Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#50 江川・三角トレード指令

2009年07月29日 | 1979 年 
「空白の一日」から膠着状態だった江川問題に動きが出始めました。セ・リーグは巨人から
出された江川の選手登録申請を却下。対する巨人はドラフトをボイコットし「重大な決意」を
チラつかせつつプロ野球機構側に江川との契約を認めるよう提訴、この提訴に対する裁定が
コミッショナーにより下されました。


裁定主文・・・昭和53年11月21日に読売興業株式会社東京読売巨人軍が江川卓選手と成した選手契約について同日
         セントラル野球連盟会長が、その承認を却下したのは野球協約に違反せず撤回の必要性を認めない

裁定理由・・・提訴球団は江川卓選手と成した選手契約の有効性について種々主張するが、いずれも妥当性を欠く
         一方的かつ歪曲した解釈に立脚する誤った主張に過ぎず、その主張を認める余地は無い …以下略


コミッショナー裁定により江川の交渉権は阪神にあることが確定しました。「明快」「胸のすく裁定」
「さすが明治人の気骨」 等々 賞賛されました。しかし事態は一夜にして一転、前日には厳然と
野球協約の盲点を突いた巨人の非をたしなめた同じ人が今度は江川を一度阪神と契約させた後
巨人にトレードせよとのコミッショナー"指令"を出しました。この指令は前日の裁定の続きなのか
それとも新たな指示なのかでまた揉めたのでした。"裁定"は文書化されましたが、"指令"は口頭
小津阪神球団社長も「裁定なら従う」と発言。機構側は文書に残すことを避けてコミッショナーによる
"強い要望"という表現を使いました。

誰が見ても巨人の協約破り・横暴ぶりは明らかなのに他の11球団は結束して巨人と対決することは
ありませんでした。巨人の新リーグ構想に追随する球団があったそうです。それも2~3球団ではなく
相当数の球団が同調したそうです。なんとも情けない話ですが脅せば無理が通る事が分かった巨人は
その後、FA制度・逆指名など自らに都合の良い"改正"を成し遂げていくことになります。
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#49 名投手列伝 ③

2009年07月25日 | 1979 年 
今回は 「東の尾崎」・「西の池永」と称された池永正明投手です。歳は尾崎が2つ上でしたが
ほぼ同時期に活躍しました。尾崎は全盛時の5年間で98勝、池永は99勝 2人とも1年目に
20勝するなどライバルとして競い合うように成長しました。

池永はピッチング同様 その言動も"高校生離れ"していました。夏の甲子園大会で試合後の
インタビューで愚問を発した記者を睨みつけて 「そねぇなこと、答えんでも分かるじゃろ」とか
自ら二塁打した後に記者から「良く打ったね」と言われて「五番を打っとるけん、当たり前じゃ」
こうした応対に記者クラブから主催の朝日新聞社に対して「あの生意気さは度が過ぎるのでは
ないか」との厳重注意の申し入れがあった程でした。超高校級投手だった池永の不幸は野球
への適応性だけが進み過ぎて、社会へのそれが欠落してしまっていたことでした。

高校3年 夏の地方予選で敗退した池永は、自ら上京して各球団を訪問し売り込みをしました。
巨人・川上、大洋・三原、南海・鶴岡といった監督に直に会い「ボクを幾らで買いますか?」と
聞いて廻ったそうです。その時すでに西鉄が3千万円を提示していて、それを超える額を要求
しましたが「高校生に多額の契約金は出せない(巨人)」「生意気な態度が気に入らない(大洋)」
「3千万円は無理(南海)」となり西鉄入りが決まりました。実はこの3千万円の他に、学校筋・
野球部関係者・地元の有力者・親族などへの説得や謝礼で合計6千万円以上かかったそうで
西鉄の西亦球団社長にドラフト制の強行提案を決意させる引き金になったのは有名な話です。

