Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#328 十大秘話 ⑥ 球団身売り

2014年06月25日 | 1983 年 
セ・リーグの熾烈なペナント争いを巡る熱気に比べてパ・リーグは何度も揺れた。ロッテと日拓の合併というリーグの命運に係る出来事に関係者は困惑顔だ。果たして本当に両チームの合併は実現するのか、それが1リーグ制移行に拍車をかける事になってしまうのか?事の起こりは昭和48年9月15日、日拓ホームの西村オーナーから太平洋クラブの中村オーナーへの1本の電話だった。内容は「ウチ(日拓)とロッテが合併する。更にもう1組合併して10球団による1リーグ制にするつもりだ」というものだった。

対して中村オーナーは「昨年に1リーグ制を目指した時、松園オーナー(ヤクルト)や中部オーナー(大洋)のようにセ・リーグ内にも賛同者はいたが強硬に反対するオーナーもいて頓挫した経緯を説明して軽率に動いても難しい」と伝えたそうだ。今シーズン、パ・リーグは後期こそ阪急の独走もあって入場者数は前期を下回ったが、年間420万人の観客動員に成功した。まだまだ集客方法に改善の余地も有り、リーグ一丸となって頑張ろうと新たな決意で来季に臨もうとしている矢先に今回の合併話。これを受けての12球団オーナー会議では「こんな重大な案件を一方的に発言するとは迷惑千万。審議する価値もない」と一蹴された。 【 昭和48年11月5日号より 】



この号の巻頭特集は「巨人逆転優勝でV9」だった。セ・リーグは史上稀に見る大混戦で9月になっても首位と最下位が3ゲーム差以内にひしめき合い、毎日のように首位が入れ替わる異常事態。最後は阪神と巨人が抜け出し阪神が129試合目に勝てば優勝という名古屋での中日戦に挑んだ。その試合の最中に甲子園での阪神戦の為に移動する巨人ナインを乗せた新幹線が中日球場の脇を通るという風景も見られた。中日先発の星野投手が「武士の情け」とばかり真ん中付近に投げ続けたがプレッシャーに押し潰された阪神打線は不発でこの試合に敗れた。阪神の敗戦で意気上がる巨人は130試合目となる甲子園で阪神を圧倒、最後の最後で優勝を手にした。

観客動員数で大きくセ・リーグに水を空けられていたパ・リーグはこの年から前・後期制を導入するなど色々と策を講じて何とか盛り上げようとリーグ全体で頑張っていたが一方で球団身売りが行われるなど揺れていた。一時代を築き栄光の過去を持つ東映フライヤーズが日拓ホームという全く無名の企業に売却されたが僅か1年で再び身売りの憂き目に会った。しかも日拓の身の引き際は実に後味の悪いものだった。前述の合併話を一方的に言い放って球界を大混乱に陥れた。

この合併話を真に受けて「日拓とロッテの合併に続いて近鉄と南海も合併へ」と大々的に報じる一般紙も現れ混乱に拍車をかけた。大山鳴動しても鼠一匹現れる事なく2ヶ月にも及ぶ混乱の末、合併は実現せず11月17日に日拓ホームを買収した日本ハムがファイターズを誕生させ騒ぎは終息した。日ハム球団は従来のパ・リーグ球団には見られなかった積極的な営業活動を展開し人気球団の西武と今やグラウンド内外で覇を争うまでになり、旧来の既存球団は顔色なしである。この期に及んで懲りずに南海球団が1リーグ制を画策しているとの一部報道があるが老舗球団としてのプライドをお持ちではないのかと問わざるを得ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#327 十大秘話 ⑤ 伝統の一戦

