青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

「コロナ」、、、とは余り関係ない話題ですが (一応その項目に含めときます) 2 漱石鴎外 and so on

2021-02-04 20:36:36 | 香港デモ、新型ウイルス、日記




中国四川雲南産の野生シャクナゲの原版写真2500枚を整理し終え、モニカにメールで送信することにしました。丸一日がかりで500枚送信したところで、モニカのパソコンの受け入れキャパシティがオーバーしてしまって、一時ストップ。僕は“纏めて送る”という方法を知らない(何度もトライしたけど失敗ばかり)ため、一枚づつ送っているわけです。

正直のところ、大変な作業です。送信が中断されて、半分“ラッキー”という気もします。それでモニカに“この後どうしよう?”と相談したら、“考えとくLet me think、、、”という返事。それが2月16日です。

その後、昨日まで18日間、返事が来ない。今回新しいアドレスを作成したこともあって、改めて“返事寄こせ”とメールしたのに返事がありません。18日間メール来なかったことが、これまでにあったでしょうか?(喧嘩してた8年前は除いて)10年間、一度もなかったように思う。心配でたまりません。

それで、中国在住の知人K氏に、「モニカにメールで問い合わせておいてください、心配してるので返事寄こせ」と。

速攻で返事来ました。“元気だよ~~I’m fine!”。

そりゃまあ、一日に500枚(それも1枚づつ)写真送ってこられれば、僕だってキレますし。“ウザいなぁ~”ということで、メール寄こさなかったんだと思います。

一般論として、(親兄弟とか友人から)18日間メールがない、というのは、心配すべき事なんでしょうか? 「永い」と思うだけで、普通に考えれば、大した日にちではないのかも知れない(それくらの期間メール来なかったことは、これまでにも何度もあったような気もするし)。

でも心配しだしたら心配でたまらないわけで。どの辺が「心配しなくて良い期間」なのか、そこらへんの「スタンダード」的な感覚が僕には欠けてるのかも知れん、と思った次第であります。

僕みたいな(たぶん常識部分が欠けている)人物に対しては、モニカとかチエちゃんとかあや子さんとかスーリンとかだから、我慢強く接してくれているのであって、ほかの人たちだったら、とっくに見放されてるのかも知れんです。

ということで、僕が理不尽にも多くの人々(世間)から嫌われている(イジメを受ける)のも、なんとなくですが、わかるような気もします。

自分のことは、なかなか正確な評価認知が出来ないんですよね。

もしかすると、僕はバカなんじゃないか?と、度々自問しています。

この間もちょっと書きましたが、IQのこと。一度は測ってみたいですね(どこで、どうすれば測ってくれるのだろう?)。たぶん、すごく低い数字が示されることでしょうから、だとしたらそれなりにショックですね。といって、万が一高ければ(無いです!)それはそれで困りますが、、、。

以前誰かに聞いた、“IQが一段階違ったら互いに話が通じない”というのは、本当にそう思います。

いや、僕がバカである、という、具体的な証拠はあるのです。

僕がやってることは、一応“生物学”の範疇で、ここんところは植物をチェックしているわけですが、例えば植物形態の専門書を読もうとしても、難しくてさっぱり分からんのですよね。これはちょっと落ち込んじゃいます。

野生アジサイについてだけは、きちんと分かります。なぜなら、一から全て、自分で調べたことだから(チョウやセミについてもそうです)。

でも、自分では直接取り組まず、他から「学ぶ」という、という事がまるで出来ないんではないかと。無論、そのこと をポジティブに捉えても良いのかも知れないけれど、現実上はネガティブな面の方がはるかに大きいのは確かです。曲がりなりにも“生物学”に携わっているのに、参考書も読めない、というのでは大変なハンディです。

別の事例からの証明。60年間近く、アメリカン・ポップスを聴き続けているのですけれど、英語が全然ダメですね。とにかく、外国語(むろん中国語も)への対応能力が絶望的にない(early60年’sの曲の歌詞だけは何故か聞き取れるのが不思議ですが)。

ビートルズやディランやモータウンの良さが分からんのも、僕のIQが低いだけなのかも知れません。

芸術の分野で、概ね評価の決まっているもの(例えば絵画だと「ピカソ」とか「マティス」とか)の良さが分からないことが多い。むろん、個人の感性の問題、と考えているわけですが、その“感性”などもIQの支配下に(知能の属性として)成り立っているのではないだろうか、という卑屈な気分が、ふと過ぎったりします。

実は、というか、考えてみれば、日本語の能力も乏しいんですね。パソコン用語が(英語日本語に関わらず)全く理解出来んです。いやもう、落ち込んでしまいます。

大体、小説も読めないものが多い(村上春樹の良さが分からないのは、それを分かる人よりも僕の知能が低いからだと、U氏に指摘された)。

いや、村上春樹ごときはわかんなくても良いのです。正真正銘の名作文学が分からないときがある(シェクスピアもゲーテもトルストイもドフトエフスキーも)。それは困ります。むろん日本語で(、、、それを言語でスラスラ読んでいた坪内逍遥とか内田魯庵とか二葉亭四迷とか明治の文学者は凄いと思う)。

