Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 668 栄枯盛衰 ①

2020年12月30日 | 1977 年 



あのライオンズの再現を願うファンは九州だけでなく、全国にまで及んでいる。パ・リーグを、日本のプロ野球を更に熱狂させる西国の雄の復活はいつの日だろうか。

ライオンズに染み付いた憂鬱の日
パ・リーグが危機と言われてかなりの時が経つ。その間、あれやこれやと人気回復策が講じられたがその効果はサッパリ。一番手っ取り早く確実と言われた " 勝てば人気が出る " はここ2年連続で日本一、特に昨年は巨人を倒して連覇を達成した阪急を見ても、さほどの効果があるようには見えない。過去の例を見てみるとパ・リーグが大賑わいを見せたのはライオンズ全盛の頃だろう。博多の荒武者たちがキラ星の如く居並び常勝と言われた巨人を子ども扱いにした豪放磊落さ。魅力溢れた選手は野球の面白さ、痛快さをふんだんにファンに味合わせてくれた。その効果はパ・リーグの他球団にも波及し、近いうちに「人気のセ」を凌駕するだろうと言われていたものだ。

それがいつしか萎んでしまった。ライオンズの低迷がパ・リーグそのものの低迷を象徴している。ライオンズが九州のチームらしい豪放な魅力で帰って来ることはないのだろうか。低迷のきっかけは昭和44年から翌年にかけてプロ野球界を大揺れに揺さぶった "黒い霧事件 " だ。昭和45年5月25日、コミッショナー裁定で永久追放処分となったのはエースだった池永をはじめ与田、益田の3投手。この3人の前年の勝ち星は合わせて33勝。チーム全体の51勝の6割を超える勝ち星が消えるわけだからチームに与える衝撃の大きさは計り知れない。この事件は同時に球団経営にひたむきな情熱を傾けてきた楠根宗生オーナーの退陣という非常事態まで派生させた。

もともと楽ではなかった私鉄経営の中から利益の地元還元を唱えてやりくりをつけていた球団運営であったが、一連の不祥事で親会社の西日本鉄道が経営難を理由に急速に球団維持への情熱を失っていったのも当然といえば当然であった。そうして昭和47年10月、西鉄球団は中村長芳氏に球団経営権を委譲し、ライオンズはレジャー産業のニューフェイスだった太平洋クラブを球団名として名乗ることになり新たなスタートを切ったのである。初年度の太平洋クラブライオンズは新しい期待を持たせる華やかさがあった。地元ファンの支持が強い稲尾和久氏を監督に迎え、ビュフォード選手、レポーズ選手ら大リーグ経験のある助っ人を揃えるなどファンの期待は高まった。

現在ではカープの赤色や南海のグリーンなどカラフルな色を採用する球団もあるが、当時としては珍しかった太平洋クラブの赤色のユニフォームは異彩を放った。またカネやん率いるロッテと遺恨試合を演出?してパ・リーグを盛り上げた。太平洋クラブ1年目は87万人を動員し、単年度収支がライオンズ史上初となる黒字を計上した。この快挙はプロ野球は儲からないものと決めつけていた西鉄関係者を驚かせた。2年目も前期の優勝争いとロッテとの遺恨試合の余波で78万人を動員して、2年連続でパ・リーグ1位の観客動員数を維持した。

昭和50年前期は江藤新監督の下で2位と躍進したが僅か1年でファンの支持が高かった江藤監督を解雇し、翌年は大リーグで名監督と誉れ高いレオ・ドローチャーを招請しようとしたが失敗。するとチームの士気は低下し昭和51年は前後期ともに最下位に沈んだ。この失態にファンもソッポを向き、観客動員数は前年比43%減の43万人に落ち込み太平洋クラブは球団経営から撤退し、クラウンライターが引き継いだ。昭和31年から3年連続日本一に輝いた往年のライオンズの威光は消え失せてしまった。その原因はもちろん黒い霧事件のダメージもあるだろうが、チーム作りのちぐはぐさもあるのではないだろうか。
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# 667 近鉄バファローズ

2020年12月23日 | 1977 年 



阪急絶対優位のパ・リーグで「気力で倒してみせる」と宣言した近鉄。そこには西本監督&米田コーチ兼投手の師弟コンビの復活によるチームの意識革命の成功がある。さて、その猛牛を変えた " 革命 " の実態を覗いてみると…

