ見たい。でも、じろじろ見るのは失礼だということは、習っているお姉さんなので、ちょっと、はにかみながらのじろじろになる。

 せっかくの推察だけれど、チャイニーズではなくて、ジャパニーズなんだよ、私たち。
子供たちからの質問。「ジャパニってのは、チャイナのどのあたりの町なの?ナイロビから車で行くと、どのくらいでジャパニにつく?」
 「自動車のトヨタって知ってる?]
「うん、トヨタ、ニッサン」
「そうそう、トヨタとニッサンの会社はジャパニにあるんだよ。そうねぇ、車で行ったら、たぶん、一ヶ月か二ヶ月か、う~ん、わからないなあ」

 ルカス夫妻は、「夫婦ふたりだけで、こんな田舎まで来るなんて、珍しい人たちだ」と、歓迎してくれました。
 この時はジャストフレンドで、旅仲間にすぎなかったタカ氏と私ですが、説明はめんどうなので、夫婦ということにしておきました。

 タカ氏が、ジャストフレンドからステディに昇格したのは、これから2年後のことでしたが、今となっては、結婚前、ふたりでいっしょの時間をすごした貴重な思い出になりました。
 結婚後は、ほとんど家に帰らない夫になったので、朝から晩までいっしょにいた時間なんて、ケニアでの思い出くらいしかない。

 ルカスさんは、私たちを歓迎するために、山羊を一頭つぶして、「ニャマ ヤ ンブジ(山羊肉)」の煮込みを作ってくれました。たいへんなごちそうです。

 ルカスさんは、手広くタバコの葉を栽培していて、現金収入があるため、このあたりの農民の一家には珍しいことに、娘さんををセカンダリースクール(=ハイスクール中学高校)に通わせていました。
 セカンダリースクールの授業はすべて英語なので、娘さんとは英語も通じました。

 ケニアでは、スワヒリ語と英語が公用語になっていますが、各家庭では、キクユ語マサイ語ルオ語ソマリ語など、自分たちの部族のことばを話します。

 だから、たいていの人は「家庭の中のことば」と、「町の中でつかうことば=スワヒリ語」の両方が話せるバイリンガルです。
 スワヒリ語は町のなかの公用語ですが、中学高校では英語での教育が主で、中学校以上の教育を受けた人は、英語も話せます。マルチリンガルです。

<つづく>

2008/05/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(4)タバコ畑のツーショット

 ルカスの家に泊まった翌日、私たちは、ルカスのタバコ畑の見学に連れて行ってもらいました。
 「畑はすぐ近くにある」というので、いっしょに歩いてついていったら、1時間以上歩きました。徒歩1時間以内なら、「すぐ近く」。3時間くらい歩くのは「まあまあ近所」です。
 日帰りで歩いて帰れないときが「少し遠い」というのが、彼らの徒歩感覚。

 タバコ畑の中で、ルカスは写真を撮れとすすめてきました。
 ルカス自慢のタバコ畑を撮ってほしかったのです。タカ氏は、タバコ畑を背景にルカスの写真を撮影しました。

 ケニアにいたころ、タカ氏について感心したことは、現地の人を撮影したときは、必ず現像したプリントを届けていたことです。ナイロビ市内なら自分で届け、遠いときは郵送していました。

 気軽に現地の人を撮影する観光客は多いけれど、写した人に必ず写真をプレゼントする人はそう多くはない。この律儀さは、他のバックパッカーにはない態度でした。
 タカさんに言わせると「こうすれば、いろんな人とつながりができて、次に行ったとき、歓迎してもらえるでしょ」
 まだ、ケニアのふつうの暮らしの人にとって、カメラが高嶺の花だった30年前の話。

 次に行くと言っても、バスが通っているナマンガならまた来ることもできるけれど、サハラ砂漠外縁にあたるケニアトゥルカナ砂漠地帯のそのまた奥地なんて、次にいつ行けるかわからない。それでもタカさんは、郵便局留めで写真を郵送していました。(家まで郵便を届ける制度ではなかったので、郵便は局留め)

 カメラに興味しんしんのルカスは「記念に夫婦いっしょのを撮ってやるから」と、私と連れをはたけの前に並べました。
 シャッターをきるにも、「どこを押すのか」と、大騒ぎしながら、何回かシャッターをおしました。あとで現像してみると、頭が切れていたり、足だけ写っていたり。でも、一枚だけちょっと手ぶれでピンボケながら、ツーショット写真もありました。

 ちょっとピンボケの、このタバコ畑の一枚のほか、あとは、日本でもどこでも「ふたりで」写した写真がありません。
 グループで写したり、結婚後、子供たちと一緒の写真はありますが、「写す方は好きだけれど、写されるのは苦手」というタカ氏、自分が写っている写真はもともと数少ないのに、私といっしょなんて、この写真だけ。
 結婚式以外で、唯一ツーショットでふたりが映っている貴重な写真となりました。ルカスのおっちゃんありがとう。

 ルオ族一家でのホームステイ。
 タカ氏が私に日本語で何か言う。私が、ルカスの娘さんに、スワヒリ語、英語のチャンポンでそれを伝える。娘さんはお父さんにルオ語で尋ねる。答えを、私にスワヒリ語英語を交ぜながら伝える。私がタカさんに日本語で「さっきの質問の答えは、、、」と、回答する。

 ずいぶんと手間のかかる会話でしたが、だれも急がず、ゆったりと時間がながれ、とてもよい一日をすごせました。

 あの日から30年近くがすぎました。アウト・オブ・アフリカ。
 アフリカの日々は遠くなったけれど、ルカスのたばこ畑のツーショット写真一枚だけをながめていても、私には「アフリカの日々よ、ありがとう」という気持ちで毎日を過ごせるのです。

 タカ氏と私のテーマソング、「アフリカンシンフォニー」。
 結婚式のとき、バックミュージックとして流し、タカ氏がアフリカのスライドを上映しながら解説しました。

 「え~、これは、ぼくと、奥さんがふたりででかけたナマンガで撮った一枚です」 

アフリカンシンフォニーAfrican Symphony by バンマッコイVan McCoy
http://jp.youtube.com/watch?v=UZleC2GVNLs

<つづく>
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2008年05月02日


ぽかぽか春庭「アウト・オブ・アフリカ」
2008/05/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(5)アウト・オブ・アフリカ

 ルカスの家の、笑顔がかわいかったハイスクール生徒の娘さんも、今では40代でしょう。
 ナマンガあたりで、きちんとセカンダリー(ハイスクール)を卒業した女性の人材は数少ないと思うので、社会の中堅になっているのではないかと想像しています。

 ケニアのどの部族も、親切で優秀な人たちです。
 マサイ族のなかにも、ソマリ族の中にも優秀な人はいますが、ルカス家と同じルオ族の子孫をひとり紹介しましょう。 

 ケニアは 1964年に独立しました。
 独立の数年前、奨学金を得てアメリカに留学した、優秀なルオ族の若者がいました。
 彼はアメリカ人女性と結婚し、息子をもうけました。

 生地主義のアメリカでは、アメリカで生まれた子供はアメリカ国籍を持つアメリカ人です。
 のちに、彼は離婚してケニアに帰国しましたが、アメリカ人である息子は、妻がひきとりました。

 この息子、優秀な成績で大学を卒業し、議員になりました。今や民主党大統領候補選挙で忙しい。
 今、日本でもっとも有名なアメリカ人のひとり、バラック・オバマです。

 ケニアの初代大統領ケニヤッタの出身部族は、キクユ族。
 最大派閥キクユ族に対して、ルオ族は対抗部族です。

 1978年の選挙で選ばれた第二代目のモイ大統領はカレンジン族出身で、キクユ族など他部族との融和策をとっていたので、1979年当時、キクユもルオも仲が良かった。

 現在、ケニアでは、キクユ族出身のキバキ大統領派と、反対派閥の部族が争っています。
 最大の抗争があったエルドレッド。
 私は何度もエルドレッドに泊まりに行きました。従妹が青年協力隊員としてエルドレッドのハイスクール理科教師をしており、教員宿舎に泊まりに行っていたのです。
 当時のエルドレッドは、静かなよい町でした。

 ノーベル平和賞を受けたワンガリ・マータイさんは、初のナイロビ大学女性教授。
 マータイさん自身は有力部族のキクユ族出身ですが、彼女は、部族対立を憂い、抗争終結を望んで活動しています。

 どうぞ、部族対立を越えて、人々が仲良く暮らす国であるように。野生動物が生き生きと走り回る国であるように。

 ケニアで出会った人々。私がホームステイをした家族たち。
 ルオ族のルカス一家も、ギカンブラマーケットのキクユ族カヒンディ夫妻、ムゼーとニャンブラママ、ナイロビのワイナイナさん一家、ソマリ族のルルさん一家も、人々が平和に暮らしていけることを祈っています。
 みながあのころのように、希望に燃えた笑顔で暮らせる国であるように。

 私と夫は、年がら年中「部族対立」ですが、、、、、

<5/04 へ つづく>

2008/05/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(6)ニャマニャマ・ガーニ、ケニアのことば遊び

 1979年9月、ケニア・タンザニアとの国境の町ナマンガにでかけたときの話、もう少し続けます。

 友人と、ゲストハウス(現地の人向けの安宿)に半月ほど滞在していたた間、ナマンガの小学校や幼稚園を見学させてもらいました。
 ゲストハウスオーナーの娘さんが、幼稚園の先生をしているというので、幼稚園に見学に出かけたときのこと。

 子どもたちへのプレゼントに、キャンディやサッカーボールを買っておみやげにしました。サッカーボールは大歓迎のおみやげでした。

 ケニア・ナマンガの幼稚園。
 先生が園児に「チョレ 描いてて」と命じると、園児たちは、手に手に小さな枝を持ってしゃがみ、地面になにやら絵を描いている。先生たちは、それを見ながら若者同士のおしゃべりに専念。先生たち、気楽な稼業に見えます。

 しばらくして、園児たちがお絵かきに飽きた頃合いをみはからって、先生は子どもを呼び集めました。

 ことば遊びがはじまりました。
 東アフリカ、ケニアの幼稚園でのコトバ遊びを紹介しましょう。

 子どもたちが「ニャマニャマ ガーニ」と歌う。
 nyamaニャマはスワヒリ語で「肉」のこと。ganiは、「どんな?どのくらい?」という疑問詞。「ベイ ガニ?」は、「How muchいくら?」の意味になる。
 子どもたちは「肉、にく、どんな肉?」と、先生に歌いかけているのです。

 先生は「ニャマ、ニャマ、ニャマ ヤ クク(肉、肉、鶏の肉)」と歌う。子どもたちはジャンプして「Natakakula ナタカクラ(食べたい)」と言う。

 「ニャマ、ニャマ、ガーニ」と子どもたち。
 「ニャマ、ニャマ、ニャマ ヤ ンブジ(肉、肉、山羊の肉」と、先生が答える。
 「ナタカクラ」と、またジャンプ。

 「ニャマ、ニャマ、ガーニ」
 「ニャマ、ニャマ、ヤ、ンゴンベ(肉、肉、牛肉」
 ジャンプして「ナタカクラ」

 「ニャマ、ニャマ、ガーニ」
 「ニャマ、ニャマ、ヤ、フィシ(肉、肉、ハイエナの肉)」
 「ナタカクラ」と言ってジャンプしてしまった子は、「わ~い、ハイエナの肉なんか食べないよ」と、他の子にからかわれ、皆いっしょに大笑い。

<つづく>
06:14 コメント(6) 編集 ページのトップへ
2008年05月05日


ぽかぽか春庭「ナタカクラ食べたい!」
2008/05/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(7)ナタカクラ食べたい!

