青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

「コロナとマスクと日本の民主主義社会」の断片 Ⅳ

2021-02-01 20:20:13 | 香港デモ、新型ウイルス、日記



前々回記した女子マラソン(ポルトガル*のレジェント)モタ選手の話題を改めて紹介しておきます。


*前回「イタリア」と記したのは間違い、訂正しておきます。

マラソン元女王ロザ・モタが大阪国際女子「川内PM起用」に苦言 日本の将来も憂う(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース


繰り返し書くけれど、僕は川内選手のファンで、彼の頑張りや配慮は素敵だと思う。頑張った2人の若い女子ランナーも手放しで褒めてあげたいと思います。

でも、モタさんの発した、「女子マラソン界の将来を考えれば、憂慮する事」。この言葉の持つ意味は、大きいと思いますよ。

僕が、何を示唆しようとしているのか、分かりますか?

なぜ「自然科学」のコーナーで、この記事を書いているのか、、、。 

「目標達成のためにはどんな努力でもしよう」ということと、「そのためには(法を破らぬ限り/常識の範囲の中では)どんなことをしても良い」というのは、微妙に異なります。

(ちなみに「今を頑張って生きる」事と、「今さえ良ければ」という事も、意味が違うと思う)。

例えが古すぎますが、武士の(あるいは人類としての)矜持、のようなものを、忘れたくはない。

皆が病気などに罹らず、出来れば長生きしよう。戦争などせずに、皆が幸せに平等に平和になろう。そのためには、人類の社会から、人々の間の軋轢をなくし、人類に対する脅威を取り除こう。

正論です。と同時に間違っていると思う。

昨日、非常に気になる、あえて言いますが腹立たしい気持ちになる、というか哀しくなる(僕はどうやらこの言葉が好きみたいで最近やたらと多用してる、笑)コラム記事を読みました。

【URL貼り付け予定】←記事が(一部コピーしたあと)見つからなくなってしまったので、保留。

青沼陽一郎氏。かなり有名なジャーナリストです。

彼の意見は「正論」には違いありません。

少し長い記事なので、僕なりに意訳すると、こんな辺りかな?と思います。

>コロナの脅威は、実際に存在する、かつ科学で実証されている事実である。
>多くの人々が、脅威からの脱出に向けて必死の努力をしている。
>しかし、それらの状況に背を向けて、荒唐無稽な陰謀論や終末論を展開したり、マスク拒否を主張したりする人々がいる。
>コロナの問題を、自分たちに直結した危機と捉えずに、マスコミと政治の責任にすり替える、「妄想」に囚われた人々である。
>私(注:青沼氏)は、そのような、(体系に沿って物事を考えられない、限られた妄想の中に浸る)人は、ごく一部の存在と思っていた。
>しかし、いつの間にか、その勢力が大幅に広がってきた。
>これは非常に恐ろしい憂慮すべき事態である。
>その人々(*いちいち読んではいないでしょうが、たぶん僕=青山もその一人に入るでしょうね)に、この事態を俯瞰的にと捉え、冷静に向き合ってもらうよう、切に願う。

青沼氏の気持ちも、分かります。

しかし、
>自分が物事を俯瞰的に、冷静さを持って眺められているのか、著者(注:青沼氏自身)も含め、改めて確認する必要があるだろう。
と彼は書いています。
まさにそういう事だと思う。

「著者も含め」と仰っているわけですが、彼は果たして俯瞰的に捉えていることが出来ているのか?
彼自身が「俯瞰的」にと思っている対象認識は、本当に俯瞰的と言えるのか?
「体系」に囚われて、空気に取り込まれていないか?

僕は、「俯瞰的に見渡すことの大事さ」を常に唱えているわけですが、どうやら青沼氏の認識する俯瞰対象と、僕の認識するそれとは、異なった次元にあるように思えます。

青沼氏から見れば、僕は余りに無知で、まさに「有害無実」の輩でしょう(でも、無知だから見えてくるものもある)。

目の前の(実証されているとされる)事象だけを見渡すのではなく、(実証されていないことも含めた)人類・地球をトータルで見渡したい、、、むろん、その僕の想いもまた、「枠の中」での「俯瞰性」に過ぎないかもしれません。常に改めて確認する必要があるでしょう。

でも青沼氏よりは「俯瞰的」に(一回り広い次元で)周りが見えているとは思いますよ。そう自負しています(と言っても、「氏と比べれば」というだけで、大したところには到達していませんが)。

三世がこの間メールで言ってきたこと。
>突き詰めて物事を考えようとする人が排除される世界。
共有の同調空気の「枠」の中でしか、事象を解釈できない哀しさ。

「それでいいのだ(赤塚先生)」とか、「なんちゃって」とか、「知らんけど」、、、とか言った流行ことば、僕は結構好きですよ。でもそれは、一方に「突き詰めて考える」姿勢があってこそ、生きてくるのです。全ての事象において言えるのですが(僕の場合は昆虫や植物の分類体系)、「結論」を「それで良し」と、「動かざる定説」化する姿勢は、僕は嫌いです。

実証が全て、教育・知識が尊い、科学・医学への絶対的信仰、、、、そのような空気には、僕は馴染めません。

例えば、大槻さんという方がいましたね(今も健在?)。なんとかさんという超能力を持ったオバサンと対決していた科学者タレント。本来僕は、モロ大槻さん支持派で、真っ向から超常現象を否定し続ける姿勢に爽快さを感じていました(今もそう感じている)。

しかし、それと同時に、違うんじゃないか、という想いもあります(下世話な捉え方をすれば、当初彼の考えは、大衆の中では少数派にあったのだけれど、マスコミを伴った努力の結果、今は多数派に属している、ということに対する違和感)。

実証、検証、体系的証明、それが全てだと、僕は思いません。

実証というなら、人は皆死ぬわけですね。

死に至る要因は、様々なきっかけの重層的構造を成しているはずです。いわゆる「コロナ」がバイアスの一つになることはあり得ても、それ単独で為されるものではないはずです(「はず」という仮定の話をしちゃいかん、と言われるわけですが、でも「そうである」という最終結論も仮定に過ぎません)。

様々なウイルスが、過去も現在も将来も存在します。

人間の死去に際押して、ウイルスがバイアスを成すことは、これまでには無かったのでしょうか?
10年100年に亘って、亡くなった方々の「死因」の全てをリチェックしていけば、どのような結果が導かれるのか?

実証、というならば、今回のコロナによる「感染」や「死亡」に至るバイアスと、これまでの「それ」とが、基本的な部分で、どのように異なるのか? それを実証して欲しいですね。

僕のことを書きます(これまでに何度も書いてきたこと)。それはもう、圧倒的に、いろんな意味で、最悪の状況下にあります。いわゆるコロナに関わる、あらゆるネガティブな症状が、滅茶ヘビーに表れています。

もう何度も書いてきたことですが、僕は、何年も前から、原因不明の高熱とか腹痛とか吐き気とかで、中国の医者で診察を受けた際、大抵こんな風に言われます。
>あなたのそれは、たぶん未知のウイルスに罹ってるからですね。
>といって、どうにもしようがありません。
>充分休養とって、栄養つけておいてください。
そういうことだと思うんですけれど。

コロナとは何か?
コロナ問題を、本当に問題視するつもりなら、目の前の事象だけでなく、もっと突き詰めて考えるべきではないでしょうか?

我々、とか人類、とかにとってのレベルだけに視点を当てるのは、違うんじゃないでしょうか?

僕は人類の一員だからこそ、人類の未来のために、もっと俯瞰的に事象を見渡して行きたい。

*別の話になるけれど、僕は日本を愛する日本人だからこそ、嫌韓嫌中の愛国者たちに非国民と罵られようが、日本の欠点を指摘していきたい(韓中の滅茶苦茶さ醜さを身をもって知っているからこそ、自分の知っている韓中の長所も伝えて行きたい)。 

いわゆるコロナ感染の脅威は、飛沫だけではなく、至る所に存在します。ドアのノブ、スーパーのかご、、、、歯磨きが危ない、という意見もあります。全てのリスクから逃れ、敵をやっつける。まあ、人造人間(ロボット)になるのですね。

それも一つの方向性の選択だとは思います。

「至る所に脅威」は、何も今に始まったことではありません。衛生学の専門家でもある森鴎外は、そこいらじゅうに黴菌が見えて、例えば饅頭にお湯をかけて食べていたとか、の伝説(一応事実ですけど)があります。

リスク管理、ということで言えば、未開人(ニューギニア高地人とか、アンダマン諸島の某民族とか、アマゾン奥地の原住民とか)は、文明との接触を避ける。そういうことでしょう。

文明の成立に伴う副作用は避けられないのです。そして、運が悪ければウイルスに罹って(それが一要因となって)死ぬ。

さっきも言ったように、健康面に照らして、僕は最悪の滅茶苦茶な環境下で生きてきました。そして、長い間体調が悪い。もうずっと前から、誤嚥性肺炎とかの恐怖の許に晒され続けています。でも、そろそろ後期高齢者に差し掛かるわけですが、不思議とまだ生きている。いろんな検査しても、何処も悪いところが見つからない(背骨はひん曲がっているそうだけれど)。

仮に僕がコロナに感染して消えてしまったとしても、それはコロナのせいではありません。トータルとしての病気です。

運が悪ければ、と上に書いたけれど、運の良し悪しとは、別の話かも知れませんね。そもそも、何をもって「良」「悪」とするのか。

生と死。
健康と病気。
正常と異常。
正義と悪。

個と他。
過去と未来。

時間は存在するのか。
宇宙は実在するのか。
自分は存在するのか。

体系的に物事を捉えることの出来る(たぶんIQの高い)エリートたちには、(哲学とか科学とかで)その答えが出せるんでしょうけれど。彼らに敬意は表するけれど、尊敬はしません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日書こうと思ってた事のメモをチェックしたら、まだ残ってました。相変わらず支離滅裂ですが、そのまま書き記しておきます。

力への懐疑、権力への懐疑(無意識のおこぼれを権力から貰いつつ権力を批判する大衆*、どっちが先なのか知らんけど、常にキャッチボール)と大衆への懐疑。*このことについては、確か辺見庸さんも言ってた気がする。

科学への懐疑。科学とは、矛盾混沌を整理して、体系(方法論)に基づいて、人類にとって役立つ「何か」を導き出すことですね。あくまで大基は「矛盾混沌」です。

矛盾で構成された巨大(←このような言葉で表せる次元ではない)な混沌の中から、科学は、その幾らかの断片を拾って(見つけて)、体系に沿って、教育で培った知識と方法論を駆使して、新たな(人類にとって有益な)現象を作り上げる。

人類は、ますます頭が良くなって、無尽蔵の矛盾・混沌の中から様々な“科学”を導き出すことで、今後、急速に、計り知れない発展を遂げるのでしょう。

しかし、体系的な科学の結果を求めることのみに終始するのは、本来の矛盾混沌とは、対極の世界にあります。努力をすることは大切だと思います。しかし、矛盾混沌を忘れ去り、齎された結果だけを良しとする姿勢は、科学「的」ではあっても、真の科学ではないと、僕は思うのです。

科学の持つ「力の凄さ」と「力の無さ」を、同時に認めなければならない(多くの科学者自身は案外そのような姿勢でいるような気がする、、、でも、追従し、活用する“大衆”が、そうでないのです)。

・・・・・・・・・・

僕の立場を繰り返し記しておきます。「マスク反対論者」ということで、誤解を招くと困るので。ゴーツー再開にも五輪開催にも賛同していません(特に反対というわけでもないですが)。経済なんて、この際、破綻して欲しい、と思っています。

取得権の保守への懐疑という僕の採る姿勢は、民主主義の正義の民から見れば、有害無実以外の何物でもないでしょう。

「自由」も「民主」も、それ自体は良きことだと思っています。「自由民主」という、安易な組み合わせ(詐欺ですよ)が、胡散臭いのです。まだ「立憲民主」のほうが、言葉としては、つじつまが合っている。いっそのこと「共産民主」はどうかと(笑)。

僕は、「武漢ウイルス」は「香港デモ」から直結していると考えているわけですが、それを「陰謀論」と取られるなら、それでもいいです。強引に結びつける気はありません。

「香港デモ」(マスクの話題も含みます) に対しては、長い間現場にへばりついて、色眼鏡(感情バイアスやイデオロギー)抜きで、直視してきました。

ただただ「正義」を叫び続ける若者たちを、(「取得権の保守のアピール」と)批判的に捉えてきました。

その僕の記事に対し、

>なんてことを言うのでしょうか、命を懸けて、正義のために戦っている学生たちを誹謗するなんて、あなたは人間としての心を持っているのですか?

といったコメントを、いくつか頂きました。

そう、あなたよりは、持っていると思いますよ、「人間」としての心を。取得権の空気に(自分たちは皆そうだから、それを正義の基準として)安住し、無意識のうちに「強制同調空気」を求めている(他を排除する)、あなたたちよりは。

追記:

僕の尊敬する西丸震哉氏(1923~2012、食生態学者・探検家)の事を、(ゴキブリの話題に関連して)このあいだ三世に話しましたね。

彼は「今の若者」の寿命は平均41歳説、を唱えていました。結果は外れたわけで、「非科学的」と集中批判を浴びました。

まあ、科学の恩恵で寿命を伸ばしてるんで、時期がちょっとずれたけど、将来当たる可能性大有りです。それとも「永遠の命」に辿り着くのかな?

似たようなものです。

個人個人は「永遠の命」を得ても、(それでもって)人類は滅びる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ということで、また、痴呆老人のプラットホームでの繰り言(そのたびに電車に乗り損ねちゃう)を始めました。それよりも、早く「リンドウ」(あと数十回続きそう)を終わらせて、モンシロチョウとかツクツクボウシとか野生レタスとかの(僕の守備範囲の分野の)話に移りたいのだけれど、これじゃいつになるのか見当もつきません。ジョニー・ティロットソンもまだまだ残ってるし、漱石鴎外とかも、、、、。

我ながら情けなくなってきます。もし、読んでくださった読者がいるとすれば、申し訳ない想いでいっぱいです。次回は、もう少し真面な話を書こうと思っています(反省ばかりして、なかなか実行できない、、、これは確信犯的な姿勢ではないのか、と、またまた反省自問している次第です)。




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「コロナとマスクと日本の民主主義社会」の断片 Ⅲ

2021-02-01 12:52:04 | 香港デモ、新型ウイルス、日記


★ 1月31日の記事に、いいね!をいただきました。ありがとうございます。

「コロナとマスクと日本の民主主義社会」の断片 Ⅲ
 
U氏は僕に、村上春樹さんの作品の素晴らしさ(彼の書く寓話の中に、物事の本質が示唆されている、分かる人にはそれが分かる)を、滔々と説きます。青山さんが書くものなどとは、次元の異なる素晴らしさであると(そりゃそうだ)。まあ、いかに僕の能力がないか、ということを言いたいのでしょうが、僕は村上春樹氏の作品の良さが、ちっともわ
からない(同じ年齢同郷なのでシンパシーは感じていますが)。
 
ビーチ・ボーイズに対する見解とかも。“選良的”「ビーチ・ボーイズ」ファン共通の“正論”。
 
“ローリング・ストーンズ誌”的カウンター・カルチャー。
 
*注:誤解されると困るので一言。僕はThe Beach BoysもThe Rolling Stonesも大好きです!(Beatlesは嫌いだけれど)。
 
僕から見れば、金太郎飴的に“俗を否定する”こと(いわゆる少数派意見)が、結果として“俗”(選良多数派の意見)になっている。
 
某音楽評論家の「ビーチ・ボーイズ全曲解説」。正直、腹を抱えるほど面白いのですが(愛読してます!)、「ブライアンがいかに素晴らしい感性を持つ芸術家(天才!)で、無垢で、正義」という手放しの称賛を延々と唱え続け、マイクがいかにくだらない凡才で、俗で、無能で、悪質ゆえ、邪魔な存在である」と、これでもか、と繰り返す(まあ、一応は分かりますけれどね、笑)。
 
ここまでくれば、パワハラそのものですね。マイク・ラブは(一応“超”のつく)有名人ですから、別に日本の作家や評論家ごときに何書かれても微塵も影響はないだろうけれど、これが一般人だったら(露骨な苛めに)首括ってるかも知れない、、、。
 
次の一節を引用しておきます(「Everyone’s in love with you」という曲について)。
 
>あのマイクが名曲を書いた。
>書いた人物がジョン・レノンであり、歌っていた人物もジョン・レノンだったとしたら、いまごろ≪イマジン≫に代わって世界中で歌われ、愛されていたかも知れない。
>だが、この見事なまでの深みの欠如は、マイクという人間の“なにか”を痛感させる。
 
そうですか、ジョン・レノンは“深い”わけですね。僕の見立ては「自分では“少数派”だと思っている大衆に対しての深い共感(洗脳)力」。
 
今の世の中の“空気”の形成様式の、全てを表しているように思えます。
 
 
 


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