Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 707 頼もしきホープたち ②

2021年09月29日 | 1977 年 



愛児の名を呼びながらの快投
あれはまだ西宮第二球場に六甲おろしの寒風が吹きつけていた1月中旬の頃だった。「トレードで移籍した戸田投手の穴を埋めるのは誰ですか?」と上田監督に尋ねると「そりゃやっぱり今井やで(上田監督)」と即答した。しかしキャンプで目立ったのは移籍組の稲葉投手・永本投手であり、新人の佐藤投手だった。はてあの時の監督の言葉は何だったのか。そう思い始めた頃、オープン戦で今井投手はめっきり頭角を現してきた。二度のショートリリーフを無難にこなし、3月上旬の阪神戦で勝ち投手になると13日の巨人戦で完封勝利した。そして山田、足立、山口投手に次ぐ第4の先発ローテーション入りを手にしたのだった。

雪深い新潟県長岡市生まれの27歳。中越高から新潟鉄道管理局に就職してノンプロ生活を4年過ごした。昭和45年のドラフト会議で阪急に2位指名されて入団。プロ2年目と3年目に1勝ずつしているが、共に優勝決定後の消化試合であげたもので一軍の戦力とは言い難いレベルだった。なので昨年の8月4日の日ハム戦での勝利が実質的にはプロ初勝利だと本人も言っている。9月7日の日ハム戦で初完封をマークするなど後期優勝に少なからず貢献できたとの自負が今井にはある。遅咲きの花が花弁を一枚ずつ開いていくように、今井自身にも胸の内にあったプロ野球の世界でやっていけるのかという不安が少しずつ消えていった。

行先は球に聞いてくれ!これが今井のこれまで選手生活の大半を二軍で過ごさねばならなかった技術的欠陥の全てだ。球速がそこそこあったのでクビにこそならなかったが、制球力不足に加えて精神面の弱さもあり、なかなか陽の目を見ることはなかった。もともと酒はいける男で、自分の不甲斐なさを一升瓶片手に合宿所で毎晩のように呑んだ。プロ入り直後に初めて目にする華やかな都会生活に「好きな野球をやって金が貰えて、酒も呑めるなんてこんないい商売はない」と周囲に話していた。ただ本人の為に断っておくが今井の酒は呑んで荒れるという酒ではない。翌日の練習や試合に差し支えたりはしない。ただ呑んで日頃の鬱憤を晴らすだけだ。


結婚と長男誕生でプロ選手の " 欲 "
そんな今井がプロ野球選手として欲が出始めた頃に恵美子夫人と知り合う。昭和50年1月に結婚、翌年には長男・有樹くんが誕生した。現在は大阪市内の公団住宅で暮らす。どのチームメイトに聞いても「結婚して今井は変わった」という。結婚を機にプロとしての自覚がより一層増したのは容易に想像できる。恵美子夫人はこんな話を打ち明けた。「結婚を決めた時も明確なプロポーズはありませんでした。でも主人の性格ではそんなものかなと思っています。結婚後の主人は欲が出たというか自覚が増した感じがします。今の家は西宮球場から遠いので主人には気の毒なんですが、もっと稼げるようになったら引っ越そうと話しています」

子煩悩ぶりも人一倍で長男を「有樹くん」と呼んでいる。これは自分がマウンド上で勇気を出して投げられるよう「ユウキ」と名付けたそうだ。177㌢・76㌔のガッチリした体格に大きな目と鼻で見た目はいかついが少々気弱な性格の今井らしいというか、マウンドに生活をかけている現在の心境が表れている。1球投げるごとに勇気を出して投げるように愛する息子の名前に励まされるというわけだ。チームメイトからは " 雄ちゃん " と呼ばれて人気者だが、人の善さはプロの世界ではマイナスとなることも。他人を押しのけてでも自分が、自分がというタイプでないと生き残れない厳しい世界なのだ。

「現在では色々な球種を投げ分けられるし、コントロールも決して悪くない。だから先発ローテーションに入れたんだ。でもこの試合は絶対に落とせないという大事な登板では堅くなり過ぎて実力を発揮できなくなる。それさえ克服できればもっともっとやれるんだがね」と植村投手コーチは言う。徐々にだが精神面も強くなってきている。「要するに自分に自信が持てるかどうかなんだ。2~3年前までは打たれると『あぁまた二軍行きか…』とビクビクしながら投げていたけど、最近はどうにでもなれと開き直れてる。普段通りの投球をすれば打たれない自信がついたよ」と今井本人も気持ちの変化を感じている。

今や心・技両面で成長したというのがチーム内で一致した意見だ。投球のコツも憶え精神面も改善されている。また自分自身の弱点をはっきりと口にするあたりは本当に真面目な性格を表している。こんな裏表の無い性格がチームメイトから " 雄ちゃん " と親しまれている証だ。そんな雄ちゃんがシーズン前のオープン戦で巨人相手に完封勝ちした時に取り囲んだ報道陣を前にして「オープン戦でいくら勝ってもお金にはなりませんからね」と少し照れながら言った。この言葉に今井がプロらしくなったと感じた関係者は多かった。プロ7年目の意地と意欲を「ユウキ」を以て明言した、恐らく今井雄太郎はじめての挑戦であろう。
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# 706 頼もしきホープたち ①

2021年09月22日 | 1977 年 



パ・リーグの3強は只今、南海・近鉄・阪急の3チーム。その強さを支える一つに首脳陣が期待していたホープさんたちの活躍がある。そしてこの近鉄・井本、阪急・今井、南海・藤田のヤング投手たちのこれからの力くらべがパ・リーグのペナントを左右するに違いない。

チョンボもツキに変えた研究心
優勝戦線で不気味な存在なのが近鉄。その近鉄のカギを握っているのが " イモ " こと井本隆投手(26歳)で太田幸投手と右のエースの座を競っている。だが今季の井本はチョンボからのスタートだった。4月3日、開幕2戦目のロッテ戦で2対2の同点の8回から先発の柳田投手をリリーフ、三塁に走者を置いて打席にはリー選手。その初球がワイルドピッチとなり勝ち越し点を与えて敗戦。2日後の阪急戦でもチョンボは続いた。近鉄打線は初回から3本塁打を放ったが先発した井本は1イニングでKOされてしまった。「ロッテ戦はニャロメ(柳田)に悪いことをしてしまった。阪急戦も弁解の余地はない」と井本は反省しきりだった。

だが内心では「(2試合とも自分に)黒星がつかずラッキー」と思っていたようだ。今季初勝利は4月10日のクラウン戦。投手戦となったが粘り強く投げて2対1の完投勝利。2勝目は1週間後の南海戦に先発しプロ5年目で初完封勝利をあげた。「う~ん、やっぱり嬉しいですね。この味は投手をやった人間にしか分からないでしょう。チームには申し訳ないけど、あの2試合の失敗で悪いモノが落ちた感じがします(井本)」と神妙な面持ち。井本は26歳の現代風青年だが、なかなかの野球のムシである。ベンチ入りしない日でも記者席で試合を観戦してメモ書きに余念がない。また酒が入ると遊びより野球談議に花が咲く。何よりも野球が好きなのである。


オレこそ " 右のエース " になるんだ
生まれは高知県。気が強く物おじせず、ちょっぴり向こう見ずな所は " 土佐のいごっそう " の流れをくんでいる。出身高校は伊野商。県下では高知・高知商・土佐の3強が有名で伊野商の知名度は劣る。卒業後は鐘淵化学に入社し4年在籍後に近鉄入り。井本が歩んできた道は決してエリートコースではない。昭和49年8月の日ハム戦でプロ初勝利を飾ったが、まだ安定せず一昨年の後期シーズンになって頭角を現してきた。優勝をかけた9月21日の阪急戦に先発した井本は7回まで投げ4安打に抑えて勝利に貢献した。首脳陣の期待に応える見事な投球だった。この日を境に井本に対する信頼感が増し一軍の戦力として定着することになる。

しかしプロの世界はそう甘くはなく、一人前になる過程において反省する場面も少なくなかった。昨季は目標としていた10勝に届かぬ6勝止まり。被本塁打数はリーグ2位の23本と厚いプロの壁に行く手を阻まれた。開幕前に井本は「打者との駆け引き、配球、スタミナの配分など昨年の反省を活かして頑張りたい」と決意を表した。その効果があったのか今季は順調な滑り出しで「昨年できなかった2ケタ、10勝を必ず成し遂げます。15勝、20勝なんて先の話です。先ずは10勝です」と。太田幸投手が調子良いのも井本を刺激している。太田が毎年のように " 右のエースへ " と言われているのが気に入らない。「俺が右のエースになってやる」気構えなのだ。

太田が完封を含む2勝。対する井本は同じく完封を含む3勝。沸々と燃えたぎるライバル意識が胸の内に沸いてきている筈だ。それでなくても負けん気が強い " いごっそう " だけに太田との勝ち星争いが続けば目標とする2ケタ勝利は意外と早い時期に達成するかもしれない。西本監督や杉浦投手コーチら首脳陣も井本の成長を願っている。「イモ(井本)のヤツ、初めはチョンボばっかりやりおったが、今の調子を続けてくれればグッと頼りがいが出てくる(西本監督)」、「だいぶ良くなってきた。この調子なら2ケタは間違いない(杉浦コーチ)」と。「あの時(昭和50年・後期優勝)の感激は忘れられない。もう一度監督を胴上げしたい」と井本は熱く語る。
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# 705 GT戦事件簿 ②

2021年09月15日 | 1977 年 



荒川元コーチに「例のバッキーとの…」と電話で取材を申し込むと「いやもういいでしょう。あんな古い話を今さら」と断られた。時を経て " 事件の主役 " が例外なく示す反応だ。

優勝きめた昭和43年9月18日事件
" あの事件 " は昭和43年9月18日、甲子園球場の阪神対巨人戦で起きた。阪神は66勝50敗、巨人は62勝46敗のゲーム差なしで両軍が対峙していた。この日はダブルヘッダー。対戦成績は巨人が12勝10敗でやや優勢だが連勝した方が単独首位に躍り出るペナントの行方を左右する大事な決戦だった。午後4時31分に第1試合がプレーボール。結果は村山投手が巨人打線を完封して2対0で先勝した。阪神の2点は両軍無得点の9回裏に辻佳選手が堀内投手から奪ったサヨナラ2ラン。興奮したファンがグラウンドに入り辻選手に抱き着くハプニングがあった。ドラマチックな幕切れは否が応でも両軍ナインの気持ちを高ぶらせた。

午後6時54分、第2試合が岡田球審のプレーボールの掛け声で開始された。先発投手は阪神・バッキー投手、巨人・金田投手。巨人は早くも初回に1点を先取し、4回表にも4点を追加しリードを広げた。味方のエラーでピンチを招き失点したバッキーは完全に頭に血が昇っていた。打席には王選手が入り、その初球は頭部近辺で王はのけぞり捕手の辻は逆シングルで捕球した。続く2球目は腹部あたりを通る完全なボールで今度は辻のミットにかすらず後方へ。さすがの王も1歩2歩マウンドへ近づき「ジーン(バッキー)、あんな球は投げたらダメだよ」と文句を言った。するとバッキーは「わざとじゃない。2球ともサイン通りのスライダーだ」と応じた。

苦笑いで打席に戻る王。その時だった。三塁側ベンチから荒川コーチが飛び出して来た。荒川にしてみれば愛弟子のピンチと思ったのであろう。マウンドに駆け寄った荒川は王の敵討ちとばかり左足でバッキーの腰のあたりを蹴り上げた。蹴られたバッキーも応戦し、グローブをはめた長いリーチが荒川の顔面にクリーンヒットし荒川の額を切り裂いた。一瞬ひるんだ荒川だったが最後にもう一太刀をと襲いかかった。それをかわしたバッキーは今度は右ストレートを炸裂させた。荒川は合気道の達人だが1㍍90㌢の大男相手では接近戦の不利は明らかで返り討ちに。両軍選手がマウンド付近で揉みあっている間に審判団が割って入りようやく乱闘は収まった。


その直後、王が頭部にデッドボール
試合中断20分余、もちろん荒川とバッキーは退場処分に。球場内の阪神ファンは総立ちで「王退場!」を叫んでいたが王にはお咎め無しだった。だが王にとっては退場した方が良かったのかもしれない。空き缶や瓶がグラウンドに投げ込まれる中、王が再び打席に入った。マウンド上には権藤投手がいた。ボールカウント1ー3からの5球目が王の後頭部を直撃し、その場に昏倒した。今度は金田がベンチから飛び出し「この野郎、わざとぶつけやがって」と辻に迫る。阪神ベンチからは江夏投手も飛び出し、ウェーティングサークル付近にいた国松選手と揉みあいに。再び乱闘かと思われたが次打者の長嶋選手が両軍選手を制して事なきを得た。

担架に乗せられた王は警官隊に守られて救急病院へ搬送された。まだ騒然とする場内。一塁走者に代走の国松が送られ試合再開し迎えるは長嶋。小競り合い中に右足かかとを踏まれた権藤投手が痛みをこらえて投じた球を長嶋のバットが一閃すると打球は左中間スタンドに突き刺さった。これがダメ押しとなり試合は2対10で阪神は敗れ、再び両軍ゲーム差無しに戻った。荒川は前頭部を4針縫う裂傷で全治10日。頭部打撲の王は20日の中日戦を欠場しただけで復帰。バッキーは右手親指の付け根を骨折し全治3ヶ月の診断を受けたが完治後も元通りの投球は出来ず投手生命を絶たれる結果に。村山・バッキーの両エースで優勝という阪神の狙いは潰えた。
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# 704 GT戦事件簿 ①

2021年09月08日 | 1977 年 



巨人vs阪神ほど勝負にかけた男たちの血の騒ぐカードはないだろう。それが時には選手から監督に至るまで我を忘れさせる。事の善し悪しは別として、いわゆるグラウンドのトラブルは巨神戦の舞台のような熱戦であればあるほど起きてくる。

いまでもストライクと信じている
昭和38年8月11日、後楽園球場のマウンドで村山投手が自信を持って投げ込んだ1球が「ボール」と判定された時、村山投手は猛然と抗議するも聞き入れられず退場まで宣せられた。男泣きに泣いて訴えた村山投手の姿は多くのファンにも大きな感動を与えた。抗議の善悪とは別に勝負に賭けた男の情熱、そして己の鍛えぬいた投球への自信が人々の胸を打ったのだろう。その場面を村山氏本人に思い起こしてもらった。対巨人3連戦を1勝1敗で迎えた3戦目、前日に続く連投となる村山は7回裏、得点は1対1の同点で走者二・三塁のピンチに登板した。代打の池沢に対しボールカウント2―2からの5球目は渾身のストレートが内角低目に決まった。筈だった…

だが次の瞬間、国友球審は「ボール」と宣告した。村山は顔面蒼白になり脱兎のごとく国友球審めがけて走り出した。ここからは村山氏本人の述懐である…国友球審は抗議した私に退場を命じたのだ。私は国友球審に指一本触れていないばかりか退場を示した時に振り上げた国友球審の手が私の左頬に当たり赤く腫れてしまったのである。戸梶、山本哲、室山らに抱きすくめられて私は身動き出来ないまま退場させられた。本当にあっという間の出来事だった。釈明を聞く暇もなくグラウンドから追い出された私は無念の情に耐え切れず泣いた。球場で泣いたのは後にも先にもこの時と優勝した時の二度だけだ。私にとって決して忘れることの出来ない悔しい一瞬だった。

あの時の投球がボールだとは今でも思っていない。退場を命じられた理由も釈然としない。だが過ぎ去った十数年も前のことを今更ほじくり返すつもりはない。国友球審とはその後に話し合い握手もしている。ただ私にとってはまさに情熱込めた青春時代の1ページとして思い出すのである。考えてみれば現在のプロ野球で当時ほどのエキサイトする選手がいるのだろうか?揉め事を奨励するつもりはないが何か寂しさを感じなくもない。実はその試合の前日にも私は投げていた。8回裏まで巨人打線をパーフェクトに抑えながら9回裏に先頭の池沢に右前打を打たれて大記録を逃していた。またしても池沢相手に苦汁を飲まされる思いがしたのだ。

なので判断に苦しむジャッジメントに私の全身の血が一気に頭に昇って国友球審とのトラブルを引き起こしたのだと思う。今になって考えるとプロ野球ほど生きた、そして筋書きのないドラマはないようでそれだけグラウンドに生きる勝負師の舞台はギラギラと輝き、うごめいているものだと思う。それにひきかえ現在のプロ野球は皆があまりにも冷静で判断が良過ぎ、わきまえ過ぎではないだろうか。もっとエキサイトし一部の応援団に引きずられて声援するまでもなく、グラウンドとスタンドが一つの筋書きのないドラマを構成する主役であったり脇役として生きる、そんな場面や試合が少な過ぎはしないかと思う。


勝負にひたむきになれた男冥利
退場処分となった私は後楽園球場を後にした。水道橋から小石川にあった清水旅館まで一人でとぼとぼ歩いたのを憶えている。なんで退場させられたのか、悔しさで私は歩きながら涙した。それから数日間は宿敵巨人軍に積もる怨念で興奮は冷めなかった。それほどまでに勝負にひたむきになれる事こそ男冥利に尽きるというものだ。我が阪神と巨人軍の勝負こそ何故か男を奮い立たせる雰囲気を持つ。当時の監督は藤本定義さん。藤本さんは巨人でも監督を務め沢村投手やスタルヒン投手を育てた人でもある。昭和38年当時、藤本さんは巨人戦に挑む阪神の選手らのファイトを掻き立てるのが実に上手かった。

あの試合も私は藤本さんに上手に乗せられていた感じはする。さぁ巨人戦だ、やってやろうじゃないかみたいな気持ちになって若い血を燃やし、たぎらせてマウンドへ向かった。ボールかストライクかの判定は覆らないものだと頭では分かっている。分かってはいるが巨人戦は理性を失わせる魔物でもあるのだ。理性を失っていたのは私たち選手だけではなかった。冷静さを求められる審判員の中にもギラギラとした勝負師のような人間臭さが垣間見えた。どこか規則と縄張りを尊重し過ぎた現在のオーダーメイド野球とはかけ離れたドラマを生み出す舞台が当時のプロ野球には生き続けていたのではないか。
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# 703 巨人・阪神の血闘 ②

2021年09月01日 | 1977 年 



その夜は爆笑、翌日は厳しい " 90番 "
一方の巨人は歓喜の渦状態。「ワハハ、ナイスゲーム」と三塁側ベンチから送迎バスに乗り込むまでの約80㍍の狭い通路に長嶋監督の勝利の高笑いが三度響いた。それもそのはずだ。当初は2勝1敗で御の字と考えていたが終わってみれば3連勝。しかも自滅した阪神からプレゼントされた勝利だけに笑いが止まらない。気の早い一部スポーツ紙は『巨人独走へ』と書き、系列の報知新聞は『巨人7連勝で貯金10』の見出しで大騒ぎ。三塁側スタンドの巨人ファンは「万歳・万歳」でお祭り騒ぎ。まるで優勝が決まったかのような状態だった。しかし3連戦が終わった翌日の22日になると長嶋監督の表情は一転して厳しいものとなっていた。

次の広島戦の試合前、「ウチは幸運だっただけ」と長嶋監督は阪神戦を振り返り「阪神は看板の200発打線が下降気味で掛布やラインバックが欠場して不完全状態だった。もし掛布らが万全だったら勝負はどう転んでいたか分からなかった。ウチも万全じゃなかったが各選手が自分の持ち味を出してくれて3連勝できた」と胸の内を明かした。長嶋監督は阪神に3連勝したからといって一夜明けたら自戒を込めて気持ちを引き締めたのであろう。そしてこうも言った。「まだペナントレースは始まったばかり。次はウチが阪神に3タテを喰らうかもしれない。勝負は時の運も大いにある。だから手放しで喜んでいる場合じゃない」と勝って兜の緒を締めよ、の長嶋監督であった。


たった " 3発 " で抑えた巨人投手陣
3連戦初戦は先発した堀内投手を浅野投手が好リリーフして勝利。2戦目は阪神打線を苦手にしている小林投手が要所を締めて完投勝ち。3戦目は先発したライト投手が打たれて劣勢だった試合を逆転し、最後は堀内投手が締めくくった。関西のスポーツ紙は吉田監督の采配ミス、一枝三塁コーチの大チョンボなど阪神が自滅したと書き立てたが3戦ともに巨人投手陣の踏ん張りが勝因だったと言えよう。下降気味だったとはいえ、阪神の200発強力打線を封じたことは巨人投手陣の自信となるのは間違いない。逆に阪神には今年も巨人に敵わないというコンプレックスを植え付ける結果となった。3連勝と3連敗はまさに天国と地獄であった。

阪神戦の前に長嶋監督は投手陣に対して「ヒットは何本打たれても構わない。しかし本塁打だけは避けるように。本塁打は阪神打線を活発化させるきっかけになる」と指示していた。2戦目に今季初の完投勝利をおさめた小林投手は「監督の言葉で高目だけは投げないよう気をつけました。丁寧に低目に投げ続けたことが結果的に完投につながった」と話す。今回の巨人戦を迎える前まで阪神打線は10試合で22本塁打(1試合平均2本塁打)を量産していたが、3連戦で3本塁打に抑え込まれた。掛布やラインバックの欠場があったとはいえ巨人投手陣に軍配が上がった。


故障への考え方
さて、今回の3連戦で阪神は故障者続出で戦力が落ちたことが3連敗の要因だと言われている。投手陣では江本投手が右背筋痛、上田投手は本塁突入で怪我をして病院送りに。野手陣では掛布選手が広島戦で死球を受けて欠場、田淵選手は腰痛、ラインバック選手は本塁返球の際に右ひじを痛めて途中退場。他にも東田選手やブリーデン選手も持病があり万全ではなかった。こうした状態では同情の声もあるが、山内コーチは「確かに故障者がいると苦しい。だが巨人だって王や張本も万全じゃないし柴田も怪我していると聞いている。苦しいのはどの球団も一緒でやり繰りしている。ウチだけが苦しい訳じゃない」と手厳しい。

かつて猛虎の総大将だった藤村富美男氏は「両チームの力は互角でも組織として阪神と巨人の自己管理の仕方に差があるように感じる。チームにおける自分の立場をわきまえた健康管理と技術管理が阪神の選手は出来ていないのが残念だ」と苦言を呈する。阪神のチームドクターである大阪厚生年金病院の黒津医師によると「選手がハッスルした結果で症状も軽く必要以上に心配しなくてよい。長いペナントレースはまだ始まったばかりで今後は良くなる一方」だそうだ。今月の26日から後楽園球場で行われる第2ラウンドで黒津医師の見解が正しいのか分かる。浪速の仇を江戸で討つか注目される。
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