一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

不機嫌なジーン

2005-02-22 | 乱読日記
今日は早めに帰宅したら、「不機嫌なジーン」というドラマをやっていた。
番組改変期に散々予告を見せられていたが、要は「男には浮気する遺伝子がある」ということに悩む女医だか女性研究者が主人公の恋愛コメディ。

おおかた竹内久美子女史の著書にヒントを得た脚本家の作なのだろう。

ちょうど新年からの半身浴用課題図書になっているスティーブン・ピンカー「人間の本性を考える」の導入部のテーマ:生物学は遺伝子・人間の本性に関わることになってくると必ず政治的立場からの発言が学問の発展を阻害してきた-を思い出す。

ちょうど最近読んだ部分で関連するところがあった。

1970年代後半から「社会生物学」という動物の行動に関する研究を自然淘汰についての考えでまとめあげ、それらを昆虫、魚、鳥などの社会的動物から人間にまで適用し、人間の行動の普遍性の一部は、自然淘汰によって形成された人間の本性から来ているのではないか、という仮説などから、生物学と社会学、哲学を結びつけようという試みがあった。

この社会生物学は「ナチスの大量虐殺の背景となった優性理論」「決定論者」だ、という非難の嵐に巻き込まれることになる。
しかしこれらの批判は、実は学問的根拠があるわけではなく、単なる政治的な攻撃だったことが次第に明らかになる。

「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスも批判を受けた中の一人で、彼が「浮気遺伝子」について根拠のない批判をされているくだりがある。

少し長いが引用すると


・・・たとえば彼は、哺乳類のオスはメスに比べて性的パートナーをたくさん求める傾向にある、という考察のあと、一パラグラフを人間の社会にあて、そのなかで次のように書いている。

この驚くべき多様性は、人間の生活様式がおもに遺伝子ではなく文化によって決定されていることを示している。しかしそうは言っても、進化論的根拠によって予測できるように、人間の男が一般的に不特定多数を性の相手にする傾向を持ち、女が単婚を求める傾向を持っている可能性はある。個々の社会で、この二つの傾向のどちらが勝つかは、文化的環境の詳細によって決まる。それは、さまざまな動物種において、それが生態系の詳細によって決まるのと同じである。

(中略)数学者が使う厳密な意味においては、「決定論的なシステム」とは、諸状態が先行の状態によって、確率的にではなく、絶対的な確度をもって引き起こされるシステムである。ドーキンスにせよだれにせよ、まともな生物学者は、人間の行動が決定論的だと提言しようなどとは夢にも思わない---それは、人間は機会あるごとに不特定多数との性行為や、攻撃的な行動や、利己的な行動に走るはずだ、というのと変わらない。
(前掲書上巻P217,8)



結局、何でも遺伝子のせいにしちゃいけないってこと、当然ながら。
ただ、こういう理屈は妙に説得力をもってしまうところが問題(浮気の話ならまだいいけど、「優性思想」につながるとね)。

<今日のまとめ>
その1
もっともらしい理屈も、論理的に検証したほうがいい、といいこと
(例)「英雄色を好む」といっても、色を好む者がすべて英雄だとは限らない

その2
こう考えると、石田純一の「不倫は文化だ」という発言はけっこう的を得ているのかもしれない。



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コメント (2)
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