Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#212 スター選手変遷史 ③

2012年03月28日 | 1981 年 



戦前のプロ野球にファンの目を向けさせた功労者は大学野球の花形選手たちだった。大学卒業後は社会人野球へ進むのが「野球エリート」達の王道で野球を仕事として選択する選手は「職業野球人」と見下されていた。その風潮の中、藤本英雄【現姓・中上】(明治大)がプロ入りする。若い頃は速球派で鳴らしたがスピードが落ちてくると技巧派に転向するなど、さすが頭はスマートな大学出。スライダーを日本で初めて投げて昭和25年6月28日、青森県で行なわれた西日本戦で完全試合を達成した。野手では鶴岡一人(法政大)はプロ入りと同時に主将に指名されるくらい入団前から将来の幹部候補生と認められていた。打撃は張本も脱帽のスプレー打法、守りは肩を痛めて三塁からの送球が難しくなるとアンダースロー投法で克服するなど南海だけではなく野球界全体に影響を与える程の選手になった。

戦後になると
大下弘白木儀一郎飯島滋弥など東京六大学のスター選手が続々とプロ野球の門を叩いたが、その時点でもまだ世間には「プロ野球はブルーカラー」といった偏見が依然残っていた為に彼らは異端児視されたが、確かに彼らは変わっていた。大下は野球選手の傍ら映画にも出演し「野球選手が映画に出るなんて…」と変わり者と言われている同じプロ野球選手達からも変わり者扱いされる始末。しかし大下本人は「グラウンドで結果は出している」とどこ吹く風。白木はピッチャーゴロを捕ると一塁へは送球せず捕手へ投げた。捕手が慌てて一塁へ送球するのを見て大笑いし「ええじゃないか、これくらいやるのがプロだろ」と涼しい顔。そんな彼らの活躍を見て大学卒業後は社会人へ進んでいた別当薫(慶大出)や荒巻淳(大分経専出)も「時代はプロ野球」と判断してプロ入りした。個性的な選手が集まりだしたプロ野球は次の時代へと移行して行く事になる。

沢村に始まり西村や景浦らの戦前から戦後にかけての混乱期は強烈な個性の選手たちにスポットが当たり人気を集めた。やがて選手個人からチーム自体が「サムライ」を感じさせる西鉄ライオンズが台頭する。ベテラン大下を中心に
中西太豊田泰光稲尾和久を巨人を追われて九州に下った三原脩監督が巧みに操り打倒巨人を成し遂げた。チャンスに凡退して戻って来ると首脳陣が叱咤する前に同僚選手が「やる気あるのか?もう田舎へ帰った方が良かろうもん」と口撃された豊田は「恐ろしいチームだった」と懐述する。戦前・戦後のサムライ野球の遺産とも言えた西鉄はチーム全体がサムライの集まりのようであったが、各チームにもサムライを継承する個々の選手が存在した。

昭和30年代の
長嶋茂雄は昭和40年代中盤以降の「ミスター」ほど洗練されておらずサムライ臭を漂わ
せていた。同期の
杉浦忠も同様で華奢な体にも拘らず連投を辞さなかった結果、右肩の血管が内側に
陥没してしまい動脈閉塞に。血流が止まり真っ白になった右腕で投げ続けた。「権藤・権藤・雨・権藤、
雨・雨・権藤・雨・権藤」の
権藤博も肩を壊し寿命は短かったが「僕だけじゃなくて皆がそうで、それが
エースと呼ばれていた時代。もしあの時代に『中4日』なんて言い出したらチームに対する造反ですよ。
故障したのは僕の肩が弱かったからで金田さんや米田は毎日のように投げても壊れませんでしたよ」と
今でも後悔は無いという。

やがて西鉄の野武士野球を倒す組織野球の時代が到来する。「これからの野球はサムライの集団だけではダメだ。一時期は良くても長続きしない」西鉄が昭和33年から3年連続日本一を達成したのを見届け引退した川上だ。川上が慧眼だったのは個人技を頭から否定しなかった事。個人対個人の戦いの延長線上に集団の戦いがあると位置付けたのだ。集団で戦うには秀でた能力を持つ選手を一人でも多く持ち駒にし、点ではなく線で相手に勝っていく。その意味では長嶋も
王貞治も「点」であった。王は昭和37年に入団した荒川コーチとの出会いが野球人生の分岐点であった。入団直後には投手に見切りをつけ野手に転向したものの結果を出せずにいた。打撃改造に試行錯誤を繰り返した末に一本足打法に辿り着いた。昭和39年に年間55本塁打の金字塔を打ち立ててから本塁打王のタイトルを独り占めする事となる。片や長嶋は一人西鉄サムライ野球の系譜を受け継いで自然児、燃える男として真一文字に特性を伸ばして行く。組織野球全盛の時代でも唐突に三原・大洋や藤本・阪神の様な組織野球とは一線を画すチームが巨人の牙城を崩す事もあったが、それはいわば突然変異であって単発的で長続きしなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#211 スター選手変遷史 ②

2012年03月21日 | 1981 年 



既にお気付きだろうが神話時代の英雄たちはジャイアンツかタイガースの選手であった。もちろん他球団にも阪急・宮武三郎、セネタース・苅田久徳、イーグルス・中河美芳、セネタース・野口二郎など人気選手はいたが神々の域に達する選手は、先の2球団に集まっていた。神話時代の最後を飾るのもまた両球団の選手である。ビクトル・スタルヒンは沢村が兵役に取られた後の巨人を支えた投手である。在籍9年間で199勝、うち完封が65試合、特筆すべきは被本塁打が僅か21本だった事。川上哲治も「彼こそ巨人軍史上最高の投手」と懐述している。白系ロシア人として苦労した後に日本へ渡って来て北海道で野球と出会い頭角を現しプロ入りした。仲間は「スタ」ちゃんと呼び本人も気に入っていた。第二次大戦時中は敵性語が禁止されたために「須田博」と名乗る事を強いられるなど日本でも苦労は多かった。プロ野球史上初となる300勝を達成して昭和30年39歳で引退した。引退から2年後に東京都内で路面電車と衝突事故を起こしてこの世を去った。

スタルヒンが300勝を達成した際のインタビューで「若林さんも45歳まで頑張ったし僕もまだまだ引退する気はない」と引き合いに出した
若林忠志も神の領域の選手だ。28歳でプロ入りし、1万円の契約金を要求する「事件」を起こしたが当時の球界には契約金という概念は無かった。しかも3年契約という前代未聞の条件での阪神入りだった。ひと月に100円も有れば充分に喰えた時代の1万円、日系2世ハワイ生まれの合理主義と言ってしまえばそれまでだが勧誘を受けた数球団を天秤にかけて好条件を得た若林は大した役者だった。この役者ぶりはマウンド上でも発揮された。大学時代に肩を痛めてしまい直球の威力は半減したが、代わりに多彩な変化球を駆使するだけではなく投球フォームも上・横・下と変幻自在だった。昭和12年に肩を再び痛めたが2年後に復帰すると昭和19年まで年平均24勝をあげる大活躍だった。昭和19年にはプレーイングマネージャーとして指揮を執る一方で22勝をあげて優勝している。若林は神々の中では唯一「現代」の世界を覗いた選手で昭和40年3月に天寿を全うした。

この時代は学生野球の人気が高くプロ野球は大学へ進学出来ない人が中等学校卒業後に就く職業で、いわば見世物的存在だった。そんなプロ野球界で人気を博したのが共に20歳代後半の円熟期を迎えた
川上哲治藤村冨美男だった。2人は全く対照的な選手で、川上は一度打席に入ったら何が起ころうと「勝負の場に上がったらそこには無念無想の世界があるだけで息を抜く事は許されない」との信念から打席を外す事はなかった。一方の藤村は逆でストライク・ボールの判定に大げさなジェスチャーで審判に詰め寄ったり適時打を放てば塁上から投手に向かって「ありがとう」と最敬礼。本塁打の際ベースを一周する時は帽子を手にグルグル回しながらホームインし、立ち尽くす捕手に握手を求め渋々応じた捕手の尻をポンと叩いてベンチに戻ったりしていた。この頃にテレビ放送があったなら長嶋登場以前に「ミスタープロ野球」の称号を得ていただろう。当然2人はお互いを意識しあっていて東西対抗戦での余興のひとつ本塁打競争で敗れた藤村が勝者の川上に対して握手を求めた際のぎこちない光景が脳裏に残っている。表現の仕方は違っているものの彼らに共通していたのは学生野球に遅れをとっているプロ野球の開拓者として如何にして人気を集められるか「プレーはプレー。ショーはショー。マナーはマナー」と割り切って精一杯スタンドのファンに応えようとするプロ意識だった。

2人の他にも様々な異名を持つ職業野球人、いわば「職人」がこの時代には数多くいた。「逆シングルの
白石勝巳」「和製ディマジオ小鶴誠」「日本のヨギ・べラ 土井垣武」「ジャジャ馬・青田昇」等々野球に全身全霊をかけた者たちを忘れる訳にはいかない。とにかくこの頃の選手達は型破りだった。代打逆転満塁本塁打を放った後に投手として登板し今で言うセーブをあげた服部受弘(中日)。野口二郎(セネタース)も中京商から法政大へ進学後に中退した「中卒組」の一人で投手としては年間40勝をあげた一方、打者として31試合連続安打を放った投打両方の日本記録保持者だった。別所毅彦真田重男はベンチから敬遠を指示されても「勝負させないなら二度とマウンドへは登らん」「打たれたら向こうの力が上だったと言う事じゃ、相手を褒めてくれ」と真っ向勝負を挑みスタンドから喝采を受けるなど投打共にサムライ達が揃った古き良き時代だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#210 スター選手変遷史 ①

2012年03月14日 | 1981 年 



神話がファンとの合作であるとするならばファンに最も愛された神々の中の神、すなわちゼウスは沢村栄治をおいて他にはいない。昭和9年11月20日、静岡県草薙球場の上空は爽やかに晴れ渡っていた。しかしバットを持つ白人の大男たちは爽やかどころではなかった。ベーブ・ルースやルー・ゲーリックにレフティ・ゴーメッツ、ジミー・フォックスら当時の大リーグのオールスター軍団。対するマウンド上には16歳の沢村栄治。この少年相手に大男たちは点が取れず、6回までに7奪三振。7回に何とか四番に一発が出て完封を逃れるのがやっとで9三振を喫する辛勝だった。大リーガーの対戦相手に急遽寄せ集められた「大日本東京野球倶楽部」の一員としてが沢村神話のスタートだ。沢村の全盛期は昭和11・12年で、この2年間で46勝13敗・防御率は1点台。 二度のノーヒット・ノーランを達成している。当時は東京ジャイアンツと大阪タイガースの実力が抜きん出ていて常に覇権を争うライバル関係にあった。

宿敵大阪タイガースに強かったのが沢村人気に拍車をかけた。昭和12年のシーズンでは対タイガースは48回1/3投げて自責点は僅かに「1」と加藤清正も脱帽の虎退治ぶりだった。沢村の直球はどれくらい速かったのか?全米チームのゴーメッツは「サワムラの持ち球は直球とドロップだが直球の方がいい。あのスピードで浮いてくると打てない(村松梢風著『巨人軍の花』より)」と語っている。だが二度の応召が不世出の名投手を蝕んでいく。帰還後の3年間では16勝しか出来ず三度目に応召された昭和19年12月2日、台湾沖の海底に船と共に沈んでいった。

沢村を語るなら
西村幸生(大阪タイガース)を抜きにする事は出来ない。いわずと知れた酒仙投手で酒の
匂いを漂わせてマウンドへ上がることもしばしば。「幸さん酒を控えないとエライ事になるよ」と同僚に忠告されても「ワシは投手がダメになったら、おでん屋をするからエエんや」とうそぶく豪傑だった。ここまでならどうと言う事のない酒豪譚の話だ。西村が凄かったのは全盛期の沢村相手に投げ勝っていたことである。昭和12年秋のシーズンでタイガースはジャイアンツに7戦無敗、そのうち西村が1人で5勝している。さらに年間王座決定戦の3戦を西村が3勝している。沢村を抑えて最多勝・防御率・勝率のタイトルを独占した。生まれは奇しくも沢村と同じ三重県宇治山田市だが、剛の沢村に対し柔の西村と投球スタイルは対照的だった。阪急や巨人を相手に勝つと20円、他は10円の賞金が球団から出て活躍度によって選手に分配された。西村は度々10円ほどを手にしたが、それを一晩で飲んで使い切ってしまった。お銚子1本30銭の時代に。酒の神ディオニソスのような西村も昭和14年に応召され帰還する事はなかった。

