Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#294 銭闘開始

2013年10月30日 | 1982 年 



江夏 豊(日ハム)…広島からトレードで東京に越して来て2年、借家暮らしを続けてきた江夏が東京・世田谷に1億数千万円を投じて新居を購入した。大枚を叩いたからにはそれ以上のモノを手に入れる必要がある。いよいよ球界注目の契約更改が始まるが昨年に山本浩(広島)に譲った球界最高年俸選手の座を奪取する算段だ。チームは連覇を逃したが自身は8勝4敗29Sをマークし通算200勝も達成するなど充実した1年だった。山本浩とは3百万円差の6千2百万円が幾らまで増えるのか注目されるがマスコミ予想では7千5百万円が相場となっている。

「もし球団がガタガタ言うようだったら判は押さんよ」と宣言する江夏の目標は球界初の1億円プレーヤーだ。「金額に拘るのは自分の為だけじゃない。後に続く後輩らの為にもワシら年寄り連中が体を張って球団とやり合わんとならんのさ。本当なら王さんがとっくの昔に1億円を超えてなきゃならんかったのに、人が良い王さんは球団の言いなりだった。損な役回りさ」と胸中を吐露する。

東京に家を構えたと言っても「やれてもあと2~3年、欲しいと言われればどこへでも行くつもり」と日ハムに骨を埋める気はサラサラ無いが日ハムは当然の事ながら来季のV盗りを江夏の左腕に託す。先発から不死鳥の如く蘇り日本一の火消し男にのし上がった。そんな江夏のもとには早くも各マスコミから評論家や解説者の依頼が殺到しているという。「投げる事しか能の無い男にそんな依頼は名誉な事だが今は1日でも長くマウンドに立ち続けたい」と現役に固執している。新居に腰を据えた孤高の勝負師の目は既に来季を見つめている。



掛布雅之(阪神)…神戸で1日税務署長を務めた際に「プロ野球選手は若くても働きさえすれば同年代の会社員よりも多い収入を得る事が出来ますが実働年数は束の間です。ですから稼げる時に大いに稼いで積極的に納税したい」と語り、集まった聴衆との質疑応答で「来季の年俸は幾ら位を狙っていますか?」の問いに「今は具体的に●●円とは言えませんが2~3年のうちに1億円を貰う選手になりたい」と答えると大きな拍手を浴びた。今季は本塁打と打点の二冠に加え地味ながら最多出塁のタイトルを獲得し名実ともにセ・リーグを代表する選手になり年俸の大幅アップは確実だ。

今季の年俸は3千6百万円で2年前までトップだった小林投手の上を行く。下馬評では来季は5千万円は確実で6千万円にどれだけ近づけるかが焦点となっている。来季の活躍次第では一気に球界ナンバー1の座に躍り出る可能性もある。しかし掛布の目は遥か遠くを見定めていた。「アメリカじゃ複数年契約や出来高払いなど日本では考えられない年俸システムが存在している。今すぐには難しいだろうけど、いずれはそんな大型契約を結んでみたい」と大変な鼻息で野望を語った。

近い将来、掛布を一塁へコンバートしようとする話がベンチ裏では進行しているという。やがては衰えてくる肩を見越して負担の少ない一塁で打撃に専念させようという訳だ。二塁・真弓、三塁・岡田、遊撃・平田と共に夢の内野陣を完成させるのが安藤監督による阪神黄金期計画案だそうだ。「三塁には人一倍愛着があるので今すぐのコンバートは考えられないけど一塁手で1億円プレーヤーも悪くない」と本人も満更でもないようだ。




東尾 修(西武)…今日は東でパーティー、明日は西でゴルフコンペとバラ色のオフを満喫している。シーズン成績は10勝11敗1Sと満足のいくものではなかったが日本シリーズでのMVPでまさに有終の美を飾った。プロ入り14年目で初めて手にした「名誉」だった。確かに最多勝のタイトルを獲った時も周囲から祝福されたが今回の反応は今まで経験した事がない名誉を感じるものだった。「オフがこんなに楽しいものだと初めて分かった。やっぱり勝負事は勝ってこそ価値があるんだね。一度こうした経験をしてしまうと来年も…と欲が出る」 11月29日には10年間プレーした福岡に里帰りして各テレビ局を走り回り、12月2日に博多の西鉄グランドホテルで開催された祝賀パーティーに出席し改めて日本一の喜びに浸った。

ひょっとしたら今頃は歓喜の輪から外れて同僚を眺めていたかもしれなかったのだ。前期優勝争いの真っ只中の6月初旬、某セ・リーグ球団との交換トレード話が持ち上がっていた。勝ち星こそ稼いでいたが完投数は減り安定感も欠ける内容に信頼度は低かった。そんな時にトレードを申し込まれた首脳陣は一度は検討したものの結局は立ち消えとなり、東尾は後期終盤からリリーフ役に配置転換されて蘇った。

名誉を手にすると次には金銭欲も出てくる。「3千5百万円?冗談じゃないよ、俺は4千万円を譲るつもりはない」と今季の2千9百万円からの大幅アップを要求する鼻息は荒い。東尾も既に32歳と投手としては峠を過ぎようとしている年齢で、この先何年も第一線で投げられる保証はなく「貰える時にシッカリ貰っておかないと」と考えるのも無理はない。

タマエ夫人が博多で店を構えて商売をしている為、妻子を福岡に残しての単身生活も4年が過ぎる。娘の理子ちゃん(小1)は福岡で生まれ育って友達がいる福岡を離れるのを嫌がっているという。数年後には引退という人生の岐路に直面する事になる筈で家族が一緒に暮らしていくには東尾が福岡に帰るしかないであろう。一家の大黒柱として引退後の生活を家族に心配をさせる訳にはいかない。その為にも当面の生活費としてある程度の蓄えを確保しておく必要がある。ここ数年、必ずトレードの噂が飛び交って不安なオフを過ごして来たが今年は腰を据えて年俸交渉に臨めそうだ。
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#293 1982年・ドラフト会議 ②

2013年10月23日 | 1982 年 
「お父さん、お母さんゴメンなさい。僕が軽率でした」目を真っ赤に腫らした畠山投手は両親の前で手をついた。甲子園で日本一に登りつめた優勝投手の雄姿はそこには無かった。ドラフト会議当日、南海の単独1位指名を受けて「バッチリ予想通りでした。香川さんとバッテリーを組んでみたい。2~3年後には2桁勝利を狙います」と念願のプロ入りが叶った嬉しさの余り我を忘れて早々とプロ入りを宣言してしまった。だが両親の許しを得ていない段階でのプロ入り宣言は無分別すぎた。ドラフト会議後初の週末に阿波池田駅から土讃線に乗って意気揚々と徳島県小松島の実家に帰った畠山を待っていたのは祝福ではなく両親からの厳しい叱責だった。

「ドラフト会議後にお前は何を言ったのか分かっているのか?周囲と相談もせず勝手にプロ入りを宣言するとは一体どういうつもりなんだ。もしもプロ入りしないとなったら南海球団にも迷惑がかかる事を考えなかったのか?」普段から躾に厳しい父・匠さんだけでなく、いつもは自分を庇ってくれる母・ツミ子さんも「お母さんが前々から大学進学を勧めているのは今回のように世間知らずのまま世の中に出てはお前の為にならないと考えたからですよ。お母さんはお前をいい加減な事を口走るような子に育てたつもりはありません」「なぜ池田高校の普通科に進学させたかは分かっているでしょ?今の世の中は大学を出てこそ一人前。すぐに社会に出すつもりならわざわざ遠くの池田高校へ進学させません」と父同様に叱った。

卒業後の進路について両親とは何度も話し合い、例え希望するセ・リーグ球団から指名されても即答はしないと約束していた。しかし勉強が苦手な畠山にしてみれば「いざプロから指名されれば両親も大学進学を諦めてプロ入りを許してくれるだろう」とタカをくくっていた。「今のお前のような甘い考え方しか出来ない人間がプロへ行っても成功する筈がない」と父に断言され畠山の目はみるみる涙で溢れた。結局、畠山のプロ入りは白紙に戻った。ドラフト会議直後に穴吹新監督自ら池田高校へ出向き指名の挨拶を済ませた南海は経緯を静観していたが現状は「まな板の上の鯉」だ。「一縷の望みは畠山投手の『プロに行きたい』という気持ち。畠山家の前にテントを張ってでも食らいつきます」と内海スカウトも必死だ。

8千5百万円!というプロ野球史上最高の契約金を要求しようとしているのが野口投手(立大)だ。と言っても本人が口にしているのではなく山本監督(立大)が「引退後も借金なしで生活できるくらいのものを確保する事がプロ入りの条件。手取りで5千万円は必要」と語った事から税込み8千5百万円という額となったわけ。これに対して西武は「出来るだけ意向に沿いたい」と太っ腹な対応を見せている。もしこれが実現すれば原の8千万円を超える最高額となる。

