Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 720 外野フェンス激突事故 ②

2021年12月29日 | 1977 年 



4月29日、川崎球場での大洋対阪神3回戦、阪神が1点リードの9回裏一死一塁で大洋・清水選手の放った飛球を阪神・佐野選手は背走しジャンプして好捕した。直後にコンクリート製のフェンスに頭部から激突して意識不明となった。前頭部骨折で全治1ヶ月の重傷であった。

目撃者の事故再考
「ゴツン」という鈍い音を聞いたような気がした。左翼フェンスと私がいたネット裏の記者席では100m以上の距離があり錯覚かもしれないが、三塁側の阪神ベンチ内でも聞こえたという声が多かった。だから咄嗟にこれは大事故だと思った。というのも私は昭和27年に神宮球場で行われた立大対法大戦で法大の鈴木選手が放った打球を追った立大の篠原選手が外野フェンスに激突して倒れ、耳から出血して担架で運ばれる場面を目撃していたからだ。その時も背筋が寒くなるような祈るしかない何とも言えない気分になったが、今回の佐野選手の場合もその時と同様に彼の身を案じた。

まさしく突発事故だった。駆け寄った池辺選手が倒れた佐野を覗き込み、慌ててベンチに向かって担架を持って来いというジェスチャーをした。やや遅れて駆け寄った田中線審が右手を挙げて「アウト」を宣告した後に池辺同様に担架を要請した。プレーが進行中のフェアグラウンドに出場選手以外が立ち入るのは違反行為だが阪神ナインはベンチ総出で駆けつけた。私は記者席から左翼方向を眺めていたが、その視界を横切る選手がいた。一塁走者の野口選手だった。犠牲フライとなり一塁から二塁・三塁へ、そして本塁へ。一塁から長駆ホームインし、7対7の同点となった。緊急事態だからといってプレー中は「タイム」に出来ないのがルールであった。

この得点に阪神球団は「佐野がフェンスに激突して意識を失ったのは野球規則5・10c項の『突発事故』に該当するから審判団はタイムをかけて試合を中断すべきであったのに怠った」として得点は認められない筈だと抗議し連盟に提訴した。この得点が試合の勝敗に影響が無ければ穏便に処理されていただろうが、具合の悪いことにその得点で同点となり延長戦の末に引き分けたのだ。この失点で試合に勝利することは出来なかったが池辺には多くの阪神ファンから賞賛の声が届いた。選手としては直ぐに返球すべきだったが「同じことが起こったら僕は同じ行動をします」と池辺は敢然と言う。

佐野は本職の外野手ではない。中央大学から三塁手として入団したが、三塁には売り出し中の掛布選手がおり打撃を活かす為に今季から外野へコンバートされた。実は事故が起こる前の打者の福嶋選手が放った平凡な飛球を佐野は目測を誤り、捕球体勢に入る前にバランスを崩して転倒してしまい安打にしてしまった。打者走者が福嶋選手でなく俊足の選手だったら楽々と二塁へ進塁していただろう。そうであったなら1点差のリードを守る為に佐野は前進守備を敷いていた筈。そうなると清水が放った打球をフェンス際まで深追いすることはなかったであろう。野球に「もしも」は無いが、もしも佐野が転倒せず捕球していたら、もしも福嶋が二塁に進塁していたらこの事故は起きなかったかもしれない。


後遺症は心配なし。残るは指の捻挫
「打球を追っていたのは憶えているけどその後は分からない。気がついたらレントゲンを撮った後でベッドの上だった(佐野)」と話す。現在は痛みがあった首も治り、脳内出血の傷も癒えて非常に順調である。川崎市太田総合病院の石井脳外科医によると「同じような頭部を怪我した患者さんの中には嘔吐感を訴えて食欲を欠くケースが多いが佐野さんは大丈夫。脳波にも異常はなく、頭部傷害による後遺症も心配ないでしょう」とのこと。頭部の怪我は殆ど心配ないようだが気がかりなのが右手人差し指の捻挫である。患部を3週間の固定期間が必要で、回復するにはマッサージの治療などそれ以上の時間を要する。