2014年06月18日 | 1983 年 
血で血を洗う大決戦・・・18日からのセ・リーグ天王山、阪神対巨人の4連戦はまさしく血闘だった。9月18日の22回戦4回表、バッキー投手の王選手に対する2球目は1球目に続いて身体スレスレを通った。普段は温厚な王がバットを持ったままバッキーに詰め寄り、荒川コーチがバッキーに向かって猛突進するとこれが発端となり両軍選手が入り乱れての大乱闘に。バッキーと荒川コーチが退場処分となり20分後に試合再開されたがバッキーに代わって登板した権藤投手の投球が王の頭部を直撃し王はその場に昏倒し動かない。再び両軍選手が睨み合う。王は担架で運ばれ3分後に試合再開となったが興奮したファンがグラウンドに乱入するなど球場内は異様な雰囲気となり再開後はグラウンドに警察官が配備されるという異常事態に。翌19日には甲子園署に荒川コーチ、バッキー投手、竹元審判が呼ばれて事情を聴かれた。【 昭和43年10月7日号より 】


V9街道真っ只中の巨人を捻じ伏せる若者が阪神に現れた。プロ入り2年目、19歳の江夏豊投手だ。ON砲を中心に向かうところ敵なし状態の巨人打線相手に真っ向勝負を挑む姿に甲子園球場は沸きに沸いた。この球史に残る大乱闘の前日に江夏は登板していた。その日の江夏は稲尾投手(西鉄)が持つシーズン最多奪三振記録(353個)の更新目前だった。「新記録は王さんから」と江夏は公言していたが宣言通りに7回表一死で王を迎えるとカウント2-1から見事空振り三振で新記録達成。しかもこの試合は0対0の延長12回裏に江夏が自らのバットで決勝点をあげ勝利した。

ペナントの行方は激しく追い上げる阪神と、この阪神4連戦を乗り切れば優勝へ大きく前進する巨人。阪神は先ず江夏で勝ち、翌18日のダブルヘッター第1試合は村山が完封勝利し、その勢いのままバッキーで連勝を狙った。しかしバッキーは味方のエラーもあり巨人にリードを許してマウンド上で明らかにイラついていた。そこに例の王に対する投球で愛弟子の王のピンチとばかり荒川コーチが猛突進し、球史に残る大乱闘に発展した。両軍ベンチが一触即発状態の異様な雰囲気に球場全体が包まれていたが、ただ一人冷静だったのが長嶋。王の負傷退場にザワめきが残る場面で目の醒めるような本塁打を左翼スタンドに叩き込み場内の雰囲気を一瞬にして平常時に戻した。

とにかく当時の巨人は強かった。打撃陣は土井や黒江の脇役と " 赤い手袋 " の柴田や " 塀際の魔術師 " の高田の俊足コンビがON砲を中心に相手投手を打ち崩して打撃タイトルを独占。投手陣はドラフト1期生の堀内がエースに成長し投打共に他球団を寄せ着けなかった。そのお蔭で他のセ・リーグ5球団の監督は長続き出来なかった。かつて巨人の牙城を崩したかと思われた大洋の三原脩も昭和43年に近鉄へ去り、後任は別当薫に。広島は長谷川良平から根本睦夫、サンケイは飯田徳治から別所毅彦、中日は西沢道夫から杉下茂へ監督交代を余儀なくされた。杉下に至っては僅か80日でその座を追われる羽目に。巨人の存在はそれ程までに大きかったのである。

ちなみに頭部に死球を受けた王は「当分の間、立ち上がる事は出来ない絶対安静」との診断を受けたが翌日には退院し宿舎で素振りまでした。そして次の遠征先の名古屋での中日戦でバックスクリーンに本塁打を放った。一方のバッキーはこの乱闘で負傷した右手が癒えず、以後に勝ち星をあげる事はなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#326 十大秘話 ④ 投手分業制

2014年06月11日 | 1983 年 
現在の江夏(日ハム)や斎藤明(横浜大洋)に代表されるストッパー役の先駆者が「8時半の男」こと宮田征典(巨人)だ・・・「また宮田か、一体どうなってんだ?」「今日で5連投だぞ。川上監督は気でもふれたのか?」 まだリリーフ投手の概念が確立されていなかった時代だけにネット裏はザワついた。

