日本シリーズの中継放送中に浅沼社会党委員長刺殺というショッキングな臨時ニュースが流れた昭和35年10月。前年までの万年Bクラスで低迷を続けていた大洋を一気に日本一にまで導いた三原采配は球界内だけに留まらず大きな社会的話題になった。
聞き手…ところで、大型チームの西鉄から小粒の大洋に移ってすぐ天下を取った三原野球の極意とは何ですか?
三 原…世間では大洋の優勝を小兵力士が横綱相手に小股掬いなどの小技を駆使して勝ったかのような印象を
持っていますが違います。大リーグの野球をよく見て下さい。この25年来、パワーベースボールに
終始してきたがロジャース・ホーンスビー(カブス)の出現でいかに当時の野球が大味で面白味が
なかった事に気付かされた。彼の出現に影響を受けてポール・リチャーズ(オリオールズ)や
ダニー・マートー(パイレーツ)が台頭する。彼らの野球スタイルとは従来の力技に加えて軽快な
フットワークで動き回る、要するにインサイドベースボールを主とした野球で、大洋はこれを取り入れた。
もう一つはチームプレー重視を徹底した。これまでの大洋では投手が個人記録に拘って監督が交代を
命じても代わろうとしない事がままあった。
聞き手…冗談でしょ?
三 原…本当ですよ(笑)。それで負けても本人は仕方ないで済むけどチームを預かる身としては堪らない。
野球は個人の記録よりチームの勝利が優先される競技である事を喧しく言い聞かせましたが難儀しました。
長年染み付いた悪癖はなかなか拭えない。個人の記録が残らなくても勝利に貢献した選手には、しただけの
事をしてやる。まぁニンジン作戦ですわ。【 昭和38年11月9日号『三原戦法の極意』 】
今の野球ファンなら「三原」を「川上」に置き換えても何の違和感も無いだろう。まさにこの三原の考え方は後の九連覇当時の巨人・川上監督と同一線上にある。つまり昭和35年に「三原魔術」と呼ばれ、万年Bクラスだった大洋を操りペナントレースを攪乱し優勝に導いた三原監督の野球哲学は川上監督と同じだった。世間は三原采配をオーソドックスというより奇略縦横・奇想天外・大胆不敵と捉えて投手起用やピタリと当たる代打策、打撃と守備の分業制…どれもを「魔術」の一言で片づけた。
だが三原にしてみれば魔術でも何でもなかった。それまで野放しにされていた個人プレーをチームプレーに昇華させた結果に過ぎなかった。個人の能力がいくら高くてもチームとして機能しなければ試合には勝てないと言い切り、日本シリーズでは多くの評論家がパ・リーグを制した「ダイナマイト打線」の大毎の圧勝と予想したが4試合全て1点差勝利の4連勝で大毎を返り討ちにし「野球はチームプレーである」との信念を体現化した。この翌年に巨人の監督に就任した川上哲治が独自の組織運営論を編み出し前人未到の九連覇という偉業を成し遂げた事を考えると三原大洋の日本一は、その後のプロ野球界の行く道を指し示した「曙光」と言える。だからこそ多くの民間企業の経営者たちが三原を講師に招いて組織運営の妙を競って求めた。
一流とは程遠い選手を巧みに操り勝利を重ね、敢えて「超二流」と言い放った三原采配はそれ迄の大雑把な野球に対するアンチテーゼだったが、この年以降は野球界の本流となって行く。三原旋風はペナントレースだけではなく他球団の監督人事まで影響を及ぼし、勝てない理由を戦力の差だけではなく監督の能力も大いに関係あると悟った球団が続出した結果、国鉄・宇野監督や広島・白石監督が更迭された。更には中学時代からのライバル水原茂は三原に敗れた事で巨人の監督から東映の監督へ追われる事となった。
聞き手…ところで、大型チームの西鉄から小粒の大洋に移ってすぐ天下を取った三原野球の極意とは何ですか?
三 原…世間では大洋の優勝を小兵力士が横綱相手に小股掬いなどの小技を駆使して勝ったかのような印象を
持っていますが違います。大リーグの野球をよく見て下さい。この25年来、パワーベースボールに
終始してきたがロジャース・ホーンスビー(カブス)の出現でいかに当時の野球が大味で面白味が
なかった事に気付かされた。彼の出現に影響を受けてポール・リチャーズ(オリオールズ)や
ダニー・マートー(パイレーツ)が台頭する。彼らの野球スタイルとは従来の力技に加えて軽快な
フットワークで動き回る、要するにインサイドベースボールを主とした野球で、大洋はこれを取り入れた。
もう一つはチームプレー重視を徹底した。これまでの大洋では投手が個人記録に拘って監督が交代を
命じても代わろうとしない事がままあった。
聞き手…冗談でしょ?
三 原…本当ですよ(笑)。それで負けても本人は仕方ないで済むけどチームを預かる身としては堪らない。
野球は個人の記録よりチームの勝利が優先される競技である事を喧しく言い聞かせましたが難儀しました。
長年染み付いた悪癖はなかなか拭えない。個人の記録が残らなくても勝利に貢献した選手には、しただけの
事をしてやる。まぁニンジン作戦ですわ。【 昭和38年11月9日号『三原戦法の極意』 】
今の野球ファンなら「三原」を「川上」に置き換えても何の違和感も無いだろう。まさにこの三原の考え方は後の九連覇当時の巨人・川上監督と同一線上にある。つまり昭和35年に「三原魔術」と呼ばれ、万年Bクラスだった大洋を操りペナントレースを攪乱し優勝に導いた三原監督の野球哲学は川上監督と同じだった。世間は三原采配をオーソドックスというより奇略縦横・奇想天外・大胆不敵と捉えて投手起用やピタリと当たる代打策、打撃と守備の分業制…どれもを「魔術」の一言で片づけた。
だが三原にしてみれば魔術でも何でもなかった。それまで野放しにされていた個人プレーをチームプレーに昇華させた結果に過ぎなかった。個人の能力がいくら高くてもチームとして機能しなければ試合には勝てないと言い切り、日本シリーズでは多くの評論家がパ・リーグを制した「ダイナマイト打線」の大毎の圧勝と予想したが4試合全て1点差勝利の4連勝で大毎を返り討ちにし「野球はチームプレーである」との信念を体現化した。この翌年に巨人の監督に就任した川上哲治が独自の組織運営論を編み出し前人未到の九連覇という偉業を成し遂げた事を考えると三原大洋の日本一は、その後のプロ野球界の行く道を指し示した「曙光」と言える。だからこそ多くの民間企業の経営者たちが三原を講師に招いて組織運営の妙を競って求めた。
一流とは程遠い選手を巧みに操り勝利を重ね、敢えて「超二流」と言い放った三原采配はそれ迄の大雑把な野球に対するアンチテーゼだったが、この年以降は野球界の本流となって行く。三原旋風はペナントレースだけではなく他球団の監督人事まで影響を及ぼし、勝てない理由を戦力の差だけではなく監督の能力も大いに関係あると悟った球団が続出した結果、国鉄・宇野監督や広島・白石監督が更迭された。更には中学時代からのライバル水原茂は三原に敗れた事で巨人の監督から東映の監督へ追われる事となった。