西村が沢村に投げ勝つ事が出来たのは打線が沢村を打ち崩したからである。タイガース打線の中心には
景浦将が鎮座していた。昭和11年11月7日に洲崎球場で行なわれたジャイアンツとの年間王座を賭けた
優勝決定戦の第1戦「五番打者の景浦が打席に立った。"こわっぱ沢村何者ぞ"とタイガース随一の強打
者は頭から呑んでかかっている。沢村は景浦の鋭鋒を挫くべく得意のドロップを投じたが景浦は物ともせず曲がり鼻をハッシと叩いた。球はグングンと上空へ伸び痛快無類の左翼本塁打となりタイガースは一挙に3点をあげた。東京の観衆は、かねてより噂に聞いていた強打者景浦を目前にし呆然。やがて球場はどよめいた。(上記『巨人軍の花』)」

ヘラクレスばりの躯体で戦前の広い甲子園(両翼100m 中堅130m)のスタンドへ軽々と放り込めたのは景浦ぐらい。桁外れの腕力と膂力で遠投は140㍍を超す、沢村なんぞ小僧扱いして当然だった。景浦は立教大を2年で中退してプロ入りしている。立教と言えば長嶋と比べたくなるが、2人が腕を磨いた東京・東長崎のグラウンドの外野ネットを越える打球を放ったのは、後にも先にもこの2人だけ。しかしネットの先にある小川を越える打球を放ったのは景浦ただ1人。首位打者1回、打点王2回とタイトル獲得が少なかったのは「成績を残しても給料は上がらず個人記録に固執していなかった(松木謙次郎)」が理由らしい人間離れした怪力の持ち主もまた遠い異国の地フィリピンで散った。



2009年3月15日に始めた当ブログも4年目に突入します。ほぼ毎週欠かさず買っていたのは1980年代の後半位迄でしたので、このペースで行くと最後の投稿は、あと10年近くかかる計算になる事に気付いて少々めまいがしました。さすがに10年も書き続けるスタミナが有るとは思えませんが・・

読み返してみると最初の頃は、週べの記事を丸写しにしないようにと無駄な抵抗をしていた形跡が見られますが、そのうちに素人が書くよりも本職が書く文章の方が内容が伝わり易く且つ、自分も楽ができる事に気付いたようです。・・・いつまで続けられるか分かりませんが今後とも宜しくです。

追伸、コメントを寄せて下さる皆様へ。週イチで投稿した後は放ったらかしでブログをチェックしてないのでコメントに逐一返信できず心苦しく思っていますが必ず目を通しています。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#209 ビーンボール ③

2012年03月07日 | 1981 年 
            ~大リーグの場合~

昭和49年9月29日の南海戦で日ハムの高橋博士が1試合の中で全ての守備位置についた事がある。球団社長・三原脩の発案で消化試合の話題作りだった。最後に投手として登板し野崎投手を打ち取り珍記録を達成した。野手がマウンドへ上がる事はアメリカでは許されていない。10年ほど前にルールが改定され投手として登録されていない選手が登板する事は禁止された。理由はビーンボールに対する報復行為を避ける為である。ぶつけられた相手投手に打席が回ってきたらマウンドに上がり"お礼参り"をツインズの監督時代のビリー・マーチンが実行すると宣言した為にMLBが慌ててルール変更をしたのだ。

中日やクラウンに在籍したデービスがレンジャーズにいた頃に強烈なビーンボールを投げられた。次の回にその投手が打席に入るとデービスは報復したくて仕方ないが規則で投げる事が出来ない。怒りを抑えられないデービスは守備位置のセンターからマウンドへ駆け寄り自軍の投手に「ぶつけろ」と強要するが「出来ない」と拒否されると味方同士で大喧嘩となり、元々チーム内で浮いた存在であったこともありシーズン途中にカージナルスに放出されてしまった。 とにかく大リーグではビーンボールで乱闘に発展するケースが多い。

昨年のナ・リーグ東地区覇権を巡ってのフィリーズとパイレーツとの乱闘は凄まじかった。5月30日に対戦した時に"カーブの芸術家"との異名を持つブライルベン投手がフィリーズの主砲 M・シュミットに「くさい」投球をした。めったに怒らないシュミットが血相を変えてブライルベン投手に突進し両チームは大乱闘。シュミットとグリーン監督が乱闘を仕掛けたという理由で退場となった。これが3回の出来事。6回にブライルベン投手に打席が回って来ると両軍のベンチから 「ぶつけろ」 「やったら殺す」とヤジが応酬される中、フィリーズのソーシエ投手が報復の死球。再びの大乱闘となりヤジの張本人と目されたレイシー(パイレーツ)とスターレット(フィーリーズ)の2人が退場処分に。1試合で4人が退場するという異常事態だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする