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Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 894 球団創設初の2位

2025年04月30日 | 1977 年 



いつかは定位置のBクラスに落ちると見られていたヤクルトが巨人には離されてはいるが堂々と2位を維持している。このまま行けば来春のブラジルキャンプも景気の良いモノになるだろう。このヤクルトの強さはやはり硬骨漢・広岡監督の頑固なまでの新イズムの浸透にあるようだ。

王と真っ向勝負を厳命した姿勢
広岡監督の背筋はいつもシャキッとしている。" 名は体を表す " 通り、広岡監督の姿勢はそのまま人間・広岡達朗を表している。最近の例で言えば756号騒ぎがあった先月末の対巨人3連戦(神宮)。投手にとっては新記録に名前を残されるのは嫌で、出来れば避けたいのが本音だ。しかし広岡監督は「逃げずに勝負しろ」と厳命した。先発投手に会田・松岡・安田と主戦級を起用し、安田投手には初戦と2戦にもリリーフ登板させた。例え打たれてもそれはそれで良し。打たれて悔しい思いをしたくなかったら打たれないように考えて投球しろというのが広岡監督の考えだ。だからこそ第3戦の最終打席で四球を与えた西井投手に不満をぶつけたのである。

明らかに勝負を避けた投球ではなかったが「堂々と向かって行けば球場のファンもテレビ中継を見てるファンも西井を評価してくれたのに残念だよ」と広岡監督は落胆した。それ以上に広岡監督が悔しかったのは大騒ぎの観衆を前にしてヤクルトナインが委縮して自分を見失うプレーをしたこと。合格点を与えたのは安田投手くらい。若松選手でさえフォームを崩し悪球に手を出してしまった。大杉選手や外人選手までもが雰囲気に飲まれて普段通りのプレーが出来なかった。「浅野を見てみなさいよ。ウチから巨人に移籍して1年も経たないのに堂々としているじゃないか。情けない話ですよ」と歯がゆくて仕方ない。

昨シーズン途中に荒川前監督を引き継ぐ形で指揮を執り始めると、さっそくヤクルトナインの意識改革に着手した。しかしそれは容易なことではなかった。それまでのヤクルト球団は成績不振を監督のせいにし、毎年のように監督のクビをすげかえてきた。これがいつしか選手らに責任逃れの観念を植え付けることになる。厳しさから逃避し不平不満だけは一人前のヤクルトナインは広岡監督の手法に猛反発した。「門限はやめてほしい」「試合後に麻雀をして何が悪いのか」「酒を飲むことは悪いことではない」などなどチーム内に広岡監督への不満や反発が充満した。某コーチなどは麻雀復活を広岡監督に直談判したくらいだ。


不満分子を納得させた論より証拠
広岡監督がいくら説明しても納得せず「ウチと巨人は違う」「ずっとこれでやってきたので今さら変えるのは無理」と従わなかった。業を煮やした広岡監督は「ならば好きにやってみて好成績を残せたら私は何も言わない」と選手らに一任した。結果は52勝68敗10分けの5位に終わり、ヤクルト生え抜きの某コーチは「監督、僕らが間違っていました。どうか監督のやり方でチームを強くして下さい」と頭を下げた。「いくら言っても分からん人には、いっぺん好きにやらせてみるしかないんだ。自分の頭でこのままじゃダメだと気がつかないといくら練習したって身につかない」と広岡監督は言い切った。

昨年オフに広岡監督が秘密裡に動いたのが巨人から土井選手を借り受ける交渉だった。ヤクルトに欠けているのは守備力とインサイドベースボールの思考力と判断し、この2つを土井選手なら実践しながらチーム内に浸透させることが出来ると考えたからだ。しかしこの金銭トレードは長嶋監督が許可せず頓挫した。代わりに浅野投手と倉田投手の交換トレード交渉となったが今度は広岡監督が難色を示した。すると巨人側は上田選手を追加し1対2でのトレードはどうかと言ってきた。だがこれも広岡監督は拒否した。その理由が背筋がシャンとした広岡監督らしかった。付け足しの印象が強くなる上田選手が気の毒だと。結局、浅野⇔倉田の投手トレードに落ち着いた。


若松コンバートと松岡2軍の野球観
若松選手はもともと実績のある選手である。その若松選手が今シーズンひと皮むけたのはレフトからセンターへコンバートされた影響が大きい。中堅手は捕手が出すサインや構えの位置で飛んでくる打球を推測することが可能で、それを左翼手や右翼手に伝える役割がある。自然と野球に対する心構えが変わり若松選手の野球観は深くなった。過去の名前だけで起用しない広岡監督は開幕からピリッとしない安田投手や松岡投手を先発ローテーションから外し、代わりに鈴木康投手や新人の梶間投手を重用するようになった。安田投手は自ら打撃投手を務めるなど奮起し先発陣に戻ったが、松岡投手は処遇に不満を表わした。

6月末に脇腹痛の診断書を添えて負担軽減を広岡監督に申し入れた。これが広岡監督の逆鱗に触れた。「そんなに状態が悪いなら徹底的に治す必要がある」と松岡投手の二軍落ちを即決した。先発投手陣の層が薄く台所事情が苦しいヤクルトにとって1人が欠けるだけでも大変なのに、たとえエースであってもバッサリ切り捨てる非情さを広岡監督はチーム内に示した。助っ人のマニエル選手とロジャー選手も例外ではなかった。広岡監督は両助っ人の弱点を指摘し改善するよう命じた。まさか自分らが標的にされるとは考えていなかった2人は慌てて奮起し現在の好成績を残すようになったのである。


2年後の優勝に照準合わす計算
現在のヤクルトが人材不足なのは誰の目にも明らかである。ならばトレードは不可欠なのだが前述の土井選手や上田選手の獲得は難しい。ならば狙いをパ・リーグ球団に変更しようと模索している。広岡監督の持論は「同じ位の力量なら強豪チームの選手の方が基礎もしっかりしていて野球に対する考え方も間違いない。パ・リーグなら阪急や南海がそれに適している」である。巨人との差はまだ大きいが、目標は2年後の1979年のシーズンに置かれている。その頃には酒井投手も成長し投手陣の柱になっているだろう。単に投げて打って走るだけでなく頭脳の方も広岡イズムに磨かれている筈。今は優勝を問われて苦笑いする広岡監督が胸を張れる日も近い。


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# 893 原・酒井を上回る大器

2025年04月23日 | 1977 年 



高校野球にスターは不必要というが、何人かの抜群の好選手がいてそのスターを倒そう、抜こうということから高校野球はますます大きく逞しく向上する。今年の夏の甲子園大会参加校の中からピックアップしてみよう

度胸も球威も江夏そっくりの大物
今大会は打高投低と言われていた昨年の傾向を一変し投高打低との前評判だ。先ず東洋大姫路高の松本正志投手。松本投手を見た人は「まるで江夏の若い頃にソックリ」と唸る。ノッシノッシと歩くガニ股の足取りから母校を1人で背負う度胸と不敵さもソックリ。また「球質は重いしカーブが曲がりきらんところまで似ている」と江夏投手を阪神に入団させた川西スカウトは言う。開幕前の甲子園練習で松本投手は早々と大物ぶりを見せた。昨年春のセンバツ大会以来1年半ぶりのマウンドでほんの肩慣らしの投球練習だったが最後の5球をバックネットに向けて直接ぶつけた。梅谷監督の指示でワザと暴投したのだった。

これまでの松本投手は三振か四球かという投球だった。昨秋の兵庫県大会での滝川高戦で3回まで9アウトのうち8奪三振。スタンドを大いに沸かせた直後から四球、四球のオンパレード。結局、13奪三振・13四球という悪い意味で松本投手のワンマンショーと化して、松本投手の注目度は増したが東洋大姫路高は県大会で姿を消し近畿大会にも出られなかった。そんな松本投手に野球部の仲間が付けたあだ名は " オーメン " 。悪魔に取り憑かれた少女が次々と恐ろしい行動に出る映画から得たものだ。このあだ名に松本投手は大喜び。「だって次々と予想もしないことを起こすんでしょ。相手に恐怖心を与えるなんて最高じゃないですか」と笑う。


三振をとれる注目の新旧エース
松本投手の魅力は速球であるがそれに匹敵するのが小松辰雄投手(星稜高)と三浦広之投手(福島商)の2人。小松投手は昨夏の甲子園で星稜をベスト4に進出させた立役者。今年のセンバツ大会では滝川高に敗れたものの、持ち前の快速球で13三振を奪った。夏の県予選を前に右かかとを痛める不運もあり体調は万全ではなかったが6試合で計65奪三振と見事な投球を披露した。快速球とシュートやカーブといった変化球の切れ味も抜群で総合力は松本投手の数段上をいく。更に3年生になってからは力任せの投球だけから打たせて取るコツも覚えてセンバツ大会の時より一回りも二回りも成長している。

「高校生の投手がプロで通用するか否かの基準は何といってもどれだけ空振りが取れるかにかかっている。1試合平均2ケタ奪三振なら合格。その点でも小松君は文句なし」と中日の田村スカウトは言う。能登半島の小さな漁港で生まれ育った。運動神経は群を抜いていて、早くから地元のスポーツ少年団に入った小松少年の名前が知られるようになったのは小学校5年生の時の体力測定だった。ソフトボールの遠投でそれまでの最長記録53mを大幅に超える75mを投げた。この記録は未だに破られていない。天性の肩の強さに加えて強烈なスナップスロー。制球力も良いとあっては星稜・山下監督の信頼も厚い。

もうひとり楽しみなのが福島商の三浦広之投手。県大会で44イニング無失点を記録した大型右腕だ。185cmの上背からのストレートは角度がある上に滅法速い。2年生まではただ大型投手というだけでコントロールも悪かったが、昨冬から今年の春にかけて徹底的に走り込んで下半身が安定したお陰で制球力が増した。福島商打線が好調過ぎてコールド勝ちが多く、参考記録ながら完全試合やノーヒットノーランもマークしている。県予選6試合で62奪三振はコールドゲームで投球イニング数が少ないことを考えると松本投手や小松投手に引けをとらない数字だ。加えて四球が僅か2個というのも驚かされる。

ネット裏に駆け付けた在版のスカウト達の評判もすこぶる良い。「確かに福島県全体のレベルを考えると44イニング無失点を鵜呑みにするわけにはいかないが、良い球を投げるのは間違いない。低目をつく速球は高校生では打つのが難しい。体が少し開き気味なので右打者の内角を突くストレートが棒ダマになるのが気になるが、球威は江川(作新学院➡法大)と遜色ない。コントロールを乱すことがなければ甲子園でも全国の強豪校相手に勝てるのではないか。今大会に出場する投手で5本の指に入ることは確かだ。ウチも注目している選手のひとり」と阪神の谷本スカウトは力説する。

今夏の甲子園大会は好投手のオンパレードで野手で昨年の原辰徳選手(東海大相模➡東海大学)のようなスター選手は見当たらない。そんな中でも各球団のスカウト達が注目するのは津久見高の遊撃手・古田徹選手と川口工高のスラッガー・駒崎幸一選手だ。古田選手は攻守ともにソツなくこなす三拍子揃った選手。パンチ力で優るのが駒崎選手で180cm・78kgと均整のとれた強肩強打の外野手。埼玉県予選では20打数6安打と振るわなかったが6安打中4安打が長打とパワーを見せつけた。



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# 892 756号 ⑤

2025年04月16日 | 1977 年 



初めて守ったライト
8月31日の大洋戦の1回裏に世界タイの755号を打ったあとに王選手はペナントレースでは初めて1イニング限定で右翼の守備位置に就いた。新人時代にオープン戦で右翼から一塁に転向して以来、公式戦では一塁以外を守ったことはない。この日で通算2426試合出場。2000試合以上の出場した10人の選手の中で一つのポジションしか就かないのは王選手だけだ。 " 生涯一捕手 " と呼ばれている野村監督だが実は捕手以外に一塁を6試合、外野を3試合守っている。

公式戦以外では昭和44年の東西対抗第2戦、翌45年のオールスター第2戦、更に今年のオールスター戦では2試合右翼を守っている。幸い?なことに右翼手・王選手の所には一度も打球は飛んでこなかった。公式戦で初めて守った今回は長崎選手が放った右翼前打を無難に処理しただけで済んだ。右翼手・王選手の通算守備成績は5試合で依然、守備機会(刺殺・補殺・失策)はゼロである。


四球も世界新
今シーズンの王選手は本塁打記録より前に " 世界新記録 " を達成している。それは四球である。大リーグの最高記録はベーブルースの2056四球。ハンクアーロンはグッと少なく1420四球。王選手は昨シーズンまで1989四球(死球は除く)。7月16日の広島戦で今シーズン67個目の四球を選んでルースの記録に並んだ。翌17日の広島戦の2四球で世界新を樹立し、目下97四球で着々と世界記録を更新し続けている。死球を含めると100個を超えるだけに本塁打を放つ機会を失うことにもなる。

10.4打席に1本塁打を放っている割合の王選手なら、せめてアーロン並みの四球数なら600打席は多いわけで割合からすれば60本ちかい本塁打が加算されていてもおかしくない。日米の球場の広さや野球のレベルの違いがあるので世界新記録と呼ぶことに議論が交わされているが、王選手が物凄いペースで本塁打を放っているのは厳然たる事実だ。アーロンは1万2364打席で755号を放ったが王選手は7871打席で達成したのである。


三振も多いけど
四死球で断然トップの王選手は通算三振数は1125個で1354個でトップの野村監督に次ぐ2位。洋の東西を問わず長距離砲にとって三振は付き物でルースの1330個は長らく大リーグ記録だった。プロ2年目の昭和35年には101個、同37年には99個と三振が多い選手だった。昭和35年7月31日の阪神戦で4三振を喫し、7月15日以来12試合連続三振を記録した。一本足転向直後の昭和37年7月22日の対国鉄ダブルヘッダー戦では両試合3三振ずつ計6三振もしている。

そんな王選手も最近はめっきり三振が少なくなった。昨シーズンは45個、今シーズンは開幕から43打席目が最初の三振だった。8月20日の阪神戦で3三振したが26個目と少ない。あれだけの本塁打を放つ選手としては驚異的に少ない三振数だ。昨年までシーズン年間40本塁打以上を放った延べ34選手の年間平均三振数は58.6個なので王選手の三振数は明らかに少ない。王選手は取りも直さず今や技術の頂点を極めたという感じである。



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# 891 756号 ④

2025年04月09日 | 1977 年 



苦手の投手もいる
三浦投手(大洋)が打たれた世界タイ記録の755号は王選手に許した初本塁打だった。それまでの11打席で4安打・4四球で打率は5割を超えていたが本塁打は打たれなかった。これで王選手と10打席以上対戦し被本塁打ゼロの現役投手は次の6人となった。

 ・平岡一郎(広島):66打席
 ・江本孟紀(阪神):42打席
 ・榎本直樹(広島):22打席
 ・堂上照 (中日):17打席
 ・斉藤明雄(大洋):14打席
 ・田村政雄(大洋):11打席

このうち田村投手は7打数で無安打。江本投手は28打数2安打で打率は1割以下(7分1厘)に抑えている。既に引退した投手の中では北川芳男投手(国鉄➡巨人)が51打席、バーンサイド投手(阪神)が50打席で1本も打たれなかった。特にバーンサイド投手は37打数6安打・打率.162 と王選手をカモにしていた。


1本もない幻のホームラン
王選手は19年の現役生活で雨天ノーゲームで消えた本塁打はゼロだ。昭和38年8月25日の中日戦(ナゴヤ)は試合前から雨が降り続けて5回表の巨人が攻撃中に一時中断となった。51分後に試合が再開され、6回表二死一塁の場面で王選手は右翼席に勝ち越し2ランを放った。6回裏に江藤選手の一発で1点差とし、なおも攻撃を続けて一死一三塁の場面で再び雨が強くなり中断になってもおかしくなかったが、長打が出れば逆転できる状況だったので中日は試合続行を主張した。そのまま中止になれば5回裏終了で試合は成立するが6回表の王選手の勝ち越し本塁打は取り消される。結局、石川選手の適時打での同点止まりで試合は引き分け、王選手の本塁打は幻とはならなかった。

送りバントと盗塁
今では考えられないが王選手に送りバントが命じられたことがあった。記録上、犠打として残るのは昭和34年「1」、35年「3」、36年「4」、37年「3」。昭和43年10月6日、中日戦の延長11回表無死一二塁で三塁前に送りバントしたのが最後で合計12犠打。このうち1つはスクイズである。昭和35年7月16日の大洋戦(川崎)の初回に長嶋選手の二塁打と坂崎選手の安打で1点を先取し、一死一三塁で六番の王選手が打席に入った。大洋の先発・鈴木隆投手を苦手としていた王選手に対し水原監督は初球からスクイズのサインを出し、王選手は投手前に転がし生涯唯一のスクイズを成功させた。

犠打と同様に最近の王選手は盗塁とも疎遠になっている。昭和47年以降の盗塁は2・2・1・1・3個と1桁どまりで、今シーズンも6月8日の広島戦で記録した1個だけ。そんな王選手だが昭和36年には10盗塁している。この年の5月18日の国鉄戦で3盗塁を成功させている。それも二盗、三盗、本盗の " サイクル盗塁 " を達成した。先ず3回に二盗とダブルスチールによる本盗、4回には二塁打で出塁後に三盗に成功した。


不死身のフラミンゴ
偉大な本塁打記録に隠されて目立たないが王選手は怪我に強い選手でもある。昭和34年以降の巨人の試合数は2490試合に達するが王選手は2426試合に出場している。レギュラーに定着した昭和35年以降に限ると欠場は僅か28試合だ。シーズン全試合出場も昭和35年・37・38・39・44・46・47・48・49年で、今年も全試合出場を継続中だ。藤村富美男(阪神)や飯田徳治(南海)が持つ「10シーズン」というプロ野球記録に今年で肩を並べることになりそうだ。だがこれまで無事息災だったわけではない。死球だけでも104個を数え、欠場を余儀なくされることもあったがそれを最小限にとどめてきた。

昭和43年9月18日、甲子園球場での阪神戦でバッキー投手と乱闘騒ぎとなり、継投した権藤投手に頭部死球を喰らい救急車で病院に運ばれた。翌日の試合はもちろん欠場。21日になっても右耳鼓膜に炎症を起こした状態でまともに立っていられない状態だった。ところがナゴヤ球場に乗り込んだ王選手は元気いっぱいにフリーバッティングで10本の柵越えを披露し急遽、スタメンに起用された。結果は2本塁打を含む3打数3安打・5打点の活躍を見せ周囲を驚かせた。死球などで欠場したのは過去に六度あるが、そのうち五度で復帰した試合に本塁打を放っている。その5試合を通算すると21打数10安打・打率.476・6本塁打。怪我をものともしないまさに怪物である。



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# 890 756号 ③

2025年04月02日 | 1977 年 



世界の最高峰に立つ王貞治。しかし王選手の記録は本塁打だけに限られるものではない。知られざる王選手の意外な記録を調べてみた。

初ホームランまで
昭和34年のキャンプに参加した王選手は開始1週間で投手失格と見切りをつけられた。2月28日のオープン戦(近鉄戦)に八番・右翼手で起用され3打数2安打で野手デビューを飾った。7試合目の3月11日の阪急戦で秋本投手から右中間スタンドに " プロ初本塁打 " を放った。オープン戦23試合に出場し5本塁打を放ちシーズン開幕後の期待値も高かったが公式戦の壁は厚かった。4月11日の対国鉄の開幕戦に七番・一塁手で先発出場した王選手は金田投手と対戦して第1打席・三振、第2打席・四球、第3打席・三振に終わった。翌日のダブルヘッダー第1試合の第3打席で初めて打球が前に飛んだが二ゴロ。この試合も2打数0安打・2四球。

第2試合で犠飛を放ち初打点を記録したが依然として無安打が続いた。4月25日の時点で16打数0安打・9三振だった。翌26日の国鉄戦ダブルヘッダー初戦も3打数0安打だったが水原監督は辛抱強く王選手を八番・一塁手でスタメン起用を続けた。第2試合は巨人・伊藤投手と国鉄・村田投手の投げ合いで両チーム無得点のまま7回裏に入った。二死一塁で打席に入った王選手はボールカウント2-1後のカーブを叩くと打球は逆風をものともせず右翼席に飛び込んだ。待望のプロ初安打が初本塁打と後の世界の本塁打王誕生を予言するかのような一発だった。


一本足の前と後
ようやく初安打したが後が続かず、やがてスタメンから外されて5月は僅か5試合の出場だった。結局、1年目は打率.161・7本塁打に終わった。2年目になるとプロの世界にも慣れて開幕から20試合で打率.295・3本塁打と結果を残し、21試合目の4月26日の大洋戦から初めてクリーンアップ(三番)に起用された。これがいわゆる「ON砲」が初めて並び立った瞬間である。9月6日の広島戦で満塁本塁打、9月21日の阪神戦で村山投手からサヨナラ本塁打と初めてづくしの本塁打を放った。2年目の成績は打率.270・17本塁打と飛躍した。この年のセ・リーグ本塁打王・藤本勝巳選手(阪神)の22本と5本差だった。

ただし、ここから順調に成績が良くなるわけではなく3年目は打率.253・13本塁打。4年目の昭和37年も開幕15試合目にようやく一発が出た。6月7日に9号本塁打を放ったが、6月30日まで本塁打なし。30日の大洋戦はサウスポーの鈴木隆投手に2打数2三振に抑えられ、試合後に一本足打法を採用することが決まった。その成果はすぐに出た。開幕から6月30日までは打率.259・9本塁打(24.1打数に1本塁打)、7月1日から閉幕までが打率.282・29本塁打(9.4打数に1本塁打)と眠れる才能が覚醒した。


公式戦以外のホームラン
ペナントレース以外でも王選手は多くの本塁打を放っている。

 ・日本シリーズ:27本
 ・オールスター戦:9本
 ・日米野球:21本
 ・春のオープン戦:77本
 ・秋のオープン戦:12本

実は他に幻の本塁打が1本ある。昭和41年に来日したドジャースとの試合で、10月29日に全日本軍のメンバーで出場した王選手は左中間に本塁打を放ったが一塁走者の柴田選手を追い越してしまい、記録上はシングルヒットになってしまった。この1本を除いても合計901本。本塁打を放ちダイヤモンドを一周すると109.7mなので総距離は98.8kmにもなる。ほぼ東京から湯河原までの距離に相当する。





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