 2008年の現在、ウガリ(とうもろこし粉のパンケーキ)も食べられない人々が増えているというニュースがつたえられています。

 5月4日の新聞一面には、エルドレッドなどで、食料が不足しているというニュースがでていました。

 石油値上げ→主な輸送手段がトラックなので、アメリカ製を中心とする肥料値上げ→穀物価格高騰、という連鎖で、人々の食料事情が悪くなり、一家の食べ物が、学校給食を食べずに持ち帰るこどもの昼食分だけ、という家庭も出てきたというニュース。

 「ウガリ」は、私もよく食べたトウモロコシ粉の蒸しパン風食べ物。日本の米のご飯にあたる主食です。ごはんがないと、おかずだけだと何だか食べた気がしない人がいるように、カランガ(トマトシチュー・煮込み)にウガリをつけて食べるのが一般的なケニアの食事で、ウガリが高すぎて食べられないようだと、みな、畑仕事にも力が出ないことでしょう。

 ケニアをはじめ、アフリカの子供たちが、おなかいっぱい食べて、笑顔ですごせることを、祈っています。

 30年前のケニア、ナマンガの町の幼稚園では、子供たちがおいしい肉の煮込みを思い浮かべながら、ニャマニャマ(肉、肉)と、うたってコトバ遊びをしながら、楽しそうに幼稚園ですごしていました。

 Natakakuraナタカクラ=食べたい!と叫ぶ子供たちの顔は、お母さんが作ってくれる鶏肉やヤギ肉シチューを思い浮かべているように、「おいしい顔」になるのでした。
 肉のシチューはごちそうで、ふだんの日のカランガ(トマト煮込み)には、スクマウィキという葉野菜が入っているだけのことも多い。

 それでも、家族一緒におなかいっぱいスクマウィキカランガとウガリを食べるのが、子供たちの幸せでした。
 あの日の笑顔が、すべてのこどもたちに恵まれますように。

 今日、日本ではこどもの日。親子連れでおいしいごはんを食べた家庭も多かったでしょうね。
 エルドレッドのこどもたちも、ナマンガの子供たちも、ナイロビのスラム街キベラ地区の子供たちも、みんなが笑顔でナタカクラ!とお母さんにねだっておいしいウガリ・ナ・カランガを食べているといいな。

 1979年、ナマンガの幼稚園で。
 私たちがプレゼントしたサッカーボールのお礼に、子どもたちがケニアの歌を歌ってくれました。

 小さな子どもでも、歌声には自然にハーモニーがつきます。二重唱三重唱がごくあたりまえにできる。

<つづく>
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2008年05月06日


ぽかぽか春庭「うさぎおいし in ケニア」
2008/05/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>アフリカの日々(8)うさぎおいし in ケニア

 幼稚園の子供たちの歌へのお返しに、私たちも「日本の伝統的な歌」を披露することになりました。
 日本の伝統的な歌、と言っても、どんな歌がいいのか。
 こどもたちにも内容がよく理解できて、私たちにも歌いやすい歌っていうと、、、

 一曲は、民謡を歌うことにしました。
 「日本の伝統的な漁師のうたです。ンデゲ(鳥)に、サマキ(魚)が来ているか、と聞く、という歌です」
 「♪やーれん、ソーランソーランソーランソーラン、にしんきたかとかもめに問えば♪~」と、歌いました。

 はじめて「日本人」を見た子どもたち、どんな歌を歌おうと「日本の歌」と思ってくれたことでしょうが、二曲目はの友人クニコさんと「ふるさと」の二重唱をしました。私は小学校中学校の合唱部でアルト担当だったので、二重唱が好きです。

 「ふるさとを忘れることはない、という歌です。ふるさとの山にスングラ(兎)います。川に小さなサマキ(魚)がいます。お父さんお母さん、友だちがいます。ナマンガの人たちがナイロビへ働きに行っても、みんなナマンガの家のことは忘れないよね、私たち日本人も、生まれ故郷を忘れません」と、曲の内容を紹介。
 ♪うさぎ追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今も巡りて 忘れがたきふるさと♪
 ♪いかにいます父母つつがなきや友がき 雨に風につけても思いいずるふるさと♪

 下手な歌でしたが、子どもたちにとって「国境の小さな町の幼稚園に、日本人がきて歌をうたった」というのは、最初で最後のことだったのではないかと思います。

 このとき「えーと、うさぎおいし、っていうのは、スングラ ンズーリだよね。うさぎは美味しいって、みんな歌うけれど、ボクは日本で兎食べたことなんかないけどな」と、言った男がいました。
 ギャグで言っているのだと思って聞いていたけれど、本気で「うさぎは美味しい」という歌だと思っていた男、タカ氏が、今やわたしの「法律上の夫」です。

 日本に帰ってきてからの「バックパッカー仲間の写真交換会パーティ」で、私が作る料理を「おいしいおいしい」と言って、もりもり食べてくれる男だったタカ氏。
 「料理下手な私の手料理を誉めてくれる優しい人」と、誤解してしまったがゆえの大誤算。

 ケニアから日本に帰国して、2年後に結婚したのですが、結婚後、「僕には、まずい料理なんて存在しない。どんな食べ物もおいしく食べられるんだ。世の中には、おいしい、とてもおいしい、ものすごくおいしいの、3種類の食べ物がある。まずい料理なんか、ぼくにはないんだ」と、言っていました。

 味音痴の男。うさぎを食べても、何をたべても、「おいしい」しかない男でした。
 コピ・ルアックを飲んでも、マックの150円コーヒーでもたいした違いはない、という味覚の持ち主であることが判明した女房とは、どっこいどっこいのカップルだったのだけれどね。

 以下のような投稿をいただきました。いじっていただき、うれしく存じます。こういうのをお笑いの世界では「いじられキャラで、おいしいポジション」と言います。

投稿者:nekomajiro
ぴょんぴょん飛び跳ねながら子供達、
「ニャマ、ニャマ、ガーニ!」
先生、にやりと笑い、
「ニャマ、ニャマ、ヤ、……」と、
春庭先生を指さした。
すると子供達、
手の親指を立てると逆さまにして、
「ブゥー!ブゥ-!ブゥ-!」といっせいに、
「ぶーいんぐ」。
2008-05-04 18:23

 ご想像のとおりと言いたいところですが、30年前の私は、決して今のような「ぶぅーぶぅー」な私ではありませんで、ケニアで出会った人、皆が、「なんてあなたは美味そうなんだ、ナタカクラ!」と、叫び出すのでした。
 福祉精神に富むわたくしは、食べたがる人々に、惜しげもなく、この美味なるニャマ・ヤ・ハルをふるまい、、、、
って、妄想にのってみました。

 福祉精神に富む私のボランティア活動を受けて試食した人、ひとりだけで、今のありさまになっているってわけです、、、涙
 試食のときは「ぼくにまずいものはない」と言っていたタカ氏、結婚後は、さっぱりと喰いつきませんです、はい。

 「割れ鍋に綴じ蓋アウト・オブ・アフリカ・バージョン」、これにて一席おわります。

<おわり>
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ゴールデンウィーク2008年5月

2011-02-20 18:32:00 | 日記
2008/05/07
ぽかぽか春庭東京俳諧徘徊日記>2008ゴールデンウィーク(1)ブロンズウィーク

 有給休暇とって飛び石部分を埋め、4月26日から5月6日まで11連休だったといううらやましい人もいた2008年ゴールデンウィーク。
 皆様の連休はいかがでしたか。

 私の場合、今年の5月連休、5月3日4日5日の三日間でしたから、あっという間におわってしまいました。ゴールデンとまではいかない、ブロンズウィークくらい。

 4月29日と5月6日、出講先のひとつである私立の大学暦では、「平日扱い」になり、私は授業日です。学生たちはそのかわり、4月30日から5月5日まで連続して休みになったのですが、、私は29日に授業をしたからといってかわりの休みはない。
 国立大学の暦はカレンダー通りのため、1日と2日は、国立で授業。結局3日間だけの連休になりました。

 連休初日の3日は、娘息子と池袋へ行って買い物。電気屋で、息子のノートパソコン用増設メモリーや、私のノート用無線ランスロットカードを買いました。

 娘息子といっしょに東急ハンズへ。
 娘は、手作りが大好きなので、昔は毎週のようにイベントをさがして、風鈴作りやら壁掛け作りやら、いろんな手工芸を楽しんできました。

 3日は、久しぶりに手作りをしたいというので、ハンズ7階へ。
 娘は、母の日のために、天然石ビーズでブレスレットを、父の日のために、革細工の小銭入れを作るといいます。
 息子もハンズに残るというので、私はひとりでジュンク堂へ。

 ジュンク堂で。2階から8階までめぐって、タイトルが気になった本、著者に惹かれた本、どんどんカートに放り込んでいきます。
 15冊ほどかかえて、すいていた7階フロアの「座り読み椅子」に腰掛けました。

 目次や、まえがき・あとがきを読む。春休みに買った本、まだまだ読み終わってないので、「本代は、合計1万円まで」と決め、取捨選択。
 結局買ったのは5冊。10460円。

 ジュンク堂で1万円買うと、4階喫茶店のドリンク券をもらえるのがうれしい。合計が9千円とかだと、もう一冊買い足してしまう。5冊のうち、一番高かったのは、酒井直樹『日本思想という問題・翻訳と主体』¥3570。10年以上も前に出ていた本ですが、高いと思って、今まで買わなかった。

 高い本は、まず図書館で借りて読んでみる。どうしても必要があれば、買うけれど、たいていは図書館で読めば間に合うので、千円以上の本を買うことはあまりないのですけれど。今回、ちょっと「主体・主格・主語」について調べることが出てきたので、買いました。

 私にとっては、小型のゴールデンウィークでしたが、この新規購入本で、気分はもちなおしました。日頃は、10個230円の卵を買うのをためらい、火曜日特売で120円になるときにだけ買っている生活で、1万円分の本は、とっても贅沢をした気分です。

本日の徘徊徘徊
サンシャイン乙女ロードも夏近し

執事喫茶とう店のあり春尽きぬ

<つづく>
00:35 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年05月08日


ぽかぽか春庭「カーネリアン・ブレスレット」
2008/05/08
ぽかぽか春庭東京俳諧徘徊日記>2008ゴールデンウィーク(2)カーネリアン・ブレスレット

 5月3日、6時すぎ、マンション6階にあるタナトス6というイベントスペースで行われた「一人芝居ミサイルの世界」を見ました。
 ミサイル君は、友人ミサイルママの息子です。

 「走れメロス」をひとり芝居に脚色したもの、大槻ケンヂの小説『ぐるぐる使い』を紙芝居に仕立てたものなど、一人で午後4時から10時すぎまで、5~6本の演目をやり抜くという企画。
 出入り自由。見料はおかえりの際に、お気持ち分だけティッシュの空き箱に入れる。

 私は最後の演目まで見ていてもよかったけれど、ミサイルママが「何か食べて帰ろう」というので、全部おわらないうちにタナトス6をでました。
 私は夕食を池袋ですませてからタナトス6に入ったので、生ビールだけ注文。アルコールを飲まないミサイルママは、サラダとマンゴーアイスクリーム。

 お花見の「愚痴入りお好み焼き」以来のおしゃべりタイム。踊りのこと、息子のこと、またまた話はつきませんでしたが、私は4日5日もお休みだけれど、ミサイルママは水曜の定休日まで休めないので、11時に切り上げました。

 家に帰ると、娘ができあがった手作りブレスレットを「早いけれど、母の日のプレゼント」と、渡してくれました。
 天然石ジェイドのカーネリアン、レッドアベンチュリン、イエロージェイド、瑪瑙(イエローボツワナアゲード)を組み合わせた、黄色、ベージュ、ブラウンの色合いです。

 「ハハが、この配色で気に入らなかったら、私のにしようと思ったから、私好みの配色なんだけれど」と娘が言いましたが、落ち着いたステキな色合いだし、私は「娘が手作りしてくれた」というだけで、もう十分です。ありがとう。

 皮の小銭入れも、とてもよくできあがっていて、「お母さん、こっちも欲しいよ」と、言ってみましたが、両方欲張りはダメみたい。小銭入れは父の日プレゼント用ですと。

 私は、家計費担当役も家事育児担当役も、両方つとめてきたんだゾ!
 と、不満にも思いますが、父親らしくない父へも、父の日に手作りプレゼントを渡そうとする心やさしい娘であることが、うれしくもあります。

 4日夜は、ひとりで映画館へ。映画館は、夫の事務所から徒歩3分のところにあります。夫は、会社の福利厚生用として、映画の「1年間見放題カード」を利用しています。
 映画を見るときは、夫の事務所に寄って映画カードを借ります。
 これは、夫が家族のためになることをしている唯一の福利厚生。

 「映画カードを貸す」だけしか家族のためにしていない父親なのに、娘の手作り小銭入れプレゼントされて、割がいいんじゃな~い、プンプン!
 父らしいことをしてこなかったタカ氏にも、娘の手作り品が渡されると思うと、割にあわない気分だったけれど、映画おもしろかったし、ま、いいか。

本日の俳諧徘徊
芝居する若者の声春惜しむ
寡婦同士八十八夜の愚痴を飲む

(ミサイルママは離婚のハハで、私は実質母子家庭のハハ)

<つづく>
06:23 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年05月09日


ぽかぽか春庭「西アジアのキリム 」
2008/05/09
ぽかぽか春庭やちまた日記>2008ゴールデンウィーク(3)西アジアのキリム 

 夫は「ヘアスプレーをひとりで見てきた」言いました。
 ふん、私も見たかった映画だったのに、4月後半、忙しくて見る時間がとれなっかたのよ!!プンプン!

