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【山谷えり子】主権回復記念日と占領憲法[桜H25/3/7]

2013年03月07日 23時45分51秒 | 日本人と憲法

【山谷えり子】主権回復記念日と占領憲法[桜H25/3/7]

 


 占領時代に作られた憲法、日本が主権を失っている時代に押し付けられた憲法が、未だに日本を縛っているのです。これは9条の戦争放棄だけではありません。日本思想というか、古来から、この日本列島で暮らすうちに自然に身についたものの考え方、自然観、宇宙観、人生観、道徳観、そうした日本人が無意識に共有してきたものの考え方が、この憲法によって、著しく歪められてしまったのです。日本人の道徳、歴史観、これらの多くのものが否定されて、日本人は民主主義という考え方を通して歴史を見、社会を見るようになりました。歴史は自分たちの先人の歴史としてそれを受け継ぐという感覚ではなく、民主主義という尺度で、歴史は裁かれるものとなり、社会も共同体意識よりも、個人と対立するものとして、やはり裁かれるものとなりました。

個人の意識の解放が叫ばれ、個人を縛る色んな物を否定することが進歩的文化人の誇りのようになりました。歴史や伝統をはじめ、いろんなしがらみからの解放が、個人の生き方の真の自由をもたらすということに、何か個人の尊厳を重視するかのような錯覚に多くの人が陥ってしまいました。

しかしこの個人主義は、本当に正しいものだったのでしょうか。この占領憲法がもたらした、個人主義、民主主義は、日本を良くしたのでしょうか。


憲法第一条には主権の存する国民の総意に基づくという言葉が出てきますが、この国民主権という考え方は、埼玉大学の長谷川三千子教授によれば、国民 主権とは、西洋の絶対王政を革命で打ち破り、国王の首をギロチンでちょん切るというところから始まるものであり、君主主権に対立して発生したものだと仰っ ています。君民対立の思想から生み出された考え方であり、わが国の天皇と国民が歴史上一度も対立したことのない国柄においては、ふさわしくない概念である と仰っています。

日本は古来から、君民共治の国柄であり、天皇は民を大御宝(おおみたから)と呼ばれるほど、大切にされてきました。そんな天皇を民は親の如くに慕う気持ちで、自分たちを天皇の赤子と呼びました。そして天皇は、国安かれ民安かれと日々祈り続けられ、神々への祭祀が最も重要な天皇の御役目とされています。年の始めには、天皇は、まだ未明の極めて寒い時期にお庭に幕を張って、四方拝を行われます。祭祀には、このようにずいぶん肉体的に過酷な ものもあると聞きますが、今上天皇は、この祭祀を非常に重視されて、廃止されていた祭祀も復活されて熱心に行われていると聞きます。陛下の日本の国を真 剣に思われるお気持ちがひしひしと伝わってくるようです。

本来主権とは、国家の持つ権利であり、国家という統一的な存在自体が持つものであり、国家を構成する個々の人間とか、要素のようなものにある権利ではないと思います。まるで国家を解体した部分品に主権を与えるような考え方は、おかしいのです。

 日本には、聖徳太子の十七条憲法のように、日本的な民主主義が本来ありました。昭和天皇は、新日本建設に関する詔書の 中で、わが国の近代の民主主義は、五箇条の御誓文から始まるとおっしゃいました。五箇条の御誓文は明治天皇が、神々に日本の国のこれからの方針を誓われた ものですが、この在り方が日本の民主主義であり、国民と国家が一体となって調和した繁栄を目標とするわが国独自の民主主義といえるのではないでしょうか。

押し付けられた民主主義ではなく、日本本来の独自の民主主義による憲法こそ、日本にふさわしい憲法です。

 

 

  サイタニのブログからの転載です。

昭和四十三年

 
武藤貞一氏はその機関誌「動向」の四十三年五月号巻頭に"民主亡国"と題して次のようなことを書いている。
 
「民主主義とは、下剋上のことである。民主主義とは、個人主義、エゴイズム、反公共主義のことである民主主義は、独裁、専制、権力主義を排するための言葉であることはもちろんである。しかしそれは一応のカクレミノに過ぎない…:
 
"下剋上"とは"下が上を剋す"ということである。易経に出て来る語である。〃剋す"と は下位のものが上位に立って上位のものを害(そこな)うことである。たとえば脚は下にあるべきものであり、頭が上にあるべきものであるのに、脚が頭の上に 位置して、脚が頭に命令を下して、頭を歩かせようとし、頭本来のハタラキを害うことである。学生が学長や教授をつるし上げ、机や椅子をバリケードにして、 その上に立って大いに叫び、天地の秩序を逆転することである。

この天地逆転・世界紛乱(ふんらん)の原因がアメリカから日本弱体化のために輸入された民主主義とそのいわゆる〃民主主義憲法"である。公共の福祉などは考えず、市民に迷惑がかかっても、自己主張を貫徹するために全学連が暴力を揮い自分の給料さえ上ればよいというので、総評または国労の命令一下で交通機関のゼネストをやるがごとき、ことごとく、この民主主義憲法の許すところである
 
 
武藤貞一氏は民主主義の隠れ簑(み)の仮面を剥いだのである。使嗾攪乱(しそうこうらん)の陰謀に巧みな労働貴族である策士が、"民主主義〃という、一応「独裁権カ」を大衆の力で打ち砕くような仮面をかぶりながら、大衆の叛乱で既成の権力の座を覆(くつが)して自分が権力の座につくのである。総評の議長や私鉄総連の委員長や、やや劣るが三派全学連の秋山委員長などもすでに独裁者的"権力の座"に ついているのであってその命令一下その部下が、かつて軍隊が軍部の命令によつて一斉に任務についたと同じように、日本全国の交通を止めたり、角材や石ころ をもって警官隊に命知らずの突撃を開始するのである。すなわち、その実力行使には暴力行使によって既成の独裁、専制の権力者を威圧し抑制し、完全に打倒 (即ち革命)できるかも知れぬが、いつの間にか、その悪がしこい大衆の味方として煽動し使嗾していた策士がまた別の独裁、専制の権力者の座についていて、 その命令一下その部下は“血みどろの突撃を開始するのである。それは軍閥の独裁とどこに相違があるのか。民主主義とは悪賢い策士が独裁・専制の権力の座に つくために既成権力打倒の策戦としてのカクレミ,なのである。
だから武藤貞一氏は言う。
 
 
「い わゆる民主主義をもって独裁、専制、権力主義の政治を打ち砕くことはできてもそれは一時的な潰滅を招くだけで、民主主義そのものが個人個人の勝手放題で無 秩序な力の発動により、相争い、相せめ合い、果てしなき闘争を経て、結局は、力の強いものが力の弱いものを暴力で制圧して、名状すべからざる非情酷薄(こ くはく)な独裁と専制へ持って行く…」
 
 
全 学連の現状は実際その通りである。秋山委員長は傷つかないで彼は逮捕されても、かえつて名声はあがり、箔(はく)はついて名誉欲や権力欲を満足させている けれども、命令一下突撃や殴り込みを開始する部下のものは、委員長の名誉欲や権力欲の犠牲となって血を流しているのである。結局、秋山委員長は共産ファッ ショの頭目であるのだ。


 


 
武藤貞一氏はまた一言われる。
「国家と個人主義とは絶対に両立すべからざるものだ。国家は共同の利益の結晶体で、すなわち公共体である。公共体は、大局的には個人の利益を防護するためのものだが、局部的には個人の犠牲の上に成立っている。権利義務の"義務"は犠牲と同意義である……」
 
 
民主主義憲法すなわち現行の日本国憲法は、結局個人主義憲法であるから、国家を防衛するためにはできていないのであるその成立の経過手続きそのものから、日本弱体化のためにつくって占領軍が押しつけたものであるから、国家を防衛する戦力も交戦権もみとめていないのは無論であるが、国民が言論で国家を倒す自由や、革命教育を行って国家を倒す自由をみとめているのであるから、この憲法が存続する限り、日本国家は累卵(るいらん)の危機にさらされているのである


この憲法を楯にとって美濃部都知事は、学校の認可に日本を衛るという政治的配慮を用うべきでないとして、朝鮮人をして反日的言論と教育とで日本国を倒す自由をみとめて"朝鮮大学校"を公式に認可したのである。外人をして「日本国を倒すための言論と教育の自由」をみとめしめた日本国憲法こそ、世界唯一の怪物というべきである。
 
 
美濃部東京都知事が、灘尾文部大臣(当時)いうことをきかないで、知事の権限内のこととして、日本国覆減革命教育をほどこしている"朝鮮大学校"を公認したことは"知事選挙のとき共産党・社会党(現民主党)に支持されて当選したのでそれらの党の突き上げによる"との説をなす者もあるが、そうかも知れない、そうでないかも知れないが、民主主義が"下剋上"主義であるかぎり、このことのあるのは当然のことである。
 
 
「民 主主義は、当然のことながら、階級と秩序と倫理と情操を打破する。生徒の民主主義は、教師を同列の人間としてこれを軽蔑することであり、生徒が教師を殴り つけたり、監禁したりするのは、民主的エリートの行為として称賛されねばならないし、また、子が親を、弟が兄を、妻が夫を虐待することが民主的理念に適 (かな)い、いやしくもこれを逆にして、子が親に、弟が兄に、妻が夫に服従したり敬愛したりすることは、甚だしき民主主義の背戻行為(はいれい)であって 犯罪に等しい。旧道徳、旧封建的、義理人情的な一切のものを踏みにじらなければ、民主主義とはいえない。民主主義とはそういうものなのである」
 
 と武藤貞一氏は喝破(かっぱ)している。国家を愛し、国家を衛るところの国に対する忠誠などという精神は封建的であるから、自国をつぶす革命教育を行う外人学校を公認し、国家の文教方針を代表する文部省の指示に反して、外人がいやしくもその首都にいて革命教育を現に行いつつあるものを許すこの怪物の正体をわれわれはよく見きわめなければならない。
 
 
〃下剋上"も ここまで来ればすでに狂気の沙汰であるが、そういう者が進歩的文化人にとってはエリートなのである。日本弱体化のために押しつけられた日本国憲法の下に於 いては、国家は個人の利益を擁護するための組合組織に過ぎないのであるから、個人の利益及び思想・行動の自由は、国家の存在権に優先するのである。国家が潰れようが、そんなことは個人の思想及び行動の白由の前には、顧慮する必要がない建前になっているのが現行の民主憲法なのである。
 

 谷口雅春著「私の日本憲法論」


参考

 

何故憲法を変えなければならないか

 

「何故憲法を変えなければならないか」2

 

「何故憲法を変えなければならないか」3

 

“個性ある国家“を形成するには、「国家の理念」がなければならない

 

はたして現行の憲法は日本に適する憲法か







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