Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 637 監督の座

2020年05月27日 | 1976 年 



もやもやしていたヤクルトの監督問題は、どうやら2年間は広岡体制で臨むことが本決まりになって一件落着のようである。しかし " ポスト広岡 " には実力者・武上コーチが控えており、フロントの意思も完全には統一されていない事から気の早い人は早くも来年のストーブリーグの目玉商品になりそうと気を回しているのだが、一体ヤクルトには何があるのか。

V1の " 切り札 " 広岡への評価
11月26日付のスポーツ紙には " 広岡監督2年契約 " の見出しが躍った。しかし遡ること半年前、荒川前監督が休養した時は確か佐藤球団社長は「広岡ヘッドコーチには監督として来年から向こう3年、指揮を執ってもらいたい」と明言していた筈。年数が減っただけではない。全日程が終了しても監督就任がなかなか発表されなかった。報知新聞が『未だに未契約、おかしな広岡の周辺』、日刊スポーツが『契約は1年?3年?』と報じたり、系列紙のサンスポに至っては『更迭の可能性も』と衝撃的な見出しも。シーズン終了と同時に正式発表しておけば混乱を避けられた筈だがフロント陣の先延ばしの方針が混乱に拍車をかけた。

なぜ発表を先延ばしにしたのか?そこには「武上コーチの存在がクローズアップされる(ヤクルト担当記者)」というのだ。武上コーチは現役時代から将来の監督と目されていた。片や広岡監督は佐藤球団社長から優勝への最後の切り札とチームを託されていて当分は広岡体制が続くと誰もが思っていたが、情勢は少なからず変化していた。当初は佐藤社長の思惑通り広岡ヘッドコーチを監督代行へ、その後正式に監督就任。そして留任という流れがいつの間にか監督更迭というムードへ変わっていった。その辺の事情を「佐藤社長がノンビリ構えている間に武上派の役員が動いた形跡がある」とフロント関係者は証言する。

そのフロント関係者によると広岡監督の評価は球団内でも分かれているという。
 ❶ 性格はだいぶ柔らかくなったが、まだ馴染めない選手もいる
 ❷ 会田投手を開花させたが井原投手と西井投手を潰した
 ❸ 内野手育成は広岡監督の担当だが期待していた渡辺進選手は伸び悩んでいる
これら3つの理由と5位に終わった結果を受けて広岡監督の手腕に疑問を持つフロント陣も少なくないという。

寝首を掻かれた恰好の佐藤社長だが、例えて言うなら任期満了で国会を解散した三木首相は総選挙後も引き続き政権を担当する気だったが、自民党内の反対勢力である福田派・大平派が虎視眈々と権力奪取を画策している政治の世界と似た構図である。リーグの会合に出席した際に鈴木セ・リーグ会長に「一体ヤクルトはどうなっているんだ?」と問われた松園オーナーは「広岡でいきます。ただし3年、5年とか長期の契約はしません。監督も選手同様に1年・1年が勝負ですから」と答えたと伝えられている。これが事実ならば松園オーナーの頭の中には既に " 武上監督 " が浮かんでいるのかもしれない。

チームの生え抜きで現役時代からファイターとして知られ、歯に衣着せぬ物言いで武上コーチの言動はクールな広岡監督とは全く別の存在感がある。しかも万年Bクラスのチームには得てして外様監督には選手の心理や行動を把握しきれないものが潜んでいる。そんなチームを一つに纏めるには生え抜きが適任であるという考えをフロント陣が持っていたとしても不思議ではない。三顧の礼を尽くして自分を迎えてくれた佐藤社長から具体的な契約年数を告げられないままでは広岡監督の気持ちもスッキリとしなかったであろう。


森バッテリーコーチ招聘のジレンマ
「頼んだぞ、と言った社長が何時までたっても契約年数の話をしない。スタッフも決まらずトレードも進まないときては広岡さんもイライラしていたんじゃないかな。契約は1年で充分だ、1年経ってまた再契約した方がよっぽどスッキリすると広岡さんも開き直ったと聞きましたよ」と某紙の担当記者は言う。広岡監督としては契約年数よりもコーチングスタッフ、特に森バッテリーコーチの処遇の方が重要であると考えていた。佐藤社長が11月22日に森氏と会い入団を要請したが森氏は返事を留保した。「森氏は現場に戻る意思はあるがヤクルトの現状を不安視しているのでは」と担当記者は推測する。

広岡監督が仮に短期政権だと、至上命令の優勝を逃した場合のスケープゴートにされてしまう可能性が有る。森氏も敢えて火中の栗を拾って自らの野球人生に汚点を残したくはないだろう。広岡監督も球団も森氏をバッテリーコーチとして迎えたい。森氏もその気があるのに快諾できない。監督の契約年数問題が人事にも影響を与えている。こうした情勢下で11月25日に広岡監督と松園オーナーとの会談が行われた。「私としては1年で勝負したいです(広岡)」「気持ちは分かるが2年以上はやって欲しい(松園)」と当初は意見の隔たりがあったが最終的に両者は歩み寄り結局、2年契約で決着した。

ただしこれでスッキリ解決した訳ではなかった。この会談の場に佐藤社長は同席していなかった。同席どころか東京を留守にしていたのだ。「広岡君の契約に関しては選手の契約更改が終わる12月上旬以降に本人と話し合う予定だ。契約年数もその時に決めたい」と言明していた佐藤社長が不在のまま松園オーナーとの直接会談で決めたのだから話は少々ややこしくなる。あえて " ややこしい " と表現したのは「広岡君となら3年と言わず5年契約を結んでもいいくらいだ」と話していた佐藤社長の算段と乖離が生じたからだ。どちらかというと子飼いの武上コーチを可愛がっている松園オーナーと敢えて直接交渉をした広岡監督のフロントに対する苛立ちは想像に難くない。

今季コーチになったばかりの武上コーチが来季から監督に就任するのは時期尚早なのは松園オーナーも分かっている。分かっているが5年も待てない。そこで間をとって2年に落ち着いた、それが恐らく実情だろう。「広岡擁立派は佐藤社長と徳永球団代表。反広岡派は相馬専務ら複数のフロント幹部(担当記者)」と対立しているそうで、それは松園オーナーも先刻承知である。ヤクルト本社の役員も「チームが強くならないのは現場とフロントがしっくりいっていないから」と。そういえば荒川前監督時代、コーチングスタッフの編成でフロント内の意思統一が出来ず紛糾し松園オーナーに一喝されたが、相変わらず解消されていない。


納会には出席しなかったオーナー
もうひとつ気になるのは後援会々長でもあるヤクルト本社の山下専務が最近めっきり表舞台から姿を消している事だ。二軍が使用する練習場は武山球場だが10年も間借り状態が続いていた。それを解消して埼玉・戸田市に新たな練習場を作り上げたのが山下専務だ。しかし当初の山下専務の構想では練習場の近くに合宿所を併設する計画だったが資金不足で着替えとシャワー設備のみの簡易なクラブハウス建設に後退してしまった。そのせいなのかは不明だが山下専務はそれ以降は球団への情熱が冷めてしまったようである。「この不景気では野球どころではないのもあるが、球団内のゴタゴタに山下専務も嫌気が差しているのでは?」と本社の別の役員は言う。

勝てない、人事の決定は遅い。トレードなどの補強もままならないでは全ての声が批判がましくなるのも致し方ない。「スタッフも今のまま。トレードも諦めて現有戦力を鍛え直して勝負するしかないですね」といささか自棄になる広岡監督の心中は察するに余りある。11月17日、銀座の東急ホテルで行われた納会に松園オーナーの姿はなかった。過去に松園オーナーはどんなに多忙で予定があっても、僅かな時間を割いて顔を出したり中座する事はあっても納会を欠席する事はなかった。ところが今年は選手やフロント陣に向けたメッセージという前代未聞の痛烈無比な手段に打って出た。

「マスコミの皆さんも今年はヤクルトが優勝するのではないかと宣伝してくれた。私自身も戦力からいってその気になっていた。しかしシーズンを終えてみるとどうだ。昨年の最下位だった巨人が優勝し我がヤクルトは想像だにしなかった5位ではないか。これはフロントから監督、選手に至るまで何かが欠けていたと判断するより仕方ない…(以下略)」進行役が代読したメッセージは松園オーナーの怒りであり失望であった。後日、松園オーナーは「納会に出なくて正解だった。良い薬になったろう」と苦笑していた。財界人同士の集まりで優勝できない事を冷やかされて悔しい思いをしてきただけに今年の不甲斐なさには腹わたが煮えくりかえる思いだったに違いない。
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# 636 東大卒

2020年05月20日 | 1976 年 



" 東大エリート " を静かに拒否し続けた男
今シーズンが終了して間もなく井出峻外野手(中日)が「もう僕の役目は終わった。今季限りでユニフォームを脱ぎたい」と球団に退団を申し入れた。これに対して小山球団社長が「本人の意思は尊重する。ところで野球を辞めた後はどうするのか?」と問うと「別に今はこれといったアテはないです。しばらくはゆっくり休んで、身の振り方は後々考えたい。プロで10年やってきました。10年一区切りですから新たな道で人生を再スタートするつもりです(井出)」と答えた。井出は親会社の中日新聞からの出向という身分になっているので球団としては新聞社の仕事をするなど引退後も極力中日グループと関係を保つよう要請したが色よい返事は得られなかった。

それから1ヶ月後の11月22日に行われた納会の前に井出は小山社長ら球団幹部と会って今後の自らの去就について話し合った。球団側は引退後も球団に残ってチームの為に力を貸して欲しいと求めたが、井出は環境を変えて第二の人生の再スタートを切りたいと伝えて球団からの申し出を丁重に辞退し、正式に退団する事が決まった。新たな職場は美弥子夫人の実家が経営する藤森工業KK(東京・中央区馬喰町)で野球とは無縁の世界で再出発する事となった。藤森工業は包装材料の製造卸を行なう、いわば中小企業である。そこでは東大卒の肩書を一切かなぐり捨てる覚悟だ。

新宿高校を卒業後に一浪をして東京大学理科二類に合格し、いわば日本のエリートコースを歩んで来た。東大卒業時には三菱商事に入社が決まっていたのを中日がドラフトで指名。周囲の反対を押し切ってプロ野球の世界に飛び込んだ。当時もそして現在でも「野球なんかやらずに三菱商事へ行ったら今頃は中堅社員として世界中を駆け回るエリートサラリーマンだったのに…」と会う人、会う人に何度も言われた。そうした声にも井出は静かに笑ってやり過ごした。「いくら僕の気持ちを説明しても納得してもらえない。だから黙っている方が…(井出)」と。井出のこうした気持ちは本人ですら論理的に「こうだ!」と説明できないのかもしれない。

少年時代から野球が好きで高校生の時は母親には内緒で野球部に入部し白球を追う生活を送った。浪人時代ですら予備校仲間と野球チームを作り興じていた。大学卒業時に思いもしなかったプロからの誘いに井出は「好きな野球をとことんやれ、とのお告げだ」と衝動的にプロ入りを決めた。気持ちの赴くまま未知の世界に飛び込める井出には普通の常識では考えつかない「何か」を持ち合わせているようだ。こうした経緯を辿っていくと、一見物静かに見える井出には実は恐ろしいくらい激しい情熱を持った男なのかもしれない。それはつまり、ある種の自己に対しての異端児とでも言えそうだ。


中日新聞、解説者などの優遇も捨てて中小企業へ飛び込んだ理由
名古屋の地元マスコミは「井出なら解説者にうってつけだ」とばかりテレビ・ラジオ放送局がこぞって誘った。また中日新聞からの出向制度には出向していた期間に応じて本社に戻る際に社内職歴として加算されるシステムがあり、一般の転職組とは違って新入社員扱いはされない。こんな結構な待遇はそうザラにある話でない。しかも井出には東大卒という学歴もあり、中日新聞社内には喜んで入社するであろうと考える空気があった。それを振り切って中小企業へ飛び込み、一から裸一貫やり直すという井出には、三菱商事を捨ててプロ入りした時と同じような気概を今なお持ち続けているとしか考えられない。

東大卒のプロ野球選手第1号の新治伸治氏は今、大洋漁業の社員としてアメリカで活動している。井出も三菱商事に入社していれば今頃は専門のバルブ関係の仕事で世界中を駆け巡っていたに違いない。「東大から入社した同期はカナダで頑張ってますよ」と話す井出の目はどこか遠くを見ているようだった。今季の井出は開幕して暫くは二軍にいた。肩書は選手だがキャリアや技術を買われてコーチ補佐役の立場も兼ねていた。一軍が低迷から脱せずにいると「井出を一軍に上げてチームの雰囲気を変えるべき」との声が高まり、やがて井出は一軍に昇格した。相手のサインを解読したり、井出ならではの頭脳は中日にとって欠かせぬ存在になっていた。

今にして思うと井出はこの頃から身を引く考えを持ったようだ。巨人の10連覇を阻止した昭和49年の優勝にはチームに貢献できたと自負があったが、最近は代走や守備固めに起用される事が多く、戦力としてチームへの貢献度が低くなっていると感じていた。実は49年の優勝の3年前にも一度引退を決意したが与那嶺監督から「君はチームの戦力である」と慰留された過去がある。それだけに49年の優勝で「これで与那嶺監督の期待にも応えられたし僕の役目も終わった」と気持ちは一区切りしていて、この2シーズンは井出にとって附録であったのかもしれない。とうとう井出は最後まで本心をオブラートに包んだまま球界を去ることになった。
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# 635 沢村栄治

2020年05月13日 | 1976 年 



燦然と輝く沢村栄治の不滅の伝説
一代の英雄、沢村栄治は伊勢市岩渕町にある近鉄線・宇治山田駅裏の一与坊墓地で静かに眠っている。昭和9年秋、ベーブ・ルース一行を迎えた静岡・草薙球場での快投。昭和12年、タイガース相手にプロ野球史上初のノーヒットノーラン。同年12月、タイガースとの洲崎の決戦から優勝決定戦までの3連投。応招を繰り返した後の戦死。等々エピソードは数多く今なお当時を知る人物によって語り継がれている。「ワンバウンドすると思った球がホップして低目にズバッと決まった」と語るのは草薙球場での大リーグとの試合をバックネット裏で観戦した小坂三郎氏。また職業野球人として巨人軍との契約第1号選手だった三原脩氏もその一人だ。

三原は「金田と沢村はどちらが速い?」「絶好調時の江夏とは?」「稲尾は?」と聞かれる度にわざわざ「沢村という伝説的選手を美化する気は毛頭ないが」と前置きをして「私は躊躇なく沢村だと言える。金田も江夏も速かった。でも沢村には及ばない」と答えるのが常だった。また「今の投手のように球の種類がたくさんあるわけではない。スピードボールと懸河のドロップの2つで抑えた。リストの素晴らしさで一度ポーンと上がってからストーンと落ちるドロップ。あれが本物のカーブだ」と語るのは沢村が京都商に在籍していた当時に対戦した元巨人軍選手の南村侑広氏。

南村は旧制・市岡中学のエースとして昭和9年5月に藤井寺球場で沢村率いる京都商と対戦した。南村は4年生、沢村は5年生だった。沢村の速球は唸るというよりブルブルと震えるようだった。市岡中は全く歯が立たなかった。その証拠に市岡中は9回終了時点で25三振。27個のアウトのうち25個が三振だった。だが一方の南村も好投し京都商を無得点に抑えて試合は延長戦へ。11回、南村に四度目の打席が回ってきた。南村は考えた。「まともにいっても打てない。奇策でいこう」と。そこで初球をセーフティバントを試みた。なんとか速球をバットに当てたと思った瞬間、南村は呆然とした。

カ~ンという乾いた音と共にボールはバント処理に前進してきた遊撃手の頭上を越えて左翼手の前にポトリと落ちた。あまりに球が速いので反発力も強く左前安打になったのだ。日本の野球史上、セーフティバントが左前安打を記録したのはこの南村しかいない。この話には続きがある。南村は市岡中学を卒業後、昭和11年に早稲田大学に進学した。当時は市岡中学から早稲田大学へ進学を希望する選手が多く競争率は高かったのだが、南村の場合は早稲田側から入学を求められた稀有な選手だった。というのも、あの沢村から左前安打した選手として南村の名前が遠く離れた東京でも評判になっていたからだ。その安打がセーフティバントだったと知る大学関係者はいなかった。


甲種合格でなかったら戦死も…
今でこそ硬貨を入れて遊ぶゲームマシーンは街中で見かけるが、巨人軍が初めてアメリカに遠征した昭和10年当時は殆どの選手にとっては見たことのない物だった。5セント硬貨を次々と取られてしまう選手が続出する中、沢村は勝って小遣い稼ぎに成功した。沢村は筆マメな一面もあった。「この前、街中を歩いていたらアメリカ人にサインを頼まれた。俺も有名になったもんだ」と日本の知人に手紙を書いたが、実はそれはカージナルスのスカウトが差し出した契約書だったという逸話が綴られていた。明るく陽気で茶目っ気もあった沢村。色々な知人に送った手紙には普段は表面に出さなかった悩みも打ち明けていたという。

「戦況が厳しくなる中、往年の快速球が影を潜め、勝てなくなった沢村は巨人軍からも冷遇されるようになった。独り者の沢村は私が世話をしたアパートに住んで、朝・昼・晩と私の家に来て食事を摂っていた。中野駅前14番地にあった中野荘という一戸建てアパートの2階を間借りしていた」(藤本定義著『風雪三十年の夢』より抜粋)。短い生涯だったが淡い恋も経験した。当時の巨人ナインの間で " 一塁側スタンドの令嬢 " が話題となっていた。沢村が登板すると必ず母娘が観戦に訪れた。他の選手にひやかされるとベンチ裏に隠れてしまう程シャイな男だった。若い頃に沢村の球を捕った山口千万石氏は、そのあまりの剛球ゆえに左手の指が曲がってしまった。そのせいで徴兵検査で「第二乙種」となった。「沢村もねぇ甲種合格にならなければ…(山口)」と涙を浮かべた。

昭和13年1月に入営。武漢作戦の軽機関銃手になり、手榴弾を78㍍も投げたという。左手に被弾し負傷して昭和14年8月に除隊となった。グラウンドに戻って来た沢村の身体は天性の柔軟性を失い、持ち前の快速球は影を潜めていた。それでも昭和15年7月に対名古屋戦で自身三度目となるノーヒットノーランを達成した。しかし昭和16年10月に再応召されミンダナオ島へ派遣された。昭和18年1月に日本に戻り飛行機製作工場に職工として配置される。昭和19年に三たび応召されその年の12月2日、乗船した艦船が台湾沖で撃沈され沢村は船と共に深い海へ沈み日本の地を再び踏むことはなかった。


沢村の向こうを張った酒仙投手・西村幸生
伊勢が生んだもう一人の名投手がいた。沢村は宇治山田の明倫小学校のエース。同じ町の厚生小学校のエースだった西村幸生だ。やせ型でスラリとした容姿の沢村に対し西村はガッチリ体型のやんちゃ坊主だった。沢村は今で言うところの野球留学で京都商業に進学したが、西村は地元の山田中学を経て関西大学へ進んだ。関大のエースとなった西村は昭和7年暮れから翌8年春にかけて東京六大学のチームを撃破した。今でこそ関西の大学が関東の大学と互角に戦うのは普通だが、当時は「大横綱の双葉山の70連勝を阻止した安芸の海に匹敵する快挙(大和球士氏)」と称賛された。その大和氏が後に西村を酒仙投手と名付けた。

昭和12年にタイガースに入団した西村は沢村がいた巨人を抑えてタイガース黄金期を支えた。西村の根底にあったのは東京への反抗、ライバル沢村への敵愾心だ。西村は酒を浴びるように呑み、「幸さん酒を慎まないと投手生命を縮めるよ」と周囲から忠告されても「投手がダメならおでん屋でもやるつもりだから心配御無用」と意に介さなかった。だが巨人も負けていない。打倒・西村を合言葉に猛練習を積みやがて第一次黄金期を迎えることになる。こうしてタイガースと巨人が競い合い、切磋琢磨したことで創設間もないプロ野球界を繁栄させたのである。

「東京のチームに負けるのが俺は大嫌いだ。我慢できん」と常に公言していた。ある日のことタイガースと巨人の選手が同じ列車で移動することがあった。西村は食堂車でコップ酒を一杯あおりながら「(前日の試合に負けた)巨人の野郎どもはきまりが悪いのか誰も食堂車に来んな」と毒ついた。あたりを見渡した後輩の御園生選手が「幸さん車両の後方に藤本さんと水原さんがいますよ。大声は控えて下さい」と言うとやおら振り返り「やあやあ御両人。後楽園では失礼しました。どうか気を悪くせんといて下さい。こちらは祝い酒ですがそちらは何酒ですか?ワッハッハー」とトロンとした目つきで挑発し、「おい西村…」と立ち上がった藤本を水原が抑えた。

だが忘れてならないのは西村のもう一つの顔だ。「酒ばかり呑んでいてあの投球が出来る道理はない。僕が知る投手の中で西村ほど練習をした投手はいない。他の投手の2倍も3倍も練習していた。だから僕も後輩の彼に負けるもんかと練習に励んだのが後の好成績に繋がったと思っている」とライバルでもあった若林忠志氏は述懐した。人の2倍も3倍も練習したという事実こそが先輩の藤本定義や水原茂に対して「おたくらは何酒?」と嘯く反骨心に燃える豪傑の支えであったのであろう。西村は戦争で短い生涯を閉じたが、愛妻はハワイで多くの孫に囲まれ暮らしている。

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# 634 大いなる賭け

2020年05月06日 | 1976 年 



ドラフト会議で2番くじを引いた中日が社会人や大学で名の知れた即戦力には目もくれず中央球界では殆ど名前を知られぬ無名選手を指名した事が冒険的な賭けをやったとプロ野球界の注目の的になっている。中日の無名選手指名は果たして冒険であったのだろうか?

『裕次郎』、『裕之』 って誰?
11月19日に行われたドラフト会議に中日は小山球団社長・中川球団代表・土屋総務・与那嶺監督・法元スカウトなど球団首脳総動員で臨んだ。ドラフトの成否はくじ順にかかっている。中日は2番くじだった。昼食休憩を挟み指名が始まり1番くじを引いたヤクルトは迷うことなく酒井投手(長崎海星)を指名した。続く中日は斉藤投手(大商大)か佐藤投手(日大)か、会場が注目する中で中日が指名したのは「都裕次郎」だった。各球団のスカウト連中には名前を知れてはいたが、2番くじで指名されるとは想定されておらず会場内は「おや?」という雰囲気に包まれた。まだざわめきが残る中、3番くじの大洋は「シメシメもうけた」とばかりの表情で斉藤投手を指名した。

意外な指名は続いた。2位指名は生田裕之投手。他球団のスカウトでさえ「聞いたことないな」と呟くほど無名な存在で、勤務先の「あけぼの通商」の名前がドラフト会議で呼ばれたのが初めてだったので無理もない話である。3位指名の宇野勝選手(銚子商)はまだしも就職が決まり他球団が見送った今岡均投手(中京商)、高元勝彦投手(廿日市)とまさに意表を突く異色の指名だった。名を捨て実を取る。これが今ドラフトの中日の方針だったが、いわゆる即戦力選手ではなく無名の選手を選んだのはなかなか勇気のいることなのである。その裏にはスカウト達の地道な活動と苦心の努力があったのは言うまでもない。

都投手を指名したのを耳にした鈴木孝投手は「都くんの指名を聞いてちょうど4年前に自分が指名された時を思い出しましたね。あの時も中日は2番くじ。甲子園の優勝投手だった仲根くん(日大桜ヶ丘⇒近鉄)を指名出来たのに無名の僕が指名されて驚いた。都くんも心配しないでプロ入りして欲しい。来シーズンは一緒に頑張りたいね」と懐かしんでいた。当時はどうして人気抜群の仲根投手ではなく鈴木投手を指名したのか、と批判もされたが二人の現在を見れば中日スカウト陣に軍配は上がるだろう。こうした過去の実績が今回の指名に少なからず影響を与えているのかもしれない。

見てビックリ、捕手が捕れぬ快速球
中日の関西地区担当は法元英明スカウト。関大出身で投手から打者に転向し昭和31年から13年間中日のユニフォームを着た。関西では高校から大学・社会人に至るまで顔が広い。今年の5月頃、奈良を訪れた際に郡山高の監督から聞き捨てならぬ情報を教えられた。「滋賀県の堅田高に三振をじゃんじゃん奪う投手がいるらしいよ。京都の伏見工を相手に22奪三振したと聞いた」というものだ。伏見工といえばかなりの強豪校で俄かには信じられなかったが、百聞は一見に如かず。とにかく自分の目で確かめようとその足で堅田高に向かった。京都駅から湖西線に乗り換え大津を過ぎて堅田という湖岸にへばりつくような町に降り立った。

堅田高は県立校で進学校。校庭の練習を見渡しても野球部員はパラパラ程度でいかにものどかな雰囲気。そんな中、都投手は一見して分かった。1㍍80㌢の長身から投げ下ろす速球に捕手は右往左往していた。捕球するのに精一杯で少しでも高目に投げるとミットをかすめて後方へ抜けた。「ワー、これじゃ投手が気の毒。他の部員とレベルが違い過ぎる(法元)」と驚いた。それからしばらくして練習試合があると聞いて再び訪れた法元スカウトは二度ビックリ。左腕投手で球が速ければ大抵はノーコンと相場は決まっていたが全く違っていたのだ。「これは間違いなく本物だ」と法元スカウトは確信した。

名古屋に戻ると直ぐに東方利重スカウト部長に「まだ他球団のスカウトは来ていません。この分なら今年の掘り出し物になるかもしれません」と報告した。その日以降、法元スカウトは大阪方面に出かける度に都投手の元を訪れるようになった。しかしこれだけの逸材を他球団が見逃すことはなかった。在阪の南海・阪急・阪神らのスカウトが堅田を訪れるようになるのに時間はかからなかった。やがて夏の地方予選が始まると東方部長自ら堅田に足を運んだ。試合の行われる皇子山球場へ向かう湖西線の車内で顔見知りのスカウト達と遭遇。「おや、東方さんも都投手がお目当てですか?」と聞かれ、「もうバレたか」と内心ドキリとしたが平静を装った。


事前の接触が実を結んだ高元
法元スカウトは昨年は同志社大の田尾選手を担当し田尾選手は見事に新人王に輝いた。選手を見る目には定評がある。その法元スカウトが都投手と同様に高く評価していたのが高元投手だ。広島・廿日市高から地元の三菱自動車広島に就職が内定していた投手である。当然地元のカープも目を付けていたが視察に訪れる他球団のスカウトの姿は見当たらず5位か6位ぐらいの指名を考えていた。ところが指名直前に中日に5位で指名されて逃してしまった。「それにしても中日さんが高元を知っていたとは…」とガックリ。たまたまウエスタンリーグの広島戦に帯同した横山育成課長が二軍戦の合間に練習試合で投げる高元投手を見て惚れ込んだ。

学校関係者に挨拶を済ませた後に日を改めて法元スカウトが高元家を訪れた。しかし夏の県大会予選が終了した頃に両親から「就職が内定しました」とプロ入り辞退の連絡が入った。ドラフト会議を2日後に控えた17日に東京のホテルでスカウト会議が行われ、その場で高元家に電話で最終確認をしたところ「もし中日さんが指名してくれるのなら三菱自動車さんには内定辞退を申し入れます」との返事が来た。高元投手が三菱自動車の練習に参加した際に同じ野球をするなら社会人もプロも変わらない。それならプロへ行こうと決めたのだ。スカウト会議で高元指名が衆議一致した。中日はドラフト会議後にカープの真意を知り胸を撫で下ろしたのだった。


無名選手指名は綿密な作戦から
4位指名の今岡均投手(中京)も日本石油に内定していたのを東方部長が事前に礼を尽くしていたからこそ「中日ならお世話になってもいい」という好意に繋がったとみてよいだろう。東方部長は昭和45年まで球団代表だった。親会社の中日新聞時代には運動部長を務め、野球に限らずスポーツ全般に明るい。円満な人柄と緻密な仕事ぶりはスカウト業の元締めとしてうってつけで、中日がドラフトで効果を上げ始めたのは東方部長の存在なくしては有り得ない。ともすれば選手出身のスカウトはデータ収集やプランナーといった面を不得手とする傾向があるが、サラリーマン経験のある東方部長はお手の物だ。

部下達も多士済済で田村次長は中央大OBで冒頭で触れた鈴木孝投手のドラフト指名に深く関わったスゴ腕の持ち主。" 堂上2世 " の呼び声が高い2位指名の生田投手は地元・東海地区担当の山崎スカウトが昨年あたりから目を付けていた。もともと生田投手は解散した愛知県瀬戸市にある丹波羽鉦電機(昨年のドラフトで日ハムが指名した福島投手・中村投手が在籍)で控え投手だったが山崎スカウトは注目していた。チーム解散後に福岡県にある「あけぼの通商」に移った後も接触を絶たず今回の指名に至った。今ドラフトに関して「なんだ訳の分からない指名をして…」という声が一部にあるのは事実だが、中日スカウト陣のたゆまぬ努力の結晶なのである。


都裕次郎 : 243試合・48勝36敗10S   
生田裕之 : 一軍出場なし   
宇野 勝 :1802試合・打率.262 ・338本塁打
今岡 均 : 一軍出場なし
高元勝彦 : 1試合・0勝0敗0S


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