Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#47 名投手列伝 ②

2009年07月18日 | 1978 年 
今回は「権藤・権藤・雨・権藤」の権藤博投手です。稲尾が42勝の日本記録を達成した昭和36年に
権藤はプロ入りしました。この年、新人王・最優秀投手・沢村賞など総なめでした。42勝した稲尾の
投球回数 404 回に対し 権藤は 429 ⅓ 回でした。

鳥栖高からブリヂストンに進み4年、権藤は巨人スカウト・沢田の目に留まり「喜んで巨人のお世話に
なります」と入団に前向きでした。しかし巨人から正式のオファーがなかなか来ません、当時の巨人は
水原監督から川上への監督交代で球団内がゴタゴタしていて新人獲得の件は後回しにされてました。
その間隙を突いたのが中日でした。律儀な権藤は巨人からの返事を催促しましたがナシのつぶて・・
しびれを切らした権藤は「プロならどこでも同じ」と中日と契約しました。

1年目は半数以上の67試合に登板して35勝、2年目も30勝とフル回転でしたが権藤の肩は1年目で
既に悲鳴をあげていました。15勝をあげて堂々と新人でオールスター戦に出場、そこで金田投手から
「権藤よ今みたいな使われ方をしてたら2年で潰れるぞ」と忠告されましたが、この時すでに肩に痛みを
感じていました。権藤本人も覚悟していたのか 「いいさ、ひと花咲かせようと飛び込んだプロの世界、
パッと咲いて パッと散る。太く短くがオレの性に合ってる」と常々 公言していました。

3年目 遂に肩はパンクしました。この年 10勝、翌年は6勝止まり、すると権藤は打者に転向しました。
やる事が破天荒というか無鉄砲な生き方をする選手でした。その後 再び投手に復帰しますが結局
30歳で引退しました。実質4年のプロ生活でしたがインパクトの強い投手でした。

  【投 手】     82 勝 60 敗 防 2.69 

  【打者転向時】 663打数 133安打 2割0分0厘 9本塁打 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#46 名投手列伝

2009年07月14日 | 1978 年 
洪水のような江川関連記事に食傷気味なので昔の名投手の話題を。 今回は稲尾和久投手です

昭和39年のキャンプが始まっても稲尾は一人、肩とヒジの治療の為 大分の別府にいました。昭和31年
入団以来8年連続20勝以上、うち昭和32年から3年連続で30勝以上を記録。特に昭和36年には、あの
金田投手に「どうかしてる・・人間のなせる業ではない」と言わせた年間42勝の日本記録を達成しました。

投球回数は入団2年目から 373回 2/3 、373回 、402回 1/3 、42勝した年は404回 投げるなど今では
勿論、この記事の当時と比較してもケタ外れでした。ちなみに、この年に最も投げたのは大洋・斉藤明で
241回でした。そんな稲尾が野球人生で初めて「腕がおかしい」と気がついたのは昭和35年でした。痛みで
2ヶ月間 戦線離脱しましたが、最後には20勝していました。ただし稲尾にとって20勝は物足りない成績で
名誉挽回を期し翌 昭和36年に日本記録をうち立てます。

さすがの稲尾にも限界がやって来ます。昭和38年9月23日 首位南海とは8ゲーム差、大阪遠征を続けて
いるチームを稲尾は離れます。チームもファンも稲尾抜きでの追い上げは不可能だと優勝を諦めましたが
10月1日からの直接対決・天王山に稲尾は帰ってきました。当然、万全の体調でないですから快刀乱麻と
いうわけにはいきませんでしたが初戦を若手3投手で勝ち、続く2・3戦に稲尾が連投し遂に首位と 0.5 差
勢いついた西鉄は逆転優勝を成し遂げました。稲尾は「これで思い残すことは無い。さすがにもう限界」と
コメントしましたが、何とパ・リーグ優勝の2日後、巨人との日本シリーズ第1戦のマウンドに立っていました。