昭和40年6月2日、巨人対阪神9回戦の8回表二死二塁の場面で金田投手が左ヒジを抑えて顔をしかめた。藤田投手コーチが慌ててマウンドに駆け寄るが続投は無理と判断すると川上監督は迷う事なくブルペンを指差した。宮田投手がゆっくりと登場した。5月27日のサンケイ戦、5月29,31日の中日戦、6月1日の阪神戦に続いて5試合連続の登板となったが宮田は涼しい顔で阪神の追撃を絶ち金田に白星をプレゼント。この7連戦中、宮田が登板しなかったのは5月25日のサンケイ戦のみ。6月4日現在、宮田の勝ち星は「5」だがチームの23勝中、16勝に貢献。巨人にとって今や欠かせない戦力になっている。 【 昭和40年6月21日号 「価値ある男・宮田征典」 より 】


巨人が僅差でリードして終盤にピンチを迎えると能面のように表情を変えず鮮やかにピンチを脱する宮田は「8時半の男」と呼ばれた。宮田が登場するのがスコアボードの時計の針が8時半を指す頃だったからだ。宮田の投球スタイルの特徴は間合いが長かった事だ。打者は宮田の間合いにイライラして術中に嵌り凡打を繰り返した。周りはそれを「じらし投法」と呼んだが実は持病の心臓病を抑える為の苦心の投法だったが、それが世間に知られるようになるのは数年後。そうして投げ続けて10月15日の大洋戦で「44回交代完了」の日本新記録を達成、リリーフだけで17勝というのもセ・リーグ記録となった。

この宮田の活躍が後の九連覇という偉業のスタートとなる昭和40年の優勝の原動力となった。MVPは打点と本塁打の二冠に輝いた王に譲ったが川上監督が「私にMVPを選ばせてもらえるのなら宮田にあげたい」と語ったのはよく知られた話だ。巨人が九連覇街道をひた走る初年度に球史初の「火消し専門投手」の登場によって優勝を遂げた事は近代野球の幕開けの象徴と言える。これ以降、各チームは宮田的投手の発掘・育成に力を注ぎ現在のストッパー全盛の時代へと行き着く。江夏や角、牛島らに代表される絶対的ストッパーの存在が優勝を左右する決め手となっている。

セ・リーグを制した巨人と日本一を争った南海は監督人事で揺れた。日本シリーズで敗れた鶴岡監督が辞表を出すとすんなり受理され、後任に蔭山監督就任が発表され監督人事問題は一件落着した筈だった。一方、監督を辞した鶴岡だったが名将は引く手あまたで東京オリオンズとサンケイスワローズによる獲得合戦が繰り広げられ、自ら上京して両球団と同時交渉して就任先を決める事となった。しかし出発当日早朝に蔭山監督が急死してしまった。鶴岡は上京を取りやめ蔭山の葬儀に出席した。そして葬儀に来ていた野村や広瀬ら主力選手の復帰要請を受けて南海の監督に戻った。多くの関係者によると鶴岡はオリオンズの監督就任に乗り気だったそうで、蔭山の死が無ければその後のパ・リーグ勢力図は変わっていたかもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

#325 十大秘話 ③ トラブル

2014年06月04日 | 1983 年 
昭和36年は巨人・川上監督が就任1年目にして6年ぶりに日本一の座についた南海との日本シリーズをはじめトラブルが多く発生した年だった


巨人の2勝1敗で迎えた第4戦は南海が9回表に2点をあげ3対2と逆転し9回裏も二死一塁、代打の藤尾が打席に入った。この回からリリーフしたスタンカ投手は藤尾を内野フライに討ち取り2勝2敗にタイに持ち込んだと思われた次の瞬間、一塁手の寺田がポロリと落球。二死一・二塁となり打席には長嶋。長嶋の打球は当たり損ねの三塁前へのゴロ、三塁手の小池が猛然と突っ込み捕球しようとしたがファンブルして二死満塁。南海は勝利目前から一転してサヨナラ負けの大ピンチに追い込まれた。

打席にはこのシリーズのラッキーボーイ的存在のエンディ・宮本。スタンカは簡単に2-1と追い込み4球目は外角へ。見逃し三振で試合終了と思われたが円城寺球審の判定は「ボール」、捕手の野村は勿論スタンカもマウンドから駆け下り猛抗議するも判定が覆る事はなく試合続行。同じく外角に投じられた続く5球目を宮本は逃さず右翼線に弾き返し同点の三塁走者に続き二塁走者も生還し巨人が逆転サヨナラ勝ち。スタンカは右翼からの返球に備えてバックアップに走り、その際に円城寺球審に体当たりし円城寺は吹っ飛ばされたが即座に立ち上がり「ゲームセット」を宣告した。

スタンカの体当たりには4球目の判定に対する不満が込められていたのは誰の目にも明らかだった。試合終了を宣告した円城寺球審に再びスタンカが詰め寄った。逆転サヨナラ勝ちで日本一に王手をかけ歓喜に沸く巨人ベンチとは対照的に「おい、ジョーが行くぞ」という声が南海ベンチから発せられると脱兎の如く南海の選手達がベンチを飛び出し円城寺球審を囲み球場内は騒然とした雰囲気に包まれた。【 昭和36年11月13日号 】



今でも語り継がれる日本シリーズでのトラブル。寺田選手の落球が無かったならゲームセット直後の騒動も無かった筈だが、南海側にしてみれば落球があってもスタンカの4球目は「コース・高さ共に文句なしのストライク。あれでウチは勝っていた(野村捕手)」と未だに納得していない。野村は4球目を捕球した瞬間「勝った」とばかり立ち上がりスタンカに向かって走り出そうとしたが球審の「ボール」のコールに「えっ!!」と振り返った。球審に抗議している間、普段は冷静な野村がホームベースをガラ空きにしていたほど我を忘れていた。実はスタンカが猛然の駆け寄って来たのはガラ空きとなったホームベースをカバーする為でもあった。

この騒動に代表されるようにこの年はトラブルが続出したシーズンだった。4月29日、日生球場での近鉄-阪急戦で判定に納得できない戸倉監督(阪急)は試合放棄を敢行しようとしたが審判団はもとより阪急の球団関係者までもが説得して何とか試合続行に漕ぎ着けた。抗議時間は1時間27分に及び、その間観客は大人しく待っていて暴動に至らなかった事が救い。ちなみに試合は7対4で阪急が勝ち、試合終了後の近鉄の選手たちは長時間試合に加え負けた事でグッタリした様子だった。

騒動はグラウンド外でも。5月13日、社会人野球協会が「今後プロ野球界と絶縁する」との声明を発表した。夏の都市対抗大会が終了する迄は社会人選手を引き抜かないという「約束」を中日が破り日本生命の柳川選手を入団させた事に態度を硬化させた。中日にしてみれば「約束」は暗黙の了解であって獲得を禁止している訳ではなくルール違反ではないという主張。しかし社会人側は納得せずプロ側との対立はその後も長く続く事になる。6月にはファンの野次に怒ったブルーム(近鉄)がフェンスをよじ登ってスタンドまで入り込み相手に殴りかかるという前代未聞の暴行事件を引き起こした。

極めつけだったのが7月7日の 巨人vs 国鉄戦。0対0のまま延長戦に突入し11回表・国鉄の攻撃は二死一・二塁で鈴木の打球は三塁ゴロ。捕球した長嶋は三塁封殺を狙うが間に合わず「セーフ」、しかし走者の土屋が勢い余ってオーバーランしてしまいそのまま本塁へ走り出す。三~本間での挟殺プレーとなったが捕手へ送球した後の長嶋と三塁へ戻る土屋が交錯し倒れた所をタッチされ「アウト」に。しかし国鉄は長嶋の走塁妨害だと抗議すると判定は「セーフ」に覆った。

そうなると巨人も黙っていない。延々と抗議は続き試合は中断に。イライラしたファンがグラウンド内に物を投げ込み始めて球場内は騒然となった。騒動を鎮める為に200人を超す警備員を配置した事が火に油を注ぐ結果となり、あちらこちらで小競り合いが起き始めた。そんな雰囲気を察した巨人が折れて試合は再開されたが既に時刻は深夜12時を過ぎていた。試合は1対0で巨人のサヨナラ勝ちとなったが川上監督にして「これまでの野球人生で最悪の試合」と言わしめる事となった。ちなみにこの試合の公式記録の日付は「巨人-国鉄戦 / 7月8日」となっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする