Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#174 初登板&初完封 

2011年06月29日 | 1981 年 
   


球界を代表する投手にまで登りつめた松坂やダルビッシュ、プロ1年目に20勝を達成した上原でも
出来なかった初登板&初完封を成し遂げた投手がいます。西武・杉本正投手が史上20人目、パでは
昭和48年の新美投手以来8年ぶり6人目の快挙を達成しました。杉本投手登板はチーム事情で急遽
決まったものでローテーションの一角の松沼兄投手がヒジ痛で登録抹消。東尾・松沼弟・森繁投手らを
ロッテ3連戦で使い、開幕4戦目の日ハム初戦に投げる投手がいなくなり仕方なく新人にお鉢が回って
来たのでした。実は杉本はヤクルト入りを希望していて、ヤクルト側は下位での指名を目論んでいたが
間隙を突いて西武が3位で指名してプロ入りとなった。「本当はヤクルトに行きたかったが自分を評価
してくれなかった事を見返してやりたかった」と吐露している。ただし杉本もこれで安心してはいけない
過去の達成者のうち、その1勝だけで引退した投手が3人もいるのだ(打者転向1人を含む)。



初登板・初完封の第1号は後に「物干し竿バット」で阪神の四番を務めた藤村冨美男だった。名門呉港中出身、昭和7年から
10年までエース兼四番打者として4年連続甲子園大会に出場し昭和9年には全国制覇を成し遂げ大阪タイガースへ入団した。
初登板・初完封を記録した試合も被安打は僅か1安打・11奪三振、打っても4打数3安打2打点の活躍だった。藤村は打者と
しての印象が強いが昭和26年まで投手として登板し、通算34勝11敗を記録している。この藤村を含めて戦前には7人が達成
しました。戦後初の達成者は昭和21年の白木義一郎(セネターズ)で、これを機にその年は30勝しましたが、達成者の全てが
その後に大成した訳では有りませんでした。

戦前の投手は戦争で命を落とした人もいて評価しにくいですが、戦後で通算100勝以上をあげた投手は12人中ひとりです。
浮洲重紀(名古屋)・小山恒三(国鉄)の両投手は、その1勝のみで引退しています。100勝以上をあげた数少ない成功者が
村山実(阪神)です。昭和34年4月14日、開幕第2戦の国鉄戦に先発した村山は先頭打者の町田にいきり死球を与えるなど
緊張のプロデビューでしたが終わってみれば2安打完封でした。その年に18勝し通算222勝をあげました。この村山のように
達成の為のひとつの要因が「死球」でした。初顔の荒れ球を投げる投手相手に打者は打ち気を失せがちになります。五井孝蔵
(近鉄)は5回まで毎回四死球を出しながらも完封、前述の浮洲(名古屋)も8四死球でした。

ならば歴代の大投手たちの初登板はどうだったのか。昭和25年8月25日の広島戦5回表に初登板した金田正一(国鉄)は
最初の打者を三振に斬ってとるなど8回まで無難に投げましたが9回裏サヨナラで負け投手になりました。9月6日の巨人戦で
一旦は勝利投手と発表されましたが、規則適用の誤りがあったとして翌日に取り消されました。初勝利は10戦目の大洋戦まで
かかりました。稲尾和久(西鉄)の初登板は昭和31年3月21日の開幕戦でした。大量リードされた6回から4イニングを3安打
無失点に抑える上々のデビューでした。その後も敗戦処理ばかりでしたが31回 2/3を投げて自責点2、防御率 0.56 の完璧な
投球でした。それだけに10試合目の高橋戦で初勝利をあげると後は順調で21勝で新人王を獲得しました。

通算200勝した中には初勝利までに3年を要した投手もいる。皆川睦雄(南海)は1年目・10試合で0勝3敗、2年目・4試合で
0勝3敗、初勝利は3年目の17試合目だった。200勝投手16人のうち初登板で勝てたのは7人だけで戦後では村山の他では
杉下茂(中日)・梶本隆夫(阪急)・堀内恒夫(巨人)の3人だけなのだ。現役では200勝に一番近い192勝の江夏(日ハム)は
4試合目と早かったが、続く184勝の山田(阪急)は初登板こそ2回無安打と好投したが結局0勝2敗に終わり、翌年も開幕から
6連敗。5月14日の西鉄戦の初勝利まで16試合かかった。


