Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#196 10年目の生き残り

2011年11月30日 | 1981 年 



今年も多くの新人がドラフト指名されプロの世界へ意気揚々と入って来ましたが、2010年に日本野球機構が調査した選手の平均在籍年数は8年半。大多数の選手は6~7年で球界を去っている事が判明しました。30年前も現在と大差なく10年目を迎える事が出来た選手は一握りに限られていました。


今年10年目を迎える選手達がドラフト指名されたのは昭和46年11月19日。この日に指名されたのは114人、そのうち入団したのは82人。他にドラフト外を含めると113人がプロ入りした。「イの一番」のロッテから12番目の近鉄までの1位指名選手は以下の通り。

             ① ロッテ 井上圭一 (投手)      ⑦ ヤクルト 杉山重雄 (投手)
             ② 阪 神 山本和行 (投手)      ⑧ 大 洋  竹内広明 (投手)
             ③ 巨 人 横山忠夫 (投手)      ⑨ 東 映  横山晴久 (投手)
             ④ 広 島 道原博幸 (捕手)      ⑩ 中 日  藤沢哲也 (投手)
             ⑤ 西 鉄 吉田好伸 (投手)      ⑪ 阪 急  渡辺弘基 (投手)
             ⑥ 南 海 野崎恒男 (投手)      ⑫ 近 鉄  佐々木恭介(内野手)



この年の目玉は慶大・松下勝実だったがプロ入り拒否を表明していた為に全球団が指名を見送った。ロッテ指名の井上は三菱自動車川崎のエースだったが当初は拒否の為に難航し入団したのは翌年のシーズン終了後だった。巨人は3位で新宮高・庄司智久、6位で京都大丸・小林繁を指名した。4年目の昭和50年秋にヤクルト1位の杉山が引退。杉山は駒大時代は4年生の時には6完封を含む14完投した東都を代表する左腕だったがヤクルトでは3年間で1勝2敗 防 6.97、移籍した南海では登板する事なく引退した。昭和51年が終了すると東映1位の横山も引退。横山も法大4シーズン連続優勝の立役者で4年生の春・秋ともに6勝した投手だったがプロでは1勝しただけだった。

6年目の昭和52年のシーズンを迎えられたのは113人中62人だけ。それ以降も1位指名の選手達も容赦なく消されていった。巨人・横山は昭和53年にロッテに移籍したが、その年限りで引退。南海・野崎は昭和51年に太平洋へ、昭和54年には近鉄へ移籍したが芽は出なかった。阪急・渡辺も昭和50年に広島へ移籍して昭和54年に引退。中日・藤沢は南海へ移籍後に外野手に転向したが昭和55年に引退した。1位指名選手のうち今も現役なのは阪神・山本、広島・道原、近鉄・佐々木の4人だけである。この4人を含め昭和46年に入団した選手で今でも現役なのは37人。入団時と同じユニフォームを着続けていられるのは27人だけという厳しい現実なのである。

打者の出世頭はロッテ・弘田だろう。3位指名の野手で1年目は二塁手で7試合、三塁手で1試合、遊撃手で10試合に出場したが後半戦から外野手へ転向し2年目には2割9分5厘でベスト10入り、昭和55年9月30日には通算1千本安打を達成。特筆すべきは近鉄で1番・平野、5番・梨田、7番・羽田、8番・佐々木は皆、昭和46年入団組。羽田の通算125本塁打は全同期選手中トップである。

投手ではヤクルト・安田が93勝でトップ。防御率も新人ながら 2.08 、翌年も 2.02 と入団から2年連続でタイトルを手中にしている。安田を追うのは85勝の中日・三沢と83勝の巨人・加藤初。阪神・山本は昨年に初の2桁勝利の15勝をマークするなど追走している。一方で10年間一度も1軍の試合に出場出来ていない選手もいる。大洋・笹川捕手だ。捕手というポジション柄か地味な選手だが逆に言えば良くもクビにならずにいられたもんだと本人も首を傾げているくらいだ。



                
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#195 スポーツジャーナリズム(笑)

2011年11月23日 | 1981 年 



先日、巨人・澤村投手と女子アナの破局記事を書いた週刊誌が発売日当日に2人の結婚が発表されてしまい翌週号で掲載のいきさつを記事にしていましたが、何と当事者に確認せず周辺人物の憶測だけで記事にしたと臆面もなくシレ~と開き直っていましたが昔からスポーツマスコミは御手盛りで記事を書いていたようです。

名物デスクの鬼塚が生あくびを噛み殺しているうちに梅雨がやって来た。鬼塚は6月12.13.14日と3日間連続で巨人戦が中止になって、あたふたした時を思い起こしてデスク連中を招集し梅雨時対策会議を催した。巨人戦さえ中止にならなければ、とりあえず1面には困らない。「巨人ネタ以外を探して来い」鬼塚チーフの号令の下、各デスクが持ち回りで責任者となり紙面作りを命じられた。

「長嶋モノ」「田淵モノ」「熱パの現ナマ作戦の実態」「早くもストーブリーグ情報」 …等々。それぞれ担当者には得意分野があるがその多くは他社が書く内容と大差ない。例えば長嶋ネタでは「大洋入りが濃厚」とウチが書けば、日刊スポーツは「大洋は長嶋盗り断念」スポニチは「西武来季の監督候補に」「広岡か長嶋か堤オーナーが決断」と、いずれも決定打を欠く推測記事のオンパレード。結局は長嶋を絡めた巨人ネタに頼らざるを得ないのがプロ野球界の現状なのだ。

同じ長嶋ネタでも独自性を出そうと新聞休刊日の担当が回ってきたデスクが部下を長嶋邸へ向かわせた。宅配は無くても駅売り用の記事は必要なのだ。6月14日の阪神戦の後楽園球場に長嶋がやって来る。当日は朝から小雨模様だったが前日までの2試合を雨で流しているだけに少々の雨なら強行するはずとデスクはみていた。「この程度の雨で中止したら人工芝が泣くぜ、ミスターを見たさにファンも詰め駆けるだろうし絶対にやる」と鬼塚チーフデスクも思っていたが試合は中止に。「御前試合」で1面は決まっているのだが「長嶋ガッカリ」ではつまらない。帰社した記者たちを交えてさっそく鳩首会議で鬼塚チーフが開口一番、「巨人が長嶋から逃げる」でどうかと。「いつもは4時頃に中止を決定するけど今日は4時半でしたから『逃げる』はどうですかね」「じゃあ腰痛の原は今季絶望」で行くかと。「原は雨の影響か軽めでしたけど普通に練習してましたよ」と記者。結局「ミスターに逃げ腰で中止」と中途半端な1面に。

他社の見出しに「江川、謀略敗戦」の文字が踊ったのは同じ新聞休刊日だった。雨天中止翌日の1面作りに苦労しているのはどこも一緒。今は解説者だが強烈な長嶋親派の巨人OBが江川の癖を逐一、広島・古葉監督へ報告したせいで16日の江川は広島打線の餌食になったというのだ。事の真偽はともかく、この記事の衝撃度は強く当該解説者の特定に走る社が相次ぐ事態に。

長嶋ネタには長男・一茂君も含まれる。一茂君は今春立教高校へ進学したばかりの1年生だが、身長1㍍82㌢・体重72㌔の躯体に首筋が太くナデ肩なところは父親そっくり。そんな彼が野球部に入ったとの情報にさっそく記者が取材をしようとしたが、「取材はNGでした。一茂君はまだ補欠の補欠だからと写真も撮らせてくれません」「それで黙って帰って来たのか?」「一応写真だけは隠し撮りしてきましたよ、500㍉の望遠レンズで」「実にイイ顔をしていますよ、タレントにしてもいけるくらい。でもコレを使ったら後が怖いですよ。一茂君が荒木大ちゃんみたいになっても立教高校から取材拒否されるかも」 せっかくの特ダネ写真も今回はお蔵入りだ。

「写真は使えなくても記事は書けるだろ。記事になりそうな話を聞いて来なかったのか?」「同級生の話では一茂君は投手をやりたいみたいで。打者ではとても父親を越えられそうにないから」だそうです。「それ面白いじゃないか、『長嶋Jr投手で甲子園を目指す』で行けるだろ」「イヤイヤ、本人のコメントも取ってないし単なる同級生の話ですよ」「同級生だろうが周辺関係者に間違いないし全部が推測って訳じゃないんだから大丈夫だろ」



前々から「事情通」とか「球団関係者」の存在は怪しいと思っていましたが、やはりと言う事ですかね。
「●●選手をトレード放出」などの飛ばし記事にスポーツ紙が、訂正&謝罪のコメントやらを出したのを
見た事は無いです。間違った情報を発信した場合は即座に自らの非を認めるのがジャーナリズムとして
あるべき姿勢だと思いますが、スポーツ紙の記事は一般紙とは別モノで「話し半分」として楽しめば良く
目くじらを立てる方が間違っていると言う事でしょうかね。
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#194 毎度お馴染み・阪神お家騒動 ④

2011年11月16日 | 1981 年 
グラビアで取り上げられている選手以外にもこの頃の阪神には投打に良い選手が揃っていたのに1985年
まで優勝出来なかったのが不思議です。やはり監督の采配が原因でしょうか?



年齢差、右・左打ち、大卒・高卒などON砲を彷彿させましたが怪我もあって両者揃い踏みは短かった




格好良すぎです。東京にいて阪神移籍後の様子は分かりませんけど関西でも人気は凄かったのでしょうね




もちろん打者として一流でしたが監督解任時の往生際の悪さが印象に残っています



外様の真弓でさえ監督になれたのに掛布にはコーチの声すらかからないのには何か根深い遺恨でも?




沢田亜矢子の娘が余りにも似ていて笑っちゃいましたが、誰が見てもバレバレですね



中日・斉藤投手に受けた手首への死球が野球人生の分岐点だったでしょうか



フランス国籍の選手もいた気もするが勘違いか?
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#193 毎度お馴染み・阪神お家騒動 ③

2011年11月09日 | 1981 年 



あの大騒ぎは何だったのだろうか。連敗中のシラけた顔が嘘のような明るさが漂ったのは4月27日の甲子園での練習からだった。あちらこちらで冗談が飛び交い笑い声が絶えない。連敗中はムスッとした表情で報道陣を避けていた中西監督もバッティング投手を務めるなど元気いっぱいで自ら記者達の輪に割って入るなど態度が一変した。

休養説がピークに達したのは4月22日だった。その前日まで5連敗「打てんから勝てんわい」 「対策?そんな事をアンタら(報道陣)に言う必要ないやろ」と中西監督。その夜チームは名古屋にいた。そこにナゴヤ球場に小津社長がやって来るとの一報が入った・・さぁトラ番記者が色めき立った。負けが込んでから各社の担当記者は試合展開などはそっちのけで監督の去就が最大の関心事になっていた。早朝7時頃には中西監督の自宅マンションに顔を揃え試合後に帰宅するまで張り付いていた。村山・金田・吉田・後藤・ブレイザーとここ10年間で5人もの監督の首を挿げ代えてきた阪神。平均在籍2年の短命政権の繰り返し、不振打開には監督を代えるしか術がない球団がまたも同じ過ちをしようとしている。

4月22日に遠征先の名古屋に合流した小津社長の消息が掴めず大騒ぎとなったが翌23日に突然選手宿舎に小津社長が姿を現した。「選手を集めて社長が訓示します。その後に社長が記者会見をします」室山広報担当の発表に「ついに辞任か!?」と記者たちは電話に飛びついた。 固唾を呑んで待ち構える報道陣を前に小津社長は「いやぁ、みんな心を新たに一球の大事さを噛み締めて頑張ってくれと激励をしただけだよ」と言いに来ただけと。拍子抜けの記者たちはなおも食い下がったが「君達は先走り過ぎ」「長いペナントレースにはこういう事(連敗)はよくある。ジッとしていれば流れは自然と変わるものよ」 と小津社長は記者たちの追求をかわした。

この会見で一応、中西監督の去就は続投で決着しましたがチームの連敗は止まらず結局8連敗しました。4月26日のヤクルト戦で「山本和→江本→小林」という "明日なき継投" の禁じ手を使ってようやく連敗を止めました。そして翌27日の様子が冒頭の甲子園での練習風景。去就問題が決着した事で中西監督はノビノビと振る舞い、選手にもそれが伝わり疑心暗鬼を捨てて一致団結へと動き出したという図式である。

