Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#166 1981年・オープン戦も終盤へ

2011年04月27日 | 1981 年 

今でこそ40歳過ぎの選手も珍しくなくなりましたが、門田は40歳・40本塁打を記録した化け物でした




掛布はこの年から優勝する1985年までシーズン全130試合に出場するなど心・技・体に充実していました




ヤクルトは昔から優良外国人選手の獲得には定評が有りました。ただ、この年の出戻りマニエルは
以前の輝きを放つ事は出来ませんでした・・・





今でも一番速かったのは阪急・山口高志だと思っています。江川や小松も確かに速かったですが
山口のストレートは「唸りをあげる」と言う表現がピッタリの豪速球でした。







高橋正己【通算 7勝11敗 防 4.54 】 何故か印象に残っている投手。上体だけの手投げフォームで
スピードも無く、なんでプロ野球選手になれたのかと不思議に思ってました。。 




【おことわり】・・・例によってゴールデンウィーク中は家族サービスの為、更新が出来ません。
          
          ですので次回の更新は
 5月11日 になります。
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#165 キャンプを終えてオープン戦へ

2011年04月20日 | 1981 年 

やはり江夏の抜けた穴は大きく3年ほど優勝から遠ざかります。江夏に代わる抑え役は、この年の
ドラフトで入団する津田が務める事になります





原はオープン戦初戦から頭部付近へのブラッシュボールの洗礼を受けます。今は新人に対して
優しくなりました、清原も散々ぶつけられましたから・・ゆとり教育のせいなのか?





先日テレビで愛甲の現在を放送していましたが、引退後の生活は大変そうです。愛甲は一時
失踪騒ぎがあったり、香川は事業失敗後に自己破産するなど波乱万丈の人生を送っています。






一方のライバル、江川と掛布は監督やコーチに縁がありません。処世術が無いのか、球界では
指導者として評価されてないのか不思議です





新人王は原でしたが中田も高木もチームの主力に成長しました



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#164 FAの前身 『10年選手制度 』 

2011年04月13日 | 1981 年 
   


以前に取り上げた 『巨人はFAを30年前から画策していた』 はスポーツ紙の「火の無い…」的な
記事を元にしたものでしたが、今回は「社団法人プロ野球選手会」が具体的に検討していた案です。
昭和39年に廃止された「10年選手制度」を踏襲した内容で、現在のFA制度とは少し違っています。

現在、FAを行使する為の資格を得る条件は1軍選手登録日数ですが、「10年選手制度」の場合は
1軍登録されただけではなく試合に出場しないと駄目で、且つ10年間同一球団に所属している事も
必須条件になっていて移籍すると年数はリセットされる事になっていました。 例えば打者の場合は
過去10年間・1300試合の65%(=845試合)に出場していなければ資格は得られませんでした。
ちなみに「投手は334試合・捕手は565試合」と規定されていました。資格を得た選手がボーナスを
選択した場合にも細かな規定がありました。支給額を算定する計算式があって、過去5年間の年俸
平均額と入団時の契約金額を計算式に代入して算出します。例えば契約金が1千万円・平均年俸が
1千5百万円の梨田選手(近鉄)のボーナスは900万円。また江本投手(阪神)は出場試合数はクリア
していましたが南海からの移籍選手だった為、阪神での在籍年数が足りず該当選手にはなれません。
その場合は「B級選手」となりボーナスのみで移籍の自由は得られませんでした。

移籍を選択する場合も好きな球団を自由に選べるわけではなく、同じリーグの下位球団3チームしか
選択肢は有りませんでした。最後の行使選手の金田投手(国鉄)の時は 「6位 中日」 「5位 広島」
「4位 国鉄」でしたが金田投手は中日を拒否、広島は獲得を見送り、国鉄は所属球団の為に対象外
繰り上げで「3位 巨人」に入団となりました。厳密に言うと選手が球団を選ぶのではなく下位球団が
ウェーバー順に獲得の名乗りをあげて選手が入団を「了承or拒否」をする制度であった為に、選手の
多くがボーナスを選択しました。

当時の選手会は労働組合と認定されてなくストライキ権も無い単なる親睦団体に過ぎず、雇い主に
あたる球団への要求も門前払い状態でした。この「10年選手制度」も復活する事は無く、選手達の
悲願は1993年に実現しましたが当然の様に選手の年俸は高騰し球団経営を圧迫する事になります。
駒田(巨人)の横浜への移籍の際には、獲得資金捻出の為に高木や屋鋪など6選手が解雇される
などFA制度が選手自身の首を絞める結果となりました。

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#163 原や石毛だけじゃない!異色の新人たち in 1981

2011年04月06日 | 1981 年 
   


才能の有る選ばれた人間だけが集まるプロ野球界ですが、全ての選手が活躍できるほど甘い世界では
なく、志半ばで球界を去る選手の方が多いのが実情です。




宮城 (ヤクルト)・・・苦手のランニングではいつも最下位。ベテランの安田や神部にも遅れをとる有様だが、ひとたびボールを
握ると一転「飛び切りの優等生(堀内コーチ)」に変身するのだ。大きな体に似合わず流れる様な華麗なフォームでキレのある
ストレートを投げる。「愛甲とは永遠のライバルでいたい。リーグは違ってもお互いの存在がずっと気になり続けると思うんです」
背番号40・契約金2千5百万円の宮城に対し、愛甲は背番号1・契約金5千万円だ。プロ入り時点での評価は愛甲の勝ちだが
宮城は胸を張ってこう言う「本当の勝負はこれからです。5年、10年先の結果で判断して下さい。必ずボクの方が上に立って
いますから見ていて下さい」
   【 通算成績 25試合 0勝3敗 】


安西 (巨人)・・・公称は1㍍66㌢・63㌔ しかし実際に会って見るともっと小さく感じる。だが首脳陣の評価はすこぶる良い「空気が
目いっぱい詰まったゴムまりの様な選手」が国松2軍監督の安西評。キャンプ初日に左足首を捻挫し、不名誉なリタイア第1号と
なったものの翌日には元気に復帰。ケガを考慮して激しい運動は控えているが機敏な動きは群を抜いていて、ペッパーは早くも
「チームNo,1」の折り紙つきだ。ガッチリとした体躯で太ももの周囲は60㌢もあり、1㍍84㌢の中畑の太ももより太い。どっしりとした
下半身から生み出されるパワーでスイングも鋭く「しかも頭もクレバーで野球を良く知っている(上田コーチ)」「スイングに無理が
なくトップの位置から最短距離でバットが出てくる。パワーに加えて打撃センスも文句なし(国松監督)」と手放しだ。勿論、課題も
ある。背筋・腹筋は高校生レベルでプロの体には程遠いが体力をアップすれば間違いなく1~2年で1軍で活躍できる素材である。
マスコミの目が同級生のロッテ・愛甲に集中している間に安西がヒタヒタと追いつき・追い越そうとしている。
【一軍試合出場なし】


駒崎 (西武)・・・社会人屈指の強打者で、一昨年の世界選手権大会には最年少代表選手に選出されたが過去に19歳で全日本
入りした選手はいない。駒崎は99%日通浦和に残留する筈だった。日ハムなどは「原の次に評価している」とドラフト会議の直前
までアタックを続けたが本人も会社も残留の意志が固く諦めたのだ。力強い打撃は勿論、強肩も魅力の一つである。世界選手権の
プエルトルコ戦、負けられない日本は木田(現日ハム)・中尾(現中日)のバッテリーで臨んだ試合で無死満塁の危機を救ったのが
駒崎だった。犠飛確実と思われた右翼の定位置から本塁へのダイレクト返球で走者を刺した。軽く100㍍を超す遠投力だけでなく
100㍍を11秒9の走力まで持ち合わせる選手なのだ。各球団が指名を見送った間隙を突いて西武・根本監督兼管理部長が動き
契約金5千万円・年俸480万円という1位指名選手並の条件で入団にこぎつけた。今や一軍争いレベルを超えて「七番・右翼」を
売り出し中の立花選手と争うまでになっている。
  【 通算成績 174試合  打率 .244  3本塁打 】



今の若い人たちには馴染みの無い選手たちでしょうけど、プロ入り前は皆が名前を知られた存在でした。
プロ入りしても1軍で活躍できず球界を去る選手が大半ですから、この3人が特別に珍しいわけではない
ですけど。入った球団のカルチャーや首脳陣との相性など野球の技術だけではないのでしょうね・・
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