納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
タイガースの急成長株・掛布くんの活躍は一種のすがすがしさを感じさせる。プロ野球は常に新しい戦力、明日のスターを求めている。掛布くんはチーム、ファンの願望を満たし更に若い選手に希望をもたらしたと思う。
野球見るのもイヤだった欠場中
聞き手…怪我はもう大丈夫ですか?
掛 布…はい。もうほとんど治りました。少し前まで雨が降ると痛みがぶり返したりしましたが、今は大丈夫です。
聞き手…それはなにより
掛 布…広島戦でホームランを打ってから気分的に楽になりました。
聞き手…あの松原投手から打った一発ね。そういえば怪我をしたのは松原投手のデッドボールでしたね?
掛 布…そうです。左手首でした。
聞き手…休んでいた時はどうでしたか?
掛 布…辛かったです。今年は開幕から調子よくて、信じられないくらい打ってた時にデッドボールでしたから
落ち込みました。
聞き手…回復は思っていたより長引いた?
掛 布…ええ。最初、病院では痛みが引いたら直ぐに復帰できると言われたんですけど、それから2日ほど痛みで
寝ることが出来なかったから何かおかしいと思い、もう一度病院へ行きました。
聞き手…レントゲンは撮ったんでしょ?
掛 布…最初に撮りました。その時は骨には異常はないと言われましたけど内出血で判別できない部分もあるから
しばらくしたら改めてレントゲンを撮ると。
聞き手…その二度目のレントゲンで骨のヒビが判明したと
掛 布…そうです。
聞き手…ショックでしたか?
掛 布…何をすればいいか分からなくて。とにかく野球がやりたくなってどうしようもなかったです。でも出来ない。
そんな自分が情けなく、野球を見るのも嫌になりました。
親父の後について毎日走った
聞き手…休みの間はどう過ごしていましたか?
掛 布…もちろんバットは振れませんから、ひたすら走っていました。
聞き手…誰かに言われたの?
掛 布…いいえ、プロになる前から毎日走ってました。親父の影響です。
聞き手…お父さんの?
掛 布…子供の頃から朝起きたら走るのが日課でした
聞き手…お父さんと一緒に走るんだ
掛 布…いいえ、親父は僕を起こしたら犬の散歩に行っちゃうんです(笑)
聞き手…幾つくらいのこと?
掛 布…小学3年生くらいです。まぁたいした距離じゃなかったですけど。
聞き手…野球もお父さんが教えてくれたんだ
掛 布…はい。親父が新聞紙を丸めたものを投げてそれを打ったりしてました。
聞き手…兄弟みんな野球をやっていたの?
掛 布…一番上の兄貴は中学生になると野球部に入りましたけど、当時の野球部は不良の集まりだったみたいで
ある日、兄貴が口の中を酷く切って帰ってきたのを見た親父は怒って直ぐに野球部を退部させました。
聞き手…その後は?
掛 布…高校へ進学しても野球はやりませんでした
聞き手…お兄さんの分も君への期待が大きくなったわけだ
掛 布…どうですかね、親父にしたら僕が野球をする・しないは大した問題じゃなかった気がします。
聞き手…東京遠征の時はお父さんは球場に見に来るの?
掛 布…いいえ。商売をしてますから東京まで来ることは滅多にありません。
全然苦にならない巨人の左投手
聞き手…去年より成長したなと思うのが選球眼が良くなったこと
掛 布…そうですか。自分じゃあまり変わったという気はしませんけど(笑)
聞き手…それと左投手に強くなった印象も。去年はライト投手(巨人)は打てなかった。
掛 布…ライト投手や新浦投手に苦手意識はないです。かえって左投手の方が体が開かないようにするので
良いくらいです。
聞き手…巨人戦はよく打ちますね。巨人投手陣と相性が良いせい?
掛 布…どうですかね。ただ大観衆の前だと気合いが入るのは事実です。
聞き手…虎キチの大声援が後押ししてくれるわけか
掛 布…それは間違いないです
聞き手…ところでオールスターのファン投票で巨人の高田選手と三塁手部門で争っていますね
掛 布…今年はオールスターのことはあまり気にしていません
聞き手…怪我でオールスターのことまで考える余裕がなかった?