「頭と首の痛みでとても指にまで気が回らなかった。首が治って食事を摂れるようになって指の具合がおかしいと気がついた」。歩行練習を許されてから病院内の階段を1階から病室がある6階まで歩いて昇り降りしている。外の空気にも触れることが出来て「やっぱり歩けるっていいですね」と笑顔を見せる。事故以来ずっと付き添いを続ける母親・コウさんの顔にもやっと安堵感が出てきたようだ。病院の夕食は早い為に夜になると空腹を訴える佐野に夜食を作るのがコウさんの仕事だ。「一時は野球どころか普通の生活も出来ないんじゃないかと心配しましたが一安心です」とコウさん。

佐野の病室にはファンから贈られた千羽鶴や花がたくさん飾られている。病院に訪れて匿名で贈り物を届けるファンは後を絶たない。また病院以外でも高崎の実家や阪神の合宿所にも励ましの手紙や千羽鶴が多数届けられている。「仙好は末っ子で我がままなんですよ。次から次へ用事をいいつけるので大変です」とコウさんが話す傍らで「本当にファンの方々のありがた味を改めて知りました。一日でも早く元気になってグラウンドでファンの皆さんに恩返しをしたいです」と笑顔で話す佐野の姿を見ることが出来たのが救いである。 
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# 719 外野フェンス激突事故 ①

2021年12月22日 | 1977 年 



阪神から提出された提訴試合を審議する考査委員会が5月12日に開かれ、「審判の処置は正しく、正当に試合は終了した」という裁定を下した。佐野選手がフェンスに激突して転倒、重傷を負ったがそのままインプレーしたことについて論議は分かれたが、結局 " 人道上より規則が優先する " という結論だった。しかしまだまだ議論は続きそうである。

人道の問題より規則が優先する
阪神球団が提訴した主な内容は佐野選手の事故は野球規則の突発事故に該当しボールデッドとなりプレーは中断し野口選手の生還は認められないというものだったが、鈴木セ・リーグ会長を長とする考査委員会は阪神球団の主張を却下した。鈴木会長は記者会見で「規則や憲法は見ようによっては冷酷なモノ」「批判はあっても規則は守るべき」と話す一方で「人道的には考える余地はある」など佐野に対する同情的なコメントを端々に残した。結論は審判団の判断は正しく大洋の得点は認めると阪神球団の提訴を却下したわけだがどうも歯切れは悪かった。というのは提訴の中身が当初の内容に追加があったからだ。

田中線審が担架を要請した行為が「タイム」の宣告に相当するのではないか、というのが阪神球団の追加審議事項だったが考査委員会は「阪神球団が提訴を条件に試合再開をするとした提訴内容は野球規則5-10c項の『突発事故に関して』のみだった。田中線審の行為に関して当初は含まれておらず提訴受理後に追加されたもので今回の審議対象ではない」と念を押した。尤も田中線審の行為を審議の対象にしたら収拾がつかなくなる。委員会に出席していた島審判部長は佐野選手が捕球した時点で即タイムをかけるのは難しい。インプレー中にタイムをかけてプレーを止めることが出来る規則がない。暗に田中線審の行為を批判したのだ。

野球規則5-10h項には「審判員はプレーの進行中にタイムを宣告してはならない。ただし照明等が故障した時はこの限りではない」と記されている。佐野が捕球し走者の野口がタッチアップすればプレー中とみなされ審判はタイムをかけられない。故に大洋の得点は認められるとしたのだ。一応の決着となったが球界内外に疑問の声は多い。ちなみに考査委員会の出席者は委員長に鈴木会長、当事者である阪神球団と大洋球団を除くセ・リーグの巨人・長谷川代表、広島・重松代表、中日・中川代表、ヤクルト・相馬代表、島審判部長、谷村審判、柳原記録部長、それに金子事務局長が加わり9人で行われた。


果たして取り直しは利かないか
今回の件はルール優先か人命優先かについて意見が分かれた。「僕としてはあの時は佐野を何とかしなくてはと思っただけで他のことは頭に浮かばなかった。桑野がライトから走って来て『ボール、ボール』と言うから球をグローブから取り出して投げたが、後で考えると直ぐに返球するべきだったけど咄嗟には無理でした」と池辺は言っている。野球規則の上ではなるほど池辺のミスだったかもしれないが、人命がかかっている時にただルールだけが尊重されていいものだろうか。

「所詮、野球は大衆娯楽でしかない。人命第一でしょ。同じプロスポーツの大相撲だって取り直しがあるではないか。野球にもサスペンデッドゲームという条項があるのだから、今回の場合も清水選手の打席からやり直すことくらい出来るのではないか」さらに「ああいう状況で審判がタイムをかけられないルールがあるなら、そのルールを改定すべきだ」といったウエット派の意見は少なくない。一方で「アマチュア野球ならいい。だがプロは違う。サーカスで宙返りに失敗して落下するミスが許されるか?プロとは時には死と背中合わせだから守りべきルールは徹底しなければならない」といったドライ派も存在する。

今般阪神球団が提訴した骨子に当たる「突発事故」とは何か。例えば昭和44年5月18日、西宮球場での阪急対近鉄戦で近鉄のジムタイル選手が2回表に3号本塁打を放ったが、一塁ベースを回ったところで左足を痛めて走れなくなった。この時に伊勢選手が代走に起用されてベースを一周したことがあった。これが突発事故のプロ野球界初の適用例だ。プレーを止めて再度やり直すサスペンデッドゲームにすればという意見もあるが、これは照明設備の不備など観る側の立場を考慮して作られたルールであり、今回のようにプレーヤー側に起きた事象を理由に適用するのは有り得ないという意見が大勢だ。
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# 718 老いの一徹 ④

2021年12月15日 | 1977 年 



中日で最多出場を果たした18年
チーム状態がどん底の中日にあって高木守道選手のプレーはファンにとって救いであろう。「僕も今シーズンで18年目。これまで何度も " もうダメかな " と思ったことがあったけど、よくここまで頑張ってこれた」と高木は白い歯を見せた。4月14日、神宮球場でのヤクルト戦で通算1877試合出場を達成した時の言葉である。これは中日では意味のある数字である。かつての名選手、中利夫氏が残した通算出場記録に並び翌日の試合で更新した。「これで自分でも何だか踏ん切りがつきました。中さんが記録した数字が目標でした。苦しい時は中さんの記録を超えなくて悔しくないのか、と自分に言い聞かせてきました(高木)」と。

昨季は故障に悩まされ続けて内心では「もう野球をやめよう」と何度思ったことか。9月に入り久しぶりに出場した試合でバットを振ればヒットという具合に別人のように打ちまくった。高木自身はこの活躍を選手として最後の花道と考えて引退を決意した。シーズン終了後に「今年限りで引退します」と球団に伝えた。驚いたフロント陣は懸命に慰留した。高木の一大決心が揺らいだのは「チームは君を必要としている。来年、再来年も頑張って欲しい。いずれは引退するだろうが指導者としてチームに残って欲しい」と説得されたからだ。その言葉に高木は目が覚めたような気持になった。「球団は自分をそんなに評価してくれていたのか」と。そして高木の残留が決まった。

二塁手の名人、職人肌のプレーヤー、など高木には色々な異名がある。職人と呼ばれる人たちに共通しているのは集団をまとめる管理者的な立場には向かないということ。あくまでも自分の技術だけを売り物にする人たちが職人である。どちらかと言えば高木もその範疇にある。数年前に主将に選ばれたが、僅か1年で自らその座を返上した。その肌に合わない筈の主将を今季に再び引き受けた。そこに高木の精神面と言うか、人間の内部に大きな変化が起こったことが端的に窺い知れるのである。