この間「三四郎」に触れたので、ついでに何十年ぶりかに読み返してみました。北杜夫さんも書いてたですね。「この小説は凄い、俺は負けた」みたいなことを。まあ何故か「三四郎」は僕にも分かるのです。IQが低い人間にも分かる、そういう作品です。

それはともかく、明治文学にどっぷり浸っているはずの僕ですが、実は、その時代の主要作品の大半は読んで(読めて)いない。一葉の「たけくらべ」だって正確には読み取れないままでいるし、例えば、逍遥と鴎外の「没理想論争」なんて、余りに難しくて、正直のところ、何を議論しているのか、さっぱり分からない。

現代のも含め、大抵の文学論とかは、何言ってるのか分からんです。なんか、僕などとは別の世界の人たちが、別の言語で語っているように感じる(ちょうど、以前記した、大隅半島辺塚の宿の若奥さん?が地元の人たちと喋ってる言葉がどう考えても日本語であるとは理解できなかったように)。 

分からない、と言えば、鴎外がなぜ“文豪”とされているのか? 彼が頭が良いこと(天才ですね)は認めます。でも、作家・小説家としては、滅茶苦茶へたっぴではないかと思う。なぜ、漱石鴎外が並び称せられるのか? そこんところが、よく理解できません。

僕は個人的には鴎外の大ファンなのですが、それとこれとは別です。作家としての能力は、漱石が100点満点なら、鴎外は0点に近い。それくらい差があると思います。

しかるに、鴎外(の小説)を真面目に評価する人が、少なからずいるんですよね(僕は好きだけれども評価はしない)。

*鴎外の小説が、いかに面白くないか、下手くそであるか、と言うことの実証(というか僕の感想)については、また別の機会にします。

鴎外が可哀そうなくらい漱石を意識していることは、周知の事実です。大体、『技瀁』というパソコンで出てこない言葉で心情暴露している時点で、勝負ありです。

“悔しい、俺負けているかも知れん、といって、どうすりゃいいのか?” で、焦って「青年」書いたのだけれど、「三四郎」とは横綱と序の口ぐらいの絶望的な差がある(僕は個人的には「青年」好きですが)。

その頃鴎外が書いた「団子坂」という掌編は、結構面白いですよ。菊人形の場面(前も言ったけれど、滅茶スリルあります)のアウトテイク・バージョンみたいな。まあ、これは結構出来良いです。

鴎外の方が5つ歳上、それで6つ長生きした。全くの同時代人ですね。ごく近所に住んでいた(歩いて10分もかからない?)。「自然主義」全盛の文学界にあって似たポジションに位置づけられ、互いの弟子たちも頻繁に行き来していた。

なのに「公式」には生涯2度しか会っていないことになっています。それほんとなの?と思います。そのシチュエーションに置かれていれば、普通、もっと会ってても良さそうです。

関川夏央/谷口ジローの「坊ちゃんの時代」連作では、漱石と鴎外が一緒に散歩してたりする場面が度々出てきます。高橋源一郎の「官能小説家」という小説では、(現代に現れた)2人がつるんで悪さ企んでたりします。

ちなみに「官能小説家」は、当初は漱石と鴎外が主人公のはずだったのが、途中で樋口一葉がヒロインとして登場し、最後の方は半井桃水が主人公になってしまうのです。

面白いですよ、この作品。ぜひ読んでみてください。「しょせん才能ない人間は、(芸術的)才能ある人々の世界に入ることは出来ない」みたいなことを言っています。無論、なんらかの暗示が含まれているのでしょうが、その通りかも知れないとも、僕は思います。

まあ、鴎外は漱石を意識し過ぎてるわけですが、漱石のほうでは(建前上は敬意払ってはいても心中では)無視決め込んでいる可能性もありますね。

でも、鴎外のデビュー3部作を、漱石はリアルタイムで真っ先に評価してます。明治20年代の子規と漱石の往復書簡は大半が残されているのだけれど、初期の一部分が欠けている。漱石が鴎外を褒めた、それを子規が怒った。“あんなつまらんのを褒めるのは見損なった”(たぶんそのような遣り取り)。その部分が欠けているのです。

なぜそれが分かるかと言えば、“ごめんごめん、もう褒めない”といった漱石の返事以後の書簡は、ちゃんと残っているから。何で「(鴎外を)褒めた部分(漱石→子規)」と「それを怒った部分(子規→漱石)」だけが欠落しているのか、不思議と言えば不思議です。

その子規も節操がない。数年後、日清戦争勃発時、従軍記者として現地(今の中国大連あたりかな?、、、、ちなみに、今書いてる記事、参考書もネットもチェックせず、覚えてることだけで書きなぐっているので、内容の正否の保証は出来ません)に赴きました。

そこに軍医として鴎外も赴いていることを知って、鴎外宅に押しかけのです。そして帰国までの一週間、毎日訪ねて行って文学論を交わした、と。

鴎外にしてみれば、さぞ迷惑だったろうと思いきや、「子規と交流出来たことが今回の一番の収穫」みたいな事を後で書いています。

子規は、鴎外宅を毎日訪ねたあと、帰国したその足で、子規の故郷の松山で中学教師をしていた漱石宅に転がり込みます。そして漱石宅の一階に数か月居候を決め込み文学論をします。漱石のことも鴎外のことも、(大連でも松山でも)互いに話題に上ったはずです。

