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Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 837 週間リポート・広島東洋カープ

2024年03月27日 | 1977 年 



一見落書き、実はおまじない
水沼選手はイタズラ好き?試合前にバットに塩をかけたりする選手は少なくないが水沼選手はバットの芯部分にマジックで目を描く。昨年まで在籍したシェーン選手がやっていたのを真似たものだ。「これがホンマのバッティングアイじゃ」と洒落を言う。それもこれもスランプ克服するための悩んだ結果から出た苦肉の策である。なにせ押しも押されぬ " 1000万円プレーヤー " なのに前半戦の打率が1割台では話にならない。 " おまじない " が効いたのか打率は2割5分近くまで跳ね上がったが本塁打数は後半戦になっても僅か3本。

そこで今度はバットにポパイの絵を書いて怪力にあやかろうとの願いだ。「走者がいる時はやはり一発が欲しい時もある」とポパイの絵だけでなく最近は奥さんにほうれん草のジュースを作ってもらいせっせと飲んでいるそうだ。さてこれがパワーアップに繋がるのかどうか。先ずはご注目である。


成功するか?最下位脱出
開幕前の赤ヘルは傍の者が気が引けるくらい威勢がよく優勝の2文字一色だったが前半戦が終わってみればなんのことはない最下位に沈んだ。昭和49年以前の野球に逆戻りといった感じで改めて古葉監督の力量が問われている。とはいっても主力選手に故障や不振が相次ぎ、しかもトレードの結果が失敗となっては古葉監督の采配が最下位の原因とは言えない。投手陣では外木場投手、池谷投手の2枚看板がガタガタ。野手陣では三村選手がダメ、大下選手も持ち味をフルに発揮することが出来なかった。

「池谷投手の復調には目途が立った(首脳陣)」のだが野手陣の方が何とも心細い。そこで古葉監督は一塁のギャレット選手を左翼へ、右翼のライトル選手を二塁にという構想を打ち出した。ギャレット選手が一塁手としての適正を欠くというのが理由だ。ライトル選手の場合は相手投手が下手投げなど特定の投手の時に限って二塁手に起用する狙い。既に前半戦最終の阪神戦で両外人のテストは済ませている。結果も上々で首脳陣は手応えを掴んでいる。


歳だなぁ
少し前まで「白髪は子供に抜かすのが楽しみでね」と余裕のあった山本一打撃コーチ。だが今では白髪に関しては禁句でさっぱり口にしなくなった。聞けばこの22日で満39歳。人は不惑の年という。口の悪いカープナインは「カズさんも、もう40歳ですか。歳とりましたねぇ」と冷やかすと本人は「バカ言うな。まだ30代だ!」と抵抗するが、「やっぱりオレも歳とったなぁ」とシュンとした。


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# 836 週間リポート・阪神タイガース

2024年03月20日 | 1977 年 



長嶋さんに恥をかかせるな!
プロ入り4年目の若トラ・掛布選手が全セが誇るスーパーカー打線の三番を打ち堂々と活躍した。掛布選手を三番に起用したのは長嶋監督。周囲はプレッシャーが大きく、掛布選手を委縮させてしまうと危惧したのだが半ば強引に抜擢したのだった。「三番を打つなんて考えてなかったですよ。荷が重かったですけど一生懸命やりました。満足です」と掛布選手。第2戦こそ山田投手(阪急)などパ・リーグが誇るエース級の継投に抑えられたが第3戦は見事な活躍を見せ、長嶋監督は「ハイ、掛布君は立派に頑張りました」とベタ褒めだった。

この長嶋演出に感激したのが父親の泰治さん。第3戦の神宮球場へ家族連れだって応援に行き息子の晴れ姿を観戦した。その前夜、掛布選手は移動日休みを利用し故郷の千葉へ帰省し父親が営む小料理屋「みやこ」で親子水入らずで祝杯をあげた。泰治さんは「まだ三番って柄じゃない。もし散々な結果だったら長嶋さんに申し訳ない。しっかりやれと雅之に言いました」と。久しぶりにビールを酌み交わして " 球宴談義 " に花を咲かせた掛布選手はたった1日の夏休みを有意義に過ごし後半戦に挑んだ。全セの三番を務めた自信は大きく無形の財産となって一段の成長につながった。

「掛布は本当に純心ですよ。第1戦の7回一死二三塁で打順が回って来た時、粘って四球を選び一塁に歩いて次の王にチャンスを回したでしょ。普通ならあそこは強引に打って出て殊勲賞など狙うところだが掛布にはそんなヤマっ気はない。公式戦と同じ気持ちで取り組んでいた。あれが彼の野球に対する姿勢ですよ」これはある野球評論家の見方。掛布選手の人気・魅力は案外こんな一面にあるのかもしれない。


両エースもなかなかの好投
阪神の両エース、古沢・江本投手が球宴の第1・2戦でいずれも先発登板し好投した。特に第1戦に先発した江本投手は規定の3イニングを無安打・1四球に抑え最優秀投手賞を獲得した。また古沢投手も見事な投球で公式戦の出来を上回る内容だった。球宴前の前半戦終盤では両投手とも初回に打たれて崩れるケースが多かっただけに全セのコーチとしてベンチ入りしていた吉田監督も複雑な表情だった。こんな投球をペナントレースでも見せてくれよという気持ちだったのだろう。

ひとり黙々と
オールスター戦はやはり出場しないと面白くない…と " 休宴 " の身を悔やんだのは田淵選手。球宴前の広島戦で右手親指第一関節を骨折し出場辞退を余儀なくされた。田淵選手はプロ入り以来、8年連続で球宴出場していただけに悔しい思いは人一倍だ。7月25日、甲子園球場で始まった後半戦に備えたナイター練習に顔を出した田淵選手は1人黙々と外野を走り復活を目指しているが、戦列復帰は8月以降と見られる。「オールスター戦はテレビで見たけどやはり出場していないと寂しい。特に第2戦の西宮球場は家から球場の照明の明かりが見えるし気もそぞろだった。来年はファン投票で選ばれて活躍したいね」と捲土重来を誓っていた。


