Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#298 羽ばたけルーキー ①

2013年11月27日 | 1983 年 



当時の注目度で言えば最も低く、扱う記事も野球の技術に関する事ではなく荒木や畠山の添え物程度だった斎藤が勝ち頭となるのですから勝負事は分からないです


荒木大輔(ヤクルト)…1月15日、57人の選手の中に混じってランニングする荒木の姿を見つけるのは一苦労だ。高校生としては大きい方だった180cm、76kgの体格も先輩プロ選手の中に混じると目立たない。「学生服を着ていた時は大きく感じたけどなぁ、ユニフォームの上から見ても筋肉を感じさせるくらいにならなくちゃね。今日は荒木を探すのに必死だったよ」と視察に訪れていた武上監督。早実時代は大会前くらいしかする事がなかったマッサージを普段の練習後に行う事に感心しきりで「あらためてプロに入ったんだなぁと実感しました」と初日の感想を述べる表情はまだあどけない。

さっそくプロとのスピードの差に戸惑う場面があった。マシンを使ってバント練習をしていた時、球が速くて上手く打球の勢いを殺す事が出来ない。さらにカーブを投げられると3球連続でバットに当てられず苦笑い。「高校ではソコソコの位置に転がせばOKでしたがプロでは決められた位置じゃないとダメですから大変です。やっぱりスピードは違いますね」と当惑は隠せない。

だが、ひとたびマウンドに立つと評価は一変。1月20日に初ピッチング、とは言ってもキャッチボールに毛が生えた程度で30球ほどだったが「超Aクラス。高校生としたらやはり一級品。怪我さえしなければオープン戦で投げさせてみたい」と武上監督以下首脳陣の評価は高まった。また1月21日には国立長野病院・吉松俊一副医院長の指導の下で体力テストが実施され、各数値は跳び抜けたものではかかったがバランスの良さが評価された。「去年の夏の予選前は背筋が180kgを超えていたのに今日は150kgちょっと…。身体は正直ですね、少しサボるとすぐ落ちる。これからは毎日鍛えます」と意欲的な姿勢を見せた。

高卒新人としては異例の後援会が発足した。それも名誉顧問に地元調布市長を据えて調布在住の名士がズラリと名を連ねる「調布ロータリークラブ」が中心となる会というから恐れ入る。毎日恒例となった練習後の共同記者会見は球団の広報担当者が目を光らせ腫れ物に触るような質問ばかりで、まるで宮様のようだと口さがない記者連中が名付けたアダ名は「調布宮深大寺親王」…何はともあれ先ずは順調なプロ生活のスタートを切った「荒木宮様」の今後に注目だ。
  【 39勝49敗2S 防御率 4.80 】


畠山 準(南海)…自主トレ初日の1月15日、首脳陣や多くの報道陣の前にはランニングをする畠山の姿があった。「いい走り方をしている。センスを感じるね」と上々の評価はメニューが柔軟体操になるや腹筋や背筋の脆弱さが露呈され一変した。「キツかった。もうダメです。明日?ついて行く自信は有りません…」と息も絶え絶えにグランドに倒れこんだ。全ては自覚の無さが原因だった。昨年の入団発表の際に自主トレまでの間にやる練習メニューをトレーナーから渡されていたが、一目見てメニューの多さにやる気を失い「こんなの出来るわけないと思って1日3kmを走るだけでした。自分の甘さを反省しています」

「畠山く~ん、頑張ってェ」自主トレを行なっている中モズ球場に若い女の子たちの声が響き渡る。その数ざっと300人。「さすが人気が有るね。この先もっと人数が増えるようだと警備の方も考えないと、ウチでは久しく無かった珍しい事ですよ」と球団関係者もニンマリ。畠山本人は「別に気にはなりませんが時には嫌になる事も。練習中に大声で名前を呼ばれたりするのはちょっと…」少し戸惑い気味。慣れない衆人環視のせいなのか極度の緊張感と厳しいプロの練習に遂に身体が音を上げ発熱してリタイア第1号の憂き目に。