ちなみに、子規が東京に戻る際、途中の奈良で読んだ俳句が、
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
その少し前に漱石が詠んだ、
「鐘つけば銀杏散るなり建長寺」
へのオマージュかな?
*建長寺は鎌倉のお寺で僕はその裏山に住んでました。

その少しあと、東京での子規の句会に漱石鴎外ともに出席して、句を詠みあっています。これはかなり有名な事実ですが 「公式2回」の中には入っていないみたいです。

あと興味深いのは、漱石の弟子の鈴木三重吉が、初めての小説(童話?)集を刊行したときのこと。巻頭に漱石に祝辞を書いてもらいました。三重吉は鴎外にも書いてもらおうと、ダメモトで頼んだら、なんと書いてくれた。

それを知った漱石が怒りました。“祝辞は俺のだけで十分だ、鴎外のは返しに行ってこい”と。三重吉は恐る恐る鴎外に返しに行ったそうです。

特例中の特例として祝辞書いてやったのに、それを押し返しに来た。とんでもなく失礼な行為なのでしょうけれど、鴎外は、「いいよいいよ、分かってる、これは君にあげるから、そのまま持っときな」とにこやかに対応したのだそうな。

「普通なら絶縁出入り禁止となるところなのに、鴎外はなんと心の広い人なんだろう」といったような事を、確か嵐山光三郎氏が書いていました。

思うんですけれど、このシチュエーション、前もって漱石と鴎外の間で、話がついていたのではないでしょうか?

まあ、事実というのは、記録に残されていない限り、本当のことは分からんのです。いや、たとえ残ってはいても、それが「事実」であるとは限らない(「事実」というのは「実態」の属性の一つにしか過ぎないのかも知れない)。

僕なんか、自分の事さえも分からんですし。

二葉亭四迷が亡くなった時、漱石も鴎外も追悼のエッセイを書いています。共に、「大切な友人ではあるが深い交わりは無かった」と言った要旨です。

その交流については、例えば漱石の場合、銭湯で出会って雑談をしたことなどが記されているわけですが、記録上は、その一例に尽きるのですね。けれど、その銭湯の番台の人の「2人(漱石と二葉亭)は、いつも風呂上りに縁側で浴衣のままで話し込んでいた」という想い出話もあったりします。

でも、面白いですね。これもネットコラムである方が指摘していましたが、逍遥が「小説神髄」を書いた(従って二葉亭の「浮雲」の出発点でもある)家から別のところに引っ越したあとに、子規が移り住み、その向かいの家に一葉がいた。半径10数mの間で(互いに無関係のまま)明治の文学がスタートしている。

偶然なのかも知れませんし、必然であるのかも知れません。 

内田魯庵が尾崎紅葉(仲悪かったはずだけれど)から、丸善に「罪と罰」(英訳版)が入荷した、と聞いて、早速買いに行ったら、3冊入荷したうち2冊が売れていた、魯庵は最後の一冊に間に合った、2冊を買ったのは、坪内逍遥と森田思軒であった、という結構有名?な話があります。

明治文学フレークの中野翠さんが、「まるで剣豪の果し合いみたい!」と評しています。言い得て妙ですね。

まあ、これらのことは記録に残っているわけです。記録に残されていない、無数の出来事や邂逅もあったはずです。

素人時代の漱石は、一葉の「たけくらべ」と、広津柳浪の「今戸心中」を褒めていた、という(奥さんら親族による) 記事も見つけました。漱石がデビューしたのは、40歳近くになって、同時代作家の大半が退場してからです。一葉没後10年近く経ってから(柳浪は既に筆を絶っていた)。

先日、その柳浪の「今戸心中」と、緑雨の「油地獄」を久しぶりに読みました(ブログにも記述済み)。一葉を実質世に送り出したのは緑雨です。

緑雨と漱石は同じ朝日新聞の社員でした。緑雨は、桃水(8歳上)とは、リアルタイム(明治20年代初頭)での同僚です。漱石とも(従って二葉亭とも)一応は同僚ですが、時代は大きくずれます。実質一つ歳上の漱石の方が20年ほど後からの在籍です。

桃水の(文学史的な価値は皆無とされる通俗的な)小説は、漱石逝去が新聞の一面に大々的なニュースとして取り上げられた日(大正5年末)にも、三面に連載が淡々と載り続けていたそうです。

そういえば、それよりもずっと前、子規は、漱石が大作家になったことを知らないまま亡くなったのですね。なんか、感慨深いものがあります。

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斎藤緑雨関係の話題を(随分とおこがましいのですが、今の「嫌われもの僕」と照らし合わせて考えてみようと思って)書き始めたのですけれど、なかなか緑雨まで辿り着けないまま、プラットホームでの独り言に終始してしまいました。

緑雨の話題は、またの機会に。
(自然科学のコーナーで、こんな話していて良いのでしょうか、、、よくないですね)



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