「オレも野球バカになってやろう」
「ようし、どうせ現役を続けるなら自分の腕や足がガタガタになるまで頑張ってやろう。この先、何年やれるか分からんが1年でも長くプレーしてやる。中さんも言っていたがオレも野球バカになろう」一旦自分の気持ちが決まると転換するのも早い。シーズン終盤1ヶ月ほど好調をキープ出来たことが自信にもなっていたが「オフに体を休めたら感覚が元に戻ってしまう。一から体作りを始めて上手くいくか分からない。だったらオフの間中ずっと体を動かし続けてそのままシーズンに突入してやろう」と決意して、18年目のベテラン選手としては異例のオフを返上することに決めた。こうして高木は例年とは違った調整法で開幕を迎えたのである。

キャンプ中に背中を痛めたが人知れず治療を続けて快復した。高木は自分の体力に敢然と挑戦する腹を決めた。プロ18年目にして心底から野球バカになる覚悟だった。だがシーズンに入るとチームは低迷し続ける。再び主将になった高木は自分の成績だけでなくチームの成績にも責任を感じるようになる。黙々とグラウンドに立ち、バットを振るも傍から見ていてもスイングは鈍く辛そうだった。だが高木は弱音ひとつ吐かなかった。「皆さんが昭和39年の最下位に沈んだ時と似ていると言うけど、あの当時は選手の思いがバラバラで個人プレーに走っていたが今は違う。選手は真剣にプレーしている。必ず立ち直ってみせる」と強い口調で言い切った。

元気のないチームの中にあって最古参の高木の動きが守っている時も一番目立っている。やるべきプレーは必ず基本通り忠実に実行している。若手選手の方が動きが鈍く見える程だ。「以前の主人はチームが調子悪いと帰って来てもムッツリと黙り込んでいました。でも今は明るい表情をしていますので家庭は平穏ですが主人の本心は相当苛立っていると思います。本当にいじらしいです」と奈津子夫人は明かす。心身の疲れが重なれば気力だけで踏ん張っている高木とていつ倒れるか分からない。そんなことが現実に起こってからでは手遅れになる。今こそ主将の高木を中心に選手全員で奮起するべきだ。
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# 717 老いの一徹 ③

2021年12月08日 | 1977 年 



" 野球は苦労 " と悟った名手の復活秘話
二塁手としてパ・リーグを代表するプレーヤーだった基満男選手。昨季は不本意な1年で、オフにはトレード騒ぎに巻き込まれて散々な目に遭った。過去10シーズン、基の野球人生は山あり谷ありだった。だが元々が天分に恵まれていた基は自分の才能の範囲内で比較的楽にそれらを乗り越えてきた。しかし昨季はそうはいかなかったようで長い野球人生で初めてぶつかった心身の壁に跳ね返されて「野球いうもんは苦労しながらやるもんや」と悟りの境地に辿り着いた。彗星の如く現れた吉岡選手の活躍で入団以来10年間守り続けてきた二塁手のレギュラーを明け渡した基は、72試合出場・ 226打数・53安打・打率 .235 ・5本塁打に終わった。

後期シーズンは調子が上向き、復調なるかと思われたが吉岡を追いやるまでは至らなかった。吉岡は最後まで打ち続けて、打率.309 で首位打者のタイトルを獲得した。「そりゃあ打てない自分のせいですよ。でも監督も冷たいよね。使いもしないで打てないと決めつけて控えにするんですから。信頼されていないならセ・リーグに出してもらうしかないでしょう」と悔しさと自分の不甲斐なさにそんな心境を吐露したのは昨年の8月末だった。自ら二軍落ちを希望し再起を図っている最中の首脳陣批判に対して球団は「そんなに言うならセ・リーグに行ってもらおうじゃないか」と売られた喧嘩を買うことになった。

だが中日との間で内定していた藤波選手との交換トレードはライオンズ入りを拒否した藤波のゴネ得で御破算になり、基はライオンズに残留となった。その時の心境を基はこう話している。「何だか馬鹿にされたというか、晒し者になった気分で悔しさがありましたね。彼(藤波)は残留で満足かもしれんが俺はどうなるんだって話だよ。球団のフロント陣とヒザ詰めで長々と話し合ったアレは何だったのか。最終的には監督に直談判して『調子の良い選手を使う』という確約を得られて和解できた。色々あったけど例えどんなことがあろうと、やらんといかんということに落ち着いたわけですわ」と。


オレはやはりライオンズの男だ
この男には人並み以上のプライドがある。174 cm 足らずの、プロとしては小柄な身体で10年間も二塁のポジションを死守し、リーグでも山崎(ロッテ)と一・二を争う名手だと自他ともに認める選手だ。吉岡にポジションを追われた後でも「二塁手としては俺の方が上だという自信はある。でも吉岡は二塁しか出来ないし、俺は他を守れるからということで二塁を明け渡す結果になったと思う(基)」と言っていた。基の言葉にはこれまで名手として通してきた者のみが持つ自信の重みが感じられた。ところが身から出た錆とはいえ、シーズン終了と同時にトレードの渦中に身を置かれる羽目になった。

テスト生で入団して家庭を持ち、子を成し、親しいファンに囲まれてきた福岡を去ることは自ら求めた事とはいえ基にとって不本意だったことに違いはなかった。それがトレード話が進行中に基自身にはっきり分かった。「俺はやっぱりライオンズの選手でないといかんな、と何度も言っていました。中日に決まったと知らされた時は『俺がいなくてもライオンズは大丈夫だろうか』と本気で心配していました」と佳代子夫人。つまりはライオンズを出たいというのは本心ではなく、可愛さ余って憎さ百倍というライオンズへの愛情の裏返しだったのだ。そしてトレード話が御破算になって改めて福岡を去るのは本意ではないと気づかされた。

ライオンズ残留が決まった基は心機一転トレーニングを再開した。福岡市内のトレーニングジムに通い、自宅周辺を走った。「本人は照れ屋だから皆さんの前では難しいことばかり話していますけど、根は一途な真面目人間だし私なんかが心配しようものなら『野球のことは俺一人が考えればいいんだ』と𠮟られます」と佳代子夫人。自主トレ、キャンプ、オープン戦と今年の基は目の色が違っていた。二塁に固執することが無くなり、遊撃や三塁の練習にも加わった。「ショートはセカンドやサードよりスローイングの距離が長いから大変だろうと思っていたけど、実際にやってみると泡を喰うほどじゃない。思い込みは禁物だね(基)」と笑顔で話す余裕も出てきた。

しかし基が今季記録した失策は殆どが送球ミス。やはり距離感が克服されていない証拠だろうが基は「上手くやっている方ですよ。素人に毛が生えた程度の俺にしては上出来です」と苦笑いする。また打撃フォームも今季から変えた。これまでの " 杭打ちスタイル " のダウンスイングからレベルスイングにしたことで流し打ちがスムーズに出来るようになった。好きだった麻雀も封印して夜は気づいたことをノートに記録する作業に没頭している。そんな基に鬼頭監督は「基の潜在能力はこんなもんじゃない。私は満足していませんよ」と貪欲だが、確かに今季の基にはそれを求められるだけの余力はありそうだ。
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# 716 老いの一徹 ②

2021年12月01日 | 1977 年 



プロ16年で若返る徹底した自己管理法
" だんだん良くなる法華の太鼓 " の例えを地で行っているのがヤクルトの船田和英内野手。プロ16年目の大ベテランで普通なら選手としてどんどん下り坂に差し掛かるところだが船田は逆だ。追いかける新鋭ライバルを蹴落としていつの間にか内野陣のリーダーにまでのし上がった。昨季はプロ15年目にして初の打率3割台をマークした。「自分でも驚いているんだ。どうしちゃったんだろうって。こんなロートルを追い越せなかった若手がだらしないんじゃないかな」と船田は笑顔を見せた。船田の活躍の秘密は体重にあった。この16年間、驚くなかれずっと72kg が上りもしなければ下がりもしないのである。

ユニフォームを脱ぐとあばら骨が浮き出ている。船田と同じくらいの年齢の太ったベテラン選手が揶揄される相撲のアンコ型どころか典型的なソップ型であり骨太である。「デッドボールを喰らうと普通の選手ならヒビが入るような直撃でも俺の骨は大丈夫なんだ。もちろん痛みは感じるけど。その点が大きな怪我をしなかった理由かな(船田)」と自己分析をする。無事これ名馬というが船田の身体はまさに名馬だ。しかし幾ら名馬でも乗り手が悪ければ馬は走らない。降りかかる数多の誘惑に打ち勝ち、自己管理を徹底した結果である。体重が増えないのは裏を返せば胃腸が弱くて充分な栄養を摂れず太れなかったせいでもある。

「とにかく胃腸だけは壊すまい」船田はスタミナ料理がテレビなどで紹介されると直ぐに訪れた。東に胃腸科の名医がいると聞けば足を運び、西に生きたドジョウの丸飲み料理で体力がつくと聞けば店に行った。栄養剤、胃腸薬、いわゆる健康食品の類で船田が試していないものはないくらいだ。こうした自己管理は3年ほど前から " 3禁主義 " に行き着いた。酒・タバコ・麻雀をやめた。「付き合いが悪くなったいと周りから言われるけど結局は自分の為ですからね。それに元々3つともそれほど好きだったわけじゃないし、やめるのに抵抗はなかったですね(船田)」と当時を振り返る。


1000本安打でチャレンジ魂が
守備の軽快さは今さら言うまでもない。軽いフットワークやグラブ捌き、強肩を活かした正確なスローイングは普段あまり選手を褒めない広岡監督も「船田は別格」と一目置いている。そんな船田にとって昨季は大目標を達成した。シーズン終了間際の広島戦で新人の北別府投手から通算1000本安打を放った。昭和38年に村山投手(阪神)から初安打し、足かけ15年目で到達した記録である。目標達成に普通なら燃え尽きる筈のローソクの火の勢いが再び強くなるのは船田らしい。「自分でもまさかと思っていた1000本安打は素直に嬉しかったけど、初の打率3割も目前だったので気は抜けなかった(船田)」と明かした。

妃佐子夫人は夫がいつ辞めてもいいと思っている。仕事が無ければ別府の実家に帰れば旅館でも何でも始めるだけの準備は整えてある。しかし夫は以前にも増して元気で当分は選手を辞めそうにない。「主人は根っからの野球好きなんでしょうね。心残りのないように精一杯続けて欲しいです」と妃佐子夫人は言う。女は男の職場に来るもんじゃない。そんな女房教育をされた妃佐子夫人が初めて球場に出向いたのは今年の開幕戦だった。試合前に昨季に達成した1000本安打とカムバック賞の授賞式が予定されていた。照れ屋の船田は球場に来いとは言わなかったが、「俺が表彰されるなんて二度とないぞ」と呟き言外に妃佐子夫人を誘ったのだった。

「俺みたいなロートルがいつまでもレギュラーでやっているようじゃチームは強くならない」と船田は言う。それは今年も自分を追い抜けなかった若手への強烈なムチと同時に「簡単にポジションは渡さない」という気概の表れだった。最後に今年の船田の変わった健康法をお知らせしよう。今年からヤクルトの大阪遠征で宿泊する宿舎がこれまでの日本式旅館からホテルに変更になった。当然寝具はベッドになる。「分厚い布団やクッションが柔らかいベッドは身体が落ち込んで腰を痛めてしまうんだ」と船田は寝室の床に毛布を敷いて寝ている。コンディション維持の為にここまで徹底する船田にプロフェッショナルを感じる。益々元気なプロ16年生だ。
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