「頭がボーとして身体がだるいんです。ここ何年も風邪なんか引いた事なかったのに…やっぱり疲れているんですかね、最近は寝ていても途中で目が覚めてしまって。こんなの初めてです」 折悪しくちょうど大阪へ来ていた両親から御小言を頂戴する事に。父・匠さんは「プロなら資本である身体を管理する事は最低限の事。まだまだ子供」と一喝。母・ツミ子さんに至っては「一緒に家に帰ろうか?お母さんが看病してあげるわよ」と畠山が赤面するような事をワザと大勢の前で言って自覚を促した。これには畠山も「もう分かったから帰ってくれよ」とタジタジ。

合宿の食事も喉を通らないほど環境の変化に戸惑ったのも事実。卒業試験の為に1月21日に徳島へ戻った。その際にトレーナーから練習メニューを渡されると「今度はちゃんとやります」とキッパリ。同じ高卒ルーキーのヤクルト・荒木や阪急・榎田が既に投球練習を始めて上々の評価を受けても「アッそうですか。でも今の自分には関係ありません。他人の事を気にするほど今は余裕ないんです。でもね僕だって『阿波の怪童』と呼ばれたプライドが有りますからキャンプインまでには皆に追いつきますよ、いや追い抜いてやりますよ」と本音をチラリ。
 
【 6勝18敗 防御率 4.74  /  483安打 57本塁打 打率 .255 】


斎藤雅樹(巨人)…1月17日から始まった巨人の自主トレに注目のドラフト1位・斎藤の姿もある。当初は学校の授業がない日だけ参加する予定だったが「みんな目の色を変えてやっている。僕だけ休む訳にはいかない」と学校の許可を得て毎日参加している。ドラフト1位と言っても、いざ練習が始まると注目が集まるのは岡本(松下電器)と橋本(富士重工)の即戦力ルーキーの2人。身体つきからさすがに高校生とは違い出来上がっている。しかも2人はグアムキャンプ参加が決まり既にユニフォーム姿を披露しトレパン姿の斎藤との差は歴然。「羨ましいですけど仕方ないです。でもグアムに行けるなんて最初から思ってなかったですから」と落胆する様子は微塵もない。

新人組が中心の「三軍」で一番の人気者なのが斎藤だ。いつもニコニコ顔で「あの野郎は怒られても萎縮する事なくニコニコ笑っているから、こっちもそれ以上怒る気が無くなっちゃうよ」と杉山コーチも苦笑い。ブラジル体操をすれば間違える、持久走をやらせれば周回遅れで「アイツはボンボンだから闘争心が欠けてるんだよ。負けたくない、一人でも多く抜いてやろうという気が無いんだ。でも案外大物かもな」と国松二軍監督。

とある日の練習後、ベンチ内でOBの千葉茂氏と談笑していた須藤コーチが通りかかった斎藤を呼び止め「オイ斎藤、この人を知っているか?」と問いかけても斎藤は「???」 千葉氏と言えば川上哲治元監督と同期の重鎮なのだが斎藤はキョトン。「ウチの大OBで昭和20年代の名二塁手だ、よく憶えとけ!」と一喝されても「そんな事を聞かれても分かりませんよ。僕は生まれてないですもん」と涼しい顔。ドラフト後に「背番号は30番か18番がいい」と豪快に言い放った愉快なキャラクターの持ち主でもある。憧れの巨人のユニフォームに袖を通して失敗を繰り返しながらも徐々にプロの水に馴染んでいっている。
 【 180勝 96敗 11S 防御率 2.77 】
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#297 コミッショナー

2013年11月20日 | 1983 年 



いわゆる「阪神コーチによる審判暴行事件」は1982年8月31日に起きた。まさしく「事件」で当該コーチ2名は傷害事件の参考人として事情聴取され、後に横浜地検により略式起訴され罰金刑を受けた。事件の概略は…

7回表阪神の先頭打者藤田平は三塁前に飛球を打ち上げ捕球態勢に入った大洋・石橋貢三塁手の後方のインフィールドエリアに打球が落ちた。バウンドした打球は本塁 ~ 三塁間のラインを越えてファールエリアに転がり出た。この打球を三塁塁審の鷲谷亘はファールボールと判定した。

この判定に対して阪神側は、まず三塁ベースコーチの河野旭輝が「打球がフェアゾーンで石橋のグラブに触れてからファールゾーンに出たからフェアの打球だ」と主張して抗議を始めた。鷲谷は打球が石橋のグラブに触れていないとしてファールボールと判定しているので本事件はルールの適用ではなく純然たる事実認定をめぐる抗議だった。阪神側はさらに一塁ベースコーチの島野育夫、ベンチを飛び出したコーチの柴田猛、さらには選手のほぼ全員が加わり三塁側フェンス付近で鷲谷を取り囲んだ。

島野と柴田は取り囲まれた鷲谷を抑えつけて殴る蹴るの暴行を加えた。さらに止めに入った岡田功球審ら他の審判員に対しても同様に殴る蹴るの暴行を加え岡田はグラウンドにうずくまった。島野と柴田には直ちに退場が宣告されたがその後もしばらく暴行を続けた。この試合の責任審判でもあった岡田は「暴力団のようなチームと試合できるか !」とプロテクターをたたきつけて怒り、審判団を引き揚げさせた。

阪神側は安藤統男監督が陳謝し中断時間10分程で岡田が「大変痛めつけられましたが柴田・島野両コーチを退場させて試合を再開します」と異例の表現で場内アナウンスし試合を再開することとなった。尚、審判団は没収試合も考えていたが観客への配慮から続行を決めたという。9月1日、セリーグ会長・鈴木龍二は世論の硬化と日本野球機構コミッショナー・下田武三の勧告もあって島野・柴田に「無期限出場停止」なる処分を下した。 【出典 Wikipedia より抜粋】



若手の自主トレが始まった1月14日の甲子園球場に懐かしい2人が姿を見せた。昨年の審判暴行事件で受けた「自宅謹慎3ヶ月」処分が明けて久々に公の場に現れた。しかし正式な身分はコーチではなく球団管理付き職員である「ビデオ係」であった。球場内のビデオルームで昨シーズン中に撮り溜めて置いたフィルムの整理・管理するのが主な仕事であるのでグラウンドに入る予定はなかった。しかし「久しぶりだからちょっとグラウンドを歩いてみるか?」と小津球団社長が2人を若手選手らの前に導いた事が騒動のきっかけとなった。

いわば小津社長の親心がアダとなった。「自宅謹慎3ヶ月」はあくまでも阪神球団が科したペナルティであってセ・リーグの「無期限出場停止」処分は未だに解かれておらず、これに下田コミッショナーは「オフの期間中に監督やコーチが選手に接触して指導する事は禁じられている。ましてや球団職員とはいえ出場停止処分中の人間が選手と接触するなんて論外」と不快感を表した。「直接コミッショナーから聞いた訳ではないので発言のニュアンスが今一つ分からないが、球場に出入りする事すらダメだとすると今後2人の処遇をどうすれば良いのか…」と球団職員も困惑する。

「自宅謹慎が解けたので球団は球団職員として職務を与えた。その職務がビデオ係で仕事場は球場内のビデオルームなのだから当然甲子園に行く事になり、そこで選手と顔を合わせるのは当たり前。それを『まかりならん』とされたらどうにもならない。今更、2人に野球以外の営業などの仕事をさせる訳にはいかないでしょ。その辺の事情を下田さんも考慮して欲しいね」とある阪神OBは語る。いずれにしても2人が球場に姿を見せた事で下田コミッショナーの心証を悪くしたのは間違いなく、コーチ復帰の時期が更に遠のいたのは確かである。



コミッショナーはこれくらい強権でなければダメですよね。下田さんは歴代コミッショナーの中で唯一と言っていい「物言う人物」でした。統一球問題で引責辞任した加藤コミッショナーの後任選びは迷走中。傀儡を続けたい一派と抵抗勢力の対立が原因のようですが、必ずしも抵抗勢力側が「正義」とは言えないようで。ナベツネ率いる一派も反対派も所詮は経営者側の視点でしかプロ野球を見おらず自分達に都合の良い人物を推している同じ穴のムジナじゃないですかね。
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#296 球団批判

2013年11月13日 | 1983 年 



ロッテがゴタついている。村田投手・高橋捕手・有藤内野手とレギュラークラスの選手が球団と対立しているのだ。セ・リーグ移籍を希望する村田投手の場合は単なる我がままであるとして球団は処理出来たが高橋捕手はそう簡単に解決出来なかった。高橋とは11月30日までに契約更改が成立せずロッテは保留選手名簿に入れた。名簿掲載後1回目の交渉でロッテは20%ダウンを提示したが高橋はこれを拒否。2回目は15%ダウンに譲歩したが高橋は再び拒否。そして3回目では20%ダウンに戻り、当然高橋が拒否するとロッテは「それならばクビ」と交渉を打ち切った。この解雇通告に対して高橋は法廷闘争に持ち込む事も示唆している。

野球協約の中に【選手との条件が合わない時は自由に契約解除できる】の条項がある為、高橋に勝ち目は無いという見方が球界内では大勢だが法曹界では民法の下において保留選手名簿に入れるという行為は契約する意思を前提としており、一般社会の通念と照らし合わせると一概に高橋が負けるとは言い切れないとの声もある。法的解釈は専門家に任せるとして世間の意見で多いのが「同じく球団と対立している村田や有藤とは契約更改を前提として回数を制限する事なく交渉を続けているのに高橋だけ交渉を3回で打ち切り、いきなりクビを宣告するというのはおかしいのではないか」というものである。

有藤の場合は村田や高橋とは少し過程が異なる。そもそも有藤は2人と球団との対立の傍観者であった。球団に対して施設やチームの裏方さん達の待遇改善を数年前から主張してきたが有藤個人の要求をする事はなかった。自身の契約更改交渉の為に球団事務所へ出向くと報道陣は当然の如く有藤が契約更改を保留した事よりも村田や高橋の件に関してのコメントを求めてきた。「兆治は馬鹿正直で一本気な性格だから引くに引けなくなったんだと思う。球団の顔を立てて頭の一つでも下げれば解決するのに」と差し障りのない発言に終始していた。しかし報道陣の「球団に対しては?」の質問を受けると度重なる待遇改善要求に何一つ実行しようとしない球団の姿勢に対する積年の不満に火が点いてしまった。

「毎年言っているようにロッテという会社は球団経営に誠意が見られない。西武を見てご覧よ、わずかの間に日本一になったでしょ。これは球団の数年先を見越した努力の結晶なんだ。優秀なチームの選手というのは球団に対しても誇りを感じるもんだよ。今のウチの選手でロッテに誇りを感じている選手がどれくらいいるかね?」…働き易い職場にしてくれ…ロッテ一筋14年間、中心選手としてプレーしてきた男の心底からの悲痛な叫びだったが、この発言がロッテ本社の逆鱗に触れてしまった。

「球団経営に一選手が口出しするな」…舌禍騒動は村田や高橋の件よりも大きくなってしまった。村田や高橋は球団と話し合えばよかったが有藤の場合は球団レベルを越えロッテ本社が相手である。『這っても黒豆』という言葉がある。「四国という気性の荒い土地柄で育った人間は虫が地面を這っていても一旦それを黒豆だと言ったら何が何でも黒豆だと言い通す頑固者」を表す言葉だ。土佐っぽで負けず嫌いな有藤は振り上げた拳を降ろそうにも降ろされず窮地に陥ってしまった。ロッテ本社も選手の批判を見過ごす訳にはいかず両者の対立は年が明けても続いていた。

有藤に対する処分は既に球団の手を離れロッテ本社に委ねられている。しかし処分を決定するには重光オーナーの裁量を必要とするがオーナーは本業の為、韓国に滞在中で当分日本には戻って来ない。有藤は岐阜県の下呂温泉で自主トレを始めたが球団からは音沙汰なし。「もうトレードに出すなら出してくれ。俺は野球がやりたいだけなんだ」と遂に堪忍袋の緒が切れた有藤は開き直った。キャンプは目前だ。練習不足のせいで怪我でもしたら36歳のベテランには命取りとなり即引退の危機に直面しかねない。誰よりもチームを愛しロッテで選手生命を全うさせようと願ってきた有藤が岐路に立たされている。本心はトレードなぞ望んでいない。ロッテ本社首脳にもっとロッテ球団に愛情を注いで欲しいと投げかけただけだ。事態は1ヶ月間の対立の末、1月26日になってようやく決着したがその内容は摩訶不思議なものだった。

「来季の年俸は15%アップの4千6百万円、ただし今回の騒動に対して15%の罰金を科する」 そもそも最初の契約更改交渉で球団が提示した額は「5%ダウンの3千8百万円」だった。それが一転して15%アップ。つまり実質的にペナルティは有名無実で、罰金を差し引いた額は最初の提示額3千8百万円より110万円増えた。松井球団社長は一連の発言を「チームを思っての事」と解釈しアップ額は迷惑料であると明かし➊球場施設の改善➋裏方さんの待遇改善➌フロントの意思統一を約束した。「自分の発言で大騒動を起こしてしまい反省している。球団に迷惑をかけた分、良い成績を残して優勝する事以外自分に出来る事は無いと改めて分かった」と今は黙々と汗を流している。

しかし、今回の有藤騒動でプロ野球界の憲法とも言える野球協約をロッテ球団は理解していない事を露呈してしまった。野球協約では11月30日までに契約更改に至らない選手は保留選手扱いすると定めている。つまり有藤はロッテの支配下選手ではなく、どこにも拘束されない一個人事業主でありフリーの立場でどのような発言をしようともロッテ球団は部外者の有藤に処分を科す事は出来ない筈(名誉棄損で損害賠償訴訟をするなら話は別だが)。出来もしない処分をチラつかせて控えクラスの高橋は切り捨てて正三塁手の有藤は事実上、不問に処したロッテ球団は御都合主義と批判されても致し方ない。
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#295 野球人生の岐路

2013年11月06日 | 1983 年 



巨人・王貞治助監督が自らの野球人生における分岐点について語った


高校3年の夏…甲子園出場をかけて延長戦にもつれ込んだ明治高との東京都予選決勝戦。11回表に早実が4点を入れた時点で大会関係者は賞状の「優勝」という文字の斜め下に「早稲田実業高等学校」と書いた。誰も早実の甲子園出場を疑わなかった。勿論マウンド上の王自身もである。ところが制球を乱し走者を溜めて適時打を浴びて降板、右翼に回り救援した投手が同点打を打たれると再びマウンドに上がるもサヨナラ安打を喫し甲子園出場の夢が絶たれた。

「あの決勝戦を戦うまではプロ入りなんて全く考えていなかった。早大に進学して六大学でプレーする事ばかり夢みていたけど、勝敗で一喜一憂するのがあのサヨナラ負けで嫌になったんだ。勝った負けたでさほど動じないプロ野球に行こうと決めた」「父親が望んでいた電気技師か大学を出て普通のサラリーマンになってたかもね」 あの敗戦が無ければ後の本塁打王は誕生しなかったかもしれない。



プロ入り…高校卒業を前に幾つかのプロ球団が勧誘に王家を訪れた。最も熱心に誘ったのが阪神だった。阪神スカウトの「ウチは高校出の選手が多いのですぐにチームに馴染めますよ」の言葉が両親、特に母親の心を揺さぶった。巨人は当初「王は進学する」と判断し勧誘に動かなかった。更に巨人は広岡・長嶋・藤田など主要なメンバーは大卒が多い事が母親の心配の種だった。両親の薦めもあり王の気持ちも阪神入りに傾いていたが王の心変わりを察知した巨人の巻き返しが始まった。

度重なる家族会議で形勢は阪神入りに決まりかけた頃、押し黙る王に兄の鉄城さんが「貞治の本心はどこに行きたいんだ?」と問うと「巨人に行きたい」とポツリと吐露した。両親の思いを考えて巨人入りを言い出せずにいて、兄の助け舟が無かったらそのまま阪神入りしていたに違いない。しかし希望の巨人に入ってからも投手と打者との二刀流で中途半端なままキャンプを過ごすも投打ともに結果が出ず、わずか一週間で打者転向が水原監督の判断により決定された。「あのまま二刀流でシーズンに突入していたら2~3年で潰れていたかもね。即断してくれた水原監督に感謝・感謝だよ。まぁもっとも誰が見ても投手失格だと判断するくらいのレベルだったけどね」と王は苦笑い。



一本足打法…打者に専念したもののプロ入り4年目になっても王は安定した成績を出せずにいた。転機は荒川博コーチの入団だった。王が中学2年生だった7年前、荒川は草野球をしている王を見て「こいつは将来大打者になる」と母校の早実に進学させて以来の再会。だが恩師の指導を受けても王のバットは湿ったままだった。昭和37年7月1日、巨人は川崎球場に来ていた。午前中まで降り続いた雨のせいで試合開始が伸び、その余った時間を利用して首脳陣による緊急会議が開かれた。議題は「なぜ王は打てないのか?」だった。原因は練習不足なのか、経験を積めば見込みは有るのか否か、そもそも技量がプロレベルに達していないのでは、など意見が噴出し二軍落ちを主張する者もいた。

王の素質に惚れ込んでいた荒川は半ばヤケ気味に「新打法を使えば必ず打てる」と啖呵を切った。まだ荒川一人の腹案で王本人にさえ教えていなかった一本足打法である。試合開始までの僅かな時間で王に一本足打法のコツを叩きこんだ。結果は第一打席で右前安打、第二打席では弾丸ライナーで右翼席に放り込んだ。「あの時に三振や凡打だったら一本足打法は捨てていたかも。素晴らしいマグレ当たりだった」と振り返った。あの日雨が降らず予定通りに試合が始まっていたら、荒川がヤケにならなかったら…歴史は変わっていただろう。



引退…昭和55年の開幕の時点で王の頭に引退の文字は全くなかったが、6月・7月と不振が続くと心境に変化が現れ始め「打てない事よりも討ち取られても悔しくならない自分に愕然とした。バットマンとして来るべき時が来た」と気持ちが固まるのに大して時間はかからなかった。11月4日の午前中、報道各社に巨人軍から「午後5時より記者会見を開く」との連絡が入った。この時点で各社の反応は様々だった。会見の内容は明らかにされておらず「ひょっとして王が…」と考える社がある一方、「本人が『来季も現役を続ける』と明言したばかりじゃないか、それも昨日」と引退に懐疑的な社もあった。夕刊の原稿締め切りが迫り新聞社は確認取りに奔走していた。当然、王家の電話は鳴りっぱなしだったが誰も出なかった。

この時すでに王は自宅にはいなかった。家にいたら電話に出て応対しなければならず、外に出れば記者の質問攻めに合うだろう。この期に及んで嘘はつきたくないが1つの社に独占的にスクープさせる訳にもいかない。常々、父親から「一人を喜ばせるよりも一人の人も悲しませるな」と教えを受け、忠実に実行してきた。長嶋の婚約は一社の独占スクープになったが王の場合は共同発表だった事でも王の誠実さが伺える。家に押しかける記者らに恭子夫人は「主人は留守です」と繰り返すのみだった。この時、王は実家にいたのだ。両親が息子の引退をテレビで知る事となるのは忍びない。自分の口から最初に伝えたいと思っていたのだ。

そもそも記者会見をなぜ11月4日に設定したのか?既に引退する気持ちが固まっていた王にしてみれば情報が漏れるのを避ける為にも1日でも早く発表した方が良かった筈。読売グループや球団関係者に対する引退報告はシーズン終了直後には済んでいて10月下旬には発表する準備は出来ていた。「記者だって人の子、長いシーズンが終わって一息つきたいだろう。それまで出来なかった家族サービスを予定している者もいるかもしれない。引退発表後の記者には目が回る忙しさがやって来るだろう。ならばせめて11月3日の文化の日の祝日が過ぎてから発表しよう」と王が考えたからだ。王貞治とはそういう男なのだ。
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