納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています
同じ新人でも大卒となると少々落ち着きが出てくる。杉浦(南海)と長嶋(巨人)は立教大学でエースと四番だった2人。揃ってプロ入りし、そして共に新人での球宴出場を果たした。昭和33年の第1戦のパ・リーグ先発投手は杉浦、セ・リーグの先頭打者は長嶋。三原・水原両監督の粋な計らいであった。大学を卒業して4ヶ月とあって2人の間には「対決」といった雰囲気は無く、どこか遠慮がちに見えた。杉浦は外角ばかりを攻めてストレートの四球。2打席目もまた外角球ばかりで長嶋は右へ流して球宴初安打。なんとなく2人は勝負を避けているように感じられた。
しかし、1シーズンを終えて共に新人王に輝き、プロとしての地位を固めると学生気分は消えていた。昭和34年の第2戦、3対3で迎えた4回表に両者は再び顔を合わせた。杉浦の初球は長嶋の顔近くをめがけたビーンボールまがいの投球で長嶋はもんどりうって避けた。2人は視線を合わせず、「あれは手元が狂ったんで狙った投球ではなかった」と杉浦本人は故意を否定する。ユニフォームに着いた土を払う事も忘れるほど集中力を高めた長嶋は、5球目のインハイの糞ボールを強引に打つと打球はレフトスタンド上段へ消えて行った。ベースを回る長嶋とマウンドの杉浦が一瞬視線を合わせたが表情は共に硬いままだった。紛れもなく2人はプロの野球選手に成長していた。
江夏の気持ちを奮い立たせたファン投票1位。違う意味でファン投票1位に向き合っている選手がいた。自分には実績らしい実績は殆んど無いのに人気だけで選ばれた夢の球宴。太田幸司(近鉄)は新人の昭和45年から3年連続でファン投票1位で選ばれた。3年間で3勝・・本来なら選ばれる筈がない成績。今なら「ミーハーなファンには怒りを覚える」「組織票だ」と批判が集まるだろう。しかし「コーちゃん」は別格だった。「太田はパ・リーグの財産なのだ。何としても一人前に育てなければならない」と他球団の阪急・西本監督までもが口にするほど太田の成長は球界全体に課せられた命題だったのだ。
球宴初登板の昭和45年、全パ・西本監督は試合前の神宮球場の三塁側ベンチで太田の起用に悩んでいた。どんな場面で投げさせるのかではなく、降板させるタイミングを考えていた。力不足なのは分かりきっている、いかに傷付けずに球宴を体験させてやるのかを。パは初回から打者13人を送る猛攻で8点を奪った。その後も加点し6回までで大量13点のリード。「よし、この回」西本は鈴木啓示(近鉄)に代えて太田をコールした。投球練習で1球投げるたびに神宮球場の4万人が地鳴りのような大歓声を上げた。しかし一死は取ったものの安打と四球でアッと言う間に満塁のピンチで迎える打者は王。堪らず西本監督は腰を浮かしかけたが、ここはジッと我慢し続投させたが結果は右翼線への二塁打で2失点。スタンドからは歓声ではなく溜め息が漏れて打った塁上の王も苦笑い。
マウンドへ歩み寄った西本監督の「行けるか?」の問いに対する太田の「行けま…」との返事を遮り「審判、ピッチャー交代」と告げた。西本監督の腹は試合前から決まっていた。傷は小さなうちにと。次打者は長嶋だったのでスタンドの失望は大きかった。試合後の長嶋も「ファンも僕との対決を見たかったんじゃないかな。なかなか感じの良い新人だし楽しみにしてたけどね」と残念がった。
大方は交代させた西本監督に批判的だったが「彼には残り2試合も投げてもらわなくちゃならないから無理はさせらねない」と批判を突っぱねた。第2戦の大阪球場では8回に登板して三村(広島)を三振、森(巨人)を一ゴロなど三者凡退。第3戦も打者一人を討ち取り初の球宴を無事乗り切った。「真ん中に目がけて真っ直ぐを投げればいいんだと言ってやった。それでも高目に抜けるからカーブを投げさせたらやっと落ち着いた。まだ1年生だぞ、あんまりイジメるなよ」と。第2・3戦の好投の裏には野村(南海)の好リードがあったのだ。
昭和46年7月17日(土曜日)の西宮球場。マウンドへ登った江夏の肩とヒジは開幕当初から不調だった。ここまで6勝9敗の成績以上に気が滅入っていたのは、黒い霧事件に巻き込まれたせいであった。シロと認定されたのに1週間の謹慎処分を科せられた怒りは1年やそこいらでは治まらなかった。江夏の周辺は雰囲気も悪く本人もオールスター戦出場の喜びも半減で、半ば投げやりな気持ちで臨んでいた。
1回裏、先頭の有藤(ロッテ)に4球投げてみて奇妙な感覚を得た。甘いコースへ2球ほど行ったが有藤はファールするのが精一杯。「ん?軽く投げているのに振り遅れとる」5球目は自分でも惚れ惚れするような直球がインコース低目へ、有藤のバットは空を切った。二番・基(西鉄)も5球で空振り三振、三番・長池(阪急)は4球で三振に仕留めた。「今日の直球はソコソコ速いんかな」ベンチへ引き揚げる江夏はまだ無欲のままだった。2回裏、四番・江藤(ロッテ)は空振り三振で4者連続。まだ江夏の気持ちは無欲のまま。続く土井(近鉄)を3球三振で仕留めて気持ちに変化が現れる。「パの打者連中がエライ神経質になっとるわ。萎縮した相手なら楽に三振が取れる。狙わな損じゃ」と三振奪取王の意地とプライドが頭をもたげてきた。
江夏の読み通り六番・東田(西鉄)は両腕が縮こまってバットが出ず見逃し三振。記録の期待にざわめくスタンドからは1球ごとに「ストライク!」の大シュプレヒコール。バットを持つ手が増々自由を失っていく。七番・阪本(阪急)、八番・岡村(阪急)ともに空振り三振で8者連続。次打者はオールスター戦初出場の加藤(阪急)。さすがに荷が重過ぎると考えた全パ・濃人監督はベテラン選手を代打に起用しようとしたが張本(東映)やアルトマン(ロッテ)は「左だから…」と辞退。ならば右打者と野村(南海)や池辺(ロッテ)の顔を見ても尻込みして視線を合わせる事はなく代打起用を諦め結局そのまま加藤が打席に立つ事に。
この時点で大記録は達成されたも当然と言えたが加藤も少々抵抗した。1-1からの3球目、かろうじてバットに当て、打球は力なくバックネット方向へ。「ブチ、捕るな」江夏がそう叫んだとされているが本人は「あれは『追うな』と言ったんだよ」と後に語ってはいるがテレ隠しだろう。仕切り直しの41球目は渾身のストレートで加藤のバットは空を切った。前年の5者連続を加えると14者連続となり第3戦でも先頭打者が三振だったので、計15者連続奪三振を達成した。ちなみに前年の球宴では3回で8三振を奪っている。しかも四番が捕邪飛だった以外は全て三振。それも皆空振り三振だった。「もし」は禁句だが補邪飛が三振だったなら打者19人連続奪三振のとんでもない記録になった。この間の7回をパーフェクトに抑えていたのも記録で、通算19イニング連続無失点も他を寄せ付けない。
「個人が集団を引っ張って行く。だが個人は決して集団のノリを越えない。その個人が『モーレツ』であればあるだけ集団の業績は伸びていく」戦後高度経済成長の思想そのままにプロ野球界でも再び個人に光が当たった時代。江藤慎一・村山実・江夏豊・野村克也・張本勲 らは西鉄のサムライ野球時代の名残りだ。江藤は王と壮絶な首位打者争いをしていた時、「酒だよ、酒。この苦しみは酒を飲まなきゃ耐えられん」と毎晩のように一升瓶を空にしタイトルを手にした。野村や張本は人気の無いパ・リーグにいる事の悲哀を胸に押し殺して黙々と打ち続け数字で長嶋や王に対抗した。
ON砲が両雄並び立ったのと対照的だったのが村山と江夏だった。「俺と江夏のどちらがエースなんだ?誰が見ても俺だろ。エースとして扱ってもらわなかなわん」と村山は憮然として言い放った。若造を可愛がるのは構わないが自分がコケにされるのは許さない、それが連投時代の正論なのだが江夏も負けていない。「村山さんの勝ち星のうち、俺がリリーフしたものも結構あるし。お互い様じゃ」と19や20歳の若造も言い返す。生きるか死ぬかの戦場で年齢なんか関係ないのもまたこの時代の正論なのだ。
川上が築いたONを中心とする頑強な組織野球の牙城をサムライ時代の残党が完全に崩す事は出来なかった。名将・三原率いる大洋も巨人に対峙できたのは1度きりだった。巨人は昭和40年以降に他球団がサムライ時代の鎧を纏い戦いを臨んできても常に一歩も二歩も先を進み完膚なきまでに蹴落とした。しかし常勝・巨人軍も変革の波は避けられない。長嶋が球団を去り王も現役を引退した今年から新たな時代を迎える事となる。現代のヒーロー像は男臭い、厳つい選手ではなく「アイドル」の時代らしい。
ある女子高の全校生徒によるアンケートによれば北別府学・高橋慶彦・篠塚利夫・真弓明信・牛島和彦・
水上善雄・梨田昌崇らに人気が集まっていると言う。彼女らによると、ただ顔が「カワイイ」だけではダメなのだそうで、ある種の悲劇性を兼ね備えている必要があるらしい。高橋は自慢の足を怪我して欠場、水上は不人気球団ロッテ在籍、梨田は実力はあるにも拘らずベテラン有田との併用の為に出場機会が少ない。極めつけが篠塚で大物新人・原の加入で窓際へ追いやられた不遇を跳ね返した大ブレークが女心を揺さぶるそうだ。