Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#281 伝統の一戦 ④

2013年07月31日 | 1982 年 


長嶋と村山、王と江夏など両チームには多くのライバルが存在するが広岡達朗と吉田義男もライバル関係にある。年齢は広岡が1歳上だが先にプロ入りしたのは立命館大学を中退した吉田だった。そもそも吉田は阪急に入団するつもりでいたが当時の浜崎監督が「あんなチビ助じゃプロでは通用しない」と認めなかった為に入団できず仕方なく阪神に入団した。そうした経緯から阪神では冷遇されていたせいもあって2年後に早稲田大学からプロ入りした「エリート」広岡に対して敵愾心を剥き出しにしていた。

2人の初顔合わせは昭和29年5月2日の後楽園球場。2回表に打席に立った吉田の打球は火を噴くような遊ゴロ。その裏の広岡が放った打球も同じく地を這うような遊ゴロ。共にヒット性の当たりだったが両者は難なく処理した。この2回表裏の遊ゴロはお互いが意識的に放った「牽制」だと後々まで語り草となった。

昭和43年9月19日の甲子園球場。阪神は前日に江夏が巨人相手に完封勝ちして首位巨人との差を1ゲームとし、この日のダブルヘッダーでの首位奪回を狙っていた。第1試合は村山が完封勝利を収め遂にゲーム差なしの首位に並び第2試合を迎えた。阪神の先発はバッキー。試合は巨人が1点リードの4回、4点を加えてなおも二死二塁で打席には王が入った。味方のエラーにイラついていたバッキーの初球は顔のあたりを通過し続く2球目も同じく頭部近辺に。普段は温厚な王が珍しくマウンドのバッキーに詰め寄る。三塁コーチボックスからは荒川コーチが愛弟子の助太刀とばかりバッキーに跳び蹴りをするとバッキーもボクサーよろしくパンチで応酬した。

両軍ベンチから選手が飛び出して乱闘となり荒川コーチは4針縫う前頭部裂傷、バッキーは利き腕の右手親指の複雑骨折を負い2人は退場処分となり試合再開。リリーフした権藤投手はカウント1-3とし次の投球が王の後頭部を直撃して王はその場に昏倒、再び両軍が詰め寄り不穏な空気が漂い始めた。一触即発の雰囲気の中、次打者の長嶋が試合を決めるダメ押しの3ランを放ち、利き腕を負傷したバッキーは投手生命を絶たれる事となった。



昭和48年10月11日・後楽園球場
     阪神 4 3 0 0 0 0 2 1 0 : 10
     巨人 0 0 0 4 0 5 0 1 0 : 10 

阪神は江夏・古沢・上田・権藤・谷村の5投手、巨人は堀内・玉井・関本・倉田・高橋善・小林の6投手をつぎ込み野手を含めると阪神が17人、巨人が21人を動員する総力戦を両軍は引き分けた。試合は序盤から波乱含みだった。2回表一・三塁に走者を置いて後藤が放った三ゴロは長嶋の前でイレギュラーバウンドした。「痛ッ」長嶋が右手を抑えてうずくまる。血が滴り落ちる中指は折れていた。長嶋を欠いた巨人は2回を終えた時点で7点のビハインド、しかも相手先発は江夏である。ベンチもファンの多くも敗戦を覚悟したが4回裏の4点で「もしや…」と感じ始め、6回裏には萩原の逆転3ランと高田のソロで一気にひっくり返した。球場内の興奮は最高潮に達したが今度は阪神が7回表に藤田の本塁打などで2点、8回表には望月の適時打で再びリードした。

この試合を落とすと優勝の望みが限りなく低くなる巨人は死にもの狂いで反撃し8回裏に柳田の右翼ポール直撃の本塁打で追いつき引き分けに持ち込んだ。普段は泰然自若で落ち着き払っている川上監督をもってして「これこそまさに激闘だ」と興奮を隠せないほどの一戦だった。残り2試合で1つ勝てば優勝の阪神に対し長嶋を欠いた巨人では阪神に分があると思われたが優勝を目前にした阪神ナインは極度のプレッシャーに押し潰され2連敗を喫して巨人が前人未到の九連覇を達成したのはこの試合の10日後だった。

