春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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2009/08/30

2009-08-30 08:28:00 | 日記
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2009/08/28

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2009/08/27

2009-08-27 04:10:00 | 日記
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2009/08/26

2009-08-26 15:48:00 | 日記
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2009/08/25

2009-08-25 10:12:00 | 日記
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2009/08/24

2009-08-24 20:50:00 | 日記
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1979年のケニア便り

2009-08-20 02:56:00 | 日記

2011/08/21
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(45)ケニアのダンス修行

アフリカ・ケニアでダンス修行をした9ヶ月、私にとっては大切な思い出であり、なつかしい青春です。
 「じゃ、アフリカでダンス習ったことが、今の仕事にどんなふうに役だったと言えるのか」と、問われたら、直接ダンス修行が日本語の授業に役立つってことは何もないのでしょう。でも、異文化の中にあって、異文化を大切に思い、それを知ろうとした日々があった、という心は、今の仕事に生かされているのではないかと思います。アジアの文化もアフリカの文化も、私にとってはとても大切なものになっているからです。

 日本語教師の中には、アメリカやイギリスなど英語圏に留学して、「エイゴペラペラ」であることが自慢で、欧米文化は尊重するけれど、開発途上国から来日する留学生に対して「欧米人に比べて語学習得が弱い」とか、途上国の文化は欧米の文化に比べて「遅れている」というような見方をする人もまだまだ存在するのです。

 前期と今期、これまでよりずっと多くのアフリカからの留学生を担当することができました。ケニアからの留学生を教えたのは、これまでに二人だけで、そういうときに下手にスワヒリ語を使うとボロが見えみえになってしまうのですが、アフリカの学生に出会うと、「ジャンボ。My second homeland is Africa.私の第2の故郷はアフリカです。カリブ、ジャパニ。日本へようこそ」と歓迎し、スワヒリ語が話せることを言うと、みな親しみを感じてくれます。

 1979年のアフリカと現在では隔世の感があるでしょうけれど、私の脳裏には、いつまでたっても、サバンナに沈む夕日が輝いています。
1979年のケニア日記書き写し、つづき。
~~~~~~~~~~

1979年9月28日付けアフリカ通信第14号その3
 9月27日は、午前中、ボーマスでまた踊りの練習をしました。今日はキクユ族の割礼儀式の踊りでした。簡単だからいっしょにやれと言われて、女の人の踊りをいっしょにやりました。動きは少なくて、歌を聞かせるのが主なので、振り付けは簡単でした。
 次のカレンジンの踊りの時は振り付けの先生に「お前は見てろ」と言われて見てました。男と女とペアになって順番に前に出たり引っ込んだりする踊りなので私がうろちょろしてたら邪魔なわけです。
 最初英語で言われてきょとんとしてたら、誰かが「あの子は英語知らないからスワヒリ語で言ってやれ」と言って、もう一度スワヒリ語で「あとで教えるから今はどいてろ」と言われました。

 女の人がおひるをごちそうしてくれました。シクマウィキという菜っ葉と肉の煮物とウガリ。おなかがすいていてとてもおいしかた。4畳半くらいの部屋にベッドを二つ置いて、女の人とその友だちの女の人と、子どもといっしょに住んでいます。子どもは、女の子で2歳。夫はいないらしかった。未婚の母はふつうで、周りの人も父親のない子を特別な目では見ません。しかし「ボーマスに来てから2年で、前は陸軍のオフィスで働いていた」という話から考えると、やはり政府関係とか堅い仕事は未婚の母に向いてないみたいです。

<つづく>


2011/08/22
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(46)ナイロビショウ(産業博覧会)とワイルドギース

1979年9月28日付けアフリカ通信第14号その4
 午後はタマちゃんとナイロビショウに行きました。下町のバス停から特別バスが出ているので乗って行きました。
 入場料450円。高い。中に入って踊りがいつあるのか調べたら、もう終わっていて、今日も明日もないことがわかりました。まったく頭にきました。ほかに見たいものなんかありません。羊の品評会だとか、テレビや車の展示とか「鉄道の発達」の展示だとか、どこが面白いかって。しかし、ケニアの人にとっては、伝統の踊りなんて日本人がお神楽をあんまりおもしろがる人がいないのと同じように、たいして面白いものでなくて、車やテレビに興味があるのでしょう。

 出店があって安売りしています。皆がほとんど買っていたものは、プラスチックの赤や青のバケツ、たらい、オケ。町の半値で買えると言って、みんな買っていました。ふだんは900円もするプラスチックのバケツが450円くらいで買えたそうです。みんなが安いと言うから、私とタマちゃんも洗濯用にひとつ共同で買おうかと思ったのですが、やっぱりやめました。とにかく、私たちには何もおもしろくない産業博覧会でした。

 踊りを見に行けばおそくなると思ってパイヤ氏に迎えに来るよう頼んでおいたのですが、6時ごろならバスで帰れると思って、電話で断りました。金曜ももう見たくないので、ワイナイナさんに断りました。
 ワイナイナさんは、女房がシクマウィキの作り方を教えるから、来週、家に遊びに来るようにと言ってくれました。

 9月28日は、午前中、ボーマスに行きましたが、練習はありませんでした。小学生の団体見学があったので、練習がなくてショウがあったのです。私も小学生といっしょに見てましたが、もう踊り子と顔見知りになったので、皆が私の方を見て、笑ったり首を振ったりします。小学生の見学なので、気をゆるめていたのかも知れません。

 午後はタマちゃんと洗濯やらおしゃべりやらで終わってしまいまいた。タマちゃんともう一ヶ月同じYWCAに泊まっているので、ずいぶん仲良くなりました。高橋さんは、男の人に対して態度が変わって女の色気を振りまくので、何となく気が合わなかったのですが、タマちゃんは男の子みたいにさっぱりしていて、気が合います。

 いくら日本人が少ないと言っても、やはり気の合わない人とはあまり喋りたくないです。タマちゃんはスワヒリ語が私よりうまく、英語は私とどっこいどっこいです。獣医だから、本当はボーマスで踊りの練習につきあうことないのだけど、一人では行きづらいだろうと、つきあってくれています。歌の歌詞をムハメッドから借りて一生懸命写していました。(タマちゃんは)家から手紙が来ていて、親がもう日本に帰れと言ってきたけど、タンザニアにも見たい動物があるんだと、がんばっています。

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その1
 9月29日土曜。朝、タマちゃんがナマンガの町へ行って国境を見たいというので、下町のバスセンターまで送っていきました。12時発のバスはマサイ族でもう満員。2時発のバスの方にさせられました。タマちゃんは12時から2時まで、バスの中で待っていたんだそうです。それから4時間かかってナマンガへ行ったのですから、ごくろうなことです。

 私は、午後は映画に行きました。戦争映画だから、英語はそんなにできなくてもいいというし、アフリカを舞台にしているから見といた方がいいなんて言われて、その気で見たのですが、確かに戦争アクションの部分はバンバン撃ちあって死ぬんですから英語はろくに必要ないので、よくわかりました。しかし、その前後のアフリカの政治的な背景の説明を台詞だけでペラペラやられて、なぜ捕われの黒人政治家を救出しなければならなかったか、なんてさっぱりわかりませんでした。やっぱり字幕つきでないとだめだと痛感しました。
~~~~~~~~~
2011/08/22
このとき、見た『ワイルド・ギース(The Wild Geese)』は、1978年制作のイギリス映画。タカ氏といっしょに見たのですが、英語ぜんぜんできないタカ氏は、「わからないところは、あとであなたに日本語で説明してもらえばいいやと思ったから、いっしょに見にいったのだ」ですって。

 私は買い物でも道を尋ねるのでも、ブロークンイングリッシュとブロークンスワヒリ語を適当にちゃんぽんにしてしゃべっていたのですが、どちらもぜんぜんしゃべれないタカ氏から見ると、私が英語できるように見えたのでしょう。でも、私だって当時の英語力では、アフリカの政治問題について早口の英語でかわされる台詞などほとんど聞き取れず、ふたりとも内容がわからないままだった、という今でも笑い話のひとつになっている「いっしょに見たはじめての映画」の思い出です。
~~~~~~~~~~~
<つづく>


2011/08/23
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(47)エチオピア・ソマリア人地区

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その2
 夕方、(私やタマちゃんと同じYWCAに泊まっている)下川さんが紹介してくれたハッサンに会いました。ハッサンがエチオピア&ソマリア族の住んでいる下町へ連れて行ってくれました。私たちが行った下町キカンバよりもっとずっと離れた方にあって、案内人なしにはひとりで行けません。ハッサンはエチオピア人とソマリア人のハーフです。ソマリアは美人の産地として有名ですが、ハッサンも色は黒いけどたいへんハンサムです。旅行社につとめて9年だそうです。

 ハッサンの友だちの エチオピア人の家庭を訪問しました。
 夫婦と子ども三人の家ですが、ナイロビ市内というのに、ランプなので驚きました。ナマンガのような田舎町なら電気がないのはわかりますが、一国の首都の中に電気がないなんて。

 しかし、とてもよい人たちで、エチオピア料理を出してくれました。私にはちょっとからかったです。子どもはランプのあかりでいっしょうけんめい英語の勉強をしていました。この国では、英語ができないとよい仕事につけないから、子どもを日本の受験勉強とまではいかなくても、うかうか遊んでいられないわけです。
 奥さんは、エチオピア語しか話せないらしく、だんなさんは、私がケニアに来て二ヶ月だというと驚いて、「この人はたった二ヶ月でスワヒリ語がじょうずにはなせるのだから、おまえも少しは覚えたらどうだ」というらしいことを奥さんに言ってました。

 それからハッサンとヒルトンホテルでビールを飲みました。そしたらハッサンの旅行社のお客だというアメリカからきた黒人女性に合いました。ハッサンは、日頃白人の旅行者を相手に仕事をしているわけで、白人に対して複雑な感情を持っているようです。
 ケニアの男たちは、もし白人女性を妻にできれば最高の誇りであり、YWCAの女子学生たちも、白人のボーイフレンドを持っていると写真を見せて自慢します。そのくせ白人にコンプレックスを持ち、白人を恨んだり嫌ったりしているのです。

 長い間白人に支配され、今なお白人の助け無しに自力だけでは経済がやっていけない国だからか、黒人の宿命なのかわかりません。森鴎外や伊藤博文なんかが、はじめてヨーロッパへ行ったころ、白人に対してあこがれと劣等感を同時に持ったろうと思います。そして今、私たちの世代が別段、白人だからといってエライとも思わずコンプレックスを感じていないように、あと30年したらケニアの子ども達は白人に対等の意識を持てるようになると思います。

 アメリカからきた黒人女性は、やはり「ルーツ」意識でケニアにやってきたようです。ハッサンは同じ黒人だから白人に対して同じ感情を分かち合えると思って、議論をはじめました。それに対して黒人女性が反論します。彼女たちは黒人とはいっても、アメリカの中でも最も成功した人たちであり、すくなくとも、飛行機でケニアに遊びに来る余裕とカネがあるわけです。ハッサンの複雑な感情はぜんぜん彼女たちに伝わらなくて議論は平行線をたどるばかり。

 といっても私に議論の全部がわかったわけではありません。アメリカなまりの英語はとっても聞きとりづらく、ケニア人の英語のようには理解できません。スワヒリ語は日本語の発音とまったく同じですから、ケニア人の英語は日本人の英語と似ています。しかし、ハッサンはソマリアなまりで議論が白熱するとすごい早口で、私にはわかりません。それなのに、彼は黒人女性に納得させられないと、私にあいづちを求めるので、何と言ってよいかわからず、困りました。昼の映画といい、夜の議論といい、英語には悩みます。

<つづく> 


2011/08/24
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(48)ハッサンの議論

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その3
 黒人女性は、要するに「黒いか白いかは関係ない。とにかく本人が能力を持ってさえいれば、どこまででものし上がれるのだ」というアメリカ流の考え方をしているし、ハッサンは「いくら能力があっても、黒人であるというだけで低く見られるし、能力を正しく評価してもらえないのだ。もし一つの仕事に対し黒人と白人が同じ能力で仕事をこなしたとしたら、白人の方が先に出世するだろう」と差別意識を持っているのです。

