納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
涼しい目元をしている、ちょっとしたハンサムボーイ。前期の好成績はやはり新天地に移って、そこの水が彼に合っていたということだろう。優勝の味を知っているからこそ、もう一度と欲が出てくるという。
新チームに来たら今までの事は白紙
聞き手:現在、9勝と順調ですけど好調の原因は?
金 城:やはり精神的なこともありますし、野村監督のリードのお陰もあるでしょうね。要は南海が自分に合っている
ということですかね。カープにいた頃は甘えもあって体調を言い訳にしていました。
聞き手:20勝は?
金 城:いえいえ、全然考えてないです。一応15勝を目指していますが、先ずは2ケタ勝利。次はあと6勝して15勝です。
聞き手:南海はどうですか?
金 城:雰囲気いいです。やっぱり優勝したいですね。前期は悔しい思いをしたので後期は是非とも勝ちたいです。
聞き手:優勝したら海外旅行のご褒美があるとか
金 城:まぁそれは二の次の話で、やはり勝負事は勝たなくては。2位じゃダメってことです。
聞き手:勝てば給料も上がります(笑)
金 城:自分だけ勝ってもチームの成績が悪かったらたいして上がりませんよ。
聞き手:ところで古巣のカープが最下位に低迷していますが気になりますか?
金 城:やはり気になります。開幕当初はそのうち勝つだろうと楽観視していましたが浮上の気配がなく心配しています。
聞き手:カープの初優勝時は感激した?
金 城:はい。野球を始めて優勝を経験したのがカープの時が初めてでしたから、優勝ってこんなに良いものなのかと。
やはり勝負事は勝たなければと改めて思いました。
ボクは人間のタイプがまだ決まっていない
聞き手:後期シーズンの見通しをチームの一員としてどう見ていますか?
金 城:とにかく今は負け越していますから1日でも早く勝率5割にする。借金生活が長引けば長引くだけ優勝は遠のくと
思います。だからオールスター戦後の1ヶ月までが勝負だと思います。
聞き手:プロ野球選手になって良かったと思うことは?
金 城:そうですねぇ、あまりないですかね。悪いことばかりだった気がします(苦笑)。もちろん優勝したり良かった時も
ありましたけど長続きしないというか、すぐ悪いことが起きた感じがします。悪いことの方が記憶に残りますからね。
でも後楽園球場で優勝を決めて、広島に戻った時にファンの皆さんが大声援を送ってくれたことは一生忘れません。
個人的には交通事故に巻き込まれて目を怪我をした時、ファンの皆さんの激励も嬉しかったです。
聞き手:反対に何でこんな商売をと思うことは?
金 城:やっぱりトレードを宣告された時ですかね。割り切っていたつもりでしたけど実際に自分の身に降りかかると
ショックは大きかったです。何でオレなんだと。
聞き手:自分の性格については?
金 城:自分では分からんですね。色々な要素があってムチャクチャというか、人間のタイプは決まってない気がします。
まだ子供みたいな面もあるし、よう分からんです(笑)
聞き手:今日はありがとうございました。後期シーズンも頑張って下さい。
金 城:ありがとうございました。頑張ります。
兄・島本講平(近鉄)から弟・島本啓次郎(法大)へ
自分で言うのも何だが弟の啓次郎とは仲がいい。3歳違いで中学・高校では一緒にプレーしたことはないが、お互いに野球の虫で家では打撃論を夜遅くまで語り合った。弟の性格は明るくてよく喋ってみんなに好かれる。兄弟ケンカはしたことはないが、もしやったら弟には勝てないと思う。それはそうと最近の弟は調子が悪く東京六大学リーグ戦でヒットも少ない。法政大学 " 華の49年組 " の一員らしく江川投手に負けないくらいの活躍を見せて欲しい。大学最後の年だから悔いのないプレーを期待しているが、弟の悪い癖が出て大振りが目立つ。もっとコンパクトに確実性を上げるスイングを心がけるべきだと思う。
弟が大学卒業後も野球を続けたいという気持ちを持っていることは薄々感じているが現状ではドラフトで指名される可能性は低いと思う。もし仮に指名されてプロに進むにしても、社会人でプレーするにしても最後は本人の意思次第で俺も弟の決断を尊重するつもり。近鉄は今、非常に乗っている状態でボクもうかうかしていたら置いてきぼりを食ってしまう。弟の法政大学が春・秋と連続優勝を飾って、近鉄が日本シリーズ優勝とくればいう事ないのだが。お互い精一杯頑張りたい。
弟・島本啓次郎(法大)から兄・島本講平(近鉄)へ
兄貴が満塁ホームランを打ったり、近鉄を首位に踊り上げる活躍を見聞きして誇らしく思っている。とにかく兄貴は何をやらせても抜群なのだ。兄貴がプロに入る前、ボクが勝てるのはせいぜい腕相撲くらいだった。バッティングは勿論、遠投も兄貴には勝てない。そんな野球の技術に関すること以外でも兄貴に勝てないなと思ったのは絶対に弱音を吐かないこと。僕らの母校(箕島高)の猛練習は物凄いのだが兄貴の口からキツイ、苦しいといった言葉を聞いたことはない。負けず嫌いのボクだけどこれだけは無条件に最敬礼する。なのでボクもどんなにキツイ練習でも弱音は吐かないと心に決めている。
思い返せば兄貴が南海時代に「どうして俺を使わないんだ…」と漏らしたことがあった。普段から決して愚痴を言わない兄貴だけど当時はよほど苦しかったんだと思う。今、苦境を乗り越えて大活躍している姿を見て「さすが兄貴だ」と感心している。それに比べて今の自分はピリッとしていないのが口惜しい。江川をはじめ同級生がバリバリ活躍しているのに一時は四番候補と言われながら4年生にもなって打順すら一定しない自分が情けない。プロとアマの違いはあるが共に優勝を目指して頑張りたい。春・秋季リーグを制して4連覇で学生生活を悔いのないモノにしようと頑張っている。
兄・和正(巨人)から弟・敬幸(南海)へ
やっぱり弟(敬幸)のことは気になるな。朝起きて新聞に目を通す時、先ずはチームや自分のことを見て次はライバルチームのことではなく弟の記事を探している自分がいる。去年までは一軍にいてもあくまでベンチ要員。スタメンに名前を連ねることはまずなかった。ところが今年は桜井選手の調子が芳しくなく弟に出番が回って来て、九番打者ながら二塁手としてスタメンで出場している。とうとうアイツもここまで来たかと思うと嬉しい。正直言って弟が南海に指名されてプロ入りを決めた時は心配だった。実力一本の世界で男として遣り甲斐はあるが、その厳しさは想像以上だから苦しむのは俺一人でたくさんだという気持ちもあった。
それがどうやら弟も一人前になったようだ。曲がりなりにもレギュラー争いに食い込んでいるし、兄貴として、プロ野球選手の先輩として何も言うことはない。それに引きかえ自分は黒江さんから引き継いだショートのポジションを助っ人のリンド選手に獲られてしまったのだから文字通り " 愚兄賢弟 " で情けないよ。でも実力では負けていない自負があるのでレギュラーを取り戻してみせる。弟はチームが関東へ遠征する時は必ず俺の家に来て食事をする。でもなぜか野球の話はしない。お互いやるしかない状況なので敢えて語らないのだ。いずれオールスター戦の檜舞台を一緒に踏み、共にベストナインに選ばれるという夢は是非とも実現させたいと思っている。
弟・敬幸(南海)から兄・和正(巨人)へ
今でこそ巨人と南海と別々だけど兄貴とは小・中・高校まで全て同じ道を歩いてきた。ポジションも遊撃と同じ、体つきまでそっくりだからプロ野球の世界で先ず僕が目標としているのが河埜和正選手だ。今年はリンド選手が加入して兄貴はスタメンから外れているけど、昨年はほぼ全試合出場している。だから兄貴に追いつき追い越せば南海でもレギュラーになれると思っている。今、南海は大事な時期にきている。7連勝と開幕ダッシュに成功したが直近の近鉄、阪急戦でモタついて首位の座を明け渡してしまった。このまま終わるのか、巻き返すのか前期優勝の山場にいるのだが、そんな時に試合に出てチームの勝利に貢献できない自分が情けない。
今シーズンは同じポジションの定岡さんが好調なので現在は " 一軍半 " といった感じ。5月1日の近鉄戦で不調の桜井さんに代わってスタメンに起用された。こうした少ないチャンスを活かすことがレギュラーへの道だと思っている。とにかく試合に出たくてウズウズしている。ただ最近になって野村監督の口癖の「試合に出られなくても勉強することは山ほどある」が分かってきた。相手投手のクセや配球の傾向などベンチから観察するだけでも自分やチームの為になる。以前は当然の代打起用に相手投手のことなど考える余裕もなかったが、最近は狙い球を絞って打席に入るようになった。与えられたチャンスをモノにするだけです。
賢兄愚弟とか賢弟愚兄などいろいろ言われますが、野球の世界にもブラザー選手が何組かいる。ここに紹介する定岡・河埜・島本兄弟はファンにはつとに有名だが、3組とも幸いにも " 賢兄賢弟 " なのが楽しい。その羨ましい兄弟愛の言葉を聞いてみた。
兄・智秋(南海)から弟・正二(巨人)へ
今年の正月に弟(正二)に会い、「俺はレギュラー、お前は一軍入りを果たそう」と約束したが弟はキャンプ・オープン戦までは健闘したものの開幕一軍入りは成らず、自分のことのように悔しい思いをした。でも先日、弟が二軍で3勝目をあげて約束した一軍昇格を5月に果たした時は嬉しかった。弟はプロ3年目、自分は6年目。投手と野手との違いはあるが野球に対する思いは同じだと思う。自分は昨シーズンまでは若さに任せてプレーして失敗したりもしたが今は「こうすれば良い結果が出るのでは」と考えに余裕が出てきた。ひとつの失敗をくよくよ後悔していては次に同じような場面で消極的なプレーをして失敗を繰り返すのがオチだ。
一言で言えば失敗を恐れては何も出来ないということだ。弟にもそうした失敗を恐れない、思い切りのいいピッチングをして欲しい。一時は根気を無くして腐っているのではと心配していたが、晴れの一軍入りでそれが取り越し苦労だったと分かってホッとしている。思い返すと自分はプロ入り4年目から一軍に上がったのだから3年目に昇格した弟の方が優秀というわけだ。そんな幸運を絶対に離さないよう思い切って投げて欲しい。周りは弟のことを「お坊ちゃん」と言うが、あれで弟は人一倍負けん気が強いので活躍してくれるだろう。両親や親戚が望んでいる日本シリーズの舞台で兄弟が顔を合わせることも夢ではない気がしてきた。
弟・正二(巨人)から兄・智秋(南海)へ
兄貴とボク。はっきり言ってこのことを聞かれるのは好きではない。高校(鹿児島実業)時代からボクは絶えず兄貴と比較されてきた。高校に入学した時には兄貴は入れ違いで卒業していたが、いつも「お兄さんはこうだった、ああだった」という話ばかり聞かされて耳にタコが出来る状況だった。それはプロ入りしても同じ。取材でも必ず兄貴のことを聞かれる。おそらく兄貴も同じで " 定岡の兄" としてばかり注目され迷惑であったに違いない。しかし野球を離れればボクは兄貴を頼りにしている。正月に帰省する時は大阪の兄貴のところに必ず寄るし、普段から連絡を絶やさず近況を報告している。
今年はキャンプで一軍に上げてもらい一昨年から一軍で頑張っている兄貴に追いつけるかもしれないと淡い期待もあったが、オープン戦で結果を出せず開幕はまたも二軍スタート。「やっぱりダメか…」と諦めかけたが兄貴の激励を思い出し腐らず投げていたら一軍入りの朗報が届いた。今、兄貴との約束が果たせたその喜びでボクの胸はワクワクしている。打撃ベストテンに堂々と名前を連ねる兄貴を追いかける態勢が遅ればせながら整ってきた。とにかく1日でも早く1勝して「とうとうオレもやったぜ!」と報告したい。いつの日かオールスター戦でボクが投げ、兄貴が打つというシーンが実現できたら最高です。
史上初の三冠王
野村克也選手(南海)の三冠王が確実視されるようになった昭和40年9月30日、プロ野球実行委員会は「昭和13年の中島治康選手(巨人)が初の三冠王である」と公式発表をした。昭和13年といえば職業野球が誕生して3年目で記録に関する関心も薄く、中島選手が打率・本塁打・打点の3部門でトップに立っても少しも話題にされなかった。それが30年たってやっと見直されたわけである。当時は春季と秋季は独立して記録はシーズン毎にリセットされた。春は打率のみトップだったが、秋は打率・本塁打・打点を制した。
10月10日までは打率 .288 ・本塁打2と平凡だったが、11日から22日にかけての5試合連続本塁打で一気にトップになり、その後の23日と25日の試合で5打数4安打の固め打ちで打率を上げて三冠王を確実にした。ちなみに5試合連続本塁打も当時は見逃され昭和40年になって発掘された。秋季40試合で10本塁打は少ないように感じるが当時リーグ全体で109本塁打で割合では1割弱を占め、現在に換算すると100本を超える大変な本数だ。また春・秋季を通算しても3部門ともトップだった。
二度も助けた大記録
中島選手は強肩外野手でもあった。巨人の中尾輝三投手は二度ノーヒットノーランを達成しているが、二度とも中島選手の強肩に助けられている。中尾投手は昭和14年11月4日のセネターズ戦の4回、四球で走者を出し野口二郎選手にライト前にポトリと落ちる飛球を打たれたが、中島選手が二塁へ矢のような送球で一塁走者を封殺し安打にならなかった。昭和16年7月16日の名古屋戦でも同じようにライト前への打球を二塁で走者を封殺して中尾投手の二度のノーヒットノーラン達成の陰の立役者になっている。
その強肩ぶりは戦後になっても衰えなかった。昭和21年、中島選手が外野を守ったのは僅か54試合だったが飛球を捕球した後、タッチアップして進塁しようとした走者を刺して併殺にしたのが9回もあった。セ・パ分裂後、外野手の最多併殺記録はセ・リーグは8回(3選手)、パ・リーグは7回(2選手)であり、しかも5人全員が100試合以上の守備機会なので54試合で9併殺という記録が如何に驚異的な数字かが分かる。
骨折で定位置すべる
強肩ぶりは年齢を重ねても変わらなくても、打撃の方は往年の力には程遠かった終戦直後の中島選手が男をあげたのは昭和23年シーズンの半ば。前年に初めて5位に転落した巨人軍はこの年も開幕から振るわず、6月12日の時点で勝率は4割前後をウロウロして5位に低迷していた。すると三原監督はショック療法として翌13日の試合から三番打者の千葉選手を一番打者に据え、ベンチの控え要員だった中島選手を六番に起用する新打線を組んだ。
このカンフル剤が見事に効いた。巨人は7月17日までの21試合を15勝と勝ちまくった。この期間中、打率 .269 をマークした中島選手は川上選手が欠場した7月18日にはチームは負けはしたが四番打者を務めるほどの活躍を見せた。ところがその試合の9回裏の攻撃中に走者として三塁ベースを回った時に足首を骨折したしまい、久々のレギュラー生活は終止符を打った。