掛 布…はい。オールスターより試合に出ることばかり考えていました。
聞き手…怪我が治った後半戦はカケフ旋風を起こして下さい。期待しています。
掛 布…はい、頑張ります。
今年のオールスター戦にヤクルトの梶間投手が新人でただ一人出場した。セ・リーグの新人王レースも勝負あったという感じだが、昨年から規定が改正され新人王は今年入団の選手だけに限られなくなった。今年の新人王有資格者を総ざらいしてみた(記録は7月19日現在)
新人王争奪で図られる深慮遠謀
昨年の10月21日、広島対ヤクルト戦(広島)に先発した北別府投手は7回表二死後に1点を失うと直ぐに降板した。得点は広島が3点リードしており交代させる必要はなかったのだが、今年の新人王を見据えた配慮だったのは明らかだ。高卒ルーキーの北別府投手はここまで投球回数は29回 1/3 。30回を超すと新人王の有資格を失う。この試合に勝利しても2勝1敗で新人王には実績不足だ。北別府投手の降板は新人王を獲らせる為の首脳陣の深慮遠謀だったのだ。従来、新人王候補は公式戦に出場していなければプロ入り何年過ぎていても有資格者だった。昭和46年にセ・リーグの新人王に選ばれた関本投手(巨人)はプロ4年目だった。
打者1人に対戦しただけでその資格は行使されてしまう。昭和48年に成東高から中日入りした鈴木孝投手は開幕直後の4月19日の大洋戦に三番手で登板し8回裏を僅か9球で三者凡退に退けたが、その後はずっと二軍暮らしが続き鈴木孝投手の新人王の資格はこの年で終わった。翌49年の新人王は藤波選手(中日)が選ばれたが、殆ど代打要員で114打数33安打・打率 284 と特筆すべき成績ではなかった。この年の鈴木孝投手は35試合・4勝2敗2Sだったので仮に有資格者だったら新人王に選ばれてもおかしくなかった。ちなみに藤波選手への投票は37票。該当者なしが全体の44%にあたる89票もあった。
昭和51年1月27日のプロ野球実行委員会で新人王の資格が改訂された。プロ入り5年以内で投手なら通算30イニング、打者なら通算60打席以下の選手を有資格者と改めた。そこで早速、昨年の新人王の投票にあたって高木選手(大洋)に9票が投じられた。高木選手は昨年でプロ5年目だが過去4年で40打席しかなかったからである。角選手(ヤクルト)は昨年8月4日の巨人戦のプロ初打席で左前打、続く2打席目に左中間2塁打。翌日の巨人戦でも右中間2塁打と3打席連続安打の鮮烈デビューを飾ったが、10月3日の巨人戦で3打席凡退するとベンチに退き、残りの13試合には出場せず通算56打席と新人王の資格を残したままシーズンを終えた。
セの本命にあげられる梶間の実績
鉾田一高から日本鋼管を経て昨年のドラフト会議で酒井投手に次ぎ2位指名でヤクルト入りした梶間投手。オープン戦で5試合に登板し球威はそれほどでもないが巧みな投球術で打者を翻弄し開幕一軍を果たした。4月10日の大洋戦に登板し4回を2安打・無失点と実力の一端を示した。この好投が広岡監督に評価され16日の巨人戦で先発投手に起用された。試合は5失点で敗戦投手となったが王選手から三振を奪うなどキラリと光るものがあった。9日後の27日の中日戦で中継ぎで2回 2/3 を投げてプロ初勝利を手にした。すると5月13日の大洋戦で初完投勝利、6月8日の阪神戦で初完封勝利を飾り7月19日現在、防御率 2.94 はリーグ2位だ。
大洋の斎藤明投手は梶間投手に次ぐ4勝をあげているが完投はゼロ。7月12日の阪神戦では6回まで無失点と好投したが見方も無得点とツキに見放され7回に田淵選手に本塁打を許し8回に打順が回ると代打を送られ完投を逃した。この2人を除くとこれといった新人王候補は見当たらない。人気で圧倒する酒井投手は初登板した4月21日の大洋戦で7回無死で退くまで2失点と好投したが、それ以降は
5月1日:対巨人・5回・4失点
5月9日:対巨人・3回 2/3 ・4失点
5月14日:対大洋・1回 2/3 ・2失点
5月28日:対中日・1回 2/3 ・5失点 と結果を残せず、6月1日の対大洋戦でリリーフ登板した後に二軍落ちした。
打者で有力候補だった松本選手(巨人)は左肩脱臼で戦線離脱し新人王レースからも脱落。当初は打撃が課題とされていたが、4本塁打を含む打率 378 と予想を覆す活躍を見せていただけに怪我が惜しまれる。一方のパ・リーグには投打共に候補者すら頭に浮かばない。新人王の有資格者で本塁打を放ったのは大宮選手(日ハム)ただ一人。その大宮選手も先輩の加藤捕手が好調でなかなか出番が回ってこない。投手では梶間投手より早く初勝利を飾った仁科投手(ロッテ)だったが完投ゼロの3勝では決め手とならない。佐藤投手(阪急)は初先発初完投勝利を記録したが、多士済済の阪急で出番が限られるのが難点。
条件厳しかった一昔前の新人王
以前は打者ならば規定打席に達したうえで打率は2割8分以上、投手なら15勝前後が新人王の最低条件の不文律とされた時代があった。今から考えると随分と厳しい条件であった為、昭和35年に東筑高から近鉄に入団した矢ノ浦国満選手は19歳で110試合に出場し華麗な守備で鳴らし、打率 256 をマークしながら新人王を見送られたことがあった。しかし最近では一定の水準を決めたりせず、その年の候補者の中で最高の成績をあげた選手を選ぶようにして「該当者なし」の事態を避けるようにしている。それをよく表しているのが冒頭で記した藤波選手(中日)と三井投手(ロッテ)が選ばれた昭和49年の新人王だろう。
三井投手はオールスター戦までは10試合・2勝2敗と目立った活躍はしていなかった。それが後半戦は21試合に登板し4勝3敗4Sと先発と抑えの切り札を兼ねて、6勝5敗4Sでロッテの後期シーズン優勝に貢献した。三井投手のように後半戦に調子を上げて新人王になったのが安田投手(ヤクルト)。昭和47年の前半戦終了時点で安田投手は29試合・1勝4敗・防御率 3.25 だった。それが後半戦に入って間もなくの8月5日の大洋戦で初完封勝利をすると調子に乗って、後半戦は96回 1/3 ・自責点13 で防御率 1.22 (通算 2.08)という快投を見せ最優秀防御率のタイトルを獲得し、文句なしで新人王に選ばれた。
過去の新人王のうち、投手の最少勝利数は三井投手の6勝。打者の最少打数は藤波選手の114打数。今年もこの最少ランクを下回るようなら見送りということも有り得よう。新人王はMVP(最高殊勲選手)やベストナインと同様に全国のプロ野球担当記者による投票で決定されるが、「該当者なし(白票を含む)」が総投票数の50%以上になると選出を見送ることになっている。果たして今年は誰が選ばれるのだろうか?このまま梶間投手が逃げ切るのか、斉藤投手が追いつき追い越すのか。またまた今はまだ身を潜めているダークホースが突如現れるのか注目である。
繰り上げ1位のシンデレラボーイ
永射投手とは対照的なのがプロ同期生の若菜嘉晴選手。昭和28年12月5日生まれで永射投手より2ヶ月ほど「弟」だ。だが身体は弟の方が大きく、180㌢・78㌔とガッシリしている。永射投手とバッテリーを組んだ時は若菜選手が声をかける為にマウンドに駆け寄ると、オスよりメスの方が大きい " ノミの夫婦 " の如くユーモラスな光景を見せてくれる。若菜選手は福岡県というより広く西日本地区で高校野球の強豪校と知られる柳川商の出身で高校時代から大型捕手として注目され、島根・浜田商の梨田選手(現近鉄)と並ぶスラッガー捕手の呼び声が高かった。
昭和47年に当時の西鉄にドラフト4位指名で入団した。指名順位は4位なのだがこの年はドラフト会議前に西鉄球団が身売り騒動を起こし、1位指名の吉田好伸投手(丸善石油)以下、3位指名選手までの3人が相次いで入団を拒否した為に実質トップ入団だった若菜選手が「俺は繰り上げ1位指名だと」と事あるごとに強調して面白がっている。入団時から梨田選手へのライバル意識は相当なもので「彼にだけは負けたくない」とうわ言のように言い続けた。そんな梨田選手より一足先にオールスター戦出場を果たす。プロ入り後は目立たなかった若菜選手だけに「俺はシンデレラだ」と悦に入るのも無理はない。
それもそのはず、若菜選手が一軍の試合に出たのはプロ3年目でたった6試合。そのうち3試合は代走での出場だった。4年目の昭和50年は12試合で2年間の通算成績は9打数0安打。ようやく本業の捕手らしい使われ方をされ始めたのが昨年からだった。それでも西沢・楠城捕手らの半分程度の39試合で71打数17安打・打率 239 。過去5年間は二軍暮らしが殆どの選手だった。その二軍でも一塁手で起用されたり代打で出たりの選手だった。そんな若菜選手が一軍で起用されたのは正捕手だった西沢選手が肝炎を患い戦線離脱した為だった。鬼頭監督は若菜選手の強肩に目をつけ、打つ方には期待せず開幕から起用した。
2シーズン制でも新人は育つ好例
スタメン初出場の4月3日の対日ハム2回戦(平和台)で高橋一投手からチーム初勝利をもたらす逆転満塁本塁打を放った。これだけならフロックと言えた。事実、その後の4月いっぱいは低打率にあえぎ、盗塁阻止の強肩ぶりだけが目立った。打てない日々が続き、そろそろ鬼頭監督の我慢も限界が近づいた4月30日の阪急戦(西宮)で永本投手から再び満塁本塁打を放ち、周囲にも若菜選手の実力とツキを認めさせ正捕手の座を守ることが出来た。そして5月末に右足首ねん挫で休んだ2週間を除いて試合に出続けた。強肩だけが取り柄のように言われるが大柄で投手には目標が大きく感じ投げやすく、またサインを出すタイミングが良く投手との呼吸もピッタリだ。
永射投手、若菜選手の躍進で考えさせられるのが若手選手の育成とチームの勝利の両立が2シーズン制では難しいという問題。短期決戦では計算しやすいベテラン選手が重宝される。2人を育てた鬼頭監督も昨季は自らのクビをかけ、3期連続最下位の汚名を背負う覚悟で勝利より育成を選んだ。パ・リーグのホームランダービーを独走するリー選手(ロッテ)は永射投手を「あんな投手は見たことがない。打てる気がしないというのが本音」とお手上げ状態だ。盗塁王の福本選手(阪急)は「永射投手はタイミングを外すのが抜群に上手く打ちづらい。運よく出塁できても若菜選手の強肩から盗塁を成功させるのも困難。厄介なバッテリーですよ」と嘆く。
ライオンズが後期に突然の獅子吼えを見せている。前期の最下位から一気に首位を突っ走る素晴らしい高度成長。それを支えるのは永射保投手と若菜嘉晴捕手の2人。このバッテリー、永射は小柄で若菜は大きい女房役のノミの夫婦でありそれが獅子を走らせている。
クロウトが選んだ球宴初の出場
今年のオールスターゲーム第1戦はクラウンの本拠地・平和台球場で行われた。前期最下位、しかも主力は故障続きで満足な成績を残していないとあってクラウン勢がファン投票では全滅だった。昨季DHファン投票2位だつた太田選手は今季は右太もも肉離れで今季は前期を棒にふり、12年連続出場の土井選手も左足アキレス腱痛による不振で遂に落選となった。そうした状況で全パを率いる上田監督(阪急)が監督推薦でイの一番に挙げたのが永射投手と若菜選手だった(他に基選手も推薦出場)。この時の2人の感想が「ひょっとしたら、が実現して嬉しい(永射)」「まるでシンデレラみたい(若菜)」と初々しかった。
永射投手は昭和28年10月3日生まれ。鹿児島県で生まれ育ち大浦中学で野球を始め、郡大会の決勝戦で完全試合を達成するなど本格派左腕として注目を集めた。中学卒業時には鹿児島実業、鹿児島商、済々黌など名門校から勧誘されたが「野球で進学したと思われたら嫌。鶏口となるも牛後となるなかれだ(永射)」と指宿商に進学した。ちなみに大浦中学の同級生だった定岡智秋選手(現南海)は鹿児島実に進学している。永射投手は1年生からエースで四番だったが甲子園出場は成らなかった。だが九州屈指の左腕と評価され昭和47年にドラフト3位指名で広島東洋カープに入団した。
カープでは将来のエースとして期待されて、21試合・16回 2/3 に登板したが防御率が5点台と伸び悩み、2年後の昭和49年に乗替寿好投手と交換トレードでライオンズに移籍した。ライオンズでも1年目は主にワンポイントで起用されたが防御率 8.18 で「とても一軍で使えない(江田投手コーチ)」と見放され二軍落ち。そのまま昭和50年も二軍暮らしが続いたが、翌51年になると救援専門で45試合に登板した。先発要員不足で急遽、対近鉄5回戦(藤井寺)に先発し5回を投げてプロ入り初勝利をあげた。これをきっかけに2完投を含む3勝4敗1Sと結果を残し、スタミナも充分あることも示した。
商業優等生のコンピュータ投法
永射投手の実家は九州名産のポンカンを栽培し、傍ら乳牛を飼育している篤農家で彼は三男坊の末っ子。「家事の手伝いが嫌で逃れる為に野球を始めた」そうで今では職業となった。指宿商在学中に珠算2級、簿記は工業・商業を合わせた完全1級の検定にパスしており経理事務でもメシが喰える優等生だった。あの一見無雑作に見えながらきちんと間合いを作って投げ込まれるシュートやカーブのコントロールは高校時代に培われた永射コンピュータの計算から弾き出されているのかもしれない。趣味が観葉植物の栽培というのも変わっている。長期遠征で留守にしている間に枯らしてしまい落ち込むこともあるそうだ。
チームいちの過密登板だが永射投手は苦にしていない。「あれこれ言っても疲れが取れるわけじゃないし」と登板を命じられると勇んでマウンドへ上がる。スピードの変化とタイミング、コースの揺さぶりを主体とした多彩なピッチングを披露するのだ。今季の4月に一軍昇格を告げられると「人数合わせの昇格なら断る。上げたからには試合で投げさせてくれ」とゴネたのも永射投手の度胸と反骨精神を物語る。171㌢・74㌔という体格はチームで一番の小柄。そんなチビッ子投手は身体に似合わない大きなプライドを持ち合わせている。