この記事以降にも槙原(巨人)・近藤(中日)や現役では大場(ソフトバンク)などが達成しています。
特に近藤は史上初のノーヒット・ノーランでした。しかし、2年目以降は肩の故障の為に尻つぼみで
若くして引退し大場も今ではすっかり忘れられた存在。槙原はその後、完全試合を達成し通算勝利も
159勝ですから「呪縛」から逃れたと言ってもいいでしょう。杉本は通算81勝で100勝の壁を越える
ことが出来ませんでした。





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#173 天才二塁手 

2011年06月22日 | 1981 年 
   


二塁手はポジション的に地味な扱いを受けがちですが、高木守道は攻守ともに一流選手でした。
特に併殺プレーのグラブトスを初めて見た時は度肝を抜かれました。それまでにもグラブトスを
見た事は有りましたが、高木のそれはグラブ&バックトスだったからです。



「タイム」…新監督として乗り込んだ昭和44年のキャンプで水原はチームプレーの練習を中断させて高木を呼び寄せた。
内野手出身の水原にとっても高木のバックトスには驚いたのだ。「なぁモリミチ、やっぱりバックトスは右手でやった方が
確実じゃないか?」「いえ監督、併殺プレーではコンマ1秒でも削る必要があるんです。大丈夫です」ズバリと言い切った
高木の言葉に水原も黙って引き下がった。なんと言う自信だろうか、「俺にしか出来ないプレーをする」この信念が名人・
二塁手の支えだった。「バックトスは日系2世のカールトン・半田さん(昭和36年に南海から移籍、その後に内野コーチを
務めた)から教わったんです。日本では打球は全て身体の正面で捕れと教えますが半田さんから教わったのは臨機応変
固定観念に囚われる必要は無い。ファンが見て『これこそプロのプレー』と思わせなければ一流とは言えない」とね。

高木の天性の勘やセンスを最初に見抜いたのは岐阜商の野球部長だった。「身体は大きくないし中学校からの推薦も無く
目立たない存在だった。でも何をやらせても群を抜いていたし変な癖が全く無かった。自然にスクスクと育った天才児と思い
ましたね」野球部長の言葉通り、高木は1年生ながら名門・岐阜商の正二塁手になった。もう一人その能力を見抜いたのが
当時、立教大4年の長嶋だった。岐阜商OBの丹羽捕手と共にコーチにやって来た長嶋は高木少年に「君は抜群のセンスを
持ってるゾ」と声を掛けたそうで、高木はそれを心の支えにして苦しい練習にも耐えたと懐述している。

しかし名人・職人にありがちなムラッ気が高木にもあった。誰でも捕れる何でもないゴロをよくファンブルしトンネルもした。
「何となく気が乗らない日」はプレーが雑になったと後悔している。高木ほどの名手がダイアモンドグラブ賞を3回しか受賞
していないのはムラッ気が災いしていたのだろう。一方の打撃も高卒1年目のプロ初打席で本塁打を放つなど若い頃から
光るモノがあった。当時の杉下監督は「1年生がベテラン選手でも打てない低めを苦も無く打ってる。今のままでも3割は
黙っていても打てる。足と器用さを磨けば首位打者も夢じゃない」と絶賛した。

そんな順風満帆なプロ生活を送っていた高木に試練が襲って来た。昭和43年5月28日の巨人戦、堀内投手の投球を
左側頭部に受けた。頭部挫傷で即入院、全治まで2ヶ月かかった。 その後、首のムチ打ち症状が何度か起きたのも
この時の後遺症だ。「自分ではボールは怖くないと思っているのに、人の目には腰が引けているように映っていたそうで
あぁ、俺も結局その程度の選手なのか・・」と一時は成績も精彩を欠いたが、それまでのアッパースイングからダウンに
変えて昭和48年には元の成績に戻った。生涯最良の年は昭和49年で、1番・二塁手として牽引し20年ぶりの優勝に
貢献した。「球場でファンに胴上げされた時は初めて声をあげて泣いたなぁ」 10月13日、高木33歳の秋だった。

その翌日、高木は自宅で長嶋引退のニュースにもう一度泣いたという。「プロ野球の英雄がグラウンドを去る日に戦う
相手の中日にレギュラー選手が一人もいないのは失礼じゃないか。優勝パレードを欠席してでも後楽園に行きたい」と
球団に掛け合うが一蹴された高木は、その夜に長嶋宅に詫びの電話をしたという。現役生活の中で最大の悔いだそうだ。


ちなみにプロ野球人生での悔いは長嶋と監督同士として戦った、1994年10月8日の「10.8 リーグ
同率優勝決定戦」で槙原・斉藤・桑田の3本柱を使い切った長嶋とは対照的に、エース格の山本昌や
郭源治を使わずに敗れた事だと『中日ドラゴンズ70年史』のOB座談会の中で述べています。
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#172 助っ人事情 ③

2011年06月15日 | 1981 年 
   


外国人選手の当たり・ハズレが有るのは仕方の無い事で今も昔も毎年の事ですが、チームを混乱させる
「お騒がせ助っ人」となると球団も黙認する訳にはいかないようです。1981年にやって来た横浜大洋の
ピート・ラコックはそんな選手でした。ただ本人に悪気は無く日米の文化の違いが根底にあるだけに問題
解決は簡単ではないようです。前回に取り上げたラコック選手の記事の中で書かれていた、巨人戦遅刻
問題にも文化の違いが表れています。



3月末に来日したジャーナ夫人の第二子出産予定日は5月11日。この11日は広島戦遠征の出発日。あくまでも予定日であって
必ずその日に産まれるわけではないのだが、知人のいない異国に夫人と長女・ジェーナちゃんの2人だけにしておくのは心配だと
考えたラコックが打った手は先ず夫人の母親を日本に呼び、さらに自分も出産に立会う為に遠征前に出産するように陣痛促進剤を
使うというものだった。薬によって産気づいたのは5月8日の朝、当日は横浜スタジアムでの巨人戦だったが当然のように試合前の
練習に来るはずもなく、試合が始まってもまだ生まれない。自然分娩でない為に予想以上の難産となったのだ。結局 生まれたのは
午後8時15分。ラコックは意気揚々と球場に駆けつけ土井監督に「ベリーハッピー」と告げたのは7回裏・1-2 とリードされた場面。
あと15分早く来れていれば、一死・二三塁で投手はラコックが4打数2安打と得意としている加藤初だっただけに、代打の可能性も
あったが、その時は既に大の苦手にしている角投手に交代していた為に出番は回って来なかった。

ラコックは敬虔なカトリック信者で長女・ジェーンちゃんが生まれた時は自分の手で生まれたばかりの彼女をとりあげている。子供の
誕生は人生の中で大事な儀式なのだ。こと宗教が絡むと問題は難しくなる。かつて広島に在籍したデュプリー選手は当初球団に対し
「自分はモルモン教徒なので日曜日は安息日にしたい」と主張し手こずらした事があった。今回のラコックに関して球団は「宗教上の
問題であるし外人選手の場合は止むを得ない。このところ出産が気懸かりでプレーに集中できず不振が続いたが今後は今迄の分も
取り返すと本人も約束しているし・・」と大目に見る姿勢だ。


球団内の意見は概ね国民性の違いに寛大なようだが批判的な声も少なくない。バリバリの大リーガーで契約金と年俸を合わせて
1億円を超す球団史上最高の大物助っ人なだけに、球団は当初から腫れ物に触るような扱いを続けてきた。出産間近という事を
考慮し遠征の移動日は家族と過ごす事や当日の移動を認めたり、試合の無い日の練習は一人だけ早退を許されるなど特別待遇を
受けてきた。ただ前述のデュプリーや近鉄時代のマニエルが長男の卒業式に出席する為、シーズン中に帰国するなど外人選手の
好き勝手を許す契約を見直すべきだとの声が多くなってきているのも事実である。


横浜大洋が球団史上最高の条件で獲得したラコックでしたが複数年契約にも拘らず結局この年限りで
成績ではなく、改まらない怠慢プレーを理由に解雇されました。  【90試合 打率 .273 10本塁打】




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#171 助っ人事情 ②  

2011年06月08日 | 1981 年 
   


1981年のペナントレースが開幕して2ヶ月で早くもポンコツぶりを発揮する助っ人が現れました


ピート・ラコック (横浜大洋)… 「とにかく言い訳が多すぎるんだよ。ミスをしても絶対に認めようとしない(土井監督)」
          ナインの総スカンを喰うシーンが度々目撃されている。5月31日の阪神戦の事、吉竹が打った遊ゴロを
          山下が好捕し一塁へ送球、タイミングは微妙だったがラコックは「送球もそれていたし間に合わない」と
          判断して早々にベースタッチの足を外し内野安打にしてしまった。これに山下がキレて「多少はそれたが
          シュート回転をかけて投げたし充分届いていた筈、間に合っていた」 ベンチに戻ったラコックに詰め寄り
          一触即発状態に。土井監督が間に入り事を治めたがラコック本人はブンむくれ。ナインが反発するのには
          理由がある。怠慢プレーはこの一度だけで無く、幾つかの前科があったのだ。5月13日の広島戦 同点の
          8回裏、ガードナーの打球を半身で捕りに行き後逸。公式記録は失策だったがラコックは「完全なヒットさ、
          あれは捕れないョ」と涼しい顔。5月8日には夫人の出産に立ち会う為に巨人戦に大遅刻。数え上げたら
          キリがない。しかもプライドだけは高く、日本式練習は無視して竹沢コーチを「ランニング・マシーン」と呼び
          近づこうとしない。チーム最高年俸だけに使わざるを得ず、土井監督も「ウン、まぁ色々と問題があってさぁ
          簡単に外す訳にはいかんのよ・・」と頭の痛い状態がこの先も続きそうだ。



クレイグ・ライアン (近鉄)… マニエルに代わる大砲として期待されたが6月に入っても打率は2割そこそこ、4本塁打とあって
          首脳陣から「四番失格」の烙印を押されてしまった。ただ近鉄としても即座にクビに出来ない事情があるのだ。
          ライアンは友好球団・ブリュワーズの推薦を受けて獲得しただけに無碍には扱えないのだ。外人獲得ルートの
          無い近鉄にとってブリュワーズが頼みの綱だからだ。しかし西本監督の我慢も限界で遂にライアンは二軍行き
          第3の外人をブリュワーズに紹介してもらったアイザック・ハンプトンを獲得した。しかし、実はこのハンプトンは
          昨年シーズン途中に3Aに降格以来まともにプレーしていない事が判明し一時は契約解除騒ぎに成りかけたが
          日本でテストをするという条件で来日した。テストは合格で現在は二軍で調整中だが8試合で4本塁打と結果を
          出していて、一軍からのお呼びを待っている。一方のライアンは退団を申し出たがブリュワーズの手前、簡単に
          クビにする事が出来ず近鉄は苦慮している。


チャーリー・スパイクス (中日) … 沖縄キャンプでのテストでは柵越えを連発し「本物。大島と2人で80発もある」と近藤監督を
              歓喜させた助っ人も今や季節はずれの「大型扇風機」と揶揄される始末。開幕後 15打数0安打・9三振
              4月27日には早々と二軍落ち。広野打撃コーチが付きっ切りで日本のストライクゾーンを覚えさせ打率は
              3割を越えて広野コーチも「もう大丈夫」と5月30日に一軍へ戻って行った。復帰したヤクルト戦で3ランを
              放つなど、明るい兆しが見え始めた時に古傷の左ひざ痛を再発し「痛い。先発出場は無理」と再び戦線を
              離脱し球団も解雇もやむなしとの判断に傾きつつある。シーズン途中の解雇には理由があって仮契約を
              結んでいる台湾の郭源治投手が遅くとも7月上旬までには来日し入団するのだ。ロッテ・三宅投手以上の
              実力の持ち主で、スパイクスより郭の方が大きな戦力になりそうだとの声が球団内に多いからだ。



西武も創設1年目のマルーフやミューサーはハズレでしたが、スティーブやこのテリーは当たりでした。
テリーは前年にSF・ジャイアンツで2割9分6厘をマークした正真正銘のメジャーリーガーでした。




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#170 助っ人事情 ①

2011年06月01日 | 1981 年 

   



3月に起きた東日本大震災や原発事故の影響で、球団に無断で帰国してしまった外国人選手も
何人かいましたが、昔から助っ人は当たり・ハズレがあったようです。



外人選手は戦前から存在していた。日本プロ野球が誕生した昭和11年のメンバー表には8人の米国籍選手の名前があった。
ただし、その選手の大部分はハワイの日系選手で元大リーガー第1号は、昭和28年に毎日オリオンズに入団したレオ・カイリー
だった。駐留軍兵士の勤務の合間にプレーしたアルバイト選手だったが、2年前にはレッドソックスで7勝7敗の実力の持ち主で
あっただけに日本の選手は太刀打ち出来ず、3週間だけだったが投手として6試合に登板し6連勝、打っても19打数10安打の
5割2分6厘をマークした。これに触発されたのか西鉄がフィル・ペインを入団させた。大リーグでの実績はカイリーより劣るものの
2年前にはブレーブスで21試合登板で2勝を記録した投手で、初登板の東急戦こそ失点1の完投ながら負け投手になったものの
中2日の毎日戦では完封勝ち、さらに中3日の大映戦ダブルヘッダー第1試合に抑えで 1・2/3回を投げた後、第2試合は先発し
自責点・1で完投勝ちした。結局ペインは9試合で4勝3敗で帰国した。しかし、こうしたアルバイト選手に対し福井コミッショナーが
各球団に自粛を要請する事となり、以後はなくなった。

今では御馴染みの不良外人もプロ野球創設時の昭和11年には既に存在していた。低迷していた大東京軍は、秋のシーズン開幕
直後の10月5日にジミー・ボンナという黒人投手と契約した。サクラメント・オークス球団所属の名投手という触れ込みで来日前の
3試合で46奪三振の実力を発揮すれば、日本では敵無しだろうと期待された。しかし実際は9回で14四死球・14失点の有様 …
秋のシーズン閉幕を待たずに11月中旬に退団・帰国してしまった。

昭和28年には、それまで外人選手がいなかった広島も日系二世の銭村健三・健四の兄弟選手を獲得した。球団初の外人選手と
いうことで熱烈歓迎を受けてオープンカーで広島市内をパレードしたほどだったが兄・健三は8打数0安打で入団から2ヶ月余りで
帰国してしまった。極めつけは昭和49年に日ハム入りしたパール・スノー投手で、2ヶ月分の給料を懐に入れると1試合も投げずに
失踪してしまったのだ。

昭和48年シーズン途中にヤクルトに入団したジョー・ぺピトーンは大リーグ歴12年で通算本塁打 219本
ヤクルト入りの直前まで34試合で3本塁打を放つなど本物のはずでしたが結果は、わずか14試合出場
1本塁打に終わり当時としては破格の6万㌦は無駄になりました。さらに昭和49年に太平洋クラブに入団
したフランク・ハワードは2回も本塁打王を獲得した通算382本塁打の選手だけに球団が本塁打数の予想
投票を募集するなど期待が過熱しましたが正解は「0本」・・開幕戦で右ヒザを痛めてしまい結局、出場は
この開幕戦1試合のみで帰国してしまいました。



記事では中日・スパイクスを絶賛していますが、オープン戦になると三振の山。開幕早々に自打球を
ヒザにぶつけてフェードアウト・・・テスト入団助っ人は安物買いの銭失いでした。






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