Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#33 金田監督 再び

2009年05月29日 | 1978 年 
以前にも書きましたがロッテ・金田監督の暴挙が炸裂しました。現役選手をシーズン途中に
無理やり引退させるという前代未聞の出来事でした。


「もう限界や、八木沢は引退させる」 5月26日 日ハム戦で抑えとして登板した八木沢は打ち込まれて逆転負け。
開幕から順調だったチームが5月に入り雲行きが怪しくなってきてイライラが募っていた金田監督が吐き捨てた。
「優勝するには投手陣を立て直さなくてはならん。八木沢にはコーチ専任になってもらう、今は八木沢の勝星よりも
若手を育ててもらう方がロッテのためになる」 この時まで3勝2敗1Sとコーチ兼任投手としてチームに欠かせぬ
戦力であった八木沢に引導を渡したのでした。


そんな金田を報道陣は "また金田のホラ吹きが始まった" "いつもの事で、明日になれば
ケロッとして笑い飛ばすさ"とタカをくくっていました。しかし翌日、八木沢・金田・醍醐コーチの
三者協議がもたれて八木沢が引退を了承しコーチ専任が決まりました。八木沢は「現役には
未練がありますが・・・」と涙ながらに心境を吐露しました。

しかしチームメイトがこれに大反発、やる気が失せたようでチームは負けが込むようになり、
事態を重く見たフロントがようやく動き、引退は撤回されました。混乱の張本人の金田監督は
お咎めなしで "大山鳴動し…" で一件落着・・  とはいきませんでした。八木沢本人の気持ちが
切れてしまい「もう決めた事です。監督にもう一度投げろと言われても、そう簡単に投げられる
ものではありません…」

これ程の勝手な振る舞いをした金田に何の処分をしないフロントに対して、さすがに選手達も
抗議をしましたがフロントは金田に対してはアンタッチャブルでした。代わりと言っては何ですが
弟の金田留広を2軍へ降格させることでガス抜きをするのが精一杯でした。 結局 八木沢は
現役に復帰しましたが、一度切れてしまった気持ちは戻らず活躍できずに翌年 今度は本当に
自らの意思で引退しました。
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#32 野球が五輪競技に

2009年05月26日 | 1978 年 
去年の北京五輪を最後に野球が公式競技から除外されました。競技人口が少なく、北米
中南米・アジア・オセアニアなど実施地域も偏りがあり世界的に普及している競技ではなく
除外は妥当だと思われます。記事では'84年のロス五輪で正式競技に採用されると断言
していますが、実際は公開競技にとどまりました。五輪の正式競技に採用される基本的な
条件として「三大陸の少なくとも40ヶ国において行なわれている競技」との規約があります。

AINBA(国際野球連盟の前身)によれば'78年時点で34ヶ国が加盟していて近い将来に加盟が
予定されている国にブラジル・南アフリカ・スイス・バハマ諸島・マルタがあり、これで39ヶ国と
なるので楽観視していたのでしょう。 しかし開催時までに40ヶ国の条件をクリアできず正式
競技にはなれませんでした。そもそも加盟している34ヶ国の中には「棒」を振り「球」を ただ
追いかけているだけの国もあり、途中でフェードアウトした国も少なくなかったようです。

サッカーのようにボール1個でゲームが出来るのとは違い、各自に道具が必要で しかも道具が
高価であったり、ルールが複雑であるという事が世界的に普及しない要因かもしれません。また
五輪用に整備したフィールドが他の競技に使えないなど開催国には負担となっています。本来なら
"ベースボール"の母国アメリカが牽引役になるはずが、ドーピングのせいなのか五輪に消極的で
野球が再び正式競技に戻ることは無さそうです。五輪競技に採用されるには欧州における普及が
重要な要素ですが広まる気配はありません。
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#31 15秒ルール

2009年05月23日 | 1978 年 
試合時間短縮のために投手に対して15秒ルールというものが今年から採用されました。
現在はエネルギーの無駄使いを無くすというエコの観点から時間の短縮が求められて
いますが、30年前にも試合時間の長さを指摘する声がありました。当時はオイルショック
から立ち直りエネルギー面の観点ではなく単にダラダラと時間を浪費している事に対する
批判でした。

第一に「バッテリー間のサイン交換が長すぎる」・・・カウントが悪くなったりピンチの場面になると
急に時間を使う。これを緻密な野球をやってると言う人がいるが、こういうのは緻密とは言わない。
決断力が無いか自信が無いかのどちらかだと一蹴してます。批判の対象は広島カープに向けられ
バッテリー間のやりとりが他と比べて長く、しかも時間を使っても良い結果になってない。ただ時間を
無駄に使ってるだけと酷評しています。確かに42試合中3時間以上が22試合、4時間を越えたのが
3試合もあるなど当時としては長い試合が多かったようです。

第二は「抗議」・・・些細な事にも抗議をする、本来 ストライク・ボールやアウト・セーフの判定に対する
抗議は認められていません。認められているのはルールに関する事だけで審判のジャッジに抗議は
出来ません。しかも散々抗議した挙句、連盟に提訴する条件で試合を再開する。提訴するのに一々
相手にゴチャゴチャ言う必要がどこにあるのか、提訴したければサッサとすればいいものをと。批判は
審判団にも向けられ、無用な抗議をしてくる連中は即刻 退場処分にすれば良い、そもそも抗議できる
のは監督だけで選手・コーチには抗議を権利すら無いのに相手にする審判にも問題アリとしています。

第三に「グラウンド上での緩慢な動き」・・・プレー中の動きは勿論、選手交代や攻守交代に時間を掛け
過ぎているとしています。 ブルペンで準備していたのに、何故さらに投球練習する必要があるのか。
緩慢な動きをする選手に対しては、そもそもスポーツをする体型でないのが何人かいると批判してます。
格闘技以外のアスリートで体重が100kgに迫る選手がいるのは野球ぐらいだ、ラグビーやアメフトなどは
相手選手と対峙し動きを止める為の肉体が必要で野球選手に巨体は必要ないとしています。ブクブクと
太ったオッサンのダラダラ野球など誰が見たいか、と酷評しています。
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#30 ドラフト 1期生

2009年05月20日 | 1978 年 
ドラフト1期生がプロ入りして13年、その殆んどがプロ野球の世界を去りました。第1回の
ドラフト会議で指名されたのは 131人で、そのうちプロへ進んだのは半数にも満たない
52人でした。まだ各球団のスカウティング能力も不十分で、恐らく "数 撃ちゃ当たる" 的な
感覚だったと思われます。

1年目が終わった時点で早くも3人が去り2年目を迎えられたのは49人、3年目は44人になり
4年目以降も減り続けて13年目の'78年時点で現役でいられたのは8人だけでした。13年目
ということは高卒だと31歳、大卒なら35歳ですから 今ならもっと多くが現役でいるだろうと
思いましたが想像していたほど多くはありませんでした。メジャーへ行った黒田・岩村・井口
他にも小笠原・松中・今岡などが13年目ですが、今なお現役は20人余りです。

投手で成功したと言えるのは鈴木(近鉄)・堀内(巨人)・木樽(ロッテ)の3人でしょうか。打者では
藤田(阪神)・長池(阪急)・水谷(広島)くらいが目立つくらいです。昔も今もプロの世界で生き残れる
選手は一握りですが、今は猶予期間というか球団側も少し長い目で見てくれるようになりました。
1期生は5年目終了時点で半数がクビになっています。逆に、第二の人生をやり直すには早めに
見切りをつけてあげた方が本人の為になるのでしょうけど。
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#29 伝説の投手

2009年05月17日 | 1978 年 
松坂や田中将投手のように高卒新人が活躍することも珍しくなくなりましたが、この尾崎行雄投手は
ケタ外れの怪物でした。確かに打者の打撃技術レベルは現在と比べると、昔は低かったことはある
でしょうが年齢を考慮すれば、やはり素晴らしい投手であったことは間違いありません。

厳密に言うと尾崎は高卒新人ではありませんでした。浪商高を2年で中退し'62年にプロ入り、17歳の
若さで並み居る強打者たちを手玉に取りました。開幕2日目 大毎戦 延長10回表に初登板し2・3・4番を
抑えました。特に3番 榎本、4番 山内を連続三振にとるなど完璧なデビューでした。10回裏に点が入り
初勝利も手にしました。

初登板で初勝利をあげて勢いつき、西鉄戦では6回から登板し8者連続三振を奪うなど6連勝しました。
特筆すべきはその内容で 38回 1/3 を投げて自責点は1、防御率は 0.23  奪三振 61 と驚異的でした。
最終的に1年目の成績は 20勝9敗 防 2.42 で当然、新人王を受賞しました。2年目こそ7勝に終わり
ましたが3年目から3年連続で20勝を達成しました。5年目終了時点で98勝、1年平均が約20勝という
とんでもない投手でした。

6年目の5月に100勝を達成した頃に、尾崎の肩は悲鳴をあげました。酷使によって肩はパンク、加えて
爪が割れやすいという体質も影響して怪我との戦いが続き、結局6年目は6勝に終わりました。 連投や
酷使が当たり前であった時代とはいえ、無茶な起用で潰れてしまった投手が尾崎の他にもいました。
入団から2年連続30勝をあげた権藤(中日)や入団4年間で116勝 年平均が29勝だった杉浦(南海)など
「たら・れば」になりますが実に惜しまれます。尾崎は実働12年で引退しますが7年目以降は6年間で
わずか3勝をするのが精一杯でした。
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#28 ダン野村

2009年05月15日 | 1978 年 
伊良部投手などの代理人として有名な野村監督の長男 ダン野村氏こと野村克明氏は
元ヤクルトの選手でした。克明氏は沙知代夫人とアメリカ人の前夫との間の長男で、
この時は伊東姓を名乗ってました。野村監督とヤクルトの間には、まだこの時点では何の
接点もなく縁故入団というわけではありませんでした。

実は克明選手は前年に巨人の入団テストを受けていて、3次テストまで合格していて 残る
最終テストをパスすれば、その年のドラフトで指名されていたかもしれない位の実力でした。
しかし丁度その頃、南海・野村監督の解任騒動が起こり愛人と報道されていた女性の息子と
いうことでマスコミに追われることに嫌気がさしてアメリカの大学に進学しました。解任騒動が
落ち着いた頃にヤクルトのテストに合格し、ドラフト外で入団しました。

大学留学中にユマキャンプで通訳としてアルバイトしたのがきっかけでテスト入団したそうです。
選手としては1軍に上がることはなく成功しませんでしたが、野茂をはじめとした日本人選手の
代理人として野球界へ帰ってきました。
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#27 ダメ虎

2009年05月12日 | 1978 年 
ここ数年の阪神タイガースはAクラスの常連で優勝争いに絡むなど強くなりましたが'70 ~'80 年代は
低迷期でBクラスに沈むことも珍しくありませんでした。後藤新監督は放任主義を掲げキャンプの段階
から選手の自由にやらせていて、周囲の懸念する声にも耳を貸さず開幕を迎えました。開幕ダッシュを
宣言しますが開幕巨人戦は2連敗、次のヤクルト戦で初勝利を上げるも2戦目はサヨナラ本塁打で負け。
1勝3敗で甲子園に戻り大洋戦で建て直しを図りますが3タテを喰らい1勝6敗で早くも最下位に沈みます。
この思わぬスタートに後藤監督は、まだ始まったばかりなのに非常事態宣言をして主力投手の総動員を
命じますが2勝目を上げたのは開幕から12日目のことでした。結局 この年の阪神は球団初の最下位と
なりました。

しかし不思議なことに球団内部から監督批判の声は聞こえてこず、むしろ同情論が出ました。「これはね、
後藤監督誕生のいきさつを皆が知っているからだと思いますよ。監督が担ぎ出されたのは吉田前監督が
不人気でチームの和が問題となり、それを浄化するにはクマさんが最適だということで就任を要請された。
采配の手腕・戦術・野球理論は二の次、勝てなくても文句は言えないのです」と内情を知る人は語ります。
球団フロント同様に選手達からも監督擁護の声が大勢でした。「開幕ダッシュは失敗したけどまだ大丈夫
5月には巻き返せるよ、慌てなさんな」(田淵) 「調子はいいよ、そのうち勝てるよ ツキがないだけ」(古沢)
チーム内に危機感はなく、ぬるま湯にドップリ浸かっていました。余談ですが田淵・古沢の2人はこの年の
オフに誕生した西武にトレードされました。

阪神の本当の暗黒時代はこの後にやって来ます。 '85年に日本一となり阪神フィーバーは頂点を迎えますが
'95年から '01年の7年間で4年連続を含めて6回も最下位になりました。今や関西地区だけでなく日本全国に
ファンがいる阪神だけに真弓新監督も少しの負けで大騒ぎされるでしょうから大変です。
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#26 カメラアングル

2009年05月10日 | 1978 年 
今では当たり前のセンター方向からのテレビ中継スタイルが始まったのがこの年でした。
当時はスパイ行為が恒常化していたので捕手のサインが丸見えとなる中継に抵抗を示す
球団も少なくありませんでした。特に全試合が中継されていた巨人は最後まで渋っていて
そのせいか日本テレビの中継では山倉捕手がサインを出す場面は一度も映さず、逆に
阪神の田淵捕手の時は度々映りました。こうした中、ヤクルトが乱数表を使用したり広島は
捕手→投手→捕手 とサイン交換を繰り返したりと各球団はサイン盗み防止にやっきでした。

センター方向から見ると変化球の曲がり具合や打つ瞬間が分かるなど好評でした。ただし
変化球の曲がり具合は視覚の錯覚であって実はそれ程 曲がってはいません。 カメラは
捕手-投手 の延長線上にあるのではなく、少しレフト側にずれて設置されています。すると
左腕投手のカーブ系の変化が大きく見えます。時折、高校野球でライト側にずれた中継を
目にすることがありますが、その時は左腕投手のカーブ系の曲がりは小さく逆に右腕投手の
カーブ系の変化が大きく見えます。

まだスピードガンは登場しませんが "ストロボ・アクション" なる物がお目見えしました。ボールの
軌跡をポイントでトレースしたものでしたが、見にくい・邪魔など不評ですぐになくなりました。
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#25 新戦力 1978

2009年05月07日 | 1978 年 
毎年、シーズン前には各球団に有望選手が現れます。この年の注目選手として挙げられていたのは
釘谷(ヤ)、村上(南)、大野(広)、角(巨) の4人です。期待順に記事になっていたと思われますが、最も
期待されたはずの釘谷だけが活躍できませんでした。

球団初の海外キャンプに帯同し、大リーグとのオープン戦で5打数5安打と結果を残し広岡監督にも
認められ意気揚々と帰国しました。帰国後のオープン戦でも本塁打を放つなど、新人の柳原と2人で
"ヤクルト版 ON誕生"だともてはやされました。しかし 結果は8試合 5打数2安打と全くの不発でした。
結果を出せなかった理由は明白で、変化球を全然打てなかったのです。オープン戦終盤にその弱点が
露呈してしまい開幕まもなく2軍に降格しこの年は再び浮上することはありませんでした。釘谷が1軍で
全く打てなかったわけではありませんでした。弱点が明らかなので拮抗した試合展開では使えませんが
大勢が決まった試合には出場できました。実働8年で打席数は少ないものの、3割を越す打率を残した
シーズンが4年もありました。

記事で紹介された4人のうち最も活躍したのは大野投手でしょう。この年の新人王は角投手でしたが
トータルで見たら大野投手の方が大成しました。この記事で大野についてオープン戦で通算13イニング
無失点と好投しているものの、前年のプロ1年目の防御率 135.00の投手がいきなり戦力になれるかは
分からないと、その実力に懐疑的でした。むしろ大野個人の経歴を取り上げていて硬式野球の経験が
無く、安定した銀行マン生活を捨てて入団テストを経てプロ入りした変わり者だと書いています。そんな
変わり者の大野投手は 148勝 138セーブ の成績を記録しカープの黄金期を支えました。
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#24 コミッショナー裁定

2009年05月02日 | 1978 年 
大リーグ アスレチックスのバイダ・ブルー投手がトレードされました。このトレードは成立するまでに
ドタバタがありました。ブルー投手は当時28歳、過去に20勝以上が2回・ノーヒットノーランも達成し
MVPや投手としての最高賞であるサイ・ヤング賞も受賞するなど大リーグを代表する左腕でした。
そんな投手をトレードすると発表したのは'77年オフのこと、しかも主力選手との交換ではなく金銭
(当時で5億円と言われていた) トレードであると。A'sのフィンリーオーナー 曰く 「オレは大変な赤字
なんだ、自分の所有する選手を売って赤字を埋めてどこが悪い!」と開き直りました。

このトレードにコミッショナーは「待った」をかけましたが、それにはワケがありました。実はこの一件の
前にも「公正とは思えない」トレード話をオーナーがぶち上げてコミッショナーに却下されていたのです。
それは'76年のシーズン終盤、優勝争いをしていたヤンキースとレッドソックス両球団にそれぞれ主力
選手を「売る」ことを持ち掛けたのでした。コミッショナーは「スポーツマンシップに欠ける」「選手を道具に
トレードを金儲けの手段にしている」として認めませんでした。

需要と供給の資本主義の下、アメリカでは何事も自由であると思いがちですが、「公正」でない事は
認めないという気質が当時はまだ健在でした。日本ではドラフトやFAをアメリカを真似て導入しましたが
不正の温床となっています。有力アマ選手に数球団が"栄養費"を渡していたことが露呈しましたが、
それ以前から公然の秘密であったにも拘らず追求の声は球界内からは勿論、批判すべきメディアからも
出ませんでした。FAにしても球団によるタンパリングは禁止されていますが、球団関係者の意を受けた
記者らが接触して事実上の交渉することは黙認されているのが現状です。日米のコミッショナー権限の
差は明らかです。そもそも日本のコミッショナーは近鉄球団 解散騒動以降しばらくの間 代行でいても、
誰も問題視しないほど軽い存在なのでしょう。

結局、このトレードは両リーグにまたがるトレード期限 3月15日のギリギリ午後11時55分に成立しました。
レッズに5億円で売ることが認められなかった事を教訓にしたのか今回はジャイアンツ相手にブルー1人に
6人のマイナー選手を申し訳程度に付けての、事実上の金銭トレードでした。
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