稲尾が投げた 第1戦 ○、第3戦 ●、第6戦 ○ 3勝3敗で迎えた第7戦は当然 稲尾。しかし あの3連敗から
4連勝して「神様・仏様・稲尾様」と言われた稲尾ではありませんでした。試合開始 先頭打者にホームランを
打たれ、あとは張り詰めていた糸が切れたかのように釣瓶打ちを喰らい稲尾の昭和38年のシーズンは終わり
ました。無理の代償は大きく翌 39年はキャンプには参加せずリハビリに徹し再起を目指しますが、この年は
6試合 0勝2敗、以降も再び あの輝きを取り戻すことは出来ませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#45 空白の一日

2009年07月10日 | 1978 年 
プロ野球ドラフト史で最大の事件が起こりました。この頃から翌年キャンプ前の小林繁投手との
交換トレードまで、ウンザリする程の報道が続きます。毎号 江川関連の記事が掲載される様に
なりますが正直、無理やり江川と結び付けたネタ切れの号もあり、「何でも有り」の飛ばし記事も
これから次々と出てきますので、ここでは事実を時系列にあげておきます。


11月20日
  PM 5:02 ドラフト2日前に江川がロスから帰国  報道陣の質問には「わかりません」「お答えできません」
     5:10 西武が江川獲得断念を正式表明  宮内球団社長は「やるべき事は全てやった。江川君は決して西武に
        悪い印象は持っていない。西武に来られない相当根深い"何か"が本人の周りにあるようだ」と意味深発言
     7:50 東京・南青山の船田邸に江川と父親が入る
11月21日
  AM 0:00 西武の交渉権が消滅
     0:40 紀尾井町のホテル・ニューオータニで長谷川巨人球団代表と船田代議士の蓮実秘書が会談
        その後 山本・巨人軍顧問弁護士が加わり最終確認終了
     8:50 船田自民党副総裁、正力オーナー、山本弁護士 同席のもと江川が統一契約書にサイン
     9:30 野球協約第133条、第141条により「巨人軍は江川投手と契約いたしました」と記者会見で発表
     10:00 銀座のセ・リーグ事務局に巨人が統一契約書を持参  鈴木会長は不在で事務局員が「一応、お預かりします」
  PM 0:10 プロ野球実行委員会で長谷川代表が事情説明 中座した阪急・渓間代表は「巨人は血迷ってる」
        日ハム・三原球団社長は「だから政治家の介入はダメだと言ったんだ」 セ・リーグ関係者は出て来なかった
     4:00 正午から延々続いていた実行委員会が、さらに3時間延長すると発表 
     5:30 パ・リーグ事務局長が「1対11 で巨人の主張は却下された。江川は明日のドラフト対象選手」と発表 
     6:30 セパ両会長、コミッショナー事務局長、長谷川代表が共同記者会見  「巨人と江川投手との契約は協約の解釈を
         曲げてなされたものです」 「そうではない、条文に忠実に正しく従っている。解釈は間違っていない」と平行線
     8:20 巨人球団事務所で会見「連盟会長の申請却下の裁定を不服とし明日のドラフト会議を重大な決意をもって欠席する」
         重大な決意とは?との問いに 「リーグ脱退である」 「この裁定に対し江川君の地位保全の仮処分の申請をします。
         相手はコミッショナー・連盟会長・明日のドラフトで江川君を指名した球団、原告は江川君と巨人軍の両方」  
     10:30 蓮実秘書が帰宅 「江川君は巨人軍と契約したのです。登録が却下されたといっても、もう私どもの手を離れた。
         これからはプロ野球機構内部で処理する事案であり、私どもが関知する事ではありません」


長い11月21日はこうして終わりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#44 深夜のトレード劇

2009年07月06日 | 1978 年 
阪神・西武の両球団間で展開された今季最大のトレードが、やっと終結を見ようとしている。11月17日 梅田の「ホテル阪神」で
田淵が西武・根本監督と会い、移籍を了承。1ヶ月以上に渡って燻り続けていた田淵のトレード問題は決着しました。


両球団間で田淵のトレード話が表面化したのは11月15日。それは西武が江川獲得を断念した日と
合致、江川に代わる新球団の目玉として田淵が浮上しました。15日午後3時、阪神電鉄本社3階の
役員室に小津球団社長・岡崎球団代表・西山二軍監督・小林チーフスカウト、西武側からは全権を
託された根本監督の計5人が集まり、交換選手の検討・調整が行なわれました。西武が指名したのは
田淵と古沢これに対し阪神は若菜・真弓は絶対条件でプラス 竹之内・大田・竹田・倉持の中から数人
という交渉が行なわれていました。

交渉は延々と続き、午後9時半 いったん休憩。場所を「ホテル阪神」に移し、泊まり込んででも、という
異例のヒザ詰め交渉でした。交渉がまとまったのが深夜1時過ぎ、このトレード話を一気に決着させたい
阪神は田淵に対するトレード通告を深夜1時半にし、ホテルへ呼び出したのでした。ちなみに もう一人の
古沢への通告は翌日に行なわれました。球団からの呼び出しに田淵は「なんて非常識な。こんな時間に
来いとは正気の沙汰じゃない、オレは行かないよ」とヘソを曲げたが説得されて渋々やって来ました。


Q トレード通告だったのか?
A 「西武へ行けと言われた。こんな時間に呼び出しておいて西武へ行けとは何だ、人をバカにしている。これが10年間 阪神で
   やってきた者に対する仕打ちなのか、情けないよ・・・」
Q どう答えたのか?
A 「どうもこうもあるか、考えさせてもらうと言って出てきた。1ヶ月も晒し者にされたし、言いたい事が山ほどある」
Q これからどうするのか?
A 「わからない、どっちみち阪神には残れない。西武へ行くか引退するかだ。阪神はフロントがこんなだから強くならないんだ、
   犠牲はオレだけで充分。納得がいかなければ辞めたって・・・」


ところで、一方の西武も揺れていました。このトレードの10日ほど前、秋季キャンプで練習する若手に対し
「君達はトレード要員ではない、だから腰を据えて基本からやり直せ」と訓示したばかりでした。その舌の
根も乾かぬうちに期待の若手野手の真弓と若菜、貴重な左腕・竹田、ベテラン・竹之内の主力4人を放出
しました。また、それ以前にも新生ライオンズは若手に切り替える方針を採っていましたが、逆行するかの
ようにロッテを解雇された野村捕手を獲得するなど迷走していました。福岡のイメージを払拭する為に次々と
選手を切っているのだろう、東尾や土井もいずれ追い出されるのではないかと言われていました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#43 イの一番 ドラフト指名選手

2009年07月02日 | 1978 年 
現在の入札制となる前のドラフトでは指名する順番をクジ引きで決めていました。各球団の
スカウティング能力が未熟だったのか "イの一番" 指名選手が、いかに人気先行だったの
かが分かります。'74年から4年連続で投手が指名されましたが'77年のシーズンで誰一人
として勝星を上げられませんでした。 福井(近鉄)・田中(ロッテ)・酒井(ヤクト)・江川 ですが、
拒否した江川以外の投手は「1位」に相応しい成績を残すこと無く消えました。'67年以降、
"イの一番" 選手で新人王になったのは中日・谷沢が唯一でした。

当時、巨人側はドラフトのせいで欲しい選手を獲得できない、低迷の原因の一つがドラフトだと
主張していましたが実は巨人の平均指名順位は「6.3位」で特に悪いものではありませんでした。
よく引き合いに出されていたのが、山田(阪急)・東尾(西武)・若松(ヤクルト)・掛布(阪神)の誰でも
指名することは出来た。ドラフトとチームの低迷は関係ない、スカウトと育成能力の差だと言われ
てました。ちなみに各球団の平均指名順位は次の通り

①大洋 4.3   ②阪神 4.9   ③近鉄 5.8   ④南海 6.2   ⑤巨人 6.3   ⑥日ハム6.4
⑦中日 6.6   ⑧西武 7.3   ⑨ロッテ7.4   ⑩ヤクルト 7.5  ⑪阪急・広島 7.7

大洋は'72、'73年と2年連続で1番を引くなどクジ運は強かったですが、それと比例してチームは強く
なる事はありませんでした。また '67年 南海、'71年 ロッテは1番クジを引き当てたものの入団拒否
されるなど情報収集能力もまだまだ低かったようです。阪神はクジ運が良く、入札制になって以降も
'78年 江川、'79年 岡田と連続で引き当てました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#42 プリンスホテル旋風

