Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#324 十大秘話 ② 三原魔術

2014年05月28日 | 1983 年 
日本シリーズの中継放送中に浅沼社会党委員長刺殺というショッキングな臨時ニュースが流れた昭和35年10月。前年までの万年Bクラスで低迷を続けていた大洋を一気に日本一にまで導いた三原采配は球界内だけに留まらず大きな社会的話題になった。


聞き手…ところで、大型チームの西鉄から小粒の大洋に移ってすぐ天下を取った三原野球の極意とは何ですか?
三 原…世間では大洋の優勝を小兵力士が横綱相手に小股掬いなどの小技を駆使して勝ったかのような印象を
    持っていますが違います。大リーグの野球をよく見て下さい。この25年来、パワーベースボールに
    終始してきたがロジャース・ホーンスビー(カブス)の出現でいかに当時の野球が大味で面白味が
    なかった事に気付かされた。彼の出現に影響を受けてポール・リチャーズ(オリオールズ)や
    ダニー・マートー(パイレーツ)が台頭する。彼らの野球スタイルとは従来の力技に加えて軽快な
    フットワークで動き回る、要するにインサイドベースボールを主とした野球で、大洋はこれを取り入れた。
    もう一つはチームプレー重視を徹底した。これまでの大洋では投手が個人記録に拘って監督が交代を
    命じても代わろうとしない事がままあった。

聞き手…冗談でしょ?
三 原…本当ですよ(笑)。それで負けても本人は仕方ないで済むけどチームを預かる身としては堪らない。
    野球は個人の記録よりチームの勝利が優先される競技である事を喧しく言い聞かせましたが難儀しました。
    長年染み付いた悪癖はなかなか拭えない。個人の記録が残らなくても勝利に貢献した選手には、しただけの
    事をしてやる。まぁニンジン作戦ですわ。【 昭和38年11月9日号『三原戦法の極意』 】



今の野球ファンなら「三原」を「川上」に置き換えても何の違和感も無いだろう。まさにこの三原の考え方は後の九連覇当時の巨人・川上監督と同一線上にある。つまり昭和35年に「三原魔術」と呼ばれ、万年Bクラスだった大洋を操りペナントレースを攪乱し優勝に導いた三原監督の野球哲学は川上監督と同じだった。世間は三原采配をオーソドックスというより奇略縦横・奇想天外・大胆不敵と捉えて投手起用やピタリと当たる代打策、打撃と守備の分業制…どれもを「魔術」の一言で片づけた。

だが三原にしてみれば魔術でも何でもなかった。それまで野放しにされていた個人プレーをチームプレーに昇華させた結果に過ぎなかった。個人の能力がいくら高くてもチームとして機能しなければ試合には勝てないと言い切り、日本シリーズでは多くの評論家がパ・リーグを制した「ダイナマイト打線」の大毎の圧勝と予想したが4試合全て1点差勝利の4連勝で大毎を返り討ちにし「野球はチームプレーである」との信念を体現化した。この翌年に巨人の監督に就任した川上哲治が独自の組織運営論を編み出し前人未到の九連覇という偉業を成し遂げた事を考えると三原大洋の日本一は、その後のプロ野球界の行く道を指し示した「曙光」と言える。だからこそ多くの民間企業の経営者たちが三原を講師に招いて組織運営の妙を競って求めた。

一流とは程遠い選手を巧みに操り勝利を重ね、敢えて「超二流」と言い放った三原采配はそれ迄の大雑把な野球に対するアンチテーゼだったが、この年以降は野球界の本流となって行く。三原旋風はペナントレースだけではなく他球団の監督人事まで影響を及ぼし、勝てない理由を戦力の差だけではなく監督の能力も大いに関係あると悟った球団が続出した結果、国鉄・宇野監督や広島・白石監督が更迭された。更には中学時代からのライバル水原茂は三原に敗れた事で巨人の監督から東映の監督へ追われる事となった。
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#323 十大秘話 ① 選手の特権

2014年05月21日 | 1983 年 



先日、都内で開かれたプロ野球実行委員会は「昭和27年以降プロ入りした選手にも10年選手制度を適用してもらいたい」と言う選手会の要望を否決し、「10年選手制度を復活してもその特権を行使できる者はごく限られた少人数に過ぎず、寧ろ残りの大部分の選手を含めた全体の将来を考えるべきで現在の養老年金制度の充実を図る方が有益である」と選手会に回答した。ちなみに資格取得ならなかった主な選手を挙げると昭和27年入団の中西(西鉄)、山内(大毎)、森下(南海)、町田(国鉄)、備前(広島)、昭和28年入団には豊田(西鉄)、藤尾(巨人)、小山・吉田・三宅(いずれも阪神)ら全日本クラスがズラリと顔を並べる。【 週刊ベースボール・昭和33年1月21日号『10年選手制度をめぐって』 】


簡潔に言えば10年間プロ野球界に在籍した選手にボーナス或いは移籍の自由を与える「10年選手制度」を巡って最大の騒動となったのが阪神・田宮謙二郎の場合だった。日大から投手として入団して「あと1人でノーヒット・ノーラン」など非凡な所を見せた田宮だったが当時の松木謙治郎監督に打者転向を命じられた。転向後は中心打者に成長し昭和33年にプロ入りした長嶋の新人での三冠王を阻止する首位打者を獲得しプロの面子を保った。その昭和33年に10年選手の資格を得た田宮を複数の球団が獲得に動いた。しかし田宮は阪神が好きで「タイガースの田宮」で野球人生を全うしようと考えていた。だが阪神球団の田宮に対する評価は低かった。

昭和31年の契約更改で税込み13万円から手取り20万円に昇給したのが阪神在籍中唯一の大幅アップ。翌32年、首位打者獲得はならなかったものの打率2位の好成績でも7千円アップの提示額に普段はお金に無頓着な田宮も保留したが結局1万円アップ止まり。翌年には10年選手の資格を取得する事は分かっていた筈で引き留める気が有ったなら7千円などとみみっちい提示はしなかっただろう。首位打者獲得で田宮の株はグンと跳ね上がった。断っておくが田宮自身は金色夜叉の間貫一ではない。少しでも条件の良い球団を選ぼうとしなかったどころか余りに好条件だと金で動いたと邪推されるのを嫌い逆に尻込みしてしまった。こんな欲の無い選手は今後もう現れないかもしれない。【1月21日号『田宮争奪戦大詰めの三転』】

5球団による烈しい争奪戦の末、田宮は大毎オリオンズを選んだ。ゴールデンルーキー・長嶋の一挙手一投足に沸いた昭和33年は野武士集団・西鉄ライオンズが圧倒的な強さを見せつけた最後の年であり、日生球場や平和台球場に照明設備が完備されて12球団全ての本拠地球場でナイターが行われ、一時代を築いた川上哲治、藤村富美男、西沢道夫、小鶴誠らが次々と引退を表明するなど時代の流れを感じさせる年でもあった。

田宮騒動が大きくなり始めた時期と同じくして「ザ・マン」ことスタン・ミュージアルがいたセントルイス・カージナルスが親善野球の為に来日した。大リーグ関係者は日米野球そっちのけで田宮の去就に大騒ぎをする日本のマスコミに「何事か?」と問い、10年選手制度を知ると「選手にとっては魅力的な制度」と関心を示した。今や大リーグ経営者を震撼させているフリーエージェント制は実はこの時に端を発しているのでは、と考える関係者は多い。日本ではこの田宮騒動を契機に10年選手制度を廃止したが、大リーグはこの制度を参考に6年間プレーすれば移籍の自由が与えられる今のシステムを構築した…とすれば10年選手制度とは何と罪作りなモノだったか。