世界の本塁打王の王に肉薄した唯一の選手が田淵だ。昭和45年の頭部への死球による影響も解消されつつあった昭和48年には5月に入っても田淵は王に9本差をつけて本塁打王争いを独走していて「ひょっとすると」と世間がザワつき始めるた。すると途端に田淵はプレッシャーで動きがぎこちなくなり打撃フォームを崩して量産ペースはガタ落ちとなってしまう。そんな田淵を横目に王は1ヶ月も経つ頃にはアッサリと追い抜き去り以降は田淵を含め他の選手を寄せ付けなかった。

自らの未熟さを反省し翌49年は精神的にも成長した田淵は10月に入っても王と抜きつ抜かれつのデットヒートを繰り広げた。王が42本、田淵が43本で迎えた10月2日からの巨人阪神4連戦で王は19打席中14四球、田淵は18打席中12四球と醜い四球合戦となった。まともな投球は無くワンバウンドや捕手も捕球できないような球ばかりで世間からも「やり過ぎ」との批判の声も多かったが両チームは馬耳東風だった。終わってみれば王は49本、田淵は45本で「例年通り」王が本塁打王のタイトルを獲得した。
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#280 伝統の一戦 ③

2013年07月24日 | 1982 年 



伝統の一戦において最も熱い対決を繰り広げてきた選手と言えば長嶋と村山であろう。昭和11年2月20日、後の巨人軍黄金期の礎を築いたとも言える米国遠征中にハワイのホノルルに寄港した日に長嶋茂雄は生まれ、「洲崎の決戦」第2戦で宿敵沢村投手を打ち崩した同年12月10日に村山実は生まれた。2人は巨人と阪神の球団史の1ページを飾る年に生を受け、20余年後に同じ舞台へ上がる運命の申し子だった。

2人の初顔合わせは昭和34年5月10日の後楽園球場。初打席はストレートの四球、第2打席は遊ゴロ、第3打席は再び四球、そして次の打席にカウント1-2から本塁打。村山は同年齢ながら早生まれで1学年上の長嶋に天覧試合のサヨナラ本塁打をはじめ、ここぞと言う場面で痛烈な一発を浴びてきた。同時に長嶋は村山のフォークボールに幾度となくバットは空を切らされた。汗を飛び散らして全力投球する村山にフルスイングで応える長嶋との対決はファンを魅了した。

「1500奪三振は長嶋さんから取る」村山は昭和41年のシーズン前に早々と宣言した。長嶋が応える「たとえバントをしてでも記念の三振はしない。1501個目とか中途半端な数字で良ければOKだけどね」と。いよいよあと1個と迫った6月8日の甲子園球場での阪神-巨人7回戦6回表、先頭の柴田が二ゴロで倒れて打席に長嶋が入るとマンモススタンドが歓声で揺れた。1球目は直球でストライク、2球目は直球が高目に外れてボール、3球目はカーブが大きく外れる、4球目の直球を長嶋はフルスイングでファールとなりボールカウントは2-2。それはあの時と同じカウントだった。

7年前の昭和34年、長嶋23歳・村山22歳とほとばしる若さだけでぶつかり合って村山が激しく散った天覧試合。あれから年月を経てお互いに円熟期に入ったが情熱だけは当時から変わっていなかった。5球目は渾身のフォークボール、長嶋は前言とは真逆のフルスイングをしたが空を切りヘルメットが飛び大歓声でマンモススタンドが再び揺れた。「次は2000個だ。次も長嶋さんから頂く」の宣言通り3年後の昭和44年8月1日、場所も同じ甲子園球場で長嶋から外角低目のカーブで見逃し三振を奪い達成した。

昭和47年、兼任監督となった村山は10月7日甲子園球場で最後の巨人戦の先発マウンドに立った。14年間に渡り速球投手として生きて来た証として投じた直球にはもはや嘗ての勢いは失せていた。初回、王の2ランに続き長嶋も左翼席へ26号本塁打を放った。長嶋は「フルスイングする事がライバル村山実に対する礼儀」と語りこう付け加えた「彼の顔を見るのが辛かった…」と。ストレートの四球から始まり天覧試合、1500&2000奪三振、最後のONアベック本塁打と長嶋と村山の火傷をしそうなくらい熱いドラマは終焉を迎えた。


「長嶋 vs 村山」と来れば「王 vs 江夏」を語らない訳にはいかない。江夏は王に対しては直球勝負に拘っていた。勿論、変化球も投げた。だがここぞと言う場面でのウイニングショットは常に直球だった。昭和45年10月12日の甲子園球場、両チームは0.5ゲーム差で激しく首位争いを繰り広げていた。7回表2点のリードを守っていた江夏は一死満塁のピンチで王を打席に迎えた。簡単にツーナッシングと追い込んだ江夏は遊ばずに3球勝負に出た。外角低目に狙いすました直球はピクリとも動かない捕手のミットに吸い込まれた。「よしっ!次は長嶋さんか…」と視線をウェイティングサークルの長嶋へ移した瞬間、「ボール」とコールした谷村球審の声に江夏は耳を疑った。

捕手は振り返り血相を変えて抗議したが江夏は冷静さを保ち、妙な間が空くのを嫌って「いいから早く球を返せ」と捕手を諌めた。マウンドから見るマスク越しの谷村球審の表情に迷った末の『ボール』判定だったのを見て取った。「ならば今度こそ心置きなく『ストライク』とコールしてもらおうじゃないか」とばかりに続く4球目も同じく外角低目に直球を投げ込んだ。しかし判定は再び「ボール!」

「ふざけるなッ!!」こうなると江夏も冷静さを欠く。いつの間にか対戦相手は打席の王ではなく谷村球審に変わってしまった。意固地になった江夏は外角低目に投げ続けたが結果は押し出しの四球。マウンドに膝を付き動かない。緊張の糸が切れた江夏は続く長嶋を抑える事は出来ず逆転の適時打を許してこの試合を落とした。この年の巨人は追いすがる阪神を1ゲーム差で振り切り六連覇を達成した。あの場面で谷村球審が「ストライク」とコールしていたら巨人の九連覇は潰えていたかもしれない。

思えば昭和43年9月17日、同じ甲子園での巨人戦の7回表に王から三振を奪い354個のシーズン最多奪三振の日本記録を更新して以来、王に対してはことごとく直球で勝負してきた。阪神を去り南海、広島、日ハムと渡り歩いて来たが王と対戦する時は阪神時代同様に直球勝負を貫いた。広島在籍中に通算2000奪三振を王相手に達成した際に「これで王さんに借りは返せた」と言った時の江夏の表情は、ようやく「阪神・江夏豊」と言う呪縛からの解放感に満ち溢れていた。
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#279 伝統の一戦 ②

2013年07月17日 | 1982 年 



昭和11年12月9日から11日に行なわれた3回戦方式の王座決定戦が、いわゆる「洲崎の決戦」である。


             【阪神】                 【巨人】
          (一)藤井   勇              (二)三原  脩
          (左)藤村冨美男             (三)水原  茂
          (捕)小川 年安             (右)前川 八郎
          (二)小島 利男             (一)中島 治康
          (投)景浦   将             (左)伊藤健太郎
          (右)御園生崇男             (捕)中山  武
          (中)山口 政信             (遊)白石 敏男
          (遊)岡田 宗芳             (中)林  清一
          (三)伊賀上良平             (投)沢村 栄治



上記が第1戦の先発メンバーで両軍ともに知る人ぞ知る錚々たる選手が名を連ねている。特にタイガースは二塁手の小島を除く8人を当時の野球のメッカと言われ多くの名選手を輩出した四国出身者で固めた。尚、タイガース主将の松木謙次郎は怪我の為に出場できなかった。

第1戦は巨人が4点を先行したがタイガースは4回に小川の四球後に小島の右二塁打で二・三塁として迎えるは景浦。カウント1-3から沢村の懸河の三段ドロップを捉え左越本塁打で追いすがる。景浦はベースを一周する間、指を一本高々と上げて自軍ベンチの石本監督を見てニヤリ。決戦を前にして月給90円の景浦に対し「本塁打1本で100円」とハッパを掛けていたからだ。その後も攻勢を強めるが巨人が逃げ切り先勝した。

第2戦の巨人の先発は再び沢村。もう負けれないタイガースは死に物狂いで襲いかかり2回に先制し6回で沢村をKOした。一方、タイガースは先発の御園生を若林が救援して巨人の反撃を断った。

そして最終戦。巨人は前川、タイガースは景浦の先発で始まった。4対2とリードした巨人は5回から3連投の沢村を投入、タイガースは景浦を三塁へ回して第1戦で好救援を見せた若林が登板。後年に監督だった藤本定義によると沢村は志願の3連投で、さすがの沢村にも疲れが見えたが若林との息づまる投手戦を制して2勝1敗で巨人が初優勝を手にした。

この年以降両チームの戦いの結果が優勝争いに大いに影響を与える事となる。昭和12年春の対戦成績は巨人の5勝3敗だったが5勝は全て沢村があげたものでタイガース打線は沢村に対して155打数18安打、打率.116 と完全に抑え込まれた。打倒沢村なくして優勝は出来ないとして対沢村用に投手プレートの一歩前から投げさせた球を打つ練習を繰り返して秋季の対戦に臨んだ。

練習の成果は即座に表れて沢村を118打数34安打・打率.288 と打ち崩し、対沢村3連勝を含め巨人戦は7戦全勝だった。年度優勝決定戦でも沢村は1勝3敗と勝てずタイガースが4勝2敗で前年の雪辱を晴らした。こうして繰り広げられた両軍の戦いは昭和24年に1リーグ制が幕を閉じる時点迄はタイガース85勝・巨人84勝と拮抗していたが、2リーグ制以降は巨人の一方的な勝利の時代を迎える事となる。

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#278 伝統の一戦 ①

2013年07月10日 | 1982 年 



昭和11年7月15日、名古屋の山本球場で行なわれた「連盟結成記念日本選手権試合・名古屋大会」の大会初日の第2試合の初対戦から間もなくあと3試合で巨人と阪神の対戦は1000試合を迎える。内訳は 『 巨人:536勝、阪神:419勝、引き分け:42 』 となっている。



創立日:昭和9年12月26日                  創立日:昭和10年12月10日  
商 号:株式会社大日本東京野球倶楽部          商 号:株式会社大阪野球倶楽部
資本金:50万円                          資本金:20万円
所在地:東京市京橋区銀座西 3-1 菊正ビル      所在地:大阪市北区中ノ島2-25 江商ビル
取締役会長:大隈信常                      取締役会長:松方正雄
専務取締役:市岡忠雄                      専務取締役:富樫興一



「東京巨人軍」「大阪タイガース」と両チームは都市名をつけて出発した。東京の大隈会長は早稲田大学の創始者・大隈重信侯爵の養子で当時の華族である。一方の大阪の松方会長は明治維新の元勲の一人である松方正義公爵の三男でBK(現在のNHK大阪放送局)の役員をしていた関西財界の有力者であった。東京が侯爵なら大阪は階位が上の公爵を持ってきたわけである。まだ社会的にはプロスポーツとは認知されず警察などからは「遊芸稼ぎ人集団」扱いをされていたプロ野球界はトップに上流階級の名士を据えて重みを加える陣容を構えるのに懸命だったのだ。

東と西の大都市を本拠地とした両球団はやがて人気を博すようになったが両者が直接対戦する機会はなかなか巡って来なかった。昭和11年には巨人軍は二度に渡って米国へ遠征を行ない春季大会が開催されていた頃は不在だった。6月5日の帰国を待って7月1日から早稲田の戸塚球場で東京大会が開催されたが巨人軍は早々に敗退。7月10日からは甲子園球場に場所を変えて大阪大会が開催されたがここでも巨人軍はタイガースと対戦する前に敗退してしまい両者の対戦はこの時も実現しなかった。当時はトーナメント方式だったので1つ負ければ即終了であった。

ようやく7月15日の名古屋大会で対戦が実現。巨人軍が6対3とリードしたが終盤にタイガースが5点を奪い逆転勝利を収め、タイガースはこの名古屋大会で初優勝を成し遂げた。一方この無様な敗戦に業を煮やした巨人・藤本監督が群馬県茂林寺で伝説となった猛練習をする事となる。今でも語り草になっている巨人の存亡を賭けたキャンプはまだ残暑厳しい9月5日から12日まで行なわれた。藤本は生前に「あの時は早稲田の後輩の三原(脩)が助監督の肩書きで先頭に立ってやってくれた。俺なんかより彼がその後の巨人軍を創り上げた功労者だよ」と語っていた。まさに血ヘドを吐くようなシゴキに耐えた選手達は蘇えった。

秋季大会は4つのリーグ戦と2つのトーナメント戦の混合ポイント方式でそれぞれの勝者に勝ち点が与えられ年度優勝を決めるシステムになっていたが巨人軍とタイガースが同点となり優勝決定戦が行なわれる事となった。その対決が日本プロ野球史に残る名勝負のひとつに数えられている「洲崎の決戦」である。



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#277 カラ回り

2013年07月03日 | 1982 年 



岡田彰布(阪神)…昨年暮れ第22代監督に就任した安藤監督も「岡田・掛布・佐野でクリーンアップを組みたい」と所信表明し現に開幕オーダーの三番には岡田の名前があった。109安打・ 18本塁打・54打点(1年目)、140安打・20本塁打・76打点(2年目)と順調に成績を伸ばし「3年目の今年こそタイトルを」と周囲の期待も大きかった。しかし開幕2試合目に初アーチを放ったまでは良かったがその後は惨憺たる状態で打率は1割台をウロウロし打順も三番→五番→七番と下がる一方。3月1日に婚約を発表して幸せ一杯の天国から地獄へ突き落された。どちらかと言えば普段から口数の多い選手ではないが野球人生初の大スランプとあって更に口数は減りチーム内での存在感さえ失いつつある。

「岡田はこんなモンだよ」…ある評論家は容赦なく吐き捨てた。「元々プルヒッターの岡田に『やれ右打ちとかチームバッティングを』などと注文し過ぎ」また別の評論家も「岡田に二塁を守らせている間は3割&30本塁打を求めるのは酷。守備の負担が大きい二塁手なら2割5分&20本塁打で御の字」と。確かに今年の岡田は守備に神経を注いでいる。甲子園球場の一・二塁間の芝生を2.9mも後方に刈り込んでもらい守り易くした。本職の三塁には掛布がドンと構えている以上、岡田が阪神でスタメン出場するには二塁手として活路を見い出すしかない。

5月17日の巨人戦で今シーズン初の猛打賞(4安打)と打撃上昇の気配を期待させたが「原が13本も14本も本塁打を打てるのは守り慣れた三塁に固定されているから。気楽な三塁を守っている原がポロポロとエラーしまくっても誰も文句は言わないのは本塁打王争いしている選手に守備の上手さまで求めないから。チームバッティングを強いられ、更に守りまで完璧を要求される岡田は気の毒だよ」との声も多い。



島田 誠(日ハム)…昨年の今頃は近所のチビっ子が「サインを下さい」と島田のマンションまで押しかけたがファンは正直だ。怪我に泣き打撃が湿りっぱなしの現在、逸子夫人が子供たちの来襲に悲鳴を上げていたのが嘘のように静まりかえっている。暖かい沖縄の名護キャンプで古傷の右ヒジを痛めたのが躓きの始まり。痛むから右脇が開き、開くから振り切れず速球に詰まり凡打を繰り返す。昨年前期だけで27盗塁した足も宝の持ち腐れ状態。悪い事は重なるもので「打撃がダメなら守備力向上を…」と特守をしているうちに左ヒジまで痛めてしまい満身創痍のままシーズンに突入してしまった。

「古葉じゃね~けどよ、ビンタのひとつも喰らわしてやりてぇよ。あれだけのセンスの持ち主がチョンボばっかりしやがって…」と大沢監督は嘆くが、あるベテラン投手は「あの体格でやるのは大変だと思うけど去年までは怪我をしても直ぐに戻って来た。オフの間にやるべき身体の手入れをサボっていたんじゃないかな。自業自得だよ」と更に手厳しい。打率.179 盗塁4個は昨年、右足を怪我するまで落合や石毛と首位打者争いをし、一時は盗塁王の福本を脅かす存在であった男と同じ選手とは思えぬ成績だ。見かねた大沢監督は8試合も一番から外す荒療治をうったが効果は無かった。

業を煮やした大沢監督が「痛いの痒いのと御託を並べてんじゃねぇ。性根を入れ替えてやらね~とクビだ!」と叱責し一番に復帰させた。「エエ、僕自身にも甘えがありました。一歩一歩借りを返して行きます」と再出発を誓った。その御蔭か阪急戦で山田投手から16試合・33打席ぶりの安打に続き西武戦でも2安打するなど微かではあるが復調の兆しを見せ始めた。「将来は生まれ育った福岡へ帰って子供を育てたい。その為にも広い土地を買わなくちゃならない。こっちで狭いマンションで我慢しているのも将来の為に貯えたいから」最初は住みにくかった東京のマンションも近頃では逸子夫人は住めば都らしく快適に暮らしている。早朝からまたチビっ子たちがサインをねだりに島田家のブザーを鳴らし逸子夫人が「福岡に帰りたい」と愚痴をこぼす日が来るのも近い?



柳田 豊(近鉄)…投球の際にピョンピョン飛び跳ねる「ニャロメダンス」が今年はどこか物寂しい。強靭な下半身のバネを生かした特異な投球フォームなのだが「腕の振りと下半身の動きがバラバラで手投げになってしまう…」と柳田は自己分析する。一方で首脳陣は「投球フォームもだが今年は気持ちが空回りしている」とメンタル面を指摘する。

今年の沖縄キャンプは「プロ入りして一番練習をした」と振り返るほど充実していた。開幕投手を念頭に置き質量ともに体をいじめ抜いた。記録上は昨年柳田はプロ12年目にして初めて開幕投手を務めた。だがそれは雨で2試合が流れた末の「補欠の補欠の開幕投手」だった。今年こそ正真正銘の開幕投手を目指しキャンプ・オープン戦を怪我なく過ごし見事にその座を射止めた。しかし7失点で4回KOの憂き目を見る結果に。スタートに躓いた影響は大きく5月21日時点でも勝ち星はゼロと浮上の気配は見られない。もう一人のエース候補だった井本も出遅れているが井本の場合は右肩痛と原因がハッキリしているだけに気持ちの整理はつくが柳田の場合は身体の故障が原因でない分、焦りは大きい。

ハーラートップの久保を筆頭に谷、村田、橘ら若手・中堅投手が踏ん張って優勝戦線に食い込んでいるだけに心中は余計に複雑だ。「自分なりに一生懸命やってきたつもりなのにこんな情けない結果にイライラする」焦れば焦るほど泥沼に嵌っていくのが現状だ。不振打開に縁起担ぎをしないのもまた柳田らしい。「そんな事が通じるのならスランプになるプロ野球選手なんかいるもんか」ただ「他人に後ろ指をさされたくないから」とチーム一の酒豪が遠征先での外出は一切断っている。



田代富雄(横浜大洋)…「目標は40本塁打。それをクリアしたら1本づつ積み重ねてタイトル争いに加わりたい」契約更改の席でもキャンプ初日にも、そして開幕前にも同じ台詞を繰り返してきた。自分のバットがチームの浮沈を左右する立場となったプロ入り10年目の決意表明だった。だが開幕から7週間を経て田代の心境は重い。空転とまでは言えないが思い描いていた本塁打数には程遠い。開幕当初は本塁打こそ出なかったが13試合を経過した時点で無安打試合は2試合だけの打率.333 と好調だったが徐々に下降し始め、5月17日現在で打率.202・6本塁打とスランプに陥ってしまった。

技術的には「球を迎えに重心の位置が投手寄りに移動している。だから後ろ足が伸びきって左肩が早く開いてしまいスイングにパワーが伝わっていない(関根監督)」「体の開きが早くてヘッドスピードがつかない(松原打撃コーチ)」と指摘しているが本人も重々分かっていて本人としては修正出来ていると感じているだけに始末が悪い。年間40本塁打をクリアするには3.2試合に1本のペースで打つ必要があるが、現在の5.7試合ペースだと達成は難しい。

新外人・ラムの活躍で活性化した打線に煽られて必要以上に力みが生まれ打撃フォームに僅かな狂いが生じ当たりが止まり、それが焦りを呼び更にフォームを崩し長期間のスランプに陥る悪循環にはまってしまった。しかし、ここへきて立ち直りの兆しが見えてきた。関根監督の何気ない一言「評論家時代から見ていてアイツは1年のうち必ず1ヶ月くらいのスランプになるのは分かっていたから心配はしていないよ」がきっかけだった。「まさに目からウロコだったよ。言われてみれば確かに毎シーズン必ず打てない時期があったんだ。今年は巨人の原クンが快調に飛ばしているのが気になって我を忘れていた。スランプがたまたま今にやって来たんで例年通りじきに打てるようになる、と考えたら気が楽になった」と田代に笑顔が戻ってきた。
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