 私は、「私は日本人だからハッサンともアメリカ人とも別の考えを持っている。しかし、私は英語がヘタだから、うまく表現できない」と逃げました。そしたらアメリカ黒人女性が「それではスワヒリ語で言って、ハッサンに通訳してもらおう」と言い出して、なお困りました。私には差別と能力という問題に対してうまい考えがないのです。アメリカ人が、能力さえあれば出世できると考えるのも当然と思うし、ハッサンが黒人コンプレックスを持つのも当然と思えます。

 私はずっと日本にいて、差別されたことがなかったけど、もしアメリカなんかにいて、理由もなくただ黄色いからといってバカにされたり差別されていたら、もっと違う感情でいると思います。議論の全部はわからなかったけど、黒人の意識の持ち方が少しはわかって、おもしろかった。(夜)12時すぎまで議論がつづきました。

 そのあと、オマケがあって、ヒルトンのむかいに黒人のディスコがあり、ハッサンが踊りに行こうというのです。私はもう12時すぎて遅くなって、YWCAにかえらなければならないと言いました。YWCAは、門限にうるさくて、遅いときはノートに理由やら書かなくてはならないのです。しかし、ハッサンは「おれが黒くて醜いから行けないのか」というのです。「そうじゃない。黒いか白いかなんて関係ない」と言っても、ハッサンはひどくこだわります。実際、彼はハンサムで背がすらりと高く、私など恐れ多くて近づけないくらいカッコいいのです。それで、明日必ず一時に会うと約束して、一人でタクシーでYWCAに帰りました。

 9月30日、日曜に、午後一時に約束したのでソーンツリーコーヒーショップに行ってみたけど、着いたら一時半になってしまいました。ハッサンはいませんでした。日曜の午後、ツアーの仕事があると言っていたから、時間を守らなかった私の方が悪いのですが、ふつう、ケニアの約束では、1時に会おうというと、1時に家を出るのです。30分くらいは待たなかったハッサンの方がケニア的でないのです。でも、黒人相手だから約束を守らなかったと思われると嫌だなと、後味悪い気がしました。

 夕方、玉ちゃんがナマンガからかえってきて、いろいろ話を聞かせてくれました。ナマンガの人たちは、私のことを「ひっきりなしにしゃべって、よくビールを飲んで、ひっきりなしに踊っている日本人」として覚えていたそうです。そんなにぺらぺらしゃべったおぼえはないのですが、高橋さんとタカ氏がスワヒリ語をしゃべれないから、一人でしゃべりまくるほかなかったのだし、ビールは、ナマンガはひどい埃で、のどがよく乾くけど、コーラやファンタは甘いし、生水は飲めないしで、ビールしか飲むものがなったのです。日本人二人、陸路でタンザニアに入ったという情報があったそうです。私は陸路はあきらめました。

<つづく> 


2011/08/26
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(49)ギカンブラ村へ

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その4
 10月1日(月曜)。午前中はタマちゃんとボーマス・オブ・ケニアに行って、私は踊りを習って、タマちゃんは歌を習いました。
 午後、村へ行く支度をして、荷物を作りました。夕方、カヒィンディがむかえに来て、いっしょにカヒィンディのおばさんの家に行きました。キクユの町の近くにあるギカンブラマーケットという小さな田舎町です。私が民宿をしたい、ケニア女性がよく持っているバスケットの作り方を習いたいと希望を述べてあったので、おばさんの家に一週間泊まることになったのです。

 おばさんは、正式の名前はグラディス・ンゲンドゥというのですが、皆、「ママ・アンボイ」と呼びます。おばさんのだんなさんは「ムゼー」と呼ばれています。ムゼーというは、長老に対することばで、ママは、フランス語のマダムと同じ。私も「ママ」と呼びかけられます。女性を尊重した呼び名です。ふたりは雑貨屋を経営しています。田舎町では金持ちのほうです。

 ここらの土地はキクユ族ばかりなので、皆キクユ語を話します。しかしスワヒリ語ももちろん通じます。おじさんとおばさんは英語はだめですが、若い世代には英語も通じます。 
 おばさんに日本から持っていった扇子を、おじさんに(私が作った折り紙の)くす玉をあげました。喜んでくれました。
 店は昔の日本の田舎の雑貨屋と同じ感じ。よろず何でも売っています。台所は七輪のほか、ガスレンジがあります。このガスレンジとラジオがこの家の中のピカイチの文化製品です。水は屋根の樋からタンクに集めた雨水で、洗濯なんかは川から直接ひいた水道があります。この水道は川の機嫌しだいで、澄んだりにごったり止まったりします。水は貴重で、ムダにできません。電気はもちろんありません。おふろも水浴室でタライで水浴するだけ。
(ンゲンドゥ家の間取り図が書かれています。
 道に面して店。ミルク、飴、煙草、薬、石鹸、油などが、店の壁の棚に並べられいる。平台には、豆、ジャガ芋、粉、砂糖。秤。会計所の前に石油缶。店の奥に居間と台所。そのまた奥に細長く、おじさんとおばさんの部屋、女性教師の下宿部屋。その奥が私が泊まらせてもらった部屋。部屋は8畳間くらいの広さで、ベッドとテーブル、いす。裏庭に鶏小屋、水道小屋。トイレと水浴小屋)。

 10月2日(火)。朝は6時半から7時の間に明るくなるので、この頃起きます。私が泊まっている間、ギカンブラの気候は、朝は必ずくもり又は霧で、9時すぎには晴れだし昼頃には快晴という天気でした。毎朝、私は台所と店のそうじをしました。ほうきは、すだれの木のような細い茎を束ねたものです。おばさんは、せんたくのある日は、朝からせんたくします。雨が降ってても、雨の中で平気でせんたくして干してしまいます。昼までには必ず晴れてカンカン照りになると知っているからです。それから七輪にすみをおこしてお湯をわかして紅茶の準備をします。ケニアのなべは、ちょうど日本のタライの小さいのみたいな形で、もち手がありません。このなべでお湯も煮物もみんなまかないます。紅茶の作り方は、ふっとうした湯の中に、ひとつかみの茶葉をぶちこみ、ぐらぐら煮ます。別に沸かしといた牛乳と、砂糖を混ぜてできあがり。ミルクなしのお茶はありません。ママ・アンボイは、砂糖をあまりいれないので、助かりました。ふつうはひどく甘いのです。

<つづく> 


2011/08/27
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(50)ギカンブラ村ホームステイ

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その5
 七時半におじさんが店をあけると、もう外にミルクを買いにきたお客がまっています。たいてい子どもがおつかいに使われます。しかし、ミルクはその日の牛の気分しだいで、たくさんあったり、少なかったりするので、10人に売れる日もあれば、3人に売っておしまいの時もあります。カンに入っているしぼりたての、まだ生あたたかい牛乳をジュースのあきびんに入れて売ります。700ccで15シル(45円)です。終わってしまうと、いともかんたんに「もう、おしまい」と言います。

 ケニアでは買い手の方が「ありがとう」と言い、売り手はいばっています。それは「まとめて買う資金のない者に、小売りしてくれてありがとう」という意味です。たばこを一本ずつ、薬を一錠ずつ売っているのです。大人が10円持ってきて「タバコ一本くれ」とか3円もってきて「飴ひとつ」とか買って行きます。
 ふつう、朝は紅茶だけですが、私だけのために玉子焼き作ってくれました。悪い気がしたけど、ひとりで食べました。おばさんはクリスチャンなので、必ず食事の前に長たらしいおいのりをします。午前中はずっと台所で食器を洗ったりバスケットをつくったりしていました。

 食器はなべ兼タライの中に水を入れてこちょこちょと洗い、もうひとつのなべでこちょこちょとゆすいでおわり。あんまり清潔ではないけれど、水のムダづかいができないのでがまんです。そうじと食器洗いは、ずっと私の仕事でした。ケニアではお客だからといってえんりょせずこき使います。

 バスケットは、単純な編み方なんだけど、初めは編み目のそろえ方がわからず、めちゃうちゃに力を入れたのでとても不細工でした。一週間かかって一つ作りました。たぶん日本のむしろの編み方と同じだと思います。

 午後、おばさんと畑へ行って、ボガという菜っ葉を摘み取りました。ケニアで野菜というと、この菜っ葉をさします。シクマウィキという菜っ葉の煮込みを作ります。あと野菜はジャガ芋と人参くらい。ねぎや玉ねぎは、細かく刻んで肉のニオイ消しに使うので、食べるときは影も形もありません。トマトも味付け用専門で、生でサラダにして食べるのは、西洋風レストランだけです。

 シクマウィキを作り手伝いをしたのですが、畑からとってきた菜っ葉を、手でうらおもてパタパタたたいて、土とアブラムシを落としたたあと、水にちょっとつけただけでザブとも洗わないで料理しちゃうのです。熱を通すからだいじょうぶとも思うけど、日本人はなんて清潔好きなんだろうと思います。みそぎの観念でも染みついているのか、水で清めるという考えが何事にも抜けないのですね。

 菜っ葉をきざむのもジャガ芋をきざむのも、まな板というものはありません。菜っ葉はまとめて握ってこそげるように細かく手のそばできざむし、ジャガ芋にんじんは、手の中で乱切りにします。私がやってみたら、さっそく親指を切りました。
 
 11時ごろお茶をまた飲んで、おひるは1時から2時の間です。シクマウィキとウガリを食べました。そしたら、タマちゃんがやってきました。カヒンディにバスの乗り方を聞いて、バスで来たんだそうです。
 何事かと思ったら、私たちがYWCAを追い出されかかっているのだそうです。私たちは9月28日に、10月1日から15日までの半月分を予約してもうお金も払ったのですが、急に「半月払いはできない。一ヶ月分まとめて払うか、毎日払うかのどちらかだ」と言い出したのだそうです。

 一ヶ月全部はいないから一ヶ月分だったら損をするし、毎日払いは、とても割高なのです。思うに、8月と9月は学生が言えに帰省していたので、YWCAもすいていて、私たちが泊まれたけれど、10月になって学生が学校に通うためナイロビに戻ってきたので、私たちがじゃまになったらしいです。確かに私たち通りがかりの旅行者より、一年間住んでいる学生の方に権利はあるのですが、それならお金を払うときに言ってくれればいいものを、今さらだめだと言い出すなんて。

 なぜYWCAがいいかというと、鍵付きのロッカーを確保して安全に荷物を保管できるし、せんたくものなんかも絶対無くならないからです。
 タマちゃんと相談の結果、毎日払いでも仕方ないということになりました。エンドーハウスに移るかどうか、また相談することになりました。今、エンドーハウスは、今まで住んでいた川井夫妻や佐々木さんがスーダンへ出発したので、人がいないのだそうです。

<つづく> 


2011/08/28
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(51)ギカンブラの村の生活

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その6
 (ンゲンドゥ家の下宿人の)学校の先生がやってきて、私とタマちゃんを学校に連れて行くと言い出しました。私は、ナマンガで学校を見たのでどちらでもよかったけど、おじさんとおばさんの手前、日本語で二人だけで話すのが気兼ねなので、散歩がてら出かけました。
 しかし、学校まで遠いし、この先生がひどいおしゃべりで、ひっきりなしに話しかけて私とタマちゃんの会話をじゃまします。ふつう、二人が日本語で話していれば他の人はだまってしまうのに、この先生はぜんぜん気にせず割り込んできます。

 おまけに、学校ではクラスをひとつひとつ回って、そのたびに同じ自己紹介をさせられ、英語とスワヒリ語で挨拶させられてうんざりしました。ナマンガでは先生が紹介してくれて挨拶なんかひとつもしなかったのに。
 そして「この人たちは私の友だちで、日本から来たんだ」なんて言われると、友だちになった覚えはない!と腹がたちました。帰り道は、この人をまったく無視して二人でしゃべったり歌ったりして帰りました。
 好意はわかるけれど、押しつけがましいのには嫌気がさします。

 夜は7時半に店をしめて、8時頃夕食。9時半には眠くなって10時には寝てしまいます。

 10月3日(水)。台所の手伝いのほか、バスケットを編みながら店の手伝いもしました。キクユ語を少し覚えて「ウレンダ、ケイ(何がほしいの)」「シガラ(たばこ)」「シガラ、ガニ、ニシェガナ(銘柄は何?いくらいるの)」「スポーツマン、イゲレ(スポーツマンを2本)」なんて調子で売りました。皆、めずらしがって、タバコを一本づつ3回も買いに来たりします。

 タバコ、飴、砂糖、塩、ジャガ芋、ウガリの粉なんかがよく売れて、次にせっけん、石油、薬なんかが売れます。飴ひとつ、砂糖250グラムなんて小売りをします。子どもがたいせつそうに3円にぎりしめて、あめ一つ買っていきます。
 困るのは、銘柄を言われて、わからないことです。朝、「グッドモーニング」と言うから、私も「グッドモーニング」と返事をしていたら、「グッドモーニング」という名の整髪ローションを買いにきた人だったりしました。 

 あと、おつりをよく間違えました。お客に、英語やスワヒリ語やキクユ語で値段を言うので、つい頭の中で「フィフティファイブ引くサーティシックスは、、、、」なんて数えると計算できないのです。日本人というのはよっぽど簡単な計算もできないと思われたことでしょう。
 ムゼーは、お客のひとりひとりに「日本からきたお客で、バスケットの作り方を習ってるんだ」なんて説明します。

<つづく> 


2011/08/29
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(52)ギカンブラの村のボーイフレンド

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その7
 (雑貨屋に)ジミーという手伝いの男の子がいますが、少しとろいらしく、お客にバカにされています。ムゼーも、私にはお金のやりとりをさせるのに、ジミーにはさせません。ジミーは重いものを運んだりするほかは、ポケーとひなたぼっこをしています。あとでこっそり聞いたら、給料は一ヶ月で30円とのこと。昼と夕食、二食付きですが、私がウガリと肉じゃがの煮込みを食べさせてもらっているときでも、ジミーはさつまいもだけの時もありました。

 いくら仕事ができないといっても、ちょっとかわいそうな気がするけど、本人は満足しているようです。家はどこか聞いたら、ずっと遠くで、バスで4時間もかかると言っていました。家にいても、きつい農作業をしても収穫は少なく食うや食わずだけど、ここにいればとにかく腹が減って困ることはない、ということだろうと思います。

 「ここの仕事が好きか」と聞くと、「とても好きだ」と言っていました。この家のとなりの炭置き場に壊れた車が置いてあって、その中で寝泊まりしているのです。まるっきりちぎれていて、布地の部分より肌が見える部分の方が多いシャツを着たきりに着ています。この次来るときは、おみやげにシャツをやりたいと思いました。

 籠作りに飽きたので、午後、散歩にでました。ギカンブラマーケットというのは、バス停とお店が広場を囲んで10軒くらいある町で、まわりは畑と農家です。
 ぶらぶら歩いて「ニアティア」「ネクエガモノ」と、キクユ語で挨拶しながら見て歩きました。昔ながらの土と草葺きの家は、少なくなってきていて、四角い家が主流をしめています。金のある家は、屋根をトタン葺きにして雨水をタンクに集められるようにしてあります。山羊、羊、鶏は自由に歩き回っています。子どもは例外なくボロを着て、私を見かけると集まってきます。道はすごいほこり。

 男の子が「ヤァ」と声をかけてきたので挨拶したら、家に寄れというので寄せてもらいました。お茶をだしてくれました。英語が話せるので、キクユ語をいくつか教えてもらいました。
 台所のまんなかに四角い石を三個並べた炉があって、薪を燃やします。とてもけむかった。食器は、このへんはだれの家もほうろうびきのコップと皿を使っています。

 男の子は、病院のボイラー係をしているとのことで、一人前にタバコをすったり「恋人は日本人の娘がいい」とか言うので、17,8歳にはなっているかと思ったけれど、あとで聞いたら、たった13歳というので驚きました。母親に会ったとき、とても若い母親なので、いくつか聞いたら、27歳だというので驚いて、じゃ、あんたはいくつ、と聞いたら13だというのです。母親が14歳の時に生んだ長男だそうです。しかし、父親は老人で、三人の妻のうち、はじめのは死んで、二番目のはインド人だったけど離婚して、今は彼の母親だけが妻だそうです。

 父親の家という昔ながらの丸い家の中も見せてくれました。蛇よけにモルモットを飼っていて、ヤギが家の中にいました。台所の中にはニワトリの小屋がありましたし、動物といっしょに住むのが平気なようです。ウサギ小屋を見せてくれました。何もお茶のお礼がないので、さんざんほこりの手や顔を拭いて真っ黒になっていたハンカチを出して「洗ったら使えると思うから」と、あげました。
 男の子は、フランシス・ジョロゲという名で、店まで送ってきてくれました。

 夕方は、また店の手伝いをしたりかごを編んだりしました。おばさんは朝からうさぎをつぶして私に肉をごちそうしてくれました。

<つづく> 



2011/08/30
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(53)ギカンブラの村の畑仕事

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その8
 10月4日(木)。朝、仕事を終えたあと、畑に行きました。とうもろこしとさつまいもを取り入れました。ふたつの籠を持って帰るとき、おばさんは「私は年寄りだから」と、私に重い方をしょわせるのです。こういのは日本の感覚にはないことです。しかし、アフリカ式にひたいにヒモをかけて、背中に背負うと、そんなに重く感じません。それでも、家に帰ったら頭がへんに感じました。
(ケニアのカンガ(腰巻き)を着て、籠を背負っている自画像つき)

 夕飯前にとうもろこしを焼いてくれました。ナイロビで一本30円で売っているのは固くて甘くないので、「一本全部食べられない」と、言ったのですが、食べて見たらやはり取り立ての味で、柔らかいし甘いので、全部食べてしまいました。

 困るのは、こちらのトイレです。ケニアのトイレは、落とし口がレンガ一枚分くらいの大きさしかないのです。ナマンガで経験済みでしたが、伝統とはいえ、どうしてこんな小さい口しか開いていないのかと思います。ハエをよけるためかもしれません。

 町の広場には、日曜と木曜に市が立ちます。近辺の農家のおばさんが、畑でとれたトマト、ジャガ芋、豆、サトウキビ、米なんかをムシロの上にひろげて売ります。売っている間も手をやすめず、かごやマフラーを編んでいます。おばさんと買い物に行って、トマトや名前を知らない芋を買いました。米を食べたいなあと思っていたら、夕食にごはんと肉じゃが煮込みが出ました。腹ぐあいがよくなかったのに、いっぱい食べました。

 10月5日(金)。午前中、野菜(ボガ)の畑で水まきの手伝い。午後、またタマちゃんがやってきました。日曜の朝、モンバサに行くので、私が日曜の夕方帰っても、行き違いになるからと、会いに来たのです。
 YWCAとの交渉の結果やらを知らせてくれました。7日から12日まではYWCAにいられるし、タマちゃんはモンバサから帰ったあと、4日間はいられるそうです。二人でまたフランシスの家を見にいったりしました。フランシスは、私にバナナの葉で入れ物を編んでくれると約束しました。

 10月6日(土)私のバスケット作りも、今日明日のうちに完成させなければならないので、精出して編みました。一日中店番と籠作りをして、少し疲れて,村暮らしもそろそろ飽きてきました。

 10月7日(日)午前中は、おばさんにつきあって、教会へ行きました。ナマンガのルスラン教会は、とても貧しいボロい教会だったけど、歌がすてきにハモって、楽しかった。しかし、このPCA教会というのは、建物は大きくてりっぱだけど、キクユ族は歌がへたな民族なのか、ぜんぜん歌わず、二曲だけ歌った歌も、ぜんぜんそろいもせず、ハモりもせず、ひどいうたでした。やたらに説教ばかり長くてたいくつしました。キクユ語の説教なんか聞いても、神のことを「ンガイ」というのしかわかりません。

 でも、おもしろいのは、献金のほか、現物も受け付けていて、セリ売りをして教会の資金にすることです。さっきまじめくさって説教を述べていた人が、「さあ、トマト、買ったかった。10シルでどうだ」なんて、セリ売り人になって、ヤギ一頭とかサトウキビ一束とか売っていました。教会前の広場にみんなのんびり座って、説教よりこちらが楽しみ、という感じで、セリの声をかけていました。

<つづく> 


2011/08/31
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(54)ナイロビに戻る

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その8
 午後、カヒィンディが、奥さんと子どもさんを車に乗せてきて、私を迎えにきました。カヒィンディの家に二度行ったので、奥さんや子どもと挨拶しました。畑へ行って、カヒィンディの家に持って帰るとうもろこしやサツマ芋を取り入れました。またかごを背負いました。
 こちらでは、5才でも2才の弟妹を背負うし、6才でも10kgの水を背負って運びます。大人の女は30kg40kgは平気で背負います。

 私の作ったバスケットに皮のへりと持ち手をつけました。店の前のくつ屋でつけさせたら、20シルでした。くつ屋のおっさん、タバコを一本ずつ何回も買いに来て、私をからかってしゃべるのを楽しんでいたくせに、高いことふんだくりました。20シルなら、ナイロビで籠ごと買えます。でもまあ、自分で作ったと言うところに価値があると思います。

 帰りにカヒィンディのうちに寄るように言われたけれど、疲れていたのでYWCAに帰りました。奥さんにも扇子をあげました。

10月8日(月)一日せんたくやら棚の整理。ロッカーのかぎを中に入れたまま棚の鍵をかけてしまって、困りました。台所のおじさんに頼んで毀してもらったのですが、そのまま付け直しに来ないので、参りました。

 本当は、今日からまたボーナスにまた通って、踊りを習うわけだったのですが、疲れていたので、さぼってしまいました。
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2011/08/31
 ギカンブラ村でのホームステイ、ほんとうによい経験をしたとなつかしく思います。
 30年経ち、今後、ケニアを再訪できたとして、ムゼーとママアンボイにはもう会えないかもしれません。
 世話になったカヒィンディは、日本にビジネス研修にきた経験を生かして、今ではケニアの電話会社でえらくなっているのではないかしら。小学生だったカヒィンディの家の子ども達も、今ではケニア社会の中堅として働いているでしょう。日本から来た娘と花火をして遊んだことなど、覚えているかしら。

 日本に来ている留学生達、日本の家庭にホームステイするのをほんとうに楽しみにしています。
 以下、5月に来日し、ひらがなカタカナの練習からはじめて2ヶ月半たったあたりで、日本の家庭にホームステイしたエチオピア人の感想文です。まちがいはたくさんありますが、ケニアに行って2ヶ月目の私は、スワヒリ語でギカンブラ村の感想文を書いたとしても、こんなふうに書けなかったと思います。
 漢字がまったく苦手だったエチオピア人留学生ファーさん、文集によせた作文は次のように、平仮名のみの文章です。誤用添削前の作文はこんなふう。
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 ホームビジット 
 にちよびは1じかんでホームビジットにいきました。おとさんはえきでもちました。それからバスでうちへこきました。うちはきれいとしずかとべんりです。ワインのプレゼントをあげました。おちやをのみました。おとさんとおかさんと3じかんはなしました。えいごをはなしました。おとうさんはだいがくせんせいです。おかさんはこうこうせんせいです。かぞくとともだちとしやしんをとりました。それからへへやにかえりました。ホームビジットはおもしろいです。
~~~~~~~~
 日本の中学生が3年間に学んでいる初級英語と同じ分量の初級日本語を5、6、7月のたった3ヶ月で詰め込みで学び、これだけ書けるようになったというだけでも、すごいと思います。
 家が広くないからとか、英語しゃべれないからと、ホストファミリーになることをためらう人もいるのですが、留学生たちは、日本の家庭に招かれること自体を楽しみにしているのですから、どうぞ、ふれあいの機会を与えてやってください。
 私にとって、35年たっても、ギカンブラ村のムゼーとママアンボイが「なつかしいアフリカのお父さんお母さん」であるように、きっと日本のお父さんとお母さんが留学生の心に残ると思います。

<おわり>
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2009/08/13

2009-08-13 10:13:00 | 日記
2009/08/15
ぽかぽか春庭>今日の確認&レクイエム・バナナ

『日本国憲法第9条』
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
1 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
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 春庭「日々雑記いろいろあらーなカルスタクラブ」の更新、8月後半中国滞在中は不定期となります。更新できるときはするし、できないときもあるかと思います。

 更新できないとき、昨年2008年の8月に書いた「レクイエムバナナ」の再読をしていただけたら幸いです。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/irohani/diary/d217#comment
に、昨年の「レクイエム・バナナ」をまとめて載せました。南洋で飢えに耐えながら戦っい、かろうじて生き延びて復員した父への鎮魂歌です。

 私はこの年になるまで、レクイエムのことを「鎮魂歌=ちんごんか」と思ってきました。「ちんごんか」と入力しても出てこないので、一文字ずつ入力したのですが、念のために辞書をひいたら、なんと「ちんこんか」で、濁点はないのでした。
 8月9日、長崎の平和祈念式典で慰霊の文を読み上げた太郎さんが、「一命をとりとめた方も、癒すことのできないショウセキを残すこととなられました」と読み上げた。ショウセキとは、傷跡の読み間違い。誰かが書いた文を、慰霊の気持ちのかけらもなく棒読みしている結果の「ショウセキ」であった、というのを、「誰か、総ルビふってやる人は周りに一人もいないのか」と、笑えて、これぞ「末期的症状の笑い」であろうとは思いましたが、実は私もタローを笑っていられない。

 2度と戦争による「ちんこんか」を歌わずにすむように。
 オバマ大統領による「核廃絶」を訴える演説をひとつの足跡として、核無き世界へと歩んでいきたい。
 中国滞在中のある一夜、酒宴の二次会で、ひとりの「日本を戦争できる国にすべきだ。九条を廃止しろ、日中戦争は侵略ではなく防衛戦争だ」論者と、胸ぐらつかみ合いの大口論をした。日本ではこのような主張を持つ人といっしょに酒を飲むこともないので、中国ならではの貴重な口論ではあった。彼とは何度でもつかみ合いの口論を重ねたい。

 では、会えないときも、お元気でおすごしください。会えるときはよろしくね。
 今日から、2週間の中国滞在。帰国は8月末日になります。

<おわり>
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2009/08/12

2009-08-12 15:36:00 | 日記
2009/08/12
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2009/08/05

2009-08-05 09:40:00 | 日記
2009/08/05
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