納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
去年のドラ❶ 広沢克己:トラちゃんに意外と厳しかった採点。愛のムチと心得るべし
鳴り物入りで入団した明大の怪物・広沢選手。規定打席には到達しなかったが打率.250 ・18本塁打・52打点は新人王こそ逃したが前評判通りの活躍を見せたと思われるが当人たちの評価は少し違う。10月24日の公式戦最終戦で4安打の固め打ちで目標の打率2割5分台に乗せた。本塁打は20本の大台には届かなかったが1年目の成績としては及第点と言って差し支えない。だが本人は「大事な所で打てなかったですし、赤点をギリギリ超えた感覚ですね。それに守りでもだいぶ迷惑をかけたのでトータルでは落第点ですね」と厳しい自己採点。確かに368打席で102三振はリーグ最多、一塁の守備でも野手からの送球を落とすケースが少なくなかった。記録上は送球した野手にエラーが付いたが広沢が捕球して然るべきものが殆どだった。
伊勢打撃コーチによれば「プロのスピードについていけず苦労した。本人も悩んでいたが教える私も悩みましたよ。オープン戦から内角球に食い込まれ、外角の逃げるボール球に手を出して三振を喫するパターンを繰り返した。先ずは逃げるボール球を見極める選球眼を磨かなければ」と。伊勢コーチにとって広沢はまだまだ未完の大器で発展途上の選手だ。だが「間違いなく将来のウチの四番(伊勢コーチ)」と期待は大きい。一方で指揮を執った土橋監督は「彼の守備で負けた試合は4~5ゲームあった。本塁打も期待してた数より少ない。一塁レギュラーの渡辺を外してまで起用した期待には応えてないなぁ」と手厳しい。
こんな首脳陣の厳しい意見も広沢に対する期待の裏返し。「パワーだけならリーグでも3本の指に入る」と伊勢コーチは評価しており「あんなに力一杯のスイングをしなくても、ヤツなら軽く当てるだけでオーバーフェンスするよ」と土橋監督。だからこそ5日から始まった浜松での秋季キャンプでは広沢を重点的にシゴイテいる。鉄は熱いうちに打て、の言葉通り徹底的に鍛えている。「1年目は何から何まで勉強でした。将来は落合さんのように40本以上打てる打者になりたいです(広沢)」と熱く目を見開いた男は秋こそ勝負と心に決めている。
【 運命のドラフト当日:荒木大輔 】
あの時、荒木投手は東京・新宿にある早実で授業を受けていた。「当時はプロへ行く気は全くなかったです。早稲田大学へ行って神宮球場で投げるのが夢でした」と話す荒木だが、ドラフト会議ではヤクルトと巨人が1位指名入札をした。抽選の結果、ヤクルトが交渉権を得た。「どこに指名されてもプロ入りしない」と当初は交渉すら拒んでいたが松園オーナー自ら交渉に乗り出すと荒木の気持ちも微妙に揺れ出した。幾度かの交渉の末、荒木のヤクルト入団が決まった。「あの時に早大進学を決めていたら今の自分はないです」と3年目の今季に見事に開花した荒木は振り返る。早大志望の桑田君も荒木を見習ったら?
