
「行ってくるよ」「ハ~イ、行ってらっしゃい」…午前9時、佳子夫人に見送られて村上はいつも通りに家を出た。ここは米国のサンフランシスコ市サンマティオ。村上がこの地にアパートを借りてちょうど1ヶ月になる。昨年12月27日の出来事が無ければ今頃は日本でコーチ業に勤しんでいたに違いない。「これで良かったんだ」 村上はハンドルを握りながらそう自分に言い聞かせた。
「ウチの方針として初めてコーチを務める人の肩書きには『補佐』を付ける事になっている。それが受け入れられないのならコーチを引き受けて貰わなくて構わない。コーチになりたがっている人は大勢いますから」 「そうですか、では残念ですが今回は縁がなかったと言う事でお断りします」 日ハム球団事務所でのひとコマ。昨年に現役を引退した村上に日ハムは二軍投手コーチ就任を要請してきた。年俸は現役時代よりも下がるが800万円という金額は妻と子供2人の4人家族には充分な額だった。しかし、この話に村上は即答出来ず球団にかけあった。「その補佐の肩書きは取れませんか?」 「いいえ出来ません。ウチのしきたりですから受け入れて貰わなければ困ります」と返答は厳しかった。組織にはそれなりの決まりがあるのは分かっている。それがルールなら従わなければ規律が保たれないのも分かっている。が、自分の左腕1本でプロの世界で18年間頑張ってきた村上には他人から見ればそんな些細な事が我慢出来なかった。「何とかなりませんか?」となおも食い下がると「まぁ慌てる事はない。仕事納めの12月27日までゆっくり考えてから決めて構わないから」と返答を待ってくれた。
村上は自問自答していた。
「オイ、お前は800万円を捨てるのか?肩書きなんてグラウンドに出たら関係ないだろ」
「いや俺にもプライドがある。お金じゃないんだ」
「お金じゃないって家族はどうなるんだ、霞でも喰えというのか」
正直に言えば自分でも補佐でも仕方ないと頭では分かっていたが「お受けします」と口に出す事が出来なかった。最終回答日まで何度か球団とかけあったがお互い歩み寄る事が出来ずに12月27日が来てしまい結局、コーチ就任を辞退した。今でも六本木の球団事務所を後にした時の締め付けられるような不安を村上はハッキリ憶えている。出掛ける前に佳子夫人に「コーチを引き受けるか半々だよ」と言うと「いいわよ、あなたの好きにすればいいじゃない」 と答えていたが、いざ無職になった亭主が帰って来たら動転するに違いないと思うと足取りも重くなった。家に着き玄関のドアを開けると佳子夫人は全てを察したのか「さぁ明日から職探しを頑張りましょう。自分を捨ててまで我慢する事はないわよ」と明るく村上を迎えた。実際には年の暮れとあって職探しは正月明けから始める事となったが無職で迎える正月は心細かった。
1月中旬、かつて所属したSF・ジャイアンツに単身乗り込んだ。事前に連絡を入れた訳でもツテがあった訳ではなかった。飛行機のタラップを降りる村上のポケットには『やさしい英会話』と『和英辞典』が入っていた。「もしかしたら物乞いに来たのかと思われるかも…」と折れそうな気持を奮い立て「とにかく気持ちを伝えよう」とジャイアンツのオフィスに向かった。村上の心配は杞憂だった。オフィスに着いた村上を迎えた球団代表はかつて村上とバッテリーを組んでいたT・ハラー氏だったのだ。挨拶もそこそこに村上は訴えた。「お願いが有る、金をくれと言うのではない。寧ろバッティング投手や雑用をやるからジャイアンツで野球の勉強をさせてくれないだろうか」 ハラー氏は意味が理解出来なかった。英語が通じなかった訳ではなく合理的で契約社会で育った米国人に無報酬で構わないとする日本流の考え方が理解出来なかったのだ。ハラー氏はおもむろに尋ねた。
「ムラカミ、君はいつまで投げていたんだ?」 「去年まで日ハムというチームで投げていたよ」 「怪我をしていないなら投げられるんじゃないか、どうなんだ?」 「うん、だからバッティング投手をやりながらと言っているんだ」 「いや、私が言っているのは現役としてはどうなんだと聞いているんだ」 「肩やヒジは故障していないから投げられるけど昔みたいな速球は投げられない。今や変化球投手だよ」 「それならキャンプに参加してテストを受けてみろ。ホテル代と食事代は球団が持つからやってみないか?」 村上は不意を突かれて唸ってしまった。米国に来たのは指導者としての勉強をする為で自分にもう一度現役投手としてのチャンスが有るとはツユほども考えていなかったが投手としての本能に火が点いた。アリゾナ州スコッツディールで行なわれるキャンプに村上は参加する事に。毎年春先に悩まされる肩痛が嘘のように出なかった。
オープン戦にも登板しパドレス戦で1回を無安打に抑えるなど快調だった。キャンプには二十数人の投手が参加していたが3月末迄に次々と振るい落とされ最終的に10人が残る。何日かおきに3人、2人、2人、…と去っていくが村上はしぶとく残っていた。3月下旬になると12人になった。若手投手に転換中のジャイアンツにあって38歳の " ロートル " が残っている事自体が驚異であった。しかし3月28日、最後に落とされる2人に村上の名前があった。「やっぱりショックは有った。でも気持ちの切り替えも早かった。だって米国に来たのは指導者の勉強をする為だったから、いい夢を見せて貰ったよ」と屈託のない笑顔を見せた。現在の村上は昼間はジャイアンツの3Aでバッティング投手を手伝いながら若い選手と共に汗を流している。「実際に体験しながら覚えた方がいいからね。ネット裏で腕を組んで遠くから見るなんて事はしたくない」と語る。
だが密かに大リーグ復帰を夢見ているのも確かだ。昼間の練習を済ませると必ずジャイアンツ戦を見に行く。それはジャイアンツのオーナーが村上を誘ってくれるからだ。そのオーナーが「いいかいムラカミ、身体だけは鍛えておいてくれ。君も御存じの通りウチは先発投手陣が弱く中継ぎ投手の需要は多い。監督は若手を使いたいようだがきっと君の出番が来ると思うよ」と言ったのが現役復帰の拠り所だ。今年の5月には39歳になるが「よくその歳で頑張れるなぁと言う人もいるけど39歳はまだまだ若者ですよ。この先の人生を考えたら1年や2年なんてどうって事ない。子供たちも日本じゃ経験出来ない事を吸収して欲しい」と前向きだ。米国での費用は日本のマンションを売って工面したので日本に帰れば無一文の生活が待っている。「どれだけの事を勉強出来るか、それをどう評価してくれるかは僕の努力次第だね」…遥かなる男・38歳、まだまだ元気。
