Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#119 プロ入りした甲子園球児

2010年05月26日 | グラビア 
伊東→ヤクルト    中島→日ハム          中西→阪神

  仁村・弟→中日  







            原→広島        安部→西武

                        高山→日ハム①指名拒否→西武   中条→巨人






伊東や仁村・弟などは社会人、大学進学後にプロ入りしましたが、この頃の高校生の
レベルは今ほど高くなく、清原や松坂などの様に1年目で活躍するのは稀有な例でした。
夏の甲子園大会1ヶ月後の9月に生まれた松坂の「大輔」は荒木からとったらしいですね。
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#118 昔から球団経営は楽じゃない?

2010年05月19日 | 1980 年 





地域に密着している大リーグの球団とは異なり、親会社の宣伝手段となっている日本の球団の
フランチャイズ(=地域権)は名目的なものに留まっています。親会社PRの為に地域との連携は
後回しにされ、とりあえず球場がある所に球団を持って行きました。名前を覚えてもらう為に愛称
ではなく企業名を連呼してきました。既設の球場を賃借することの弊害は収入面に顕著に表れて
ました。球場内販売収入や広告収入が球団に入らず球場を運営する別会社に行ってしまいます。
パ・リーグ球団の全てが赤字なのに球場を経営する会社は黒字が続いていました。

黒字の巨人でさえ後楽園球場は自前ではなく借り物で、かなりの額を支出していました。
 ・入場収入の28%が球場使用料
 ・28%分が100万円に満たない場合は補填する最低補償制度がある
 ・球場アルバイト人件費 100万円、照明費 35万円も巨人側が負担する
球場側は試合が中止にならない限り、必ず 最低限 235万円が入ってきます。当時は130試合制
でしたので単純に65試合がホームゲームとすると1億5千万円以上が球場側の収入でした。

セ・リーグ球団は巨人戦が当時はドル箱コンテンツだったので、億単位の放映権料が入ったことで
差はあるものの概ね黒字でしたが、パ・リーグ球団は全て赤字でした。仮に様々な付帯条件を無視
して入場料収入だけで球団を賄っていくと考えると、大体の人件費などの経費は約15億円位なので
年間150万人程度の動員が必要ですが、パ・リーグの球団にとっては夢のまた夢の数字でした。
持ってるだけで赤字の球団を維持できたのは古い話になりますが、戦後の連合国総司令部 GHQの
お蔭でした。昭和29年 GHQ税制改革勧告案でプロ球団の「赤字は親会社の利益で埋めて良し」 と
された事で、パ・リーグ球団は存続できたのでした。

記事では、これからの主要な収入源は入場料よりもテレビ放映料だとして大リーグの様にプロ野球
機構が一括して管理・運営し全球団に均等に分配するシステムに移行していかないとダメだと主張
しています。巨人一極集中が何時の日か破綻する時がやって来るとの予想が、30年後に当たって
しまいました。巨人戦の視聴率は今や1桁が当たり前、巨人戦以外は3%前後で「プロ野球」という
かつてのドル箱コンテンツは、テレビ局の厄介モノに成り下がってしまいました。

よくプロ野球人気は落ちてない 巨人の人気が無くなっただけ、と言う声がありますが大方当たって
いると思います。かつて高視聴率を誇っていたプロ野球はイコール巨人戦でした。ナイター中継は
常に20%を超え巨人が独走し早々と消化試合となってもナイターの数字は落ちませんでした。一方で
巨人が絡まない試合やパ・リーグ中継の視聴率は2~3%でした。伝説となったロッテ vs 近鉄戦
『10.19 in 川崎球場』は例外ですけど・・巨人の人気が無くなったのは間違いありません。そして
巨人以外の人気は落ちていません、今も昔もテレビ視聴率は2~3%と変わりませんから。つまり
巨人ファンが激減した為に、相対的に他球団ファンの割合が増えたという事でしょうか。
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#117 プロ野球 スカウトの死 ②

2010年05月12日 | 1980 年 
決して人気球団とは言えないオリックスでは入団を渋る選手もいましたが、逆にスカウト達の
腕の見せ所でした。1998年、三輪田は入団を拒否する高校生投手の交渉で沖縄にいました。

1998年11月27日、プロ野球のオリックス球団の九州地区担当スカウトマン、三輪田勝利さんが、沖縄・那覇市のビルの
11階から転落して死亡した。警察は三輪田さんの死をビルからの飛び降り自殺と断定した。 以下、地元紙より抜粋

 【三輪田さん 自殺直前の様子】
三輪田さんは、オリックスがドラフト1位指名した、沖縄水産校のA投手との入団交渉のため11月21日、神戸市の自宅から
沖縄入りした。遺族の話によると、死亡前日の夜10時ごろ自宅に電話があったそうで、そのときはいつもと変わりない様子
だったという。入団交渉に三輪田さんに同行していた同僚のスカウトの話によると死亡当日の朝、同僚スカウトと宿泊先の
ホテルで食事をした際も、いつもと変わりない様子だったという。

当日午後5時に入団交渉のための面談が予定されており、その際の手土産は何にしようかと同僚スカウトと話し合った結果
手土産はメロンにしようということになり、同僚スカウトはメロンを買うためホテルを出る際、フロント前で三輪田さんと別れた
という。三輪田さんはホテルのフロント係に 「午後1時頃まで寝るので起こさないでくれ」 と頼んでいたらしいが、その後寝て
いるはずの三輪田さんが、いつの間にかホテルから姿を消していたという。

那覇署の調べでは最上階の11階廊下に三輪田さんの免許証、靴、財布が並べて置かれており住人が午後0時半頃、11階
廊下の手すりをまたごうとしている三輪田さんを2回見かけている。宿泊先ホテルのベットサイドのメモに 「ドラフト制度改革 
逆指名制度はナンセンス」と書かれていたため、ドラフトにおける逆指名制度がナンセンスだと悩んでの自殺と結論づけた。

三輪田はなぜ自殺したのか。真相は結局 明らかにされませんでしたが、2002年に出版された
『名スカウトはなぜ死んだか(六車護著、講談社)』には、今読み返すと生々しい裏金の実態に
ついての記述が出ています。


『オリックスは新垣サイドに対し、上限一億円プラス出来高払いの契約金を提示する腹づもりだった。さらに別途、五百万円を
用意していた。栽監督や後援会に謝礼金の名目で渡すつもりのものだった。この世界ではごくありふれた金額である。(略)
契約金を受け取った選手たちは、その中から世話になった関係者にお礼の気持ちを金銭で表すことになるのが通例である』

『裏交渉には当然、人間が絡む。球団と選手の交渉に割って入る「仲介人」であり、監督がその役を買って出ることもある。(略)
新垣サイドにも仲介人がいた。栽監督とも深い関わりを持つ人物である』

『三輪田と山本(当時スカウト)は福岡から合流した流(敏晴、当時スカウト)とともに交渉の打開策を話し合った。裏金の額である。
感触を勘案すると「裏金三千万円」という線が浮かび上がった。三人は、ひとまずこの額を仲介人に投げることに決めた』

『山本が仲介人と再度の交渉に出掛けて行った昼すぎのことである。仲介人は、今回も山本ひとりでいいと言った。ホテルで待機
する三輪田の部屋の電話が鳴った。傍らには流がいた。「三ちゃん、話がついたよ、すぐ帰るから」山本は言った。「契約金に他に
いろいろ合わせて五千万円」。三輪田は絶句して、のけぞるようにベッドにあお向けに倒れ込んだ』

『三輪田は再び電話を取ると、球団の経理担当に回してほしいと言った。別途金が五千万円なら税込みではいくらになるかを
確かめたかった。経理はそれだけで一億円を用意しなければならないと返答したのでした』



三輪田自身がプロ入り拒否した頃の野球界にも金銭等のやりとりは多少なり有ったと思われますが
逆指名が認められていた当時の方が、金額も多く怪しげな人物が横行していたのでしょう。私自身も
この頃からプロ野球への興味が薄れていきました。プロの評価として「カネ」が指標となる事に頭では
理解できたつもりでしたが、何故かスッキリとしませんでした。FAはアメリカでも活用されていますが
アメリカの場合はルールを守らなかった時は厳罰に処せられますが、日本ではタンパリングの規定が
曖昧で、球団関係者の接触は禁じられていますが、球団の意を受けた記者などの接触は黙認されて
います。ドラフト候補選手への「栄養費」については、全ての球団が少なくとも過去については否定を
していません。人ひとりが自ら命を絶ったという事実を野球界は真剣に考えるべきです。

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#116 Haa-tschi からのお知らせ

2010年05月07日 | 独り言  
 当ブログ "Haa-tschi" へ訪問して下さっている皆様へ


素人の拙い文章にも拘らず、多くの方々にブログを読んで頂き感謝しています。
さてさて、このブログを始めて1年余り 仕事の忙しさを言い訳に更新する頻度は
相変わらず低いままで申し訳ありません。

更新が不定期な為、訪問して頂いても無駄足になってしまう事が多いと思います。
そこで、このブログも本家の週刊ベースボールのように、週イチで曜日を決めて
更新して行こうと思います。

私が生まれ育った東京では週刊ベースボールは毎週火曜日の昼過ぎには駅の
キオスク店頭に並んでいて、学校帰りに買っていました。ちなみに仕事で福岡に
いた事がありましたが確か金曜日発売だった気がします。 毎週水曜日発売が
週刊ベースボールの正式なスケジュールだと思いますので、当ブログもそれに
準じて更新していこうと思いますので今後とも宜しくお願い致します。 管理人より



         と言う訳で、次の更新は5月12日です
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#115 プロ野球 スカウトの死 ①

2010年05月06日 | 1980 年 





あのイチローを見出し、後年は残酷な運命に飲み込まれた三輪田勝利氏についての記事です。
三輪田は早稲田大のエースとして昭和41年夏の早慶戦から、翌42年春の東大戦まで11連勝を
記録するなど活躍しました。当然のようにプロは注目し昭和44年のドラフトで近鉄に1位指名され
ました。三輪田は名古屋の出身で子供の頃から自然に中日ファンになっていました。もしプロへ
行くなら中日と決めていたそうです。



「要するに若かったんです。あまりにも幼かった、その一語に尽きますね」 「当時は事前に何の話し合いも無かった。近鉄が
いきなり私を1位で指名した事に、私が一番驚いた。今みたいにドラフト前に接触していれば、また事情も違っていたでしょうね」



三輪田はプロ入りを拒否し大昭和製紙へ進みました。拒否することには何の後ろめたい思いはなく
スカウトに対しても「申し訳ない」という感情も無かったそうで、後年自分がスカウトする側の人間に
になって初めて当時に思いを馳せたと語っています。ノンプロで腕を磨き昭和45年のドラフトで再び
指名されました(当時はノンプロに入っても1年でプロへ行けました)。中日ではありませんでしたが
阪急の1位指名に、今度は拒否することなくプロ入りしました。



「ノンプロで怪我をして野球の神様に見放されたと思うようになった。でも結果的にそれが良かった。あの怪我で大人になれた、
世の中を見る視野が広がりました。夢と現実を区別できるようになれました」




しかしプロ入り後の成績は芳しくありませんでした。4年間で通算4勝0敗で引退しましたが球団は
三輪田の人柄を評価しスカウト転身を薦めます。その後、2軍コーチにも就任するも本人の希望で
再びスカウトに戻ります。誠実な人柄で多くの選手から信頼を得ます。昔の三輪田と同じく中日への
入団を望むイチローを粘り強く説得し入団にこぎつけるなど、三輪田はスカウトとしての力量を評価
されるようになります。プロ入りに二の足を踏む選手にも誠心誠意 相手の立場になって交渉すれば
こちらの言うことに必ず耳を傾けてくれる、それが彼の信条でした。スカウトという仕事にやり甲斐を
感じていた三輪田に悪夢が忍び寄っていました。 ・・・つづく

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