去年のドラ❶ 中村武志:持ち前の強肩・強打も発揮できず。課題はプロのスピードに慣れること
入団当初から評価は高く、早ければ1年後には一軍でマスクを被れると言われていた。「遅くとも3年後には正捕手になれる」と田村スカウト部長。ところが1年を経過してみると、やはりプロの壁は厚かった。一軍経験はゼロ、二軍での成績は58試合・打率.216 ・1本塁打・7打点。高校時代は「記憶にない(中村)」という三振が19個だった。「全ての面でプロはスピードが違いました」と中村はプロ1年目を振り返る。守りに関しても鉄砲肩と言われて高校時代は盗塁を殆ど許さなかったがプロでは思うような結果は得られなかった。「確かに打撃も守りもいいものを持っているのは間違いない。ただ現状はその素質だけでやっている。プロで活躍するにはもう1段階上のレベルじゃないと苦しい」との声も。
中村が鳴り物入りで入団すると水沼四郎二軍バッテリーコーチがマンツーマンで中村の指導にあたった。「ポスト中尾。2~3年で中尾を超える選手に育てて欲しいと球団に言われている(水沼)」と " 中村係 " に任命された。ところが春のキャンプで「とりあえず3日間は彼の好きなようにやらせてみた(水沼)」が直ぐにメスが入った。「キャッチングが外へ外へ流れる癖と送球の際の腕の振りもコンパクトに修正した」と水沼コーチ。「肩は滅法強いし打撃もパワーは充分。でも送球ひとつとっても一連の動作が繋がっておらず、せっかくの強肩も宝の持ち腐れ状態。鉄は熱いうちに打て、だよ(水沼)」と。
プロ入り当初の自信が不安に変わった。「投手が投げるスピードから僕自身のスピードまで、あらゆる点で差が有り過ぎました」と振り返る中村だが、だからといって若武者は逃げたりはしない。「とにかく今は数多くの投球を受け、数多く二塁への送球をすることだと思ってます(中村)」全てはそこから始まる。「大先輩(中尾選手)のことは畏れ多くて今は何も言えませんが、練習を重ねれば僕だって何とかなる、と思ってます」とドラフト指名から1年が経過し中村はひたすら練習一途を強調した。ちなみに山内監督の採点は40点。水沼コーチは50点。中村本人は50点だった。
【 運命のドラフト当日:鹿島 忠 】
昭和56年11月20日。衝撃のあの日を鹿島投手は「今もって忘れない」と話す。故郷・鹿児島での職場は鹿児島鉄道管理局総務部だった。当時の鹿島は鹿鉄管理局のエースで監督さんから「ひょっとしたらドラフトで指名されるかもしれない」と言われて、ドラフト会議当日は三つ揃いのスーツに身を包み出勤した。「指名されるとしても下位指名だろうから夕方までちゃんと仕事をしろ、と上司に言われて通常通り働いてました(鹿島)」とノンビリしていたそうだ。第1報は昼過ぎに入った。「アレ、随分と早いなと驚いたが、1位指名と聞かされて二度ビックリしました。1位なんて絶対に無くて良くて4位指名くらいかなと思ってましたから(鹿島)」。それ以来、鹿島は世の中に " 絶対 " はない、と思うようになったとか。
去年のドラ❶ 竹田光訓:一度も一軍に上がれなかった竹田。1年遅れの新人王を狙えるか
少数精鋭主義。11月1日から静岡で始まった秋季キャンプを前にして近藤監督が口にしたフレーズだ。だがそこに竹田投手の名前はなかった。「竹田?ピッチング以前の問題。まだプロの身体になっておらず、キャンプに連れて行っても本人が焦るだけ」と近藤監督はピシャリ。鳴り物入りで入団してから1年、竹田本人も周囲も現在の体たらくを想像していただろうか?思えば大学卒業の単位を多くを残し、1月16日から始まった自主トレに殆ど参加出来なかったのがケチの付け始め。当然の如くキャンプも出遅れ、オープン戦で登板する度に打ち込まれた。特に3月31日の地元・横浜で先発した巨人戦では初回9失点の失態を演じ、これで二軍落ちは決定的となった。
「確かにあれで自分の力不足を完璧に思い知らされました。本音を言うとキャンプインして直ぐに薄々は感じてはいたんですけどね。でも焦らずやろう、と吹っ切れました(竹田)」と回想する。開幕を二軍で迎える事となったが竹田は素直に納得し、一軍昇格を目標に練習に励んだ。二軍で5勝(7敗)した竹田に一軍昇格のテストが行われ球宴明けに一軍昇格が決まりかけたが好事魔多し、右肩痛を発症しチャンスを棒に振った。9月中旬には練習中に胸の痛みを訴えて病院に担ぎ込まれたりもした。全てのツキが竹田から逃げて行くようであった。「本当に話にならない1年でしたね」と本人が一番それを痛切に感じている。
明大時代の同僚・広沢(ヤクルト)はそれなりの結果を残し、プロのスピードに慣れた来季は更なる活躍が予想される。竹田はどうか?1年遅れの新人王を期待できるのか?現状ではかなり厳しいと言わざるを得ない。「投球術は知っている。クレバーな投手であるのは間違いない。とにかくあらゆる面で力をつける事が最優先課題。それは本人が一番分かっていると思う(鈴木二軍投手コーチ)」「大学であれだけの実績を残した投手だから。1年で結論を出す必要はない。力は持っているんですから(江尻二軍監督)」と周囲の期待は今も変わらず大きい。竹田が一軍のローテーションに入ってくれれば来季の大洋は大いに期待できる。
【 運命のドラフト当日:屋鋪 要 】
自分では指名されるか、されないかどちらでも良かった。指名されなければ大学進学するつもりで早大のセレクションも済ませていた。事前に挨拶に訪れたのは大洋を含めて6球団。どの球団も指名の確約はなく、「指名した際は宜しく」程度だった為にドラフト会議当日も緊張感は全くなかったそうだ。当時はテレビ中継もなく放課後に野球部の監督さんに呼ばれて大洋が6位に指名したと知らされた。「大洋はそれほど熱心じゃなかったので意外でしたね。でもセ・リーグだし行こうと思いました(屋鋪)」。今は亡き父親が阪神の熱狂的なファンで入団交渉の席で掛布選手と同じ背番号「31」を希望したエピソードは未だに語り草となっている。
去年のドラ❶ 上田和明:母校・慶大の13年ぶりVに刺激された。来季の飛躍にドロまみれ
ファンの反応は正直だ。「アレ?上田じゃない?そういえばアイツをテレビで見た記憶がないな」と若手選手を中心に秋季キャンプを行なっている宮崎のスタンドで観戦していたファンが発した言葉だ。宮崎にいるファンにしてみれば春のキャンプでは多くの報道陣やファンに囲まれていた風景を目にしていたので、とても同じ選手であるとは思えないのだ。守りだけなら一軍で使えるという前評判だった。確かに守備練習では他の一軍選手と比べても遜色なかったが、「打つ時にバットのヘッドが下がる癖を直さないと一軍では厳しい(王監督)」と判断され二軍落ちした。周囲も本人も短期間で一軍に戻って来られると考えていたが、一度、二軍に落ちると余程の成績を残さないと再昇格は難しいのが現実。
開幕は二軍スタート。ほんの束の間の筈が二軍の試合でなかなか成績が上がっていかない。ようやく一軍からお呼びがかかったのは5月に入ってから。5月20日に一軍昇格し、23日のヤクルト戦でプロ初安打を放ったが僅か7試合で二軍へ逆戻り。その後は二軍暮らしが続きシーズン終盤の10月15日に戻って来たが結局、一軍での通算成績は11打数2安打で打率は2割を切り低迷。ちなみに二軍の成績は51試合に出場し打率.288 ・3本塁打・19打点と特筆するものではなかった。春のキャンプで一軍入りを争った岡崎選手は打撃で結果を残し一軍に定着する事が出来たのとは対照的な1年となった。
「守りの方もシーズン途中に下半身全体を使う動きに変えました。一軍ベンチの勝負にかける緊張感を実感できたのも成果でした。でも大学出のドラフト1位としては落第でしょうね。結局、非力だった打撃力不足に尽きます。広沢君には差を着けられてしまいました。足腰の強化、スイングの鋭さを目標に出直します」と決意を新たにする上田だった。秋季キャンプでは王監督が直々に打撃指導にあたるが「お前はまだまだお嬢さんスイングだ。インパクトの後に顎が上る癖も直さないとダメだ(王監督)」と手厳しい。周囲では上田は実戦向きで器用なタイプだから、我慢して一軍で使い続けていたら戦力になっていたとの声もあるが、上田本人が認めているように体力も含めたパワー不足を解消する事が一軍定着への近道だろう。
