Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 746 パ・リーグ前期 ②

2022年06月29日 | 1977 年 



MVPにピタリの選手がいないための混戦か
今年の3月に " パ・リーグ振興委員会 " を発足させ、何とかセ・リーグに負けないだけの人気を得ようとする意気込みは良いが具体的な案が浮かばず苦労している。前述の『パ・リーグ新聞』発行は面白いが実際に駅構内の販売所から他の日刊紙を締め出すことはほぼほぼ無理な話だ。リーグ全体を盛り上げる連盟歌もセ・リーグにはあるがパ・リーグにはない。来季までに歌を作ることになってはいるが、立ち遅れの感は否めない。そこでパ・リーグ独自に前後期ごとにMVPを選出して話題を提供しようとしたが、毎月発表されるセ・リーグの月間MVPの二番煎じと揶揄される始末である。

それはさておき、前期の最優秀選手の選出はパ・リーグ担当記者に依頼することになっているが、上位3チーム混戦の時点でそれぞれの担当記者に聞いてみた。D紙の阪急担当記者は「通常は1年間のシーズンが終わってから両リーグのMVPが選出されるのに前期だけで選べと言われても難しい。短期間で突出した活躍をした選手はおらず、安定した投球内容だった山田投手くらいしか思い浮かばない。その山田にしても大車輪の活躍をしたわけではないからね。敢えて対抗馬を挙げるならシーズン前の予想より打率が良かった島谷選手かな。中日との交換トレードで入団したが当初は稲葉投手の方の期待が大きく島谷はオマケみたいな感じだったから余計に活躍したイメージが強い」

またH紙の南海担当記者になると更に苦しい。「60試合を過ぎた時点で未だ優勝が決まらない情勢だからこそ、優勝が決定した試合のヒーローがMVPでよいのではないか。それくらい南海の場合は優勝の功績を1人に決めるのは難しい。候補としては野村、藤原、門田、佐藤あたりかな。順当なら野村になるけど野村の場合は選手として四割、監督としてが四割、残りの二割は怪我と戦いながらよく頑張ったご褒美。それくらい傑出した選手はいないのが現状だね」

S紙の近鉄担当記者は「近鉄の逆転優勝はまず難しいだろうから取越し苦労に終わるだろうが」と前置きしながら「石渡、羽田、西村、鈴木、井本という名札を並べて1枚選べと言われたら貴方はどうする?と逆に聞きたいですよ。選べますかって。出場メンバーからオーダーまで毎試合変わって勝ったり負けたり。MVPなんて選べませんよ。皆で山分けするのが妥当です。それでも私が敢えて選ぶなら西本監督かな。でも選手じゃないからダメだと言われたら白票を投じるしかない」

MVP選出を惑わす空前の大混戦と言えば聞こえは良いが、「果たしてそんな大袈裟な表現を使うほどの大混戦ですかね。単にMVP に相応しい働きをした選手が見当たらないが為の混戦と言う方が正しいのではないですか(某担当記者)」といった皮肉な見方も少なくない。中には「何も優勝チームから選ぶ必要はないのではないか。前半戦のパ・リーグを盛り上げたという意味ではロッテのリー選手がMVPに相応しいのではないか」といった声もある。


年俸最低組が大暴れして招いた混戦
それにしても予想外の混戦の中でパ・リーグの前期シーズンを「日銭ラッシュの戦い」と呼ぶ人がいる。毎試合ごとにベンチ内で現金が飛び交ったというのだ。" 銭はグラウンドに落ちている " はかつて南海の監督だった鶴岡一人氏の名言だが、鶴岡氏の言葉はレギュラー争いをする選手らにハッパをかけたものだが今回の「日銭」は少し意味合いが違う。一軍最低保障年俸が昨年までの240万円から360万円にアップされた。薄給の選手が一軍の試合に出れば1試合につき投手なら4万円、野手は2万円が給料に追加されていく。給料の安い選手が多いチームは選手同士が切磋琢磨することでチーム力が上昇し、パ・リーグの混戦に拍車をかけた。

前期シーズンの終盤に上位チーム相手に大暴れした日ハムのベンチ入りしていた選手の約半数が「日銭組」だった。江田投手・240万円、宇田投手・320万円、谷山投手・240万円、宮本好投手・200万円、村井選手・340万円、菅野選手・260万円、行沢選手・220万円、島田選手・240万円、新屋選手・200万円(いずれも推定)といった具合。大沢監督に「オイ、お前いけ!」と代打に指名された時点で2万円が手に入るうえに結果を出せば監督賞もイタダケルかもしれないので選手の気合の入れようは半端ない。

若さが売り物の近鉄の快進撃も日銭と無縁ではない。レギュラー陣の年俸を合わせると阪急や南海は1億円を超すが、近鉄の場合は5千万円程度。「220万円ではとても子供を育てていけない。パチンコで1000円をスッても生活に堪えますからね。バリバリ投げますよ」とテスト生から一軍に上がった佐藤文投手は懸命に投げまくった。他にも陽田投手・190万円、吹石選手・250万円、平野選手・300万円など一軍最低保障に届いていない選手らは試合で結果を残すことに必死だった。一方で上限の360万円に達した選手が続出した途端に快進撃がストップしてしまう弊害もあった。4月29日から首位に立った近鉄が阪急に抜かれた5月末がちょうどその時期だった。

早くも関心は後期シーズンに移っている。注目はロッテだろう。前期は早々と優勝争いから脱落し、カネやんは評論家の鶴岡一人氏に「お前さんのところが暴れないとパ・リーグは盛り上がらない。しっかりせいよ」とハッパをかけられ恐縮していたが、ロッテが優勝戦線に加わったら前期以上の混戦は間違いない。阪急が前期優勝を達成したら後期は無理をせず安全運転に終始するであろう。「何も手を抜く気はないが、やっと優勝をした後に選手の尻を叩いても効果はどうか。無理はさせたくない」と上田監督。故障者が少なく若手が多い近鉄や終盤に暴れた日ハムも侮れない。「後期も大混戦で年間600万人動員も間違いない」とパ・リーグ事務局はウハウハだ。
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# 745 パ・リーグ前期 ①

2022年06月22日 | 1977 年 



パ・リーグはいよいよ前期の終幕を迎える。しかしこれがメデタク大団円というわけには、なかなかいかないようで大混戦の優勝争いに絡んでリーグの内と外はテンヤワンヤなのである。

後期開幕日まで優勝決定せずの場合も
梅雨がこれほどイライラするものか、上田監督(阪急)もパ・リーグ事務局の関係者も今年ほどイヤというほど思い知らされたことはあるまい。前期優勝へ秒読みの段階に入った阪急だったが、雨また雨でマジック「7」がなかなか減らない。九州での対クラウン2連戦が雨で流れ、上京しロッテ戦も雨天中止。5日間も試合から遠ざかるという事態に。6月5日に30勝一番乗りをしたのに2週間も白星から見放された。ただでさえ気が短い上田監督のイライラ度は増すばかりで更に故障者も続出する始末に爆発寸前だ。打撃練習中の河村選手の打球を左目に受けたマルカーノ選手に対して上田監督は怒りを通り越して天を仰いだ。

「不注意や。気の緩みや情けない。末次の件(打撃練習中の打球が目を直撃して負傷)があったから注意するように言っていたのに…」と上田監督。この日に予定されていた西京極球場でのロッテ戦が中止になり、マルカーノは雨天中止が続き鈍った体をほぐす為にランニングをしようと外野に向かう途中に災難に遭った。また上田監督以上にイライラしているのが雨で中止になった日程の遣り繰りに頭を悩ましているパ・リーグ事務局だ。6月29日に前期シーズンを終了し、7月1日から後期シーズンをスタートすることは決まっているが今のままでは6月中に前期終了を見込めず、前期優勝チームが決まらないまま後期シーズンに突入する可能性もあった。

阪急はロッテに敗れマジックナンバー「6」のまま。2位の近鉄が負けなければ阪急は残り5試合を全勝しても胴上げは雨天中止で順延となり未だ日程が決まっていないクラウン2連戦までお預け。そんな切羽詰まった日程で今後も雨が続けばとても6月中に前期シーズンは終わらず、最悪の場合は後期シーズンの開幕を伸ばすより他ない。そうした心配が現実味を帯び始めた6月19日、阪急が14日ぶりの白星、そして近鉄も敗れてマジック「4」となりどうにか目鼻がついてパ・リーグ事務局も一息ついた。しかし安心はできない。天候もだが阪急は苦手としている日ハム戦を2試合残しており「日程なんか知るか。ウチは負けねぇよ」と大沢監督は優勝戦線を掻き回す気マンマンだ。


名案・珍案続出の客集め狂騒曲の実態
「夏物大売り出しと上手くかち合わないと困るんです」と話す阪急百貨店関係者。何しろ阪急が優勝する度に開催される大阪と東京の阪急百貨店の謝恩バーゲンセールは既に恒例行事だ。阪急百貨店の売り上げは阪急の快進撃と共にウナギ昇りで在阪の百貨店の決算報告ではトップの純益を計上している。一方で「ウチだって毎試合に球団に懸賞金を出しているのだから勝ってくれないと困る」と話すのは近鉄百貨店関係者。それぞれ阪急・近鉄線のターミナル駅に百貨店を出店しており、球団の勝敗は百貨店の売り上げに直接影響してくる。優勝すると3億円も売り上げが伸びるだけに自球団の勝ち負けは大問題だ。

4月最初の日曜日に西宮球場に4万2千人、10日の後楽園球場に4万8千人、5月1日の大阪球場は3万2千人の札止めと昨季1試合平均8千6百人だった観客動員数が今季は何と1万3千人と51%増だ。パ・リーグ在阪3球団は共同で『パ・リーグ新聞』を発行して、阪急・近鉄・南海の各線のターミナル駅で既存のスポーツ新聞の販売を止めて代わりに『パ・リーグ新聞』を販売してパ・リーグ人気の押し上げに尽力している。一方で「各球団が入場料の割引きをしたり景品を配ったり営業担当者は頑張っているが、一種のダンピング商法なんだよね。これで球団が安心してしまい現場で不評な2シーズン制が続いたら痛し痒しだ」と苦渋の某監督。

それにしても最近のパ・リーグ球団の人気取り策は積極的で東では日ハムがチビッ子ファンクラブを中心に集客し、西の在阪3球団は子供会のメンバーに3球団共通の割引き入場券を配ったりしている。各球団が迷案・珍案を取り混ぜてファン拡大に必死である。中には「阪神が落ち目の今こそ何らかの方策で注目を集めて甲子園に行くファンを西宮球場や日生球場に足を運んでもらえるチャンス(某在阪球団フロント)」と少々他力本願的な思いも。そんな各球団フロント陣の狂騒曲に包まれながら前期シーズン終盤の大混戦の中、各チームの監督や選手は「それどころではないよ」と渋面を続けるばかりなのが皮肉である。
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# 744 極狭球場 Part 2

2022年06月15日 | 1977 年 



本塁打が乱舞する今年のセ・リーグで開幕から38イニングも被本塁打がなかった江本投手(阪神)だったが、4月29日の大洋戦で遂に2本塁打を浴びると試合後「セ・リーグはこんな狭い球場でやっているから野球が上手くならないんだ」と吐き捨てた。

" 日本製 " 本塁打はアメリカでは?
川崎球場は両翼まで88.4 m しかないうえに膨らみがないので右左中間まで103.6 m しかない。これが阪神の本拠地・甲子園球場だと同 91m・118m もあるのだから川崎球場が狭く感じるのも無理はない。あれほど公平に作られている野球規則なのに唯一の、そして最大の例外として球場の広さに関する規定は曖昧のままだ。野球規則【1-04】には「本塁よりフェアグラウンドにあるフェンス、或いはスタンドまたはプレーの妨げになる施設までの距離は 250 ft (76.2m) 以上を必要とするが、両翼は320 ft (97.5m) 以上、中堅は 400 ft (121.9m) 以上あることを理想とする」としか記されておらず、あくまでも " 理想 " なのだ。

しかも付記として
【a】1958年6月1日以降に建造される球場は両翼まで 325 ft (99.1m) ・中堅は 400 ft 【b】1958年6月1日以降に球場を改造する場合には両翼・中堅までの距離を前述の距離以下にすることは出来ない、と明記してある。それなのに1962年6月に完成した東京スタジアムは両翼まで90mしかなかった。規則違反が堂々とまかり通るのが日本のプロ野球界だ。東京スタジアムがお手本としたのはSF・ジャイアンツが本拠地としているキャンドルスティックパークで両翼102.1m と東京スタジアムより10m以上も長い。しかしこれがアメリカの球場の標準である。両翼が一番短い球場でもBAL・オリオールズのメモリアルパークスタジアムの94.2mだ。

さらにフェンスの高さにも日米で差がある。日本では一部を除いてせいぜい高さ2mくらいだがアメリカでは3m を超す球場も珍しくない。C・カブスの本拠地・リグレーフィールドは両翼108.2m に加えてフェンスの高さは4.6mだ。これがB・レッドソックスのフェンウェイパークだと左翼フェンスは11.3mにもなる。これだけ日米で差があると日本の球場で放った本塁打の何本がアメリカで柵越えになるのか興味がある。現在パ・リーグのホームランダービートップのリー選手(ロッテ)に記者団から「これまでの本塁打でアメリカの球場でも本塁打になるのは何本か?」と意地の悪い質問が飛んだがリー選手は答えなかった。確実に何本かは外野飛球程度だったようだ。


" 大阪球場ホームラン " のその後
球場の広さが本塁打数に大きな影響を与える例として大阪球場がある。改装前の大阪球場の両翼は84mだった。南海の野村選手と本塁打王を争ったスペンサー選手(阪急)は「ノムラは狭い球場を本拠地にしているからラッキーボーイだ」としばしば皮肉を言っていた。その大阪球場が昭和47年の開幕前に拡張された。親会社の南海電鉄・難波駅改修工事に伴い大阪球場の左翼スタンドをプラットホーム上に移動させる必要があり、左翼フェンスを後方に7.62mずらし、ポール際に高さ5.5mのフェンスを設けることになった。これにより " 大阪球場ホームラン " と揶揄されていた短距離本塁打は姿を消すこととなった。

前年の昭和46年には65試合で166本(1試合平均 2.6本)だったのが110本に減少した。その後も大阪球場の本塁打数は年々少なくなっている。昭和48年・81本、49年・98本、50年・70本(各65試合)、51年は61試合で61本。これは1試合平均1本となり改修前の半減になった。野村選手の本塁打数が改修後に35本➡28本➡12本➡28本➡10本と減っていったのも年齢による衰えもあろうが、球場が広くなったのも要因として大きいのではないか。だが野村本人は「打者野村にはマイナス要因だが、捕手野村にとっては球場が広くなったのはプラスの方が大きい」と。確かに改修前後の被本塁打数は179本➡116本、チーム防御率も4.27➡3.48と改善した。


多産型川崎球場の本塁打収支決算
それでは最も本塁打が出やすい球場はどこなのか?それは江本投手が初被弾された川崎球場である。昨年は1試合平均3.4本。今年も現在まで3.1本と本拠地球場第1位である。川崎球場で本塁打が出ない試合は少ない。今季これまで21試合が消化されたが本塁打ゼロだったのは4月15日の大洋中日戦と5月16日のロッテ近鉄戦の2試合だけである。逆に1試合に6本塁打が飛び交ったゲームが4試合もある。極めつけは4月5日から7日までの大洋巨人3連戦で、両軍合わせて何と16本塁打だった。

そんなことから大洋の選手に本塁打が多いのも頷ける。5月31日現在、セ・リーグのホームランダービートップは18本塁打で田代選手(大洋)とブリーデン選手(阪神)が並んでいる。川崎球場で7本塁打の田代に対しブリーデンは2本。甲子園球場では6本塁打のブリーデンに対し田代は0本だ。チーム本塁打も大洋は76本で近鉄やクラウンの37本の2倍以上。「阪神が200発打線ならウチは250発打線だ」と別当監督が豪語する程である。今のペースを保てば250発は無理でも200発を超えるのは難しくない。ただし大洋の本塁打量産を本拠地球場の狭さだけに結びつけるのは失礼なのかもしれない。

大洋は川崎球場で消化した19試合で32本塁打(1試合平均1.7本)だが、他球場でも25試合で44本塁打(同1.8本)と遜色ない。今季セ・リーグの本拠地球場で一番本塁打生産率が低い甲子園球場でも大洋は6本塁打している。神宮球場では4試合を消化して11本塁打。対戦相手のヤクルトは5本しか打っていないのだから大洋打線は場所を問わず猛打を発揮していると言える。福嶋選手のように本拠地の川崎球場では僅か2本なのに他球場では9本を放っている選手もいる。またヤクルトの大杉選手や広島のギャレット選手のような他球団の主力選手でも川崎球場で1本も打っていない選手もいる。選手によって球場に対する相性の良し悪しがあるのであろう。

他球団の選手にとっては川崎球場が本塁打の稼ぎ場所になっているのは否定できない。巨人などは6試合で14本塁打である。王選手が4本打っているのを筆頭に張本選手は8本塁打中3本。柴田選手も6本塁打中2本を川崎球場で稼いでいる。大洋では松原選手が11本塁打中4本、シピン選手が10本塁打中4本、山下大選手が9本塁打中6本を川崎球場で打っている。川崎球場での大洋の収支は32本塁打を打っているのに対して相手球団に33本塁打を許しており赤字決算である。いくら自軍が打っても相手にそれ以上打たれていたのでは地の利を生かしているとは言えない。



#136 本塁打が乱舞する極狭球場 - Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

最近は「飛ぶボール」の影響なのか、本塁打が量産され大安売り状態です。東京ドームが「ドームラン」と揶揄されて叩かれていますが東京ドームが誕生し...

#136 本塁打が乱舞する極狭球場 - Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

 
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# 743 マムシ

2022年06月08日 | 1977 年 



通称マムシこと柳田真宏選手の猛威が今、セ・リーグを席巻している。マムシに睨まれたカエルのように相手投手は怯え、潰えていく。巨人快進撃はこの堂々の五番打者の大活躍あってこそ。かくて5月MVP獲得、むべなるかな…である。

長嶋監督を狂喜させたマムシの効能
長嶋監督はこのところすこぶるご機嫌だそうである。貯金12で2位阪神を4.5ゲーム引き離し独走態勢だけに笑いも止まらないだろう。その長嶋監督が「柴田・高田・柳田の3人の働きが無かったら今のウチはもっと厳しい状態だっただろう」と貢献度が高いと言い、特に「中でも5月の柳田は攻守ともにナンバーワン」と手放しで褒め上げた。73打数34安打・打率.466・7本塁打と猛威を振るい月間MVPを受賞したことで明らか。1試合3安打以上の猛打賞が25試合中6試合もあった。まさにバットを振ればヒットになる感じだった。周囲は柳田のことを恐怖の仕掛人と呼んだが柳田の一振りで勝った試合を見てみよう。

5月21日の対広島戦、1対1で迎えた6回裏に高橋里投手から決勝本塁打。26日の対ヤクルト戦では先発・松岡投手の出鼻をくじく先制本塁打。27日の対阪神戦でも決勝本塁打。そして31日の対中日戦では5回裏に佐藤投手から同点本塁打など勝負どころで勝敗を左右する貴重な一発を放った。ところで当の柳田本人は5月の働きぶりについて「90点」と自己採点している。" 百点満点 " という答えを予想していたが「あまり欲張って点をつけてもね。でもプロ入り最高の年になりそうです」と表情を崩した。そして「自分としては5月に打ったどの一発よりも4月6日に打った満塁ホームランの印象が強いです」と話す。4月6日の対大洋戦の3回裏、2対2の同点の場面で飛び出した今季初本塁打だった。

二軍時代に首位打者になったことはあるが一軍で初めての表彰が5月の月間MVPだった。「月間MVPは1人ずつ貰ったとしても年間で7人だけ。その7人のうちに選ばれたのはこの上ない名誉だし喜ばしいことだと思います(柳田)」と喜びを表す一方で「でもこうして賞を頂けるのは試合に出場できるから。今のウチでは外野のポジション争いは熾烈で、よほど運が良くなければ試合に出られない。末さん(末次選手)が怪我をして空いたポジションに自分がいるのは複雑です」とシンミリと話す。打撃練習中に柳田が放った打球が末次の目を直撃して大怪我を負わせてしまった自分を責めているのだ。


マムシに魂入れた恩師・八浪氏のビンタ
柳田真宏・29歳。今でこそ華々しく脚光を浴びているがプロ入り11年目を数えるのだから、プロ野球の世界では遅咲きの部類に入ろう。小学生の頃から野球好きで中学(熊本市立白川中学校)に入ると1年生で四番を打ち、高校(九州学院)に進学後も1年生の新人戦の初戦で五番、2戦目が三番、3戦目には四番を打ち、高校を卒業するまで四番を任された。柳田の打棒は熊本県下では有名だった。残念ながら甲子園大会には出場できず中央球界では知られた存在ではなかったが、熊本出身で当時巨人軍の監督だった川上哲治氏が柳田を視察しにわざわざ熊本まで出向いたほどだ。

高校時代の柳田にとって忘れられない存在だったのが九州学院野球部監督の八浪知行氏(現熊本工業監督)だ。" ビンタの八浪 " で有名だが柳田もその洗礼を浴びた一人だ。高校の入学式前からクリーンアップを打たせただけに柳田に対する教えは想像を絶するものがあったという。「八浪さんから常々言われたことはプロ野球の世界に入るのはそう難しいものではない。だが成功するのは難しい。『だから一生懸命にやれ!』だった。お前はプロでも中軸を打てる力はあるとも言われました。自分自身も将来はプロでやりたいと思っていましたが、八浪さんの言葉はピンと来ませんでした(柳田)」と。その言葉の意味が分かったのは高校2年生の時だった。

昭和39年6月4日に父親・善次郎を亡くした柳田は練習にも身が入らず落ち込んでいた。「クヨクヨしても仕方ないので練習に参加したけど投げやりな態度でした。練習後に監督に呼ばれて部室に入ったら、いきなり平手が飛んできた。何発殴られたのか自分では分からなかったが、同級生によると30発くらいだったそうです。監督が泣きながら殴っていたのは憶えています」と柳田は懐古する。八浪氏とすればこのままでは柳田はダメになると考え、心を鬼にしての愛のムチだったのではないか。その日から柳田の野球に対する取り組み方は変わったという。「何が何でもプロに入って成功するんだという気持ちが強くなった。今あるのは八浪さんのお蔭です(柳田)」

昭和42年に西鉄入り。プロ9打席目の東映戦で現在は巨人で同僚の高橋良昌投手から初安打が本塁打の快挙。だがプロ2年目のオフに若生忠男投手と共に巨人へトレード移籍。希望を胸に上京するが当時の巨人は長嶋、王をはじめ森、国松、柴田、土井など競争相手がひしめき、レギュラーポジション獲得は至難の業だった。しかし柳田は「巨人の本当のレギュラーは長嶋さん王さんの2人だけ。あとのポジションは努力次第で何とかなるのでは」と自分に言い聞かせた。だが現実はそう甘くはなかった。移籍2年目のキャンプで椎間板ヘルニアを発症し5ヶ月間の療養を余儀なくされた。しかしこんな時こそマムシ魂に火がついた。


五番の重みを監督の恩情で跳ね返して
開幕前に五番候補の末次が怪我に倒れ、代わりに入った柳田は開幕直後こそ好調だったが徐々に重責に圧し潰された。巷間よく言われる " 五番打者の重み " 。以前はONの後ろ、今はOHの後ろを打つ五番打者の重圧は計り知れない。4割近くあった打率が2割3分台にまで急降下した。心身ともに打ちひしがれていた時に手を差し伸べてくれたのが長嶋監督だった。5月6日に多摩川グラウンドに呼ばれ「ヤナ、俺が打撃投手をやるから打ってみろ。スピードはないけどコントロールは良いぞ(笑)」と長嶋監督は投げ始めた。時間にして1時間半、「30分もすると打つのが辛くなって後は無心で打ち続けてフラフラになった(柳田)」

翌日の試合はスタメンから外された。「あぁ俺もここまでか…と思ったんですけど、外されたのは1試合だけでまた五番に復帰できた。嬉しかったですね(柳田)」と。あとはガムシャラだった。今まで脇役だった男がようやく主役の座を掴みかけた。かくてマムシの執念みたいなものが5月の月間MVP獲得に結びついたと言えよう。言い忘れたが「マムシ」のニックネームは熱狂的な巨人ファンの毒蝮三太夫に柳田が似ているという理由で付けられたのだが、鋭い眼光で相手を睨み必殺の一撃を相手に叩きつける様は今となっては他人から借りたニックネームとは思えないほど柳田にピッタリだ。まだまだこれからも恐怖の五番打者・マムシの大暴れは続きそうだ。
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# 742 記録の意外史 ③

2022年06月01日 | 1977 年 



3年1ヶ月で100勝
立教大学から南海入りした杉浦忠投手は新人ながら昭和33年の開幕戦に先発投手として起用され、同じく開幕戦に出場し金田投手(国鉄)に4打席連続三振を喫しプロの厳しさを味わった立教大学の同級生・長嶋選手とは対照的に見事に勝利投手になった。プロ初登板・初勝利を皮切りに6連勝し、結局27勝12敗でシーズンを終了し満票で新人王に選ばれた。杉浦にとって2年目のジンクスは無縁で前年と同じく開幕6連勝した後も勝ち星を重ね、38勝4敗・防御率 1.40 で最多勝・防御率1位に輝いた。勝率9割5厘はパ・リーグ記録として現在も破られていない。

3年目も躍進は止まらず31勝して通算96勝。昭和36年5月6日の西鉄戦で早くも通算100勝を達成する。昭和33年4月3日の初勝利の日から3年1ヶ月と2日目での100勝達成は歴代1位のスピード記録である。100勝までに実に16年3か月を要した権藤正利投手(大洋➡東映➡阪神)のような例を挙げるまでもなく杉浦の記録は異常とも言える早さだった。しかし昭和40年に右腕の動脈閉塞という奇病に罹ってからは往年の威力も失われ、6年間で23勝のみに終わった。それでも通算187勝は寿命の短い下手投げ投手としては、221勝の皆川投手(南海)、193勝の秋山投手(大洋)に次ぐ歴代3位である。


日本シリーズ4試合4勝
杉浦の快速球が最も威力を発揮したのはプロ2年目のシーズン後半だった。9月15日からシーズン終了まで54回 2/3 を無失点に抑えた。前年に金田正一投手(国鉄)がマークした64回 1/3 無失点には及ばなかったが、実は杉浦はその無失点記録の前にも8月26日から9月9日にかけて43回を無失点に抑えていただけに金田の記録を大幅に更新していてもおかしくはなかった。被本塁打も8月23日の大毎戦で榎本選手に打たれて以降、シーズン終了まで93回 1/3 打たれていない。しかもその間、奪三振95・四死球6・自責点は犠飛による1点のみで防御率 0.10 と驚異的な投球内容で13連勝を記録した。

セ・リーグを制した巨人との日本シリーズでも杉浦の快投は続く。第1戦に先発した杉浦は8回まで投げて勝利。第2戦も5回から救援登板して2試合連続で勝利投手に。第3戦に再び先発して今度は完投勝利。翌日は雨天中止となり、中1日で第4戦に先発して5安打完封勝利。杉浦は一手に4勝を記録して、日本シリーズ出場五度目にしてようやく南海を日本一に導いた。日本シリーズにおいて4試合4連勝を実現したのは、この昭和34年の杉浦の他にはいない。


無安打無得点ならず
プロ野球史上に残る大投手の多くがそうであったように杉浦もまた遂にノーヒットノーランを達成することなく終わってしまった。昭和33・34年の全盛期でも無安打試合はなかった。杉浦唯一の1安打勝利は昭和39年7月29日の阪急戦だった。2回二死後に早瀬選手に中前打され、しかも野手が打球を後逸し早瀬は三塁まで進塁した。続く岡村選手の2球目を野村捕手がパスボールし、三塁走者の早瀬が本塁に突入するが憤死。結局、早瀬以外に安打や四死球の出塁を許さなかった杉浦は打者数27人のみの準完全試合で勝利した。ちなみにこの完封勝利がプロ生活最後の完封だった。
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