2009年06月28日 | 1978 年 
社会人野球にプリンスホテルが参入した事の方がプロ野球界にとっては西武ライオンズ誕生より
大きな出来事でした。プロ野球よりプリンスホテルを選んだ理由に

 ① 新しいチームである
 ② オリンピック出場という目標
 ③ 野球をやめた後の仕事に困らない
 ④ 会社が安定している

という4点を挙げる選手が多かったようです。大学野球のトップクラスの選手には、向こう何ヵ年かに
分割して2800万円の支度金を賞与として支払われたそうです。プリンス野球部員には野球手当てが
月額25万円 大卒社員の初任給が10万500円なので、月給は35万500円 年額420万円。当時のプロ
野球選手の年俸でこれ以下の選手は大勢いましたから、プリンスを選ぶのも不思議ではありません。


「今の学生たちはプロに入って芽の出なかった先輩が血マナコになって職探しをしているのを目の当たりにしている。将来の
不安というより不安そのものに臆病になっている。いつまでも"何でも見てやろう" "見る前に跳ぶ" という時代じゃありません」


学生たちの意識の変化と共にプリンス側の交渉のやり方の違いも選手たちを惹きつけました。従来は
大抵 大学野球部の監督を通して交渉していました。その典型が明治大学の島岡監督で、選手本人が
入社を望んでも監督が「ノー」と言えば、話はご破算でした。しかしプリンスは選手と直接 交渉しました。
あくまでも本人、親に働きかける事もありませんでした。不安を前提とした挑戦ではなくて、安定という
背景があっての冒険という西武グループの口説き文句に選手たちは次々と陥落していきました。記事の
見出しに載ってる選手は残念ながら その後 大成しませんでした。 プリンス1期生では石毛・中尾くらい
しかプロで成功しなかった事を考えると、彼らの選択は正しかったのかもしれません。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#41 西武ライオンズ 誕生 ②

2009年06月24日 | 1978 年 
   …前回からの続き

西鉄黄金期は遠い昔の事で今やBクラスが定位置のお荷物球団を買収したのは、江川の交渉権が
あればこそでした。たった一人の選手がチームを一変させるという事を堤氏は以前に経験していました。
国土計画というアイスホッケーチームを保有していましたがチームは低迷していました。打開策として
堤氏は岩倉組に所属していた岩本選手を引き抜きました。岩本は当時 ホッケー界のスーパースターで
この引き抜きで岩本は出場停止処分を受け、国土計画も批判されましたがチームは強くなりました。

今回はその岩本役が江川なのです。だからこそ負債も含めて10億円という大金を叩いたのでした。
しかし江川の西武入りに待ったをかけたのが鈴木実行委員会議長でした。鈴木はセ・リーグ会長で
巨人べったりの人物でした。「江川のような大物選手の入団を球団売買の道具にすべきではない」
そして江川の交渉権放棄が西武への身売りの条件で、それを中村オーナーも約束したと漏らした。
一方の中村オーナーは「そんな約束をした覚えはありません」と言い切ったことで話はややこしく
なっていきます。そんな重要な事をなぜ書面ではなく口頭で済ませたのか、書面に残せない理由が
あったのか。

話を総合すると身売り発表の前日にコミッショナー・両リーグ会長・中村オーナー、そして何故か巨人の
正力オーナーも同席して江川の交渉権についての話し合いが持たれました。その話し合いの中で江川の
交渉権を放棄しない場合は球団譲渡と本拠地移転は認めないとの"口約束"が確認され中村オーナーも
「承知した」そうです。しかし堤氏には伏せられていたようでライオンズ買収の会見で記者から"口約束"に
ついて質問されても、逆に質問した記者に「それはどんな内容のモノですか? 後でよく聞かせて下さい。
ライオンズの所有する権利は当然すべて継承するものと承知しています」と敢然と言い放ちました。