しかしフロントがもっと早い段階で動いていれば無用な混乱は避けられたはず。中西監督辞任説が流れてしばらくの間フロントは見て見ぬふりをしていた。ギリギリの場に追い込まれる迄沈黙を続け肯定も否定もしない。黙っているからマスコミは増々書き立て選手も疑心暗鬼になりチームの足並みは乱れる。「中西体制で行くなら行くと早く言えばそれでこの話は終わったのに。今回の混乱の責任はフロントにありますよ、この球団はちっとも変わってない」と阪神OBは嘆く。しかしマスコミは今回の火種は完全には消えてないと見ている。「フロントが監督交代を考えていたのは間違いない。ただ今回は後任のなり手がいなかっただけ今の泥船状態のチームを引き受けてくれる人はいません。秋には必ず再燃します」が大方の意見だ。
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#192 毎度お馴染み・阪神お家騒動 ②

2011年11月02日 | 1981 年 
阪神の監督交代時のドタバタは球団創設時代には既に巻き起こっていた由緒正しき伝統であって
任期満了を待たずにシーズン途中に監督交代する事も多々有りました。



【創設直後:森→石本】 初代監督から短命だった。チーム創設に伴い誰を監督に据えるかで本社幹部間で二転三転。最後に白羽の
矢が立ったのが松山商業を率いて全国制覇を果たした森茂雄。7月のトーナメント大会で初優勝を果たしたが同業の商売敵の阪急に
勝てないという理由で元広陵高・石本秀一を総監督に招くと本社側が突然の発表。寝耳に水の森監督は退団に追い込まれた。


【昭和30年:岸→藤村】 昭和25年の2リーグ分裂で痛手を受けた翌年に阪神再建のために復帰した松木謙治郎が監督を退く事に。
後任には藤村冨美男が昇格するものと誰もが思っていたが、球団はそれまでプロ野球界とは無縁の岸一郎を就任させた。 満鉄の
エースだったと言っても知る人も少なく求心力も無くチームの統制が取れずベンチ内は四分五裂。開幕して1ヶ月半の5月21日には
辞任し藤村が昇格し代理監督に。岸監督の成績は16勝17敗だった。


【昭和36年:金田→藤本】 昭和31・32年が藤村、33・34年が田中義雄の後に就任したのが金田正泰。1年目こそ善戦したものの
昭和36年は開幕から低迷し6月5日時点で13勝24敗2分の最下位。東京への遠征先の宿舎でヘッドコーチの藤本定義に電撃交代


【昭和41年:杉下→藤本】 昭和36年6月に就任以降の藤本は2度のリーグ優勝をするなど安泰だったが投手コーチだった杉下茂に
監督の座を禅譲し自らは背広の総監督としてバックアップするとして身を引いた。だが杉下は専門の投手起用で失敗が続きトップの
巨人に15ゲームも離された8月に辞意を表明し、8月13日から再び藤本が指揮をとった。


【昭和47年:村山→金田】 監督交代でゴタゴタが多い阪神でも特異なケース。藤本は昭和43年で退団、44年は後藤次男、45年から村山実。開幕して8試合・2勝6敗となったところで村山は指揮権返上を申し出た。監督は村山のままで実質的な指揮は金田がとるという変則スタイルを確立。一時は首位に立って話題を呼んだが当然のように村山と金田の対立が表面化し優勝を逃した。閉幕すると村山は現役引退を表明し同時に監督も辞し退団した。後任監督には金田正泰が昇格した。

【昭和55年:ブレイザー→中西】 記憶に新しい去年のゴタゴタ。岡田の起用方法とヒルトンの処遇を巡りファンが反発、ファンの声を無視できなくなった球団が現場の采配に介入、更にブレイザーの要望に反する新外人獲得を進めた事で両者の対立は決定的になりブレイザーは辞任。後任には中西ヘッドコーチが昇格。


後に中西監督も江本投手の「ベンチがアホ…」発言もあって球団を去る事になります。その後も村山、中村勝広、藤田平がシーズン途中で辞任に追い込まれるなど、伝統は脈々と受け継がれました。
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