 『めがね』の小林聡美を見て、若い頃の妻を思いだしたという夫ですが、「ペアスプレー」の超太めダンサー、リッキー・レイクを見ても、私を思い出さなかったらしく、何も言いませんでした。現在の「太めダンサー」である妻はどうでもよくて、思い出すこともないみたい。

 『Onceダブリンの街角で』と、『再会の街』を見ました。とてもいい映画でした。
 感想はここhttp://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/eiga0801a.htm

 5日は、原宿から渋谷へ。
 途中、代々木公園を通り抜けました。

 アフリカンドラムのセッションをしているグループ。芝生の上で、フリスビーやバトミントンをしているふたりづれ。ソフトバットで野球をしている外国人の親子。輪になってトランプをしているグループ。思い思いにこどもの日を楽しんでいます。

 渋谷へ行くのに、渋谷でなく原宿で降りてわざわざ代々木公園のなかを通ったのは、かって私も娘や息子とここでぼんやり昼寝をしたり、サイクリングをしてすごした日々があったことをなつかしむため。

 今は、こどもの日といっても、「ハハ、出かけたいならさっさとでかければ。早くでないと途中で雨になっちゃうよ」と、じゃまにされて、一人で出てきたのです。

 渋谷公園通りの「塩とたばこの博物館へ」
 私は手仕事を見るのが好き。パッチワーク、刺繍、織物染め物、そんな糸仕事が特に好きです。

  塩とたばこの博物館、今回の企画は「西アジア遊牧民の染織」展。遊牧民が織り上げた絨毯、袋などが展示されており、貴重で有意義な展覧会でした。
 もはや現地では手に入れることもできなくなった貴重なアンティークの布が、コレクター丸山繁(ギャラリーササーン)によって収集されてきました。 

 遊牧民自身にとっては、「単なる日用品」にすぎない塩を入れて運ぶ袋(ナマクダン)や、食卓用の布(ソフレ)、平織り布はキリムと呼ばれています。

 西アジア、アフガニスタン、イラン、パキスタンなどのクルド族、カシュガイ族などが、それぞれの民族独特の模様を持っています。
 それぞれの織り手独特の美意識によって織り上げられた羊毛の布たち。
 「生活のなかの美」は、最初から観賞用として作り上げられた芸術品にはない、力強い魅力を持っています。

 しかも、国際博物館協賛の日、とかで、入館無料だったので、「タダで楽しむ東京徘徊俳諧生活」のコンセプトにもぴったり。
  短くて、遠出はできない連休だったけれど、楽しいゴールデンウィークをすごすことができました。

 西アジア遊牧の民の女たちが、糸一本一本に心をこめて、気の遠くなるような時間をかけて細かい模様を織り込んだキリムやソフレ。

 私も日常を織りなす糸の一筋を大切にしながら、人生模様を降り続けていきたいと思います。 
 
本日の徘徊ミソヒト
 遊牧の民の織りなす塩袋ラクダの背にてゆられし日の夢

<おわり>

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サクラ咲かそう2008年5月

2011-02-15 13:20:00 | 日記
2008/05/10
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(1)留学生から合格メール

 桜前線、北海道最北端までのぼり、全国の花見シーズンがおわりました。
 来年もまた花見が楽しめますように。

 桜さくのを待っているころ、仙台で学ぶリーエンさんから、うれしい「桜咲くメール」が届きました。
========== 
(リーエン より)
合格しました  Date: Fri, 21 Mar 2008 04:52:45 +0000

先生、お久しぶりですね。お元気ですか?
もうすぐ春が来ますね。東京の桜が咲いてくるそうですね。私達は四月13日に大河原で花見の計画があります。初めてなんですから、期待しています。

私やっと試験が終わって、四月から入学になります。来週は入学試験のためにスーツを買うに行くつもりです。
これから英語の論文や実験のことも山のようにきます。もっとがんばらなければなりません。

ご健康を祈るように。
リーエン
================

 昨2007年に、中国で受け持った教え子たち。中国全土の大学若手教師から選抜され、日本で博士号を取得すべく留学してきた留学生です。
 昨年10月に来日し、半年間、日本語の上達と研究準備、大学院博士課程入試準備に没頭してきました。ほとんどの人が、2月を中心に博士後期課程の試験を受け、4月入学を決めています。

 上記のリーエンさん、東北地方の大学でナノテクノロジーの研究をしています。
 まさに今、桜爛漫と咲いたようなメールをくれました。はじめての花見を楽しみにしているというメールでしたが、きっと楽しい春満開のお花見を堪能したことでしょう。
 博士課程に入学した教え子たち、よい研究が実るように祈っています。

 今年はダメでした、来年もう一度受験します、というメールも届いています。
 国立大学の博士後期課程の入学試験は、とても難しい。
 特に、文系の場合、大学内のポストが少なくて、オーバードクター(博士号を得ても就職先がない、フリーター状態の博士たち)がどんどん増えていることなどもあって、試験はいっそう厳しくなっています。

 全中国から選ばれて国費留学生となった教え子たち、それぞれの研究で博士号をとるため、博士後期課程の入試を受けても、全員が合格できるという保証はありませんでした。
 専門の研究と英語力が重視される理系に比べ、文系は日本語力が重視されます。日本語で博士論文を書く場合が多いからです。

<つづく>
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2008年05月11日


ぽかぽか春庭「再チャレンジ食事会」
2008/05/11
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(2)再チャレンジ食事会

 2006年の10月から日本語の初歩を学びはじめて、1年半ですばらしい上達をみせた教え子たちですが、日本語で博士論文を書く日本語力となると、そうは簡単に身につきません。やはり、文系の学生にとっては、試験は難関でした。

 ジュンさんは、教育学を専攻する留学生。
 私の受け持ちクラスではなく、隣のクラスだったのですが、何回か読解の授業を受け持った縁で、隣のクラスの学生たちとも知りあいました。
 ジュンさんは、日本語の文を朗読するのもじょうずで、いつもニコニコと愛らしい女性研究者でした。

 来日以来、半年間、日本語能力向上に切磋琢磨してすごしてきても、すんなり博士後期課程に入学するのは難しい。ジュンさんも、2008年4月の入学はかないませんでした。

 ジュンさんからのメール。
================
 先生  最近いかがでしょうか。お元気でしょうか。
 桜が咲いて、お花見しましたか。
 本当に申し訳ありませんでした。遅く先生に連絡しました。

 先生の手紙を見ると、私の心はとても暖かくなりました。
 そのとき、私は日本語の期末テストと博士の入学試験のために、頑張りました。
 私は先生から力をいただいて、何も言わずにけれども、腹から感謝の気持ちを持っています。本当に先生に直接にありがとうございますと言いたいです。

 ですから、もし先生はいつかご時間があったら、連絡していただけませんか。とても先生とお会いしたいです。
 楽しみにしています。
ジュンウェン(Mon, 7 Apr 2008 21:37:29 +0900)

 入学試験については、残念ながら、合格できなかった。これから、来年の試験のために、もっと頑張りたいと思います。先生は心配しないでください。
 私も困るとき、先生に連絡させていただきます。
 では、集まる日を楽しみにしますね。
ジュンウェン(Tue, 8 Apr 2008 23:11:32 +0900)

==============

 他の中国教え子の留学生たちは、ほとんどが医学工学などの理系で、同じ大学に友達がいる人も多く、ストレス発散のおしゃべりもできます。でも、ジュンさんは教育専攻なので、たった一人で教員養成系の大学に留学しました。

 4月、新学期が始まってから、吉祥寺のロシア料理店にジュンさんをおさそいしました。
 来日してから、今まで博士後期課程の試験勉強や、修士論文を日本語に翻訳する作業をつづけてきたのに、不合格になってしまったジュンさん、がっかりしているかも知れない、と心配しながら会ったのですが、ジュンさんは、「先生、私はだいじょうぶ、来年がんばります」と、明るかったです。

<つづく>

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2008年05月12日


ぽかぽか春庭「めざせ博士号」
2008/05/12
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(3)めざせ博士号

 博士後期課程の入試に落ちてしまったジュンさんが、「ひとりぼっちで、不合格のつらさに耐えているのではないか」という心配は、杞憂でした。

 昨年10月に来日したときから、先に日本に来てエンジニアとして働いているの恋人といっしょに住んでいたのです。
 「あらあ、恋人といっしょだったのなら、心配しなくてもよかったわね」と、わらいました。

 中国での教え子のうち、ほとんどの人がが結婚していましたが、80%は同じ大学で学んだ同窓生、あるいは大学同僚との結婚でした。
 クラス最年長、名古屋で大学経営論を研究するリューさんにいたっては、「妻は中学、高校、大学、ずっと同級生。今は銀行の副頭取をしています」といっていました。
 ジュンさんの恋人も、同じ大学の人。

 博士課程に合格したら結婚の届けを出すそうなので、結婚届の提出もちょっと延期になったけれど、希望をもってすごして、来年は博士課程合格と、結婚のふたつの花が咲くことでしょう。

 昨年、中国では、自分のクラスの学生コンパのほか、いつもジュンさんのクラスのコンパにも招いてもらい、カラオケでうたったり、おいしい中華料理を食べたりしてきました。全部学生たちのおごりでした。

 中国ではコンパに先生を呼ぶ場合、完全にご招待です。先生がお金を出したりしたら、失礼なことになるのです。
 日本では、学生と教師がいっしょに食事したら、教師がおごるんだよ、と、日本の習慣について説明し、「今日のロシア料理は、私のおごりだから、たくさん食べてね!」

 ジュンさんは、「グルジア式チーズパイ」を頬張りながら、「先生に教えていただいたのは、読解の授業を10回くらいでした。でも、わたしにとっては、この10回の授業は、人生のなかでとても大きいものになりました。いつも元気で、にこにこしていた先生の授業が大好きでした」と、言ってくれます。(そりゃ、おごられている時に、あなたの授業はつまらなかったとは言えないけれどね)
 
 ジュンさんの出身大学は、私の、若い友人ランリンが日本語講師をしている大学です。
 ランリンも準教授の試験をめざしてがんばっています。去年、はじめて挑戦した昇任試験に不合格だったときは、ずいぶん落ち込んでしまったようですが、娘さんシンシンちゃんに励まされて、再チャレンジを決意した、というメールをくれました。

 そう、一度うまくいかなかったからといって、あきらめることはない、何度でも夢にむかって挑戦を!

 ランリンが住む町は、ジュンさんのふるさと。一人っ子のジュンさんを日本へ送りだし、心配しながらも応援してくれる故郷の両親の顔を思い浮かべ、日本語を共に習った学友たちの顔を思い浮かべながら、ジュンさんは、来年へ向けてまた新しい一歩を踏み出しました。

 東京で忙しい留学生活を送っていると、中国で日本語学習に励んだ日々がなつかしい、とジュンさんは言います。日本語学習で切磋琢磨、助け合い競い合った1年間。
 クラスメートそれぞれ、自分の夢にむかってすすんでいます。ジュンさんも、しっかりと来年へ向けて歩んでいくことでしょう。

<つづく>
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2008年05月13日


ぽかぽか春庭「夢にむかって」
2008/05/13
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(4)夢にむかって

 ジュンさんのクラス「博士3斑」の15人、私が担任した「博士2班」の22人、北海道から九州まで、日本各地の大学へ留学しました。

 ジュンさんは、2006年10月から2007年9月まで、中国教育部直属の教育機関で日本語を学びました。
 中国人大学教授たちと、文科省より派遣された日本人講師が協力して日本語を教える、国家プロジェクト。私は2007年度の文科省派遣教師でした。

 毎年100人前後の学生が、このプログラムで日本国文部科学省国費留学生となり、日本に留学しています。
 100人は、20人ずつ5つのクラスに分かれて日本語を学んでいました。「博士一斑」から「博士五班」まで。

 日本に来てしまうと、なかなか、かって同じクラスだった友達にも、会うチャンスはありません。
 私のクラス「博士二斑」は、年末とお正月に、東京で「ミニ・クラス会」をして、餃子パーティや「日本の家見学会」をしました。

 これは、「博士二斑」の担任リー先生が、現在日本の大学で研究研修期間中で、いっしょに日本にいるおかげ。担任の先生と教え子が同時に日本へやってきた、めずらしいケースです。

 ジュンさんのクラス「博士三斑」の担任先生は大阪在住なので、まだ、東京に住むクラスメートたちのクラス会は行われていません。

 トンシャオさんは、ジュンさんのかってのクラスメートのひとり。
 私は、二人が在籍しているクラス博士三斑の読解授業を担当しました。
 日本のロボット工業の文章を読解するときはアトムやアシモの写真、鎌倉の歴史について読むときは、大仏や鶴岡八幡宮の写真など、さまざまな画像を読解の助けとして読んでいきました。

 今はインターネットから拾えるので、読解参考資料づくりが13年前に比べればずっと楽でしたが、それをパワーポイント教材にととのえるのに、一晩がかりだった。これも、1年たつ今では、なつかしい思い出。

 読解という名の授業なのに、文章を読みとることよりも、「日本文化紹介」の授業になってしまいましたが、ジュンさんもトンシャオさんも面白そうに、日本の生活のあれこれについて聞いてくれました。

 トンシャオさんは、私が出講している国立大学のひとつに留学しました。工学部大学院で工業デザインの研究をしています。
 理系の彼は、2月の入試に無事合格し、博士後期課程の大学院生になりました。

 大学院の研究と同時に、国際教育センターで日本語を学ぶトンシャオさん。
 彼と話をしていたら、ジュンさんが2007年後期に留学先の大学で日本語を習ったY先生と、4月からトンシャオさんが学ぶ日本語クラスのY先生は、同じ先生だということもわかりました。

 非常勤講師はあちこちの大学を掛け持ちするので、大学が異なっても、同じ先生に習うこともありえます。
 私も、国立大学2校と私立大学2校を掛け持ちで週5日授業をしています。
 以前から劣悪な条件で働いていた語学教師は、国立公立大学の法人化により、ますます過酷な条件であちこち掛け持ちしています。それでも食べていけません。

 ジュンさんとトンシャオさんが1年前、私の教え子だったことについて、偶然のことながら、「これもご縁ですね」と、Y先生と講師室で話しました。
 こんな偶然を知ると、100人の留学生が日本全国に散らばってすごしていても、どこかにつながりがあるもんだなあ、と思います。

<つづく>
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2008年05月14日


ぽかぽか春庭「加油!」
2008/05/14
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(5)加油!

 トンシャオさん、去年は、研究留学生だったから、朝お弁当をつくって持ってくる余裕もあったけれど、2月に博士後期課程に合格し、4月から博士後期課程大学院生になったら、本当に毎日忙しくて、あまりお弁当を作れなくなった、といいます。
 大学内の食堂で、お昼ご飯をいっしょに食べることにしました。

 5月2日、トンシャオさんとランチ。
 図書館近く、大学会館のレストランで。あまりおいしくはないけれど、ワイワイしている生協学食よりは落ち着いて食べることができます。

 トンシャオさんの悩みのタネは、やはり日本語。
 大学院の指導教官と話すときは、先生が気をつかって専門用語などを説明しながら言ってくれるので、大丈夫だけれど、問題は、大学院生同士のディスカッション。

 日本人院生たちの会話は、とても早いし若者言葉も混じるし、専門用語の解説なしに話がすすむので、ディスカッションなのに、自分の意見を言うこともできない、と、トンシャオさんは嘆いていました。
 だんだんに耳がなれてくるし、若者言葉も覚えていくから大丈夫、と励ましました。

 トンシャオさん、若者言葉の会話に悩みつつも、とても元気で、研究の抱負を語っていました。
 また、北京オリンピックに日本人を連れて行くボランティアスタッフに応募したので、運がよければ、スタッフに選ばれるかもしれない。そしたら、この夏にはボランティアとして日本人といっしょにオリンピック見物ができるんだけれど、、、と、言っていました。

 「北京オリンピックも見たいけれど、なにより、日本人といっしょに行動していれば、自分の日本語の勉強にもなると思うので」と、語るトンシャオさん。
 応募する中国人留学生はとても多いそうなので、「宝くじ」みたい、ということですが、うまく当たるといいね。

 「ジュンさんトンシャオさんのクラスもそのうち集まってコンパをすることがあるでしょう、そのときはまた、私やチュンツォン先生も呼んでね」と、トンシャオさんに話しました。

 14年前に中国で教えたときの教え子のひとりに、耐震構造の研究をしている女性がいました。
 自分が子供のころに経験した四川省の大地震を心にきざみ、地震に耐える建物を研究しようと志したのです。

 たぶん、政府の建物などには、耐震構造の研究成果が生されていることだろうと思います。
 でも、一般の人の家までは、まだ耐震構造がいきわたってはいない。
 彼女が望んだ「二度と地震のために人が死なないように、丈夫な家を研究する」という志が、かなうのはいつの日でしょうか。
 きっとその日をめざしていることでしょう。

 留学生たち、みな日本での研究生活、かんばっています。
 私も授業と研究、がんばるよ。
 加油!チャーヨゥ!

<おわり>
08:16 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年05月15日


ぽかぽか春庭「ホワイトフォックス」
2008/05/15
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>桜さいたランチ(1)ホワイトフォックス

 3月4日に、コピルアックを飲んだ店、ホワイトフォックス。
 ランチの「サーモンマリネとイクラとアボガドのどんぶり」、とてもおいしかったので、息子と娘にも食べさせようと思いました。
 ちょっとしたお祝い事があったので、3月14日、いっしょに「ホワイトフォックス」へ行きました。

 2006年10月にオープンしたレストラン&日本酒ワインバーは、洋食に和食を取り入れた創作メニューがウリの店。店名は、「王子の狐」に由来する「ホワイトフォックス」です。

 オーナーシェフ:トレバー・ブライスさん。HPに詳しい料理修行歴、コンテスト受賞歴があります。イギリスやフランスの三つ星レストランで修行をつんできました。
 サブシェフ:八木晴絵さん。笑顔が愛らしい美人シェフ。トレバーさんの兄弟弟子シェフのもとで修行をしてきました。 
 サービス:ひろみ・ブライスさん。天才シェフを支えるしっかり者の奥さん、こまやかな心づかいを見せてくれます。

 トレバーさんは欧州の数々の料理大会で優勝し、2000年に来日しました。
 長野や東京銀座のレストラン総料理長として活躍。著書『モダン・ブリティッシュの秘密レシピ』(日本放送出版協会2002)
 2007年には国際的な大会「Eat-Japan創作寿司第六回コンテスト」で優勝しました。
http://www.eat-japan.co/sushuaward/sushi_competiotion.html

 お昼ご飯と夕食の間の空いている時間をねらって行ったのですが、3月14日に予約しておいたら、ねらったように「東京大雨注意報」が出た。
 びしょぬれで店に入りました。さっと一筆書きしたような洒脱な狐が描かれている、ホワイトフォックスの看板も濡れています。

 食べ始めたときに隣のテーブルにいた二人連れの女性客は、私たちがスープを終える頃にはいなくなり、私たちが出ていくとき、男性ひとり客が入ってきました。
 テーブル3つに10脚、カウンター8脚の小さな店内ですが、私娘息子の3人、貸し切り状態でゆったり食べることができました。

 コース料理といっても、テーブルごとに盛り皿がおかれて、とり皿に各自が取り分ける、という気軽な居酒屋風コースです。和風と洋食のフュージョン料理だから、お箸も出してくれます。

 ホワイトフォックスでの食事。3人前、デザートとコーヒー含めて1万円の予算でアレンジをお願いしました。
 ひとり3千円ちょっとのコース、といえども、我が家の外食では、「高い方」なのです。ちょっと高いけれど、お祝いだから、奮発。

<つづく>
06:09 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2008年05月16日


ぽかぽか春庭「フルコースでおめでとう」
2008/05/16
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>桜さいたランチ(2)フルコースでおめでとう

 え~、ちょっとしたお祝いというのが、何のお祝いかというと、、、、「ダイエット成功祝い」じゃないことだけは確か。

 ホワイト・フォックスのメニュー
・本日のスープ・きのこと豆腐の和風コンソメスープ(わけぎとレモンジュースと醤油が隠し味)
・モツァレラチーズとトマト&バジルのブルスケッタ(フランスパンの上にチーズ&トマトのせ)
・新鮮野菜のサラダ 味噌ドレッシング
・クリームチーズムースと大根
・海老のグリル ニンニクとハーブ風味 マーシュとミズナ添え
・サーモンとアボカド、イクラのご飯物
・デザート 私ダークチョコレートとくるみのケーキとオレンジピールのスパイシー風味添え 娘ブラックライス部ディング、ライムとジンジャー風味のパイナップル添え 息子バナナと黒ごまのバヴォワーズ梅酒のグラニテ添え(バナナムースの上に梅酒シャーベットが乗っていた)
・紅茶と珈琲

 私は、グルメではなく、食事に関しては「おいしい」「とてもおいしい」というくらいしか表現力がないのですが、トレバーシェフの独特の味の世界は、味音痴の私にもよく分かりました。
 自分自身の味の世界を追求する姿勢がよくわかる個性ある味でした。ほんとにおいしかった。

 味にうるさい娘と、他の人が大勢いるなかで食事するのが苦手な息子、ともに満足のランチでした。
 ま、当分「フルコース」など食べる機会はないでしょう。
 「貧乏なうえに、さらに貧乏になるっていうお祝い」のフルコースだったのです。

 収入は減る一方ですが、支出は増える一方。
 去年、息子が大学生になって、私立だもんだから、学費がかかる、卒業までたいへんだなあと思っていました。
 それに加えて、もう一人分さらに私立大学の学費がかかることになりました。

 息子に加えてもう一人学生が増えたのはどうしてかというと、私自身が学生になったから。
 っていうのは、私の年来の夢の実現にむかってのプロジェクト、スタートしたのです。
 大学院の博士後期課程を受験し、合格しました。
 大学講師の仕事をつづけながら、博士課程で学び、博士号をめざすことになりました。

 私は、修士号を取得し日本語教育能力検定試験にも合格しているので、今の仕事を続ける上で不足はありません。
 でも、博士号をとりたいというのは、私の年来の夢なのです。

<つづく>
06:27 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2008年05月17日


ぽかぽか春庭「出発(たびだち)は何度あってもいい」
2008/05/17
ぽかぽか春庭・インターナショナル食べ放題>桜さいたランチ(3)出発(たびだち)は何度あってもいい

 私の同僚には、コツコツと論文を書き上げ、大学に提出して審査をうける「論文博士」で博士号を取得した人もいます。でも、元来怠け者の私には「コツコツの努力」は不向きです。

 それで、指導教官を得て、「研究計画」のプログラムに沿って発表や学会論文をこなしていく「課程博士」で、博士号をめざすことにしました。
 指導教官から、ムチを入れられながら、叱咤激励を受ければ、なんとかゴールをめざせるかもしれません。
 「コツコツ」のかわりに「締め切りに追われるレポート」と「発表」を積み上げていく方式。3年間の課程で博士論文が書き上がるかどうかは、ちと不安ですが。

 英語の苦手な私、入試に一回で合格できないだろうから、今年は来年のための「お試し受験」と思い、受験願書受付締め切り日の夕方、願書を大学院事務所に提出しました。最後の応募者であろう私の受験番号は33番。9名合格というので、三倍強。こりゃダメだ、とあきらめて、英語の復習もせずに出たとこ勝負で試験に望みました。

 お試しのはずが、ラッキーなことに合格したのです。10名合格していたので、1人多い。たぶん、このオマケの一人がわたし。
 これで一生の運を使い果たしたのではないことを祈っています。宝くじ1億円もあてたいので。

 この挑戦は、去年受け持った教え子たちからの刺激によります。
 つぎつぎに「博士後期課程に合格」という知らせが入り、「ハカセ、いいなあ、私も博士号とりたいっていう夢、もう一度追いかけてみようかなあ」という気になってのチャレンジでした。

 15年前、私が修士号をとったとき、息子は4歳でした。
 子育てと大学院での研究と、日本語教師の仕事と夫の会社の手伝いと、4足のわらじを履き替えながら暮らしていた日々。
 今から思うと、よくもあんなサーカス綱渡りみたいな生活ができたと思います。

 なんとか修士号取得にたどり着けたのは、家族みなが大病にかからず、事件事故にあわなかったおかげと、運の強さに感謝しています。
 私が倒れても、姑に介護が必要になっても、どこかひとつ歯車がかけちがえば、達成できないめぐりあわせ。

 しかし、大学に再入学してから8年間続いた「主婦兼母兼日本語教師兼会社アシスタント兼大学院学生」という忙しすぎた日々に疲れ果てていて、博士後期課程への進学は断念しました。
 「娘と息子が成人するまでは、子育て優先。子供の食費をかせぐことが第一」と、博士号への夢を封印したのです。

 その息子が、今19歳、大学2年生。今年の秋には、20歳になります。
 夢への封印を解いてもいいころです。
 私もずいぶんと年をとってしまいました。でも、チャレンジに年齢は関係ない。
 「夢を実現しよう」と決意したときが、「そのとき!」です。

 息子と娘が合格祝いをしたいと言います。
 それで、コピルアックを飲んだ店ホワイトフォックスへ行って、「サクラさく、合格おめでとう!」の、楽しい食事になりました。
 あ、「ハハのためのお祝い」と言っても、支払い担当は私です。

 自分のために学費入学金を支払ったら、乏しい貯金は底をつき、息子の学費はまだ払っていません。学費未納による退学勧告が来る前に、ジャンボ宝くじあてなくちゃ。

本日の徘徊俳諧
博士望む女弟子いて山笑う


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裸足の1500マイル2008年7月

2011-02-11 08:20:00 | 日記
2008/07/14
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(1)アボリジニランナー

 オーストラリア・アボリジニの苦難の歴史を描いた『裸足の1500マイル』という映画があります。
 実話にもとずき、アボリジニの少女を描き、アボリジニが白人から受けた歴史を静かに告発しています。
 日本では、2002年の東京映画祭で上映され、私は一般公開を2003年に見ました。

 文化人類学や民族学を学んでいた私にとって、アボリジニは、1970年代から注目してきた、「すばらしい文化を持つ人々」、というイメージですが、世界中の人がアボリジニの存在に注目したのは、2000年、シドニーオリンピックのときです。
 
 オーストラリアを代表する陸上選手、キャシー・フリーマン。
 シドニーオリンピック開会式の聖火ラストランナーでもあり、400メートル金メダリストでもある。

 彼女が世界中に衝撃を与えたのは、彼女が「聖火ランナーかつ陸上金メダリストになった唯一の女性」というだけではありません。
 400mで優勝したウィニングランで、オーストラリア国旗だけでなく、アボリジニ民族旗をも身にまとって走ったからです。
 
 オーストラリア国内では、アボリジニというアイデンティティを「国威発揚」の場で表明した彼女に非難を浴びせる人もいました。しかし、アボリジニの存在を世界中の人に知らせるために、キャシーの行動は大きな力を発揮しました。

 アボリジニという先住民族が、オーストラリアにいたことを、キャシーによってはじめて知った人もいたのです。

 今年、6月6日、ついに「アイヌは先住民族である」と認める国会決議が採択されました。
 国会での「先住民」認定はまだまだ先になるかもしれないと、思っていたので、うれしい驚きでした。

 アイヌ文化に長く関心をもち続けてきた私には、画期的な決議に思えました。
 アイヌ文化は、金田一京助がユーカラ保存に関わって以来、日本語学者にとっても、縁が深いのです。

 私は、2007年10月20日に有楽町フォーラムで行われた「アイヌ文化フェスティバル」に参加し、佐々木高明(元国立民族学博物館長)の講演「アイヌ文化振興法10年-その意義と残された問題-」を感銘深く聞きました。
 アイヌのムックリ演奏指導などもあって、楽しい文化祭でした。今年も参加したい。

 2007年9月、国連総会で「国連先住民族権利宣言」が決議されました。
 国際法的な力はないものの、先住民族の自決権(3条)自治権(4条)伝統と慣習を維持する権利(11条・12条)資源に関する権利(27条・28条)環境に対する権利(29条)などを「先住民族」の固有の権利として保障するも宣言です。

 アイヌの問題を長い間放置してきたけれど、アメリカや国連のやることなら見習う日本政府は、ようやくアイヌの生きる権利を認めたのです。

<つづく>
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2008年07月15日


ぽかぽか春庭「兎よけのフェンス」
2008/07/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(2)兎よけのフェンス

 アメリカ合衆国のネイティブアメリカン(かってインディアンと呼ばれた人々)や、イヌイット(エスキモーと呼ばれていた人々)、ラテンアメリカのネイティブの人たち(今でもインディオと呼ばれている)、ニュージーランドのマオリ、オーストラリアのアボリジニ、北海道のアイヌ、、、、

 先住民族の生活権、生存権は、ようやく「人権」尊重の機運のなか、認められるようになってきました。

 先住民族の文化運動は各地で活発になっています。
 世界の先住民文化活動の中でも、ネィティブアメリカンやアイヌ、ラテンアメリカ民族芸術などと並んで、少数民族の存在を主張する流れをつくっているもののひとつに、アボリジニの文化があります。

 今回のシリーズでは、アボリジニを主人公にした映画『裸足の1500マイル』と、アボリジニ・アーティストのエミリー・ウングワレーをとりあげ、アボリジニの歴史と文化について考えたいと思います。

 オーストラリア出身の映画監督フィリップ・ノイスは、アボリジニの少女を主人公にした『裸足の1500マイル』を、アボリジニ側の視線で描きました。
 原作者のアボリジニ作家ドリス・ピルキングトンは、主人公モリーの娘です。母から聞いたアボリジニ苦難の歴史を本にしました。

 原題の「うさぎよけのフェンスRABBIT PROOF FENCE」とは、「うさぎが農地に穴を掘らないように設ける」という名目で設置された、アボリジニ隔離政策のためのフェンスです。

 映画は、モリーとデイジーの姉妹が親から無理矢理引き離され、ふるさとから1500マイル(約2400Km)も離れた収容所に入れられるところから始まります。

 白豪主義を標榜する豪州政府の政策により行われ、混血アボリジニの子どもたちは、誘拐同然のやり方で親から隔離されました。

 アボリジニの歴史を振り返ってみます。そもそも、なぜ混血アボリジニが生まれたのか。

 アボリジニの人々は10万年前の太古から、オーストラリアの大地に住み、狩猟採集によって生活し、美しい絵を岩や道具類に残してきました。
 大地のスピリットを敬い、自然と調和した暮らしを何万年も続けてきました。

 しかし、1788年以後、アボリジニの平和で満ち足りた生活は一変してしまいました。
 イギリスがオーストラリアを植民地とし、犯罪者流刑地としたからです。

 免疫を持たずに暮らしてきた人々は、イギリス人犯罪者ほかの人々が持ち込んだ病気にまったく抵抗力がありませんでした。多くの人が病にたおれました。
 また、カンガルー狩り、ウォンバット狩りなどの「スポーツ狩猟=紳士のための楽しみ」のひとつとして、「アボリジニ狩り」がまかり通り、「狩りの獲物」として殺される人もいました。

 1788年以前のアボリジニ人口のうち、90%が命を落としたといわれています。
 文字通りの「少数民族」にさせられてしまったのです。

<つづく>
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2008年07月16日


ぽかぽか春庭「ハーフアボリジニ」
2008/07/16
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(3)ハーフアボリジニ

 白人の持ち込んだ疫病や「アボリジニ狩り」に耐えて生き残ったアボリジニの女性は、髪を切られ「boy」として白人の召使いにされました。
 ボーイの多くが雇い主の陵辱を受けました。

 現在、アボリジニに白人とのハーフやクォーターがいることの理由のひとつは、この「ボーイ」を性の道具とする習慣があったためです。

 アボリジニ社会では、父親がだれであれ子供は大切にされ、一族の子として皆で育てるので、アボリジニ・コミュニティで育てば、子供が差別を受けることはありません。
 しかし、白人側で育つハーフアボリジニの子供は、さまざまな差別を受けました。
 ハーフやクォーターの子供たちは、「アボリジニより色が白く見える」ため、女性が極端に少なかった流刑地の「性処理」のために働かされることも多かったと言います。

 イギリス人宣教師などをはじめ「善意の人々」は、「混血児」には白人の血が入っているのだから、救わなければならないと考えました。「白人化政策」と呼ばれている、白豪主義の実践です。
 キリスト教の精神を知らない「野蛮な人々」を教化せんと、強制的収容政策がはじまったのです。ここからも多くの悲劇が生まれました。

 1910年ごろから1960年代まで50年もの間、この「アボリジニ混血児に教育を受けさせるために、親から強制的に引き離して、アボリジニ専用寄宿舎で教育する」というオーストラリア政府の活動が行われました。
 寄宿学校という名の収容所です。誘拐同然のやり方で、子供たちが集められました。

 政府や教会が主導し、アボリジニの子供を「進んだ文化」によって立派に教育しよう、という考え方に基いて、50年間にアボリジニの子供たちのうち約1割、10万人が親元から連れ去られました。

 少女たちは、「寄宿学校」である程度の読み書きを教えられます。
 寄宿学校長(収容所長)は、「就職先」として、白人入植者の家を選び、アボリジニ少女をメイドとして送り込みました。

 「教育を受けて、白人の家庭で生活するほうが、無教養なアボリジニの親と生活するよりはるかに幸福」と、所長は信じています。

 しかし、メイドとして雇われた少女は、雇い主の性奴隷とされる例がほとんどでした。
 かって「ボーイ」として白人家庭の雑用をさせられていたアボリジニの娘がそうであったように、「メイド」の生活は、悲惨さにおいて変わるところがありませんでした。

 雇い主の妻は、亭主が売春宿に出入りして性病をもらってくることをおそれ、より「安全な」メイドとの性処理を黙認していました。

<つづく>
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2008年07月17日


ぽかぽか春庭「盗まれた子どもたち」
2008/07/17
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(4)盗まれた子どもたち

 この「白人による強制的教育」を受けた子供たちは、「アボリジニは野蛮である」とたたき込まれ、「白人は優秀な指導者」と教えられました。
 自らのアボリジニとしての誇りを失い、しかも白人からは依然として「野蛮人の子孫」として扱われ続けたために、アイデンティティを喪失する子供が続出しました。

 教育にとって、アイデンティティの確立ということがどれほど大切か、を証明する「反面教師」となった事例です。

 いちど失われた心を取り戻すことは容易ではなく、多くの混血アボリジニが非人間的な精神状態のもとに生きる結果となりました。
 収容された10万人の子供たちのうち、どれほどの子供が収容所で命を落としたのかも、正確な調査は行き届いていません。

 白人から「アボリジニは遅れた野蛮人」と教え込まれ、アイデンティティを喪失した子供たちは、 "Stolen Children" (盗まれた子供達)と呼ばれています。親から盗み出された子供であり、本人は、精神のよりどころを盗まれてしまったからです。

 「盗まれた子供たち」の多くが、成人後、精神的に不調となり、アルコールや麻薬におぼれたり、働く意欲を失ったりしました。
 1970年代に強制収容は廃止されましたが、今でも、「混血アボリジニ」の中に、精神状態が安定しない人々が数多く残されています。

 映画『裸足の1500マイル』の原作者ドリス・ピルキングトンは、1937年、母親モリーの故郷ジガロングから60キロほど北西に進んだ集落に生まれました。
 ドリスは、3歳半で母モリーから引き離され、ムーア・リバー居留地に、強制収容されました。

 2002年東京映画祭記者会見でのドリーのことば。
 記者からの質問「北朝鮮拉致被害者また、被害者家族との再会についてについてどう思うか」
 『私は、3歳半の時に連れ去られて収容所に行かされたのですが、その時の収容所はひどい状況でした。だから(北朝鮮拉致被害者が)連れ去られるという気持ちはよくわかります。そして再会することも経験しているのでよくわかります。TVで(北朝鮮拉致家族の再会を)拝見したんですが、家族が再会して喜びにあふれる様子は私自身も24歳の時に経験しましたので非常によくわかります。私は3歳半から24歳まで両親から引き離されてたんです』

 2002.10.27 東京国際映画祭会見場での映画公開時に、ノイス監督とオルセン・プロデューサーの間で、記者会見するドリス。
http://www.minipara.com/movies2002-4th/hadashi/kaiken.shtml

 ドリスは、居留地出身者として初めて、パース王立病院の看護科に入学することができました。1955年、18歳のときのこと。

 居留地出身のアボリジニ女性の多くが、名前の読み書きができる程度の教育を受けて「メイド」になるしかなかった時代に、職業を持つ女性として自立できたことは、ドリスがいかに優秀な女性であったか、わかります。
 看護師として働いていたドリスは、結婚し、6人の子供を授かりました。

<つづく>
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2008年07月18日


ぽかぽか春庭「モリーとデイジー」
2008/07/18
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(5)モリーとデイジー

 ドリスは、結婚後、パースに戻り、大学に進学しました。
 結婚後、子どもを育てながら大学での勉学を続けたことは、私と同じなので、ドリスに親近感がわきます。

 ドリスは大学卒業後、西オーストラリア・フィルム・アンド・テレビジョン・インスティチューションで映像制作に関わるようになりました。

 ドリス・ピルキングトンの脚本作品『Caprice: A Stodkman’s Daughter』は、1990年、アボリジニライターのためのデイヴィッド・ウナイポン賞を受賞し、出版されました。
 現在は、29人の孫を持つ祖母として、アボリジニ文化を孫世代に伝える役割をはたしています。

 『うさぎよけのフェンス』は、母モリーの子供時代の強制収容所脱走経験の聞き書きとして、ドリスが執筆しました。
 映画脚本は、脱走逃亡劇をよりドラマチックにする脚色もなされていますが、原作は「母モリーの実体験」に基づくものです。
 少女モリーの、収容所からの脱走と逃亡の2400km。

 映画は、モリーとデイジーというアボリジニの姉妹が、混血であるが故に親から引き離され、寄宿学校=収容所へ入れられるところから始まります。

 寄宿学校では、色の白さによって子供を選別し、「より白いほう」を優秀と見なしました。
 モリーは、たいへん頭のよい、優れた資質をもった子です。しかし、教育を受ける選別に、モリーは入りませんでした。肌の色が黒かったから。

 色が白い子は、教育を受けさせてもらえるけれど、黒い子は、自分の名前さえ書けるようになれば、教育はおわり。仕事の契約書にサインできさえすれば、契約書の内容など読めなくていいのです。どんな仕事かなんて、詮索もできないまま、「メイド」として牧場へ行かされるのです。

 14歳のモリーは、幼い妹のデイジーと仲良しの少女グレイシーを連れて、母に会いたい一心で、収容所から逃げようと決意しました。

 母のいる故郷は、収容所から1500マイルも離れているとは、モリーにはわかりません。
 ただ、モリーが知っていたのは、収容所近くにあるのと同じ「兎よけフェンス」が、ふるさとにも張り巡らされていたことだけ。

 延々と続く兎よけのフェンス。
 でも、このフェンスをたどっていけば、母の待つ家へとつながる。

 モリーは、デイジーとグレイシーを連れて逃げだしました。
 1500マイル。2400km。
 日本にあてはめると、北海道稚内から沖縄那覇までの距離に相当します。この距離を、執拗な警察の追求をかわし食料を調達し、妹をかばいながら、モリーは逃げ切りました。

<つづく>
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2008年07月19日


ぽかぽか春庭「裸足の小さな逃亡者」
2008/07/19
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(6) 裸足の小さな逃亡者

 以下、春庭HP本宅の「ちえのわ日記」に書いた『裸足の1500マイル』を再録します。

 2003年「三色七味日記」http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0306c7mi.htm
============

2003年06年29日 曇り『裸足の1500マイル』
 午後、息子と映画『裸足の1500マイルーうさぎよけのフェンス』を見た。

 隔離政策によって母親と引き離された3人の少女が収容所を逃げ出し、母親のもとへ帰るまでの9週間の逃亡生活の話。そもそもアボリジニを主人公にした映画というのを初めて見た。実話によるストーリー。

 収容所長のネビルはデビルというあだ名を持ち、「野蛮なアボリジニの中でも白人の血を分け持ったハーフを教育してやり、文明の光を与えてやるのが正しい道」と信じ込んでいる。狭矮な白人キリスト教絶対主義が、世界中のマイノリティに果たした不正義を代表する男。

 収容所でおとなしく教育され、「白人家庭の忠実な召使い」として働くようになったメイビスは、オーストラリアの大地で暮らすより幸福になれたか。
 「旦那様」の蹂躙におびえ、人間の尊厳を失いながら生きるしかなかった。
 モリーは、妹たちを気遣いながら、独力で母のもとへ帰ろうと決意します。

 モリーは、頭のいい子だ。教育を受ければ、もしかしたらアボリジニ解放のために働ける人材になれたかもしれない。しかし、学校教育を受けさせるためにネビルたちが子供を選別する方法は「色がより白い方が優秀」という基準だった。
 モリーは西洋式の学校教育を受け損ねたが、アボリジニーの伝統的な生活の知恵を身につけ、人間らしい尊厳を忘れることなく生きることができた。

 映画の最後に、主人公のふたり、モリーとデイジー姉妹の本物が写される。年老いたモリーとデイジーが、オーストラリアの大地を歩く姿、涙がでた。

 モリーは結婚後も収容所に入れられ、再び逃亡する。モリーの生んだ娘は、3歳のとき収容所行きとなり、母娘は二度と会えなかった。

 収容所への隔離生活を余儀なくされたアボリジニの中には、現在、アイデンティティの不在のため心を病む人がいるのだという。
 オーストラリア政府は、彼らが人間としての尊厳を持って自分たちの文化を守って生きていける政策をきちんとつけるべきだろう。

 後からやってきて、勝手に入植し勝手にうさぎよけフェンスを張り巡らせたのは、白人なのだから。オーストラリアの大地は本来アボリジニのものだ。北海道が本来アイヌの大地であるのと同じように。
===========
 以上、『裸足の1500マイル』紹介。2003年06年29日「三色七味日記」より

<つづく>
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2008年07月20日


ぽかぽか春庭「アボリジニの大地」
2008/07/20
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(7)アボリジニの大地

 収容所を脱走したモリーは、最初に同じふるさと出身のメイビスが働く牧場をたずねました。
 「幸せに暮らしている先輩の例」として、学校長が話しているのを聞いていたからです。

 メイビスがメイドとして牧場で働いていることを、収容所のネビル所長は「おまえらのようなアボリジニが白人家庭で暮らせるなんて、ありがたいことだ」と言っていました。所長は、キリスト教徒の博愛精神にのっとってアボリジニを保護し、良心によって彼らの幸福を考えてやっていると心から信じています。