 ※ 参照: 【 # 287 風雲録 ①…A級10年選手  】  


       
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#322 創刊25周年企画 ⑤ 『25』 にまつわる出来事

2014年05月14日 | 1983 年 



25年前の開幕戦…昭和33年の開幕は4月5日(土)。後楽園球場の巨人対国鉄戦は4万5千人、川崎球場の大洋対阪神戦は1万人、広島市民球場の広島対中日戦は1万7千人とセ・リーグ3球場合計7万2千人が詰めかけた。一方のパ・リーグは小倉球場の西鉄対阪急戦は2万5千人、駒沢球場の東映対南海戦は1万8千人を集めたが奈良球場の近鉄対大毎戦は3千人で合計4万6千人とセ・リーグと比べて寂しい開幕となった。この年の開幕戦の話題は長嶋の4打席4三振に注目が集まるが長嶋と同じ新人の森(中日)と森永(広島)がいきなりプロ初本塁打を放ち初陣を飾った。特に広島の森永は5打数3安打、古葉は6打数3安打と同じチーム2人の新人が揃って開幕戦で猛打賞を記録した。

初の25ホーマー打者…第二次世界大戦が終わり復活したプロ野球で昭和21年にセネタースの大下弘が20本塁打を放ち従来の記録であった昭和13年の中島治康(巨人)と翌14年の鶴岡一人(南海)の10本を大きく更新した。しかしこの記録も昭和23年には早くも青田昇・川上哲治(共に巨人)の2人に破られた。この2人の本塁打王争いは熾烈を極めた。青田が10月22日の大陽戦で新記録となる21号を放つと川上も2日後の同じ大陽戦で21号を放って並び、その後も両者のツバ競り合いが続いた。

10月27日の阪急戦で青田は立て続けに22・23号を放つと川上も11月1日の阪急戦の3回に22号を放ち追いすがる。するとこの試合の7回に青田が打った中前打がイレギュラーして中堅手が後逸する間にランニングホームランとなり再び2本差に。しかし川上も負けてない。11月3日の金星戦で23・24号を連発してまたもや青田に並ぶ。追いつかれた青田は11月11日の大陽戦で25号を放ち、同じ試合で川上は2安打するものの本塁打なし。残り試合が11月15日の南海戦1試合となり青田が逃げ切るかと思われたが川上は4回に広い甲子園の右翼席に放り込んで25本塁打としタイトルを分け合った。


幻の連続試合安打…戦後暫く連続試合安打の記録は金星スターズの坪内道則が持つ25試合とされていた。ところが昭和24年になると忽然と消えてしまった。2リーグ分裂を前に日本野球連盟が過去の記録を精査した所、阪急・野口二郎の「31試合」が見つかったからだ。坪内の記録が昭和23年、野口が昭和21年と年月も近く何故見過ごされていたのか?それは野口が投手と野手の二刀流だったからだ。昔の記録員は野口の本職は投手だった為に打撃の成績まで目が届いていなかった。野口は31試合中、24試合を右翼手或いは一塁手として先発出場する一方で試合途中に右翼や一塁からマウンドへ登った救援登板を含めて13試合に投手として登板しており、その間の成績は5勝5敗・防御率 2.60 、131打数48安打・打率.366 だった。

連続打席塁打…「連続塁打」即ち四死球を除いて途切れる事なく出塁し続ける事、それを「25」まで記録したのが後藤次男(阪神)だ。昭和25年3月29日、大洋戦の6回に放った本塁打が始まり。次の8回の打席では右前打して、この試合で5塁打。翌30日の同じく大洋戦で1回に先ず左中間二塁打、3回に左越え本塁打、4回にも再び左越え本塁打、6回には右中間二塁打、7回にこの日3本目の左越え本塁打しこの試合5安打の固め打ちで計16塁打。更に次の試合の4月2日松竹戦の1回にも本塁打を放ち、3試合通算し「連続打席25塁打」を記録した。

1イニング25塁打…一方、1イニングで25塁打を記録したのは昭和55年の西武。前年の球団創設1年目はブッチギリの最下位だったが2年目の後期になるとオールスター戦を挟んで7月15日から26日にかけて首位に立つなど躍進した。8月7日の近鉄戦は6回までは1対1の接戦だったが7回表の西武打線が火を噴いた。大石の右前打を皮切りに大原の犠牲バントは野選で一・二塁としタイロンの内野安打で無死満塁。続く山崎が本塁打を放ち計6塁打。スティーブの左飛でようやく一死となるが次の田淵は本塁打、続いて土井は二塁打、大田は右前打、立花は本塁打と連打して計11塁打。打順が一巡して大石は四球、大原の遊ゴロで二死となるがタイロン、山崎の連続本塁打で計8塁打。続くスティーブが捕邪飛に倒れて西武の攻撃は「25塁打・11点」でようやく終わった。

25ゲーム差…昭和40年の南海はとにかく強かった。開幕の阪急3連戦に3連勝した南海は、たまに負ける事はあっても連敗は一度のみ。開幕から43日目の5月23日には早くも2位と10ゲーム差、翌々日には他の5球団すべてを勝率4割台に突き落した。6月に入ると1日から15日にかけて10連勝、16日の阪急戦に敗れるも翌17日から7月14日にかけて17連勝。7月14日時点の成績は55勝9敗1分・勝率.859 で2位の東映に25ゲーム差をつけた。ただし、この日がピークだった。7月15日の東映戦に2対5で敗れて連勝がストップすると翌7月16日の西鉄戦も負けて開幕直後以来の久々二度目の連敗を喫した。更に8月29日から9月5日にかけて5連敗、また9月23日からシーズン最終戦までの23試合を7勝16敗と大きく負け越して一時は25ゲームもあった2位との差も終わってみれば12ゲームまで縮まっていたものの、独走と言えるリーグ優勝を果たした。

25三振…三振25と言うだけでは何の変哲もないが46打数25三振・三振率.543 となるとプロの世界では特異な数字である。その選手は今やゴルフ界の寵児、ジャンボこと尾崎将司である。徳島・南海高から昭和40年に西鉄入りした尾崎は前評判通りにオープン戦で好投したもののシーズンに入ると打ち込まれ1年目は17試合に登板し0勝1敗、2年目は僅か3試合に投げたのみで0勝0敗と低迷した。この年で投手に見切りをつけて打者に転向したが42打数2安打・24三振、打率.048 に終わった。打者転向1年目で球界を去るのだが投手時代の成績を含めると46打数2安打・25三振。ちなみに投手成績は20試合・41回1/3 を投げて0勝1敗・防御率 4.83 、四死球9、奪三振22 だった。

最後の25勝投手…最近では珍しくなった20勝投手もかつてはゴロゴロいた。昭和31年には両リーグ合わせて15人、昭和39年にも14人が20勝以上をあげていた。同じ「20勝投手」の肩書きでも最近では昭和56年の江川(巨人)や昭和57年の北別府(広島)は「20勝止まり」で20勝以上となると昭和54年の小林(阪神)と昭和55年の木田(日ハム)の22勝。それだけに30勝投手に至っては昭和43年の皆川(南海)の31勝を最後に現れておらず、25勝投手でも昭和53年の鈴木(近鉄)が最後だ。

待たれる25人目…セ・リーグにおけるノーヒット・ノーラン達成投手は過去24人、昭和51年4月18日に加藤初(巨人)が広島戦で達成して以来、もう6年も出ていない。そんな大記録も出る時は昭和27、31、32、40年と立て続けに出るもので昭和43年には二度も達成された。昭和45年5月18日に渡辺秀武(巨人)が広島戦で達成すると僅か22日後の6月9日に鬼頭洋(大洋)がヤクルト戦で達成した。惜しい場面は幾つかあった。昭和54年6月8日に三沢淳(中日)が巨人相手に9回二死まで無安打と達成目前まで行ったが柳田に右前打され逃した。昨年も鈴木正(ヤクルト)が6月18日の大洋戦で8回二死まで抑えていたが投手の野村に中前打され大記録は泡と消えた。ちなみにパ・リーグは19人で昭和53年8月31日に今井雄太郎(阪急)がロッテ戦で完全試合を達成して以来、4年間出ていない。
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#321 創刊25周年企画 ④ センバツ大会 【後】

2014年05月07日 | 1983 年 
東京五輪が終わり世の中が一息ついた昭和40年・37回大会は岡山東商・平松政次投手(大洋)の独り舞台だった。沖縄のコザ高、明治高、静岡高、徳島商を史上4人目の4試合連続完封して決勝進出。市立和歌山商戦では1点を取られて39イニング連続無失点でストップしたものの、延長13回を投げ切る力投で優勝へと導いた。この平松と決勝戦で対戦したのが藤田平(阪神)内野手。藤田は2回戦の中京商戦で2本塁打の大会記録をマークし当時の南海・蔭山ヘッドコーチがテレビ中継を見て「こんな高校生がいるとは…間違いなく本物で即戦力だ」と感心した。

NHKのテレビ中継がカラー化された昭和41年の優勝校は中京商。準決勝で宇部商と延長15回、試合時間4時間35分の大会最長記録となった熱闘を制し、決勝戦は土佐高に1対0で勝ち4回目の優勝を遂げた。決勝戦における高知県勢の不運は続く事となる。翌年の39回大会でも高知高が津久見高と延長12回まで死闘を繰り広げるが1対2で敗退。勝ち運が無いと言う事では尾道商も同じで昭和39年にジャンボ尾崎がいた徳島・海南高に決勝戦で敗れたのに続いて昭和43年も決勝まで勝ち進むも初出場の埼玉・大宮工に再び1点差負け。ちなみに大宮工に敗れた学校の中には東尾修(西武)を擁した和歌山・箕島高もあった。

この昭和43年から44年にかけて日本中で全学連が活動を激化させ世の中は高校野球どころではなくなる。昭和43年2月、新空港建設に反対する成田市の農民が市役所に押しかけて抗議を行ったがそこに全学連が同調した事で大騒ぎになり警官隊と衝突。3月には東京大学の卒業式に全学連が乱入して式典は中止に追い込まれた。全学連運動はその後も収まる気配はなく翌年の国立大学一期校の入学試験が機動隊の警備の下で行われる異常事態に。そんな昭和44年の大会に青森・三沢高の太田幸司投手の姿があった。太田が注目されるのはこの年の夏の大会になるのだが既に前年の夏と今センバツに出場していた。夏の大会で「コーちゃん人気」で一気に増えた女性ファンは昭和45年の大会を制した和歌山・箕島高の「二代目コーちゃん」こと島本講平投手に熱狂する事になる。

昭和46年は沖縄返還協定調印の年。それに合わすかのように沖縄代表・普天間高が1回戦で青森・弘前工を破って悲願のセンバツ初勝利をあげた。優勝争いは東京・日大三と大阪・大鉄の東西対決となったが日大三が制した。東日本勢の躍進は翌年も続きベスト4を東北高・銚子商・日大三・日大桜丘が独占した。決勝戦は日大三と日大桜丘の兄弟校対決となり初出場の日大桜丘が優勝した。さらに翌年も横浜高が優勝し東日本勢が目立ったがこの大会の話題を独り占めにしたのは作新学院の怪物・江川卓投手だった。

開会式直後の試合で江川は大阪・北陽高と対戦し前評判通りの投球を見せ19奪三振で完封勝利、2回戦の福岡・小倉南を7回を零封。続く今治西も20奪三振で完封して準決勝進出を決めると世間には「高校生で江川を打つのは無理」「今プロ入りしても10勝する」との声が高まり一躍優勝候補筆頭になった。しかし準決勝で対戦した広島商は「肉を斬らせて骨を断つ」戦法、つまり打者が死球覚悟でホームベース上に被さるように立つ作戦を敢行した。結果は2対1で広島商の勝利。江川は43年前に第一神港商・岸本投手が記録した54奪三振(38イニング)を更新する60奪三振(35イニング)の大会記録を残して甲子園を去った。

昭和40年代の最後、49年に蔦文也監督率いる徳島・池田高が甲子園に登場する。部員数僅か11人ながら「イレブン旋風」を巻き起こして決勝まで勝ち進み地元の報徳学園と対戦した。善戦するも1対3で敗れたが「そりゃ勝ちたかったワイ。でも見てみい、ワシには報徳の金メダルよりもウチの生徒の銀メダルの方がピカピカに光って見える」と蔦監督は胸を張った。またこの大会で木製バットの使用が最後となったが本塁打がランニングホームランが1本だけという珍しい年だった。

昭和50年から高校野球は金属バット時代を迎え、開会式直後の第1試合・中京-倉敷商戦は16対15の乱打戦となりこれまでの守りを中心とした野球から打撃が中心の攻撃野球へと変貌を遂げた。前大会の本塁打はランニングホームランが1本だけだったがこの大会は8本に増えた。優勝した高知高以上に目立ったのは神奈川・東海大相模だった。打線の中心の原辰徳は快打を連発し決勝戦でも左中間に本塁打を放ったが優勝には手が届かなかった。「僕たちは優勝する為にやって来た。その夢は叶わなかったがここは勇気を与えてくれた青春の場です」と語り爽やかに甲子園を去った。

昭和51年の大会は出場30校中13校が初出場というフレッシュな大会だった。その中で初出場ながら優勝候補に上げられていたのが広島・崇徳高。1回戦の高松商を11対8の打撃戦で倒し2回戦では1回戦の対糸魚川商工相手にノーヒット・ノーランを達成した戸田投手擁する鉾田一に勝つと波に乗った。準々決勝、準決勝を危なげなく勝ち決勝戦で栃木・小山高も倒して初出場&初優勝の快挙を遂げた。初出場の躍進は翌年も続き、部員数12人の高知・中村高が準優勝に輝いた。エース・山沖之彦投手(阪急)を中心に爽やかに戦い続け決勝戦で箕島高に敗れはしたが日本中に「二十四の瞳」旋風を巻き起こした。

第50回の記念大会となった昭和53年に群馬・前橋高の松本稔投手が春・夏通じて史上初の完全試合を達成した。冷静に打者を観察して打たせて取る投球に野手陣も随所に好守を見せ滋賀・比叡山高は凡打の山。優勝したのは静岡・浜松商で準優勝は福井商だった。センバツ不毛の地と言われていた北陸路に準優勝旗が翻った大会だった。この大会で人気を独り占めしたのが大阪・浪商の香川伸行(南海)だった。巨体から繰り出される豪打は目を見張るものがあったが浪商は香川・高松商に敗れた。翌昭和54年に再び甲子園にやって来た香川の身体はさらに一回り大きくなっていた。エース・牛島和彦投手(中日)の力投もあり浪商は決勝まで進むが和歌山・箕島高に7対8で敗れ悲願達成はならなかった。

昭和50年代後半になると群雄割拠の時代を迎えるようになる。そんな昭和55年・52大会を制したのは高知商。決勝戦で東京・帝京高を破って10回目の出場にして悲願の初優勝を遂げた。翌56年からは「逆転のPL」の時代。第53・54回大会を連覇したが、これは実に52年ぶりの快挙だった。特に54回大会決勝は東京・二松學舍相手に猛打が爆発して決勝戦での史上初となる先頭打者本塁打など15点を上げて圧勝した。高校野球は技術からパワー時代への幕開けを迎える事となる。



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