25歳になった太田幸司の意識革命
四国・宿毛にキャンプを張る近鉄に何やら変化が。練習方法が変わったとか、選手の身体つきが大きくなったとかではない。意識の変化である。その例として太田投手を取り上げてみよう。これまでのシーズン最多勝利は昭和50年の12勝。それでも毎年オールスター戦に選ばれてきた太田も昨年はとうとう夢の球宴に出場できなかった。人気も実力もジリ貧状態だが西本監督に「あいつもようやく大人になりよった」と言わせるほど今年のキャンプでは変貌した姿を見せた。1月23日には25歳になり、いつまでもセーラー服の女学生に追いかけられて喜ぶ歳でもない。それに今年は体調がすこぶる良いのだ。

昨年の今頃は右ヒジを痛めて他の投手たちが投げ込むのを寂しそうに眺めていたが、今年はブルペンで思い切り投げてシート打撃にも積極的に登板している。このところ毎日、150球から200球を投げ込んでおり変化球も投げ始めていて調整は順調だ。「いつまでも10勝あたりをウロウロしていてはダメ。15勝いや20勝して今年こそ何かタイトル争いをしたい。プロ野球選手としてここ1~2年が勝負だと思うし、今年ダメならそこまでの選手だということ(太田)」と話す内容も逞しくなった。ブルペンで太田の投球を受けている岩木や木村が口を揃えて「今年のコーちゃんは違う」と太田の変化を肌で感じている。

太田はプロ入り8年目を迎えた。「だいたい稲尾さん、金田さん、村山くんなどの大投手は7年も8年もかけてエースになったわけではない。8年目の太田もここらで頑張らんとその他大勢クラスの投手で終わってしまう」と杉浦投手コーチは警鐘を鳴らす。太田にとって耳の痛い話だ。昨年の暮れに佐々木選手や栗橋選手と一緒に宝塚にある西本監督宅を訪ねた際に西本監督からたっぷりと野球談議を聞かされた。「監督が自分に期待しているのが分かったし、身の引き締まる思いだった(太田)」そうだ。その日以降、太田の生活態度が変わった。プロ並みの腕前と称されるゴルフを封印し、大好きな麻雀も年が明けてからはやっていない。

もともと酒は飲まずタバコも吸わない太田。キャンプの休日は手持ち無沙汰で宿舎の部屋に籠ったまま過ごしている。「キャンプは遊びに来ているわけじゃない。野球をしに来ているのだから、野球をやらない日は身体を休ませるのが当たり前」とちょっとキザに聞こえる台詞も今では真実味を帯びている。また昨年までは練習が終わるとグラウンドから宿舎までの約3kmの道をランニングをして帰って来ていたが、今年はタクシーを利用している。「練習ですべてを燃焼させれば走って帰る余力は残っていない。宿舎へ帰ったらバタン・キューですよ」と笑う顔は精悍だ。何もかもが一回り大きくなった感じの太田は " 何か " を掴んだようである。


大ウケのベテラン米田の革命説話
何が太田を変えたのか?西本監督や杉浦コーチの助言もあるが実は米田コーチ兼投手の存在が大きい。阪急から阪神へ、そして今年から近鉄に移籍して来たベテラン投手は今年でプロ23年目。その米田と太田は宿舎で同室となった。「本当に驚くことばかり。当たり前のことなんだけど教えられることだらけです(太田)」と。近鉄は米田の豊富な経験を投手に限らず若い野手にも注入したいという西本監督の提案で米田をコーチ兼任にした。「僕はまだ投手として目標を持った現役。コーチという肩書きは意識しない(米田)」と言うが、肩書きより自らの行動で若い選手にプロ意識を植え付けている。

米田はキャンプ地に自宅から枕を持ち込み太田を驚かせた。翌朝、起床した太田が着替えをしていると米田が「宿舎のこの部屋は君の城みたいなものだ。服を雑然と置いておくもんじゃない。君専用の整理タンスを用意しなさい」と言われて直ぐに宿毛市内の家具店にタンスを注文するくらい米田イズムにすっかり傾倒してしまった。それに対して米田は「みんな考えが甘いんでビックリした」と近鉄ナインの印象を端的に言ってのけた。やれガッツだ、突進だ、と宿舎の壁にスローガンが貼ってあったりグラウンドでは元気のいい掛け声が飛び交っているのだが、米田の目には単なる掛け声にしか映らない。

「プロとしての心構えがなっとらんですね。色々な投手と話をするけど " 僕は6回くらいに打たれることが多い。完投できるコツを教えて欲しい " と聞かれる。コントロールもないくせに力いっぱい投げ続けていたらバテて中盤以降につかまるのは当たり前。投手1人でマウンドに上がり9人の打者相手に喧嘩するのと一緒。相手の力量を見極めて攻め方を変えるのが常道。球種や間合いも大切だけどコントロールをつけるのが近道」とこんなところが近鉄ナインに必要な意識改革だろう。今は着実に進行している。あとはオープン戦を通じて「なぜ打たれたか、どう攻めればよかったのかを教えていきたい(米田)」という。

午前10時から始まって延々6時間続くキャンプ中に米田は投手たちと個別に話し合う。「体験談だけや」と多くは語らないが意識改革だけでなく、太田には " ヨネフォーク " と呼ばれる米田直伝の変化球を教えている。「詳しくは話せないが球の縫い目に指を掛ける方がコントロールがつく(米田)」のだそう。これまでとは違う投げ方に太田は「今までは縫い目に指を掛けずに投げていたけどシュート回転したり安定しなかった。どの指を掛けるかは秘密だけど確かにコントロールしやすい」と手ごたえを実感している。「まだまだ甘い。こんなんで阪急に勝てるもんか」と米田の意識改革は始まったばかりだ。


「経験談を話すだけ」と米田兼任
西本・米田の阪急時代の師弟コンビが放った近鉄の革命宣言、そして米田の投手教育が好評となると杉浦投手コーチの立場が微妙になるのでは、とヤジ馬は勘繰りたくなる。杉浦コーチは現役13年、その間は南海のエースとして球界を代表する大投手。言うまでもないが立教大学時代は長嶋監督(巨人)と共に神宮の森を沸かせたスターだ。長嶋のような派手な性格ではなく物静かで目立たないが近鉄でのコーチぶりは西本監督に大いに評価され「投手のことはスギに任せておけば大丈夫」と催促されない限りキャンプ中に西本監督がブルペンに足を運ぶことはないほどだ。そこに米田が新たに加入してきた。

船頭多くして…の諺を危惧する声に米田は「いやいやコーチといっても僕の軸足は現役で、技術的な指導は杉浦さんや中西さん(元大毎オリオンズ)がしてくれる。僕は聞かれたら答えるだけでコーチとは名ばかりだよ」と笑い飛ばす。米田は現役生活23年目、あと3勝で通算350勝の大投手。「身体はどこも悪いところはないし、仕上がりは早い方だし開幕に焦点を合わせて調整していく。僕が10勝したら近鉄は優勝争いに食い込める(米田)」と言い、自分を温かく迎えてくれた球団と西本監督の恩に報いる為に必死であり、投手陣に対する意識改革もその一環なのである。

一方の杉浦コーチも米田に対して「貴重な経験を持った大投手だし、力強い存在だ。チームが危機に陥った時に米田みたいな投手がいるかどうかで踏みとどまれるか落ちていくかが決まる。投手としてもコーチとしても必要な人材だ。米田には投げるだけでなくブルペンで目を光らせてもらう」と期待を寄せており、わだかまりはないようだ。怪我とは無縁で強靭な肉体を駆使して金田正一氏に次ぐ勝利数を上げている米田と現役時代に右腕の血行障害を手術と長いリハビリを経てカムバックした精神力の持ち主である杉浦コーチがタッグを組んで近鉄投手陣を体力と気力の両面から鍛え上げていく。


デスマッチと取り組む西本監督
しかし選手やコーチ以上にやる気を見せているのが西本監督だ。「オレがやると言うたらとことんやるんや」3年間近鉄の監督を務め、昨年末に再契約をし4年目を迎えた西本監督はガラリと態度を変えた。「昨年までは少し選手を甘やかしてきた。オレはやはり年中がなり通して丁度ええんや」と豹変した理由を話した。昭和35年に大毎オリオンズを率いてパ・リーグを制したが日本シリーズの用兵を巡り、当時の永田オーナーと衝突して辞表を叩きつけて退団。あの時の血気盛んな青年監督の面影が今や白髪となった西本監督の表情に漂っている。大洋に別当監督が就任して大正生まれの監督が中日・与那嶺、クラウン・鬼頭と合わせて4人になった。まだまだ元気で昭和生まれには負けない。

昭和50年の後期シーズンに優勝をして次はリーグ優勝を、と期待された昨年は前・後期ともにダメ。打倒阪急にナインを叱咤激励する西本監督だが実は狙いは別の面もある。「選手たちはいつまでも野球だけをやっていけるわけではない。やがて引退して第二の人生を歩むことになる。それまでに社会人として一人前に育てるのも自分の役目(西本)」と自問自答しながらグラウンドで仁王立ちしているのだ。西本監督は米田方式とは違ってノックバットでのシゴキが中心だ。午後1時過ぎから始まる個人ノックは時間制限なしに延々と続くデスマッチ。「選手が分かるまでやめない」「多少の怪我は唾でも塗れば治る」等々、西本監督の口から出る言葉は激しい。

宿毛キャンプで座るのは昼食のパンを口にする10分間だけ。あとはノックバットと拡声器を持って終始立ちっぱなしの西本監督。夕食後は宿舎でビデオ録画した映像で各選手をチェックする。「ウチの戦力では阪急には勝てん。しかし勝負は戦力だけでは決まらない。気力で勝ってみせる」と大正生まれらしく太平洋戦争下での " 打ちてし止まん " 精神ばりでは今の選手たちは理解できそうもないのが気になるが。「ウチの連中は球を打つポイントも知らんし、体の移動の仕方も分かっておらん」「あんなフォームで試合で打てると思っている時点でダメ」と西本監督の口から出るのは怒りと愚痴ばかり。

「怒鳴られている時は怖いオヤジと思うけど、あれだけ熱心に動き回る姿を見るとこれが西本イズムなんやなと分かるようになった」と佐々木選手は言う。今の時期は12球団どこのキャンプ地を訪れても監督は意気盛んだ。みんなヤル気がみなぎっているが西本監督ほどの殺気走った " 本気のヤル気 " を見せている人はいない。その西本監督を見て米田が呟いた。「あのオッサン、昔とひとつも変わっていない。阪急を優勝させた時と同じやから近鉄の優勝も近いぜ」と。阪急を日本一にした男の見立てである。
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# 666 スター選手の横顔

2020年12月16日 | 1977 年 



やればできるんだ
「プロの選手として一人前になれたのは親父と元監督の村山さんのお蔭」と阪神・古沢憲司投手は言う。「確か昭和45年、プロ入りして7年目だったと思う」と語り始めた。・・・もうダメだ。古沢は思った。ヤケになり合宿所にも戻らない日々が続いた。連絡を受けた父親が球団事務所に赴き古沢の今後について話し合いをした。「たぶん親父は球団からクビの宣告をされたんじゃないかな。はっきりと聞いたわけではないけどクビになっても言い訳の出来ない状況だった」と古沢は述懐する。その古沢を当時の村山監督が引き止め「もう一度性根を入れ替えて死んだつもりでやり直せ」と諫めた。父親からも同じことを言われた古沢は改心し、真面目に練習に励んだ。

すると翌年は12勝9敗と覚醒した。古沢にとってこの12勝は大きかった。千金の重みがあった。それまで絶望しヤケ気味なっていた古沢の人生に大きな希望投げかけ自信を植え付けた。自分はやれば出来るんだ。そんな男気がムラムラと湧き上がってきた。古沢は昭和39年、新居浜東高1年生の時に高校を中退して阪神に入団した。「とにかく子供の頃から体を動かすのが無性に好きだった。体を動かしていればご機嫌で野球に限らず水泳やバレーボールなどをやっていた。運動好きというより勉強が嫌いで机に向かっているのが苦痛だったんだよね」 高校に入学したものの登校しない日が多くなっていった。

「その頃、親父は家の裏の路地で学校を休んでいた俺のキャッチボール相手をしてくれた。今から思うと親父はキャッチボールなんかする暇なんて無かった筈だけど俺につきあってくれた。何とか俺を立ち直らせようとしてくれたと思うんだ。ありがたいよね」と。古沢は1年生でベンチ入りして夏の甲子園大会予選に出場し、名門・西条高に敗れたものの好投した。この時の好投が阪神の目に留まり学校を中退して15歳でプロ入りすることになる。「確かに早すぎたかもしれないけど勉強も苦手だし、プロでやるなら早い方がいいと判断して阪神入りを決めた(古沢)」 しかし当然ながらプロの世界は厳しかった。

「弟が阪神に入団して翌年、まだ16か17歳の時に一軍に上がって大洋打線を完封したことがあった。やったぁ!と家族一同大喜びしたが、後で考えるとこの勝利が弟をかえって長い下積み生活に追いやったのではないかという気がする。あの完封でプロの世界を甘く見たのかもしれない。その後は勝ち星に恵まれず弟はヤケ気味になり、合宿所でも規律を乱して問題視されるようになった」と実兄・満さんは言う。過去にも古沢と同じように一時期にチヤホヤされて道を踏み外した選手はいた。古沢は7年間、のたうち回った後に栄光の舞台に戻って来た。「見かけによらず弟は意外とデリケートなんです(満さん)」


村山さんに感謝を
古沢も今では2児の父親だ。「子供は可愛い。遠征先から毎日のように家に電話して子供たちの声を聞くのが楽しみ」と話す古沢はすっかり親の顔だ。かつて道を踏み外さないようにキャッチボールに付き合ってくれた父親は病床にある。「阪神の試合が中継される時は必ずテレビを見ているそうだ。僕が投げた時は電話でああだ、こうだと解説めいた話をする。まぁテレビの解説者の受け売りだけどね」と苦笑するが嬉しさは隠せない。「僕の勝ち星が病気に負けない薬になってくれたら嬉しいね」と、しみじみと野球というものが人間をここまで鍛え上げ、一人前にするものなのかと思わざるを得ない。

あの昭和46年にあげた12勝の糧となった父親や村山監督の叱咤激励が道を踏み外しそうになった古沢を立ち直らせたのであろう。「そうかもしれない。練習という裏付けが大事だと分かった。あれ以降やる気が出たし欲も湧いてきた(古沢)」。ひとつ勝てばもうひとつ勝ちたいと思うようになり、勝ち星が増えれば年俸も比例して上がった。「あの時に野球を辞めていたら自分は今ごろ何をしていたのか。考えるだけで怖くなる」と古沢は宙を見るような眼差しになって「今でも村山さんに『お前ほど手こずらせたヤツはいなかった』と言われるけど本当に感謝しかない。あの人には一生頭が上がらない」と話す。
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# 665 ニュースター ②

2020年12月09日 | 1977 年 



梶間健一(ヤクルト):安田も真っ青の " 人喰い投法 "
サッシー人気で沸くヤクルトだがその酒井投手を実力で喰ってしまいそうな投手が首脳陣を喜ばせている。それが梶間投手。とにかく人を喰った投球が頼もしい。14日の紅白戦で先頭の永尾選手から九番目のマニエル選手までヤクルトの強力打線を僅か33球で仕留めた。それも殆どの打者がボテボテの打球で、良い当たりと言えるのはマニエルの中飛くらいだった。174㌢・71㌔の細身の左腕からオーバースローあり、サイドスローあり、果てはアンダースローありの安田投手顔負けの変幻自在の投球だった。ストレートはナチュラルに変化するしカーブ、シュートも投げ方によって球速が違う。クリーンアップも赤子の手をひねるが如き快投に完敗だった。

三番・若松選手はフルカウントから低目に落ちるシュートを打ちあげて右飛。四番・大杉選手は初球のシュートを引っかけて投ゴロ。五番・槌田選手はカウント1-2からのカーブで三ゴロに倒れた。また三塁のレギュラー争い中の伊勢選手はフルカウントからカーブを空振り三振。プロのベテラン選手が梶間の球をまともに芯で捉えられないのだ。ピッチング同様にコメントもまた人を喰っている。殺到する報道陣を前に梶間は「まぁ普通の出来でした。腰と足がパンパンに張っていてコンディションは最悪でしたけど何とか抑えられました」と涼しい顔で言ってのけた。

梶間は茨城県の鉾田一高から日本鋼管に入社し6年間サラリーマン生活を送った。月給は13万円ほどで慎ましく暮らしてきたが、ドラフト2位指名され契約金2500万円・年俸240万円でプロ入りを果たした。人気の酒井に目が行きがちだが梶間の実績も凄い。都市対抗野球の決勝戦で優勝投手となったり、中南米のコロンビアで開催された第1回アマチュア野球世界選手権大会に出場し世界最強と謳われていたキューバを相手に快投を見せるなど、いわば社会人野球を代表する投手なのだ。

茨城県人は土性骨が座っていると評される。この " 水戸っぽ " の活躍を同郷の豊田泰光は「俺は自主トレの頃から梶間はやれると言ってきた。ヤツの顔つき、目つきを見れば分かる。茨城の人間は根性が座っているんだよ」と自分のことのように喜ぶ。この発言は同郷人の贔屓だけではなさそうだ。普段から慎重で、特に自チームに関しては滅多に褒めない広岡監督も思わず「これは本物だ。自分の球に自信を持っている。投球のツボを心得た投手だ」と称賛した。いわば一軍当確を認めたと同じで、現時点では酒井を大きくリードしている。

それを裏付けるようにヤクルトナインの梶間評も高い。「ピッチングのコツを知っている。特にシュートの使い方が抜群。左打者相手にシュートを投げる左腕投手は少ないが梶間は同じシュートでも落としたり、食い込ませたりと自在に操る。球のキレは安田以上(若松)」「永淵が入って来た時に似てるけどそれ以上だな。シュートは武器になる。守備も牽制も上手い。いい投手が入団したね(大杉)」「完成された投手と言っていい。あとは他球団の対戦相手打者の癖を教えるだけ(大矢)」と絶賛するが当の本人は「僕の武器?さぁ何ですかね。心臓かな(梶間)」と相変わらず人を喰ったコメント。一気に新人王レースの先頭に躍り出た。


石原修治(近鉄):甘いマスクで豪打連発の掛布二世
新人の育成が上手い近鉄に掛布選手(阪神)以上と評判のルーキーが現れた。その名は石原修治。西本監督が昼休みに報道陣向けの特打ちに指名したのが石原だ。とにかく鋭いライナーが左翼線いっぱいに目盛りで測ったように伸びて行く。阪神でヘッドコーチだった岡本伊三美氏が思わず感嘆の声をあげた。「凄い。低目にストンと落ちる球をあれだけ見事に芯で捉えるバッティングはレギュラークラスでも真似できない。掛布というより大洋の松原みたいだ」と西本監督に話しかけた。すると西本監督は「せやろ。松原そっくりやろ。楽しみな奴がまた増えたわ」とニンマリ。

182㌢・78㌔の均整の取れた体格。出身は掛布と同じ千葉県で我孫子高卒のドラフト2位指名ルーキー。掛布は父親・泰治さんの猛練習に鍛えられたが、石原は母親・久子さんが内職して稼いだお金でグローブやバットを買ってもらい練習に励んだ。「夢は大きい方が良いからでっかくホームラン王です。同じ千葉県生まれの掛布さんが目標です(石原)」。掛布が4年前に入団した当時の阪神は三塁手が固定されておらず人材不足に困っていた事もあって掛布に出場の機会が与えられた幸運もあった。それと同じく今の近鉄も内野手不足に悩んでいる。ヤクルトから益川をトレードで獲得したが攻守ともに今一つで石原にもチャンスはある。

なにしろ高校時代に飛距離160㍍の本塁打を放ったというから桁外れのパワーの持ち主だ。160㍍は怪童・中西太が西鉄時代に放った161㍍に匹敵する飛距離だ。しかも石原には甘いマスクの売りもある。「ウチにはコーちゃん(太田)やコーヘイ(島本)といった若い女性に人気のハンサムがいるが、石原も彼らに負けない二枚目。2~3年後には球界を代表する人気選手になるかもよ」と西本監督が言うほど都会的で整った顔をしているので、打ちさえすれば目標としている掛布を凌駕するくらいの人気者になるのは目に見えている。

我孫子高時代は地方予選で掛布の母校でもある習志野高に敗れて甲子園出場は成らなかった。なので中央球界では無名だが、主将で四番を務めた実力派。1日でも早く一軍で活躍する姿を見たいが課題は実戦で結果を残せるのかだ。打撃に関しては「味方同士の紅白戦では一応の結果は出せたが、他球団とのオープン戦ではどうか。対戦する相手投手も生き残りに必死で攻め方も厳しくなるだろうから真価を問われることになる」と西本監督。また守備が一軍に残れるかどうかのポイントでもある。足は速い方だがフィールディングやサインプレーのフォーメーションを直ぐに覚えるのは高卒新人には厳しい。開幕一軍には高いハードルが待ち構えている。


立花義家(クラウン):張本育ての親が太鼓判の大物
張本二世と折り紙を付けられたのはクラウンのドラフト1位指名ルーキーの立花選手。180㌢・76㌔の左打ち。柳川商からプロ入りしたばかりの若者に「私の知る限り張本に匹敵する逸材」と惚れ込んだのがキャンプで臨時コーチを務める松木謙治郎氏だ。なにしろ松木は自他共に認める張本の育ての親で決してハッタリを言う人物ではないから本心であるのは間違いない。松木はキャンプイン早々にフリーバッティングをする立花を一目見るなり「こいつは大物になる。是非とも1年くらいかけてじっくり育てて欲しい」と言い放った。ところで立花に惚れ込んだのは松木だけではない。あの青木一三氏だ。

青木はクラウンでスカウト担当でありながら球団重役をも務める球界の重鎮。選手の潜在能力を見る眼力に長けていて幾つもの球団からその能力を乞われて吉田義男や村田兆治、有藤道世などを見出した。「だから言ったでしょ。今年のルーキーで立花以上の打者は見当たらないと。これでも選手を見る目だけは確かなつもりだよ。マスコミは契約金(2300万円)が高すぎると批判したけど今に見ていろと思っていたんだ。あ~いい気分だ(青木)」と留飲を下げた。とは言うものの立花の評価は松木の発言があるまで低かったのは事実。キャンプ初日のフリーバッティングで派手な空振りを披露するなど、前評判ほどではないという意見が多数だった。

松木発言で評価が一変したが、世の中にはヘソ曲がりは必ずいるもので「あれは松木さんのお世辞がかなり入っている。そんなに大物なら1年じっくりなんて言わず直ぐに一軍で使えばいいじゃないですか。背番号も『1』が空いているのに『34』でしょ、球団が本気で大物だと考えているなら躊躇なく『1』を背負わせた筈です」と地元紙の中堅記者は言う。そう言われてみれば高校時代に流し打ちで本塁打を放ったという長打力も未だに披露しておらず、前出の地元紙記者の「今の力量ではプロの球を打てないのでは」という指摘もあながち的外れな意見だとは言えない。

そうした意見に対して松木は「そりゃそうだよ、まだ子供だからね」とあっさり認めた。なにやら雲行きが怪しくなってきたが、では " 張本に匹敵する " はどこから出たのか尋ねると「いやね、張本君が昭和34年に浪商からプロ入りしてきた時は馬力はあったが直ぐに一軍で通用するような打撃技術はなかった。それでも大川オーナーに『何としても開幕に間に合わせろ』と命令されてマンツーマンで特訓した。その時の張本君と比べたら立花君の方が技術的には優っているということ。あとは体力さえつければ良いのだから簡単でしょ。だから張本君といい勝負だなと思ったのさ」と。

つまりは打撃センスは天性のモノで練習しても誰もが会得するとは限らないが立花は既に身につけている。あとはシーズンを乗り切る体力さえつけば充分に張本二世になれるというわけだ。ところで肝心の立花の思いはというと「中日の谷沢さんや阪急の加藤さんのような打者が目標(立花)」だそうで " 張本さん " は眼中にないらしい。また青木はシーズン中も機会を見つけて松木に立花を指導してもらう予定だという。球団としてもアドバルーンを揚げた以上、何としても立花を張本二世に育てなくては。頼みますよ、松木さん。

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# 664 ニュースター ①

2020年12月02日 | 1977 年 



プロ野球の新人は海のモノとも山のモノとも分からないとか。しかしキャンプに入ると、おぼろげながら海、山の区別ぐらいついてしまう。そこでどこかキラリと光るモノを持った新人の掘り出しモノを祈るような気持ちでピックアップしてみよう。

松本匡史(巨人):あまりに激しい " 脚高打低 "
2月10日、この日は朝から雨で一軍選手は室内練習場に集められた。練習場の壁にサージェントジャンプの測量版が設置されているのを見た選手らが面白半分でチャレンジしていた。河埜選手、中畑選手ら殆どの選手は70㌢前後だった。そこに松本選手が現れた。皆に促されて準備運動もなしにジャンプすると83㌢を記録した。「凄いなお前。野球をやめてオリンピックを狙えよ」と中畑も呆れるほどの跳躍力だった。続けて立ち幅跳びにも挑戦すると軽く3㍍を超えた。元五輪選手の鈴木トレーニングコーチも「野球選手でこれだけの跳躍力のある男は初めて見たよ」と驚いたほどで、改めて松本の身体能力の高さを認識させられた。

東京六大学の盗塁記録を塗り替えた健脚ぶりはこのバネから生まれているのは言うまでもない。赤い手袋の柴田選手も、自身の六大学記録を松本に破られた高田選手も脱帽だ。長嶋監督は「確かに速いなぁ。でもまだまだ速くなるよ。素晴らしいバネを使い切っていない。今は忍者のような摺り足だけど、もう少し足を上げて走ればもっと速くなるはず」と現状に満足していないから驚きだ。そして「松本の走り方はクラシックバレイのようだ。もっとモダンバレイみたいにダイナミックな走り方をしなくちゃ」と独特な長嶋節を炸裂させた。今でさえ他の選手が驚く脚力なのにそれに満足しないのは長嶋監督らしい。

しかしその脚力を生かすも殺すも打撃力だ。塁に出られなければ宝の持ち腐れ。大学時代の通算打率が2割3分の選手がプロでそれと同等以上に打てるかは甚だ疑わしい。「六大学のレベルでは3割打った選手でもプロで2割5分打てれば御の字(アマチュア野球担当記者)」という意見が大多数だ。国松打撃コーチは「松本がこの世界で生き残るには打撃力アップが不可欠」と。代走専門という手もあるが、かつてロッテに100㍍走の元日本記録保持者・飯島選手という代走専門の選手がいて話題にはなったものの実際の戦力には程遠かった。現状の松本が常時ベンチ入りするのは恐らく無理。打撃は勿論、守備面もプロの域には達していない。

松本の守りに関して長嶋監督は「グラブさばきは一級品。球際にも強い」と合格点を与えるが、松本を直接指導している町田コーチによると「まだまだ半人前。プロで成功するには何か秀でたモノが必要。足は文句なしだが打撃と守りは一軍レベルには程遠い」と手厳しいが、続けて「先ずは鍛えればものになりそうな " 何か " を松本から見つけるのが自分の役目」と何としても松本を今季の長嶋巨人の目玉にしようと懸命だ。長所を見出してそこを伸ばす。これからのキャンプ、オープン戦を通して越えなければならない幾つもの壁が松本を待ち受けている。



高元勝彦(中日):重い豪球で " 別所二世 " の声も
蒲郡球場での二軍キャンプ。ここでは15人の若手選手が服部二軍監督や井上、水谷両コーチにみっちり鍛えられている。一塁側にあるブルペンは2人が投げられるが、高卒新人の2人が揃って投球練習する様は見応えがある。都投手と高元投手だ。都は左手首のスナップを効かせて切れの良い球を投げる。高元はゆっくりとした投球フォームから大きく腕を振り下ろすと球はズドンとキャッチャーミットに吸い込まれる。全くタイプの違う2人。都に関しては前評判が高く首脳陣にしてもこれくらいの投球は予想していただろうが、高元は正直言って良い意味で予想を裏切った。

185㌢・85㌔で逆三角形の体格。ジャンボこと同僚の堂上投手はズングリ型の巨体だが高元は筋肉隆々型だ。服部二軍監督は戦前の名古屋軍の頃から捕手として在籍していたが「長いこと中日にいるが、こんな大型投手が入団したのを僕は知らない。上手く育てば別所二世が誕生する(服部)」と胸を弾ませる。とにかく見ていて惚れ惚れする球威と重い球質は人並み外れたパワーの持ち主であることの証だ。蒲郡キャンプを訪れた野球評論家の多くが " 人気の都 " より高元の方が上だと話す。

ただ問題は無名に近い広島の廿日市高でワンマンで育っただけに守備や連係プレーなど基本から学ぶ必要がある。また桁はずれのパワーを秘める上半身に比べて下半身の鍛え方が足りないのもこれからの課題となる。「よくこんな投手がいたもんですわ。もし彼が甲子園に出場していたら、酒井くん並みの騒ぎになっていたに違いない」と満面笑顔の法元スカウト。キャンプ終盤には一軍がキャンプする浜松に行くことも決定。「早く一軍に行って自分の力量を確かめたい(高元)」と度胸も良さそうな不敵な新星である。


夏目隆司(阪急): " モーガン警部 " 絶賛の二代目・タカシ
阪急のタカシといえば剛腕・山口高志と相場は決まっているが、新たなタカシが出現した。それも本家と同じく、いや本家以上の快速球を投げるというから驚きだ。夏目隆司・21歳。この新速球王に目をつけたのはアメリカからやって来たモーガン臨時投手コーチ。「カレハビッグボーイネ。アメリカ二ツレテカエリタイ」と賛辞を送ったからさぁ大変。それを伝え聞いた上田監督は「なになにウチにそんな逸材がいるのか」とエライ惚れ込みようで高知キャンプを訪れるマスコミや野球評論家には必ず夏目の話をする。

176㌢・65㌔。静岡県の三ヶ日高を卒業後、家業のミカンやイチゴ栽培の為に県立農業短大に通いながら野球部を創設したばかりの機械部品メーカーに就職したが、野球部とは名ばかりでまともな練習環境も整っておらず退部。家業を手伝いながらプロ入りのチャンスを待っていた。昨秋の巨人入団テストを受けたが不合格。次に受けた阪急のテストに合格しテスト生として入団した。そんな背番号『62』の夏目にモーガン臨時投手コーチの目が留った。かつて西鉄の西村貞朗投手が大リーグのロパット投手に称賛されたのを機に自信をつけ完全試合を達成するまでに成長した例もあり、夏目も励みになる。

ただどのチームもそうだがキャンプ開始から暫くはレギュラークラスの調整度は遅いので、ガンガン飛ばす若手選手は目立つのが実情。新鮮な話題を探すマスコミ報道と相まって実力以上の選手に祭り上げられるのが毎年恒例である。キャンプを終え、オープン戦がたけなわになる頃には彼らの話題は跡形もなく消え去るのを繰り返してきた。夏目はどうか?河村捕手によると「もの凄く速いし高目の球はちょっと打てないのではないか。それにコントロールも抜群で往年の小山投手(阪神)レベル」と絶賛。「こいつはエエでぇ、掘り出し物や。タカシ(山口投手)のデビュー当時と比べても遜色ない。開幕一軍あるで」と上田監督も大乗り気。

「3年間やってみてダメならきっぱり諦めます。巨人の堀内さんみたいなピッチャーが目標です(夏目)」と張り切るが現実は厳しい。阪急は今年から三軍制を取り入れていて、夏目がいる三軍の練習は一・二軍とは別である。従って夏目が山田投手や山口投手と並んで投球練習をすることはない。ストレートが速いといっても山口らと直接比較したわけではなく、モーガン臨時投手コーチの主観に過ぎない。梶本投手コーチも「速いは速いが、腰高で低目の球は伸びを欠く。まだまだ練習しないとダメ」と過熱する周囲に釘を刺す。ただし素材としては一級品なのは間違いなく、オープン戦の結果次第では開幕一軍の可能性はゼロではない。


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