函館発「団塊オヤジの独り言」

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歴史を学ぶ

2017年10月29日 04時12分42秒 | オヤジのつぶやき
昨日から東京に遊びに来ているので、今朝は生意気にも「歴史を学ぶ」というタイトル。

写真は、幕末の1857年頃に歌川広重が描いた「小名木川(おなきがわ)五本まつ」の作品。
ところでこの小名木川は、徳川家康が豊臣秀吉に命ぜられて・・・。
江戸に左遷されたばかりの1590年代まで遡る歴史があるらしい。

この川は、行徳塩田(現在の千葉県市川市行徳)で採れた塩を・・・。
兵糧として江戸城に運ぶために開発したというのが定説。
ところが某作家はこんな考えを披露。

家康は出身地である今の愛知県岡崎市を流れる矢作川付近で塩田を所有。
この塩田は、四十七士の敵役になった吉良家が開発した塩田。
だから家康は、矢作川の塩田から「三河名産の極上の塩」を好きなだけ取り寄せることが可能だった。

ということで行徳塩田の説を否定し、軍事用高速水路としての小名木川開発を説く。
当時の関東は、利根川が常に氾濫、辺り一面はズブズブの沼、湿地帯だった。
そして戦国時代の100年間、小田原から関東一帯は、北条氏の支配・影響下にあった。

こんな関八州を一刻も制覇しなければならないと考えた家康。
江戸以北の関東は、どこへでも速やかに大量の兵士を船に乗せて派遣できることを誇示すべき。
そんな発想で小名木川を開発したとする説だ。

確かに地図を見れば、江戸城から道三堀を通って小名木川へは、一瀉千里。
この説を裏付けるように、家康は、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区佃)から、その地の名主で漁師の森孫左衛門。
その一族33名を江戸に連れてきている事実があるそうな。

と言うことで森一族を呼んだのは、軍事船の船頭としてだったことに他ならない。
船で兵士を運ぶ際に船頭が裏切り者だったら、船をわざと転覆されかねない。
だから船頭の操舵能力と忠誠心こそが兵士の命綱だったと説く・・・。

こんな説に立てば江戸に入場した家康が、小名木川開発を真っ先に手がけた意味が鮮やかに見えてくるとまで言及。
一見長閑な広重の描いた小名木川の川下りの風景には・・・。
そんな歴史のドラマが隠れていた、と筆者は語る言葉に痺れてしまった。

なんとも心地良い余韻に浸れる「江戸の地形の秘密」推理であるが・・・。
こんな余裕で歴史を学ぶのは、意外と楽しい・・・。
今日の私?・・・小名木川は見ている暇がありません・・・。

これから東京都北区の赤羽会館に馳せ参じて、「三橋美智也歌唱大会」デス・・・。

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