Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#124 奮闘する弱小チームの投手たち

2010年06月30日 | 1980 年 
村上・佐伯・高橋・宇田・間柴






平松・斉藤・遠藤・野村






高橋・水谷・小松・星野






この当時は弱小球団と言えども、各球団にリーグを代表するエースが1人はいました。
高橋直(日ハム)・平松(大洋)・松岡(ヤクルト)・東尾(西武)・村田(ロッテ)・・・

当時の先発投手は中4日が当たり前で分業制も今ほど確立されてなく、エースは完投
するのが当然と考えられていました。それでも彼らの一つ上の世代に比べたら環境は
良くなりました。1970年代前半までは中3日登板は普通で、それにより有望な投手が
数多く酷使で潰され消えていきました・・・
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#123 疑惑の「飛ぶボール」騒動  

2010年06月23日 | 1980 年 





昭和55年4月8日 近鉄vsロッテ 5回ウラ攻撃途中で2時間半が経過するというダラダラ試合。
ロッテ投手陣は猛牛打線の餌食となり、満塁弾2発・3ラン1発を喰らい13失点。2死後平野が
右中間3塁打した時に外野から返球されたボールは泥で汚れた為に交換されました。塁審から
ボールを渡されたボールボーイにロッテベンチから「坊や、そのボールをちょっと見せて」 と声が
かかり、ボールはロッテ・高見沢育成管理部長の手に。「去年から あまりにもピンポン球の様に
飛んで行くので、一度ウチのボールと比べてみようと思ってね」とロッテがボールを調べてみると
公認ボールには押してある筈のコミッショナー印がありませんでした。

「近鉄が攻撃する時は飛ぶボールを使っているのでは?」とロッテ側は猛抗議します。球審は
他のボールを確認しましたが全てに公認印が押されていました。近鉄は試合前の打撃練習を
気分良く終れるようにと「飛ぶボール」を使っていたそうで、それが紛れ込んだのではという事で
試合続行を求めましたが、ロッテ側は無効試合を主張し延々抗議が続きました。結局、提訴を
条件に試合は再開されましたが、この件についての続報はありませんでした。ロッテも提訴する
事なく、うやむやのまま「臭い物に蓋」で闇に葬り去られました。

当時は6社メーカーのボールが使われていましたが特に美津濃製がよく飛ぶと評判でした。近鉄も
前年に美津濃製に切り替えてから猛牛打線の炸裂が顕著になりました。30年前は横浜スタジアムが
広い球場と言われていたほど狭い球場が多かったのです。川崎球場・後楽園球場・広島市民球場、
甲子園球場でもラッキーゾーンを設け10m近く狭くしていました。狭い球場に飛ぶボールと圧縮バット
当時はホームランの大安売りの時代だったようです。今回の件をはじめスパイ行為やドラフト裏工作
などプロ野球界には真相解明の自浄能力を期待しても無駄のようです。
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#122 前評判通りのドラフト1位指名選手

2010年06月16日 | 1980 年 
アメージング・ルーキー


木田は希望する在京セ・リーグでなかった為、ドラフト時は不満げでしたがシーズンに
入ると活き活きとした投球を魅せ、プロ1年目に22勝して投手部門のタイトルを総ナメし
新人としては初のMVPも受賞するなど大活躍しました。速球とパームボールを駆使して
面白いように三振を奪いましたが 惜しむらくは、この活躍が2年目以降は影をひそめ
日ハムが初優勝し巨人との日本シリーズで対戦した時は目立った活躍は出来ません
でした。





プロ入り第1号ホームランは巨人・新浦投手から


岡田は開幕から暫くは控えでしたが、その起用を巡って球団と監督が対立して、監督が
退団するなど本人の周りは賑やかでした。そんな周囲の雑音にもめげず、スタメンで
出場するようになると徐々に実力を発揮し始め最後には順当に新人王に選ばれました。
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#121 有名選手を掻き集めても浮上せず

2010年06月09日 | 1980 年 





プロ野球に参入した西武ライオンズ以上に期待されたプリンスホテル野球部でしたが、1年目は
ライオンズ同様に苦戦しました。プロ球団からやっかみの声が聞かれるほど有力アマ選手を獲り
船出しましたが、チームとして機能せず都市対抗戦や日本選手権では予選敗退しました。石毛・
中尾・堀場など各大学リーグの主力選手を集めたチーム編成は、かつてFAで他球団から選手を
漁っていた巨人のようにチーム構成が、いびつなチームでした。

2年目を迎えて "今年こそ" と期待されるプリンスでしたが早くもギクシャクした雰囲気がチームを
覆い始めていました。大リーグ W・ソックスのドラフト指名を蹴って入社したタツノ投手でしたが、
12月に来日した際、「日本は寒すぎて練習できない」と言い残して早々に帰国。年が明けて全体
練習が始まってもナシのつぶて。「あいつは元々、我が儘なんだよ(中尾)」 「この時期に一緒に
練習しないなんて寂しいですよ。まぁ上の人が決めた事ですから…(石毛)」とチームメイトの反応も
冷ややかでした。タツノが再来日したのは2月25日、しかし翌日には再び帰国してしまいました。

不協和音はこれだけではありませんでした。入社の際に支給を約束されていた2000万円以上とも
言われていた「支度金」を受け取れてない選手が何人かいて選手間に微妙な雰囲気が漂い始めて
いました。有力選手以外にも多くの大学・高校から入社しましたが、彼らは有力選手らの練習台に
過ぎず特に高卒選手は日常生活の雑用に至るまで、付き人の様な待遇だったそうです。このような
話はすぐにアマチュア球界に広がり、2年目以降の高卒選手の獲得は難しくなったそうです。













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#120 個性的な選手たち

2010年06月02日 | グラビア 
三冠王を狙う加藤英司(阪急)





連続試合安打記録保持者





当時でも珍しかったサブマリン





コンニャク打法




現在よりも遥かにメディアへの露出が少なかった30年前のパ・リーグでしたが魅力的な
選手も多くいました。特に印象に残っている選手は阪急・山口高志投手です。体格には
恵まれず身長170㌢と野球選手としては勿論、一般成人男性よりも低いくらいでしたが
それを補うかの様なオーバーハンド投法で剛速球を投げていました。ただ、その無理な
投球フォームのせいで腰を痛めてしまい「旬」は短かったですけど・・
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