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Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 822 選手会

2023年12月13日 | 1977 年 



「現行の年金では孫のオモチャ代にもならない」「選手会を法人化して共済会制度を設置する以外に退団後の保障はありえない」とプロ野球選手会が遂に立ち上がった。

月額5万円では女房・子供を養えない
OH砲(王・張本)2人合わせた年俸が1億円を超えたとかサッシー(酒井投手)の契約金が5千万円だのトップクラスのプロ野球選手の話題は確かに華やかだ。一方で今時そんな馬鹿な!と思える話も多い。野球協約では「参加報酬の最低保障」は年額60万円と定められている。月額5万円だ。もちろん実際には年俸60万円の選手は存在しない。しかし年俸120万円の選手はセ・パ両リーグに10人近くいる。昨年から年俸360万円以下の選手が一軍で出場した場合には差額を補填するシステムを採用したが、二軍の選手だけでなくレギュラークラスの働きをする中にも該当する360万円以下の選手がいたのが驚きだ。

「ウチの選手に聞いた話ですがプロ入り1年目は一般のサラリーマンより給料は上だが、二軍に埋もれたままだと3年目で抜かれてしまうそうです」と話す巨人・柴田選手会副会長。巨人選手の年俸は両リーグの頂点にあるが、中には低年俸の選手はいる。今季から一軍の試合に出場するようになったS捕手は入団9年目だが、今年の年俸は260万円(推定)。田淵選手(阪神)の控えだったF捕手は嘗て契約交渉で球団から年俸200万円を提示されたが「自分は女房子供を食わせていかなきゃならない。これじゃとてもじゃないが養っていけない」とタンカを切って任意引退の道を選んだケースもあった。

そんな時、球団フロントのお偉方から出る台詞は決まって「大リーグと違って日本の二軍は入場料金も取れないし本当の意味でプロとは言えない。二軍の選手が低年俸なのは当たり前ですよ」と言う。毎年ドラフト会議が開催されるが上位で指名されてもプロ入りを拒否して社会人野球の道を選ぶ高校生や大学生がいる。一流企業に就職すれば好きな野球をやって55歳の定年まで働いた方が生活は安定するし、まとまった退職金も手にできる。仮に年金受給資格の「10年選手」になっても月額2万4千円が貰えるだけだ。なるほど「孫のオモチャも買えない」というのも頷ける。


経営者任せでは夢も希望もない
選手会は毎年オールスター戦期間中にセ・パ両リーグ会長や経営者側代表4人が出席して開かれる特別委員会で年金の大幅アップを要求し続けてきた。プロ野球年金基金は財団法人日本プロ野球機構が委託者になり東洋信託銀行および三菱信託銀行が管理しているが、約8億円余りがプールされているという。オールスター戦や日本シリーズの収益と選手個人の拠出金で毎年8千万円が積み立てられるが、現在の受給者200人に加え毎年10人近くが受給者に加わる。「このまま経営者側に年金を任せていたら引退後に老後を安心して送れない。選手会を法人化して選手会独自に共済資金を作り不安を一掃しよう」と立ち上がった。

法人化が認可されれば税金は無税になる。選手会は昨年暮れ東京・九段の武道館で「プロ野球・歌の球宴」を文化放送と共催して成功させ、この時に選手たちが得た報酬300万円をプールし選手会の資金とした。言うなれば「歌の球宴」が選手会をパワーアップさせる文字通りの旗揚げ興行となったわけだ。しかし法人化が実現しなければ選手会がいくら資金を稼いでも莫大な税金を課せられることから選手会は顧問弁護士として依頼した下飯坂常世弁護士に相談したところ、法人格獲得の勝算ありとの報告を受けた。そうなればまさに画期的な事となる。7月24日に大阪で開催された特別委員会で正式に法人化申請の件が報告された。


選手会主催でゲームがやれるか?
選手会は将来、枯渇するであろう年金資金補充の為に選手会主催の試合開催を考えている。特別委員会終了後に会見に応じた岡野パ・リーグ会長は「選手会から改めて法人化して共済制度を作りたい旨の提案がありました。我々も異議はないので一緒に研究しようということで一致しましたが、選手会主催の公式戦開催の件は統一契約書に抵触する案件なので却下しました」と述べた。統一契約書第19条の【試合参稼制限】で「選手は本契約期間中、球団以外の如何なる個人、又は団体の為にも野球試合に参稼してはならない」と明記されている。勿論、選手会はそれを承知しているが但書の「コミッショナーが許可した場合はこの限りではない」を拠り所としている。

福島パ・リーグ事務局長は「試合開催は難しいでしょうね。そもそも選手会の法人化は簡単ではない。認可は文部省の管轄で公益社団法人の適格性を持たせなくてはならない。例えば青少年の体育向上とか育成に協力を呼びかけなければ共鳴されないでしょう。選手ら個人の共済制が第一目的では認可されるか疑問です」と法人化の難しさを話す。たとえ法人化が認可されたとしても大リーグの選手会並みにタカ派的にはなれないだろう。選手会の顧問弁護士の下飯坂常世氏は鈴木セ・リーグ会長とは長年付き合いのある温厚なハト派弁護士で、鈴木会長自らが選手会に顧問弁護士就任の推薦をしたのだから機構側に弓を引くとは思えない。



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# 821 青バット

2023年12月06日 | 1977 年 



一直線に弾丸ライナーでスタンドに飛び込むホームラン。片や大きな弧を描いてフェンスを越えるホームラン。青バット・大下弘の打球は天高く舞い上がるモノだった。

最強打者の夢は青バットと共に
日本プロ野球は昭和11年に創設された。そんな昔の事を言われても分からないという若い読者に伝えると、あの「二二六事件」が起きた年だ。それくらいプロ野球の歴史は古い。そのプロ野球の歴史の中で最強の打者を選べと言われたら大いに悩む。打撃の神様・川上哲治を落とすわけにはいかない。またミスタープロ野球・長嶋茂雄も同じく外せない。他にも王貞治や野村克也、中西太など枚挙に暇がない。しかし敢えて私が選ぶとしたら先ず大下弘の名前を最初に挙げる。昭和21・22年に「赤バット・青バット」が流行した。この赤バットと青バットが有名になった経緯はまるで違う。

東京・銀座に南風堂と言う運動具店があった。アイデアマンだった店主が当時、日本中に広がっていた軟式野球を利用してひと儲けすることを思いついた。軟式バットに赤ペンキを塗って売り出したのだ。だが当時はまだテレビはなく、宣伝したくても手段がなかった。そこで店主は川上選手に赤色に塗装したバットを無償提供して試合で使ってもらった。今で言うスポーツ用品メーカーのアドバイザリー契約だ。柴田選手や高田選手がスポーツ用品メーカーのCMに出ているのと同じことを川上選手にお願いした。だから川上選手が使う赤バットには南風堂の刻印が入っていた。

対する大下選手の青バット誕生は川上選手のそれとは性質を異にする。商魂とは別の男のロマンがあった。昭和21年1月に発売され大流行した『リンゴの唄』の歌詞の中にある♪ 黙って見ている青い空 ♪が大好きだった大下選手。「当時、川上さんが赤バットを使っていて、もし私ならこの青い空の青色にしたいと思いました。果てしない青空、男の心はかくありたいと思いましたね」と大下選手は述懐した。占領下の日本ではペンキを入手するのは簡単ではなく、駐留していた米兵専門店のPXに行くしかなかった。川上選手の赤色はペンキをハケで塗装したものだったが、大下選手の青色は吹き付け塗料だった。


ピタリと当てた男
昭和24年8月18日、札幌・円山球場で第1試合は大映対東急、第2試合は巨人対中日の変則ダブルヘッダーが組まれていた。第1試合は8回終了時点で12対2と大映が大量リードし勝敗はほぼ決まっていた。9回表一死、打席に入った大下選手はマウンドの野口正明投手に向かって「打たせろ」と声をかけた。つまり打ちごろな直球を投げろと要求したのだ。さすがに野口投手は拒否してカーブを投じた。それを見透かしたかのように大下選手は引きつけて強振した。打球は青空に吸い込まれるように舞い上がった。その時、球場隣の陸上競技場では第2試合の巨人と中日の選手たちがウォーミングアップをしていた。

「ウオゥ」という球場からの大歓声に気づいた巨人と中日の選手たちが空を見上げると白球が上昇していた。「誰が打ったんだ」との声に「あんな打球を打てるのは大下さんだ」とピタリと言い当てた選手がいた。中日の杉下茂投手だった。なぜ杉下投手は断言できたのか。「簡単ですよ。青空に消えていく打球に見覚えがあったからです。私が明治大学在学中に先輩の大下さんが明大の練習場に来て指導してくれたんです。今ならアマチュア規定に抵触して大問題ですけど。その時に大下さんが打撃練習を見せてくれました。打球は45度の角度で舞い上がり滞空時間は5~6秒あったでしょうか。その時見た打球と同じでしたから」と杉下投手。


頂点52メートルの高射砲ポンちゃん
野口投手から放った打球はグライダーのように右翼スタンドを横切り雑木林を越え小川を飛び越え、なおも飛び続けた。推定飛距離は約150m で大下選手にとって最長飛距離の本塁打となった。大リーグのアストロドーム球場の天井はベーブルースが放った打球を参考にして高さは62m に設計されている。大下選手の打球もそれに匹敵する高さであると推定される。後楽園球場の照明塔は地上41mだから大下選手の打球は照明塔より20m上を行く。今もしも大下選手が現役だったなら " 青バット " のように " 青空打者 " とニックネームをつけられたかもしれない。

大下選手のアダ名 " ポンちゃん " には様々な通説がある。芸者の「ポン太」に惚れ込んだからとか、麻雀をすると必ず「ポン」をするとか。更にはスイングする時、大下選手はバットの先端をグッと下げる癖がある。ある時、バットの先が振り上げた右足に「ポン」と当たったとかいうのもある。だが真説は明治大学在学中に打撃練習で「ポンポン」放つのを見た先輩の河西俊雄や加藤三郎らが「よくもまあ高射砲のように高角度でポンポンと打ち上げるよなぁ。顔はボンボンだが打球はポンポンだ」と驚き、練習が終わると先輩たちは大下選手を「おい、ポン!」と呼ぶようになったなったという。



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# 820 素顔拝見・金城基泰

2023年11月29日 | 1977 年 



涼しい目元をしている、ちょっとしたハンサムボーイ。前期の好成績はやはり新天地に移って、そこの水が彼に合っていたということだろう。優勝の味を知っているからこそ、もう一度と欲が出てくるという。

新チームに来たら今までの事は白紙
聞き手:現在、9勝と順調ですけど好調の原因は?
金 城:やはり精神的なこともありますし、野村監督のリードのお陰もあるでしょうね。要は南海が自分に合っている
    ということですかね。カープにいた頃は甘えもあって体調を言い訳にしていました。

聞き手:20勝は?
金 城:いえいえ、全然考えてないです。一応15勝を目指していますが、先ずは2ケタ勝利。次はあと6勝して15勝です。
聞き手:南海はどうですか?
金 城:雰囲気いいです。やっぱり優勝したいですね。前期は悔しい思いをしたので後期は是非とも勝ちたいです。
聞き手:優勝したら海外旅行のご褒美があるとか
金 城:まぁそれは二の次の話で、やはり勝負事は勝たなくては。2位じゃダメってことです。
聞き手:勝てば給料も上がります(笑)
金 城:自分だけ勝ってもチームの成績が悪かったらたいして上がりませんよ。
聞き手:ところで古巣のカープが最下位に低迷していますが気になりますか?
金 城:やはり気になります。開幕当初はそのうち勝つだろうと楽観視していましたが浮上の気配がなく心配しています。
聞き手:カープの初優勝時は感激した?
金 城:はい。野球を始めて優勝を経験したのがカープの時が初めてでしたから、優勝ってこんなに良いものなのかと。
    やはり勝負事は勝たなければと改めて思いました。


ボクは人間のタイプがまだ決まっていない
聞き手:後期シーズンの見通しをチームの一員としてどう見ていますか?
金 城:とにかく今は負け越していますから1日でも早く勝率5割にする。借金生活が長引けば長引くだけ優勝は遠のくと
    思います。だからオールスター戦後の1ヶ月までが勝負だと思います。

聞き手:プロ野球選手になって良かったと思うことは?
金 城:そうですねぇ、あまりないですかね。悪いことばかりだった気がします(苦笑)。もちろん優勝したり良かった時も
    ありましたけど長続きしないというか、すぐ悪いことが起きた感じがします。悪いことの方が記憶に残りますからね。
    でも後楽園球場で優勝を決めて、広島に戻った時にファンの皆さんが大声援を送ってくれたことは一生忘れません。
    個人的には交通事故に巻き込まれて目を怪我をした時、ファンの皆さんの激励も嬉しかったです。

聞き手:反対に何でこんな商売をと思うことは?
金 城:やっぱりトレードを宣告された時ですかね。割り切っていたつもりでしたけど実際に自分の身に降りかかると
    ショックは大きかったです。何でオレなんだと。

聞き手:自分の性格については?
金 城:自分では分からんですね。色々な要素があってムチャクチャというか、人間のタイプは決まってない気がします。
    まだ子供みたいな面もあるし、よう分からんです(笑)

聞き手:今日はありがとうございました。後期シーズンも頑張って下さい。
金 城:ありがとうございました。頑張ります。


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# 819 島本兄弟

2023年11月22日 | 1977 年 



兄・島本講平(近鉄)から弟・島本啓次郎(法大)へ
自分で言うのも何だが弟の啓次郎とは仲がいい。3歳違いで中学・高校では一緒にプレーしたことはないが、お互いに野球の虫で家では打撃論を夜遅くまで語り合った。弟の性格は明るくてよく喋ってみんなに好かれる。兄弟ケンカはしたことはないが、もしやったら弟には勝てないと思う。それはそうと最近の弟は調子が悪く東京六大学リーグ戦でヒットも少ない。法政大学 " 華の49年組 " の一員らしく江川投手に負けないくらいの活躍を見せて欲しい。大学最後の年だから悔いのないプレーを期待しているが、弟の悪い癖が出て大振りが目立つ。もっとコンパクトに確実性を上げるスイングを心がけるべきだと思う。

弟が大学卒業後も野球を続けたいという気持ちを持っていることは薄々感じているが現状ではドラフトで指名される可能性は低いと思う。もし仮に指名されてプロに進むにしても、社会人でプレーするにしても最後は本人の意思次第で俺も弟の決断を尊重するつもり。近鉄は今、非常に乗っている状態でボクもうかうかしていたら置いてきぼりを食ってしまう。弟の法政大学が春・秋と連続優勝を飾って、近鉄が日本シリーズ優勝とくればいう事ないのだが。お互い精一杯頑張りたい。


弟・島本啓次郎(法大)から兄・島本講平(近鉄)へ
兄貴が満塁ホームランを打ったり、近鉄を首位に踊り上げる活躍を見聞きして誇らしく思っている。とにかく兄貴は何をやらせても抜群なのだ。兄貴がプロに入る前、ボクが勝てるのはせいぜい腕相撲くらいだった。バッティングは勿論、遠投も兄貴には勝てない。そんな野球の技術に関すること以外でも兄貴に勝てないなと思ったのは絶対に弱音を吐かないこと。僕らの母校(箕島高)の猛練習は物凄いのだが兄貴の口からキツイ、苦しいといった言葉を聞いたことはない。負けず嫌いのボクだけどこれだけは無条件に最敬礼する。なのでボクもどんなにキツイ練習でも弱音は吐かないと心に決めている。

思い返せば兄貴が南海時代に「どうして俺を使わないんだ…」と漏らしたことがあった。普段から決して愚痴を言わない兄貴だけど当時はよほど苦しかったんだと思う。今、苦境を乗り越えて大活躍している姿を見て「さすが兄貴だ」と感心している。それに比べて今の自分はピリッとしていないのが口惜しい。江川をはじめ同級生がバリバリ活躍しているのに一時は四番候補と言われながら4年生にもなって打順すら一定しない自分が情けない。プロとアマの違いはあるが共に優勝を目指して頑張りたい。春・秋季リーグを制して4連覇で学生生活を悔いのないモノにしようと頑張っている。



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# 818 河埜兄弟

2023年11月15日 | 1977 年 



兄・和正(巨人)から弟・敬幸(南海)へ
やっぱり弟(敬幸)のことは気になるな。朝起きて新聞に目を通す時、先ずはチームや自分のことを見て次はライバルチームのことではなく弟の記事を探している自分がいる。去年までは一軍にいてもあくまでベンチ要員。スタメンに名前を連ねることはまずなかった。ところが今年は桜井選手の調子が芳しくなく弟に出番が回って来て、九番打者ながら二塁手としてスタメンで出場している。とうとうアイツもここまで来たかと思うと嬉しい。正直言って弟が南海に指名されてプロ入りを決めた時は心配だった。実力一本の世界で男として遣り甲斐はあるが、その厳しさは想像以上だから苦しむのは俺一人でたくさんだという気持ちもあった。

それがどうやら弟も一人前になったようだ。曲がりなりにもレギュラー争いに食い込んでいるし、兄貴として、プロ野球選手の先輩として何も言うことはない。それに引きかえ自分は黒江さんから引き継いだショートのポジションを助っ人のリンド選手に獲られてしまったのだから文字通り " 愚兄賢弟 " で情けないよ。でも実力では負けていない自負があるのでレギュラーを取り戻してみせる。弟はチームが関東へ遠征する時は必ず俺の家に来て食事をする。でもなぜか野球の話はしない。お互いやるしかない状況なので敢えて語らないのだ。いずれオールスター戦の檜舞台を一緒に踏み、共にベストナインに選ばれるという夢は是非とも実現させたいと思っている。


弟・敬幸(南海)から兄・和正(巨人)へ
今でこそ巨人と南海と別々だけど兄貴とは小・中・高校まで全て同じ道を歩いてきた。ポジションも遊撃と同じ、体つきまでそっくりだからプロ野球の世界で先ず僕が目標としているのが河埜和正選手だ。今年はリンド選手が加入して兄貴はスタメンから外れているけど、昨年はほぼ全試合出場している。だから兄貴に追いつき追い越せば南海でもレギュラーになれると思っている。今、南海は大事な時期にきている。7連勝と開幕ダッシュに成功したが直近の近鉄、阪急戦でモタついて首位の座を明け渡してしまった。このまま終わるのか、巻き返すのか前期優勝の山場にいるのだが、そんな時に試合に出てチームの勝利に貢献できない自分が情けない。

今シーズンは同じポジションの定岡さんが好調なので現在は " 一軍半 " といった感じ。5月1日の近鉄戦で不調の桜井さんに代わってスタメンに起用された。こうした少ないチャンスを活かすことがレギュラーへの道だと思っている。とにかく試合に出たくてウズウズしている。ただ最近になって野村監督の口癖の「試合に出られなくても勉強することは山ほどある」が分かってきた。相手投手のクセや配球の傾向などベンチから観察するだけでも自分やチームの為になる。以前は当然の代打起用に相手投手のことなど考える余裕もなかったが、最近は狙い球を絞って打席に入るようになった。与えられたチャンスをモノにするだけです。



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# 817 定岡兄弟

2023年11月08日 | 1977 年 



賢兄愚弟とか賢弟愚兄などいろいろ言われますが、野球の世界にもブラザー選手が何組かいる。ここに紹介する定岡・河埜・島本兄弟はファンにはつとに有名だが、3組とも幸いにも " 賢兄賢弟 " なのが楽しい。その羨ましい兄弟愛の言葉を聞いてみた。

兄・智秋(南海)から弟・正二(巨人)へ
今年の正月に弟(正二)に会い、「俺はレギュラー、お前は一軍入りを果たそう」と約束したが弟はキャンプ・オープン戦までは健闘したものの開幕一軍入りは成らず、自分のことのように悔しい思いをした。でも先日、弟が二軍で3勝目をあげて約束した一軍昇格を5月に果たした時は嬉しかった。弟はプロ3年目、自分は6年目。投手と野手との違いはあるが野球に対する思いは同じだと思う。自分は昨シーズンまでは若さに任せてプレーして失敗したりもしたが今は「こうすれば良い結果が出るのでは」と考えに余裕が出てきた。ひとつの失敗をくよくよ後悔していては次に同じような場面で消極的なプレーをして失敗を繰り返すのがオチだ。

一言で言えば失敗を恐れては何も出来ないということだ。弟にもそうした失敗を恐れない、思い切りのいいピッチングをして欲しい。一時は根気を無くして腐っているのではと心配していたが、晴れの一軍入りでそれが取り越し苦労だったと分かってホッとしている。思い返すと自分はプロ入り4年目から一軍に上がったのだから3年目に昇格した弟の方が優秀というわけだ。そんな幸運を絶対に離さないよう思い切って投げて欲しい。周りは弟のことを「お坊ちゃん」と言うが、あれで弟は人一倍負けん気が強いので活躍してくれるだろう。両親や親戚が望んでいる日本シリーズの舞台で兄弟が顔を合わせることも夢ではない気がしてきた。


弟・正二(巨人)から兄・智秋(南海)へ
兄貴とボク。はっきり言ってこのことを聞かれるのは好きではない。高校(鹿児島実業)時代からボクは絶えず兄貴と比較されてきた。高校に入学した時には兄貴は入れ違いで卒業していたが、いつも「お兄さんはこうだった、ああだった」という話ばかり聞かされて耳にタコが出来る状況だった。それはプロ入りしても同じ。取材でも必ず兄貴のことを聞かれる。おそらく兄貴も同じで " 定岡の兄" としてばかり注目され迷惑であったに違いない。しかし野球を離れればボクは兄貴を頼りにしている。正月に帰省する時は大阪の兄貴のところに必ず寄るし、普段から連絡を絶やさず近況を報告している。

今年はキャンプで一軍に上げてもらい一昨年から一軍で頑張っている兄貴に追いつけるかもしれないと淡い期待もあったが、オープン戦で結果を出せず開幕はまたも二軍スタート。「やっぱりダメか…」と諦めかけたが兄貴の激励を思い出し腐らず投げていたら一軍入りの朗報が届いた。今、兄貴との約束が果たせたその喜びでボクの胸はワクワクしている。打撃ベストテンに堂々と名前を連ねる兄貴を追いかける態勢が遅ればせながら整ってきた。とにかく1日でも早く1勝して「とうとうオレもやったぜ!」と報告したい。いつの日かオールスター戦でボクが投げ、兄貴が打つというシーンが実現できたら最高です。



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# 816 記録の意外史:中島治康

2023年11月01日 | 1977 年 



史上初の三冠王
野村克也選手(南海)の三冠王が確実視されるようになった昭和40年9月30日、プロ野球実行委員会は「昭和13年の中島治康選手(巨人)が初の三冠王である」と公式発表をした。昭和13年といえば職業野球が誕生して3年目で記録に関する関心も薄く、中島選手が打率・本塁打・打点の3部門でトップに立っても少しも話題にされなかった。それが30年たってやっと見直されたわけである。当時は春季と秋季は独立して記録はシーズン毎にリセットされた。春は打率のみトップだったが、秋は打率・本塁打・打点を制した。

10月10日までは打率 .288 ・本塁打2と平凡だったが、11日から22日にかけての5試合連続本塁打で一気にトップになり、その後の23日と25日の試合で5打数4安打の固め打ちで打率を上げて三冠王を確実にした。ちなみに5試合連続本塁打も当時は見逃され昭和40年になって発掘された。秋季40試合で10本塁打は少ないように感じるが当時リーグ全体で109本塁打で割合では1割弱を占め、現在に換算すると100本を超える大変な本数だ。また春・秋季を通算しても3部門ともトップだった。


二度も助けた大記録
中島選手は強肩外野手でもあった。巨人の中尾輝三投手は二度ノーヒットノーランを達成しているが、二度とも中島選手の強肩に助けられている。中尾投手は昭和14年11月4日のセネターズ戦の4回、四球で走者を出し野口二郎選手にライト前にポトリと落ちる飛球を打たれたが、中島選手が二塁へ矢のような送球で一塁走者を封殺し安打にならなかった。昭和16年7月16日の名古屋戦でも同じようにライト前への打球を二塁で走者を封殺して中尾投手の二度のノーヒットノーラン達成の陰の立役者になっている。

その強肩ぶりは戦後になっても衰えなかった。昭和21年、中島選手が外野を守ったのは僅か54試合だったが飛球を捕球した後、タッチアップして進塁しようとした走者を刺して併殺にしたのが9回もあった。セ・パ分裂後、外野手の最多併殺記録はセ・リーグは8回(3選手)、パ・リーグは7回(2選手)であり、しかも5人全員が100試合以上の守備機会なので54試合で9併殺という記録が如何に驚異的な数字かが分かる。


骨折で定位置すべる
強肩ぶりは年齢を重ねても変わらなくても、打撃の方は往年の力には程遠かった終戦直後の中島選手が男をあげたのは昭和23年シーズンの半ば。前年に初めて5位に転落した巨人軍はこの年も開幕から振るわず、6月12日の時点で勝率は4割前後をウロウロして5位に低迷していた。すると三原監督はショック療法として翌13日の試合から三番打者の千葉選手を一番打者に据え、ベンチの控え要員だった中島選手を六番に起用する新打線を組んだ。

このカンフル剤が見事に効いた。巨人は7月17日までの21試合を15勝と勝ちまくった。この期間中、打率 .269 をマークした中島選手は川上選手が欠場した7月18日にはチームは負けはしたが四番打者を務めるほどの活躍を見せた。ところがその試合の9回裏の攻撃中に走者として三塁ベースを回った時に足首を骨折したしまい、久々のレギュラー生活は終止符を打った。



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# 815 記録の意外史:千葉茂

2023年10月25日 | 1977 年 



新人離れしたデビュー
昭和13年5月1日、甲子園球場での阪急対巨人戦は巨人軍の歴史にとって画期的な試合であった。次代の巨人軍を背負う2人の新人がデビューしたのだ。六番・一塁手としてスタメン登場した熊本工・川上哲治選手と9回表に代打起用された松山商・千葉茂選手である。川上選手は2打席凡退で退き、千葉選手は四球だった。千葉選手はボール球には手を出さず、際どい球はファールするなど新人らしからぬ粘りを見せた。好球必打を身上とする千葉選手は四死球が多かった。年間100四死球というのは現在では敬遠四球が多い王選手が14シーズンも記録しているが、当時は誰もおらずプロ野球史上初めて記録したのが昭和25年の千葉選手だった。

昭和25年から同27年にかけて3年連続でセ・リーグの四死球王で、通算919四死球は史上9位。通算出塁率は王選手・張本選手・榎本選手に次ぐ3割8分5厘で同期の川上選手と肩を並べる第4位である(5000打席以上)。また数字では現れない面でも千葉選手はチームに貢献していた。昭和24年4月29日の試合で千葉選手は3打数0安打・1四球だったが四度の打席で千葉選手が相手の三富投手に27球を投げさせた。この日の三富投手が巨人打線に投じた球数は36打者に142球。1打者に平均3.9球だったが千葉選手には6.8球を要した。四球で出塁した第2打席は実に9球も投げさせた。


右翼打ちの職人芸
もうひとつの特徴は典型的な右翼打ちだったこと。通算96本塁打のうち81本が右翼席に打ち込んだものだった(1本は右中間のランニングホームラン)。特に昭和25年9月9日から同29年までの39本はいずれも右翼席への本塁打という他者には決して真似できない職人芸の持ち主だった。通算1512試合出場で打率も2割8分4厘だがタイトルとは無縁だった。昭和24年の千葉選手はリードオフマンとして打率3割7厘をマークし巨人の優勝に貢献し、自身初の最高殊勲選手賞は間違いないと評されていた。ところが記者による投票で選出されたのは千葉選手ではなかった。

・藤村富美男(阪神):142点
・千葉 茂 (巨人):129点
・藤本英雄 (巨人):112点
・川上哲治 (巨人): 57点

千葉選手は次点で、なんと最下位阪神の藤村選手に栄冠をさらわれてしまったのだ。この年の藤村選手が46本塁打という新記録を樹立したこともあるが、つくずく運に見放された千葉選手だった。昭和31年に現役を引退し、巨人の二軍コーチを経て昭和34年に近鉄の監督に就任した。それを記念して行われた巨人対西鉄の " 激励試合 " が日本における引退試合の第1号である。



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# 814 記録の意外史:森昌彦

2023年10月18日 | 1977 年 



長かった正捕手への道
プロ野球史上、捕手として最多出場の野村監督に次ぐ2位は森昌彦選手だ。昭和30年に岐阜高から巨人に入団した。当時の正捕手は日系2世の広田選手、控えは藤尾選手や棟居選手らがいて森選手が正捕手になるのに4年の歳月を要した。シーズン閉幕間近の10月8日に代打に起用されるも中飛に倒れ、1年目はこれで終わった。プロ初安打は翌31年7月29日の広島戦で、通算12打席目のこと。だが2年目もこの1安打きりで初スタメンに起用されたのは昭和32年7月17日の広島戦だった。

この試合で森選手は3打数2安打と活躍し、翌日の試合でも4打数2安打と気を吐いたが正捕手への道はまだ開けていなかった。やっと捕手陣で最多出場となったのが昭和34年。それ以来、昭和48年まで15年間も巨人の頭脳として正捕手の座を守った。日本シリーズにも昭和40年の第1戦から昭和48年の第3戦までの47試合連続してスタメンマスクを被った。つまり昭和40年からの九連覇は森選手の存在なしでは有り得なかったわけだ。


20年でたった29盗塁
捕手は鈍足というイメージ通り20年で僅か29盗塁。そんな森選手にも走塁で注目を集めたプレーがあった。昭和34年7月7日の広島戦で森選手が放った左中間の打球を追っていた横溝選手が転倒し打球の処理にまごついている間にランニングホームランに。昭和45年のロッテとの日本シリーズ第5戦で左翼線付近にフラフラと舞い上がった打球を追ったアルトマン選手と飯塚選手がお見合いをしている間に三塁打に。またこの年の日本シリーズで森選手は盗塁を三度試み全て成功させた。これは日本シリーズにおける捕手として盗塁最多記録である。ロッテにはまさか森選手は走らないだろうという油断があったのだろう。

効果絶大だった本塁打
通算本塁打数は81本だが、そのうちサヨナラ本塁打が3本もある。昨年まで716本塁打の王選手でもサヨナラ本塁打は7本だから比率からいうと森選手の方がかなり多いことになる。昭和41年9月26日の中日戦では巨人は9回裏二死まで佐藤投手に無安打に抑えられていたが柴田選手が初安打を放ちノーヒットノーランの屈辱は免れ、続く王選手は当然のこと敬遠。ここで森選手の逆転サヨナラ3ランが飛び出し勝利した。それから12日後の10月8日の阪神戦では0対0で迎えた9回裏に右翼席にまたもサヨナラ本塁打を放った。

3本目は昭和43年6月2日の阪神戦。5対5の9回裏に飛び出した。3本のサヨナラ本塁打に代表されるように効果絶大な一発が多かったのが森選手の特徴だ。20年間の現役生活で本塁打を放った77試合(1試合2本塁打が4試合あった)の巨人の戦績は65勝11敗1分けで勝率は8割5分5厘。特に昭和43年の第9号から昭和48年にかけての22本塁打は全て勝ち試合に結びついており、森選手の一発は巨人の勝利に大いに貢献するものであった。



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# 813 巨人ファンとアンチ巨人 ②

2023年10月11日 | 1977 年 



3連敗で阪神優勝が確定した。巨人の奇策は奈落の底への兆し。常道阪神に悠々たる余裕。

許してはならぬ巨人が流した罪悪
セ・リーグ前半戦の天王山といわれた甲子園球場での阪神対巨人戦で阪神は3連敗を喫した。阪神ファンにとっては悔しい思いの敗北ばかりだった。大リーグのような球団お抱えのアナウンサーではないのに何故か巨人の好機のみ1オクターブ高い声を張り上げるテレビ・ラジオのアナウンサー。巨人を褒め上げるだけでよい評論家たちは口を揃えて巨人のV2街道邁進ぶりを讃え、巨人系列のスポーツ紙は日本一になったかのような慶賀紙面に飾り立てた。だが私(伴野朗)は違う。決して野球の専門家ではないし諸氏の前に誇れる球歴もない一介のファンに過ぎないが平均的な常識を持った健全な一社会人だと自負している。

私は前々から巨人の横暴を決して許してはならないと考えている人間である。古くは南海・別所投手の引き抜き、国鉄・金田投手の移籍、更に立教大・長嶋選手を南海から横取りした一件。などなど、書いているだけで気分が悪くなる。各球団はおろかテレビ解説陣やスポーツ紙にOBや関係者を配した謀略、何故か巨人に甘い審判団、巨人の全てをバックアップする系列マスコミ勢。巨人がプロ野球界に流してきた罪悪は枚挙に暇がないほどだ。「巨人軍は覇者であらねばならない」という何の根拠もない筋の通らない命題の為にドラフト制実施前の強引きわまりない引き抜き、自分さえ良ければという身勝手さ。巨人の強さは作られた強さである。

巨人系列のマスコミは選手を必要以上に煽て上げる。碌に実績のない新人や移籍選手も例外ではない。エラーをしても敗戦投手になっても巨人系列のマスコミは責めない。乱打されて降板しても「堀内3回で沈む」で済ます。御用マスコミは巨人の強さの虚像を作り上げた。巨人OBの指導下にある他チームはこの虚像に怯え意識過剰の独り相撲を取り自滅し巨人に名を差占める。V9時代の川上巨人はこのように成長したと言ってよいだろう。先日の対阪神3連戦の巨人の強さは見事であった。私もそれは認めよう。では何故その3連戦に巨人の凋落の第一歩を見たのか説明しよう。


お調子野球
今シーズンの巨人の強さは「お調子野球」の強さである。言葉を換えれば「小手先野球」「誤魔化し野球」と言っていい。長嶋監督のお調子がつきについている感じである。先ず初戦の9回表二死後の代走・松本選手の二盗である。御用マスコミは長嶋監督の勝負度胸ともてはやしたが結果論でモノを論じるのはいかがなものか。そして次戦の小林投手の先発起用である。阪神の走塁ミスに助けられて完投したが、対阪神戦に実績のない投手起用に問題はなかったか。野球は確率の競技であり松本選手の盗塁や小林投手の起用は奇策と言える。当たれば戦果が一段と派手に見え、大向こうからの喝采も期待できるが奇策は奇策に過ぎない。

そしてツキはあくまでもツキであり、いつかは落ちる。いや、もう落ちかけている。その時の反動が怖いのである。確かに孫氏は「兵法とは詭道なり」と言った。つまり敵の意表を突くことである。だが間違っては困る。詭道とはしっかりした戦力、つまり常道に裏付けられてこそはじめて詭道となることを。野球における常道とは何か。投手陣である。今の巨人は決して投手力によって戦い、勝っているチーム状況ではない。必ずしっぺ返しが来る。かつて日本軍は劣勢な戦力を補うため対米開戦に真珠湾攻撃という奇襲をかけたが、この奇策の帳尻はすぐさま多大な負債となって帰ってきた事実を考えればよかろう。


3連敗の阪神に一味の違いを見た
私は学生時代にラグビーをやった。ラグビーは意外性はあまりないスポーツだ。実力のあるチームが99%勝つ。正月の日本選手権で早稲田大学は強力な新日鉄釜石のフォワード陣の前に蹂躙された。近年、早稲田大学は小手先のラグビーに走り過ぎているのではと危惧していた。ラグビーの常道はフォワード戦である。華麗なスリークォーターの攻撃は見ていて派手で気持ちが良い。だがフォワードがボールを奪うことこそラグビーの常道であり王道なのだ。賢明な早稲田大学関係者は今回の敗北で改めてフォワード戦の重要性を痛感したことだろう。

3連敗した阪神の優勝を確信した理由がここにある。吉田監督は初戦を落とし次戦も失っても尚且つ常道に徹したところに今年の阪神の余裕を感じた。ムードメーカーの掛布選手を欠き、3戦目にはラインバック選手が退いた。3試合全てあと一歩の詰めを欠いて敗れた。だが注目される阪神巨人戦とはいえまだ序盤戦である。ここで目先の勝利の為に小手先の奇策を弄するようでは今年の阪神に見込みはないと思っていたが、阪神ベンチは最後までチームが持つ常道の戦いに自信を持っているように感じた。3連敗の中に一味違う阪神を見たのだ。「まだ三度戦っただけやおまへんか。巨人さん入れ込んでましたなぁ」と吉田監督の独り言が聞こえてくるようである。



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# 812 巨人ファンとアンチ巨人 ①

2023年10月04日 | 1977 年 

今シーズン初の伝統の一戦は巨人の3連勝で終わった。同じ3連戦を見た巨人ファンとアンチ巨人ファンでは見方が全く違うのが興味深い


長嶋巨人は10度優勝する。勝負に賭ける大胆さ、冴えわたる長嶋采配に無敵の強さを見た。

共演者・藤村富美男さんに悪いけど
テレビドラマ「必殺仕置人」で共演している元阪神監督・藤村富美男さんに招待されて甲子園球場で熱戦を見ることができた。藤村さんには申し訳ないが、わたくし山崎努は根っからの巨人ファンである。その巨人がいかにも巨人らしさを発揮し、ここ一番の強さを十二分に堪能させてもらった。小生は小学生の頃から後楽園球場の一塁側ベンチの横で黄色い声援を送っていた。その当時の巨人軍は青田に川上や千葉といった猛者連中が目白押しに並んでいて現在の長嶋巨人とはいささか趣を異にしていた。だが長嶋巨人の魅力もまた格別で今回の対阪神戦でも随所にその " らしさ " が発揮されていた。

阪神に1点のリードを許した9回表二死から土井選手が出塁すると代走の松本選手が二盗し、代打の山本功選手の適時打で同点に追いつき延長10回表に勝ち越して勝利するなど一発だけじゃない機動力を生かした攻撃は見ているファンを興奮させるのに充分である。2戦目は細腕の小林投手を辛抱強く使って粘り勝つ。まこと長嶋采配は2年目に入ってますます冴えわたる。今の巨人軍は機動力が溢れ試合巧者で、その差が阪神を圧倒している。200発打線と称される阪神は打っている時は豪快だが、いったん鳴りを潜めると何と他愛のない負け方をすることか。長嶋巨人は大技、小技ともに多様でそこが阪神と違うところなのである。

ところが長嶋監督の持つ、ここぞという時の大胆不敵な采配を " 勘ピューター " だとか " ヒラメキ野球 " だと揶揄し、場当たり的で長続きしないと批判する声も少なくない。さる野球界の元老いわく「長嶋くんはチームの指揮者となってまだ3年目。1年目は最下位、2年目は優勝。今は勢いに乗っているがやがて長嶋くんも本当の勝負の怖さが分かってくる時が来る。そして長嶋野球も行き詰まって否応なく野球のスタイルを変えざるを得なくなるだろう」と否定的だ。だが長嶋監督の思考は天性のものであり、余人には真似できず理解するのは難しいだけなのだ。


奔放さを失わず55歳まで長嶋監督
誰かに聞かれたのだが長嶋巨人は今後何度優勝するのかと。長嶋監督は小生と同年代の41歳。恐らく長嶋監督は川上監督の14年間に近いくらいの年数は監督を続けるのではないだろうか。その頃は御年55歳。九連覇した川上監督が引退した長嶋選手に監督の座を禅譲した年齢と同じだ。あと15年ほど、小生は3年間に二度くらいの割合で優勝すると考えている。つまり長嶋巨人は今シーズンを含めて10回優勝すると確信している。長嶋巨人は敵地でも強いが後楽園に帰ると『之繞を掛ける』ごとく強さが増す。それが堪らなく嬉しい小生である。現在の長嶋巨人に不満はない。不満はないが注文はある。いつまでもV9戦士に頼っていてはダメだ。

ペナントレースは130試合のロングラン。永遠のライバル阪神の巻き返しは当然ながら当然である。だが巨人の堅城を揺るがすところまでは無理だろう。と言うよりは一も二もなく長嶋巨人が強いことに間違いない。小生が巨人軍に望み、ひたすら祈ることは永遠に今の奔放さを失わないこと。それと王選手がまかり間違っても怪我などをしないことである。タイガースOB・藤村富美男さんには申し訳ないが、「勝ったゾ!ジャイアンツ!!」と溜飲が下がる思いで意気揚々と甲子園球場を後にした小生であった。



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# 811 通算200勝

2023年09月27日 | 1977 年 



4月2日の開幕戦で鈴木啓示投手(近鉄)はロッテを完封し開幕戦通算6勝目となり、別所毅彦氏(南海・巨人)の日本記録に肩を並べた。この勝利で通算198勝となり待望の200勝が目前となった。

スピード第1号スタルヒンの快挙
ひと口に200勝といっても20勝を10年積み重ねて達成できる記録。30勝、40勝が出現した一昔前ならいざ知らず、時には20勝投手がいないシーズンも珍しくない現代では200勝への道はますます遠くなってきた。プロ野球へやって来た投手の数は約2000人と推定される。そのうち100勝に到達したのは昨年現在68人。200勝となると14人というから約150人に1人しか実現できない記録だ。200勝投手の第1号はビクトル・スタルヒン投手。1㍍90㌢の長身から投げ下ろす直球は威力満点で昭和12年は春夏合計28勝、翌13年は33勝。これだけでも驚くべき記録だが14年は42勝だ。15年も38勝したので僅か4年間で141勝した不世出の大投手だった。

その後は胸を病んだりしてペースは落ちたが戦時中最後のシーズンとなった昭和19年は7試合に登板し、オール完投の6勝1分けで通算199勝。戦後の昭和22年10月20日、この年唯一の勝利で200勝を達成した。ただし今ほど記録に関心がなく球界初の200勝投手誕生に世間の反応は薄かった。加えて200勝達成までに要した試合数「313」は未だに破られないスピード記録である。稲尾投手(西鉄)は3年連続30勝やスタルヒン投手に並ぶシーズン42勝を昭和36年に記録するなど入団7年目に200勝を達成したが試合数は「436」でスタルヒン投手には及ばなかった。ちなみに200勝達成に要した試合数最多は「671」の皆川睦夫投手(南海)である。


完投勝利が多い価値ある200勝
昭和41年5月4日の東京対近鉄戦(東京球場)で東京が初回裏に2点、2回裏に1点を得点すると近鉄は早くも投手交代しルーキー鈴木啓投手を起用した。鈴木啓投手は3回・4回は無難に抑えたが5回裏走者2人を置いて森選手に左中間本塁打を打たれKOされると二軍に落とされたが5月8日のウエスタンリーグトーナメント大会の阪急戦に先発した鈴木啓投手は3安打完封。翌9日の中日との決勝戦で8回から登板し無安打・3奪三振と好投し最優秀選手に選ばれると早々に一軍復帰を果たし、5月17日の東映戦で3回二死から山本重投手を救援し9回まで1失点で投げ切った。

5月24日の東映戦(後楽園球場)で近鉄は4回まで0対5と劣勢だったが5回表に一挙6点をあげて逆転するとその裏から鈴木啓投手が登板し、東映打線を西園寺選手に許した左前安打1本に封じて最後まで投げてプロ三度目の登板で初勝利を記録した。「ブルペンでは球の走りが悪く本当は不安だった。勝てたのは全てリードしてくれた吉沢さんのお陰です(鈴木)」というのがプロ初勝利の弁。6試合目の登板となった6月3日の南海戦で先発し完封勝利で2勝目。こうして7月13日までに5勝した鈴木啓投手は高卒新人ながら監督推薦でオールスター戦出場の快挙を達成した。

結局、1年目は10勝12敗と負け越し。しかし2年目の昭和42年から5年連続で20勝投手に。だが昭和47年に14勝に終わると翌年から11勝・12勝と低迷が続き、直球主体の力勝負の投球スタイルに限界が見え始めた。これを契機に技巧派への転向に成功し昭和50年に22勝6敗と4年ぶりに20勝投手に復活した。また鈴木啓投手は完投勝利が多いのも特徴である。198勝のうち完投勝利が159勝。先発して他の投手の助けを借りて勝利したのは11勝しかない(あとの28勝は救援勝利)。それも最低でも6イニングは投げており、責任投球回数の5イニングで降板して勝利投手になったことは1回もない。


同期堀内とのレースにも完勝
鈴木啓投手は昭和40年11月17日に実施された第1回ドラフト会議で近鉄に指名され兵庫の育英高からプロ入りした。同期入団で投手は28人。そのうち今もプロのマウンドで投げ続けているのは鈴木啓投手を含めて白石静生投手(広島➡阪急)、堀内恒夫投手(巨人)の僅か3人(水谷実雄選手はプロ入り後に打者に転向した)だけ。1年目は堀内投手が開幕6試合目の4月14日の中日戦に先発し勝利するなど13連勝を含む16勝2敗で文句なしの新人王に輝いた。一方のパ・リーグは鈴木啓投手は10勝したものの新人王は該当者なしと見送られるなど1年目のライバル対決は堀内投手に軍配が上がった。

しかし翌年に21勝した鈴木啓投手に対し堀内投手は12勝で立場は逆転し、そのまま鈴木啓投手が5年連続で20勝投手になった。堀内投手が20勝投手になったのはプロ7年目で両者の差は広がり、通算勝利数も鈴木啓投手の方が25勝リードしている。堀内投手が200勝に到達するのは来年以降に持ち越されそうだ。この両者に続く200勝候補は成田投手(ロッテ)166勝、江夏投手(南海)165勝、平松投手(大洋)134勝あたりである。しかしこの3人は今季ともに開幕前から故障がちで安定感を欠いている。彼らが栄光の記録に到達するのはだいぶ先のことになりそうだ。



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# 810 週間リポート 大洋ホエールズ

2023年09月20日 | 1977 年 



恐怖の野球規則 8.04
大洋投手陣内で今、 " 20秒の恐怖 " なるものが広まっている。野球規則八・〇四 (塁に走者がいないとき、投手は球を受けた後20秒以内に打者に投球しなければならない。投手がこの規則に違反して試合を長引かせた場合には球審はボールを宣告する) を徹底化することになり、ルールを厳しく適用するとなった。「僕はキャッチャーから球を受けたらすぐにサインを見て投げるから影響はないね」という平松投手をはじめ、杉山・根本投手らは平然としているが、「周りから間合いが長いと言われる。でも20秒以内だと思うけど…」と間柴投手は不安げだ。

20秒といえばタバコを二・三服ふかせば経ってしまう。一般的な投球動作の時間はマウンドを足でならすと5秒、サイン交換は3秒、帽子を被り直したりズボンを上げたりで7秒、ロージンを手にすると5秒と意外と時間を消費する。「スコアボードに大時計でも設置してもらってそれを見ながら投げたい心境だよ」と間柴投手。だが一方で「な~にマウンドでいらない事を考える時間なくなって逆にプラスだよ」とか「マシ(間柴)のペースが狂う前に打者の方のテンポが狂って苦労するよ」など気にし過ぎを指摘する声も少なくない。


夜霧よ今夜も有難う
6月26日、仙台宮城球場での大洋対阪神のダブルヘッダーの第2試合で珍事が起きた。1対3と阪神がリードした大洋の攻撃中に霧が出て試合は中断した。6分後に試合は再開したが再びの濃霧でまたも中断。仙台管区気象台によると2~3時間は晴れそうもないという見解だった。規定では気象状況で中断した場合は30分様子を見て試合中止か中断を継続するか判断すると記されている為、30分が経過したところで大洋の近藤コーチが外野へノックして線審に中止するべきかどうか判断を仰いだ。鈴木審判員は「思ったよりひどい。自分の方向に飛んで来た打球は見えるが反対方向は見えない」と中断を続行した。

30分後、霧もだいぶ晴れてまた近藤コーチがノックをし、審判団は試合再開を決めた。結局1時間5分後に阪神ナインが守備に就き試合は再開した。ところが江本投手が投げる前にレフトの川藤選手が「見えない」とアピールし、吉田監督は「選手が見えないと言っている以上ゲームは出来ない」と抗議している間に再び霧が出始めて1時間18分の中断の末に試合は阪神リードのままコールドゲームとなった。収まらないのは別当監督で「審判団が出来ると判断して再開したのだから阪神側の抗議はおかしい」と不満気だった。阪神打線を3安打に抑えながら藤田選手の3ラン一発で負けた平松投手もガックリ。まさに夜霧に感謝感謝の阪神だった。


細い目が何ともいえないワ
このほど首都圏の国電・地下鉄・私鉄のワイド版車内広告にオバQが登場した。親会社の大洋漁業が新発売する鰹の缶詰「シーエース」のポスターに田代選手を起用した。大洋漁業の製品ポスターに大洋の選手が起用されるのは今回が初めてで「俺の顔で大丈夫ですかね」と田代選手は心配顔。だが本人の心配をよそに大好評なのだ。「田代さんって親しみやすい顔をしているワ。特にあの細い目が可愛い」と女学生の間では大変な人気なのだそうだ。

今年から大洋ナインは自身のヘルメットに本塁打の数だけシールを付けている。田代選手を売り出す為の「ホームランスターキャンペーン」の一環である。このシールが子供たちの間で大変な人気をよんでいる。そこで球団は封筒に返信用50円切手を入れ大洋漁業のシーエース係に郵送するとシール10個が必ず貰えるようにした。さらに抽選で200名に子供用ヘルメットが当たり、2000名にキーホルダーがプレゼントされるという。ファンにとっては堪らないキャンペーンを実施中だ。



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# 809 週間リポート ヤクルトスワローズ

2023年09月13日 | 1977 年 



喜んでばかりはいられません
6月4日から15日まで1分けを挟んで球団記録タイの9連勝を記録したヤクルト。だが好事魔多しの格言通り、サッシーこと酒井投手とエース・松岡投手が揃って二軍落ちとなった。10年ぶりの9連勝となった阪神戦に先発した松岡投手は初回一死一・二塁の場面でラインバック選手に3球目を投げたところで左腹部に痛みが出て僅か21球で緊急降板。試合は勝利したもののチームに暗雲が漂い始めた。翌日になっても痛みは引かず病院で診察を受けると胸部挫傷で全治10日と診断された。今季は決して好調とはいえない成績の松岡投手だが、何といっても投手陣のエースで戦線離脱はチームに与える影響は大きい。

5月1日の巨人戦で左太腿の肉離れを発症した酒井投手の予後も芳しくない。2人の故障にチームの貯金はまだ「5」あるじゃないかと周囲は強気だが「勢い・ムードに乗って勝ってきたチームだけに予期せぬアクシデントは怖い」と広岡監督の表情は厳しい。6試合で0勝2敗・防御率 6.63 の酒井投手はまだしも松岡投手の不在は首位躍進を狙うチームには痛手である。しかも序盤戦で5連勝と好調だった会田投手が最近は勝ち星に見放されてリリーフ役に配置転換されている。首位巨人を追撃するには投手陣では安田投手、鈴木投手、梶間投手の踏ん張りと打撃陣では両助っ人の爆発が不可欠である。


演技過剰だとこうなります
首位巨人にゲーム差「3」まで追い上げての対巨人12回戦を前に「先発はオレだ」と吹聴していた安田投手。雨で3連戦のうち2試合が中止となり是が非でも勝ちたいヤクルトとしては中4日で休養充分の梶間投手が先発だと誰もが思っており、前述の発言は安田投手の三味線だと報道陣には本気にされず試合前の練習時から緊張気味の梶間投手の登板が固いと思われた。巨人も先発は梶間投手と予想して相性の良い柴田選手を五番打者に起用した。ところがイザ、蓋を開けるとマウンドには梶間投手ではなく安田投手が上がったのである。安田投手としてはしてやったり。まんまと裏をかいた会心の演技だった。

ところが良かったのはそこまで。調子に乗ったのか本来技巧派の安田投手が「打たれた球はみんな直球(安田)」と5回途中でKOされ降板の憂き目に。「安田は単調すぎた」と広岡監督も渋い顔。「ヤクルトが2位にいる間はウチは安泰だ」と巨人の某コーチが発言したようにヤクルトが巨人の栄養剤になっていることを安田投手も知っている。だからこそ周囲に先発は自分しかない、と演技したわけだが上手くいかなかった。過剰な演技はいらぬところで神経を使い本来の投球を忘れる結果に。安田くん、自然体が一番です。


とにかくいろいろあったなぁ
首位巨人に大差をつけられているとはいえ前半戦をAクラスで折り返したヤクルト。そこでヤクルト担当記者が選んだ前半戦10大ニュースを紹介しよう。❶Aクラス:9年ぶりの9連勝もあり貯金3(7月20日現在)での折り返しは球団初。❷観客増:100万人の大台にあと一息の98万5500人。昨年同時期の72万8000人を大きく上回るリーグ2位。❸サッシー人気:予告先発三度、郷里長崎でのお披露目も結果を出せず二軍落ちとなったが、サッシー人気のお陰で「契約金(推定3000万円)は軽く取り戻したでしょう(某スカウト)」と球団はウハウハ。➍外人管理:不振のロジャー、マニエル両助っ人をベンチに下げた広岡監督の起用法が評価された。

❺故障者相次ぐ:松岡・若松・大矢・安田など主力がバタバタ離脱。右手首骨折の大矢以外は戻って来たが「皆が元気だったら今頃…」と広岡監督が悔やむのも頷ける。❻若手の活躍:梶間投手は新人王へまっしぐら。➐巨人コンプレックス:目下3勝12敗と巨人に勝てない。二軍も3勝7敗と兄弟そろって巨人が苦手?➑門限破り:大阪遠征中に宿舎を抜け出し麻雀をしていた槌田・中村・松村・上水流選手は即刻二軍降格。➒球宴初選出:若松選手が張本選手(巨人)を抜きファン投票初選出。「六度目の出場だが今年が一番うれしい(若松)」➓セ・リーグで初出場:大杉選手が監督推薦で通算7回目の球宴出場。セ・リーグ移籍3年目で初。


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# 808 週間リポート 中日ドラゴンズ

2023年09月06日 | 1977 年 



後楽園17連敗は監督の責任?
人工芝の後楽園球場でまたしても負けた。昨シーズンから勝ち星ゼロの17連敗。しかも負けたのがエース・星野投手とあってショックは大きい。「連敗ストッパー役はオレだ!今度こそ勝つ。負けたら名古屋に帰れん」と背水の陣で19日の対巨人9回戦のマウンドに上がった星野投手だったが2回裏に滅多打ちされ7失点降板。投球数はたったの45球。青ざめた顔はKOされたボクサーそのものだった。1週間前の甲子園球場で阪神相手に4安打完封した同じ投手とは思えなかった。気持ちばかり独り歩きし肝心の球のキレを欠いた。だが星野投手を責めるのは気の毒だ。もともと登板予定の初戦が雨で流れ次戦にスライド登板した。

これが普通のカードなら精神状態もそれほどでもなかったが「今度こそ巨人には負けられん」と人一倍責任感の強い星野投手にとって2日間の緊張感が如何に耐え難いものであったか。チームのペナントレースでの立ち位置、後楽園球場で昨年から勝てないなど中日を取り巻く雰囲気がさらに悪化してしまう状況に空回りしてしまった感じが強いのだ。地元名古屋の新聞社やテレビ局には試合中からファンの怒りの電話が鳴りっぱなしで応対した社員は「俺たちの責任じゃないのに何で怒られなきゃならんのだ」と愚痴った。中日OB評論家は「当然、与那嶺監督の責任だ。1日でも早く休養させない限りチームの立て直しに妙案はないですよ」と切り捨てた。


結論が出た。谷沢は常時一塁
「外野から一塁に変わって何となく落ち着かない」と当初は話していた谷沢選手。だが周囲の評判は「ライトより一塁の方が動きがいい。水を得た魚じゃないか」と " 一塁手・谷沢 " に軍配を上げる。6月26日の広島戦で不振のマーチン選手をベンチに下げ、谷沢選手が一塁に起用された。すると谷沢選手は反撃の狼煙を上げるタイムリー二塁打を含む2安打。29日の試合では通算1000本安打をマークした。「不思議なもんですねぇ。一塁だと投手に声をかける機会が増えてゲームに参加している意識が外野手の頃より強くなりました」と最初は一塁転向に戸惑っていた本人も今では肯定的だ。

打率が一時は3割を切り、昨年の首位打者が情けないと批判されていたが現在は打撃ベスト10に戻って来た。もともと谷沢選手を一塁に起用したきっかけはマーチン選手がスランプになり気分転換の意味でポジションを谷沢選手と交換し外野に戻したのが理由だった。つまりマーチン選手の調子が回復すればマーチン選手が一塁に、谷沢選手はまた外野に戻る予定だった。谷沢選手は口にこそしないが本音では「俺はマーチンのせいで一塁や外野を掛け持ちさせられたらかなわん!一塁なら一塁に固定してくれ」という無言の怒りで打棒が爆発したのだという見方はあながち間違っていないだろう。


おらが選手にファン歓喜
「中日にいて本当に良かった!」と藤波選手は心の底から振り絞ったように叫んだ。静岡・草薙球場での対大洋14回戦。終盤1点リードで登板した鈴木孝投手が打たれて5対5の同点に。9回表二死一・二塁の場面で打席には藤波選手。マウンドには新人の斎藤明投手。2球目を捉えた打球は左中間への三塁打となり勝ち越した。「どんな球だろうと、どんなコースだろうと直球一本に絞り思い切り振ることだけ考えた(藤波)」と。続く大島選手の適時打で藤波選手も生還しチームは勝利した。試合後には静岡出身の " おらがヒーロー " ・藤波選手を地元ファンが取り囲んだ。

その様子はまるで昨年末に藤波選手のトレード話が勃発した際に中日ファンが藤波選手を放出するなと球団に抗議した時さながらの大騒ぎとなった。「よかった、よかった。よく頑張った。これで球団も藤波選手の力を再認識しただろう。フルに使えばこんな活躍はいつでも出来る選手なんだよ」と地元ファンは声を大にする。藤波選手の実家は静岡市内で海鮮物商を営む。この日は店を早終いして母親・まつえさん(55歳)をはじめ親類縁者が中日ナインにスイカなどの差し入れを持参し球場で声援を送った。トレード話で暗い雰囲気だった身内の人たちに久しぶりに明るい表情が戻った。



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