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# 835 週間リポート・読売ジャイアンツ

2024年03月13日 | 1977 年 



今や全国区のショート
オールスター戦で一番自信を付けたのが遊撃手の河埜選手。第3戦の神宮球場ではただ1人フル出場した。「第1・2戦は多少なにか学ぼうとかいろいろ気を遣いましたが、第3戦ではノビノビとプレーしました」といかにも今時のヤングらしく目を輝かせていた。阪急の速球王・山口投手から中前打を放ったり、二盗はおろか三盗までやらかすなどハツラツとプレーして一気に人気と実力のほどを全国のファンに示した。「アイツにもう少し力強いサムライ気質があれば俺の若い頃そっくりだ」とかつて西鉄でサムライ遊撃手といわれた評論家の豊田泰光氏が言うほどの躍動ぶりだった。

全セを率いた長嶋監督は河埜選手をフル出場させることによってペナントレースで3割2分を超える打率を残す打力がありながら有名選手に引け目を感じる奥手な性格を一気に払いのけようとし、河埜選手がその思いに見事に応えたのだった。「若松さんの打撃が非常に参考になりました。早いカウントからどんどん打っていく積極性は真似したいです。それとバットを爪楊枝のように扱うバットコントロールを身につけたいです」と打力・守備力・脚力、そこに積極性の自在性を身につけるというのがオールスター戦で得た土産である。

セ・リーグの遊撃手といえば長く藤田選手(阪神)、三村選手(広島)と相場は決まっていた。そこへ山下選手(大洋)が人気と若さを売りに殴り込みをかけてきたが、あいにく今年は怪我でオールスター戦は欠場だった。その隙をぬって河埜選手がファン投票1位で球宴出場を果たした。今や押しも押されぬ全日本の遊撃手になったと言ってもいい。「いえいえ山下さんがいたらフル出場できたかどうか。これからが本番です」と今年のオールスター戦を機に " 山下 vs 河埜 " のライバル対決が始まりそうだ。


5000円の罰金
オールスター休みの7月26日、多摩川グラウンドで " 一軍対二軍 " の試合が行われた。結果はナント3対0で二軍が勝利した。あまりの不甲斐なさに一軍メンバーには一律5000円の罰金が科せられた。一軍を牛耳ったのが目下イースタンリーグで4勝1敗の中山投手。「次々に僕より先に一軍に行く後輩がいて結果的にこうなったんですが、今に見ていろって気持ちです」と。その心意気を忘れるな!


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# 834 週間リポート・クラウンライターライオンズ

2024年03月06日 | 1977 年 



もう死んでもいい
3試合きりのオールスター戦。その3試合全てに登板した永射保投手。酷暑の中、3試合で計5回 2/3 イニング・無失点だったのに勝利投手はおろか賞品のひとつも手にしない「タダ働き」に終わってしまったが本人はそうでもないようだ。 第1戦では王選手を一ゴロに退け「次はぜひとも三振を」と言っていたが、宣言通りに第2戦では王選手と張本選手のOH砲を連続三振に仕留めた。「あの2つの三振があったからもう賞品はいらない。自分にとって最高の勲章ですから」と興奮した。第3戦でも張本選手に死球を与えたが王選手を二ゴロに打ち取り、永射投手の伝家の宝刀であるカーブがセ・リーグのスーパースター達にも充分通用することが証明できた。

オールスター戦初出場でいきなり全パのエース扱いされた永射投手の評価は上昇する一方で第3戦の神宮球場では場内アナウンスで永射投手を「クラウンの若きエース」と紹介するまでになった。「嬉しかったですね。連投はシーズン中でも慣れているから苦にはならなかった。コントロールも良かったし、攻めの投球ができたのも満足だった。三度も投げさせてくれた上田監督には感謝しています」と永射投手はうっとりした表情で華やかだった3試合の初体験を振り返った。クラウンの鬼頭監督は上田監督に永射投手は故障がちなので1試合程度の登板にして欲しいと事前に申し入れしていたらしいが本人が納得しており問題はないようだ。

「セ・リーグの選手かて人間だ。お前の球ならまともに打てるわけない。パ・リーグの為にもジャンジャン投げてこい。どんな試合だって若いピッチャーは使ってもらって損をすることはない。どんどん使ってもらって自信を付けて帰って来い。短期戦のオールスター戦で投げて潰れるような投手なら長丁場の公式戦では使い物にならない。だからウチは永射を安心して送り出したんや」と胸を張ったのはクラウンの江田投手コーチ。まさにこの師匠にしてこの弟子あり、といったところである。


社交辞令
オールスター戦まで首位を維持し、快調ぶりにウハウハの周囲をよそに鬼頭監督は「いいことばかりは続かんよ。悪いことばかりが続かんようにね」と相変わらず悟りきった発言。オールスター戦休みも2日間だけであとは平和台球場でナイター練習をしたが、「これからの心配があるとしたらやはり打つ方だろうな。前期は絶好調だった基のバットも湿ってきとるし。決定打が出ている間はいいが、それも手放しで楽観できん。まぁ連敗を最小限にすることだな」と淡々としたもの。上田監督(阪急)が「クラウンが走ったら近鉄や南海より怖い」と発言したと報道陣から聞かされても慌てず騒がず「そりゃ社交辞令ですよ」と受け流した。


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# 833 週間リポート・ロッテオリオンズ

2024年02月28日 | 1977 年 



ナニッ!肩を氷で冷やす?
「もう肩は痛みません。これまでチームに迷惑をかけましたがこれからはその分をマウンドで返していきます」とキャンプ以来の右肩痛から解放された三井投手はキッパリ言い切った。一時はキャッチボールもままならず投手というより野球そのものが出来ない状態だったがオールスター戦明けから一軍に戻って来た。キャッチボールをしただけで翌日は痛みで腕が上がらず歯磨きをするにも苦労し「開幕した頃は夜も眠れなかった」そうだ。チームは投手不足で序盤リードしていても終盤に逆転され勝てる試合を失っていく。「自分さえまともな状態だったら…」とジリジリした毎日を送っていた三井投手はある決断をした。

全力投球をした後に右肩を氷で冷やすという荒療法だ。これまでの常識で言えば肩の最大の敵は「冷え」だがその常識に真っ向から突っかかった。とはいえ、やみくもに肩を冷やすのではない。肩を冷やすことは大リーガーのトム・シーバーやノーラン・ライアン投手などによって効果が実証されている。実際にやってみるとみるみるうちに肩の痛みが消えていった。前期シーズンは棒に振ったが後期シーズンには間に合った。常々「2イニングを抑えてくれる投手がいたらもっと勝てる」と言っていたカネやんも三井投手の復帰に大喜び。「成田も帰って来たしもう大丈夫や。やっと戦力が整った」と後期シーズンの巻き返しに鼻をうごめかせるカネやんだった。


ラフィーバー、復帰断念
三井投手の明るいニュースとは反対にコーチから現役復帰を目指し調整を続けてきたラフィーバーは左ヒザ靭帯の炎症が芳しくないことで現役復帰断念を27日に正式発表した。右の代打陣不足から突如浮上したラフィーバーの現役復帰。だが細かい動きをすると痛む左ヒザ。医師の診断を仰ぎ自ら復帰断念を決めた。「現役としてプレーするため精一杯努力してきたが無理だと分かった。これからはコーチ職に専念しチームに役立っていきたい」とラフィーバー。

オレ寂しいよ
神宮球場でのオールスター第3戦が終わると有藤選手は三塁側ベンチ中央にドッカと腰を下ろし「オレ寂しいよ」とため息をついた。左肩の捻挫が完治せず満足なスイングが出来ないまま出場した今年のオールスター戦。それもこれも20万票を超えるファンの後押しに応える為だった。ところが3試合に出場するも6打数1安打に終わり寂しい結果となった。怪我とあって仕方ないが本人としては不本意でならなかったであろう。昨年は優秀選手に選ばれ賞品を手にしただけに「今年は手ぶらで帰ることになり情けない」とガックリ。

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# 832 週間リポート・日本ハムファイターズ

2024年02月21日 | 1977 年 



これがプロだ!大リーガーだ
「ファン投票で何とか1人でも出場して欲しかったんですが…」とパ・リーグNo,1の観客動員を誇る日ハムのフロント陣はオールスター戦ファン選抜ゼロにちょっぴり残念顔だったが、監督推薦で高橋直投手・高橋一投手・加藤捕手・ウイリアムス選手の4人が出場を果たした。中でも「これぞプロ」とハッスルプレーを見せたのがウイリアムス選手。西宮球場での第2戦の8回裏一死に代打で登場し左前打。門田選手(南海)の投手強襲打で二塁に進塁。続く石渡選手(近鉄)の三ゴロで併殺と思った次の瞬間、田代選手(大洋)の二塁送球が高く逸れたのと門田選手の猛スライディングで二塁手のシピン選手(大洋)が転倒してしまった。

その一瞬の隙をついてウイリアムス選手は三塁を回ってホームイン。二塁ベース上でのクロスプレーに目を奪われていたファンはホームでスライディングするウイリアムス選手の姿に「あれれ、いつの間に」と我が目を疑った。この走塁に評論家は「ウイリアムス選手にとっていつものプレーだよ。常に次の塁を狙うのが彼のプレースタイルだから」と驚かなかった。確かに今回のような好走はペナントレースでは当たり前に行われていた。全パを率いる上田監督がリー選手(ロッテ)と並ぶ本塁打を放っているミッチェル選手(日ハム)よりウイリアムス選手を監督推薦で選んだのもこのあたりを考えたからだ。

また第2戦に三番手で登板した高橋直投手の好投も大いに評価を上げた。アンダースロー投手を代表する山田投手(阪急)が先発し、全セも小林投手(巨人)がリリーフ登板するなどアンダースロー投手の競演となった。高橋直投手は3回・被安打2・無四球・奪三振4と好投した。しかも三振はセ・リーグを代表する大杉選手(ヤクルト)、シピン選手・田代選手(大洋)、柴田選手(巨人)から奪った価値あるものだ。王選手は遊ゴロ、掛布選手は投ゴロに抑えた。専門家は「ストレートの速さは山田投手が上だがコントロール、駆け引きは高橋直の方が上」という評価が多かった。


2人分の日当
「晴れの球宴出場です」といっても練習の手伝いで神宮球場での第3戦に参加した藤原捕手。その日当を受け取りながら「2人分もらわなきゃ」と苦笑い。というのも全セの練習要員だった荒川捕手(巨人)が練習開始時間に遅刻した。フリーバッティングの捕手が不在で「普通の選手じゃケガをしたら大変だし、何とか」と頼まれて全セ・全パ両方のバッティング捕手を務めること2時間。「倍も仕事したから疲れちゃったよ」分かる、分かるご苦労様でした。


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# 831 週間リポート・近鉄バファローズ

2024年02月14日 | 1977 年 



こうして決まった太田の球宴出場
夢の球宴も終わり、いささか古い話で申し訳ないが太田幸司投手にまつわる裏話をしてみよう。パ・リーグ投手部門のファン投票では村田投手(ロッテ)、山田投手(阪急)に次ぐ3位で得票数は6万1999票。普通の場合はこの順位なら監督推薦で出場は問題ない。ところが人気先行の太田投手だけに全パを率いる上田監督は太田投手の推薦には慎重だった。太田投手は過去7回ファン投票1位で出場しているが監督推薦は一度もない。そして13日の近鉄対阪急戦の後期シーズン3回戦に太田投手が先発に起用された。

メンバー表を見た上田監督は「太田君はまだ6勝しかしていないが相変わらず人気があるねぇ。ファン投票であれだけの得票を得ているのだから監督推薦で選んでも問題はないけど、判断するのは今日のピッチングを見てからにしよう」と決めた。太田投手も「監督推薦で選んでもらえたら僕の実力を認めてもらったことになる。この試合で好投すれば上田監督の印象も良くなるかも」と密かに思っていたのは想像に難くない。選ぶ人と選ばれる人の様々な思いが絡み合い太田投手は勇んでマウンドに上がった。

しかし太田投手の立ち上がりは悪かった。初回いきなり3連打を浴び1失点。ところがこの失点で肩の力が抜けて以降は立ち直った。「僕にとってはリードされて勝利投手を意識せず楽な気分で投げられた」と太田投手は2回から4安打散発の好投を見せて対阪急戦2勝目を上げた。阪急戦で勝ったのは前期シーズン5月8日以来だった。「両サイドに球を散らしたのが良かった。阪急相手にはこうした投球が通用するんですよ」とエースの鈴木啓投手でも勝てない阪急相手に2勝した太田投手は安堵の表情を見せた。

一昨年のプレーオフでは出番さえ無かった太田投手だがその成長ぶりが今シーズンの対阪急戦の成績でよく分かる。「チームにとっても自分自身にとっても大きな勝ち星です。これで上昇気流に乗れそうです」といかにも嬉しそう。確かに大きな勝利だった。オールスター戦出場につながる1勝だからだ。敗戦後に移動のバスに乗る間際に上田監督は「太田君の投球は見事だった。今日の投球内容を見て監督推薦を決めました」と兜を脱いだ。こうして太田投手にとって初めてとなる監督推薦によるオールスター戦出場が決まった。


いい薬です?チョンボ石渡
成長著しい石渡選手がオールスター戦初出場でハツラツプレーを披露するかと思われたが第3戦で大チョンボをやらかした。オールスター戦が始まる前は「僕の出番はそんなに多くないと思うので先輩のプレーを見て勉強します」と控え目だったが、意外と出番は多く大忙しだった。第1・2戦は無難に終えたが第3戦の7回、二死三塁で打者ブリーデン選手(阪神)が打った打球は高く舞い上がった遊飛。落下地点で石渡選手はゆっくり捕球態勢に入ったがポロリと落球してしまった。照明の光が目に入ったのか石渡選手は黙して語らないが、この大失態を薬にして今後に生かしてもらいたいものである。

売りモノ
好投した鈴木啓投手、チョンボの石渡選手など今年のオールスター戦で話題をまいた近鉄勢だったが、玄人筋の拍手を浴びたのがもう一人の " コーちゃん " こと島本選手だ。強肩といわれる外野手は年々少なくなっているが、元投手の島本選手が矢のような見事な返球を見せ称賛された。評論家諸氏も「あの強肩は売りモノになる」と異口同音。当の島本選手は「大した成績を残していない僕を選んでくれたファンの皆さんに何かいいところを見せたかった。肩でも足でも何でもいいのでファンの皆さんが喜んで下されば」とニンマリ。


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# 830 週間リポート・南海ホークス

2024年02月07日 | 1977 年 



真夏の夜のビアガーデン
大阪球場のグラウンドを使って真夏の夜に風変わりな催し物が行われた。選手とファンが一堂に集まってビールパーティーを開いたのである。名付けて「南海ホークス選手とファン交歓ビアナイター」である。参加したのはオールスター戦出場組以外の選手・コーチ陣。ブレイザーヘッドコーチ、穴吹二軍監督、江夏投手や藤原選手なども顔を揃えた。グラウンドの中央にビールを積んだトラックがデンと停車し、周りには串カツなどの屋台がズラリと並びビアホールそのまま。その日はちょうどオールスター戦期間中の移動日でテレビ観戦もなく、ファンの出足も早く午後6時半の開始予定を繰り上げたほどの盛況ぶりだった。

昼間には中モズの猛練習でしごかれてクタクタになっていた選手たちも大喜びでビアナイターに参加した。このユニークな " 夢の酒宴 " は昭和38年に一度開催されたことがあり15年ぶりに復活した。ホークス球友会が音頭をとり入場料1人1000円で実現した。それだけに集まった連中は鷹キチばかり。選手とグラスを傾けながら野球談議に泡を飛ばすモノ、選手に注文をつけるモノなど続出した。ビール500リットル・1600人分を用意していたが、1時間も過ぎると品切れとなる盛会ぶりだった。ファンの多くは「選手にサインはもらえたしビールもたらふく飲んだ。会費1000円は安いねぇ」と大好評だった。

もちろん選手の方でも好評だった。「時にはこういう形でファンの皆さんと語らうのもいいもんですね。普段はグラウンドとスタンドに分かれていますが、たまには同じ場所で飲みながら話をするのも新鮮な気分です」と広瀬選手。また陽気な外人勢も大歓迎だそうだ。大リーグ時代にいろいろな催しに出席した経験があるブレイザーヘッドコーチやホプキンス選手は「ベリーナイス。この企画は最高よ」と手放しで、若い女性やチビッ子ファンにサインをせがまれると快く引き受け、また次の屋台に移動するなど大忙しだった。


運び屋
パ・リーグの一員としてオールスター戦出場を果たした金城投手。かつての同僚だったカープ勢をはじめセ・リーグ各球団の打者を相手に健在ぶりを示したかったが、あいにく出番は少なかった。もっぱらベンチで声出し応援をしたり野村監督や門田選手の表彰式に立ち会って賞品や記念盾の運び役ばかりさせられた。「オールスター戦出場は賞品の運び屋をやることだったんですかねぇ。僕も一つくらい何かもらいたいけどムリかなぁ(苦笑)」と少々ひがみ気味。「まぁ来年これを励みに出直します」と気分を切り替えた。


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# 829 週間リポート・阪急ブレーブス

2024年01月31日 | 1977 年 



八百長依頼に首を振った山田
本拠地の西宮球場でのオールスター第2戦で山田投手が先発し、セ・リーグが誇る " スーパーカー打線 " を抑えて勝利投手となり米田投手、江夏投手と並ぶオールスター戦最多となる4勝目をあげた。この試合前、山田投手は捕手の野村監督に呼ばれた。野村監督は「なぁヤマよ、ワンちゃん(王選手)との勝負やけどヒットを打たせてやってくれんか。お前の立場からいえば許せんかもしれんが、天下の王がスランプで苦しんどるのはお前も知ってるやろ。打たせてやらんか」と言ってきたという。つまり " 片八百長 " の進言である。無論、野村監督が事前に王選手と話し合ってきたのではない。

王選手はそれまで球宴33打席ノーヒット。あの王選手がオールスター戦になるとからきし打てないのである。なぜ野村監督がそこまで王選手を案じるのか?何を隠そう野村監督自身がかつて球宴29打席ノーヒットを経験し周囲から何やかんやと言われ悩んだ過去があったからだ。それに対し山田投手は「そうですね、お祭りだから」とその場を繕ったが、かつて日本シリーズで逆転サヨナラ本塁打を浴び苦汁を飲まされたこともあり「正々堂々としなきゃならん」と思い直したという。結果は左飛。「落ちるシュートだった。それにしても今日の山田は速かったなぁ。負けても気分はスッキリした」と王選手。やはり勝負事は真剣が一番である。

昨シーズンのMVPで今シーズン前期のMVPでもある山田投手。ましてやその日は家族や親戚がスタンドで自分に声援を送って期待している。「王さんを抑えるところを観に来てくれているのだ」という思いが八百長?を拒否につながった。「ヤマのやつ、1球も気を抜いたタマを放ってきよらんかった。今、球界で一番安定感のあるピッチャーや」と野村監督。舞台はお祭りの試合だったが山田投手は阪急の、パ・リーグのエースであるという誇りと意地で王選手を抑え結局、その試合の優秀選手賞をがっちり手にしたのだった。 


平山氏が第2故郷を満喫
フィーバー平山氏が上田監督、マルカーノ選手、ウイリアムス選手と久しぶりに対面した。平山氏はご存じ、かつての広島東洋カープの元選手で昭和40年に離日後、大リーグエンジェルスのスカウトを務めてマルカーノ選手などを阪急に紹介するなど阪急ブレーブス日本一の陰の功労者である。球団の招待で12年ぶりに日本の土を踏んだ。「日本人の体つきが大きくなった。でもまだまだ大リーガーと比べるとスピードとパワーは見劣りする。マルカーノは目を怪我していて心配だ」などなど束の間の第2の故郷を楽しみ満喫していた。

ルーキーの心境
足立投手がオールスター第2戦(西宮)のラジオ解説を務めた。「なかなか落ち着いてピッチング同様、間の取り方も上手いものです」と放送したラジオアナウンサーから褒められたが当の本人は「いやぁマイクの前に座ると緊張するね。試合時間がやたら長く感じた。やっぱり野球は見るもんじゃなくてやるもんだね」と冷汗かきっぱなし。なんでもTシャツの下の肌着は汗でビッショリ濡れていたとか。「試合中ならアンダーシャツを着替えることができるけど放送中はそうもいかず困りました」と19年目の大ベテランも初めて経験する事ばかりのルーキーの心境だったらしい。


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# 828 城之内邦雄

2024年01月24日 | 1977 年 



新人で開幕投手に
開幕投手は投手の勲章で全幅の信頼を得ている証拠でもある。その名誉を新人ながら浴したのが昭和37年の城之内邦雄投手だ。佐原一高から日本ビールを経て巨人入りした城之内投手は3月3日の西鉄とのオープン戦に初登板し、6回・4安打・無失点と好投し勝ち投手となった。その勢いのままオープン戦は7試合・4勝0敗・防御率 0.27 と驚異的な数字を残した。オープン戦の実績を買われて4月7日の阪神との開幕戦に先発投手に起用された。城之内投手は5回まで2失点と好投したが巨人打線が小山投手に抑えられ敗戦投手に。

5日後の4月12日の大洋戦に先発したが僅か15球投げただけで降板。その後も勝ち星に見放され開幕から3連敗を喫してしまう。並みの新人ならここで滅入ってしまうだろうが城之内投手は違った。ちょっとしたきっかけで調子が上向いた城之内投手は勝ち星をあげて、今度は勝ち続けた。結局、このシーズンの閉幕まで24勝をあげたがその後に新人でこの城之内投手の記録を上回る勝ち星をあげた投手はいない。20勝に届いた新人投手すら昭和40年の池永正明(下関商➡西鉄)ただ一人である。


出色のノーヒットノーラン
新人王の記者投票で166人満票で選ばれた。昭和46年に巨人を退団するまで三度の20勝投手になるなど期待を裏切らなかった。それでいてMVP(最高殊勲選手)はおろかベストナインにも一度も選ばれなかったのは不運としか言いようがない。そんな不運投手が胸を張って誇れるのが昭和43年5月15日の大洋戦で実現したノーヒットノーランである。この試合は巨人が3回に5点、その後も巨人打線が爆発して計16得点をあげた。えてして大量リードをすると投手も気が緩みがちだが城之内投手は気を抜かず投げ切った。

昨年までの63試合のノーヒットノーランは僅少得点で達成したケースが多い。「1得点・19試合」「2得点・9試合」「3得点・9試合」「4得点・9試合」など46試合が4得点以下で、10点を超す得点で達成したのは城之内投手を含めて5人の投手しかない。この試合で自軍が3回に5点を先取したのに次の回に打席に立った城之内投手は三塁打を放ち、次の打席も中前打で出塁するなどピッチング同様に打つ方でも決して手を抜かなかった。


1968イニング目の初ボーク
昭和46年に巨人を退団した後、2年のブランクを経て昭和49年にロッテで復帰した。3月14日の巨人とのオープン戦に登板した城之内投手は5回一死まで2安打・無失点に抑えて「恩返し」をした。しかし往年の速球やシュートはキレを欠いていて不安視する声が多かった。シーズンが開幕し5月5日の南海戦の8回から登板した際にセットポジションの一時静止を怠ったとしてボークを宣告された。これは実働11年目、1968イニング目で生涯初のボークだった。7月3日の阪急戦に先発して5回まで3安打・1失点に抑えて退いたのが現役最後のピッチングだった。


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# 827 権藤正利

2024年01月17日 | 1977 年 



足かけ3年・28連敗
昭和28年に洋松(現大洋)に入団すると早速15勝して新人王になったが、21年間続いた現役生活でこの年が自己最多勝利。3年目の昭和30年7月9日から同32年6月2日にかけて28連敗を喫して一躍有名になった。昭和30年のシーズンを8連敗で終えると翌年も出ると負けを繰り返して6月10日まで10連敗をし、従来の記録であった林直明投手(大洋)の18連敗に並んだ。何とか勝たせてやりたい首脳陣は1週間後の6月17日の国鉄戦で4回まで5対1とリードした場面で権藤投手をリリーフに起用した。ところがたちまち3ラン本塁打を浴び1点差に。7回二死満塁で押し出し死球と牽制悪送球などで3失点で19連敗の新記録となった。

こうしてその後も負け続けて28連敗。ようやく昭和32年7月7日の巨人戦に完封勝ちして連敗に終止符を打った。連敗を止めたのが巨人戦だったが、それまで権藤投手の対巨人戦は通算4勝19敗(勝率1割7分4厘)と最も苦手としていた対戦相手だっただけに連敗は続くと思っていたチーム関係者はよくぞ勝てたもんだと驚いた。苦手としていた巨人に勝ったことが自信となったかどうかは分からないが、これ以降の巨人戦は16勝23敗(勝率4割1分)と健闘した。


光る昭和42年の防御率1位
28連敗以外にも権藤投手は通算69暴投、ゲーム4死球(昭和32年9月17日・阪神戦)、1イニング5四球(昭和29年9月29日・阪神戦)、連続4四球(同阪神戦)とワースト記録続出で話題となった。また昭和30年6月18日の巨人戦で敬遠の投球をした時に、権藤投手が投げる前に目時捕手がキャッチャーズボックスから足を出してしまい権藤投手にボークが宣告されるというプロ野球史上唯一の珍記録も残してしまった。だがそんな権藤投手が胸を張って誇れるのが昭和42年の防御率1位である。

だがこれも自らの好投や野手陣の攻守で失点を防いだものではなく、エラーにより自責点にならなかったというものだった。阪神に移籍後の6月5日の古巣大洋戦は失点2・自責点0、7月18日の広島戦は失点6・自責点3、10月1日の中日戦は失点4・自責点1だった。そして10月14日のヤクルト戦に先発して6回 1/3 を投げたところで規定投球回数に達し退いた。結局、失点35・自責点21で防御率 1.40 でタイトルを獲得した。この年は苦手だった巨人相手に34回 2/3 投げて失点・自責点ともに4に抑え、防御率 1.03 と好投した。


実働21年は投手の最長年数
現役最後のシーズンとなった昭和48年にも巨人戦は7回 2/3 を投げ、自責点2で防御率.2.25 だった。特筆すべきはこの年の三冠王になった王選手と四度対戦し、中飛・中飛・三ゴロ・左飛とピタリと抑えたこと。燃え尽きる力を振り絞って投げた結果というべきか。こうして現役21年間に投げた試合は719試合。実働年数は小山正明投手(阪神➡ロッテ➡大洋)と並ぶ投手の最長年数である。また719試合登板は金田正一投手(国鉄➡巨人)の944試合、梶本隆夫投手(阪急)の867試合に次ぐ左腕投手歴代No,3である。


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# 826 土橋正幸

2024年01月10日 | 1977 年 



無四球試合
無四球試合の記録保持者は73試合の小山正明投手。土橋投手は第3位だが、1試合平均の四死球は小山投手の「2.00 個」より少ない「1.40 個」である。生涯134完投だから、2.9完投に一度の割りで無四球試合をやったことになる。昭和34年のシーズンでは6月28日から7月16日にかけて54回 1/3 連続無四球で、白木義一郎投手(セネタース)の74回のパ・リーグ記録更新も視界に入った。ところが7月18日の近鉄戦7回一死二塁の場面でベンチから敬遠策を命じられた為に記録は潰えた。翌々年の昭和36年7月には56回連続無四球を続けたが8月26日の南海戦の初回先頭打者に四球を与え、またも記録更新を逃した。

テンポの速い江戸っ子投法
だが東京・浅草育ちの江戸っ子である土橋投手はそんな記録はどこ吹く風とばかり残念がる素振りは見せなかった。江戸っ子気質で気が短いというわけではないだろうが、投球間隔は短くテンポよく投げ込んだ。しかも制球力も抜群で土橋投手が投げる試合は実にスピーディーに進んだ。昭和36年度のパ・リーグの平均試合時間は2時間22分。ところが土橋投手が完投した試合は平均2時間13分だった。またこの年の年間無四球試合「10」は未だに破られていないパ・リーグ記録だ。加えてこの年は30勝・防御率1.90 とタイトルを獲得してもおかしくなかったが、稲尾投手(西鉄)が、42勝・防御率 1.69 と好成績を残したのが土橋投手には不運だった。

不運のフォークボール
昭和40年は肩を痛めて4勝10敗と不振だったが、翌41年は5月から6月にかけオール完投で6勝するなど鮮やかに蘇り、オールスター戦にも監督推薦で選ばれた。6月24日の近鉄戦は延長11回を1人で投げ切り無四球完投。7月14日の近鉄戦に先発した土橋投手は5回二死まで2失点。味方が初回5点、2回3点と援護し8対2とリードし、あとワンアウト取れば7勝目の権利を得られた。ところがここでアクシデントが起きた。5回二死二・三塁、土井選手をボールカウント2ー1と追い込んだ場面でフォークボールを投げた際に右肩に激痛が走り降板を余儀なくされた。全治3ヶ月と診断されたが二度と勝利を手にすることなく引退に追い込まれた。



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# 825 謹賀新年

2024年01月03日 | 1977 年 









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# 823 鈴木啓示

2023年12月20日 | 1977 年 


鈴木啓示投手とはもっと早く対談をしたかったが、なかなかチャンスがなかった。オールスター戦前のロッテ戦に上京した際にようやく時間をとってもらうことが出来た。今や両リーグを代表する左腕投手からどんな秘話が聞けるか期待は大きかった。

低迷したとき考えた
聞き手…ようやっとるねぇ
鈴 木…いや、もう息が詰まるような感じですわ(苦笑)
聞き手…近鉄としては精一杯か?
鈴 木…我々選手がこんなことを言うのおかしいけど、ようやってる方やね。
聞き手…打てないからねぇ(苦笑)
鈴 木…チーム打率は12球団最低でしょ。2割3分いってない。ようあそこまで粘ったと思うね。
聞き手…打線が湿ってると、どうしても自分が抑えなきゃと思うんじゃないの?
鈴 木…以前は自分で言うのもアレですけど投げやりな性格だったんです。もうアカンと思ったら諦めが早かった。
    それが年齢と共に変わってきました。

聞き手…粘っこいピッチングになってきた?
鈴 木…いや、それよりも生意気な言い方ですけどチームの中で自分の置かれた立場を考えるようになった。
    変な色気とかなしに自分が試合を捨てたら誰が後始末するんやとか考えるようになった。

聞き手…つまり以前だったら、あぁ今日は相手投手の調子が良いし自分が1点・2点取られたらもうダメだと諦めて
    手を抜いてしまったと。

鈴 木…自分で計算してしまった。今日はもうエエわと決めてしまった。気分屋だったんやね。
聞き手…いつ頃からその気持ちが変わったの?
鈴 木…ただ力だけで投げていた間は計算できた。25歳くらいから3年ほど10勝ラインで低迷した時期があって
    その時に自分勝手に投げても試合には勝てないと思うようになった。


阪神が好きだったが
聞き手…第1回目のドラフト組だよね?
鈴 木…はい。巨人の堀内投手と同期です。
聞き手…はっきり言って同期は多くが消えて行ったね
鈴 木…う~ん、そうですね。
聞き手…そのドラフト1期生で200勝したのは君が最初で、今なおエースとして頑張っている。しかも近鉄は
    正直言って決して強いチームじゃないだけに、君の実力で勝っている。大したもんだよ。

鈴 木…それも巡り合わせですよね。僕らの時からドラフト制度が出来て自分で行きたいチームを選ぶことが
    出来なくなった。でもあそこのチームが好きだとかファン目線で見るのと職場として働けるかどうかは
    全く違う。関西に住んでいましたから阪神が好きでしたし、阪神からも欲しいと言われてました。
    ドラフト制度が無かったら阪神を選んでいたかもしれませんが阪神で今みたいな野球人生を過ごせて
    いたかは分かりません。

聞き手…近鉄に指名されてすんなりプロ入りを決めた?
鈴 木…いえ、当時は阪神以外は大学進学を考えていました。でも色々な方の話を聞いて最終目標はプロ入りだと。
    だったら1日でも早くチャンスがある時にプロ入りすべきと気持ちを入れ替えて近鉄入団を決めました。


まずライバルに勝つ
聞き手…入団当初からずっと一軍でしたか?
鈴 木…ドラフト2位指名で無名でしたし最初は二軍でした。ウエスタンリーグのトーナメント大会の準決勝戦で
    完封したんです。そして翌日の決勝戦で5回からリリーフ登板して抑えて近鉄が優勝したんです。近鉄が
    優勝と名が付くものを手にしたのは一軍はもちろん二軍でも初めてで、ご褒美で一軍に上げてもらえた。
    5月24日の後楽園球場の東映戦で投げてプロ初勝利です。

聞き手…ドラフト2位指名か。1位指名は誰だったの?
鈴 木…田端(謙二郎・鎮西学園)というてね電電九州から来た投手です。当時の野口投手コーチが田端投手は
    即戦力で15勝が確実だと評価していて最初から一軍でした。

聞き手…ライバル意識はあった?
鈴 木…ありましたね。ないとダメでしょ。プロの世界は負けず嫌いじゃないと成功しないと思います。敢えて口に
    出すかしないかは別にして。

聞き手…チーム内でライバルがいなくなったら他のチームの選手をライバル視?当時の左腕投手だと梶本投手(阪急)?
鈴 木…梶本さんや小野さん・荒巻さん(毎日)ですかね。でも一番は村山さん(阪神)です。
聞き手…今後の目標は優勝ですね?
鈴 木…はい。是非とも西本監督を胴上げしたいです。それと個人的には300勝です。
聞き手…おお、300勝ですか。頑張って目標を達成して下さい。今日はありがとうございました。
鈴 木…はい、頑張ります。ありがとうございました。


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# 822 選手会

2023年12月13日 | 1977 年 



「現行の年金では孫のオモチャ代にもならない」「選手会を法人化して共済会制度を設置する以外に退団後の保障はありえない」とプロ野球選手会が遂に立ち上がった。

月額5万円では女房・子供を養えない
OH砲(王・張本)2人合わせた年俸が1億円を超えたとかサッシー(酒井投手)の契約金が5千万円だのトップクラスのプロ野球選手の話題は確かに華やかだ。一方で今時そんな馬鹿な!と思える話も多い。野球協約では「参加報酬の最低保障」は年額60万円と定められている。月額5万円だ。もちろん実際には年俸60万円の選手は存在しない。しかし年俸120万円の選手はセ・パ両リーグに10人近くいる。昨年から年俸360万円以下の選手が一軍で出場した場合には差額を補填するシステムを採用したが、二軍の選手だけでなくレギュラークラスの働きをする中にも該当する360万円以下の選手がいたのが驚きだ。

「ウチの選手に聞いた話ですがプロ入り1年目は一般のサラリーマンより給料は上だが、二軍に埋もれたままだと3年目で抜かれてしまうそうです」と話す巨人・柴田選手会副会長。巨人選手の年俸は両リーグの頂点にあるが、中には低年俸の選手はいる。今季から一軍の試合に出場するようになったS捕手は入団9年目だが、今年の年俸は260万円(推定)。田淵選手(阪神)の控えだったF捕手は嘗て契約交渉で球団から年俸200万円を提示されたが「自分は女房子供を食わせていかなきゃならない。これじゃとてもじゃないが養っていけない」とタンカを切って任意引退の道を選んだケースもあった。

そんな時、球団フロントのお偉方から出る台詞は決まって「大リーグと違って日本の二軍は入場料金も取れないし本当の意味でプロとは言えない。二軍の選手が低年俸なのは当たり前ですよ」と言う。毎年ドラフト会議が開催されるが上位で指名されてもプロ入りを拒否して社会人野球の道を選ぶ高校生や大学生がいる。一流企業に就職すれば好きな野球をやって55歳の定年まで働いた方が生活は安定するし、まとまった退職金も手にできる。仮に年金受給資格の「10年選手」になっても月額2万4千円が貰えるだけだ。なるほど「孫のオモチャも買えない」というのも頷ける。


経営者任せでは夢も希望もない
選手会は毎年オールスター戦期間中にセ・パ両リーグ会長や経営者側代表4人が出席して開かれる特別委員会で年金の大幅アップを要求し続けてきた。プロ野球年金基金は財団法人日本プロ野球機構が委託者になり東洋信託銀行および三菱信託銀行が管理しているが、約8億円余りがプールされているという。オールスター戦や日本シリーズの収益と選手個人の拠出金で毎年8千万円が積み立てられるが、現在の受給者200人に加え毎年10人近くが受給者に加わる。「このまま経営者側に年金を任せていたら引退後に老後を安心して送れない。選手会を法人化して選手会独自に共済資金を作り不安を一掃しよう」と立ち上がった。

法人化が認可されれば税金は無税になる。選手会は昨年暮れ東京・九段の武道館で「プロ野球・歌の球宴」を文化放送と共催して成功させ、この時に選手たちが得た報酬300万円をプールし選手会の資金とした。言うなれば「歌の球宴」が選手会をパワーアップさせる文字通りの旗揚げ興行となったわけだ。しかし法人化が実現しなければ選手会がいくら資金を稼いでも莫大な税金を課せられることから選手会は顧問弁護士として依頼した下飯坂常世弁護士に相談したところ、法人格獲得の勝算ありとの報告を受けた。そうなればまさに画期的な事となる。7月24日に大阪で開催された特別委員会で正式に法人化申請の件が報告された。


選手会主催でゲームがやれるか?
選手会は将来、枯渇するであろう年金資金補充の為に選手会主催の試合開催を考えている。特別委員会終了後に会見に応じた岡野パ・リーグ会長は「選手会から改めて法人化して共済制度を作りたい旨の提案がありました。我々も異議はないので一緒に研究しようということで一致しましたが、選手会主催の公式戦開催の件は統一契約書に抵触する案件なので却下しました」と述べた。統一契約書第19条の【試合参稼制限】で「選手は本契約期間中、球団以外の如何なる個人、又は団体の為にも野球試合に参稼してはならない」と明記されている。勿論、選手会はそれを承知しているが但書の「コミッショナーが許可した場合はこの限りではない」を拠り所としている。

福島パ・リーグ事務局長は「試合開催は難しいでしょうね。そもそも選手会の法人化は簡単ではない。認可は文部省の管轄で公益社団法人の適格性を持たせなくてはならない。例えば青少年の体育向上とか育成に協力を呼びかけなければ共鳴されないでしょう。選手ら個人の共済制が第一目的では認可されるか疑問です」と法人化の難しさを話す。たとえ法人化が認可されたとしても大リーグの選手会並みにタカ派的にはなれないだろう。選手会の顧問弁護士の下飯坂常世氏は鈴木セ・リーグ会長とは長年付き合いのある温厚なハト派弁護士で、鈴木会長自らが選手会に顧問弁護士就任の推薦をしたのだから機構側に弓を引くとは思えない。



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