堤氏が会見中 終始笑顔を見せなかった理由は、この"口約束"を知らされてなかったからでした。
球団売買の際に、ほんの数人の関係者間で裏工作が行なわれていた事に「もしこの"口約束"が
本当なら球界を監視・指導すべき立場の人間が特定球団寄りだという証明ではないか」と反発する
声も多く聞かれてパ・リーグ球団は一致して「西武は江川の交渉権を所有する」と認め、セ・リーグ
球団にも同調を求めました。世論も今回の"口約束"に批判的でコミッショナーらの目論見は崩れ
去りました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#40 西武ライオンズ 誕生 ①

2009年06月20日 | 1978 年 
かねてより噂されていた西武がクラウンライターを買収しプロ野球界へ進出して来ました。10月12日に
開かれたオーナー会議でクラウン・中村オーナーより球団譲渡に関する緊急動議が出されて売却が
公になりました。実は地元九州では6日付の一般紙でクラウンの身売りが報じられてました。この時期
身売りに関する報道には慣れっこになっていたファンに驚きは少なく、平穏さを保っていました。それは
身売りになっても福岡を去ることは無いとタカを括っていたからでした。

本拠地移転となる事が分かって地元は大騒ぎになりましたが、時すでに遅しでした。中村オーナーと
堤氏は並んで会見に臨みましたが、終始 笑顔の中村オーナーと対照的に硬い表情の堤氏が買収
までの経緯を説明しました。


「私はこれまで繰り返し申し上げてまいりました通り、今すぐプロ野球球団を持つ気は無かった。過去何度も中村氏に頼まれても
お断りしてきましたが、今回はパ・リーグ会長直々の申し出で 次の3か条を満たして貰えるという事でしたので決断しました」
  ・円満に本拠地を所沢に移転させる
  ・両リーグ 全12球団が西武のプロ野球進出を理解・歓迎してくれること
  ・オーナー会議で全会一致で賛成してくれること

こちらから積極的に乗り込んで来たわけではない、頼まれて「プロ野球のために…」と買収に応じたのであって、九州のファンの
憤りは心外であると言いたかったのでしょう、球界の敵役にされるのはたまらないという心理が見てとれます。


だが誰一人として堤氏の発言を信じておらず、用意周到なプロ野球界への殴りこみだと考えてました。
堤氏は常々「いろいろ検討してもパ・リーグならメリットは無い」と公言していました。ライオンズには
全国区のスター選手もいない、なのに何故買収したのか?それは「江川の交渉権」以外有り得ない。
10億円も出して買収したのは江川を獲得できるから、そんな西武の思惑に横槍が入ります。 …つづく
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#39 堤義明の野望

2009年06月17日 | 1978 年 
前回触れたライオンズをめぐり西武の影がチラついてきました。当時 既に堤氏はアマチュアスポーツの
重鎮でしたがプロ野球界にも徐々に食指を伸ばし始めました。この年にオープンした横浜スタジアムの
建設にも関与したり、新球場(現在の西武ドーム球場)建設を発表するなど表舞台に姿を現してきました。
新球場建設の表向きの目的は「西武線沿線住民へのサービス」としていましたが、まともに受け止める
人はいませんでした。一般市民の為にしては設備が立派すぎるし、 新球場建設の発表が7月3日で
完成予定が翌年3月とプロ野球開幕に都合が良いスケジュールであることなどから、いきなりプロ野球に
参入するか否かは別としても関わりを持とうとしているのは間違いないと書いています。

「球団を買うという事は今のドラフト制度の下では有り得ない、ただ巨人なら話は別」 「でもドラフト制に
反対している人が6人集まれば新リーグができる」「60試合程度はプロの試合をやってもらいたい」等々
プロ野球が視野に入っているコメントです。アマチュア界の実力者である堤氏にとって実はプロ野球より
社会人野球参入が本当の狙いではないかという話があります。マスコミ記者との定例会見で、ドラフトが
あるプロ野球界では欲しい選手は獲得できないが社会人チームなら自由に交渉できる。松沼・石毛・中尾
さらにハワイ大のタツノも含めたドリームチームが作れる、と発言。さらにクラウンライターを買収すれば
江川の交渉権も付いてくる、10億円出しても元は取れると注目発言をしました。

