Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…買い集めていた
30年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 527 阪神ネタ ②

2018年04月18日 | 1985 年 



パ・リーグではプロ入り2年目の19歳トリオが大活躍。オッと忘れちゃいませんか?セ・リーグでも快調に勝ち続ける猛虎軍団に2年目のサウスポー・仲田幸司がいる。初勝利を完封で飾るというドデカイことをやってのけたこの若武者の素顔は気さくな現代っ子という感じ。投手難にあえぐ阪神にとって救世主となりつつある仲田の存在は21年ぶりの " まさか " を現実にしてくれるかも…

聞き手…今年のキャンプで肩を痛めたけどその時の心境はどうだった?
仲 田…飛ばし過ぎが原因でした。根がお調子者なんで周りに煽てられて(笑)
聞き手…3月21日にリタイアして一軍に帰って来たのが4月27日。焦りはあった?
仲 田…ありましたよ。もうアイツは終わりだ、と言われているんじゃないかとか頭をよぎりました
聞き手…自分で調整をセーブ出来ないのは若さゆえか
仲 田…無駄が多いのは自覚しています。味方の攻撃中にベンチ前で肩慣らしをするんですけど、攻撃が長く続いても止めないとか
聞き手…ゼニにならない球を投げてもしょうがないぞ(笑)
仲 田…試合で投げて、翌日は休みますけど次の日は30球と決めても、いざ球を持つと多く投げてしまうんです
聞き手…若いうちは投げないと不安になるから仕方ないけど、ずっと続けていたら潰れるぞ
仲 田…色々な先輩方にもアドバイスを受けていますし参考にしています
聞き手…ヨネさん(米田投手コーチ)からはどんな指導を受けているの?
仲 田…今は未だ技術的な事はあまり無いです。ただズ~と難しい顔で僕を見ているだけで(笑)
聞き手…沖縄の家族とは連絡をとってるの?
仲 田…はい。親父には登板前の過ごし方とか言われてます。リラックスする為に友人と遊ぶのも良いけど程々にしろとかですかね

聞き手…プロ初登板(4月29日・大洋戦)は緊張した?いきなりホワイトにツーベースを打たれたけど
仲 田…ブルペンではガチガチでしたけど、いざマウンドに上がったら思ったほど緊張しなかったです
聞き手…そりゃ大したもんだ
仲 田…リリーフカーに乗ってる時の気分は何とも言えないくらい心地良かったです
聞き手…初勝利(5月12日・ヤクルト戦)が完封。その後の巨人戦にも登板したんだよな
仲 田…東京遠征の3日目に登板したんですけど初日は眠れなかったですね。ただ登板前日は開き直ってグッスリ
聞き手…ただその後は勝てなくて一時はローテーションから外された
仲 田…初勝利は勢いだけで勝てた感じでしたね
聞き手…2勝目は1ヶ月後の6月23日の大洋戦か
仲 田…いま振り返ると勝てなかった間はマウンド上でもあれこれ考え過ぎてました。もう勝てないかもと落ち込みましたね
聞き手…3試合続けてKOされて中継ぎに降格
仲 田…6月13日の広島戦でリリーフ登板したんですけど必死に投げました。1失点しましたが内容は悪くなかったです
聞き手…大洋戦の試合前はどんな気持ちだった?
仲 田…めちゃくちゃ緊張しました。また負けたら二軍行きも覚悟してました。勝てて本当に良かったです。どうにか2つ
      勝って両目が開いて前が見えるようになりました


聞き手…話は少し遡ってドラフトの時の話を。巨人以外ならプロ入りしない、と宣言して話題になったけど巨人ファン?
仲 田…いや~(苦笑い)あれは親父が巨人ファンで…。自分はどこでも指名されればプロ入りする気持ちでした
聞き手…阪神に指名されて良かった?
仲 田…はい。皆さんとても明るいですし阪神に入って良かったです
聞き手…高校とプロの一番の違いって何だと思う?
仲 田…高校野球は部員が一丸となって甲子園を目指しますがプロは一人一人が別の目標と言うか目的が違うと感じます
聞き手…そうだな。各選手の力を集約して戦う、それぞれ自分の持ち場に責任を持ってこそプロだな
仲 田…僕も与えられた仕事をきちんとやりたいです
聞き手…ところで今話題のパ・リーグの19歳トリオは意識してる?
仲 田…同期の連中が頑張ってると負けられんと思います
聞き手…プロ2年目の一軍入りは早かった?それとも予想通り?
仲 田…早かったですね。先にプロ入りした先輩たちにはプロはスピード感が違うと聞かされていたので、慣れるまで時間がかかると
      覚悟してましたけど実際はそうでもなかったです。スピードよりもキレとコントロールの精密さに差を感じました。野村さんや
      山内さんなんか精密機械ですよ。人間業とは思えないです


