
輝かしい栄光のヒーローの陰には悲劇の主人公がいる。王選手に世界記録を打たれた投手がそれだ。あと1本になってから眠れぬ夜を過ごした投手は何人いただろう。不幸?にもそのクジを引き当てた男の気持ちはどうだったのだろうか。
756号を打たれた鈴木康二郎投手
「打たれた相手が世界の王さんですから打たれても悔しいとは思っていません」…鈴木康投手(ヤクルト)は固い表情で話した。前夜の試合は安田投手➡松岡投手の黄金リレーで王選手の世界新記録達成にストップをかけた。エースの松岡投手でさえ王選手との対決を前に朝方まで寝付けなかったという記事を読んだ鈴木康投手は「あれこれ考えても答えは出ない。勝負球はシュートと決めました。(安田・松岡)先輩たちに倣って自分のピッチングをしてそれで打たれるのなら仕方ない」と持ち前のクソ度胸で開き直った。マウンドに上がる鈴木康投手は5万大観衆の異様なムードの中で王選手と対峙した。
最初の打席はフルカウントから得意のシュートを投げたが外れて四球となり球場内にため息が充満した。そして歴史的瞬間となる第2打席は3回裏だった。この回の先頭打者土井選手を左飛に打ち取り打席に王選手が入った。大観衆が王選手に声援を送り、球場内は異様な雰囲気に包まれた。「ジャンボ、思い切って行け!」と一塁手の大杉選手が声をかけ、鈴木康投手は我に返った。世界新記録が秒読み段階になってから王選手を6打数無安打に抑えてきた安田投手が「王さんはボール球には手を出さない。一本足打法のタイミングを外すしか抑える方法はない」とヤクルト投手陣にアドバイスしていたのを鈴木康投手は思い出した。
球持ちを長めにしたり、クイックモーションで投げたりしたせいか制球が定まらず第1打席に続き再びフルカウントになった。「今度もまた歩かせたら監督さんもナインも承知しまい…」崩れ落ちそうな気持から逃げるように八重樫捕手のミットを目がけて6球目を投げた。時速140kmのシュートは狙った外角ではなく真ん中寄りに。アッと言う間に王選手がフルスイングで捉えた打球は前人未到の756号として右翼席に飛び込んだ。世界のホームラン野球の歴史を切り開くに相応しいコメットのような一発だった。「打たれた瞬間にホームランだと思いました。王さんがベースを一周する時の時間が長く感じました」と正直に振り返った。
サイパンには行かない
昨シーズンはプロ入り4年目でリリーフ投手として阪神相手に2勝をマーク。今シーズンは得意のシュートを武器に安田投手の13勝に次ぐ12勝をあげている。7月5日、札幌円山球場での対巨人13回戦では巨人戦初先発に起用され、巨人打線を2安打に抑えてプロ初完封勝利をおさめた。王選手に対しても昨シーズンは3打数2安打、今シーズンは3四球こそ与えているものの2打数無安打に抑えていた。王選手に打たれた初本塁打が756号本塁打になるとは何とも非情なことであった。
「自分がやれることは全部やった。それで打たれたんですから悔しさはありません」と鈴木康投手には後悔も悔しさもなかった。だがアメリカの某航空会社がハンクアーロンの世界記録を破る756号本塁打を打たれた投手にサイパン島旅行を招待する企画を辞退することは即決した。「僕は行きません。ああいうものを出す神経がおかしいと思います」と苦言を呈した。世界の王選手に打たれた悔しさは無かったとしても敗戦投手のプライドと抵抗は誰でも持ち合わせているものだ。
755号の世界タイ記録を打たれた三浦道投手
皮肉な巡り合わせという他ない。三浦道男投手(村野工・21歳)はプロ3年目の昨年6月23日の巨人戦で先発した根本投手の後を受けてプロ初登板した。この試合で初めて対戦した王選手から三振を奪うなど好投してプロ初勝利をあげた。それから1年2ヶ月後、8月31日の対巨人22回戦に先発したが王選手に世界タイ記録となる755号を打たれた。1回裏一死一塁で王選手が打席に入った。初球、2球目とカーブが外れると満員の観衆から罵声を浴びて血の気が引く思いをしたという。3球目はストライクで一息ついたが4球目は再びボールで後がなくなった。その時、三浦道投手の頭にあったのは「四球だけはダメだ。外角低目にカーブを決めなければ」だったという。
別当監督からは「王は800号はおろか900号も狙える打者で755、756号は単なる通過点だ。思い切って勝負してこい」と指示されていた。運命の1球を投げた瞬間に三浦道投手は「狙った所に投げられた」と思ったそうだ。だが王選手のバットが一閃すると快音が響いた。「アッ、やられたと思い後ろを振り向くと打球は高くライト方向に上がっていてもうダメだと観念した」あとの思いは大歓声にかき消されて記憶に残らなかった。試合途中で降板しロッカールームに引き揚げてきた三浦道投手は、余りの多くの待ち受ける報道陣を前に「こんなに多くの記者さんに囲まれるのは昨シーズンに王さんから三振を奪って初勝利した時以来。いや今日は倍くらいの人数かな」と苦笑い。
「王さんはやっぱり偉大すぎます。僕なんかが抑えられたら不思議なくらいです。王さんへのメッセージ?やっぱり " おめでとうございます " 、です。打たれた僕が言うのはおかしいかな、エヘヘ」とショックの色はさほどではなさそうだ。悔しさはある。だが打たれてスッキリした表情なのは堂々と勝負をした自負があるからだ。「でもね子供のファンに言われると参っちゃうんですよ。今日も球場に来た時に " アッ、755号の投手だ! " って言われちゃいました」と頭を搔く。こうなったら名誉挽回に20勝投手になるしかない。