この発言に世間は、プロ野球にドラフト指名された選手が何の実績も無い新興社会人チームに入る
わけがない。社会人球団・新球場・クラウンライター買収となれば莫大な金が必要で、いかに西武と
言えども無理だろうというのが大方の意見でした。しかし結果は全てやり遂げました。 江川を入団
させることは遂に出来ませんでしたが、松沼はライオンズに、中尾・石毛・タツノ はプリンスホテルに
入りました。以降、ドラフトで1位指名された有力高校生までもがプロを拒否してプリンスホテル入りし
その後ライオンズ入りしたことなどからプリンスホテルはライオンズの為のトンネル球団かとの批判が
出るほどでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#38 落日のライオンズ

2009年06月14日 | 1978 年 
一時代を築いたライオンズもこの頃には低迷し球団経営も苦しく先行きは暗い状態でした。この記事を
改めて読んで分かりましたが、福岡時代のライオンズは特殊な球団でした。他球団との一番の違いは
親会社を持っていなかったと言う事です。西鉄が球団経営に苦慮し売却先を捜していた時、"ペプシ"に
仲介したのが当時オリオンズのオーナーだった中村長芳氏でした。この売却話は同時期に東映が先に
売却された事でプロ野球球団経営の不安定さをペプシ側が感じとって売却話から撤退しました。

ペプシ以外に売却の交渉に応じる企業は無く、中村氏個人がライオンズを引き受けましたが野球協約で
同一の法人・個人が複数の球団を保有する事は禁じられていた為オリオンズのオーナーを辞し3億円で
買い取り "中村ライオンズ"のオーナーになりました。経営母体はあくまで中村氏個人で、それとは別に
スポンサーがつく形をとっていました。3年目までは太平洋クラブ、4年目からはクラウンライターガスが
年平均1億5千万円の赤字を補填してきました。今で言うところの「命名権」で何とか凌いできましたが
中村オーナーが個人の借金をしてまでの球団経営も限界が来て再び売却の噂がちらほら出てきました。

福岡財界の有力者が中村オーナーの窮状を見かねて地元企業に打診してみたものの、累積赤字が
8億円を超えてる球団に付いた値段は3億円だったそうで、何とか九州にプロ野球球団を残したいと
考えていた中村オーナーにも、より条件の良い本拠地移転を含めた売却が選択肢の一つになりました。
そこに登場してきたのが西武グループ総帥・堤義明氏でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#37 組織票

2009年06月11日 | 1978 年 
オールスター戦のファン投票には組織票問題が今も昔も付き物です。古くは近鉄・太田幸司投手
違った趣旨で選ばれた中日・川崎投手などの例がありましたが、'78年の日ハム勢が選出された
事例は少し違っていました。この年は後楽園で開催されるとあって日ハムは球団をあげて選手を
プッシュしますが、これは普通のことで特段 珍しいことではありません。

当時、日ハムには少年ファンクラブがあり会員は3万5千人いて、会員に投票用紙を5枚ずつ郵送
し投票を依頼しましたが批難されるような行為ではありません。ただ投票依頼が球団の枠を超えて
日本ハム本社が関与するようになって様相が変わってきました。本社と取り引きのある会社は勿論
関連・下請け・孫請け会社にまで投票を協力 (強制?) してもらうなど、度を越すようになりました。

少年ファンクラブの投票だけなら約18万程度なので問題はありませんでしたが、本社が関与した結果
日ハム勢は大量得票し全ポジション中8人が選出されました。今回の組織票の発案者と言われていた
三原球団社長も慌てたのか、古屋・菅野 両選手に出場を辞退するよう要請しました。ただ三原社長は
辞退の理由について「組織票とは関係ない、オールスター戦が選抜という前提に立てば少々バランスが
崩れています。2人が辞退したのはその為ですよ」と苦しい弁明になりました。

最近 オールスター戦を廃止し代わりに全日本チームを結成し国際試合(相手は韓国・台湾あたり?)を
開催しようとの動きがあるそうです。セ・パ交流戦が始まりオールスター戦の価値が無くなったというのが
理由だそうです。開催のスポンサー探しにも苦労してる現状では廃止も有り得るかもしれません。余談
になりますが古屋選手はその後、実力でオールスター戦出場を果たしましたが、菅野選手は選出される
ことはありませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#36 デレク・タツノ 投手

2009年06月07日 | 1978 年 
デレク・タツノという日系左腕投手がいました。前年 アメリカで行なわれた日米学生野球選手権で
1年生ながら 15回を投げて 8安打 自責点 0 奪三振22 と圧巻の投球をしました。2年生になり
9勝3敗 防 1.61 112回で奪三振161 と全米 No,1投手の評価を受けています。広島出身の祖父を
持つ日系3世で "シズオ"の日本名も持っています。そんな実力の持ち主が「日本でやってみたい」と
発言したことで日本のプロ球団は色めき立ちました。

神宮球場に12球団のスカウトが揃い注目があつまる中、小雨が降る悪コンディションでも散発5安打
三塁を踏ませぬ完封勝利で、外野へ飛んだのは4本だけで力でねじ伏せる投球でした。スカウトからは
「文句ナシの即戦力、今すぐプロに入っても15勝は堅い。貴重な左腕でヒザ元に食い込んでくる速球は
ちょっと手が出ないでしょう。江川に1億円だとか言ってるのがバカらしくなる」と絶賛の嵐でした。

実は私も神宮球場でタツノを見ました。天気は晴れでしたのでこの記事とは別の試合だと思いますが
タツノは他の投手とは別格でした。日本チームには後に西武入りした松沼弟(東洋大)・巨人入りした
鹿取(明治大)がいて、私が見た試合に2人も投げました。1塁側ベンチ後方の席で投球を横から見て
いましたが日本の投手が投げる球筋は "点" で捉えられましたが、タツノの球筋は "一直線" に見え
ました。子供の動体視力では追いつけなかったのでしょう、投球練習で1球を投げただけで球場内に
どよめきが起きたことをハッキリ憶えています。

アメリカのドラフトは大学生になると3年生の前・後期、4年生の前・後期と計4回 指名の機会があります。
タツノは3年生の6月にパドレスの2位指名を受けましたがプロ入りせず日本のプリンスホテル入りしました。
プリンスホテルは支度金の名目でパドレスが提示した契約金以上の額を出したそうです。西武の寝業師と
言われていた根本氏が裏で動いていたそうで この年に誕生した西武ライオンズ入りを画策したそうですが
日米間の紳士協定の「ドラフトにかかった選手には手を出さない」を覆す事は出来ませんでした。タツノは
その後 '80 ,'82年 と計3回指名をされ'82年にブリュワーズ入りしました。プリンスホテルが出した支度金は
一時所得で税金が発生する事の無いように賞与に組み込み分割した為 すぐに退社出来なかったタツノの
アメリカ球界入りは遅れました。アメリカに戻ったタツノは課題の制球難を克服する事が出来ずメジャーに
昇格する事なく2年で2A球団を解雇されました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#35 ドラフト改正案 ②

2009年06月04日 | 1978 年 
  …前回からの続き

ドラフト制度審議委員会が提示した最終案は次のようなものでした。

 ❶ 1位指名は従来通りクジ引きで順番を決めて指名する
 ❷ 2位以下はウェーバー方式を採用
 ❸ 1位指名に限って交渉期間を12月20日迄とし、期間中に合意しなかった選手は拒否選手として
    翌年1月に再ドラフトを行なう
 ❹ 拒否選手はセ・パ両リーグから3球団ずつを希望球団として選び最大6球団で抽選をする
 ❺ 拒否選手を指名できるのは1球団1人だけ
 ❻ 本来の1位指名選手と再ドラフトで拒否選手の2人を獲得した球団は翌年の1位指名は出来ない
 ❼ 拒否選手の契約金は制限され、その分は拒否された球団へ分配される