聞き手…これからは相手チームのマークが一層きびしくなるけど球種を増やすとか考えているの?
仲 田…いいえ、基本は真っ直ぐとカーブだけです。一度、巨人戦で中畑さんの時にフォークを投げたんですけどスッポ抜けて
      バックネットを直撃しちゃいました(笑)

聞き手…球種よりコントロールに磨きをかける?
仲 田…そうですね。去年アメリカの教育リーグに一緒に行った広島の高木宣投手は球を低目に集めて好投していますが参考になります。
      高目の真っ直ぐで三振を取るのが僕の理想です。そこまでの過程で高目を意識させ、いかに低目でストライクを取れるかが今後の
      課題です

聞き手…投手が速い球を追い求めなくなったら終わりだよ。ヤクルトの杉浦がお前の事を「今、一番打ちにくい投手。将来とてつもない
      投手になるかもしれない」と言ってたよ

仲 田…本当ですか!ありがとうございます。パ・リーグの19歳トリオに追いつけ追い越せで頑張ります
聞き手…確かに今は彼らの方が勢いがある。でも強い馬というのは、どんなに先行されてても最後はキッチリ勝つもの
仲 田…まだまだ先の長いレースは始まったばかり。でも長い目で計算できず脱線してしまうのが僕の悪い癖です
聞き手…お前はやっぱりお調子者だ
仲 田…はい、性格だけは変えられません(笑)
コメント (1)
この記事をはてなブックマークに追加

# 526 阪神ネタ ①

2018年04月11日 | 1985 年 



1985年は阪神が21年ぶりに優勝した年で週べも毎週買っていた筈ですが、何故か手元に残っていません。後年にドラフト関連や選手名鑑などカテゴリー毎に纏めていた記憶があるので、阪神の優勝関連の号も纏めて何処かに保管してしまった可能性があります。優勝した年なのに阪神ネタが少ないので小ネタを幾つか紹介します。


虎キチおじさん・花井悠の「トラトラ時評」
阪神の両主砲・掛布と岡田が写真週刊誌のターゲットにされた。掛布は " 本番女優 " とシッポりと酒を飲んでいる所をパチリ。岡田はゲイバーの可愛い子ちゃんのマンションへいそいそと通っていた事が暴露された。世間には「不謹慎」とか「教育上よろしくない」とか正論を説かれるお偉いさんが必ずいるが、そんなもんは気にする事はない!人というのは自分の事は棚に上げて他人の行動に御立派な建て前を言うのが常なのだ。掛布も岡田も他人に迷惑をかけている訳ではないのだから世間に対して謝る必要はないのだ。勿論、野球選手は青少年の憧れで目標でもあるから自重するに越したことはないのだが、選手だって普通の人間で聖人君子ではない。一般のサラリーマンと同じく息抜きだって必要なのだ。

時代が違うと言われればそれまでだが、昔の西鉄ライオンズの選手らに比べたら掛布や岡田なんぞ可愛いもんや。西鉄のサムライはそれこそ中西や豊田ら一番から九番まで、投手陣も稲尾らも含めて彼らの武勇伝は枚挙に暇がない。今の時代ならカメラマンが何人いても足りないくらいや。それに掛布や岡田はロクな仕事もせず遊び回っている訳ではない。岡田はオカマちゃんと逢瀬を過ごした翌日の試合で本塁打を放つなどキッチリ結果を出している。遊びにうつつをぬかして仕事に支障をきたしていたらファンは大いに怒ってよい。だからこそ掛布や岡田も手は抜けない筈や。打てなくなれば「それ見たことか」と批判される事は火を見るよりも明らか。今回の醜聞は阪神にとってはむしろプラス材料や!



阪神史上最も人気のあった外人・ラインバック
今や甲子園の風物詩となったバースコール。かつて、このバースコールに勝るとも劣らない声援を受けていたのがM・ラインバック選手。人気があった理由はいたって明快、とにかく明るい性格で常にハッスルプレーに徹していたから。こう書くと彼がネアカで陽の当たる道を歩んで来たと思われるだろうが来日するまでに二度ほどの挫折を経験している。実は高校時代はアメフトの花形選手のクォーターバックを務めていた。高校卒業後はアメフトで奨学金を得て名門・カリフォルニア大学へ進学した。しかし1年生の秋に左肩と左膝を故障しアメフトを断念し野球への転向を余儀なくされたが野球の世界でも開花しなかった。メジャー歴は1974年の僅か12試合。己の限界を悟った彼は海を渡り極東の島国に辿り着いた。

これらの挫折は異国の地の彼を逞しく成長させた。来日1年目にして打率3割をマーク。5年間で三度の3割越えは助っ人として特上の部類に入る。ちなみに来日初年度に打率3割をマークした外人はセ・リーグでは彼が初めてであった。しかし好成績を残したものの年俸は750万円とも600万円(推定)と言われていて思ったほどアップしなかった。アメリカではマイナー生活が長かった彼の私生活は慎ましやかであったがそれは日本でも変わらなかった。甲子園球場での昼食はスーザン夫人お手製の弁当。球団から食事を支給される時はデザートの果物をお土産に持ち帰るほどだった。つくずく彼が活躍した時代の外人は不遇だった。それにつけても最近の助っ人さんの年俸の高い事には呆れるばかりだ。



パワフルなトップバッター
中村勝広は早大では谷沢(中日)の2年後輩。入学当初は遊撃手だったが二塁手にコンバートされると頭角を現し1年生で早くも六大学デビューを果たした。ただし守備は決して上手とは言えなかった。昭和46年春のリーグ戦で早大が犯した失策は「2」と堅守を誇ったが、その2個はいずれも中村が記録したものだった。対して打撃の方は早慶戦で2本塁打を放つなど大物の片鱗を見せた。やがて主将を務めるなど攻守に渡り中心選手に成長し卒業後はプロに進んだ。プロ入り後は課題だった守備も上達し、シーズン最高守備率の記録を作った。昭和53年に出場数は90試合と少なかったが2失策で守備率.995 はお見事。

大学時代から打撃は定評があり、細身の身体ながら意外にパワーも兼ね備えていた。昭和50年には初回先頭打者本塁打を6本記録している。この年の本塁打数は16本で一番打者として特出していた。また四死球も96個、打率.280 と一番打者としての仕事もキッチリとこなしていた。昭和51年9月19日の広島戦で阪神は1イニング4連発本塁打を達成したが1発目は中村だった。ちなみに2発目以降は掛布・ラインバック・田淵が続いた。それにしても引退するのが早過ぎたと感じるのはワシだけだろうか?確かに中村は指導者としての能力も高いが、早大の先輩でもある谷沢はまだ現役で頑張っているだけに惜しい気がするのだが。いずれは阪神の監督として現場に戻って来る事を期待している。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

# 525 第67回全国高校野球選手権

2018年04月04日 | 1985 年 



中山投手(高知商)の一球一球に甲子園球場がどよめき揺れ動いた。スタンドを魅了したのは時速145㌔の快速球。ネット裏にはプロ全12球団のスカウトが集結、中には複数のスカウトがスピードガンを持参し球速を測定していた球団も。測定する位置や角度で多少の誤差はあるものの平均すると143㌔、最速は145㌔だった。あの " 阿波の金太郎 " こと水野投手(現巨人)以来の球速だ。今春のセンバツ大会で優勝した伊野商の渡辺投手でも144㌔だった。「中山投手を2位指名なんて言ったら笑われますよ。速さだけじゃなく安定したフォームで投げている。我々は選手の欠点を見つけるのも仕事だけど中山投手に関しては文句なしです(広島・宮川スカウト)」とべた褒めなのだ。

プロの評価がウナギ登りの中山だが、ここまでの道のりは厳しかった。昭和58年のPL学園戦で津野投手(現日ハム)を救援して3回 2/3 を無失点で投げ切り、颯爽と甲子園デビューを果たした。だがその後は持病の腰痛に苦しめられ思うような投球が出来ず落ち込んだ。それもようやく完治し甲子園に帰って来た。試合後には「力んで後半はへばってしまいました。四球から失点したのは僕の悪い癖で反省しています。次も気持ちを入れ替えて頑張ります。是非優勝して監督さんに恩返しをしたいです」と言い切った。果たして桑田・清原を擁するPL学園との甲子園デビュー戦以来の再戦は実現するのか注目である。

そのPL学園だが大会7日目まで出番がない。大会は14日間の日程だから " 中日 " までPL学園が姿を現さないのは興行的にも痛手である。甲子園球場の周辺では閑古鳥が鳴いている店もチラホラ。対戦の日程はクジ引きで決まるので誰のせいでもないのだが、主催者側もため息を吐いている。当のPL学園の選手達も戸惑いを隠せないが名将・中村監督に抜かりはない。試合までの6日間を有効に使っている。野手には走塁やバント、連携プレーなど基本練習を繰り返して行なう一方で桑田投手ら投手陣にはノースローデイを設けるなどメリハリを付けた練習を行い緊張感を絶やさないように工夫している。

「最後の甲子園といった感慨はありません。自分の持てる力をフルに出すことだけを考えています。対戦相手のことより自分の調整で頭がいっぱいです」と桑田は対戦相手の東海大山形のデータには無関心のようで相変わらずのクールで黙々と練習に取り組んでいた。一方の清原は開会式が始まる前に昨年の優勝校の取手二高の坂詰主将が持っていた優勝旗を借り、握りしめて「重いなぁ、ズシリとくる」と神妙にポツリ。単に重かったのか、それとも2年ぶりのV奪回を達成するまでの過程のしんどさを想像しているのか、普段の大らかな清原からは想像できない程の真剣さをうかがえる違った一面を見せた。

徳島商が20年ぶりに勝利の校歌を聞いて森岡監督や選手達は感無量であっただろう。東邦戦のスコアボートには初回から「3」「1」「4」…と得点が並んだ。終わってみれば何と大会記録が2つ( 両チーム合わせて12二塁打、最多塁打56 )出るなどの大乱打戦だった。この試合のヒーローは徳島商の五番打者の松井選手。2本塁打を含む5打数5安打5打点の大活躍で「自分で自分に驚いています。これを本当のバカ当たりと言うのでしょうが、まさかこんな晴れ舞台で打てるなんて(松井)」と本人が一番驚いている。森岡監督にとっては就任以来 " 五度目の正直 " がようやく叶い、長過ぎた空白にようやく終止符を打てて試合後には涙を流した。

監督つながりの話では名物監督が甲子園に帰って来た。沖縄水産高の栽監督である。自身のCM出演が学生野球憲章に抵触すると判断され、昨年は1年間の謹慎処分を強いられた。激戦の沖縄予選を制して本大会1回戦では函館有斗高に快勝し、「再び甲子園で野球が出来る喜びでいっぱいです。ウチは決して強いチームではないので一つ勝てて大満足です」と笑顔を見せた。甲子園は豊見城を率いて以来で7年ぶり。目の具合が良くなく普段はサングラスをして目を保護しているが甲子園では外すようにしているのも栽監督らしい。昨年のショックを乗り越えての勝利だっただけに勝利インタビューでは熱いモノがこみ上げ目は真っ赤に充血していた。

昨年までの入場行進は学校名の紹介もなく、ただ続々と行進するだけで味気なかったが今年から「〇〇県代表・◆◆高等学校」と場内アナウンスするようになった。その大役を担ったのが西條靖子さん(21歳)。「緊張しました。間違いないように、ただそれだけに神経を使いました。無事に終われてホッとしています」と当日を振り返った。ただ開会式の入場者数は4万2千人でアルプス席や内野席には空席が目立った。熱心なファンの中には徹夜組もいたが、常連校のPL学園や高知商らは出場しているが今センバツ大会を制した伊野商やベスト4だった池田高が予選で姿を消し出場していない事も影響しているのかもしれない。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

# 524 ボクの甲子園 ③

2018年03月28日 | 1985 年 



西田真二(昭和53年・PL学園)
何と言っても決勝戦。高知商の森投手(現阪急)に抑えられて2点差で9回二死まで追い詰められたけど僕が同点打を打って追いついた。エースで四番でしたから優勝できてホッとしたのを憶えています。それよりも主将だった木戸(現阪神)がワンワン大泣きした方が強く印象に残っています(笑)あの同点打はその後の僕の野球人生を変えたと言っても過言ではありません。

香川伸行(昭和54年・浪商)
甲子園にはセンバツが2・3年生、夏の大会は3年生の時の3回行きましたがやっぱり最後の夏が一番印象に残っています。比叡山との試合中にファールチップを右肩に受けて投手に返球する事さえキツくてまともにバットを振れなかったのですが、監督さんに「痛かったら一振りだけして仕留めろ」と言われて打ったら左中間にホームラン。試合終了と同時に医務室へ直行して校歌はベッドの上で聴いてました。

藤本修二(昭和56年・今治西)
2年生の夏に出場しました。2回戦で国学院久我山に3-2で勝って勢いに乗って準々決勝まで進みました。相手は報徳学園。エースは金村さん(現近鉄)でその年の優勝校です。金村さんと投げ合ったのですが1-3で負けてしまいました。2年生だったので捲土重来を誓いましたが実現する事が出来なかったのが心残りです。

渡辺久信(昭和56年・前橋工)
1年生の時に「10」番を付けて出場しましたが無我夢中で何をどうしたらよいとか全く分からずアッと言う間に終わってしまいました。高校時代の思い出としては甲子園よりも予選の方が残ってますね。3年生だった群馬県予選の決勝戦で太田工に9回押し出しで負けた時は悔しかったです。自分のせいで甲子園に行けなかったという思いが今も残っています。

小野和義(昭和58年・創価)
僕が出場したのは2年前です。江夏2世と騒がれましたが自分でも「調子が良い時はいつでも三振を奪える」くらいの自信は有りました。でもイザ甲子園のマウンドに立ってみると思い通りにはいかなかったですね。楽勝だと思っていた東山に打たれてアッサリと負けてしまいました。皆となんか野球をした気がしないなぁ、と試合後に話したのを憶えています。

津野 浩(昭和58年・高知商)
3年生の時に出場しましたが投げる事より打つ方の印象が残っています。3回戦の箕島戦は8-3で勝ったんですが箕島のエース・吉井(現近鉄)から満塁本塁打を打ちました。実はこの一発が甲子園大会通算450号の記念本塁打だったのです。役員の方から日付の入った記念ボールを頂いて実家で家宝として大事に飾っています。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

# 523 ボクの甲子園 ②

2018年03月21日 | 1985 年 



石川 賢(昭和53年・日川)
今年もPL学園の前評判が高いですが僕が出場した時の初戦の相手がPL学園でした。試合は終始ウチが押していたのですが、田舎と都会のチームの差とでも言うのかPL学園の試合巧者ぶりに負けてしまった感じです。スコアは2-5でしたがウチはスクイズを見破られたり、PL学園は少ないチャンスを生かした隙のないチームでした。個人的には投手としてより打者として3安打した事の方が印象に残っています。

欠端光則(昭和55年・福岡)
今、僕がこうして投手としてプロ野球選手になれたのも甲子園に出たからなんですよね。実は高校時代の本職は遊撃手だったんです。当時のエースが予選の1回戦で肘を痛めてしまい仕方なく僕が2回戦から投げる事になりました。そうしたら何と甲子園出場となってしまいました。本大会では1回戦で大分商に負けてしまいましたが、もしもエースが故障していなければ今の僕は存在しません。

秦 真司(昭和55年・鳴門)
鳴門高の主将として出場して5年が経つんですね。ウチは2回戦からで相手は前橋工。それに勝ってヨシ次も、と意気込んだのですが愛甲君がいた横浜に負けてしまいました。宿舎に帰ってエースの島田と一晩中泣きました。四番を任されていたのに6打数1安打と情けない結果だったのが悔しくてね。その時に持ち帰った甲子園の土は大事に飾ってあります。

小松辰雄(昭和51 , 52年・星稜)
僕は昭和51年と52年に出場していますが印象に残っているのは初めて出た2年生の時です。予選の時も目立たない存在でしたが1回戦の日体荏原戦で13個の三振を奪って完封勝ちして注目されるようになりました。準々決勝の赤嶺さん(元巨人)がいた豊見城戦で決勝点となる二塁打を打ったのが最高の思い出です。結局、準決勝で桜美林に負けてしまいましたが甲子園には良い思い出が沢山あります。

深沢恵雄(昭和47年・狭南)
1回戦で強豪の柳井と対戦しましたが僕が初回に3点を取られ0-3で完封負けしました。実は初回に何本ヒットを打たれたのか全く憶えていません。まさに甲子園には魔物がいました(笑い)その後は抑えたので悔しさ倍増です。でも対戦した柳井が準優勝したのでもしも僕らが勝っていたら、ひょっとして…なんて皆で話してました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加