Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#203 がんばれ!タブチくん

2012年01月25日 | 1981 年 



その昔 『がんばれ!!タブチくん!!』 という漫画で面白おかしく題材にされていましたが、田淵という選手は「天性のホームランアーチスト」と呼ばれ王の14年連続本塁打王のタイトルを阻止した天才でした。それを知る世代の人間は 『がんばれ・・』 で笑いのネタにされる田淵に複雑な思いをしたもんです。


まさに異例中の異例の出来事。プロ野球選手がシーズン中に神社へ厄払いへ行く羽目になるとは・・秋田市へ近鉄戦の為に遠征した際、市内から車で20分ほどの太平山三吉神社を訪れた田淵。前々日の試合で一塁から三塁へ「激走」してスライディングした時に古傷の右ヒザを痛めてしまった。診断の結果は「右ヒザ関節捻挫で全治10日の安静が必要」との事。今年の田淵はツイてない。思えば昨オフからケチがついて御難続きだった。ワラにも縋る思いで厄払いにやって来たのだ。

ゴルフの最中に右足首を捻挫して1ヶ月間のギプス生活。しかもその間に博子夫人との離婚騒動が起こり一時は裁判沙汰に発展しかけたが、有力後援者の仲裁でどうにかキャンプ前には協議離婚で一件落着。オープン戦では右ヒザを打撲して全治10日。開幕して2試合連続本塁打を放つも以降はパッタリ当たりが止まり96打席も一発が出ないスランプに陥る。その最中にジャネット八田さんとの醜聞が週刊誌に書かれ球団から1週間の謹慎処分を受け、おまけに自分が不在の間はチームは絶好調ときては立場がない。

「指名打者だから打球を追ってフェンスに激突したわけではなく、ただスライディングしただけで捻挫した。野球選手として当たり前のプレーをしたら怪我をするとは、いかに普段の練習を怠っているという証拠ではないか。ときどきホームランを打ってスターでござい、年俸3千万円でございと言われてもねぇ・・」 現在の田淵を見つめる眼はシビアである。確かに球団創設に際して目玉選手として三顧の礼で向かえられたが西武という組織は非常さも持ち合わせている。田淵の移籍には大きな代償を払っていて当時のクラウンが手塩にかけて芽が出始めていた若菜や真弓の有望若手を手放している。一昨年、政財界のお歴々を招き東京プリンスホテルで開かれた球団結成披露パーティで堤オーナーが「1年目は勝敗を度外視した顔見せ興行。田淵くんのようにとにかく明るく愛されるチームになって欲しい」と発言したように田淵の役割は成績ではなく明るいイメージ作りであった。その意味では田淵人気で旗揚げ興行は成功したが果たして田淵のトレードそのものは成功したのかと問われれば疑問符がつく。

加えて今回の女性スキャンダルが起きて、クリーンさ大事にしている西武にとって看過できない。成績は残せない上にイメージもダウンでは田淵の存在意義が無いのだ。斬新な新球場、豪華な宿舎をはじめとした諸設備にふんだんな投資を惜しまず、年俸も他球団の選手が羨む金額を積む一方で「商品」としての価値が無いと判断したら容赦なく切り捨てる面もあるのが西武だ。球団内部では今回のスキャンダルに対して「阪神が次世代監督候補と思われていた男をアッサリと捨てた理由が分かった。田淵という人間は所詮、指導者の器ではない。ボンボンで人の上に立てる器量はない」との評価が下されている。謹慎処分期間中にジャネット八田さんとの結婚を正式に発表した事で今回はこれ以上のお咎めは免れたが、本気で心を入れ替えて真剣に野球に向き合わないと田淵の野球人生は早々に終わってしまうかもしれない。



離婚の5年前、新婚2年目のツーショット。既にビニョ~な空気を漂わせています・・



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#202 いぶし銀

2012年01月18日 | 1981 年 



前回の若手に続いて今回はベテラン選手たちの紹介です

基満男(横浜大洋)…今年プロ入り15年目を迎えた基は開幕早々のヤクルト戦で通算1500本安打を達成したが、それ以降はチーム同様に精彩を欠いている。よくあんなフォームでヒットが打てると言われるくらい基の悪球打ちは有名だ。顔の高さ位の糞ボールを大根切りで弾き返したり、内角へ食い込むシュートを無理やり流し打ったり。こうした一打はヤマを張っているのではなく相手投手の配球を読んだうえでの狙い打ちなのだ。「若い時はベンチに戻るたびに気づいた事をメモに書いていたけど今は頭の中に書いてる」そうだ。昨年はチームで唯一人ベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞をダブル受賞した。基のプロ入りは寂しいものだった。突然に父を亡くし残された母や弟を養う為に駒大野球部を辞めて神戸の篠崎倉庫へ入社したものの充分な給料は得られず、知り合いのツテを頼りにテスト生同然で西鉄に拾ってもらった。「そりゃあ必死だったよ。なんとしても銭を稼がにゃあならんかったから。練習前に合宿所で最低200本のティーバッティングを中西(現阪神監督)さんに見てもらった。今でも中西さんには感謝している、モノになるかどうか分からん若造に付き合ってもらって」西鉄時代の良き仲間だった福富や船田が38歳まで現役だったから自分もあと4年はプレーしたいと考えているそうだ。「彼らには負けたくないからね。この体格で1500本もヒットを打てるとは思わなかった。正直言って体はしんどいけど、まだまだ辞められんよ」 
【 通算 1734安打 打率 .273 189本塁打】



山崎裕之(西武)…「山崎さんの一言で "よし頑張ろう" と思いました」今季2度目の完投勝ちした杉本投手が試合後に語った。初回一死後、河埜に中前安打され続くメイの併殺コースのセカンドゴロを山崎がトンネルするミスを発端に2失点。続く2回には二死後に藤原を四球で歩かせると山崎がマウンドへ歩み寄り「さっきはスマンかった。だがバックを信用してくれ、打たせて捕るお前のピッチングをすれば俺たちが守る」と一声かけた。杉本は立ち直り2回以降は南海打線を2安打に抑えた。あの山崎が…。ロッテ時代を知る人たちはそう思うに違いない。山崎が若手選手の精神的な支えになる事など信じられないであろう。ロッテに在籍していた時の山崎は孤独だった。「人嫌いになった時期が確かにあった」と山崎は振り返る。ドラフト制度が施行される前年つまり自由獲得競争の最後の年の昭和39年、山崎は埼玉・上尾高からプロ入りした。「長嶋2世」の呼び声高い大型遊撃手の獲得競争は熾烈を極めて契約金は当時の5千万円、現在で言うと1億2~3千万円まで跳ね上がった。入団後の高卒新人への風当たりは強かった。当時の東京オリオンズ(現ロッテオリオンズ)は田宮・葛城・山内など一癖も二癖もある猛者揃いで大金を手にした山崎はチームメイトから孤立していった。「誰も話しかけてくれない。打てなければザマァミロという眼で見られ、エラーをすると契約金ドロボーと陰口を言われた。まだ18歳の子供にですよ」と山崎は懐述する。ロッテ時代には心から語り合える同僚はいなかった。そういう世界なのだと諦めていたがトレードで新設球団の西武にやって来ると状況は一変した。プロ22年目の最古参・土井に「お前がチームのまとめ役をやれ」と言われ選手会長になった。これまでのプロ生活で培ってきた職人芸をいかんなく発揮できる場を与えられた山崎は水を得た魚の如く生き生きしている。「与えられた役目を完璧にやってのけたい。皆で力を合わせて優勝する事が目標です」人間嫌いから一転、今や西武の心技両面で支柱となっている。
【通算 2081安打 打率.265 270本塁打】



藤原満(南海)…日ハムとの開幕戦で木田と江夏相手に5打数3安打と好スタートを切り開幕8試合連続安打し、一時は打率.480 でトップに立った。「首位打者?早い早い。まだ始まったばかりだよ、でも好調の原因はケガの功名かな」ケガの功名とは、3月初旬の紅白戦で右手小指を脱臼してしまいオープン戦の出場時期が例年より大幅に遅れた。試合に出れない間は走り込みをして下半身を鍛えた。去年のオープン戦は絶好調だったが「それで舐めてしまった。ヒットなんていつだって打てると勘違いしてシーズンに入ったら全然打てない。おまけに左トリオがガンガン打つのに煽られて大きいのを狙ったらドツボにはまり開幕して暫くは1割台をウロウロ…」開幕連続安打は8試合でストップして打率も.349 と下がったが「そういつ迄も打てる訳がない。打てない時期があるのが当たり前で調子の悪い時にいかに1打席を大事にするかが大切なんだよ」 藤原が「1打席」の大事さを強調するのには訳がある。昭和51年のペナントレースで太平洋クラブ・吉岡と首位打者を激しく争って僅か7厘差で敗れた経験があるからだ。プロ入り13年目。ベストナイン・ダイヤモンドグラブ賞には選ばれているがタイトルとは無縁。年齢的にもタイトル奪取のチャンスはそう巡っては来ない。「あの時に、1打席の重みを教えられた」「まずは3割を確実に打って、あとはコツコツ1本ずつ積み上げる。それには1試合1本が絶対条件、そう考えると無安打試合が続くのが最悪」 1180㌘のタイ・カップ式バットを手に打席に立ち、4度目の3割と初の首位打者を目指す藤原の働き如何が南海の浮沈を大きく左右する。【 通算 1334安打 打率.278 65本塁打 】


山崎は2千本安打も達成した一流選手ですが指導者には無縁です。名球会にも所属していて球界での人脈も有ると思いますが、やはり人間嫌いのせいでしょうか?余談になりますが、昔のベテラン選手はまさに「ザ・オッサン」でしたが最近は40歳過ぎの選手も昔ほど老け込んでいないと言うか、若いですね。それとも自分がオッサンになったから感じないのか・・今の若者には阪神・金本や中日・山本昌は充分にオッサンなんでしょうね?当時のロッテ・張本が今の金本より3歳も年下だったとは思えないですけど。昔はベテラン選手の多くがブクブクと太っていたから老けて見えたのでしょうか。
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#201 頭角を現し始めた新戦力

2012年01月11日 | 1981 年 



高橋正己 (仙台鉄道管理局→日ハム)…プロ2年目ながら既に26歳。昨シーズンまでの「阪急キラー」だった高橋直樹の穴を充分に埋める活躍だ。5月16日の阪急戦の完投勝利で早くも3勝目。「別に去年と大して変わりないっスよ。宮田コーチの助言で腕を少し上げた事くらいかな。それでシンカーの落ちが良くなった気もするけど」と好調の原因は本人にも今ひとつピンときてない。「去年は右も左も分からず落ち着きがなかったかな。何かにつけて同期の木田と比較されてイライラしていたのは事実。でも俺がイラつくのはお門違いだよな、木田がイラつくなら分かるけど」 「向こうは最多勝・新人王・MVP・・・こっちは2軍で7勝7敗じゃあ比べる事すら失礼ってモンだ」 仙台生まれの仙台育ちで東北人特有の感情を表に出さない気質なのか余り自己主張は強くないがマウンド上で感情を露にする木田を「陽の闘魂」とするなら高橋は「忍の魂」であり、木田に対する内なるライバル心は赤々と燃えている。木田に去年のような勢いが見られない今、高橋が追いつき・追い越そうとしている。 
【 通算 50試合 7勝 11敗 防 4.54 】

小嶋正宣 (東芝→阪急)…木田をライバル視している選手がもう一人いる。木田と同じ昭和29年生まれで、木田より1年遅れで今年阪急にドラフト外でプロ入りした投手。5月20日には初勝利をあげたが、その時の感想は「長かった…」 それは4度目の先発だったからではなく彼の野球人生がそう言わせたのだ。埼玉県・鴻巣高の卒業時にはプロからの誘いはなく東洋大へ進学するも下級生の時は松沼・兄、上級生になった時には松沼・弟がいた為に主戦投手にはなれず大学通算2勝に終わった。当然、プロから注目される事なく三協精機へ入社した。心機一転、社会人で腕を磨き念願のプロ入りを目指したが三協には後に阪神へドラフト1位指名でプロ入りする同じ歳の伊藤文隆がいた為に小嶋はまたもや「控えの存在」から脱却出来なかった。やがて三協精機野球部が解散する憂き目に会い東芝へ移るが、そこにも「社会人野球界のエース」と呼ばれた黒紙義弘がいた為に目立たぬ投手に変わりはなかった。東芝は木田が所属していた日本鋼管と同地区であったので都市対抗野球の予選で常に顔を合わせていた。 「木田とは格が違い過ぎますよ」と本人は一言で片付けるが、言葉とは裏腹に踏まれてもなお這い上がって来る雑草の逞しさが垣間見える。木田と同じ背番号16へ上田監督の「先発グループの軸として考えている」との御墨付きが、もう日陰の花ではない事を表している。
【 通算 75試合 8勝9敗 防 4.23 】

高浦美佐緒 (三菱自動車川崎→大洋)…「高浦美佐緒」で最初に注目されたのは法政大学時代の「江川の教育係」の経歴だった。ドラフト外、27歳でのプロ入りは大洋の話題作りとの批判通り1年目の成績は4試合・3打数・0安打と散々だった。しかし、正捕手・福島の故障で高浦にチャンスが巡って来た。「緊張で喜びを感じる暇もありません」という高浦だが、弱投と言われる大洋投手陣を巧みにリードしている。「2年目の捕手とは思えないね」と捕手出身の土井監督も合格点を与えている。今は自軍の投手を知るのに精一杯で対戦球団の打者にまでは目は届かない。試合後はチームメイトが球場を後にしても、スコアラーと残りデータ分析に時間を割いている。「江川の記事」の刺身のツマでしか名前が出る事がなかった高浦が、一人のプロ野球選手として脚光を浴びつつある。
【 通算 179試合 54安打 4本塁打 打率.192 】

達川光男 (東洋大→広島)…昭和48年、夏の甲子園大会に広島商の捕手として出場して全国優勝を成し遂げ、東洋大に進学後も1年生からマスクを被ったエリートである。広島の実家はタクシー会社を営み生活も恵まれたお坊ちゃんだ。プロ入り当時は水沼が正捕手の座をガッチリ築いていた為に新人捕手の出番は少なかった。そうした状況を打破するべく猛練習をするわけでもなく野球を甘く見ていたフシがあった。しかも大差がついた試合で出場機会を与えられると盗塁を2度刺したり決勝の本塁打を放つなど結果を出した為に本人の慢心は治らなかった。2年後にPL学園の山中潔、3年後に広陵高の原伸次の2人の捕手が入団した事でようやく達川の尻にも火が点いた。オフの間の休日は正月三が日のみ。キャンプ中の夜間練習も皆勤、練習後も一人素振りを繰り返した。しかし生来のノンビリ屋がやがて蘇えって来て、オープン戦の頃には元の達川に戻ってしまった。事件が起きたのはオープン戦も中盤に差し掛かった頃だった。試合前のランニング中の達川の左頬が青く腫れていた。同じミスを繰り返す達川に業を煮やした古葉監督に「愛のムチ」を喰らったのだ。そしてこの日から明らかに達川から甘えが消え試合中は勿論、試合前や後も投手陣とのコミュニケーションも怠りなくするようになり信頼も得つつある。開幕してから水沼の調子が上がらず、首脳陣は達川の出番を増やしつつあり世代交代も視野に戦っている。 
【 通算 1334試合 895安打 51本塁打 打率.246 】

一番チャランポランにプロ野球生活を送っていた達川が、一番息が長かったのは皮肉です。所詮は結果を残した奴だけが生き残れる世界、いかに努力したのかは重要ではないと言う事ですか・・・
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コメント返信

2012年01月01日 | 独り言  
週イチで投稿していた頃は毎週ブログをチェックしていましたが、「予約投稿」に設定した事でブログ編集を開く必要が無くなり数週間もブログ管理が放ったらかしになる事が当たり前になっています。そのせいもありコメントの確認も遅れて返信が遅くなっています。スンマセン <(_ _)> 。。。
コメント (8)
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