 収容所を逃げ出してきたモリーたちを、こっそりかくまって泊めてくれるかもしれないと期待して、メイビスを頼ったモリーたちでしたが、、、。
 メイビスの部屋に泊まることはできませんでした。
 夜、雇い主の牧場主が、メイビスの部屋へやってくるからです。

 メイビスは泣きながら蹂躙に耐えていますが、いっしょに逃げようというモリーには従いません。ネビル所長や雇い主が警察に連絡し、たちまち捕まってしまうことを知っているからです。逃げ出せば、雇い主からどんなひどい目にあわされるか、、、

 波瀾万丈の逃亡劇の末。モリーは、2400kmを逃げ通しついに母が待つ家までたどり着きます。
 
 モリーは故郷に戻ることができましたが、モリーの晩年にいたるまで、アボリジニ迫害の歴史は続きます。

『裸足の1500マイル』公式サイト
http://www.gaga.ne.jp/hadashi/intro.html

 色が黒かったモリーとデイジーは「白人から教育を受けられる子」にならなかった。
 しかし、結局のところ、白人が与える教育とは「白人は優秀であり、アボリジニは野蛮で劣っている」と教え込むための教育を受け損ねたほうがよかったのかもしれません。

 モリーはアルファベットを読み書きして「聖書を読める優秀なアボリジニ」にはならなかったけれど、「白人の教え」以上のことをしっかり身につけていました。
 14歳まで母の元にいたモリーは薬草や食べられる草の見分け方、火のおこし方、その他もろもろの「アボリジニの知恵」を持っていました。

 アボリジニは、先祖代々の「生き抜く知恵」を伝えてきました。白人流の教育とは異なりますが、アボリジニが、先祖の伝承や生活の知恵を代々伝えてきたことも、立派な教育です。

 モリーは母から先祖の伝統を教わり、大地に生きる知恵を身につけていたのです。
 執拗な警察の捜索をかいくぐり、妹のために食べ物を調達して、独力で1500マイル、約2400kmのオーストリア大地を逃げ切るには、さまざまな知恵を働かさなければ、達成できません。

<つづく>
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2008年07月21日


ぽかぽか春庭「アボリジニの家」
2008/07/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>裸足の1500マイル(8)アボリジニの家

 故郷にたどりついたモリーは母のもとへ帰りました。
 しかし、逃げ戻った故郷ジガロングも、けっして安全な世界ではありませんでした。
 すでに白人入植者たちが土地を切り取りし、アボリジニが平和に暮らす自由な大地ではなくなっていたのです。

 モリーは故郷で結婚し子供をもうけますが、子どもたちと引き離されてしまいます。
 ひとりの子は、3歳のときに収容所に奪われ、生涯2度と会うことができませんでした。
 もうひとりの娘とは、幸いにも再会できました。3歳半で親元から連れ去られたドリーは、再会したとき、24歳になっていました。

 ドリーは、母モリーと再会後、モリーからアボリジニスピリットを受け継ぐことができました。他の「盗まれた子供たち」のように、アイデンティティを失うことなく、アボリジニであることを誇りにして後半生を歩くことができたのです。

 「白人化政策」は1960年代まで続きました。
 今もなお精神的な苦しみをかかえた「盗まれた子どもたち」が、残されていることは、先に記したとおり。
 誇りを持って生きる心を奪われ、アルコールにおぼれたり無気力な生活をおくった人も少なくなかった。

 2008年2月13日の報道から。
 オーストラリアのラッド首相は2月13日、先住民であるアボリジニに対し、過去の政権が行った政策について、初めて公式に謝罪しました。
 この日、先住民であるアボリジニたちが所有していた土地に、首都キャンベラが建設されたことが公式に認められ、白人がアボリジニの土地を「盗んだ」ことがようやく正式に認定されました。
 白人がオーストラリアにやってきてから、220年目になる年の、謝罪でした。

 現在、アボリジニは、先住民としての権利を認められ、自分たちの独自の文化を守りつつ、現代社会に適応しようとしています。
 アボリジニ独自の文化のなかでも、アボリジニ・アートは、近年世界中の注目をあつめています。伝統のアートでありながら、最先端の感覚を持つ抽象絵画。

 古河市のアボリジニアートギャラリー「チャンガラカフェ」の所蔵品から。
http://www.tjangala-cafe.jp/gallery/index.html

 アボリジニ・アーティストの紹介もつぎつぎになされています。
 なかでも最大のアボリジニ・アーティスト、エミリー・ウングワレー、没後12年の回顧展が大阪と東京で開催されました。

 新国立美術館で、『エミリー・ウングワレー展』を見ました。5/28~7/28開催

 まだ、出来る限り歩かないようにと医者に止められているのに、どうしても見たかった。
 これで、治りがおそくなっても、しかたがないと覚悟して、新国立美術館に出かけました。
 会場でチケットを買うとき、はじめて、「学割」をつかいました。私、学生証を持っているのよね。学生証を使ってみたい毎日でしたが、これまで外出がままならなかった。

 新国立美術館は、ゆったりした設計で、エミリーの絵を見るのにふさわしい大きさのある会場でした。次回より、エミリー・ウングワレーの紹介です。

<つづく>
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エミリー・ウングワレー2008年7月

2011-02-09 20:19:00 | 日記
2008/07/22
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(1)カーメ・やむいもの魂

 仕事帰りの午後5時半すぎに新国立美術館に入館し、ゆったりよい時間をすごしました。
 毎週金曜日は午後8時まで開館しているのでありがたい。金曜日は毎週ジャズダンス練習の日でしたが、足の怪我で8月まで休むことにしたので、時間がとれました。って、ホントは歩いちゃいけないのだけれど。
http://www.nact.jp/

 5時半から、120点のエミリー・ウングワレーの絵を見ていき、あっというまに閉館時間になりました。

 1点見ては、フロア真ん中の椅子にすわって、足を休め、1点見て、ビデオ上映ブースですわってビデオによるエミリー紹介を見るという鑑賞の仕方だったので、時間がかかったのも事実ですが、エミリーの絵、1点1点が、じっくりと眺めていたい傑作ぞろいでした。

 画集でみたり絵葉書でみただけでも、好きになれる絵もありますが、エミリーの絵こそは、実物を見なければ、すばらしさの一部分にふれることにしかならない。
 いや、ほんとうは、オーストラリアの大地の中央で、砂の上に平らにキャンバスをおいて、キャンバスの四方から見るのが、もっともよい鑑賞方法なのでしょう。

 エミリー・ウングワレー展の日本側監修者である国立国際美術館館長・建畠晢(たてはたあきら)の解説を引用します。
 図録にある、建畠館長の「インポッシブル・モダニスト」というエミリーへのオマージュもとてもすばらしい文ですが、長いので、こちらを。
===============

 『 エミリー・カーメ・ウングワレーは、アボリジニを代表する画家であると同時に、20世紀が生んだもっとも偉大な抽象画家の一人であるというべきでしょう。オーストラリア中央部の砂漠で生涯を送った彼女の絵画が示す驚くべき近代性は、西洋美術との接点がまったくなかったことを考えるなら、奇跡的にさえ思われます。

 彼女は1970年代の後半にバティックの制作を始めますが、何といっても注目されるのは89年から96年に86歳で没するまでの8年間に描かれた3,4千点に及ぶアクリルの作品です。
 それらの画面はしばしばポロックらのアメリカ抽象表現主義との共通性を指摘されています。

 最晩年の長さ8メートルに及ぶ大作《ビッグ・ヤム・ドリーミング》(1995年)のネット状のイメージが自生するヤムイモをモティーフにしているように、実のところはいずれも画家が住む土地の動植物などから広がった夢でもあるのです。
 砂漠が生んだ天才、エミリーの世界は私たちに大いなる感動をもたらすに違いありません。 』
===============

<つづく>
07:55 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年07月23日


ぽかぽか春庭「ドリーミング」
2008/07/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(2)ドリーミング
 
 エミリー・カーメ・ウングワレーは、オーストリアを代表する画家です。
 ネットで検索すれば、エミリーの絵のモチーフを知ることができます。

 でも、そのモチーフがキャンバスに描かれた迫力はおそらくわからない。
 エミリーの絵は、2×5m、 3×8mなどという大きなサイズがほとんど。
 たぶん、図録やネットの中の紹介では、絵のすばらしさを伝えることは難しい。

 代表作の大きさを知るためのリンク。
http://www.enjoytokyo.jp/id/art_staff/149630.html

 エミリー・カーメ・ウングワレー。
 エミリーは、英語通称名です。

 ウングワレーは、地域に住むアボリジニの出自を表しており、ファミリーネームではなく、部族ネーム(スキンネーム)です。
 アボリジニ・コミュニティでは、地域の一族は全員で助け合う仲間であり、地域一帯の同部族を表す名前があります。スキンネーム=ファミリーネーム、と言っても同じでしょうが、英語的な「家族」とは異なるので、ファミリーネームという用語を使わない。

 カーメは、アボリジニのことばで、「やむ芋」を表し、エミリーの「ドリーミング」です。
 エミリーにとって、カーメとは、自分自身の存在と自然との交歓、宇宙観すべてを含めたものを表しています。
 エミリーはヤムイモを描くことで、自分が司るドリーミングを継承し伝えようとしています。

 「ドリーミング」といわれる儀礼は、先祖の時代の天地創造にまつわる神話や伝説を伝えるものです。神聖な儀式の中で伝えられることもあり、また大地に砂絵として示されることもあります。

 ネイティブアメリカンのトーテムに通じる部分もありますが、同じではありません。
 ドリーミングとはアボリジニが先祖代々受け継いできた宗教や掟、神話、伝説などと、それにまつわるすべての物事を包括した言葉です。
 エミリーの場合、自分の命、精神が「カーメ(ヤム芋)」と共鳴しながら存在する、というところでしょうか。

 アボリジニは、自分が守り後世に伝えるべきドリーミングを、一人一人持っています。
 エミリーにとっては、やむ芋がドリーミングアイテムですが、トカゲの人もいるし木の実の人もいる。

 アボリジニの絵は、点描や線で表現されています。
 何を描いたのか、外部の人々にはわかりません。モダンな抽象画に見えます。

 しかし、アボリジニの部族内部の人がみれば、それがどんな神話を伝え、どんな伝説を描いているのか、わかります。
 部族の秘密を守りつつ次の世代へと、儀礼や砂絵やボディペインティングで伝承が続くのです。
 
<つづく>
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2008年07月24日


ぽかぽか春庭「アルハルクラ」
2008/07/24
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(3)アルハルクラ

 これまでオーストラリアの大地で何万年もの間続けられてきた絵を描く行為を、エミリーは、自分の感性で続けました。

 エミリーは、いかなる西洋美術の影響も受けたことはなかった。
 美術教育を受けたことはおろか、西洋美術を見たことすら無かったのです。

 西洋美術に見慣れた目には、「最先端のモダンアート」「近代的抽象絵画」に見えるとしても、エミリーにとっては、先祖代々の「ドリーミング」、すなわち大地のすべての物語を描いた絵なのです。

 「エミリー・カーメ・ウングワレー」は、エミリーが「自分の作品に関しては、この名を用いる」と、決めた名前です。

 「エミリー・ウングワレー」というカタカナ表記は、できるかぎりアボリジニの原音に近いものとして表記されていますが、「エマリー・カーメ・ングウォリー 」「エマリー・カーメ・ングオリ」という表記も見かけました。

 また、死後一定期間は死者の名をよぶことをはばかる、というアボリジニの慣習により、わざとちがうつづり表記で名をあらわすこともあります。

 エミリー・ウングワレーは、1910年ごろ生まれました。正確な生年月日はわかりません。アボリジニ(Aborigine)の人々は、生まれた年や月日を記録する習慣を持たなかったからです。

 これは、現代でも同じで、パスポートがいる、という時に、はじめて、生年月日を書き込む必要ができ、さまざまな状況証拠から生まれ年をさぐって記載することになります。

 生まれ年がはっきりわかっている人を基準にして「Aさんがあの石くらいの背丈だったとき、あなたはどれくらいAさんより背が高かったの?」などの質問をして、生まれ年を探っていくのだそうです。

 誕生日がわからない人は、全部1月1日生まれとして処理されるから、アボリジニの人の多くは、誕生日が1月1日。
 まあ、これは戦前の日本の「数え年」の年齢制度では、全員が1月1日にいっせいに年齢をひとつ上げていたのだから、同じようなものと思えばいいでしょう。

アボリジニアートの例
http://www.arts.australia.or.jp/events/0706/aboriginalart/

 エミリーは、アボリジニの伝統に従って、砂の上に絵や模様を描き、アボリジニを守る聖なる存在に捧げてきました。
 また、女性の儀礼のために、周囲の女性たちに「儀礼のファッション」であるボディペインティングを描いてきました。

 60歳過ぎまでそうやって、エミリーはアボリジニの伝統生活の中で、静かに心豊かに暮らし続けました。

<つづく>
07:15 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2008年07月25日


ぽかぽか春庭「ろうけつ染めとアクリルペイント」
2008/07/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(4)ろうけつ染めとアクリルペイント

 ひとくちに「アボリジニ(原住民)」と、言っても広いオーストラリア大陸です。おおまかな系統分類では30系統の部族が、300ほどの言語に分かれて、それぞれの固有の地域で暮らしてきました。文化もこまかい差があり、ひとくくりにすることはできません。

 エミリーの話すアンマチャラ語は、中央のシンプソン砂漠のはしにあるアリススプリングという町からさらに奥地へ250km入った「ユートピア」と呼ばれる地域の言語です。

 ユートピアとは、イギリス人が命名した地域の名ですが、エミリーの土地の人たちは、自分たちの地域をアルハルクラと呼んでいます。
 アルハルクラは、大きなアーチ型の神聖な岩の名です。この岩が見える地域に住んでいる人にとって、その土地は「アルハルクラ」です。

 白人が来るまで、土地はアボリジニの大地としてそこにあり、だれのものでもなかった。
 しかし、白人がやってきたあと、土地には所有者が新しい名をつけました。
 アルハルクラのあたり一帯は「ユートピア牧場」と名付けられ、白人の持ち物となりました。法律的に正しく。
 
 この「法律」を決めたのは、あとからやってきた白人たちです。白人たちは「私たちは正当な法律のもと、正々堂々と正義によって土地を得たのだ」と、主張し、牧場開発を行いました。

 アボリジニが先祖代々の狩りを行うと「牧場主の土地に勝手に入り込んで、牧場主の所有物を盗んだ、アボリジニは法律も知らない野蛮人のどろぼうだ」と、されたのです。
 野蛮人はどっちだ、勝手に法律を定め、勝手に人の土地に入り込んだのはどっちだ、とアボリジニならずともおもいますが、、、、
 これは、北海道アイヌも、ネイティブアメリカンも、事情は同じ。

 1910年代から50年間も「アボリジニ隔離政策」を続けてきたオーストラリア政府は、1970年代以後、政策を変えました。

 隔離政策から保護政策へと方向転換をはかるようになり、「アボリジニが手仕事を身につけて自立できるように」という教育プロジェクトも始められました。
 その中に、染め物工芸教育プロジェクトがありました。

 エミリーは自分の言語、アンマチャラ語(アマチャラ語)だけを理解し、自分のドリーミングを大切にして生きてきました。
 ドリーミングによって大地に砂絵を描き、女性の儀礼のためにボディペインティングを行ってきました。

 アボリジニ政策の変化は、エミリーの生活にも変化をもたらしました。

 1977年、エミリーは「バティック(ろうけつ染め」の技法を習いました。67歳でした。
 それ以後、10年間、エミリーは伝統の砂絵のほかにバティックによって布にアボリジニの神聖な模様を描きました。エミリーにとっては、砂の上に描いても布に描いても、それは大自然への祈りに通じるものでした。

 1988年、78歳のエミリーは、「絵画教育プロジェクト」を受け、カラーアクリル絵の具によってキャンバスに描く方法を知りました。

 エミリーの絵は、第一作から大きな反響を呼び、またたくまにエミリーの名はアートシーンに広まりました。「奇跡の天才画家」として。
http://www.emily2008.jp/index.html

<つづく>
06:54 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2008年07月26日


ぽかぽか春庭「大地への祈りを描く」
2008/07/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(5)大地への祈りをえがく

 美術学校教育もいっさい受けず、西洋的な美術技法を知らなかった80歳のアボリジニ女性が初めて描いたアクリルペインティングの作品。

 エミリーにとっては「ヤムイモやトカゲ、草の実」などを、伝統にのっとり、感じるままに描く「自然の魂」そのものです。
 しかし、西欧美術を知るものには、「最先端抽象美術」の最良のものに見えました。

 「インポッシブル・モダニスト=不可能な近代芸術家」と呼ばれるのも、まったく近代西洋美術の考え方では「ありえない」ほど飛び抜けた「モダンな抽象表現」に思えるからです。

 エミリーは砂に描いていたのと同じように、毎日キャンバスに描きました。3m×8mという大作を2日がかりで仕上げたり、小さなキャンバスを何枚も並べて、一日中描き続けたり。

 亡くなるまでの8年間に、エミリーは3000~4000点もの絵画作品を残しました。
 3000点から4000点というキャンバス作品、正確な制作点数がわからないのは、描かれた絵の行く末など気にとめなかったからです。

 エミリーにとって、描くことは神聖な大地への祈りであって、描く行為こそが大切でした。砂に描いた絵は、風が吹けば神のもとへと行ってしまう。
 勝手に絵を持っていくコレクターもいたし、ほしいと言う人に分けてやりました。

 今、エミリーの絵は、コレクターの間で高値で取り引きされています。
 1点1億円以上の値段がついた、唯一のオーストラリア人アーティストでもあります。
 エミリーからタダ同然で絵を受け取り、「オークション長者」になった人もいることでしょう。

 かろうじてエミリーの部族アボリジニの仲間に残された絵は、アボリジニの福祉のために使われるよう設定されていますが、エミリーも知らない間に、白人コレクターの手に渡った作品も数多くあります。
http://www.emily2008.jp/viewpoint.html

 そもそも、アボリジニの人々には「個人所有」という考え方はありません。「ものは、必要な人のところへいく」という考え方。
 そこに食べ物があれば、おなかがすいた人たちが分け合って食べるのです。

 靴を履きたい人がいて、そこに靴がありサイズが合えば、だれの靴でも履いて帰る。
 はいてきた靴が見あたらなければ、また別の靴を履いて帰る。最終的に大足の人に子供サイズの靴しか残らなかったら、、、、裸足で帰ればよいだけ。

 エミリーのことば
「ペンシル・ヤム(細長のヤムイモ)、トゲトカゲ、草の種、ディンゴ(オーストラリアの在来犬)、エミュー、エミューの好きな小さな植物、緑豆、カーメ(ヤムイモの種)、これが私の描くもの、すべてのもの」

 エミリーは、故郷アルハルクラの大地に広がるカーメ(やむいも)の地下茎を描き、風にゆれる草の実を描き、女性たちのボディペインティングのストライプを描きました。

 トカゲを狩り、芋を掘って生きるアボリジニの生活は、大地の魂と響きあい、豊かな精神をはぐくんできたのです。
 アボリジニの人々は、大地と深く結びついて生きています。草もヤム芋も、トカゲも、豆も、すべてのものが、アボリジニの魂であり、ともに生きていくものたちです。

<つづく>
00:35 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2008年07月27日


ぽかぽか春庭「ミニーとバーバラ」
2008/07/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(6)ミニーとバーバラ

 今回のエミリー回顧展、オープニングゲストとして、オーストラリアや日本から、エミリー芸術に関わったたくさんの人が招かれました。
 その中のひとりがバーバラ・ウィア。エミリーの後継者と見なされている女性です。

 バーバラとその作品。
http://www.landofdreams.com.au/artists/barbara-weir.html

 「世界ウルルン滞在記」というテレビ番組で、日本の女性タレントがアボリジニの家庭にホームステイをした回があります。そのホームステイ先がバーバラの家でした。

 どうしてバーバラがホームステイ先に選ばれたかというと、彼女は英語が話せるから。
 なぜ、英語を話せるかというと、彼女も「盗まれた子供」として、寄宿学校=収容所に入り、その後20年、白人家庭を転々としました。英語を使うしか生きるすべがなかった。
 
 バーバラの母、ミニー・プーラ(Minnie Pwerla1910~)。
 ミニーは、エミリーと同じ1910年ごろ、アリススプリングス北東のアルハルクラで生まれました。(白人側からみると、「ユートピア牧場の所有地域内」で生まれた)

 ミニーは6人兄弟の間に育ち、伝統のボディペインティングや砂絵を身につけました。
 ミニーは狩りや儀礼を采配する重要な役割を担い、中でも女性の儀礼において、部族間で長い間伝承しつづけてきたボディペイントの「語り部」でもありました。

 ボディペインティングは、ただ女性の肩・胸元・乳房・腕にかけて描かれるだけでなく、その図象に物語伝説を伴うものなのです。ボディペインターは、その物語の語り部でもあります。

 ミニーは7人の子供に恵まれました。そのひとりがバーバラ・ウイアです。
 バーバラは、1945年にアボリジニ女性ミニーと、アイルランド系白人男性との間に生まれ、1955年、10歳のとき、「混血児を収容して教育を与える」という白人化政策によって、母親と引き裂かれました。

 映画『裸足の1500マイル』の中の、モリーと同じ悲劇を、バーバラも経験したのです。
 モリーは逃亡に成功したけれど、バーバラは、モリーの娘ドリスと同じく、長い間母から引き離され、白人化教育を受けさせられました。

 バーバラは、白人から受けた教育で英語が話せるようになりましたが、そのかわり、アボリジニとしてのアイデンティティを奪われ、地域アボリジニの言語であるアンマチャラ語を忘れてしまいました。

 バーバラが故郷の砂漠地帯に戻れたのは、20年後です。白人化政策が廃止され、故郷にようやく帰ることができました。

<つづく>
07:02 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月28日


ぽかぽか春庭「インポッシブル・モダニスト」
2008/07/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(7)インポッシブル・モダニスト

 故郷に戻ってきたものの、バーバラは30歳ちかくになっており、地域のことばも話せず、故郷の人々になじめませんでした。孤独にひきこもるしかなかったバーバラ。
 そんなとき、幼い頃のバーバラをはっきり覚えており、受け入れてくれたのがエミリーです。

 10歳まで同じ地域で暮らしたバーバラを、子を持たなかったエミリーは「養女」のように受け入れました。
 エミリーは、周囲になじめないバーバラの庇護者となり、バーバラに語りかけました。バーバラがアボリジニアイデンティティを取り戻すために、さまざまなことを教えました。

 バーバラは、心の育ての親であるエミリーを、生みの親のミニーと同じように慕いました。そして、エミリーの影響のもと、バーバラもアボリジニペインティングを描くようになりました。

 1990年以後、バーバラは画家として自立し、現在は、エミリーの後継者としてアボリジニ・アートの普及につとめています。
 また、英語が話せるバーバラは、世界各地でのアボリジニ・アート展覧会に際しての、関係者との打ち合わせにもかり出されます。

 アボリジニの中で、英語が話せる人はアボリジニの伝統から切り離されてしまっており、アボリジニの伝統を受け継いだ人は、英語が話せない。バーバラは、アボリジニアーティストでありつつ英語も話せる、貴重な人材です。

 1996年にエミリーがなくなったあと、バーバラは実母ミニーにも絵を描くことをすすめました。
 1999年、ミニーは、はじめてアクリルカラーの絵筆を手にしてカンバスに向かいました。

 ミニーが、ボディペインティングをモチーフにした絵を描くようになったとき、89歳~90歳になっていました。(正確な年齢は本人にもわからないけれど)
 90歳の新人画家誕生です。
http://www.landofdreams.com.au/artists/minnie-pwerla.html

 ミニーの描く絵も、エミリーの絵と同じように、強いエネルギーにみちています。
 90歳の女性が初めて絵の具で描いた絵と思えない迫力に満ち、90歳までに身につけた、伝統のアボリジニアートの美しく力強いスピリットにあふれています。。

 ミニー、92歳のときの作品
http://www.landofdreams.com.au/artworks/56.html

 バーバラは、今回のエミリー・ウングワレー展の特別ゲストとして来日し、イベントに出席しました。
 英語をまったく解さないアボリジニ・アーティストやダンサーも同行しましたから、バーバラの気苦労もなかなかたいへんだったことでしょうが、おかげでエミリー回顧展は大きな反響を呼んでいます。

 エミリーは、終生、故郷であるアルハルクラを称え、作品にアルハルクラへの賞賛と感謝を表現しました。
 エミリーの作品のひとつ「マイ・カントリー」アボリジニアート・コレクター内田真弓さん所蔵作品
http://www.landofdreams.com.au/artworks/2.html

 儀礼や歌、踊り、絵画制作、これらを行うことが生活することであり、生きること。エミリーの描くすべては、土地に深く根ざしています。

 エミリー・ウングワレーはじめ、アボリジニの人々の絵は、「アボリジニの魂」の表現です。

<つづく>
07:17 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2008年07月29日


ぽかぽか春庭「ユートピア」
2008/07/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(8)ユートピア

 エミリーの故郷「アルハルクラ」と呼ばれる地域。
 一帯の赤い大地は、どこまでも広がり、豆や草を這わせています。
 アルハルクラは、アーチ型をなす赤い岩の名前でもあります。

 儀式を行うとき、エミリーは、鼻の中心部にあけてある穴に、10cmくらいの棒を差し込んだ姿をしています。
 穴があいたアーチ型の岩「アルハルクラ」に対して、エミリーが敬意を表す正装が、この鼻ピアスです。

 エミリーの写真。
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/arts/080612/art0806120802000-p1.htm

 新国立美術館でのエミリー・ウングワレー点は、最初のブースに、故郷アルハルクラをイメージした作品を何点か代表作として展示し、あとは、年代順、テーマ順に沿って展示が為されています。

 ゆったりした空間に、エミリーの大作がならび、夜6時すぎの会場はあまり人も多くなくて、とてもいい時間が流れていました。

 1977年からはじまったバティックの布地ろうけつ染め作品。
 1988年からのカラーアクリルによるキャンバスの作品は、年代を追ってテーマが「点描」「ストライプ」などが並んでいます。

 1988年に描いた最初のカンヴァス作品「エミューの女」(1988-89、The Holmes à Court Collection蔵)は人々に大きな衝撃をもたらしました。

 最初の作品「エミューの女」
http://www.emily2008.jp/display.html

 「神聖な草」の章では、スピード感あふれるタッチで、すばらしい線がキャンバスを交差しつつ美しいハーモニーを奏でています。

 エミリーの最晩年にあたる1996年に制作された作品群。
 なくなる2週間前の3日間、エミリーは24点の作品を生み出しました。これがまたすばらしい。

 この3日の間、エミリーは幅広の刷毛を用いて、美しい色の面から成る作品を描きあげた。会場にはその中の5点が展示されています。
 79歳でカラーアクリルペインティングをはじめて、87歳までの8年間、あくなきエネルギーで描き続けたエミリーですが、もっと長生きしてくれたら、さらにさまざまな描写によって、より幅広い表現の世界を追求したことでしょう。

 エミリーは、キャンバスをそのまま大地の上におき、キャンバスの上に座り込んで、四方から描きました。
 「どの方向からながめてもいい」というのが、エミリーの主張です。神に捧げる砂絵、神はどの方向から見ているのかわからない。それと同じく、どの方向から見てもいいというので、作品の天地は、研究者やキュレーターが決定します。

 私も、ひとつの作品を横から見たりいろんな方法で見てみました。
 作品によっては、木の枠が額として取り付けられていたのですが、エミリーが「額装」ということをまったく考えていなかったことは確かだと思います。

 なぜなら、私がキャンバスにちかづいて横から眺めたとき、キャンバスは縁にまでしっかりペインティングされ、模様がつけられており、ときには、キャンバスの裏側にまで絵筆がのびているものもあったからです。
 エミリーは、縁に塗った色が額によって隠されてしまうとは予想していなかった。

<つづく>

09:04 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月31日


ぽかぽか春庭「軌跡の画家」
2008/07/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>エミリー・ウングワレー(9)奇跡の画家

 エミリーの絵が、世界のアートシーンに驚きを与えて以後、エミリーはオーストラリアを代表する画家となりました。

 1990-91年にはシドニー、メルボルン、ブリスベーンで個展が開催されました。
 1992年にオーストラリアン・アーティスツ・クリエイティヴ・フェローシップを受賞し、エミリーが亡くなったあと、1997年にはヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア代表に選出されました。
 1998年にはオーストラリア国内を巡回する大規模な回顧展が開催されました。
 
 エミリー・カーメ・ウングワレー(1910年頃~1996年)
 彼女の作品は、没後12年を経て、ますます評価が高まっています。
 100を越える展覧会に出品され、世界各地の美術館、コレクションに作品が納められてきました。

 また、ヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア館で特別出品されたほか、1998年にはオーストラリア国内の主要な美術館を巡回する大規模な個展が開催されました。

 日本での紹介は、1996年、エミリーが亡くなったころに、日曜美術館で紹介したということでしたが、私はまったく彼女の絵を知ることなく2008年まできました。

 2008年6月7日にテレビ東京の「美の巨人たち」、6月22日にNHKの「新日曜美術館」でエミリー・ウングワレーを特集したというのですが、私は見のがしました。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/0622/index.html

 今回、エミリー・ウングワレー展には、「ユートピア」というコーナーがありました。
 はからずも「ユートピア」と名付けられたアボリジニ、アンマチャラ語を話す人々の故郷。その故郷の生活すべての中に、エミリーたちの芸術が生きていました。

 エミリーや他のアボリジニアーティストによる、動物の彫刻や人形に伝統のペインティングをほどこした作品が出品されていて、キャンバスに描かれているモチーフが生活のなかにあることを感じることができました。
 ヤム芋を掘る農作業の棒にも、エミリーの祈りがこめられた点描があります。トカゲの丸焼きや芋煮をのせた器にも、伝統の模様がほどこされていました。

 ほんとうに、なんの予備知識もなくいきなり美術館でエミリーの絵にぶつかった、という鑑賞の出会いでした。

 アボリジニは、2000万人オーストラリア人口の2%強、46万人ほどだそうです。
 人々がおおらかに伝統と現代の生活を融合し、生き生きとした精神生活が送れるよう、オーストラリア政府は、しっかりとした政策をたててほしい。

 このすばらしい芸術の魂をもつ人々が、エミリーの残した芸術遺産とともに、未来へむかっていけますように。

<おわり>
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裸足の東京ウォーカー2008年7月

2011-02-01 05:37:00 | 日記
2008/07/11
ぽかぽか春庭やちまた日記>裸足の季節(2)裸足の東京ウォーカー

 それにしても、こんなふうに履き物がバラバラボロボロになるとは思わなかった。
 古いことは古いけれど、買ったまま、置き傘置き靴でひとくくりにして、学校のロッカーに何年も入れっぱなしにしておいたサンダル。何回も履いていないのに。
 ああ、足もとが崩れていく、、、、

 留学生教育センターにたどり着いたとき、サンダルは完全にバラバラ状態に壊れていた。もはや、履き物のていを為していない。
 事務室の人に、「スリッパがあったら貸していただけませんか」と、尋ねてみたけれど、ないって。

 ええい。1限目は、裸足で授業にでた。
 だれも私が靴履いてないことに気づきませんように。

 いつもは教室中動き回る春庭センセだけれど、足を怪我してから、机の前から動かないようにして授業することもあったので、本日も、椅子にすわって、机の前から動かないで授業しても、留学生たち、気づかない。午前中、中級文法のクラス、無事終了。

 昼休みに、大学生協の店へ行った。はだしで。
 私たちの世代にとって、裸足のランナーといえば、オリンピックマラソン2連覇、エチオピアのアベベですが、私は「裸足の東京ウォーカー」

 現代の東京の道路を裸足で歩く人は、たぶん、ゼロだろう。ホームレスの人でも、けっこうよい靴を履いている。

 大学生協で、「ビーチサンダルかスリッパ、おいてませんか。履き物ならなんでもいいんだけれど」と、言ってみたが、ない。品揃えの悪い生協じゃなあ。
 近くのコンビニまで行ったけれど、ない。

 夏だっていうのに、ビーチサンダルくらい揃えてもいいのに、、、、、そか、大学前のコンビニに、ビーチサンダルを買いにくる人いないよね。
 裸足で学外の歩道を歩く。雨が染みたあとの、濡れた歩道。

 午後の漢字のクラスにでるインドネシアの学生とすれ違い、「センセー」と、声をかけられた。ギクッ!
 う~ん、私の足、見ないでよ~。

 足には気づかれなかった。そういえば、私だって彼女のスカーフには目がいったけれど、足に何履いていたかなんて、見なかった。モスレム(イスラム教徒)の女性たちは、毎日すてきなスカーフでおしゃれをする。

 裸足で歩くこと、少数派だから恥ずかしいのか?
 人と同じ姿かっこうじゃないと、堂々と歩けないのか?
 裸足で歩いて悪いことは何もないのに。

<つづく>
06:17 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2008年07月12日


ぽかぽか春庭「裸足の女神」
2008/07/12
ぽかぽか春庭やちまた日記>裸足の季節(3)裸足の女神

♪OH MY 裸足の女神よ キズをかくさないでいいよ(足の傷はもう目立たないけどね)
痛みを知るまなざしは 深く澄んでもう萎れることはない(そうよ、痛みを知っている私、二ヶ月前に左足指骨折)
♪OH MY 裸足の女神よ キズをかくさないでいいよ
風に消されることのない 歓びさがそう
♪DON'T YOU CRY(ちょいと、泣きたい気分)
MY 裸足の女神よ ひとりで泣かないでもいいよ(泣いてるよ、私の足もとが崩壊して)
心から他人[だれか]にほほえむ 君の肩をひき寄せたいよ
(by B'z)

 裸足を自己表現というか、芸能活動のスタイルにしていた歌手のうち、私にとって「これは、ほんとに彼女の生きていく姿勢の表れ、と思って共感できたのはCoccoだけ。あとの人たちは、単なるファッションとしての裸足。裸足と言うより「素足の私がステキ」というスタイルだ。
 Coccoは、一度沖縄に帰って絵本を作ったりしたのち再登場したときはスニーカーを履いていたけれど、それでも彼女の歌うすがたには、ひりひりした心の奥底をさらす痛々しさ、ギリギリ裸足をさらさずにはいられない切実さがにじみでる。

 私は、普段、家のなかでは厳冬期以外は素足ですごすし、いつもの夏は5月から10月まで、素足にサンダル。
 最近は、管理の悪い砂浜や公園の芝生では、素足で歩いているとガラス破片がささったりする事故もおきるので、めったに屋外では裸足にならないけれど。

 生き方をファッションで示したいなら、私は腰箕に裸足が一番好きなスタイル。まあ、私のトップレスなんぞだれも見たがらないだろうから、腰箕だけじゃさすがにまずいかな、と思う程度。

 私だって渋谷のセンター街とか、秋葉原の歩行者天国を歩くのなら、裸足だっていっこう気にならない。みな、奇妙きてれつな衣装を競いあっている場所だから。

 都会の道路を裸足で歩くのは、特殊な健康法を実践しているか、変な宗教に凝っているか、と見なされる。つまり、私は「変わったカッコウして歩いている変わった思想信条の持ち主」と、斜めに見られるのがイヤなのだった。

 文化的衣装コードというのは、どの地域にもある。パプアニューギニアの「ペニスケース」だって、時と場合によって「このペニスケースをつけてこの儀式に参加するのはタブー」というような、コードがあるにちがいない。ペニスケースについてよく知らないで言っているのだけど。

 結婚式にパジャマででたら、何かの余興用の衣装と思われる程度ですむが、日本の衣装コードだと、葬式に「赤い靴」を履いて出席したら、確実に遺族からにらまれる。

<つづく>
00:59 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2008年07月13日


ぽかぽか春庭「裸足の400メートル」
2008/07/13
ぽかぽか春庭やちまた日記>裸足の季節(4)裸足の400メートル

 裸足で授業しても、誰にとがめられるということもないのもかかわらず、授業中落ち着かない気分でいたのは、やはり、私が「大学教師衣装コード」という、「無いようで、ある」ものに、しばられていたせいだ、ということが自分自身はっきりわかった。

 大学教師衣装コード、といっても、科目にもよるが、私立のほうが、「きちんとした格好」で授業することを求められる。
 しかし、最近の国立の若い男性講師には、ジーンズにTシャツで授業に出る人も増えた。
 芸術系の場合、スーツにネクタイなんて人のほうが少ない。

 国立で任期制ではないときの専任職の場合、けっこう自由度が高い。
 非合法な事件やセクハラ事件でも起こさない限り、服装の問題で首にされることなどないから。
 にもかかわらず、やはり、「シバリ」はあるのだ。

 私はいつもよれよれのシャツ&パンツスタイルで講義しているが、他の女性教師たち、みなそれなりにシャンとした服だし、特に年を取った女性たちは、勝負服としてスーツがお気に入り。カッチリ決めて仕事に臨む。

 「服なんて、気にしたことない。夏は裸でなければそれでよし、冬は寒くなればそれでOK」という服装ポリシー持ち主のつもりだったけれど、案外「服飾文化コード」に忠実な自分を発見した。

 私は、「他の人と同じ行動をとる」「社会常識からの逸脱をさけ、多勢に同化しようとする」という「日本社会のありかた」にいらだちを覚える方だ。

 それでも、服装に関しては、今後も、私は葬式に赤い服で出ることはしないだろうし、結婚式に招かれたら、花嫁花婿の親戚一同ににらまれないような服装は準備する。
 まあ、衣装にかんしては、社会生活上ごく平凡な、常識的衣装生活をおくるだろう。

 どんなポリシーがあろうと、服装コードごときにひっかかって悶着おこすほど、タフな精神を持ち合わせていない。

「男性はスーツかタキシード、女性はカクテルドレス以上の服装で」なんていう衣装コードを掲げるパーティやレストランなんぞには近寄らないし、学校の入学式卒業式にでるときは、それなりの見た目を準備するだろう。

 そう、私は、たかが「裸足で授業」程度でどきどきの気の弱い人間であるのだから。

 そんなことを考えながら、大学から最寄り駅まで歩いた。

 コンビニにもビーチサンダルやスリッパを売っていないとなると、次なる手段、隣の駅のイトーヨーカ堂までいって、履き物をなんでもいいから買わねば、と思って最寄り駅の前へ来た。

 コンビニから最寄り駅前までは400~500mほど。
 私が裸足で歩いていること、みんな気づかないみたい。うん、私の美しさにみとれるあまり、足には目がいかないのでは、、、、と信じて歩く。
 気分は「裸足の女神」、、、?

 駅前の冴えない洋品店に「大特価夏のサンダル」というのを売っていた。
 Lサイズのつっかけサンダル。う~ん、Lかあ。私の足、22センチ。

 特価サンダルの山の下のほうに、一足だけMサイズ。おお、これだ。色も形も、もはやカンケーない。Mでも、サンダルのかかとが1センチくらい大きいけれど、ま、いいか。
 大特価450円だった。

 とにかく、これで「はだしの日本語教師」からは脱却できる。
 駅前からの帰り道はサンダル履いて、堂々と歩く。

 「私の足を、だれも見ませんように」と、おそれることもない。
 だいたい、裸足で歩いたからといって、とがめられるわけでもない。

 無事「つっかけサンダル」を買えたからよかったものの、一日中裸足で動き、「隠れ特殊宗教信者」みたいな気持ちでいたら、よりいっそう疲れてしまったかも。

 現代において、「人前で何も履き物を足につけずに歩く」ということが、これほど「人目をはばかる」気分になるということに気づいた半日であった。

 次回から、シドニーオリンピック陸上400メートルの金メダリスト、キャシー・フリーマンやアボリジニアーティストのお話です。

 この「裸足の400メートル」は、次回の「裸足の1500マイル」のマクラとして書かれたのでして、「世界は足下から崩壊する」という大風呂敷タイトルには、ほど遠い話でした。すみません。

 次回からの「エミリー・ウングワレー」全15回連載は、30歳まで「文化人類学者になりたい」と思っていた春庭渾身の力作、と、また大風呂敷を広げまして、、、
 「エミリー・ウングワレー」シリーズは、『裸足の1500マイル』という映画の話からはじまります。

<おわり>

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