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買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 691 週間リポート ヤクルトスワローズ編

2021年06月09日 | 1977 年 



売れ売れ!スターに仕立てろ
ヤクルトが看板商品 " サッシー " の大々的な売り出し作戦を展開中だ。松園オーナーが自ら長崎に乗り込んでお披露目発表をしたのを皮切りに東京でも長崎の規模を上回る入団発表を行った。12月20日、新橋のヤクルト本社6階の大会議室に酒井をはじめドラフトで指名した新人と移籍組の合わせて8人が顔を揃えた。「(酒井は)全国区の人気者ですから賑やかにお披露目してあげないと(フロント幹部)」と事実上は酒井の為の入団発表だった。集まった報道陣からの質問も酒井ひとりに集中し、プロ12年目の倉田投手(元巨人)や13年目の伊勢選手(元近鉄)らも完全に脇役に追いやられた。

たまりかねた?広岡監督が「酒井君らドラフト組は皆素晴らしい素質の持ち主だが、来年の戦力とは考えていない。トレード組を即戦力として計算に入れている」と発言して、酒井一辺倒の雰囲気に面白くなさそうに仏頂面をしていた移籍組をわざわざ持ち上げるシーンがあった程だ。それにしても球団の酒井にかける期待度の大きさといったらどうだ。ドラフト制度が始まって12年目で引き当てた " イの一番 " に対する売り出し以外の何ものでもない。お披露目を二度もやっただけでは留まらない。お次は自主トレの公開PRである。

年が明けた1月4日、酒井は地元長崎で自主トレを開始した。ただでさえマスコミの注目が集まる中、この自主トレに何とエースの松岡投手が駆けつけて大騒ぎになった。松岡の合流はもちろん球団からの指示だった。かねてより酒井は「僕の憧れは松岡さん。松岡さんみたいに速球で勝負できる本格派になりたい」と言っており、酒井の希望を叶えるべく球団が郷里の岡山でノンビリ正月を過ごしていた松岡に長崎行きの指令を出したのだ。「普通なら何を馬鹿な、と断りますがヤクルトが本社をあげてルーキーを売り出すと聞いたら協力しないとね。俺を目標としてくれているのも悪い気はしないし(松岡)」と苦笑い。

松岡の岡山から長崎までの飛行機代やホテル代、更には松岡には " 出張扱い " として球団から日当が支給された。また酒井の練習開始時間や松岡の到着予定時刻なども克明にプリントして報道陣に配布をする手際のよさである。『ヤクルトの星、地元長崎で希望に満ちた始動』…こんな新聞の見出しとテレビ・ラジオでの大々的な報道の効果を球団は狙っているのである。「大勢の人に囲まれてインタビューを受けると甲子園のマウンドよりも緊張します」と頬を紅潮させる酒井。いずれにせよスター不足のヤクルトが打った売り出し作戦。これが酒井の将来に影響を及ぼすか注目したい。



熱が下がって評価は上がる
梶間投手の評価が上がり、サッシーの熱が下がった。3月6日に長崎で行われた大洋戦は完封負けしたが新人の梶間が先発ローテーション入りを確実にする快投を見せた。一方で長崎出身で凱旋登板する予定だった酒井投手は流感に感染し欠場となった。梶間は先発して5回を2失点。5回一死から4連続安打で失点し敗戦投手になったが、当たり損ねの打球が2つの内野安打になる不運もあった。上・横・下手と変幻自在の投球を披露し3回まではパーフェクトピッチングで広岡監督も「先発・救援どちらでも使える。文句なしの即戦力」と合格点をつけた。「少し疲れが出て肩が重かった。まぁ70点くらいかな」と梶間は淡々と自身の投球を振り返る。

酒井の球場入りはヤクルトの守備練習が始まる正午少し前。それまで酒井は宿舎の長崎グラウンドホテルの自室で横になっていた。風邪をひいて2日間続いた40度近い高熱は抗生物質のお蔭で平熱に下がったが、まだ体がふらついていたので休んでいたのだ。とても試合で投げられる状態ではなかったが球場には地元が生んだ怪物を一目見ようと1万人を超すファンが駆けつけ熱気でムンムンしていた。スタンドには " 頑張れ酒井圭一君 " の横断幕が張られ、ON並みの拍手に酒井は照れくさそうに頭を下げた。「風邪さえひかなければ…次に長崎に来る5月の公式戦(対中日戦)に投げられるよう頑張ります」と話すのが精一杯だった。

松園オーナーが決めた郷里での予告先発も風邪をひいてお流れとなった。事前に酒井の登板中止は地元のテレビニュースで告知されたが、早朝の7時頃から球場内の事務所に酒井は登板するのかどうかの問い合わせ電話が鳴りっぱなしだった。ファンの出足は良く開門時間を1時間早めた。先発は無理でも1イニングくらいは投げるかもしれないという期待があったのかも。酒井の体調を心配した松園オーナーが「無理はさせるな。すぐに帰京させるように」と電話で直々に命令を下した為、当初は球団側も酒井をホテルで待機させようと考えていたが球場に詰めかけたファンの為に急遽の顔見世となった。



力に負けた?徳永代表去る
ある程度は予想されていたが徳永喜男球団代表(65)が3月14日に退任した。同日、球団の株主総会がヤクルト本社で開かれ佐藤邦雄球団社長の留任、徳永常務の代表退任と相馬和夫専務(49)の球団代表就任人事を承認した。冒頭で「ある程度」と表現したが徳永前代表の更迭問題は数年来ウワサになっていた。しかし球団きっての、というよりセ・パ両リーグの球団フロントの中でも最も野球に精通していると評価されているだけに意外感は否めない。佐藤球団社長が本業の弁護士業務が多忙の為、出社できるのが月に10日程で相馬専務も野球に関しては素人同然なので「徳永さんの存在は球団にとって便利このうえなかった」とヤクルト担当記者は言う。

だが野球の世界と同様にフロント陣にも勝負の責任が追及されるのが常だ。チームの勝敗の責任は監督に、助っ人外人選手の選考の是非はフロント陣にある。ジャクソンやロバーツはともあれチャンス、テータムに始まり最近ではあの悪名高きペピトーン獲得の失敗の時点から大リーグ通でもあった徳永前代表に批判の矛先が向いていた。更にフロント内部の不仲も更迭劇に拍車をかけた。毎年のように揉めるコーチ人事。フロント内部で意見を統一して松園オーナーに上げず、派閥毎で異なる人事を提案するので毎度差し戻し。徳永前代表は鈴木セ・リーグ会長の懐刀として連盟内では力を発揮できてもヤクルト社内では無力に等しかった。

新たに就任する相馬代表にも課題は山積する。代表職といえば試合の管理人を兼ねる。本拠地はもとより遠征にも常にチームと同行して監督、コーチ、選手の管理掌握からトラブルの収拾まで球界の裏の裏まで精通していないと代表は務まらない。球団関係者の間では若い相馬代表は実は松園オーナーの信任が厚い田口総務部長が代表に昇格するまでの繋ぎ的な見方が多い。二軍監督時代から松園オーナーと懇意だった田口部長。その田口部長と徳永前代表の不仲ぶりは本社内でも有名だった。徳永前代表が球団を去った今こそ田口部長の代表就任への障壁は無くなったのだ。

もっと遡れば更迭された荒川前監督の擁護派の中心が相馬代表であり、排除派は佐藤球団社長を中心とした徳永一派。当時から荒川前監督の処遇に関してはフロント間の対立が裏の要因と言われていた。更に穿った見方をすれば既に広岡監督の後任の大本命とされている武上コーチを巡って推進派と排除派の対立が早くもフロント間で始まっているという。広岡監督が求めていた森昌彦氏のヘッドコーチ入閣もフロント間の対立のせいで実現しなかった。オープン戦で好調をキープしているヤクルトだが人事を巡る暗闘は深く静かに燻ったままだ。

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1 コメント

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徳永喜男氏 (るるる)
2021-09-18 14:31:34
球団史も編纂している徳永喜男氏には以前から興味を持っています。
ペピートンの件で立場を失ったというのは初めて知りました。
この記事では荒川排除派とも書かれていますが、彼はそれ以前に広岡の応援会長みたいな人だったんですよね。
越智正典氏の著書によると国鉄球団幹部にも関わらず巨人の選手である広岡の下宿にたびたび出入りしていたほど。
翌年、日本一になりながら広岡が一度は退団を決意したのは徳永氏がいなくなっていたことも大きいでしょう。

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