当然 反対意見もありました。前年に通常と再ドラフトの両方で選手を獲得しその年の通常ドラフトで
指名権が無くても再ドラフトには参加できるのだから、人気チームに有利な改正案ではないかとの
意見や、密約や裏交渉の温床になるとの声もありました。プロ野球界ではルールや制度の改定には
12球団の代表で構成される実行委員会の了承が必要です。たとえオーナー会議で決定した事でも
実行委員会で3/4 (9球団) 以上の賛成が無ければ効力は有りません。そして このドラフト改正案は
実行委員会で承認されませんでした。この案とは別にウェーバー方式案も議題にかけられましたが
こちらは8球団が賛成しました。あと一歩でドラフトの歴史が変わるところでしたが、この結果に慌てた
巨人や阪神などの人気球団が選手に選択権を与える案を断念し、現在の形に近い入札方式案を
受け入れてドラフト問題は決着しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#34 ドラフト改正案

2009年06月01日 | 1978 年 
'77年のドラフトで江川投手がクラウンを拒否して、アメリカで浪人することになった事で球界内に
ドラフト改正の動きが出始めました。当時のドラフトは現在とは形式が違っていて、まず予備抽選を
して本抽選の順番を決めます。つまり2回クジを引いて指名順が確定します。前年の江川の場合は
クラウンが1番目、巨人が2番目でした。

指名順が確定してから指名するまでには、間に昼休みがあって各球団はその間に指名の戦略を
練ります。巨人はクラウンに会談を求めて江川を指名しないようにとの要請をしました。 その際に
巨人はクラウンに対してレギュラークラスの選手を無償でトレードするとの約束をしたようでしたが
クラウンはこれを断り、江川を指名しました。一説には、この時すでに西武への身売りを交渉中で
江川の交渉権を付加する事で球団譲渡額の増加を狙っていたと言われています。

江川のプロ入り拒否がきっかけで設けられたドラフト制度審議委員会で検討が重ねられて、幾つかの
案が示されました。そのひとつが「リエントリー制度」で、選手に拒否権を与えて拒否された球団を除く
11球団で1ヶ月後に再びドラフトを行なうというものでした。さらに「リエントリー + トレード制度」という
ものも示されました。2度のドラフトでも合意できない場合は6ヶ月後にトレードできるというものでした。
こうした案を叩き台にして選手に球団を選べるようにするなどの最終案を提示しました。 …つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#33 金田監督 再び

2009年05月29日 | 1978 年 
以前にも書きましたがロッテ・金田監督の暴挙が炸裂しました。現役選手をシーズン途中に
無理やり引退させるという前代未聞の出来事でした。


「もう限界や、八木沢は引退させる」 5月26日 日ハム戦で抑えとして登板した八木沢は打ち込まれて逆転負け。
開幕から順調だったチームが5月に入り雲行きが怪しくなってきてイライラが募っていた金田監督が吐き捨てた。
「優勝するには投手陣を立て直さなくてはならん。八木沢にはコーチ専任になってもらう、今は八木沢の勝星よりも
若手を育ててもらう方がロッテのためになる」 この時まで3勝2敗1Sとコーチ兼任投手としてチームに欠かせぬ
戦力であった八木沢に引導を渡したのでした。


そんな金田を報道陣は "また金田のホラ吹きが始まった" "いつもの事で、明日になれば
ケロッとして笑い飛ばすさ"とタカをくくっていました。しかし翌日、八木沢・金田・醍醐コーチの
三者協議がもたれて八木沢が引退を了承しコーチ専任が決まりました。八木沢は「現役には
未練がありますが・・・」と涙ながらに心境を吐露しました。

しかしチームメイトがこれに大反発、やる気が失せたようでチームは負けが込むようになり、
事態を重く見たフロントがようやく動き、引退は撤回されました。混乱の張本人の金田監督は
お咎めなしで "大山鳴動し…" で一件落着・・  とはいきませんでした。八木沢本人の気持ちが
切れてしまい「もう決めた事です。監督にもう一度投げろと言われても、そう簡単に投げられる
ものではありません…」

これ程の勝手な振る舞いをした金田に何の処分をしないフロントに対して、さすがに選手達も
抗議をしましたがフロントは金田に対してはアンタッチャブルでした。代わりと言っては何ですが
弟の金田留広を2軍へ降格させることでガス抜きをするのが精一杯でした。 結局 八木沢は
現役に復帰しましたが、一度切れてしまった気持ちは戻らず活躍できずに翌年 今度は本当に
自らの意思で引退しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする