納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
「私の与り知らない話が次から次へと飛び交い迷惑している」 小津球団社長が半ば呆れ顔でぼやくのも無理もない。9月初旬に在阪スポーツ紙が中西監督の進退を「辞任」と「留任」の二手に分かれて報道合戦を開始して以来、広岡・野村・西本・吉田・村山・安藤など「次期監督候補」の名前が出るわ出るわ・・肝心の中西監督自身は未だ自らの進退について明言していないのに。確かに中西監督は態度表明してはいないが周辺を取材した記者によると家族には「今年で身を引く」と伝えているらしい。東京・渋谷区に住む家族は去年の段階で退団を薦めていたが本人の希望を尊重して今年も監督をする事を認めた。しかし一連の球団内でのゴタゴタに嫌気がさして今度こそ「帰って来て欲しい」と懇願し本人も了承したとの事。
後任は誰なのか?小津球団社長の本命は広岡氏である。そもそも一連の阪神の監督を巡る騒動の根源は昭和53年オフの広岡氏招聘失敗にあると見ている関係者は多い。この年は広岡氏がヤクルトを率いて日本一になったのだが、選手の食生活改善にまで着手した広岡氏がベンチ内の飲料水をヤクルト製の乳酸飲料から豆乳に変更した事に松園オーナーが激怒し対立した広岡氏は退団を決意していた。その情報をキャッチした小津社長がシーズン中にもかかわらず「阪神を立て直して欲しい」と監督就任要請をしたのだ。広岡氏は「辞める翌年に同じリーグに行くのは・・・」と渋っていたが小津社長の熱意に折れて要請を受諾した。「俺について来たい者は一緒に来い。同一リーグは…と思う者はヤクルトに残って構わない。君らの生活に関る事だから充分に考えて結論を出して欲しい」と広岡氏は当時のヤクルトのコーチ達に告げた。
小津社長は広岡氏の何を評価しているのか。「広岡氏の厳しさと管理野球を阪神に注入して欲しい。彼なら巨人に対抗できるチームを作り上げる事が出来る」それが小津社長の思いだった。選手を叱れない首脳陣の体質が江本ら選手達の造反を引き起こす原因だと考え、戦力補強よりも先ず監督・コーチ陣の改善から始める決断をしたのだった。さっそく広岡氏の意を受けてコーチ陣の組閣を秘密裏に開始したが、この阪神の動きがマスコミに漏れてしまう。ヤクルトが阪急を倒し日本一を達成した翌日のスポーツ紙に『広岡退団、阪神監督就任へ』 とスッパ抜かれてしまった。これで「阪神・広岡監督」構想は泡と消えてしまい球団は急遽、ブレイザー監督に乗り換える事になる。今回の中西監督退団で足掛け4年に渡るラブコールが再燃したのだ。
阪神と広岡氏の交渉は第三者が介在した回数も含めると五度ほど行なわれた。しかし遂に合意には至らなかった。広岡氏が提案した球団改革案は小津社長の想定以上の物で阪神側から交渉打ち切りが告げられた。「広岡君とは縁が無かった」小津社長に残された選択肢は球団OBしか無かった。巷間ウワサになっていた野村氏や西本氏には打診すらしていなかった。「村山か吉田か」しかし阪神電鉄本社筋によると両者とも候補にすら上がらなかったという。「もうスター選手がそのまま監督になる時代じゃない。大リーグでは3Aの選手を育て上げてた監督が彼らを引き連れてメジャーの監督に就くケースが増えている。ウチの二軍にも安藤という適任者がいるではないか」これが本社側の考えだった。安藤二軍監督には村山や吉田のような現役時代の実績は無い。そんな人物に阪神を託して大丈夫か?小津社長は熟慮の末に「安藤はいずれは阪神の監督になる男」であると判断、生え抜き監督の台頭に賭ける事となった。
10月23日午後2時、大阪市梅田のホテル阪神で新監督就任会見が始まった。同席した小津社長は何度も「予定通り」を強調。「阪神電車はいつもダイヤ通りに動いています。阪神の監督人事も今日の会見も予定通りです」と自虐的に話すと報道陣からも苦笑が漏れた。ここ数週間に渡り本命の広岡氏や野村氏・西本氏といったビックネームが世間に氾濫していただけに、地味な安藤二軍監督の会見に集まった報道陣の数は昨年のブレイザー監督を引き継いだ中西監督の就任会見と比べてかなり少なかった。それでも4年ぶりの生え抜き監督、内部昇格となると昭和42年の村山監督以来12年ぶりとなる今回。阪神の本気度は異例の5年契約が物語っている。
1981年のオフは5球団の監督が交代する激動の事態に。その中で真っ先に動いたのが大洋でした。
「長嶋さんを是非ともウチに…」長嶋氏が大リーグ視察から帰国した翌日の9月18日、球団の意を受けた人物が長嶋氏と接触した。事実上の監督就任要請である。大洋漁業本社・中部藤次郎社長が最初に長嶋氏に親書を送ったのは3ヶ月前の6月上旬と言われている。その頃の大洋は最下位を独走中で昭和35年の初優勝以来最低の成績(昭和51年、秋山登監督時代の45勝75敗7分)を更新しかねない状態だった。
9月24日、中部社長が正式に長嶋氏招聘を宣言したが驚いたのは寝耳に水の土井監督だ。今シーズンはまだ15試合を残し、しかも当日もヤクルト戦が予定されていた。試合終了後の午後11時過ぎ武田球団社長が「このまま指揮を執らせるのは気の毒」と土井監督の解任を発表、しかし後任は未定。翌日は広島への移動日で、この移動の間に山根コーチに監督代行を要請し了承を得た。いかに中部社長の発言が根回しもなく唐突であったのかが分かるドタバタぶりを露呈してしまった。
「私は昨年の12月頃には大洋の監督には長嶋氏をおいて他にはいないと考えていた。長嶋氏が来てくれるならコーチはもとよりスカウトまで全て長嶋氏にお任せする用意は出来ている。もし二浪するというのならばその間を別の人物に指揮してもらい、例えシーズン中での監督交代となっても構わない」これが中部社長のコメントである。思えば今年1月1日のスポーツ紙に『大洋、長嶋獲得へ』の見出しが躍り、土井監督はその日から「長嶋監督」の影武者にならざるを得なかった。
「大洋さんと接触した事実はありません」 一方の長嶋氏は全面否定だ。それは無理からぬ事で、仮に監督就任となりコーチ陣を組閣するとなると現コーチたちのクビを切らなくてはならない。その手の汚れ役は本来なら球団がすべき事だが、ここまで表沙汰になった以上はコーチやスカウトの解雇は長嶋氏の意向という事になってしまうからだ。球界のしきたりを無視した中部社長の勇み足発言により、長嶋監督実現の可能性はほぼ無くなり大洋の監督探しは振り出しに戻る事となった。
新監督探しは難航し1ヶ月が経ち秋季キャンプが始まっても決まらない。東京・大手町の本社内には混乱を早く収める為に球団OBの秋山登、近藤和彦氏らを推す声もあったが中部新次郎オーナー(本社副社長)は「OBではこれまでと変わらない。野球を良く知り、クリーンな人」と旧来の人事を良しとしなかった。11月になっても決まらず難破寸前だった大洋丸を救ったのが関根順三氏だった。所属先のニッポン放送が大洋球団の株主(30%所有)という関係もあって関根氏に火中の栗を拾ってもらい、11月6日にようやく新監督就任会見の運びとなった。
会見での質問は専ら長嶋氏に関する事に集中した。「長嶋君が来るならいつでも監督の座を明け渡す」と新監督は明言した。「昭和50年長嶋巨人の1年目、ヘッドコーチとして招聘されながら期待に応えられず長嶋君には不義理をしてしまった」「長嶋君にバトンタッチするのが私の仕事だと思っている」等々、「関根監督&長嶋総監督」の様相を呈した会見となった。長嶋監督に少しでも良いチームにして禅譲する為にするべき事として、➊投手陣の底上げ ➋ドラフトでは即戦力投手を指名 ➌ラコック、ピータースの両助っ人は解雇し右の大砲の獲得 を今後の目標としてあげた。大洋は本気で長嶋監督実現を目指している。本気度を示す球団人事も同時に発表された。武田五郎球団社長、別当薫球団代表、芹野真也総務部長を解任し新たな人材登用で旧来の球団色を払拭。加えて取締役管理広報部長職を新設して新生・関根大洋丸は出航した。
毎年この時期は日本シリーズの取材で在野の解説者たちが一同に顔を揃える為、ストーブリーグが本格的に始まる事になる。第3戦の開始前、阪神を退団したばかりの中西太氏が義父にあたる日ハム・三原代表と共に正面ゲートをくぐった。ヤクルト・大洋・西武などが監督や打撃コーチにと声をかけていると報じられている為、グラウンドに姿を見せるやいなや報道陣に囲まれると早々にベンチ裏へ避難した。そこで出くわした鈴木セ・リーグ会長に「お前みたいな有能なヤツは遊んでちゃダメだぞ。少しでも球界に恩返ししないとな」とハッパをかけられてタジタジ。さらにその場にテレビ朝日の解説で来ていた西本幸雄氏に「もう進路は決まっているんだろ、俺にだけ教えろ」と詰め寄られると、ほうほうの体で逃げ出した。
中西氏に負けないくらい「時の人」だったのが前ロッテの張本勲氏だ。山内監督の突然の辞意発言で一躍、後任監督として急浮上してきた。山内監督が重光オーナーや球団社長の慰留を振り切って退団するようなら次期監督の第一候補と噂されている。もしも山内監督が辞意を翻意したとしても助監督ないし打撃コーチでの入閣が確実視されている。監督人事ばかりではない。「日本シリーズで各球団の代表が集まりますからトレードの話もしますよ」と言っていた南海・塩見代表は中日・鈴木代表を見つけるとすかさず「藤波を金銭で譲ってもらえませんか?大島を放出する用意があるようですが、どのクラスの見返りなら…」と早速にヒソヒソ話。一方、話を持ちかけられた中日・鈴木代表が近鉄・山崎代表に「羽田か栗橋のどちらかを何とか貰えませんか?できれば村田も。ウチは左腕不足なもんで・・」 と今度は逆に申し込む側に。交換要員には大島や三沢が用意されているそうで、一気に大型トレードに発展か!?と報道陣は色めき立った。
長嶋監督までの繋ぎで大洋の監督に就任するのではと言われている青田昇氏は「出て行くとマスコミがうるさい」と解説が無い日は巨人のOBルームに籠もりテレビで観戦。野村克也氏も一時は大洋やロッテの後任候補として名前があがったが、本人は執筆や講演会で既に来年のスケジュールはびっしり埋っていて「この1年ネット裏から野球を見る事で勉強になった。解説者の仕事は私の性分に合っているようだし、もう暫くこの生活を続けたい」と現場復帰を否定した。今一番の注目が大洋OBの秋山登氏だ。長嶋監督までの短命内閣だけに常識的には引き受けないだろういう見方が大勢だが秋山氏と中部社長との仲を知る人は「全く無い話ではない」と見ている。秋山氏本人も「藤次郎社長とは現役時代によく銀座で飲み歩いた間柄だったし頼まれたら無碍には断れないだろうな。いちOBとしても大洋の事は気になるしねぇ…」と全面否定はしていない。
現実的には可能性が低いと言われている「大洋・長嶋監督」に大洋漁業本社・中部藤次郎社長が今なお諦めずに動いていられるのも最後は秋山氏に泣きつけば何とかなるという保険があるからだと言われている。巨人打線が爆発して大勝した第4戦のテレビ中継が終わりチャンネルを変えると「いわゆるですね…」とカン高い独特の声がテレビから聴こえてきた。声の主は大リーグのワールドシリーズ中継の解説をする長嶋氏だった。ストーブリーグの超目玉は日本の喧騒をよそにヤンキースとドジャースの熱戦にノリノリだった。
前回の「完封勝利 ①」で記事になっていた佐藤政夫のインタビューです
聞き手…投手陣が崩壊している大洋で孤軍奮闘中ですけど、何が変わった?
佐 藤…正直言って、ここ2~3年は手を抜いていました。でも去年中日をクビになってさすがに危機感が増しました。
聞き手…今さら?
佐 藤…エへへ、遅まきながら。「結果が出ないのは使ってもらえなかったから」と他人のせいにしてフテくされていました。僕は走るのが苦手でいつも後ろの方でチンタラ走っていたけど大洋の選手はよく走るんですよ、投手も野手も。それにつられて今年のキャンプでは過去11年分以上を走りましたね。金田さんが投手は走らにゃアカンと言ってますけど、あれは本当ですね。明らかに球のキレが違います。気がつくのが遅すぎましたけど(笑)。
聞き手…変わったのはキレだけで球種は増えてないの?
佐 藤…よく聞かれるんですが同じですよ。ただ思いっきり腕を振るようになるとボール球でも打者が振ってくれるんです。中日戦に勝って「恩返し」となった時も田尾にシュートを投げたら「ん?」って顔をするんです。去年までは左用のワンポイントで外へのカーブを多投していたから打者、特に左打者にはインコース攻めのイメージが無いんでしょうね。それが今はカーブを見せ球にしてインコース勝負が多いですから戸惑っているんだと思います。
聞き手…巨人にいたのは1年だけだったけど同期は誰?
佐 藤…ドラフトの指名順で言うと1位が小坂(引退)、2位が阿野(巨人コーチ)、3位が萩原(広島)、4位が大竹(引退)、5位が僕で6位が河埜(巨人)です。でも二軍暮らしでしたから高田さん達一軍選手に会う機会は殆んど無かったですね。一軍の多摩川でのバント練習に投げたくらいですかね。
聞き手…じゃ巨人の思い出は無いか
佐 藤…それが大ありなんです。合宿所の厳しさですよ。色んな球団にお世話になりましたが巨人が断トツで厳しかったです。
聞き手…武宮さんだったからね。それも元気一杯の頃だから・・・
佐 藤…いきなり故郷の両親へ手紙を書かせるんです。社会人として恥ずかしくない言葉使いや文章を書けるようにって。でも書いた手紙を複写して壁に張り出すのには参りましたよ、中には小学生みたいな下手クソな字もあって皆で大笑いしてました。
聞き手…すぐロッテに移籍したんだ
佐 藤…当時はウェーバー会議というのがあって各チームが放出しても構わない選手リストを持ち寄って、欲しい選手がいたら獲得できたんです。まぁ早い話がクビですよ。
聞き手…ロッテにも1年いただけでアメリカの1Aに行くことに
佐 藤…行く前は「1Aなんだから20勝してこい」と植村コーチに言われたんですけど、1Aと言ってもパワーは凄いしガッツ溢れるプレーが多かったですね。さっき投げていた投手が降板後にクビになるなんて普通でした。日本みたいに1年契約じゃないですから選手の入れ替えが激しいんです。
聞き手…ロッテに戻った翌年に今度は中日へ移籍。初勝利はまだ?
佐 藤…まだです。初勝利は昭和51年ですけど惜しい場面もあったんですよ。昭和50年5月のヤクルト戦で先発して6回まで無失点、2-0とリードして抑えのタカマサ(鈴木孝政)に代わったんです。当時のタカマサは向かうところ敵なし状態だったから「初勝利だ」と喜んでいたら、あっ気なく打たれて同点に・・。
聞き手…運が無いねぇ
佐 藤…それだけに巨人相手に初セーブをあげたは嬉しかった。やっぱりリリーフ向きと判断されたのか以後はリリーフばかりで、先発はローテーションの谷間の時くらいでしたね。
聞き手…リリーフの印象が強くなったのはその頃からだよね
佐 藤…昭和51年が50試合、翌年が52試合に登板しました。ちょうど王さんの700号本塁打で世間が盛り上がっていた時で、投手陣には「絶対に打たせるな」と首脳陣からハッパを懸けられてましたね。そんな時に限って先発のお鉢が回ってくるんですよ。打たれるわけにはいかないから全部歩かせましたよ(笑)。
聞き手…去年クビになった中日にも「恩返し」が出来て一息つけるね
佐 藤…僕はまだまだの選手だと思っています。クビになった男が古巣に勝ったとか転々と球団を渡り歩いた投手が12年目に芽を出したとかスポーツ紙は持ち上げてくれてますけど、この程度の投手は掃いて捨てるほどいます。現状に安閑としていてはダメなんです。最低限いまの状態をシーズン終了まで維持出来なければ、来年はまた1からやり直しだと思っています。
去年から飛ぶボールに代えて低反発の統一球を採用した事により投手優位となり得点が入らない投手戦が増えて野球がつまらなくなったとの意見もあるようですが、投手にとっては完封は勲章。投手戦も野球の醍醐味の1つと考える人も少なからずいます。30年前には既に完封試合を見たくてもなかなか見られない時代になっていました。狭い球場に圧縮バット全盛の打高投低時代では仕方の無い事でしたが。
途方もない年間記録がある。昭和17年の野口二郎(大洋)と昭和18年の藤本英雄(巨人)の19完封である。確かに今とは打撃レベルは格段に違っていた。昭和17年のリーグ全体の打率は1割9分7厘、本塁打は420試合で108本(1試合平均 0.26 本)と4試合に1本の割合でしかない。首位打者の呉波(巨人)の打率は2割8分6厘、本塁打王は古川清蔵(中日)で8本だった。
野口は48試合に先発し41完投・19完封、藤本は46試合に先発し39完投・19完封。さらに藤本は延長12回引き分けが2試合あるので、実質は21完封だった。2人とも先発したらほぼ完投し、その半分は完封していたのである。2人に続くのは
完封数
16 スタルヒン (巨人・昭和17年)
13 小山正明 (阪神・昭和37年)
12 林 安夫 (朝日・昭和17年)
〃 (朝日・昭和18年)
川崎徳次 (巨人・昭和23年)
権藤 博 (中日・昭和36年)
11 森弘太郎 (阪急・昭和11年)
金田正一 (国鉄・昭和33年)
米田哲也 (阪急・昭和33年)
村山 実 (阪神・昭和40年)
いずれも球史に名を残す投手たちである。
通算では1位・スタルヒンの83試合、2位・金田正一の82試合、3位・小山正明(阪神~ロッテ)の74試合、4位・別所毅彦(南海~巨人)の72試合。現役では鈴木啓示(近鉄)が68試合で5位にようやく顔を出す。鈴木に次ぐのは江夏(阪神~南海~広島~日ハム)の45試合だが今では先発で投げる事はない。最近では4試合連続を含む6完封の江川が傑出している。前半戦は2完封で、これは定岡(巨人)も4月中に2完封しており騒ぐ程の数ではない。だがオールスター戦直前の大洋戦を3安打、後半戦スタートの阪神戦を5安打、以降は阪神戦・8安打、ヤクルト戦・3安打と抑えて4試合連続完封を成し遂げた。
その江川でも年間10完封には届かない。2リーグ分裂後10完封に達したのは、村山と伊藤芳明(巨人)の昭和40年を最後に現れておらず昭和44年の成田文男(ロッテ)の9完封が最高である。現役投手は300人近いが、そのうち完封の経験者は97人だけ。西武の松沼兄は入団早々16勝するなど今年まで75試合に先発し27完投しているが完封はゼロ。今年の5月27日のロッテ戦では8回二死まで2安打無四球と好投していたが落合に一発を見舞われ初完封を逃した。
なかなか難しい完封勝利を今年になって初めて達成した投手達がいる。久保(近鉄)は5月9日の阪急戦で5年目、岡部(日ハム)も7月19日の西武戦で同じく5年目の初完封。谷(近鉄)は4月18日のロッテ戦で7年目で、工藤(阪神)も大洋戦で同じ7年目で達成した。彼ら以上に年月を要したのが佐藤政夫(大洋)で、完封勝利まで11年かかった。佐藤は昭和45年2月に巨人に入団。翌46年には早くもロッテへ移籍、さらに翌47年にカリフォルニア独立リーグのローダイへ派遣された。29試合に登板し3勝2敗の成績で帰国すると今度は昭和48年のシーズン途中に中日へ移籍、昨オフに中日を自由契約となり大洋に拾われた。プリ入り後はリリーフが多く、201試合登板・投球回数が247回 2/3 の投手が大洋で先発する事になる。
当初は大洋でもワンポイント専門だったが先発投手陣の崩壊で急遽5月3日の中日戦に初先発すると3回まで無失点だったが4回に打たれて降板した。5月8日の巨人戦にも先発して負け投手になったものの6回2失点だった。5月22日の中日戦では7回1失点で勝利投手となった。そして7度目の先発となる8月3日のヤクルト戦で初完投&初完封を達成した。「終わった瞬間にドッと疲れが出た。夢にも思っていなかった完投・完封でしたが気分は良いけどシンドイわ~」今年不振の大洋投手陣で唯一の完封勝利投手の佐藤は、今やしっかりローテーション入りしている。