同じ大学組の木戸・西田・田中の法大トリオで最も好待遇を受けているのが木戸捕手だ。熱烈な逆指名が功を奏して阪神の1位指名をゲット。ドラフト会議翌日に挨拶に訪れた田丸スカウトから背番号の提示を受けるなど相思相愛ぶりを披露し気分は既に阪神の一員だ。西田外野手も「希望するセ・リーグで文句なし」と広島カープ入りに支障は無さそうだ。ただ一人複雑な表情を見せたのが田中投手。「日ハムに悪い印象は無いですけどセ・リーグ希望だったから…」と今ひとつスッキリしない。しかし日ハムも小島球団代表が直々に交渉に出向くなどの熱意で口説く予定だ。契約金などの増額で「誠意」を見せれば入団の可能性は高い。

今ドラフトで異色な存在なのが中日3位指名の市村則紀投手(電電関東)。ドラフト指名選手中史上最高年齢30歳の「ベテラン投手」で、30歳と言えばプロ野球では中堅クラスだが社会人野球では業務に専念させる年齢の「肩たたき」世代だ。茨城・石下高校から東洋大へ進学するも同学年に松沼兄(現西武)がエースとして君臨していた為に目立たない4年間を過ごし、電電関東に就職後も主戦投手は田中幸雄(現日ハム)で市村はここでも2~3番手投手。田中投手のプロ入りでようやく陽の目を見てプロのスカウトの目に留まるようになった。

169cm・73kg の小兵。奥さんと2人の子供がいて安定した会社員の身分を捨ててまでしてのプロ入りはリスクが大きい。しかし本人は「ここまで続けた野球をトコトンやってみたい。プロへの憧れもあるしカミさんを説得してみます」と中日入りに意欲的。指名した中日側は「確かにこの年齢でのプロ入りは冒険だと思うけど本人の『是非ともプロで投げてみたい』という意欲に賭けた。年齢の割に肩は使い減りしてなく即戦力と考えてます(田村スカウト部長)」と期待は大きい。一方の会社側は昨年の田中投手に続き2年連続で主戦投手のプロ入りに難色を示してはいるが基本的に「本人の意思を尊重する」としている為、30歳の子連れルーキー誕生の日は近い。












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#292 1982年・ドラフト会議 ①

2013年10月16日 | 1982 年 



ヤクルトスカウト陣にとってそれは青天の霹靂と言えるものだった。ドラフト会議を一週間後に控えた11月17日、東京・東新橋にあるヤクルト本社7階の球団事務所に武上監督、相馬球団代表、塚本スカウト代表、片岡・巽スカウト、田口総務部長が顔を揃えての第4回スカウト会議真っ最中に会議室の電話が鳴った。電話の相手は松園オーナーで相馬代表が16階にある社長室へ呼び出された。戻って来た相馬代表は開口一番「1位指名は荒木(早実)でいく」と松園オーナーの指令を伝えた。その瞬間、武上監督の表情が一変した。チーム再建には投手力の充実が急務で度重ねたスカウト会議で既に野口投手(立教大)の1位指名入札と外れた場合は岡本投手(松下電器)とする即戦力の指名が決まっていて、荒木の名前は早い段階で指名リストから除外されていたからだ。

確かに荒木人気は捨てがたいが本人は大学進学を口にしていてプロ入りの可能性は薄いと見られていた。ところが松園オーナーは独自のルートでプロ入りの手応えを掴み荒木指名の指令を出したのだ。荒木家に影響力を持つ後見人のA氏と接触して実は荒木家は家業の工務店の実情は苦しく、何より早大に進んでも4年後には二束三文の投手になっているかもとの不安を荒木自身が持ち進路を決めかねている事実を掴んだ。さらには早大進学自体が確約できる状況ではない事が分かった。これにスター選手不在で人気対策に苦慮していた松園オーナーが飛びついた。実力的には「完成され過ぎて伸びシロは無い(在京球団スカウト)」と分かっているが、あの人気をみすみす逃す手はないとスカウト陣の意見を無視した強権発動だった。

しかしスカウト陣や武上監督らの声に押されて松園オーナーは「外れ1位」での指名まで譲歩する事になる。ところが荒木の周辺を再調査してみると巨人と西武に荒木指名の動きがある事が分かった。特に巨人はセンバツ大会の頃まで「1億円を出しても惜しくない」と他球団以上の評価をしていた。「外れ1位では獲れない、1位指名入札あるのみ」としてドラフト会議3日前の第5回スカウト会議で松園オーナーの指令通り「荒木1位指名」が正式に決まった。スカウト会議に出席していた武上監督は会議室から出るやいなや「ウチは荒木だ!」と不機嫌そのものに声を荒げた。ヤクルトが荒木指名を明言すると西武は撤退したが巨人はまだ決めかねていた。

藤田監督をはじめ現場の要望は左腕投手だった。江川、西本、定岡ら右腕投手は充実していて数年先まで心配はない。一方で先発できる左腕投手は新浦投手くらいで、その新浦投手にも衰えが見え始めていて後釜には野口投手が適任であると考えていた。しかし球団フロント陣は荒木人気を捨てきれずにいた。2年前の「原フィーバー」よ再びと考えたのだ。荒木を即戦力だとは夢にも思ってはいない。強固な一軍投手陣に食い込んでくるのは無理かもしれない。でも顔見せ興行で一度でも登板させればマスコミには取り上げられ宣伝効果を考えれば契約金などの元は取れる。勝つだけがプロ野球ではない筈で人気取りとの批判は甘んじて受けようと荒木指名を決めた。

11月25日、九段のホテル・グランドパレスで行われたドラフト会議で荒木はヤクルトと巨人から1位指名され、相馬代表と藤田監督が抽選箱の前に立った。先に引いた相馬代表が箱から取り出す際にクジを落とすというハプニングがあったが結果はヤクルトが交渉権を得た。実は相馬代表よりも先に藤田監督がカメラに向かって引いたクジを高々と上げて笑顔を見せた為に「荒木は巨人!」と周囲は早とちりをした。「何も書いてないのを示しただけ」と藤田監督はとぼけたが、あの瞬間の「笑顔」は何を意味しているのか?荒木でなくてホッとしたのか、それとも正真正銘の苦笑いだったのか?真相は本人のみ知るところだが「人気と実力を兼ね備えた荒木君を指名できて大満足(武上監督)」「荒木君を外したのは残念だったが即戦力に近い岡本投手を2位で指名できたのは大きい(藤田監督)」と大人の対応をする御両人だった。
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#291 監督業は辛いよ

2013年10月09日 | 1982 年 



6月23日の広島市内上空は雲に覆われてはいたものの試合には支障ない空模様で、広島と対戦相手の大洋の両チームは試合前の練習を終えていた。確かに天気予報は雨を予想していて雲行きも怪しく観客の入りも低調だったが先発メンバーの発表も済み、後はプレーボールを待つだけだった。ところが試合開始直前に突然「中止」のアナウンスが球場内に響き渡った。「雨雲が近づいて来ており試合成立の可能性は低いと判断した」と竹内球団営業部長は中止の理由を報道陣に告げたが摩訶不思議な試合中止だった。調子を落としているチームが気分転換を兼ねて立て直しを計る為に少々の雨で中止にするケースはままあるが、その時のカープは絶好調で6月18日からの巨人3連戦に3連勝、2位に3.5ゲーム差の首位に立ち「独走」の文字がスポーツ紙上で踊っていたほどだ。そもそも雨は降っておらず苦しい言い訳だった。

長いシーズンを回顧すると「あの試合が…」とターニングポイントとなる試合が必ず有る。今シーズンのカープを振り返る時にこの試合中止を抜きには語れない。この日を境に星勘定がガラリと変わった。32勝20敗5分と順調だったのがこの日以降は27勝38敗8分と負けが込み5年ぶりのBクラスへと転落した。不思議な中止の裏には何があったのか?当日の古葉監督は「今は首位にいるけど投手陣は揃っていない。今日の先発は中3日の津田だったけど、初めての中3日でどんな投球をするのか楽しみにしていたから今日はやりたかった」とコメントしたが、それを聞いていた報道陣は首を傾げた。その時点では福士も池谷もまだローテーションに入っていて先発投手の頭数は揃っており、津田の登板は予想外だったからだ。現に各スポーツ紙の先発投手予想も中5日の池谷が有力視されていた。

結論から言えば古葉監督はこの時すでに福士や池谷を見限っていたのだ。だが新人に中3日登板は冒険過ぎる。池谷を外して負ければ古葉采配が批判されチームの雰囲気も悪くなるかもしれない。出来ればもう1日空けて中4日で津田を投げさせたい、ちょうど空模様も怪しくなってきたのを幸いに中止に踏み切ったのではなかろうか。しばらく後になって営業担当の球団職員から「いつもは営業に協力的な古葉監督が初めて無理を言ってきた」と裏話が伝わった。期待の雨は遂に降ることはなく雲は切れて星空が広がった。この「敵前逃亡」の代償は大きかった。続く阪神戦での1安打完封負けに始まり懸念の投手陣ばかりか打撃陣もリズムを崩し始め、7月に入ったとたんに7連敗を喫して首位から陥落し二度と浮上しなかった。一瞬の躊躇が長いペナントレースを決めてしまうから勝負事は怖い。

チームが低迷すると「内紛が起きたか?」と勘ぐるのは世の常で今季の阪急も例外ではなかった。新聞紙上に選手と上田監督との間で抜き差しならない状況にあると幾度となく報じられた。天王山と言われた6月23日の西武戦に敗れた後の阪急は戦う集団を放棄したかのような無気力試合を展開していた。業を煮やした上田監督はマスコミに対して「これがベテラン選手が多いチームの悪癖。先を読んでしまいもう西武には追いつかないと諦めてしまっている。こうした姿勢は若い選手達にとって悪影響である」と切って捨てた。これに対し一部のベテラン選手らがマスコミを通じて首脳陣批判をしてチームは空中分解寸前の状態となった。

上田監督は西宮第二球場の室内練習場にマスコミを締め出して選手を集め、正確な内容は伝えられていないが漏れ伝わる所によると上田監督は内紛を報じる新聞記事を手にして自らの発言の真意を述べて選手達の意見に耳を傾けた。話し合い終了後に選手会長の山口と役員の蓑田と中沢がわざわざ報道陣に歩み寄り「マスコミの皆さんにお願いが有ります」と集合をかけた。「阪急の話題を書いてもらえるのは有りがたい事ですが節度を持って記事を書いて欲しい。事実を隠してくれとは言いませんが親しくなった記者さんには愚痴の一つもこぼします。それを全て書かれては今後は付き合い方を考え直さなければなりません。配慮をお願いします」とマスコミに対しては寛容だった阪急では考えられない要望をした。選手達の気持ちは分かる。だが、こうした要望を出さざるを得ない状況こそが今季の阪急の「内紛」や「崩壊」の記事の真実味を示しているのではないか。チームとしての結束が崩れていく時、そこにタガの緩みが生じ放置すればチームは崩壊する。事実、ペナントレースが終わるのを待たずに阪急は再建の為のチーム改革に着手し始めた。

チーム改革を始めたのは南海も同様だ。12球団で唯一監督の交代劇が起きたのは10月12日、この日に全日程を終了したブレイザー監督は大阪難波の南海電鉄本社に川勝オーナーを訪ねてシーズン終了の報告をする予定だった。3年契約の2年目でもあり球団は来季の続投を明言していたが実は2日前の在阪スポーツ紙に「辞任」と書かれ、記事にはブレイザー監督本人の手記まで載せられていただけに信憑性は高かったが球団は否定していた。続投ならブレイザー監督の来季に向けたコメントを球団広報が発表すれば済む筈だが、この日は事前に本社4階に会見場を設けていた。報告を受けた川勝オーナーは会見に臨み「球団からの続投要請に対してブレイザー監督からは辞任の申し出があり慰留を試みましたが本人の意志が固いと判断し『辞任』を了承しました。繰り返しますが辞任であり決して解任ではありません」と不自然なくらい「辞任」を強調した。

ブレイザー監督が今季限りで監督の座から退く事はある程度予想できた。昨年の納会の席で当時の岡田公意球団社長が「もし来季の前期で5割を切るようなら辞めてもらいます」と発言して物議を醸し、その時から既にブレイザー監督と球団フロント陣との関係は冷え切っていた。両者の防波堤となっていたのが川勝オーナーで昭和53年に自ら出馬して監督就任を要請し、就任後もBクラスに低迷し結果を出せないブレイザー監督の後ろ盾となるほど監督手腕に惚れ込んでいた。しかし球団レベルを超える南海グループ周辺からはその手腕に疑問を呈する声が出始め「解任やむなし」の流れは川勝オーナーにも止められなくなった。

ブレイザー監督は常々「来季も任せてもらえるなら結果を出す自信はある。契約社会で育った自分は職場放棄をするような無責任な事はしない。ただしオーナーが辞めろと言うのなら従わざるを得ない」と明言していたが10月8日午後に川勝オーナーと会談、翌9日には南海の大物OBと会い自らの進退について話し合いの場をもち「健康上の理由で辞任する」との結論に達した。確かにブレイザー監督には心臓病と痛風の持病があったが監督業に支障は無いとの医師からのお墨付きもあり健康上の理由は単なる名目である事は明白だった。

それが何故に急転「辞意」を伝え受理されたのか?川勝オーナーは「3年契約の2年目でクビを切るような事をしたら南海グループは『契約』を軽んじる組織だと思われてしまう」と公言していて南海のイメージダウンに繋がる事は極力避けてきた。しかし監督自らが「辞任」を申し出るなら話は変わってくる。「要するに辞任という形ならオーナーや球団に傷は付かない。ブレイザー監督にしても事実上の『解任』を受け入れれば表向きは辞任と扱われて3年目の年俸は全額手に出来る。これ以上の三方円満策は無かった」と南海担当記者は解説した。球団は既に穴吹新監督で動き出している。
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#290 風雲録 ④…幻のトレード

2013年10月02日 | 1982 年 



前述の「小山⇔山内」トレードのように狙い通りに事が運ぶのは稀で、多くが実現しないのが主力級のトレードだ。青木が手掛けてお流れとなった数多くのトレード話の中には「天皇・金田」と「速球王・小松」絡みもあった。前述した田宮謙次郎選手を獲得した頃から青木は大毎を常勝球団にするべく秘策を練っていた。打線の中心には田宮を据える事ができた。次なる課題は投手陣の強化だがその為にはプライドが高く、へそ曲がりの人種が多い投手達をまとめる人間が必要となる。当時の球界でそれだけの人物となると金田正一(国鉄)の他を置いていないと考え獲得に動いた。

阪神から獲得した田宮選手同様に金田投手も移籍が可能な「10年選手」の資格を得ていた。青木は金田が国鉄というチームに飽き足らない思いを抱いている事は人づてに聞いていた。だがいきなり国鉄に接触するのは相手を刺激し過ぎると考えた青木は親しいA新聞社の記者を使って地馴らしを始めた。A新聞社の社長が大毎・永田オーナーと親しかった事もあって協力を約束してくれ、記者は特ダネを狙って精力的に動いた。「金田投手の気持ちは大毎入りに動いている」など日々刻々に報告が入り、やがて「あと一歩です。ほぼ決まりです」との吉報が記者からもたらされた。しかしここで思いもよらぬ事態が起きた。A新聞社の社長が社内クーデターで退陣に追い込まれてしまい、仲介していた記者も交渉からの撤退を余儀なくされて金田の大毎入りは立ち消えとなってしまった。

金田の大毎入りは幻となったが青木と金田との友好的な関係は青木が太平洋クラブライオンズに移った後も続いた。記憶にも新しいロッテと太平洋との遺恨試合にもこの二人が絡んでいる。平和台球場での乱闘騒ぎをきっかけに両チームには遺恨が芽生えたのだが、それはある種「意図的」に仕組まれたものであったのだ。博多を走る電車内に乱闘シーンを用いた中吊りポスターを貼って騒動を煽ったりしたのも青木のアイデアであった。勿論、裏ではロッテ・金田監督とも連絡を取り合い写真使用の許可を得て、両球団了承の下「遺恨試合」を演出していた。子供じゃあるまいし大人が本気で喧嘩などしない。車内ポスターの件は「やり過ぎ」と世間からお叱りを受けたが観客動員策としては大成功だった。

ライオンズに移った青木はしばしば二軍の試合にも足を運んだ。そこで目にしたのがプロ入り2年目の宇野内野手と新人の小松投手だった。久々に見る将来有望な素材と判断して2人の獲得を目指した。かつてライオンズと中日との間には基満男内野手と藤波行雄外野手との交換トレードが一度は成立したものの藤波選手が移籍を拒否して御破算になった事があり、中日には「貸し」があった。普段は交渉事に慎重でいきなりトレードを申し込んだりしない青木が当時の中日・中監督に直談判したのは宇野や小松が頭角を現す前に決めてしまう必要があったからだ。当時のエース・東尾を出しても構わないとまで言うほど本気だった。

当時の青木はライオンズを若手選手で固めて低迷から再出発しようとの構想を持っていた。真弓、若菜、立花、山村の野手陣に宇野を加えれば将来有望な打線が組め、弱点の投手陣には小松や現役大リーガーを獲得できれば他球団と対等に戦える。青木の余りにしつこい要請に中監督も真剣にこのトレードを考え始めた。中日サイドが決断を下す間、青木の心配は宇野が活躍する事であった。小松は1年目という事もあり二軍でも試合には出ず体力作りに専念していた為に活躍する心配は無かった。だが青木の危惧が現実のものとなる。一軍野手の怪我もあって人数合わせで昇格した宇野が初本塁打をはじめ快打を連発したのだ。「こんな良い選手を出すわけにはいかない」それが中日サイドの答えであった。あの時、一軍野手が怪我しなければ…他の選手が一軍昇格していれば…宇野が打たなければ…。青木のライオンズ再建計画は水の泡と消えた。
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#289 風雲録 ③…世紀の大トレード(後編)

2013年09月25日 | 1982 年 


先ず青木は自分の足元固めから始めた。大毎・本堂監督に「阪神と大がかりなトレードをやってみようと思うがウチから出せる選手はどのあたりか?」と切り出すと、「大物投手が獲得出来るなら榎本(喜八)以外なら誰でも構わない」と本堂は答えた。 "ミサイル打線" と呼ばれていた頃なので、それ相応の選手が揃っていたが「エノ以外と言うと山内や葛城(隆雄)でもOKなのか?」と確認すると「ハイ」と。昭和38年のシーズンが開幕して早々に青木は極秘裏に阪神・藤本監督に接触し、いきなり「小山か村山のどちらかが欲しい」と申し出たが藤本は「NO」と即答した。「では誰なら出せるのか?」と聞くと「一塁の藤本(勝巳)か遠井なら」との返事。大毎で出せない榎本が一塁手なので双方に利点は無く、この話は一時凍結してジッと機が熟すのを待つ事にした。

シーズンも深まり夏が過ぎた頃、今度は青田ヘッドコーチと接触した。「アオさん、実はこういう話があるんだが…」と藤本監督とのいきさつを話したが、あえて小山・村山の名前は出さなかった。「トレードは小物同士でやっても意味はない。どうせやるなら大物で」と青田が言ったのに対し、ならば「小山が欲しい」と畳み掛けた。阪神のシーズン中の戦い方を見て村山を手放す事は絶対にないと踏んだからだ。青田は即座に「なら山内をくれ」と答えた。青木は「やった」と内心ほくそ笑んだ。近鉄戦でミケンズ投手から頭部に死球を受けた後遺症で無意識のうちに内角球を逃げるようになり得意の内角打ちに翳りを見せ始めていたからだ。

だがここで話を急ぐと足元を見透かされると考えた青木は「あまりに大物過ぎるから一度球団に持ち帰ってオーナーの許可を貰って来る。阪神さんも藤本監督や戸沢代表と話を煮詰めておいて欲しい」と提案し、双方が原則的に了承し青木が戸沢代表と正式の場で会ったのは1ヵ月後だった。戸沢代表は青木と会うなり「本当に山内をくれるのか」と切り出すが、戸沢という男もなかなかの策士で「ウチの小山は何と言っても20勝投手、今の投手陣から20勝分が消えるのは痛い。山内君にもう1人投手を付けて欲しい」と言い出した。これに大毎側は反論した。「山内には大毎と言うよりパ・リーグを代表する強打者だという自負があり1対2の交換トレードではプライドが許さないだろう。阪神は投手を、ウチは打者を出すのだから今回とは別件で投手・打者逆の選手をトレードしましょう」と提案し、後にマイケル・ソロムコ外野手と若生智男投手のトレードが成立した。

ここまで大きなトレードとなるとオーナー同士の了承が必要になり大毎・永田オーナーが阪神・野田オーナーを大阪まで訪ねて最終的な合意を経て正式発表の運びとなった。実はオーナー同士の会談の席で野田オーナーが「小山投手に対する10年目のボーナスの半分が未払いだ」と告げると永田オーナーはボーナスの額を聞かずに「いいですよ、ウチが払いますから」と太っ腹な所を見せた。太っ腹と言えばこのトレード話より以前に永田と小山との間にはこんな事もあった。青木と小山が食事をしていたホテルにたまたま居合わせた永田は小山に「銀座で一杯やってくれ」と封筒を手渡した。後で数えたら30万円もの大金が入っていた。何しろ大卒男子の初任給が1万5千円前後の時代の30万だから大そう驚いたそうだ。

正式発表が終わると今度は「小山君、馬は好きかい?お祝いに1頭あげよう」と言うと「いやいやオーナー、我が家は馬を飼えるような豪邸じゃありませんから遠慮しときます」と断った。永田は所有する競走馬の内の1頭の馬主に、のつもりだったのだが。すると「血統の良い馬なのに要らないと言うのなら仕方ない。じゃ代わりに車をあげよう」と後日、新車のサンダーバードが小山の自宅に届いた。2人は移籍先の球団で結果を残した。山内は打率こそ.257 と3割を下回ったが31本塁打(3位)・94打点(2位)、小山は30勝12敗で最多勝に輝いた。阪神、大毎ともに優勝は出来なかったがこの世紀の大トレードは内容・衝撃度ともに大成功だったと言える。
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#288 風雲録 ②…世紀の大トレード(前編)

2013年09月18日 | 1982 年 


青木が手がけたトレードの中で最も大型で世間をアッと言わせたのは小山正明 ⇔ 山内一弘(当時は和弘)の「世紀の大トレード」だろう。昭和38年オフに実現したこのトレードは両リーグを代表するエースと四番打者の交換で、トレードとは不要な選手を放出するものという従来の固定観念を根底から覆す前代未聞の出来事だった。

山内選手(大毎)は怪我に泣いた昭和33年を除くと昭和29年から37年の9年間で8度も打率3割をマークし、首位打者・本塁打王・打点王のタイトルも手にした押しも押されぬ強打者。一方の小山投手(阪神)は昭和33年から24勝、20勝、25勝と3年連続20勝以上をあげ昭和36年こそ11勝と振るわなかったが翌37年は27勝で阪神の15年ぶりの優勝に貢献した。しかし阪神は日本シリーズでは水原監督率いる東映に敗れ念願の日本一には手が届かず球団内の喜びも半減といった具合だった。そんな状況をジッと見つめていたのが青木だった。「藤本監督はリーグ優勝だけでは満足していない、必ず血の入れ替えを模索している筈」…理屈ではない、長年この仕事に携わって来ているうちに自然と培われた「勘」であった。

シーズン中から青木の耳には阪神球団関係者から幾度となく小山投手と「もう一人のエース」村山投手の確執話が入っていた。昭和34年に入団して力感溢れる情熱的な投球で一躍人気者になった村山と既に確固たる地位を築いていた小山は典型的なライバル関係にあった。年齢は2歳違いだが高校卒業後テストを受けて入団した小山と関西大学を全日本大学野球選手権で初の優勝に導くなどの活躍を評価されて巨人からの誘いを蹴って阪神入りした村山とは入団当初からソリが合わなかった。村山の1年目は18勝、その年の小山は20勝。翌年、村山が "2年目のジンクス" に陥り8勝と成績を落とすと小山は25勝と貫禄を見せつける。さらに翌年は村山が捲土重来で24勝と盛り返すと逆に小山は11勝と精彩を欠いた。

ここまでは一方の成績が良ければ片方は悪いといった具合に微妙な関係を保っていたが阪神がリーグ優勝した昭和37年は小山が27勝11敗・防御率1.66、村山は25勝14敗・防御率1.20 と2人ともに活躍した。その年のMVPに選ばれたのは勝ち星では劣る村山だった。「両雄並び立たず」の格言通り2人の仲の緊張関係がピークだったのがこの時期だった。チーム内はもとより球団フロントや担当記者までもが小山派と村山派に別れ反目し合った。青木は小山が新人だった頃からの付き合いで小山の人と成りについては熟知していた。小山は人見知りで人付き合いが苦手、正義感が強く好き・嫌いがハッキリしていて決して愛想は良くなく大衆受けは悪い。一方の村山はザトベック投法と呼ばれる髪を振り乱して力投する姿でファンを熱狂させ阪神では断トツの一番人気、球団が今後は村山を前面に推していく事は明白だった。
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#287 風雲録 ①…A級10年選手

2013年09月11日 | 1982 年 


「マムシの一三」と呼ばれた敏腕スカウト・青木一三氏の回顧録。交渉能力が高く数々の大物獲得にも辣腕ぶりを発揮した。また吉田義男・三宅秀史・山本哲也・藤本勝巳ら他球団がノーマークだった選手を発掘し次々と獲得した眼力も絶賛されていた。球界へ大きく貢献する一方で裏の顔として数々の事案を演出した青木氏が当時の舞台裏を明かした。




【A級10年選手】…同一球団でプレーした選手に「ボーナス受給の権利」か「自由移籍の権利」の
            どちらか任意の権利を与える

【B級10年選手】…複数球団で10年間プレーした選手に「ボーナス受給の権利」を与える



昭和28~29年頃から新人の契約金が急騰したが「海のモノとも山のモノとも知れぬ新人に莫大な金を払う一方で安い契約金と年俸で長い間プロ野球界に貢献して来た選手に何の特別報酬を出さないのは不公平ではないか」という声に押され10年選手制度が導入された。従って昭和28年以降にプロ入りした選手にはその資格はなかった。阪神の田宮謙次郎はA級資格を持つ最後の大物と言われ動向が注目されていた。

昭和33年には首位打者のタイトルを取り大物ルーキー長嶋の三冠王を阻止した選手が移籍するかもしれないとあって田宮の周囲は騒がしくなった。私(青木一三)は当時大毎オリオンズのスカウトだったが旧知の仲という事もあり仕事抜きで相談に乗っていた。彼は元々お金に対する執着心は無く周りの人間から「アッサリし過ぎるよ。君クラスの選手ならもっと貰ってもバチは当たらないよ」と言われても「俺はそういう性分だから」と取り合わなかった。

まだシーズン中に私が彼の自宅を訪ねて身の振り方を聞くと「アオさん、俺は10年選手の権利を振り回そうとは考えてないよ。阪神が好きだし法外な要求をするつもりはない。球団がA級選手として納得できる条件を出してくれたら残るよ」と契約更改同様に欲の無い事を言った。シーズンオフに突入すると在阪スポーツ紙が虚実入り混ぜた報道合戦を始めた。「田宮の要求とは数百万円の差が」「球団はいざとなったら放出も辞さない」 等々…

交渉のタイムリミットは12月25日午後5時であった。田宮の要求はボーナスを含めて2,000万円、対する球団の提示は1,500万円と開きは中々埋まらず時間だけが過ぎて行った。田宮は最後まで残留を考えて1,800万円まで額を下げ、球団も1,700万円まで譲歩したがどうしても100万円の差が埋まらない。「100万円ぐらい出せば…」「100万円ぐらい我慢しろ…」両者は共に譲ろうとしない。こういう時は選手とフロントの間を監督が取り持ってメデタシ・・と行きたい所だが運悪く当時の監督は日系二世のカイザー田中。日本人の義理人情を理解するのが難しかったのか我関せずを貫き結局、交渉は決裂した。

首位打者・田宮はどこへ?騒動は過熱した。甲子園浜の自宅周辺は早朝から深夜まで報道陣が張り付き家の前の道路は各社の車で埋まり群がる報道陣目当てにラーメンの屋台まで出る始末。「田宮獲得」の球団指令を受けた私も大阪のホテルに泊まり続けた。色々な情報が耳に入って来たが娘さんが転校するのを嫌がっている為、田宮は関西圏から出るつもりは無く在阪球団への移籍を考えているようだった。在阪球団で獲得に名乗りを上げたのは近鉄と阪急。特に近鉄は根本睦夫スカウト(現西武・管理部長)が精力的に動き一歩リードと伝えられていた。

このままでは田宮獲得は無理だ。何か策はないかと考え田宮に影響力を持つ人物を探した。いた。しかも私の身近に。私が阪神在籍当時に世話になった松木謙治郎氏だ。聞けば田宮は松木を「人生の師」と仰いでいるという。口説き役として彼以上の人物はいない。早速、松木に連絡を取り仲介を依頼したが当時松木は東映の打撃コーチで同じパ・リーグのライバル球団の大毎オリオンズ移籍を薦めてくれるか不安だったが、快く口説き役を引き受けてくれた。

田宮は悩みに悩んだ。田宮から「静かな所で頭を冷やしてじっくり考えたいが家の周りは記者だらけで抜け出せない。手を貸してくれないか」と頼まれ私は報道陣に悟られないように家の周辺を見て回り死角を見つけた。隣家の裏口である。そこで隣人に頼み塀を乗り越えて庭を横切り裏口から抜け出して待たせていた車で四国へ行く事に成功した。熟慮の結果、田宮は大毎オリオンズ移籍を決断した。決め手はやはり娘さんで熱狂的なファンが多い事で知られる阪神から出る以上、同じセ・リーグ球団は論外。また近鉄や阪急は同じ電鉄会社という事で阪神ファンから娘さんや奥さんが責められる可能性もある。ならば心機一転、故郷の茨城県にも近い東京で勝負しようという気になったそうだ。

そして移籍先の発表は異例の実況中継が行なわれる事となった。親しい毎日放送の香西アナが密着して「ただいま田宮選手は甲子園浜の自宅を出ました…田宮選手を乗せた車は今、淀川を渡りました…桜橋に差し掛かりました…どちらに曲がるのでしょうか?左折なら阪急球団事務所、右折なら近鉄。直進なら大毎です」長い私のプロ野球人生でも後にも先にもこのような実況放送は聞いた事がない。ただ大毎入りは既に本人から聞かされていたのでゆったりと待機していた。車は直進し私たちが待つ国際ホテルに向かった。
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#286 新聞辞令 ②

2013年09月04日 | 1982 年 



開幕から14試合で2勝10敗2分と出遅れチーム内にはギクシャクした雰囲気が充満して「内紛」やら「対立」の話題ばかりがスポーツ紙に書かれてファンからも「ダメ虎」と見放されていた阪神が息を吹き返した。7月3日から甲子園に巨人を迎えての3連戦の初戦は西本投手を打ち崩し破竹の11連勝で借金を返済して貯金を「3」にまで増やした。この連勝を生んだ裏側には選手個々の怒りや反発があったのは言うまでもない。その筆頭にいるのが若菜捕手である。

5月初旬に一部スポーツ紙に「若菜ロッテへ移籍」と書かれ大騒ぎとなった。左胸に死球を受けた影響で控えに回った所、代役の笠間が大活躍したがヤンチャ坊主的な性格の若菜は面白くない。ムスッとした表情をベンチで見せる日々が続くと当然、首脳陣の心証も宜しかろうはずもない。そこへ例の記事が出て若菜の周辺の雰囲気は最悪。更に翌週には別のスポーツ紙が「若菜年上女優と結婚へ」と追い討ちをかけたから堪らない。結果的にはどちらの記事も「誤報」だったのだが「トレード話や女性との関係を書かれるのはお前自身がシッカリしていないから」と安藤監督に説教され、本間勝広報担当には「ああしたゴシップ記事を見返すには野球で結果を出すしかない。汗水垂らして必死の姿を見せればチームメイトやファンもお前を認めてくれるよ」と深夜まで切々と説かれた。

こうした周囲の声に若菜は「記事を書かれた原因は自分自身がシッカリしていないから。死んだつもりで頑張る」と一念発起して朝一番に球場入りして室内練習場で特打を始めたり、妻子を九州に残してマンションで一人暮らしをしていたのをやめて若手選手の合宿所である虎風荘に移って野球に専念するようになった。元々力のある選手だけにプレーに集中出来れば自ずと結果は付いて来る。シーズン当初は不振を極めていた伊藤投手と工藤投手の独り立ちや「数年に一度の珍事」と揶揄された益山投手の好投を引き出すリードでチームの勝利に貢献した。「野球がこれだけ楽しいと思ったのは初めて。今ではあの記事に感謝してるよ。色々と書かれたけどあれが俺を立ち直させてくれたのも事実だからね」と当時とは別人のような笑顔を見せた。

もう一人、スポーツ紙の記事を発奮材料にしたのが小林投手だ。開幕直後に完投勝利を一度マークしたものの、それ以降は勝ち星こそ増えたが終盤になると打たれて降板する場面が多かった。スタミナ切れか集中力の欠如か原因は定かではないが「完投出来ないエース」のレッテルが貼られて「7回戦ボーイ」とマスコミに叩かれた。小林は常々「先発投手は完投するのが当たり前。僕は完投出来なくなったらこの商売からキッパリ足を洗いますよ」と公言していただけに、体たらくぶりに「口だけエース」「エエ恰好しい」とここぞとばかり集中砲火を浴びたのだ。14試合に先発して完投が1試合のみではエースの称号が泣く。「ウチのエースはコバ。完投するのが当然のクラスの投手がいつまでも『7回戦ボーイ』では情けない」と奮起を期待していた安藤監督にはマスコミのバッシングは好都合だった。

「皆さんに色々と言われないように完投勝利もお見せしようじゃありませんか」と有言実行宣言した小林は6月20日の中日戦での今季初完封に続き6月25日の広島戦で自身初の2試合連続完封を記録した。それも7回二死まで無安打に抑え、山本浩に左前安打を許して大記録達成は逃したが見事な「1安打完封」だった。だが連続完封ぐらいでは小林は満足しない。散々叩かれたマスコミを見返すかのように次の登板は志願して中3日で大洋戦に先発して勝利し、続く巨人戦も中3日で江川と投げ合った。低迷していた開幕当初が嘘のような現状を「皆がそれぞれ自分の役割を一生懸命に頑張ってくれたお蔭。結果論だがマスコミの『誤報』も時として良薬になる」とあれだけスポーツ紙をはじめとしたマスコミ報道を批難していたのと同じ人物とは思えない安藤監督の笑顔が印象的だ。
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#285 新聞辞令 ①

2013年08月28日 | 1982 年 



以前に 『 #195 スポーツジャーナリズム(笑)』 でスポーツ新聞の記事について触れましたが相変わらずのようです。


5月22日の在阪スポーツ紙の大半が阪神・竹之内の引退を一面で扱っていたが、A紙のみが『若菜ロッテに移籍』と書いた。その概要は植松精一外野手をプラスしてロッテから安木祥二投手と入沢淳捕手を獲得するというもの。若菜放出の理由は左胸に死球を受けて以来、首脳陣は常時出場が難しいと判断して笠間捕手との併用を決めたが本人はこれに納得しておらず怠慢プレーが目立つようになった。首脳陣との話し合いの場が何度か設けられたが両者の溝は埋まらず若菜はチーム内で浮いた存在になってしまった。チームの結束を第一と考える安藤監督は「放出やむなし」の決断をし、若菜本人も移籍に納得していて最近では親しい関係者に「移籍先はロッテらしいよ」と話しているという。

この記事が一面を飾った当日の朝、他紙の記者達は安藤監督宅に詰めかけ問い質したが「根も葉もない話で悪意すら感じる」と一蹴した。「多少なりとも可能性がある話ならそれなりの答え方をする。100%いや200%無い話で書いた新聞社の神経を疑う」「こんなデタラメな記事を書かれるのならもう他紙の記者さん相手でも何も喋らない」とけんもほろろ。記者は念の為に小津球団社長と国内トレード担当の西山調査部長にも確認を取ったが二人の答えも「有り得ない話」だった。

では何故この様な記事が出たのか?周辺を取材すると「状況証拠」を元に書かれたようだ。
笠間と併用とは言うものの若菜は控え扱いに不満を募らせている去年痛めた左肩痛が再発した事で動きが緩慢になり周囲の目には怠慢プレーと映りチーム内で孤立私生活では「子供を静かな環境で育てたい」として妻子を福岡に残したままの単身生活を送っていて球団幹部の耳に良からぬ醜聞話が入って来る投手陣の立て直しが急務で過日、西山調査部長が大阪球場内でロッテ関係者とヒソヒソ話をしているのが目撃されたロッテとは昨年にもシーズン中に福間⇔深沢のトレードを成立させている…と憶測の域を出てはいない。

阪神サイドの否定で若菜のトレード話は鎮静化したが阪神絡みではもう一つのトレードが噂さてれいる。つい先日、巨人・中司得三外野手との交換トレードが御破算になった南海・上田次朗投手の阪神復帰だ。左腕エースの山本和を救援に回さざるを得ないほど阪神投手陣は駒が足りていない。使える中継ぎ投手が欲しい阪神が背中を痛めて二軍で燻っている上田に目をつけた。上田は元々阪神から金銭トレードで南海へ移籍したとあって阪神サイドは金銭での譲渡を南海へ打診した所、南海フロントは了承したがビジネスライクな「外人」のブレイザー監督が難色を示した。上田は西武に強く後期での巻き返しの為にも「西武に相性の良い上田を出すなら交換トレードでなければ」と言い出した。それなりの見返り…として益山投手か加藤外野手の名前が上がっているが阪神サイドは到底飲めず、今の所はこの話は自然消滅状態だが「貧すれば鈍する」となった阪神がブレイザー監督の要求を受け入れて急転直下トレードが成立する可能性もゼロではない。

移籍1年目の昨年は結果を残せず「今年こそ」と復活を期しながらも低迷を続ける広島・高橋直投手の周辺もキナ臭い。かつては日ハムと言うよりパ・リーグを代表する投手が江夏との交換で広島へやって来たが僅か2勝(5敗)と期待を裏切った。今季も早々と古葉監督の構想から外れて二軍暮らしが続いている。二軍を視察した古葉監督の前で打撃投手を務めたが「素晴らしい球。何故あの投球が一軍相手だと出来ないのか。セ・リーグの水に合わないとしか考えられない…」と古葉監督もお手上げ。熱狂的なカープファンの度重なる嫌がらせに転居を余儀なくされた経緯もあり夫人は「東京に帰りたい」とこぼしていると言われている。

トレードの相手はここでもロッテで三井雅晴投手と倉持明投手との2対1の交換が有力とB紙が書いた。若菜の時の阪神と同じく広島サイドもこのトレード話を否定したが、その内容は阪神とは少し違っていた。広島の球団幹部は「確かに今のウチは投手が欲しいよ。でもロッテさんには失礼だが現在の三井と倉持は満足に投げられる状態じゃないでしょ?肩とヒジに爆弾を持つ投手と交換する程バカじゃない。いい加減な事を書いてもらっちゃ困る」「B紙が今後も推測で記事を書くなら取材拒否だ。出直しに一生懸命な高橋君が気の毒だよ」と凄い剣幕で記事を書いたB紙を名指しで批判した。

実は投手難にあえぐ球団にとって広島の二軍は垂涎の的なのである。高橋直の他にも渡辺、金田、佐伯、新美など一世を風靡した投手の溜り場となっているのだ。確かに投手としての峠は越してはいるが勝ち星の合計は507勝と実績は充分で使い方次第では未知数の若手よりチームに貢献できる。広島にしても上位に食い込むには左の先発投手や右の代打が不足しているのが現状であり相手次第では交換トレードに応じる用意はあるはず。そうなるとトレード候補の筆頭としてはやはり高橋直の名前が出て来る。「高給取りを二軍で眠らせておくよりは働く場を与えてあげる方が本人にも球団にもプラスになる」と明言する球団幹部がいるのも事実だ。言ってみれば今回のトレード話は一種の打ち上げ花火で様子見に過ぎず、トレードの期限である6月30日まで目が離せない。



結局、若菜はこの年オフに阪神を退団。メジャーを目指して渡米しますが結果は3A止まりで昇格はならず、1年も経たぬ間に臆面も無く日本球界に復帰する事になります。
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#284 死球王

2013年08月21日 | 1982 年 



セ・パ12球団に「コーチ」の肩書を持つ者は数多くいるが背番号のないコーチは竹之内だけだ。シーズン途中に引退しコーチに就任した際の手続上の都合で正式な肩書は「阪神球団管理部付」で、いわば通訳と同じく球団職員扱いの為に背番号は無い。現在の竹之内は公式には存在しない背番号「2」のユニフォームを着て練習の手伝いにグラウンドで忙しく動き回っている。

神奈川県の公郷小学校入学後に野球を始め池上中学校に進む頃には竹之内の名前は県下に知れ渡っていた。高校は鎌倉学園のセレクションに合格して入学。昭和37年のセンバツ大会に五番・二塁手として出場しベスト8まで勝ち進んだ。高校卒業時には法政大学から勧誘されたが社会人野球の西濃運輸浦和に就職した。「高校生の時に親父が亡くなって貧しかったから働く道を選んだ」と。

昭和42年のドラフト会議で西鉄から3位で指名されたが「家で男は自分だけ。母親と妹を残して九州には行けない」と竹之内はなかなか首を縦に振らなかった。西鉄も簡単には諦めず翌年の春季キャンプが目前に迫った頃にようやく口説き落とした。西鉄幹部も家庭の事情を考慮して最初に提示した契約金に「結構な額(本人談)」の上積みを申し出たが「今まで入団を渋っていた理由はお金じゃなく家の事。金に目がくらんでプロ入りしたと思われたくない」として最初の提示額で契約した。

しかし入団した竹之内を待っていたのは厳しい現実だった。いわゆる黒い霧事件や身売りに次ぐ身売りで毎年のように変わるユニフォームを屈辱に耐えて着て、他球団の選手が生き生きとプレーしているのを九州の地から唇を噛み締めて見つめていた。密かに引退を決意した時に真っ先に伝えたのは大洋の基選手だった。年齢は竹之内が1つ上だがプロ入りは基が1年先輩の間柄で辛い九州時代を過ごした良き戦友。「俺なぁ引退するわ。そっちは俺の分まで頑張ってくれや」 基は「そうか…」とだけで多くを尋ねなかった。口に出さなくてもお互い分かり合える、そんな仲なのだ。

「入団当初の西鉄はまだ黄金期の名残もあって雰囲気は良かったけど徐々に転落していった感じだった」「1年目の夏には1軍に上れて初安打(昭和43年8月10日の阪急戦で梶本投手から)も打てたし恵まれたスタートだったよ」黒い霧事件で主力が抜けた為に若手にもチャンスが与えられ1軍に定着したが阪神とのトレード話が決まった頃は常々「他球団に移籍したいと思っていただけに『しめたッ』と思った」そうだ。阪神の狙いは若手の真弓や若菜であり既に峠を過ぎたと見られていた竹之内は人数合わせの付け足し要員だったが当初の予想を裏切る活躍を見せ、特に昭和55年にはサヨナラ本塁打2本、サヨナラ安打2本と4度のサヨナラ劇を演じ「サヨナラ男」の称号を得た。

内角球を恐れず踏み込んで打つスタイルで15年間の現役生活で166個の死球を受けて「死球王」の代名詞とも言われたが結果的にはその死球が引退への引き金となってしまった。昭和56年5月10日のヤクルト戦で右手首に死球を受けて尺骨を骨折。ボルトを埋め込む手術をし8月9日の中日戦から復帰したが復調しないままシーズンを終了した。この年は33試合出場で打率.173、3打点とプロ入り初めて本塁打ゼロとなってしまった。オフになりボルトを外す再手術をしたが、この時に初めて竹之内の頭に「引退」の2文字がよぎったと言う。翌年に再起を賭けるも気持ちに体はついて行けなくなっていた。先発・代打も含め14試合に起用されたが16打数2安打にとどまり遂に引退を決意した。「実を言うと去年も女房に辞めてくれと懇願されたんだ。『落ちぶれた姿を見たくない』ってね」

1371試合出場・4357打数・1085安打・157二塁打・10三塁打・216本塁打・606打点・599三振・476四死球・通算打率 .249…3割を打ったシーズンは一度もなくタイトルにも縁は無かった。それでも竹之内は実績以上に大きく見え、ファンの数が多い選手だった。さっぱりした気性と思いっきりの良いスイングでここ一発の長打がファンの胸を打ったからだ。「不器用な自分がプロの世界でやってこられたのは "なにくそ!やれば出来る "という気持ちを持ち続けてきたから。今度はその気持ちを若い選手達に注入していきたい」と新たなポジションで熱く燃えている。
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#283 常勝球団・西武の初優勝

2013年08月14日 | 1982 年 



1980年代後半から90年代にかけて常勝球団となる西武ライオンズも球団創設当初は下位に低迷していましたが、広岡新監督招聘1年目にいきなり前期優勝を成し遂げました。


阪急の敗戦で前期優勝が決定したのは6月25日。思い返せば3年前のこの日は球団創設1年目の前期日程最終日のロッテ戦で、代打・田淵の逆転満塁本塁打で勝ったが18勝40敗7分で首位・近鉄に21ゲーム差の断トツの最下位に沈んだ。あれからまさに「石の上にも3年」となった今年の前期成績は36勝27敗2分で貯金は「9」だが、そのうち南海から「7(10勝3敗)」を稼いだ。南海以外には26勝24敗2分とほぼ互角だっただけに優勝の大きな要因はカモを作ったおかげと言ってよい。しかし、昨年の対南海戦は7勝16敗3分と苦手としていた。今年の西武は何が変わったのか?

それは投手陣の奮闘である。加えて南海から移籍して来た黒田捕手の存在が大きい。南海の打者について隅から隅まで知り尽くしている黒田の加入で主砲・門田封じに成功した。昨年の西武投手陣は南海打線相手に32本塁打を許したが特に門田一人に12本も打たれた。12本塁打を含め打率.345 、35打点と打ちまくった門田を少なくとも前期は抑える事が出来た。打率は.292 をマークされたが3本塁打、7打点なら御の字。細かく見てみると「2本塁打・4打点」は5対12で大敗した10回戦の1試合で打たれたもので、残りの12試合では「1本塁打・3打点」に抑えた。

打撃10傑には大田が4位につけているだけだが、投手10傑には東尾(2位)、杉本(3位)、松沼弟(6位)、松沼兄(8位)の4人が入っている。この投手力で1点差試合は14勝7敗と勝ち越した。たとえ西武打線が3得点以下に抑えられても投手陣が相手打線を2得点以下に抑えて、8勝21敗・勝率.276 と敗戦を最小限に留める事が出来た。ちなみに投手陣が壊滅状態のロッテだと3得点以下の勝率は.156 しかない。チーム打率は昨年前期は.274 だったが今年は.256 とダウンし、1試合平均得点は1点以上も減っている。それだけに前期優勝の原動力は投手陣と言える。

広岡監督は当然の如く後期も制して完全優勝を目指すと公言しているが容易な事ではない。昭和48年の前後期制導入以来、前後期優勝を遂げたのは昭和51年と53年の阪急だけ。西武も昨年前期は2位と健闘したものの後期は5位と息切れしてしまった。後期も投手力を中心とした守りの野球を展開していくしかなく、一朝一夕に打線が活発になるとは考え難い。少ないチャンスを生かす為にも今の西武に欠けているのが走力である。盗塁数は阪急の65個、近鉄の60個に比べて西武は僅か33個である。しかも盗塁失敗も30機会と多くパ・リーグ全体平均の盗塁成功率.650 に対して西武は.524 と低い。開幕前に「50盗塁」と高らかに宣言していた石毛の盗塁数は「7個」と伸び悩んでいる。足の怪我が盗塁数が伸びない原因だが、その石毛がチームの盗塁王とは情けない。足にスランプは無いと言われているだけに走力が打撃力の劣る西武のキーポイントとなりそうだ。
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#282 名球会

2013年08月07日 | 1982 年 



山田久志(阪急)や江夏豊(日ハム)が200勝目前となり、最近再び名球会の名前を新聞紙上で目にする機会が増えてきた。名球会とは一体どんな組織なのだろうか?

「別に名球会に入りたいが為に野球をやっている訳ではないけど、一つの区切りとして早いとこ200勝を達成したいね」と山田投手は淡々と語った。名球会とは「昭和名球会」が正式名称で昭和生まれのプロ野球選手で投手は200勝、打者は2000本安打以上を記録した者が入会できる親睦団体だ。金田、長嶋、王、張本、野村、村山、稲尾…錚々たるスター選手が名を連ねており球界で確固たるステータスを得ていて名球会入りは現役選手はもとよりプロ野球選手を目指すアマチュア選手らの目標となっている。

「単なる親睦団体だから事業展開をして儲けようなんて気はない」と金田正一会長は言う。名球会が現在行なっている活動は主に営利を求めない慈善活動でオークションやサイン会などで得たお金を福祉施設へ寄付している。だが名球会メンバーの意志に反してマスコミの多くは名球会を野球殿堂よりも尊いものであるかのように宣伝しているが、そこには名球会を利用して儲けようとするマスコミ側の思惑が透けて見える。果たして名球会なる組織にそれ程の「権威」があるのだろうか?

ある大正生まれの元スター選手は「大正生まれの僻み」と前置きした上で「200勝&2000本とは上手い所に目をつけたと思うよ。100勝&1000本だと人数が多すぎるし『昭和』を入れる事でウルサイ年寄連中も排除できるからね。でも昭和生まれ以前の選手にも凄い奴らがいた事も忘れないで欲しい」と語った。スタルヒン(303勝)、中上英雄(200勝)、川上哲治(2351本)、別所毅彦(310勝)、杉下茂(215勝)…彼らは生まれるのが早すぎた。勿論、長老の中にも「そんなに目くじらを立てる程の事じゃないさ。若いモンが集まってワーワー楽しくやってるだけだろ。会を作るには何かしらの資格が必要だし200勝&2000本の基準に他意は無いと思うけどな」と語る千葉茂のような寛容派もいる。

その一方でやっぱりどこか変だという声が付きまとうのも事実で入会資格を記録だけで線引きする事に無理があるのではないか。プロ野球とは記録が全ての世界ではなく、個々の思い入れ・憧れ・昔話などが積み重なったものがプロ野球が醸し出す「味」じゃないのか。そうした面から見ても名球会の入会資格はナンセンスと言わざるを得ない。昭和生まれでも入会資格のない面々の中西太・豊田康光・吉田義男・杉浦忠・広岡達朗・権藤博・藤田元司などの名前が我々の頭から消え去る事はないだろう。

そもそも入会基準に勝利数と安打数だけを用いる事に疑問を呈する球界関係者もいる。例えば福本豊(阪急)は昨シーズン終了時点の安打数は1746本だから、およそ2年で2000本はクリアするだろう。しかし福本の球界における存在価値は安打数よりも「盗塁」にあるのではないか?福本以上に安打を放った選手は多いが盗塁数で上を行く選手は日本球界には存在しない。同じ事は江夏豊(日ハム)にも言える。現在の江夏はセーブ王として球界にも確固たる地位を築いているが名球会では「セーブ数」は入会基準の対象ではない。江夏はあと4勝で200勝を達成するが仮にこの先、200セーブを記録しても勝ち星が今のままなら名球会入りはならない。先発完投型だったかつての江夏ならまだしも今の江夏に勝ち星は勲章ではない。自分に勝ちが付くという事はセーブに失敗し他の投手から勝ち星を奪う事を意味するからだ。

名球会側はこうした意見に「そんな事は会を作った側の勝手じゃないか」と反論してくるだろうし、確かに入会資格などは作る側が自由に定めて構わない。問題はやはりマスコミを含めた周囲の意識にある。生涯記録は名球会入りには程遠いあるOBは「私は名球会には何の文句もないし言う資格もない。言いたいのはマスコミに対してだよ。名球会の本質を追及する事なく、さも大したものとして大々的に持ち上げて記事を書く。そうした見識の無さに呆れているのさ」と手厳しい。本誌も含めてマスコミはもう一度精査する必要があるかもしれない。
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#281 伝統の一戦 ④

2013年07月31日 | 1982 年 


長嶋と村山、王と江夏など両チームには多くのライバルが存在するが広岡達朗と吉田義男もライバル関係にある。年齢は広岡が1歳上だが先にプロ入りしたのは立命館大学を中退した吉田だった。そもそも吉田は阪急に入団するつもりでいたが当時の浜崎監督が「あんなチビ助じゃプロでは通用しない」と認めなかった為に入団できず仕方なく阪神に入団した。そうした経緯から阪神では冷遇されていたせいもあって2年後に早稲田大学からプロ入りした「エリート」広岡に対して敵愾心を剥き出しにしていた。

2人の初顔合わせは昭和29年5月2日の後楽園球場。2回表に打席に立った吉田の打球は火を噴くような遊ゴロ。その裏の広岡が放った打球も同じく地を這うような遊ゴロ。共にヒット性の当たりだったが両者は難なく処理した。この2回表裏の遊ゴロはお互いが意識的に放った「牽制」だと後々まで語り草となった。

昭和43年9月19日の甲子園球場。阪神は前日に江夏が巨人相手に完封勝ちして首位巨人との差を1ゲームとし、この日のダブルヘッダーでの首位奪回を狙っていた。第1試合は村山が完封勝利を収め遂にゲーム差なしの首位に並び第2試合を迎えた。阪神の先発はバッキー。試合は巨人が1点リードの4回、4点を加えてなおも二死二塁で打席には王が入った。味方のエラーにイラついていたバッキーの初球は顔のあたりを通過し続く2球目も同じく頭部近辺に。普段は温厚な王が珍しくマウンドのバッキーに詰め寄る。三塁コーチボックスからは荒川コーチが愛弟子の助太刀とばかりバッキーに跳び蹴りをするとバッキーもボクサーよろしくパンチで応酬した。

両軍ベンチから選手が飛び出して乱闘となり荒川コーチは4針縫う前頭部裂傷、バッキーは利き腕の右手親指の複雑骨折を負い2人は退場処分となり試合再開。リリーフした権藤投手はカウント1-3とし次の投球が王の後頭部を直撃して王はその場に昏倒、再び両軍が詰め寄り不穏な空気が漂い始めた。一触即発の雰囲気の中、次打者の長嶋が試合を決めるダメ押しの3ランを放ち、利き腕を負傷したバッキーは投手生命を絶たれる事となった。



昭和48年10月11日・後楽園球場
     阪神 4 3 0 0 0 0 2 1 0 : 10
     巨人 0 0 0 4 0 5 0 1 0 : 10 

阪神は江夏・古沢・上田・権藤・谷村の5投手、巨人は堀内・玉井・関本・倉田・高橋善・小林の6投手をつぎ込み野手を含めると阪神が17人、巨人が21人を動員する総力戦を両軍は引き分けた。試合は序盤から波乱含みだった。2回表一・三塁に走者を置いて後藤が放った三ゴロは長嶋の前でイレギュラーバウンドした。「痛ッ」長嶋が右手を抑えてうずくまる。血が滴り落ちる中指は折れていた。長嶋を欠いた巨人は2回を終えた時点で7点のビハインド、しかも相手先発は江夏である。ベンチもファンの多くも敗戦を覚悟したが4回裏の4点で「もしや…」と感じ始め、6回裏には萩原の逆転3ランと高田のソロで一気にひっくり返した。球場内の興奮は最高潮に達したが今度は阪神が7回表に藤田の本塁打などで2点、8回表には望月の適時打で再びリードした。

この試合を落とすと優勝の望みが限りなく低くなる巨人は死にもの狂いで反撃し8回裏に柳田の右翼ポール直撃の本塁打で追いつき引き分けに持ち込んだ。普段は泰然自若で落ち着き払っている川上監督をもってして「これこそまさに激闘だ」と興奮を隠せないほどの一戦だった。残り2試合で1つ勝てば優勝の阪神に対し長嶋を欠いた巨人では阪神に分があると思われたが優勝を目前にした阪神ナインは極度のプレッシャーに押し潰され2連敗を喫して巨人が前人未到の九連覇を達成したのはこの試合の10日後だった。

世界の本塁打王の王に肉薄した唯一の選手が田淵だ。昭和45年の頭部への死球による影響も解消されつつあった昭和48年には5月に入っても田淵は王に9本差をつけて本塁打王争いを独走していて「ひょっとすると」と世間がザワつき始めるた。すると途端に田淵はプレッシャーで動きがぎこちなくなり打撃フォームを崩して量産ペースはガタ落ちとなってしまう。そんな田淵を横目に王は1ヶ月も経つ頃にはアッサリと追い抜き去り以降は田淵を含め他の選手を寄せ付けなかった。

自らの未熟さを反省し翌49年は精神的にも成長した田淵は10月に入っても王と抜きつ抜かれつのデットヒートを繰り広げた。王が42本、田淵が43本で迎えた10月2日からの巨人阪神4連戦で王は19打席中14四球、田淵は18打席中12四球と醜い四球合戦となった。まともな投球は無くワンバウンドや捕手も捕球できないような球ばかりで世間からも「やり過ぎ」との批判の声も多かったが両チームは馬耳東風だった。終わってみれば王は49本、田淵は45本で「例年通り」王が本塁打王のタイトルを獲得した。
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#280 伝統の一戦 ③

2013年07月24日 | 1982 年 



伝統の一戦において最も熱い対決を繰り広げてきた選手と言えば長嶋と村山であろう。昭和11年2月20日、後の巨人軍黄金期の礎を築いたとも言える米国遠征中にハワイのホノルルに寄港した日に長嶋茂雄は生まれ、「洲崎の決戦」第2戦で宿敵沢村投手を打ち崩した同年12月10日に村山実は生まれた。2人は巨人と阪神の球団史の1ページを飾る年に生を受け、20余年後に同じ舞台へ上がる運命の申し子だった。

2人の初顔合わせは昭和34年5月10日の後楽園球場。初打席はストレートの四球、第2打席は遊ゴロ、第3打席は再び四球、そして次の打席にカウント1-2から本塁打。村山は同年齢ながら早生まれで1学年上の長嶋に天覧試合のサヨナラ本塁打をはじめ、ここぞと言う場面で痛烈な一発を浴びてきた。同時に長嶋は村山のフォークボールに幾度となくバットは空を切らされた。汗を飛び散らして全力投球する村山にフルスイングで応える長嶋との対決はファンを魅了した。

「1500奪三振は長嶋さんから取る」村山は昭和41年のシーズン前に早々と宣言した。長嶋が応える「たとえバントをしてでも記念の三振はしない。1501個目とか中途半端な数字で良ければOKだけどね」と。いよいよあと1個と迫った6月8日の甲子園球場での阪神-巨人7回戦6回表、先頭の柴田が二ゴロで倒れて打席に長嶋が入るとマンモススタンドが歓声で揺れた。1球目は直球でストライク、2球目は直球が高目に外れてボール、3球目はカーブが大きく外れる、4球目の直球を長嶋はフルスイングでファールとなりボールカウントは2-2。それはあの時と同じカウントだった。

7年前の昭和34年、長嶋23歳・村山22歳とほとばしる若さだけでぶつかり合って村山が激しく散った天覧試合。あれから年月を経てお互いに円熟期に入ったが情熱だけは当時から変わっていなかった。5球目は渾身のフォークボール、長嶋は前言とは真逆のフルスイングをしたが空を切りヘルメットが飛び大歓声でマンモススタンドが再び揺れた。「次は2000個だ。次も長嶋さんから頂く」の宣言通り3年後の昭和44年8月1日、場所も同じ甲子園球場で長嶋から外角低目のカーブで見逃し三振を奪い達成した。

昭和47年、兼任監督となった村山は10月7日甲子園球場で最後の巨人戦の先発マウンドに立った。14年間に渡り速球投手として生きて来た証として投じた直球にはもはや嘗ての勢いは失せていた。初回、王の2ランに続き長嶋も左翼席へ26号本塁打を放った。長嶋は「フルスイングする事がライバル村山実に対する礼儀」と語りこう付け加えた「彼の顔を見るのが辛かった…」と。ストレートの四球から始まり天覧試合、1500&2000奪三振、最後のONアベック本塁打と長嶋と村山の火傷をしそうなくらい熱いドラマは終焉を迎えた。


「長嶋 vs 村山」と来れば「王 vs 江夏」を語らない訳にはいかない。江夏は王に対しては直球勝負に拘っていた。勿論、変化球も投げた。だがここぞと言う場面でのウイニングショットは常に直球だった。昭和45年10月12日の甲子園球場、両チームは0.5ゲーム差で激しく首位争いを繰り広げていた。7回表2点のリードを守っていた江夏は一死満塁のピンチで王を打席に迎えた。簡単にツーナッシングと追い込んだ江夏は遊ばずに3球勝負に出た。外角低目に狙いすました直球はピクリとも動かない捕手のミットに吸い込まれた。「よしっ!次は長嶋さんか…」と視線をウェイティングサークルの長嶋へ移した瞬間、「ボール」とコールした谷村球審の声に江夏は耳を疑った。

捕手は振り返り血相を変えて抗議したが江夏は冷静さを保ち、妙な間が空くのを嫌って「いいから早く球を返せ」と捕手を諌めた。マウンドから見るマスク越しの谷村球審の表情に迷った末の『ボール』判定だったのを見て取った。「ならば今度こそ心置きなく『ストライク』とコールしてもらおうじゃないか」とばかりに続く4球目も同じく外角低目に直球を投げ込んだ。しかし判定は再び「ボール!」

「ふざけるなッ!!」こうなると江夏も冷静さを欠く。いつの間にか対戦相手は打席の王ではなく谷村球審に変わってしまった。意固地になった江夏は外角低目に投げ続けたが結果は押し出しの四球。マウンドに膝を付き動かない。緊張の糸が切れた江夏は続く長嶋を抑える事は出来ず逆転の適時打を許してこの試合を落とした。この年の巨人は追いすがる阪神を1ゲーム差で振り切り六連覇を達成した。あの場面で谷村球審が「ストライク」とコールしていたら巨人の九連覇は潰えていたかもしれない。

思えば昭和43年9月17日、同じ甲子園での巨人戦の7回表に王から三振を奪い354個のシーズン最多奪三振の日本記録を更新して以来、王に対してはことごとく直球で勝負してきた。阪神を去り南海、広島、日ハムと渡り歩いて来たが王と対戦する時は阪神時代同様に直球勝負を貫いた。広島在籍中に通算2000奪三振を王相手に達成した際に「これで王さんに借りは返せた」と言った時の江夏の表情は、ようやく「阪神・江夏豊」と言う呪縛からの解放感に満ち溢れていた。
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