順風満帆なプロ野球人生に黒い霧が蔽ったのは昭和44年 暮のことでした。池永本人によると
「先輩の田中投手に100万円を押し付けられ、返すことも出来ず預かっていただけ・・」との事で
「この金が八百長の胴元から出ていたとは知らなかった」と釈明しましたが昭和45年5月25日に
球界からの永久追放処分を受けました。 同じく追放処分を受けた選手からは池永を擁護する
発言がありましたが、池永を喚問して事情聴取した委員会では「たとえ八百長をやってなくても
あの ふてぶてしい、生意気な態度はプロ野球選手にふさわしくない」との声が多数でした。あの
夏の甲子園で顰蹙をかった少年のままだったようです・・・
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#48 大誤報

2009年07月21日 | 1979 年 
江川事件で揺れるプロ野球をめぐる報道で目立ちませんでしたが、週刊ベースボールでも誤報掲載が
ありました。江川事件の余波でドラフト会議をボイコットした巨人の選手補強は、ドラフト外で獲得する
しかありませんでした。当然、目ぼしい選手は残っておらず明治大の鹿取投手を獲得したくらいでした。

その巨人が松沼兄弟を2人揃って獲得したという情報に他球団のスカウトは驚きました。2人はドラフトで
指名されてもおかしくない逸材でしたが兄は早々に東京ガス残留を表明、弟も一時はプリンスホテルの
勧誘にグラつきましたが最後は兄のいる東京ガス入りを表明しました。兄は前年の都市対抗戦で1試合
17奪三振の大会記録を作り、年間ベストナインに選ばれる程の投手でしたが、弟と同じチームでプレーを
したいとの思いが強くスカウトも指名を断念しました。が、その間隙を突いたのが巨人で、ドラフト外なら
兄弟揃って同じチームに入れると説得して入団に漕ぎ着けたという記事を掲載しました。

当時のマスコミ報道は江川もしくは巨人に関連する事は重箱の隅をつつく様に、針小棒大に取り上げて
いました。例えば当時 江川はアディダス製のグローブを使用していました。アディダスと言えば今も昔も
3本ラインが象徴ですが、グローブにも3本ラインが入っていました。しかし野球規則でグローブに模様を
入れる事は禁止されています。厳密に言えばグローブに名前の刺繍を入れるのも禁止行為ですが警告を
受けた人は皆無。しかしマスコミは江川のグローブの3本ラインを指摘して違反行為だと大騒ぎしました。

記事でも松沼兄弟の件は「空白」をついた違反スレスレの行為だと批判しています。プロ・アマ間協定で
プロ1球団は、アマ1球団からは投手は1人しか獲得しないと取り決めていました。弟はまだ入社前だが
事実上は東京ガスの投手、だから今回の巨人の行為は限りなくクロに近いグレーだ!と主張しています。
余談になりますが、松沼兄弟は巨人ではなく西武へ逆転入団しました。週刊べ-スボールは翌週号で
経緯を説明し誤報の謝罪をしましたが、西武が東京ガスから事実上2人の投手を獲得する事については
一言も触れませんでした。
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#47 名投手列伝 ②

2009年07月18日 | 1978 年 
今回は「権藤・権藤・雨・権藤」の権藤博投手です。稲尾が42勝の日本記録を達成した昭和36年に
権藤はプロ入りしました。この年、新人王・最優秀投手・沢村賞など総なめでした。42勝した稲尾の
投球回数 404 回に対し 権藤は 429 ⅓ 回でした。

鳥栖高からブリヂストンに進み4年、権藤は巨人スカウト・沢田の目に留まり「喜んで巨人のお世話に
なります」と入団に前向きでした。しかし巨人から正式のオファーがなかなか来ません、当時の巨人は
水原監督から川上への監督交代で球団内がゴタゴタしていて新人獲得の件は後回しにされてました。
その間隙を突いたのが中日でした。律儀な権藤は巨人からの返事を催促しましたがナシのつぶて・・
しびれを切らした権藤は「プロならどこでも同じ」と中日と契約しました。

1年目は半数以上の67試合に登板して35勝、2年目も30勝とフル回転でしたが権藤の肩は1年目で
既に悲鳴をあげていました。15勝をあげて堂々と新人でオールスター戦に出場、そこで金田投手から
「権藤よ今みたいな使われ方をしてたら2年で潰れるぞ」と忠告されましたが、この時すでに肩に痛みを
感じていました。権藤本人も覚悟していたのか 「いいさ、ひと花咲かせようと飛び込んだプロの世界、
パッと咲いて パッと散る。太く短くがオレの性に合ってる」と常々 公言していました。

3年目 遂に肩はパンクしました。この年 10勝、翌年は6勝止まり、すると権藤は打者に転向しました。
やる事が破天荒というか無鉄砲な生き方をする選手でした。その後 再び投手に復帰しますが結局
30歳で引退しました。実質4年のプロ生活でしたがインパクトの強い投手でした。

  【投 手】     82 勝 60 敗 防 2.69 

  【打者転向時】 663打数 133安打 2割0分0厘 9本塁打 
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#46 名投手列伝

2009年07月14日 | 1978 年 
洪水のような江川関連記事に食傷気味なので昔の名投手の話題を。 今回は稲尾和久投手です

昭和39年のキャンプが始まっても稲尾は一人、肩とヒジの治療の為 大分の別府にいました。昭和31年
入団以来8年連続20勝以上、うち昭和32年から3年連続で30勝以上を記録。特に昭和36年には、あの
金田投手に「どうかしてる・・人間のなせる業ではない」と言わせた年間42勝の日本記録を達成しました。

投球回数は入団2年目から 373回 2/3 、373回 、402回 1/3 、42勝した年は404回 投げるなど今では
勿論、この記事の当時と比較してもケタ外れでした。ちなみに、この年に最も投げたのは大洋・斉藤明で
241回でした。そんな稲尾が野球人生で初めて「腕がおかしい」と気がついたのは昭和35年でした。痛みで
2ヶ月間 戦線離脱しましたが、最後には20勝していました。ただし稲尾にとって20勝は物足りない成績で
名誉挽回を期し翌 昭和36年に日本記録をうち立てます。

さすがの稲尾にも限界がやって来ます。昭和38年9月23日 首位南海とは8ゲーム差、大阪遠征を続けて
いるチームを稲尾は離れます。チームもファンも稲尾抜きでの追い上げは不可能だと優勝を諦めましたが
10月1日からの直接対決・天王山に稲尾は帰ってきました。当然、万全の体調でないですから快刀乱麻と
いうわけにはいきませんでしたが初戦を若手3投手で勝ち、続く2・3戦に稲尾が連投し遂に首位と 0.5 差
勢いついた西鉄は逆転優勝を成し遂げました。稲尾は「これで思い残すことは無い。さすがにもう限界」と
コメントしましたが、何とパ・リーグ優勝の2日後、巨人との日本シリーズ第1戦のマウンドに立っていました。

稲尾が投げた 第1戦 ○、第3戦 ●、第6戦 ○ 3勝3敗で迎えた第7戦は当然 稲尾。しかし あの3連敗から
4連勝して「神様・仏様・稲尾様」と言われた稲尾ではありませんでした。試合開始 先頭打者にホームランを
打たれ、あとは張り詰めていた糸が切れたかのように釣瓶打ちを喰らい稲尾の昭和38年のシーズンは終わり
ました。無理の代償は大きく翌 39年はキャンプには参加せずリハビリに徹し再起を目指しますが、この年は
6試合 0勝2敗、以降も再び あの輝きを取り戻すことは出来ませんでした。
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#45 空白の一日

2009年07月10日 | 1978 年 
プロ野球ドラフト史で最大の事件が起こりました。この頃から翌年キャンプ前の小林繁投手との
交換トレードまで、ウンザリする程の報道が続きます。毎号 江川関連の記事が掲載される様に
なりますが正直、無理やり江川と結び付けたネタ切れの号もあり、「何でも有り」の飛ばし記事も
これから次々と出てきますので、ここでは事実を時系列にあげておきます。


11月20日
  PM 5:02 ドラフト2日前に江川がロスから帰国  報道陣の質問には「わかりません」「お答えできません」
     5:10 西武が江川獲得断念を正式表明  宮内球団社長は「やるべき事は全てやった。江川君は決して西武に
        悪い印象は持っていない。西武に来られない相当根深い"何か"が本人の周りにあるようだ」と意味深発言
     7:50 東京・南青山の船田邸に江川と父親が入る
11月21日
  AM 0:00 西武の交渉権が消滅
     0:40 紀尾井町のホテル・ニューオータニで長谷川巨人球団代表と船田代議士の蓮実秘書が会談
        その後 山本・巨人軍顧問弁護士が加わり最終確認終了
     8:50 船田自民党副総裁、正力オーナー、山本弁護士 同席のもと江川が統一契約書にサイン
     9:30 野球協約第133条、第141条により「巨人軍は江川投手と契約いたしました」と記者会見で発表
     10:00 銀座のセ・リーグ事務局に巨人が統一契約書を持参  鈴木会長は不在で事務局員が「一応、お預かりします」
  PM 0:10 プロ野球実行委員会で長谷川代表が事情説明 中座した阪急・渓間代表は「巨人は血迷ってる」
        日ハム・三原球団社長は「だから政治家の介入はダメだと言ったんだ」 セ・リーグ関係者は出て来なかった
     4:00 正午から延々続いていた実行委員会が、さらに3時間延長すると発表 
     5:30 パ・リーグ事務局長が「1対11 で巨人の主張は却下された。江川は明日のドラフト対象選手」と発表 
     6:30 セパ両会長、コミッショナー事務局長、長谷川代表が共同記者会見  「巨人と江川投手との契約は協約の解釈を
         曲げてなされたものです」 「そうではない、条文に忠実に正しく従っている。解釈は間違っていない」と平行線
     8:20 巨人球団事務所で会見「連盟会長の申請却下の裁定を不服とし明日のドラフト会議を重大な決意をもって欠席する」
         重大な決意とは?との問いに 「リーグ脱退である」 「この裁定に対し江川君の地位保全の仮処分の申請をします。
         相手はコミッショナー・連盟会長・明日のドラフトで江川君を指名した球団、原告は江川君と巨人軍の両方」  
     10:30 蓮実秘書が帰宅 「江川君は巨人軍と契約したのです。登録が却下されたといっても、もう私どもの手を離れた。
         これからはプロ野球機構内部で処理する事案であり、私どもが関知する事ではありません」


長い11月21日はこうして終わりました。
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#44 深夜のトレード劇

2009年07月06日 | 1978 年 
阪神・西武の両球団間で展開された今季最大のトレードが、やっと終結を見ようとしている。11月17日 梅田の「ホテル阪神」で
田淵が西武・根本監督と会い、移籍を了承。1ヶ月以上に渡って燻り続けていた田淵のトレード問題は決着しました。


両球団間で田淵のトレード話が表面化したのは11月15日。それは西武が江川獲得を断念した日と
合致、江川に代わる新球団の目玉として田淵が浮上しました。15日午後3時、阪神電鉄本社3階の
役員室に小津球団社長・岡崎球団代表・西山二軍監督・小林チーフスカウト、西武側からは全権を
託された根本監督の計5人が集まり、交換選手の検討・調整が行なわれました。西武が指名したのは
田淵と古沢これに対し阪神は若菜・真弓は絶対条件でプラス 竹之内・大田・竹田・倉持の中から数人
という交渉が行なわれていました。

交渉は延々と続き、午後9時半 いったん休憩。場所を「ホテル阪神」に移し、泊まり込んででも、という
異例のヒザ詰め交渉でした。交渉がまとまったのが深夜1時過ぎ、このトレード話を一気に決着させたい
阪神は田淵に対するトレード通告を深夜1時半にし、ホテルへ呼び出したのでした。ちなみに もう一人の
古沢への通告は翌日に行なわれました。球団からの呼び出しに田淵は「なんて非常識な。こんな時間に
来いとは正気の沙汰じゃない、オレは行かないよ」とヘソを曲げたが説得されて渋々やって来ました。


Q トレード通告だったのか?
A 「西武へ行けと言われた。こんな時間に呼び出しておいて西武へ行けとは何だ、人をバカにしている。これが10年間 阪神で
   やってきた者に対する仕打ちなのか、情けないよ・・・」
Q どう答えたのか?
A 「どうもこうもあるか、考えさせてもらうと言って出てきた。1ヶ月も晒し者にされたし、言いたい事が山ほどある」
Q これからどうするのか?
A 「わからない、どっちみち阪神には残れない。西武へ行くか引退するかだ。阪神はフロントがこんなだから強くならないんだ、
   犠牲はオレだけで充分。納得がいかなければ辞めたって・・・」


ところで、一方の西武も揺れていました。このトレードの10日ほど前、秋季キャンプで練習する若手に対し
「君達はトレード要員ではない、だから腰を据えて基本からやり直せ」と訓示したばかりでした。その舌の
根も乾かぬうちに期待の若手野手の真弓と若菜、貴重な左腕・竹田、ベテラン・竹之内の主力4人を放出
しました。また、それ以前にも新生ライオンズは若手に切り替える方針を採っていましたが、逆行するかの
ようにロッテを解雇された野村捕手を獲得するなど迷走していました。福岡のイメージを払拭する為に次々と
選手を切っているのだろう、東尾や土井もいずれ追い出されるのではないかと言われていました。
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#43 イの一番 ドラフト指名選手

2009年07月02日 | 1978 年 
現在の入札制となる前のドラフトでは指名する順番をクジ引きで決めていました。各球団の
スカウティング能力が未熟だったのか "イの一番" 指名選手が、いかに人気先行だったの
かが分かります。'74年から4年連続で投手が指名されましたが'77年のシーズンで誰一人
として勝星を上げられませんでした。 福井(近鉄)・田中(ロッテ)・酒井(ヤクト)・江川 ですが、
拒否した江川以外の投手は「1位」に相応しい成績を残すこと無く消えました。'67年以降、
"イの一番" 選手で新人王になったのは中日・谷沢が唯一でした。

当時、巨人側はドラフトのせいで欲しい選手を獲得できない、低迷の原因の一つがドラフトだと
主張していましたが実は巨人の平均指名順位は「6.3位」で特に悪いものではありませんでした。
よく引き合いに出されていたのが、山田(阪急)・東尾(西武)・若松(ヤクルト)・掛布(阪神)の誰でも
指名することは出来た。ドラフトとチームの低迷は関係ない、スカウトと育成能力の差だと言われ
てました。ちなみに各球団の平均指名順位は次の通り

①大洋 4.3   ②阪神 4.9   ③近鉄 5.8   ④南海 6.2   ⑤巨人 6.3   ⑥日ハム6.4
⑦中日 6.6   ⑧西武 7.3   ⑨ロッテ7.4   ⑩ヤクルト 7.5  ⑪阪急・広島 7.7

大洋は'72、'73年と2年連続で1番を引くなどクジ運は強かったですが、それと比例してチームは強く
なる事はありませんでした。また '67年 南海、'71年 ロッテは1番クジを引き当てたものの入団拒否
されるなど情報収集能力もまだまだ低かったようです。阪神はクジ運が良く、入札制になって以降も
'78年 江川、'79年 岡田と連続で引き当てました。

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