Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 829 週間リポート・阪急ブレーブス

2024年01月31日 | 1977 年 



八百長依頼に首を振った山田
本拠地の西宮球場でのオールスター第2戦で山田投手が先発し、セ・リーグが誇る " スーパーカー打線 " を抑えて勝利投手となり米田投手、江夏投手と並ぶオールスター戦最多となる4勝目をあげた。この試合前、山田投手は捕手の野村監督に呼ばれた。野村監督は「なぁヤマよ、ワンちゃん(王選手)との勝負やけどヒットを打たせてやってくれんか。お前の立場からいえば許せんかもしれんが、天下の王がスランプで苦しんどるのはお前も知ってるやろ。打たせてやらんか」と言ってきたという。つまり " 片八百長 " の進言である。無論、野村監督が事前に王選手と話し合ってきたのではない。

王選手はそれまで球宴33打席ノーヒット。あの王選手がオールスター戦になるとからきし打てないのである。なぜ野村監督がそこまで王選手を案じるのか?何を隠そう野村監督自身がかつて球宴29打席ノーヒットを経験し周囲から何やかんやと言われ悩んだ過去があったからだ。それに対し山田投手は「そうですね、お祭りだから」とその場を繕ったが、かつて日本シリーズで逆転サヨナラ本塁打を浴び苦汁を飲まされたこともあり「正々堂々としなきゃならん」と思い直したという。結果は左飛。「落ちるシュートだった。それにしても今日の山田は速かったなぁ。負けても気分はスッキリした」と王選手。やはり勝負事は真剣が一番である。

昨シーズンのMVPで今シーズン前期のMVPでもある山田投手。ましてやその日は家族や親戚がスタンドで自分に声援を送って期待している。「王さんを抑えるところを観に来てくれているのだ」という思いが八百長?を拒否につながった。「ヤマのやつ、1球も気を抜いたタマを放ってきよらんかった。今、球界で一番安定感のあるピッチャーや」と野村監督。舞台はお祭りの試合だったが山田投手は阪急の、パ・リーグのエースであるという誇りと意地で王選手を抑え結局、その試合の優秀選手賞をがっちり手にしたのだった。 


平山氏が第2故郷を満喫
フィーバー平山氏が上田監督、マルカーノ選手、ウイリアムス選手と久しぶりに対面した。平山氏はご存じ、かつての広島東洋カープの元選手で昭和40年に離日後、大リーグエンジェルスのスカウトを務めてマルカーノ選手などを阪急に紹介するなど阪急ブレーブス日本一の陰の功労者である。球団の招待で12年ぶりに日本の土を踏んだ。「日本人の体つきが大きくなった。でもまだまだ大リーガーと比べるとスピードとパワーは見劣りする。マルカーノは目を怪我していて心配だ」などなど束の間の第2の故郷を楽しみ満喫していた。

ルーキーの心境
足立投手がオールスター第2戦(西宮)のラジオ解説を務めた。「なかなか落ち着いてピッチング同様、間の取り方も上手いものです」と放送したラジオアナウンサーから褒められたが当の本人は「いやぁマイクの前に座ると緊張するね。試合時間がやたら長く感じた。やっぱり野球は見るもんじゃなくてやるもんだね」と冷汗かきっぱなし。なんでもTシャツの下の肌着は汗でビッショリ濡れていたとか。「試合中ならアンダーシャツを着替えることができるけど放送中はそうもいかず困りました」と19年目の大ベテランも初めて経験する事ばかりのルーキーの心境だったらしい。
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# 828 城之内邦雄

2024年01月24日 | 1977 年 



新人で開幕投手に
開幕投手は投手の勲章で全幅の信頼を得ている証拠でもある。その名誉を新人ながら浴したのが昭和37年の城之内邦雄投手だ。佐原一高から日本ビールを経て巨人入りした城之内投手は3月3日の西鉄とのオープン戦に初登板し、6回・4安打・無失点と好投し勝ち投手となった。その勢いのままオープン戦は7試合・4勝0敗・防御率 0.27 と驚異的な数字を残した。オープン戦の実績を買われて4月7日の阪神との開幕戦に先発投手に起用された。城之内投手は5回まで2失点と好投したが巨人打線が小山投手に抑えられ敗戦投手に。

5日後の4月12日の大洋戦に先発したが僅か15球投げただけで降板。その後も勝ち星に見放され開幕から3連敗を喫してしまう。並みの新人ならここで滅入ってしまうだろうが城之内投手は違った。ちょっとしたきっかけで調子が上向いた城之内投手は勝ち星をあげて、今度は勝ち続けた。結局、このシーズンの閉幕まで24勝をあげたがその後に新人でこの城之内投手の記録を上回る勝ち星をあげた投手はいない。20勝に届いた新人投手すら昭和40年の池永正明(下関商➡西鉄)ただ一人である。


出色のノーヒットノーラン
新人王の記者投票で166人満票で選ばれた。昭和46年に巨人を退団するまで三度の20勝投手になるなど期待を裏切らなかった。それでいてMVP(最高殊勲選手)はおろかベストナインにも一度も選ばれなかったのは不運としか言いようがない。そんな不運投手が胸を張って誇れるのが昭和43年5月15日の大洋戦で実現したノーヒットノーランである。この試合は巨人が3回に5点、その後も巨人打線が爆発して計16得点をあげた。えてして大量リードをすると投手も気が緩みがちだが城之内投手は気を抜かず投げ切った。

昨年までの63試合のノーヒットノーランは僅少得点で達成したケースが多い。「1得点・19試合」「2得点・9試合」「3得点・9試合」「4得点・9試合」など46試合が4得点以下で、10点を超す得点で達成したのは城之内投手を含めて5人の投手しかない。この試合で自軍が3回に5点を先取したのに次の回に打席に立った城之内投手は三塁打を放ち、次の打席も中前打で出塁するなどピッチング同様に打つ方でも決して手を抜かなかった。


1968イニング目の初ボーク
昭和46年に巨人を退団した後、2年のブランクを経て昭和49年にロッテで復帰した。3月14日の巨人とのオープン戦に登板した城之内投手は5回一死まで2安打・無失点に抑えて「恩返し」をした。しかし往年の速球やシュートはキレを欠いていて不安視する声が多かった。シーズンが開幕し5月5日の南海戦の8回から登板した際にセットポジションの一時静止を怠ったとしてボークを宣告された。これは実働11年目、1968イニング目で生涯初のボークだった。7月3日の阪急戦に先発して5回まで3安打・1失点に抑えて退いたのが現役最後のピッチングだった。
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# 827 権藤正利

2024年01月17日 | 1977 年 



足かけ3年・28連敗
昭和28年に洋松(現大洋)に入団すると早速15勝して新人王になったが、21年間続いた現役生活でこの年が自己最多勝利。3年目の昭和30年7月9日から同32年6月2日にかけて28連敗を喫して一躍有名になった。昭和30年のシーズンを8連敗で終えると翌年も出ると負けを繰り返して6月10日まで10連敗をし、従来の記録であった林直明投手(大洋)の18連敗に並んだ。何とか勝たせてやりたい首脳陣は1週間後の6月17日の国鉄戦で4回まで5対1とリードした場面で権藤投手をリリーフに起用した。ところがたちまち3ラン本塁打を浴び1点差に。7回二死満塁で押し出し死球と牽制悪送球などで3失点で19連敗の新記録となった。

こうしてその後も負け続けて28連敗。ようやく昭和32年7月7日の巨人戦に完封勝ちして連敗に終止符を打った。連敗を止めたのが巨人戦だったが、それまで権藤投手の対巨人戦は通算4勝19敗(勝率1割7分4厘)と最も苦手としていた対戦相手だっただけに連敗は続くと思っていたチーム関係者はよくぞ勝てたもんだと驚いた。苦手としていた巨人に勝ったことが自信となったかどうかは分からないが、これ以降の巨人戦は16勝23敗(勝率4割1分)と健闘した。


光る昭和42年の防御率1位
28連敗以外にも権藤投手は通算69暴投、ゲーム4死球(昭和32年9月17日・阪神戦)、1イニング5四球(昭和29年9月29日・阪神戦)、連続4四球(同阪神戦)とワースト記録続出で話題となった。また昭和30年6月18日の巨人戦で敬遠の投球をした時に、権藤投手が投げる前に目時捕手がキャッチャーズボックスから足を出してしまい権藤投手にボークが宣告されるというプロ野球史上唯一の珍記録も残してしまった。だがそんな権藤投手が胸を張って誇れるのが昭和42年の防御率1位である。

だがこれも自らの好投や野手陣の攻守で失点を防いだものではなく、エラーにより自責点にならなかったというものだった。阪神に移籍後の6月5日の古巣大洋戦は失点2・自責点0、7月18日の広島戦は失点6・自責点3、10月1日の中日戦は失点4・自責点1だった。そして10月14日のヤクルト戦に先発して6回 1/3 を投げたところで規定投球回数に達し退いた。結局、失点35・自責点21で防御率 1.40 でタイトルを獲得した。この年は苦手だった巨人相手に34回 2/3 投げて失点・自責点ともに4に抑え、防御率 1.03 と好投した。


実働21年は投手の最長年数
現役最後のシーズンとなった昭和48年にも巨人戦は7回 2/3 を投げ、自責点2で防御率.2.25 だった。特筆すべきはこの年の三冠王になった王選手と四度対戦し、中飛・中飛・三ゴロ・左飛とピタリと抑えたこと。燃え尽きる力を振り絞って投げた結果というべきか。こうして現役21年間に投げた試合は719試合。実働年数は小山正明投手(阪神➡ロッテ➡大洋)と並ぶ投手の最長年数である。また719試合登板は金田正一投手(国鉄➡巨人)の944試合、梶本隆夫投手(阪急)の867試合に次ぐ左腕投手歴代No,3である。
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# 826 土橋正幸

2024年01月10日 | 1977 年 



無四球試合
無四球試合の記録保持者は73試合の小山正明投手。土橋投手は第3位だが、1試合平均の四死球は小山投手の「2.00 個」より少ない「1.40 個」である。生涯134完投だから、2.9完投に一度の割りで無四球試合をやったことになる。昭和34年のシーズンでは6月28日から7月16日にかけて54回 1/3 連続無四球で、白木義一郎投手(セネタース)の74回のパ・リーグ記録更新も視界に入った。ところが7月18日の近鉄戦7回一死二塁の場面でベンチから敬遠策を命じられた為に記録は潰えた。翌々年の昭和36年7月には56回連続無四球を続けたが8月26日の南海戦の初回先頭打者に四球を与え、またも記録更新を逃した。

テンポの速い江戸っ子投法
だが東京・浅草育ちの江戸っ子である土橋投手はそんな記録はどこ吹く風とばかり残念がる素振りは見せなかった。江戸っ子気質で気が短いというわけではないだろうが、投球間隔は短くテンポよく投げ込んだ。しかも制球力も抜群で土橋投手が投げる試合は実にスピーディーに進んだ。昭和36年度のパ・リーグの平均試合時間は2時間22分。ところが土橋投手が完投した試合は平均2時間13分だった。またこの年の年間無四球試合「10」は未だに破られていないパ・リーグ記録だ。加えてこの年は30勝・防御率1.90 とタイトルを獲得してもおかしくなかったが、稲尾投手(西鉄)が、42勝・防御率 1.69 と好成績を残したのが土橋投手には不運だった。

不運のフォークボール
昭和40年は肩を痛めて4勝10敗と不振だったが、翌41年は5月から6月にかけオール完投で6勝するなど鮮やかに蘇り、オールスター戦にも監督推薦で選ばれた。6月24日の近鉄戦は延長11回を1人で投げ切り無四球完投。7月14日の近鉄戦に先発した土橋投手は5回二死まで2失点。味方が初回5点、2回3点と援護し8対2とリードし、あとワンアウト取れば7勝目の権利を得られた。ところがここでアクシデントが起きた。5回二死二・三塁、土井選手をボールカウント2ー1と追い込んだ場面でフォークボールを投げた際に右肩に激痛が走り降板を余儀なくされた。全治3ヶ月と診断されたが二度と勝利を手にすることなく引退に追い込まれた。
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# 825 謹賀新年

2024年01月03日 | 1977 年 






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