【 運命のドラフト当日:松本匡史 】
世の中なにが起きるか分からない。松本選手の場合がそれだ。昭和51年のドラフト会議で早大の4年生だった松本は巨人から5位指名されたが、それはまさに驚きの指名だった。というのも松本は当時「プロへ行く気なんて全くなかった。ドラフト前に何球団から挨拶があったけど、その場でお断りしていました」だそうだ。大学2年生の時に左肩を脱臼した事がプロ入りしない最大の理由だった。卒業後は内定していた日本生命に就職しサラリーマン生活を送ると決めていた。なのでドラフト会議当日は友達と新宿に遊びに出掛けていて、帰って来たら周りは大騒ぎだったそうだ。昨今は駄々っ子のように逆指名する選手が多い中で松本は文字通り「無欲の勝利」で憧れの球団からの指名をゲットしたわけだ。
去年のドラ❶ 杉本正志:右ヒジの手術でちょっぴり出遅れ。嶋田(阪神)を追い抜け
6月初旬に右ヒジを手術。その為に実戦で投げたのは数試合に終わった。「完成型の嶋田、未完の大器の杉本」と言われ、箕島高時代からのライバルである嶋田投手(阪神)が脚光を浴びたのとは対照的に杉本のプロ1年目は辛抱の年となった。愛称は「キューピー」。クリッと大きな目に鼻筋の通ったハンサムボーイには似つかわしくない豪速球を投げる。杉本を見た古葉監督は「北別府が入団した時よりバランス良く投げる。球も重いし何よりスピードが素晴らしい」とベタ褒め。本人は「ヒジの具合もあるし2~3年はじっくり体力を付ける」と言っていたが、嶋田が一軍で活躍しだすと「羨ましい」と闘争心に火が点き練習にも熱が帯びてきた。
ところが5月中旬になった頃、右ヒジに痛みが走るようになった。診断結果は「関節離断性骨軟骨症」。高校時代に痛めた箇所が再び悪化したのだ。直ぐに軟骨除去手術を受け23日間の入院生活を強いられた。「毎日が退屈で死にそう」と愚痴をこぼしていたが、どうやら目からウロコが一枚も二枚も落ちた様子で藤井二軍監督から「今年は球は握らせず今後ずっと走らせてしごく」と言われても「自分でももっとやらなければと思っていましたから走ります」と不満は口にせず、退院以降は「こんなに走るのが遅い奴は見たことがない(外木場二軍投手コーチ)」と冷やかされながらも「今年の僕は陸上選手です(杉本)」と明るく大ハッスル。
そんな杉本に実戦で力を試すチャンスが巡ってきた。9月20日のウエスタンリーグの阪神戦。両親をスタンドに招いての登板は4イニングで3安打・3失点だった。「プロのストライクゾーンは本当に小さく感じた(杉本)」が降板後の感想だった。だが将来性を感じさせる場面もあった。「球が重くて、こんな凄い球は初めてで驚きました」と話すのは杉本と対戦した同じく高卒ルーキーの中村選手(中日)。藤井二軍監督ら首脳陣も「速さだけなら一軍レベル」と評価する。「早く一軍に上がって満員のスタンドで投げてみたい(杉本)」の夢を実現させる為に目下、アメリカの教育リーグで武者修行に明け暮れている。逞しく成長した杉本の雄姿を目にするのも間もなくだろう。
【 運命のドラフト当日:川端 順】
その日は日本から遠く離れたオーストラリアにいた。春と夏の社会人野球大会で優勝した御褒美を兼ねた海外遠征の最中だった。川端は「あの日(昭和58年11月22日)はどこの球団に指名されるかドキドキしながらホテルの監督さんの部屋で伊藤(現広島)、青木(現大洋)と一緒に結果を待っていました」と当日を振り返った。広島から1位で指名されたが本人にとっては意外な結果だったという。「大洋を除いた11球団から挨拶はあったけど広島はそんなに熱心じゃなかったですね(笑)感触としてはロッテか阪急かなと思っていました」と。年齢的に指名された球団に行こうと決めていたが巨人か西武だったら断るつもりだった。「強いチームに勝つ方が気持ちいいから」と本人は言う。2年目の今季、11勝7敗7Sで見事に新人王に輝いた。